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  • 『わたしの言葉のうちにとどまっていなさい』
    ものみの塔 2003 | 2月1日
    • 『わたしの言葉のうちにとどまっていなさい』

      『わたしの言葉のうちにとどまっているなら,あなた方はほんとうにわたしの弟子です』。―ヨハネ 8:31。

      1 (イ)イエスは,天に戻った時,何を地上に残しましたか。(ロ)これから,どんな点を考察しますか。

      キリスト教の基であるイエス・キリストは,天に戻った時,自ら書き著わした書物を地上に残しませんでした。自ら建てた記念碑も,蓄積した富も残しませんでした。しかし,弟子たちを残し,それとともに,弟子になるための明確な条件を示しておられました。実際のところイエスは,ヨハネ福音書の中で,ご自分の追随者になろうとする人のだれもが満たすべき三つの重要な条件を挙げておられます。どんな条件でしょうか。どうすれば,それらを満たせますか。さらに,自分が今日キリストの弟子として資格にかなっていることをどのように確かめられるでしょうか。a

      2 ヨハネ福音書の記録によると,弟子であるための重要な条件の一つは何ですか。

      2 イエスは,亡くなる6か月ほど前にエルサレムに上り,1週間にわたる仮小屋の祭りを祝うために集まっていた群衆に伝道しました。その結果,祭りの半ば過ぎには「群衆のうちの大勢の者が彼に信仰を持(ち)」ました。イエスは伝道を続けたので,祭りの最後の日には,再び「多くの者が彼に信仰を持(ち)」ました。(ヨハネ 7:10,14,31,37; 8:30)そこでイエスは,それら新しい信者たちに注意を向け,弟子であるための重要な条件の一つを述べました。使徒ヨハネはこう記録しています。『わたしの言葉のうちにとどまっているなら,あなた方はほんとうにわたしの弟子です』。―ヨハネ 8:31。

      3 『イエスの言葉のうちにとどまる』にはどんな特質が必要ですか。

      3 このように述べたイエスは,新しい信者たちに信仰が欠けているとほのめかしていたわけではありません。イエスが指摘したのは,その人たちにはイエスの真の弟子となる機会が開かれている,ただし,そのためにはイエスの言葉のうちにとどまり,忍耐を示さなければならない,ということです。その人たちはすでにイエスの言葉を受け入れていました。しかし,それ以後もその言葉のうちにとどまっていなければなりません。(ヨハネ 4:34。ヘブライ 3:14)事実,イエスは忍耐を追随者たちにとって非常に重要な特質とみなしていたので,ヨハネ福音書の記録にあるとおり,使徒たちと交わしたまさに最後の話の中で,「引き続きわたしのあとに従いなさい」という勧めの言葉を二度語りました。(ヨハネ 21:19,22)多くの初期クリスチャンはまさにそのとおりにしました。(ヨハネ第二 4)忍耐するために,何が助けになったでしょうか。

      4 初期クリスチャンは何によって忍耐できましたか。

      4 キリストの弟子として約70年も忠実に歩んだ使徒ヨハネは,一つの重要な要素を指摘しました。忠実なクリスチャンを褒めた時,こう述べています。『あなた方は強く,神の言葉はあなた方のうちにとどまっており,あなた方は邪悪な者を征服しました』。それらキリストの弟子たちは忍耐していました。つまり,神の言葉のうちにとどまっていました。神の言葉が彼らのうちにとどまっていたからです。それら弟子たちは,神の言葉に対する心からの認識を抱いていました。(ヨハネ第一 2:14,24)今日でも同様に,『終わりまで耐え忍ぶ』ためには,神の言葉が自分のうちにとどまっていることを確かめる必要があります。(マタイ 24:13)どのようにですか。イエスの語った例えが答えとなります。

      『み言葉を聞く』

      5 (イ)イエスは例えの中で,どんな異なった土について述べましたか。(ロ)イエスの例えの種と土は何を表わしていますか。

      5 イエスは種まき人の例えを語りました。それは,マタイ,マルコ,ルカの福音書に記録されています。(マタイ 13:1-9,18-23。マルコ 4:1-9,14-20。ルカ 8:4-8,11-15)それらの記述を読むと分かるとおり,この例えの主な特徴は,同じ種類の種がさまざまな土の上に落ち,異なった結果を生むという点です。最初の土は固く,2番目の土は浅く,3番目の土はいばらに覆われています。4番目のものは,他の三つとは違い,「りっぱ」で「良い土」です。イエスご自身の説明によると,種とは神の言葉に収められた王国の音信であり,土は,いろいろな心の状態の人々を表わしています。これらさまざまな土で表わされている人々には幾つかの共通点がありますが,りっぱな土で表わされている人々には,残りの人々とは違う一つの特徴があります。

      6 (イ)イエスの例えの4番目の土は,他の三つとどのように異なっていますか。そのことにはどのような意味がありますか。(ロ)キリストの弟子として忍耐を示すためには何が不可欠ですか。

      6 ルカ 8章12-15節の記述によると,四つの場合のいずれも,人々は『み言葉を聞き』ます。しかし,「りっぱな良い心」を持つ人は,「み言葉を聞く」以上のことをします。「それをしっかり保ち,耐え忍んで実を結ぶ」のです。りっぱな良い土壌は柔らかくて深いので,種は根をしっかりと張ることができ,その結果,芽を伸ばして実を生み出します。(ルカ 8:8)同様に,りっぱな心を持つ人は神の言葉を理解し,その価値を認識し,吸収します。(ローマ 10:10。テモテ第二 2:7)神の言葉がその人のうちにとどまるのです。それで,耐え忍んで実を結ぶことができます。このように,神の言葉の価値を心から深く認識することは,キリストの弟子として忍耐を示すために不可欠です。(テモテ第一 4:15)では,どうすれば,神の言葉に対するそのような心からの認識を育めるでしょうか。

      心の状態と意義深い熟考

      7 良い心はどんな行為と密接に結び付けられていますか。

      7 りっぱな良い心が聖書の中でどんな行為と幾度も結び付けられているかに注目してください。『義なる者の心は答えるために思いを巡らす』。(箴言 15:28)「わたしの口のことばとわたしの心の黙想とが,あなたのみ前に快いものとなりますように」。(詩編 19:14)「わたしの心の黙想は理解のことについてである」。―詩編 49:3。

