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    1993 エホバの証人の年鑑
    • 25歳のデンマーク系アメリカ人でソウフス・ウィンターという名の靴作り職人が1894年に米国から到着し,首都のコペンハーゲンに居を定めました。ラッセルによって書かれた「千年期黎明」シリーズの第1巻と幾つかのパンフレットが,その時までにはすでに翻訳されていました。その年の終わりごろ,ウィンター兄弟は当時米国ペンシルバニア州アレゲーニーにあった協会の本部事務所に,自分の持って行った本をすべて配布したと知らせることができました。

      「千年期黎明」の第2巻がデンマーク-ノルウェー語で発行されたのは1895年で,1897年1月からウィンターは,「ツシノールスリエツ・ブドベレル」(「千年期の使者」)という雑誌を月1回発行し始めました。またたく間に関心が沸き起こり,1899年のキリストの死の記念式にはコペンハーゲンで15人,オダーの町では12人が出席しました。

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    1993 エホバの証人の年鑑
    • コペンハーゲンの集会には,二人の貧しい針子を含む五,六人の人が出席していました。しかし,そのグループはそのうちにもっと強くなることになっていたのです。

      コペンハーゲンの北の端に位置するブレンスホイに,ノルウェー人の看板屋ジョン・ラインセトの家がありました。ジョンと妻のアウグスタは子供たちを神の言葉に従って育てようと熱心に努力していました。ジョンはよく家族に聖書を読んで聞かせ,子供たちでも理解できるように説明しようとしたものです。彼らは宗教的な集まりにいろいろ出席しましたが,満足は得られませんでした。ある晩,家族でひざまずき,真理に対する自分たちの目を開いてくださるよう父親であるジョンが心から神に祈り求めました。何と,翌朝一人の聖書文書頒布者<コルポーター>が「千年期黎明」の第1巻を持って戸口に立っていたのです。その伝道者はだれでしょうか。二人の貧しい針子の一人,アンナ・ハンセンです。

      カール・リューティコーが後を引き継ぎ,この家族を訪問して聖書を教えました。数回にわたる長い話し合いの後,ジョンは協会のデンマーク支部事務所のあるオレスールスガゼの集会に出席し始めました。集会が終わるといつもジョンは家に飛んで帰り,自分の聞いたすばらしい事柄について妻に語りました。アウグスタは数年間寝たきりでしたが,元気になるとすぐ松葉杖をつきながら熱心に集会にやって来ました。

      この家族はすぐに真理を受け入れました。ジョンは寸暇を盗んでは,家から家に宣べ伝えました。朝の4時30分には起床して,集会の準備をするといったことはよくありました。そのような日の後刻,疲れると座り心地のよい椅子にどっしりと腰をおろして仮眠をとるのですが,その時にはキーホルダーを軽く握るのが習慣でした。うとうとして鍵が落ちると目が覚めます。いわば自作の目覚まし時計というわけです。さわやかになると,ジョンは喜んでまた奉仕に出かけました。

      妻のほうは虚弱でしたが,自分の生まれた場所シェラン島北部にあるヘレベック付近に真理を広めたいと願っていました。それで大きな行李に書籍を詰め込み,それを列車でヘルシンガーに送りました。ハンドバッグでは二,三冊の本しか持ち運べなかったので,大きな平たいポケットのついた,腰に着ける特製のベルトを縫ってもらいました。こうして準備を整えると,片手にはハンドバッグ,もう一方の手には杖を持ち,ベルトの中に入れたたくさんの本をゆったりとしたコートで隠して,大胆なアウグスタは北の海岸線沿いに歩いて村から村へと伝道しました。1925年に亡くなった時の,アウグスタの最後の言葉は,「シェラン島北部にはやり遂げなければならない仕事がたくさんあります。わたしはそれを是非ともやりたかったのです」というものでした。

      3人の子供たちも良いたよりの熱心な宣明者となり,息子のポールは一時期支部の監督として奉仕する特権を得ました。

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