      8 (イ)聖書を読むとき,どんなことを避け,どんなことを行なうべきですか。(ロ)祈りのうちに神の言葉を黙想することにはどんな益がありますか。(『真理にしっかり据えられている』という囲み記事を含む。)

      8 これらの聖書筆者と同様,わたしたちも,感謝をこめて祈りのうちに神の言葉とみ業を黙想する必要があります。聖書や聖書に基づく出版物を読むときには,次々と景勝地を回り,写真を撮るだけでほとんど何も見ない,慌ただしい旅行者のようであってはなりません。むしろ,聖書を研究するときには,いわば立ち止まって景観を楽しむための時間を取りたいものです。b 読んだ事柄を静かに熟考するなら,神の言葉は心に作用します。感情に達し,思いを形造ります。また,内奥の考えを祈りの中で神に打ち明けるよう動かされます。その結果,エホバへの愛着が強まり,神への愛に促されて,困難な状況下でもイエスに従い続けたいと願うようになります。(マタイ 10:22)このように,神が語られた事柄を黙想することは,終わりまで忠実を保つために不可欠です。―ルカ 21:19。

      9 どうすれば,わたしたちの心は神の言葉に対する受容力を保つことができますか。

      9 イエスの例えは,種である神の言葉の成長を妨げるものがあることも示しています。ですから,忠実な弟子でありつづけるためには,(1)例えに出てくる耕作に不向きな土が表わす障害が何かを見極め,(2)それらを正したり避けたりするための手段を講じるべきです。そうすれば,わたしたちの心は王国の種に対する受容力を保ち,実を結びつづけることでしょう。

      「道路のわき」― ほかのことで頭がいっぱい

      10 イエスの例えに出てくる最初の土はどのようなものですか。その適用も説明してください。

      10 種が落ちた最初の土は「道路のわき」で,そこで種は『踏みつけられて』しまいます。(ルカ 8:5)穀物畑の中を通る道路のわきの土は,行き来する人々によって踏み固められています。(マルコ 2:23)それと同様に,この世の往来とも言うべき様々な事柄に時間とエネルギーを奪われすぎている人は,そうしたことで頭がいっぱいになり,神の言葉に対する心からの認識を育めないでしょう。神の言葉を聞きはしますが,黙想しないため,心は無反応な状態のままです。神の言葉に対する愛を育まないうちに,「悪魔がやって来て,信じて救われることがないようにその心からみ言葉を取り去(って)」しまいます。(ルカ 8:12)そのような事態を避けることは可能でしょうか。

      11 心の状態を固い土のようにしないために,どんなことができますか。

      11 心を道路わきの非産出的な土のようにしないために行なえる事柄はたくさんあります。踏みつけられて固くなった土も,すき返して,人がその上を歩かないようにすれば,柔らかく産出的になります。同様に,時間を取って神の言葉の研究と黙想を行なうなら,心はりっぱで産出的な土のようになります。大切なのは,日常生活の事で頭がいっぱいにならないようにすることです。(ルカ 12:13-15)そして,生活における「より重要な事柄」を熟考するための時間を確実に取り分けましょう。―フィリピ 1:9-11。

      「岩塊の上」― 恐れに負ける

      12 イエスの例えに出てくる2番目の土の場合,芽が枯れる本当の原因は何ですか。

      12 2番目の土に落ちた種は,最初の土の場合のようにただ地面にとどまるだけではありません。根を出して,芽を伸ばします。しかし,日が昇ると,芽は太陽の熱に焼かれ,枯れてしまいます。とはいえ,次の重要な点に注目してください。芽が枯れる本当の原因は熱ではありません。りっぱな土から芽を出す植物も太陽にさらされますが,枯れることはありません。むしろ,元気に育ちます。どこが違うのでしょうか。イエスの説明によると,この芽が枯れるのは,「土が深くない」ため,また「水気がない」ためです。(マタイ 13:5,6。ルカ 8:6)表層土のすぐ下にある「岩塊」つまり岩盤のため,種は根を深く下ろして水気と安定性を得ることができません。芽は,土が浅いために枯れるのです。

      13 どんな人たちは,浅い土に似ていますか。その人たちの反応には,どんな深い原因がありますか。

      13 例えのこの部分で述べられている人たちは,『喜んでみ言葉を受け』,「しばらくは」熱心にイエスに従います。(ルカ 8:13)しかし,「患難や迫害」という燃える太陽にさらされると,恐れに負けて喜びと力を失い,キリストに従うことをやめてしまいます。(マタイ 13:21)とはいえ,恐れを抱く原因は,反対よりもっと深いところにあります。実のところ,幾十,幾百万ものキリストの弟子たちは,さまざまな形の患難を耐え忍んで忠実を保っています。(コリント第二 2:4; 7:5)一部の人が恐れに負けて離れ落ちてゆく本当の原因は,自分の心が岩のような状態になっていて,積極的で霊的な事柄をじっくり黙想できないことにあります。その結果,エホバとみ言葉に対する認識を育んでも,それはあまりに表面的で弱々しく,反対に耐えることができません。そうならないために,何ができるでしょうか。

      14 心の状態を浅い土のようにしないため,各自,どんな手段を講じるべきですか。

      14 各自,岩のような障害物が自分の心に埋まっていないか確かめる必要があります。根深い苦々しさ,潜在的な利己心など,凝り固まった秘められた感情が障害となっていないでしょうか。そうした妨害物がすでにあるとしても,神の言葉の及ぼす力はそれを砕くことができます。(エレミヤ 23:29。エフェソス 4:22。ヘブライ 4:12)その後,祈りのうちに黙想するなら,心に深く『言葉を植え付ける』ことが促進されます。(ヤコブ 1:21)そうするとき,落胆させられる時期があってもそれを切り抜ける強さと,試練に遭っても忠実を保つ勇気が得られます。

      「いばらの間」― 心が分かたれる

      15 (イ)イエスの述べた3番目の土が特に注目に値するのはなぜですか。(ロ)3番目の土の場合,最終的にどんなことが生じますか。なぜですか。

      15 3番目のいばらの生えた土は特に注目に値します。幾つかの点で,りっぱな土に似ているからです。りっぱな土と同様,いばらの茂る土でも,種は根を張って芽を伸ばします。初めのうち,それら二つの土のどちらでも,芽を出したばかりの植物は同じように成長します。しかし,時の経過とともに状況が変化し,最終的にこちらの植物は生育を阻まれてしまいます。りっぱな土とは違い,この土にはいばらが生い茂るのです。この土から芽を出した若い植物は,「一緒に成長するいばら」と競争しなければなりません。しばらくのあいだ,両者は養分と光と空間をめぐって争います。しかし最終的には,いばらがこの植物を覆い,「ふさいで」しまいます。―ルカ 8:7。

      16 (イ)いばらの茂る土に似ているのはどんな人たちですか。(ロ)三つの福音書の記述によると,いばらは何を表わしていますか。―脚注をご覧ください。

      16 いばらの茂る土に似ているのはどんな人たちでしょうか。イエスはこう説明しています。「これは聞いた者たちですが,生活上の思い煩いや富や快楽にさらわれてしまい,すっかりふさがれて,何も完成させません」。(ルカ 8:14)まかれた種といばらがこの土で同時に成長するのと同じように,神の言葉と『生活上の快楽』を同時に取り込もうとする人がいます。心にまかれた神の言葉の真理は,その人の注意を奪おうとする他の関心事と競争しなければなりません。その人の心は分かたれます。(ルカ 9:57-62)そのため,祈りを込めて意義深く神の言葉を熟考する時間を十分に取れません。神の言葉をたっぷりと吸収しないので,忍耐に必要な心からの認識を抱くことができません。霊的な事柄は,霊的でない関心事に徐々に覆われてゆき,ついには「すっかりふさがれて」しまいます。c 心をこめてエホバを愛していない人は,何と悲しい結末を迎えるのでしょう。―マタイ 6:24; 22:37。

      17 イエスの例えに出てくる比喩的ないばらによってふさがれないため,生活の中でどんな選択をする必要がありますか。

      17 物質的な事柄より霊的な物事を優先させるなら,この世の苦しみや快楽によってふさがれることを避けられます。(マタイ 6:31-33。ルカ 21:34-36)聖書を読み,読んだ点を熟考することを決して怠ってはなりません。生活をできるだけ簡素にするなら,気持ちを集中して祈りのうちに黙想する時間をもっと見いだせるでしょう。(テモテ第一 6:6-8)神の僕の中には実際にそうした人たちがいます。いわば,土からいばらを根こそぎ引き抜き,実を結ぶ植物にいっそう多くの養分と光と空間を与えるようにしたのです。そのようにして,エホバの祝福を経験しています。26歳のサンドラはこう述べています。「真理のうちで味わっている数々の祝福について黙想すると,この世が提供するものはどれも真理とは比べものにならない,と実感します」。―詩編 84:11。

      18 どうすれば,神の言葉のうちにとどまり,クリスチャンとして耐え忍ぶことができますか。

      18 ですから,年齢を問わずわたしたちすべては,神の言葉が自分のうちにとどまっている限り,神の言葉のうちにとどまり,キリストの弟子として耐え忍ぶことができます。それで,自分の心という土が固くあるいは浅くなったり,覆われてしまったりすることが決してないように,むしろ,常に柔らかくて深いものであるようにしてゆきましょう。そうするなら,神の言葉をたっぷりと吸収し,「耐え忍んで実を結ぶ」ことができます。―ルカ 8:15。

      [脚注]

      a この記事では,それらの条件の最初のものを考察します。他の二つは,続く記事で取り上げます。

      b 聖書を読んだ後,その部分を祈りのうちに黙想するため,このように自問できます。『この部分は何かエホバの特質を浮き彫りにしているだろうか。聖書の主題とどのように関連しているだろうか。どのように生活に当てはめ,他の人を援助する際に活用できるだろうか』。

      c イエスのたとえ話に関する三つの福音書の記述によると,種は,「この事物の体制の思い煩い」,「富の欺きの力」,「ほかのいろいろなものへの欲望」,「生活上の……快楽」といった,この世の苦しみや快楽によってふさがれてしまいます。―マルコ 4:19。マタイ 13:22。ルカ 8:14。エレミヤ 4:3,4。

  • 『あなた方の間に愛があるようにしなさい』
    ものみの塔 2003 | 2月1日
    • 『あなた方の間に愛があるようにしなさい』

      「あなた方の間に愛があれば,それによってすべての人は,あなた方がわたしの弟子であることを知るのです」。―ヨハネ 13:35。

      1 イエスは,亡くなる少し前,どんな特質を強調されましたか。

      「小さな子供らよ」。(ヨハネ 13:33)イエスは,亡くなる前の晩,この優しい言い方で使徒たちに語りかけました。イエスがこれより前にこの同情心にあふれた言い方で使徒たちに話しかけたという記録は,福音書にはありません。その特別な夜,イエスは追随者たちへの深い愛を伝えるため,この愛情に満ちた言葉で語りかけたいと思われたのです。しかも,その晩イエスは愛に30回ほど言及しました。この特質をそれほどまでに強調されたのはなぜでしょうか。

      2 クリスチャンにとって,愛を示すことが非常に重要なのはなぜですか。

      2 イエスは,愛が非常に重要である理由をこう説明しておられます。「あなた方の間に愛があれば,それによってすべての人は,あなた方がわたしの弟子であることを知るのです」。(ヨハネ 13:35; 15:12,17)キリストの追随者であることと兄弟愛を示すことには密接な関連があります。真のクリスチャンは,風変わりな衣装や異様な習慣によってではなく,互いに示し合う温かくて優しい愛によって見分けられます。この際立った愛を持っていることは,前の記事の冒頭で述べたキリストの弟子の主要な三つの条件のうち,2番目のものです。では,今後もこの条件を満たしてゆくために,何が助けになるでしょうか。

      『そのことをなおいっそう行なう』

      3 使徒パウロは,愛に関するどんな訓戒を与えましたか。

      3 西暦1世紀のキリストの追随者と同様,今日のキリストの真の弟子たちの間にも,この際立った愛が見られます。1世紀のクリスチャンにあてて,使徒パウロはこう書きました。「兄弟愛に関しては,あなた方に書き送るまでもありません。あなた方は,互いに愛し合うべきことを神から教えられているからです。そして,現にあなた方は,……すべての兄弟たちに対してそのとおりに行なっているのです」。それでもパウロは,「そのことをなおいっそう行なってゆきなさい」と付け加えています。(テサロニケ第一 3:12; 4:9,10)わたしたちも,パウロの訓戒を心に留め,「なおいっそう」互いに愛を示し合うよう努力する必要があります。

      4 パウロとイエスによると,どんな人たちに特別な配慮を払うべきですか。

      4 霊感を受けた同じ手紙の中でパウロは,「憂いに沈んだ魂に慰めのことばをかけ」,『弱い者を支える』ようにと仲間の信者を励ましています。(テサロニケ第一 5:14)また,別の時には,『強い者が,強くない者の弱いところを担うべき』ことをクリスチャンに思い起こさせています。(ローマ 15:1)イエスも,弱い人を援助することに関する指示を与えておられます。捕縛される夜にペテロに見捨てられるということを予告した後,ペテロに,「ひとたび立ち直ったなら,あなたの兄弟たちを強めなさい」とお告げになりました。なぜでしょうか。それら兄弟たちもイエスを捨て,それゆえに援助を必要とするからです。(ルカ 22:32。ヨハネ 21:15-17)このように神の言葉は,霊的に弱い人や,クリスチャン会衆と接しなくなった人たちに愛を差し伸べるよう命じています。(ヘブライ 12:12)なぜそうすべきなのでしょうか。イエスの語った生き生きした二つの例えの中に答えがあります。

      失われた羊となくなった硬貨

      5,6 (イ)イエスはどんな二つの短い例えを語られましたか。(ロ)これらの例えはエホバについてどんなことを明らかにしていますか。

      5 イエスは,迷い出た人たちについてのエホバの見方を聴き手に教えるため,二つの短い例えを話されました。一つは羊飼いに関するもので,こう述べておられます。「あなた方のうち,百匹の羊を持っていて,そのうちの一匹を失ったときに,九十九匹を荒野に残し,失われたものを見つけるまでそれを捜しに行かない人がいるでしょうか。そして,見つけると,その人はそれを自分の肩に載せて歓びます。そうして,家に着くと,友人や隣人を呼び集めて,こう言うのです。『一緒に歓んでください。失われていたわたしの羊が見つかったからです』。あなた方に言いますが,このように,悔い改める一人の罪人については,悔い改めの必要のない九十九人の義人について以上の喜びが天にあるのです」。―ルカ 15:4-7。

      6 2番目の例えは一人の女性に関するもので,イエスはこう述べておられます。「十枚のドラクマ硬貨を持っていて,一枚のドラクマ硬貨をなくした場合に,ともしびをともして家を掃き,それを見つけるまで注意深く捜さない女がいるでしょうか。そして,それを見つけると,彼女は自分の友人や隣人の女たちを呼び集めて,こう言います。『一緒に歓んでください。わたしのなくしたドラクマ硬貨が見つかったからです』。あなた方に言いますが,このように,悔い改める一人の罪人については,神のみ使いたちの間に喜びがわき起こるのです」。―ルカ 15:8-10。

      7 失われた羊となくなった硬貨の例えにはどんな二つの教訓が収められていますか。

      7 これらの短い例えからどんな点を学べるでしょうか。それは,(1)弱くなった人についてどう感じるか,そして(2)その人を援助するために何を行なうか,という点です。では,それらの点を考察しましょう。

      失われても価値がある

      8 (イ)羊飼いと女性は,所有物を失った時どう反応しましたか。(ロ)そのような反応から,なくなった所有物に対する二人の見方について,どんなことが分かりますか。

      8 どちらの例えでも,失われたものがあります。所有者の反応に注目してください。羊飼いは,『まだ99匹いるから,1匹ぐらいどうってことはない。いなくても困りはしない』などとは言いませんでした。女性も,『硬貨1枚ぐらい気にすることはないわ。まだ9枚あるから,これで十分』とは言いませんでした。羊飼いは,自分の所有している唯一の羊でもあるかのように,失われた羊を捜しました。女性も,硬貨が1枚なくなると,ほかには硬貨がないかのように感じました。どちらの場合も,なくなったものは,所有者の思いの中では依然として貴重だったのです。これは何を例示しているでしょうか。

      9 羊飼いと女性が示した心配は何を例示していますか。

      9 それぞれの例えでイエスが述べた結論に注目してください。「このように,悔い改める一人の罪人については,[それ]以上の喜びが天にあるのです」。「あなた方に言いますが,このように,悔い改める一人の罪人については,神のみ使いたちの間に喜びがわき起こるのです」。ですから,羊飼いと女性の心配は,ささやかな形ながら,エホバと天の被造物の気持ちを反映しているのです。失われたものが羊飼いと女性の目に依然として貴重であったのと同様,漂い出て,神の民と接しなくなった人もエホバの目に依然として貴重です。(エレミヤ 31:3)そのような人は霊的に弱いかもしれませんが,反逆的であるとは限りません。弱い状態にあるとはいえ,今でもある程度エホバの要求を守っているかもしれません。(詩編 119:176。使徒 15:29)それゆえエホバは,昔の時代と同じく,そのような人を性急に『み顔の前から捨て去ったり』はされません。―列王第二 13:23。

      10,11 (イ)会衆から漂い出た人をどのようにみなしたいと思いますか。(ロ)イエスの二つの例えによると,そのような人に対する気遣いをどのように示せますか。

      10 エホバとイエスのように,わたしたちも,クリスチャン会衆からいなくなった弱い人たちを深く気遣っています。(エゼキエル 34:16。ルカ 19:10)わたしたちは,霊的に弱い人を失われた羊とみなします。見込みのない人とみなしたりはしません。『弱い人一人ぐらい気にすることはない。会衆はあの人がいなくても全然困りはしない』などとは考えません。むしろ,エホバがご覧になるのと同じように,漂い出てはいても戻りたいと願っている人を価値のあるものとみなします。

      11 では,どのように気遣いを示せるでしょうか。イエスの二つの例えによると,(1)自分のほうから積極的に行動し,(2)優しく,(3)真剣であることによって示せます。これらの点を一つずつ考えてみましょう。

      自分のほうから積極的に行動する

      12 『失われたものを捜しに行く』という言葉から,羊飼いの態度についてどんなことが分かりますか。

      12 二つのうちの最初の例えで,イエスは,羊飼いが『失われたものを捜しに行く』と述べておられます。羊飼いは自分のほうから積極的に行動し,いなくなった羊を見つけるために意識的な努力を払いました。つらいとか,危険だとか,遠いとか言ってためらったりはしませんでした。それどころか,「見つけるまで」捜しつづけました。―ルカ 15:4。

      13 古代の忠実な人々は,弱い人の必要にどのようにこたえ応じましたか。わたしたちは,そのような聖書中の手本にどのように見倣えますか。

      13 同様に,励ましを必要としている人に助けを差し伸べるときも,たいていは,強い人の側が自分のほうから積極的に行動しなければなりません。古代の忠実な人々もその点をわきまえていました。例えば,サウル王の子ヨナタンは,親友のダビデが励ましを必要としていることに気づくと,「立ち上がり,ホレシャのダビデのもとに行(き)」ました。「それは神に関して彼の手を強めるため」でした。(サムエル第一 23:15,16)それから幾世紀も後,総督ネヘミヤも,同胞のユダヤ人の一部が気弱になっているのを見て,「直ちに立ち上がり」,『エホバを覚える』ようにその人々を励ましました。(ネヘミヤ 4:14)今日のわたしたちも,『立ち上がる』,つまり自分のほうから積極的に行動して,弱い人たちを強めたいものです。とはいえ,会衆内のだれがそうすべきなのでしょうか。

      14 クリスチャン会衆内のだれが,弱い人に助けを差し伸べるべきですか。

      14 とりわけクリスチャンの長老たちは,「弱い手を強くし,よろけるひざをしっかりさせ」,『心に思い煩いのある者たちに,「強くあれ。恐れてはならない」と言う』責任を持っています。(イザヤ 35:3,4。ペテロ第一 5:1,2)とはいえ,注目すべき点として,「憂いに沈んだ魂に慰めのことばをかけ,弱い者を支え(る)」ようにとのパウロの訓戒は,長老だけに与えられたものではありません。むしろ,パウロの言葉は「テサロニケの人たちの会衆」全体に対するものでした。(テサロニケ第一 1:1; 5:14)ですから,弱い人に助けを差し伸べることは,すべてのクリスチャンが担うべき務めです。例えの中の羊飼いのように,クリスチャン各人は『失われたものを捜しに行き』たいと思うはずです。言うまでもなく,それを最も効果的に行なうためには長老たちと協力する必要があります。あなたも,会衆内の弱い人を援助するために何かを行なえるでしょうか。

      優しく

      15 羊飼いの行動にはどんな理由があったと思われますか。

      15 失われた羊をようやく見つけると,羊飼いはどうするでしょうか。「その人はそれを自分の肩に載せ」ます。(ルカ 15:5)何と感動的な情景でしょう。その羊は,慣れない場所を幾日も昼夜さまよっていたのかもしれません。ライオンに跡を付けられて恐ろしい思いをさえしたかもしれません。(ヨブ 38:39,40)ろくに食べていないので弱っているはずです。体力が落ちているため,囲いに戻る途中で邪魔な物に行き当たると,自力で越えることができません。それで,羊飼いはかがみ込んで羊を優しく抱え上げ,すべての障害物を越えて,群れまで運んで連れ戻します。この羊飼いのような心遣いを,わたしたちもどのように反映できるでしょうか。

      16 迷い出た羊に羊飼いが示した優しさをわたしたちも反映するべきなのはなぜですか。

      16 会衆と接しなくなった人は,霊的な意味で疲れ切っていることでしょう。その人は,羊飼いからはぐれた羊のように,冷酷なこの世を,あてもなくさまよってきたかもしれません。クリスチャン会衆という囲いによる保護がないので,「ほえるライオンのように歩き回って,だれかをむさぼり食おうとしてい(る)」悪魔の攻撃にかつてないほどさらされています。(ペテロ第一 5:8)さらに,霊的な食物を取っていないので弱っています。そのため,会衆に戻る途中で邪魔な物に行き当たると,自分一人では越えられないでしょう。ですから,わたしたちはいわばかがみ込んで弱い人を優しく抱え上げ,運んで連れ戻さなければなりません。(ガラテア 6:2)そうするためには,どうしたらよいでしょうか。

      17 弱い人を訪問するとき,どのように使徒パウロに見倣えますか。

      17 使徒パウロは,「だれか弱い人がいれば,わたしもその人の弱さを共有するのではないでしょうか」と述べています。(コリント第二 11:29,「新英訳聖書」。コリント第一 9:22)パウロは他の人たちに感情移入をし,その中には弱い人も含まれていました。わたしたちも,弱い人たちに対する同様の思いやりを示したいものです。霊的に弱いクリスチャンを訪問するときには,その人がエホバの目に価値ある存在であり,仲間の証人たちも会えなくて寂しく感じているということを述べて,安心させてください。(テサロニケ第一 2:17)仲間の証人たちはいつでも力になりたいと思っており,「苦難のときのために生まれた兄弟」に喜んでなりたいと考えている,ということを伝えましょう。(箴言 17:17。詩編 34:18)その人は,心のこもった言葉に少しずつ優しく元気づけられ,ついには羊の群れに戻れるようになるかもしれません。その後,わたしたちは何を行なえるでしょうか。硬貨をなくした女性の例えが指針を与えています。

      真剣に

      18 (イ)例えに出てくる女性が望みを捨てなかったのはなぜですか。(ロ)女性はどんな真剣な努力を払いましたか。どんな結果になりましたか。

      18 硬貨をなくした女性は,状況は容易ではないが絶望的でもないということを知っています。硬貨の落ちたのが広大な茂みや深い泥沼であったなら,捜しても無駄だと考えてあきらめたことでしょう。しかし,硬貨は家の中のどこかにあって見つけられるはずだと知っているので,徹底的に,また真剣に捜し始めます。(ルカ 15:8)まず,ともしびをともして暗い家の中を明るくします。それから,床をほうきで掃き,チリンという音が聞こえないかと耳を澄まします。最後に,隅やすき間をすべて注意深く調べてゆくと,ともしびに照らされて銀貨がきらりと光ります。女性の真剣な努力が報われたのです。

      19 なくなった硬貨の例えに出てくる女性の行動から,弱い人を援助するときのどんな教訓を引き出せますか。

      19 こうして,この例えの詳細な点を考えると,弱いクリスチャンを援助するという聖書的な責務を果たすのはわたしたちの能力を超えたことではない,という点が分かります。同時に,それには努力が要ることも理解できます。だからこそ,使徒パウロはエフェソスの長老たちに,「このように労苦して弱い者たちを援助しなければならない」と述べたのです。(使徒 20:35前半)覚えておきたい点として,この女性の場合,家の中のあちこちをざっと見たり,何かのついでに時々見回したりするだけでは硬貨は見つかりません。「見つけるまで」組織的な仕方で捜すから見つかるのです。同様にわたしたちも,霊的に弱い人を連れ戻そうとするとき,真剣で,目標を見据えた取り組み方をする必要があります。では,どんなことを行なえるでしょうか。

      20 弱い人を援助するために何を行なえますか。

      20 どうすれば,弱い人を援助して,信仰と認識を築き上げることができますか。クリスチャンのふさわしい出版物を用いて個人的な聖書研究を行なうことが必要かもしれません。そのようにして弱い人と聖書研究をするなら,一貫かつ徹底的な仕方で援助することができます。必要な援助をだれが行なうかを判断する一番良い立場にいるのは,おそらく奉仕監督でしょう。奉仕監督は,どんな論題を研究するか,どんな出版物が最も有用か,といった点に関して提案するかもしれません。例えに出てきた女性が有用な道具を用いて成功を収めたのと同様,今日のわたしたちにも様々な道具があり,それを用いて,弱い人を援助するという神から与えられた責任を果たすことができます。この点で特に役立つ道具は,二つの新しい出版物,つまり「唯一まことの神を崇拝する」という本と「エホバに近づきなさい」という本でしょう。a

      21 弱い人を援助することはどのように,すべての人に祝福をもたらしますか。

      21 弱い人を援助することは,すべての人に祝福をもたらします。援助を受ける人は,真の友と再び共になるという幸福を味わいます。わたしたちは,与えることによってのみ得られる心からの喜びを経験します。(ルカ 15:6,9。使徒 20:35後半)会衆も,各成員が他の人に愛ある関心を示すので,全体としていっそう温かな雰囲気が醸し出されます。そして何よりも,思いやりのある羊飼いエホバとイエスに誉れがもたらされます。弱い人たちを支えたいというお二方の気持ちを,地上の僕たちが反映するからです。(詩編 72:12-14。マタイ 11:28-30。コリント第一 11:1。エフェソス 5:1)このように,今後も『わたしたちの間に愛がある』ようにすべき非常に強力な理由があるのです。

  • 『多くの実を結びつづけなさい』
    ものみの塔 2003 | 2月1日
    • 『多くの実を結びつづけなさい』

      『多くの実を結びつづけてわたしの弟子であることを示しなさい』。―ヨハネ 15:8。

      1 (イ)イエスは使徒たちに,弟子としてのどんな条件を示しましたか。(ロ)どんな自問をするのは良いことですか。

      亡くなる前の晩のこと,イエスは十分に時間を取って,切々と心に語りかける話をし,使徒たちを励ましました。そのころにはもう真夜中を過ぎていたはずですが,イエスはそれら親しい友への愛に動かされて話を続けます。そして,会話の途中で使徒たちに,弟子でありつづけるために満たすべき条件をもう一つ銘記させました。こう述べておられます。「あなた方が多くの実を結びつづけてわたしの弟子であることを示すこと,これによってわたしの父は栄光をお受けになるのです」。(ヨハネ 15:8)今日のわたしたちは,弟子としてのこの条件を満たしているでしょうか。『多くの実を結ぶ』とはどういう意味ですか。答えを得るために,もう一度,その晩の会話を考察してみましょう。

      2 亡くなる前の晩,イエスは実に関するどんな例えを語られましたか。

      2 実を結ぶようにとのその訓戒は,イエスが使徒たちに語った一つの例えの一部です。こう言われました。「わたしは真のぶどうの木,わたしの父は耕作者です。父は,わたしにあって実を結んでいない枝をみな取り去り,実を結んでいるものをみな清めて,さらに実を結ぶようにされます。あなた方は,わたしが話した言葉のゆえにすでに清いのです。わたしと結びついたままでいなさい。そしてわたしはあなた方と結びついたままでいます。枝がぶどうの木にとどまっていないなら,それだけでは実を結ぶことができないのと同じように,あなた方もわたしと結びついたままでいないなら,実を結ぶことができません。わたしはぶどうの木,あなた方はその枝です。……あなた方が多くの実を結びつづけてわたしの弟子であることを示すこと,これによってわたしの父は栄光をお受けになるのです。父がわたしを愛され,わたしがあなた方を愛したとおり,わたしの愛のうちにとどまっていなさい。わたしのおきてを守り行なうなら,あなた方はわたしの愛のうちにとどまることになります」。―ヨハネ 15:1-10。

      3 イエスの追随者たちは,実を結ぶために何をしなければなりませんか。

      3 この例えにおいて,エホバは耕作者,イエスはぶどうの木,イエスが語りかけている使徒たちは枝です。使徒たちは,イエスと「結びついたまま」でいようと努力する限り,実を結ぶことになります。そしてイエスは,どうすれば使徒たちがこの肝要な結びつきを首尾よく維持できるかを説明し,「わたしのおきてを守り行なうなら,あなた方はわたしの愛のうちにとどまることになります」と言われました。後に使徒ヨハネは,同様の言葉を仲間のクリスチャンに書き送り,「[キリスト]のおきてを守り行なう者はずっと彼と結ばれて(いる)」と述べています。a (ヨハネ第一 2:24; 3:24)ですから,追随者たちは,キリストのおきてを守るならキリストと結びついたままでいることになり,その結びつきによって実を結ぶことができるのです。では,わたしたちが結ぶべき実にはどんな特徴があるのでしょうか。

      成長を目指す

      4 実を結ばないすべての枝をエホバが『取り去る』ということから,何が分かりますか。

      4 ぶどうの例えの中でエホバは,実を結ばない枝を『取り去る』,つまり切り取られます。これはどういう意味でしょうか。すべての弟子は,実を結ぶことを要求されているだけでなく,自分の状況や限界がどうであれ,そうすることが可能でもある,という意味です。実際,当人にとって実行不可能な事柄を成し遂げないからといってキリストの弟子を『取り去る』,つまり資格を剥奪するとすれば,それはエホバの愛ある物事の扱い方に反するでしょう。―詩編 103:14。コロサイ 3:23。ヨハネ第一 5:3。

      5 (イ)イエスの例えは,実を結ぶ点で進歩できるということをどのように示していますか。(ロ)これから,どんな二つの実について考察しますか。

      5 また,ぶどうの木に関するイエスの例えから,自分の状況の許す範囲で弟子としての活動における成長を目指さなければならない,という点も理解できます。イエスの次の言葉に注目してください。「父は,わたしにあって実を結んでいない枝をみな取り去り,実を結んでいるものをみな清めて,さらに実を結ぶようにされます」。(ヨハネ 15:2)例えの後半でイエスは,「多くの実」を結ぶようにとも追随者たちを促しておられます。(8節)これにはどんなメッセージが込められているでしょうか。弟子であるわたしたちは,決して自己満足に陥ってはなりません。(啓示 3:14,15,19)むしろ,実を結ぶ点で進歩できる分野を探すべきなのです。では,どんな実をいっそう豊かに結ぶよう努めることができるでしょうか。(1)「霊の実」と(2)王国の実です。―ガラテア 5:22,23。マタイ 24:14。

      クリスチャンの特質という実

      6 イエス・キリストは,最初に挙げられている霊の実の価値をどのように強調されましたか。

      6 「霊の実」のうち最初に挙げられているのは愛です。神の聖霊はクリスチャンのうちに愛を生み出します。イエスが,実を生み出すぶどうの木の例えを語る少し前に与えた命令に,クリスチャンが従うからです。イエスは使徒たちにこうお命じになりました。「わたしはあなた方に新しいおきてを与えます。それは,あなた方が互いに愛し合うことです」。(ヨハネ 13:34)実際のところ,そのとき地上での最後の夜を迎えていたイエスは,会話の中で幾度も,愛という特質を示す必要性を使徒たちに銘記させています。―ヨハネ 14:15,21,23,24; 15:12,13,17。

      7 使徒ペテロは,実を結ぶこととキリストのような特質を発揮することとの関係をどのように示していますか。

      7 その夜にその場にいたペテロは,キリストの真の弟子たちの間でキリストのような愛とそれに関連した特質が発揮されるべきことを理解しました。ずっと後にペテロは,自制,兄弟の愛情,愛といった特質を培うようにクリスチャンを励ましています。そして,そのようにすることは,わたしたちが「無活動になったり,実を結ばなくなったりするのを」阻んでくれる,と付け加えています。(ペテロ第二 1:5-8)どんな状況にあろうとも霊の実を発揮することは可能です。ですから,愛,親切,温和といったキリストのような特質をいっそう十分に示すよう努力しましょう。『そのようなものを非とする律法』や制限はないのです。(ガラテア 5:23)是非とも「多くの実」を結びましょう。

      王国の実を結ぶ

      8 (イ)霊の実と王国の実にはどんなつながりがありますか。(ロ)どんな点を考えるのは有益ですか。

      8 鮮やかな色のみずみずしい果実は,木を美しく飾ります。とはいえ,そのような実には,単なる飾りをはるかに超える価値があります。木の実は,その木が増え広がるためにも肝要な働きをします。実に含まれる種によってそれを行なうのです。同様に霊の実も,わたしたちのクリスチャン人格を飾るだけでなく,はるかに多くのことを行ないます。愛や信仰といった特質は,神の言葉に収められている種のような王国の音信を広める動機ともなるのです。この肝要なつながりを使徒パウロがどのように強調しているかに注目してください。こう述べています。「わたしたちも信仰[霊の実の一部]を働かせ,それゆえに語ります」。(コリント第二 4:13)そして,パウロは説明を加え,「賛美の犠牲を神にささげましょう。すなわち,……唇の実です」と述べています。これが,わたしたちの発揮すべき第二の実です。(ヘブライ 13:15)わたしたちの生活において,神の王国をふれ告げる者としていっそう実り豊かになる,そうです「多くの実」を結ぶ余地があるでしょうか。

      9 実を生み出すことが,すなわち弟子を作ることですか。説明してください。

      9 正しい答えを得るには,まず,王国の実に何が含まれるかを理解しなければなりません。実を結ぶとは弟子を作ることである,と断定してよいでしょうか。(マタイ 28:19)わたしたちの結ぶ実とはおもに,バプテスマを受けたエホバの崇拝者となるようわたしたちが援助する人々のことなのでしょうか。いいえ,そうではありません。もしそうだとすると,反応の鈍い区域で長年にわたって王国の音信を忠実にふれ告げてきた敬愛すべき証人たちは皆,大いに気落ちするでしょう。そうです,わたしたちの結ぶ王国の実が新しい弟子以外にないのであれば,そのような勤勉な証人たちは,イエスの例えの,実を結ばない枝のようだということになってしまいます。もちろん,そのようなことはありません。では,わたしたちの宣教奉仕が生み出すおもな王国の実とは何でしょうか。

      王国の種を広くまいて,豊かな実りを得る

      10 王国の実が何であり,何ではないかについて,種まき人と様々な土に関するイエスの例えからどんなことが分かりますか。

      10 種まき人と様々な土に関するイエスの例えに答えがあります。産出性の低い区域で証言を行なっている人たちにとって励みとなる答えです。イエスは,種とは神の言葉に収められた王国の音信であり,土は人の心を表わす,と言われました。種の幾らかは「良い土の上に落ち,芽ばえたのち,……実を生み出しました」。(ルカ 8:8)どんな実でしょうか。芽を出した小麦は,茎を伸ばして成熟すると,実を生み出します。幾つもの小さな小麦の茎ではなく,新しい種という実です。同様にクリスチャンが生み出す実も,必ずしも新しい弟子ではなく,むしろ新しい王国の種です。

      11 王国の実をどのように定義できますか。

      11 したがって,この場合の実は,新しい弟子でも,りっぱなクリスチャンの特質でもありません。まかれた種は王国の言葉ですから,実りは,その種が何倍にも複製されることであるに違いありません。この場合,実を結ぶことは,王国に関する事柄を言い表わすことを指しています。(マタイ 24:14)そのような王国の実を結ぶこと ― 王国の良いたよりをふれ告げること ― は,どんな状況にある人にも可能ですか。そのとおりです。同じ例えの中でイエスは,その理由を説明しておられます。

      神の栄光のために最善を尽くす

      12 王国の実を結ぶことはすべてのクリスチャンに可能ですか。説明してください。

      12 「りっぱな土の上にまかれたもの」に関してイエスは,「ある者は百倍,ある者は六十倍,ある者は三十倍を生み出す」と述べておられます。(マタイ 13:23)畑にまかれた穀粒が生み出す量は状況によって異なるでしょう。同様に,良いたよりをふれ告げる業においてわたしたちが行なえる事柄も,各人の状況によって異なるでしょう。イエスも,その点を認めていることを示しておられます。多くの機会を得られる人や,健康や活力に恵まれている人もいます。ですから,わたしたちが行なえる事柄は,他の人より多いかもしれず,少ないかもしれません。しかし,それが最善を尽くした結果であれば,エホバは喜んでくださいます。(ガラテア 6:4)高齢や病弱のために思うように伝道に参加できないとしても,同情心に富む父エホバはわたしたちを『多くの実を結びつづける』者とみなしてくださるはずです。なぜでしょうか。わたしたちが神に「自分の持つもの全部」を,つまり魂をこめた奉仕をささげているからです。b ―マルコ 12:43,44。ルカ 10:27。

      13 (イ)わたしたちが「進んで行って」王国の実を結ぶ最も重要な理由は何ですか。(ロ)反応の鈍い区域で実を結びつづけるのに何が助けとなりますか。(21ページの囲み記事をご覧ください。)

      13 王国の実をどの程度生み出せるかにかかわりなく,『進んで行って実を結びつづける』理由を銘記するなら,そうしたいという意欲を抱けるでしょう。(ヨハネ 15:16)イエスは最も重要な理由について,「あなた方が多くの実を結びつづけ(る)こと,これによってわたしの父は栄光をお受けになるのです」と述べておられます。(ヨハネ 15:8)そうです,伝道活動により,全人類の前でエホバのみ名を神聖なものとするのです。(詩編 109:30)70代半ばの忠実な証人オナーは,「反応の鈍い区域においても,至高者を代表することは特権です」と語っています。1974年からずっと熱心な証言を行なっているクラウディオは,良い反応のほとんどない区域で伝道をつづけている理由を尋ねられた時,ヨハネ 4章34節を引用しました。その聖句でイエスは,「わたしの食物とは,わたしを遣わした方のご意志を行ない,そのみ業をなし終えることです」と述べておられます。そしてクラウディオは,「イエスと同じくわたしも,王国宣明者としての業を始めるだけでなく,なし終えたいと思っています」と語りました。(ヨハネ 17:4)世界中のエホバの証人もそのように感じています。―21ページの「『耐え忍んで実を結ぶ』方法」という囲み記事をご覧ください。

      宣べ伝えることと教えること

      14 (イ)バプテスマを施す人ヨハネとイエスの業には,どんな二重の目的がありましたか。(ロ)今日のクリスチャンの活動はどのようなものであると言えますか。

      14 福音書に最初に登場する王国宣明者は,バプテスマを施す人ヨハネです。(マタイ 3:1,2。ルカ 3:18)ヨハネの主要な目的は「証しをする」ことであり,ヨハネは心からの信仰と『あらゆる人が信じる』という希望とをもってそうしました。(ヨハネ 1:6,7)実際,ヨハネが伝道した人々の一部はキリストの弟子になりました。(ヨハネ 1:35-37)ですから,ヨハネは宣べ伝える者であると同時に,弟子を作る者でもあったのです。イエスも,宣べ伝える者であり,教える者でした。(マタイ 4:23; 11:1)そのため当然のこととして,イエスは追随者たちに,王国の音信を宣べ伝えるだけでなく,音信を受け入れた人々を援助して弟子とするようにとお命じになりました。(マタイ 28:19,20)それゆえ,今日のわたしたちの業も,宣べ伝えることと教えることの組み合わせになっています。

      15 西暦1世紀の宣べ伝える業に対する反応と,今日のその業に対する反応には,どんな類似点がありますか。

      15 パウロが宣べ伝えて教えるのを聞いた西暦1世紀の人たちのうち,『ある者は話されたことを信じるようになりましたが,ある者は信じようとしませんでした』。(使徒 28:24)今日でも,同じような反応が見られます。残念なことに,王国の種の大半は受容性のない土に落ちます。とはいえ,イエスが予告されたとおり,りっぱな土に落ち,根を張って芽を伸ばす種もあります。事実,世界中で,毎週平均5,000人以上もの人々がキリストの真の弟子となっています。それら新しい弟子たちは,他の大半の人たちとは違い,「話されたことを信じ」ます。その弟子たちの心が王国の音信を受け入れるのに助けとなったのは何でしょうか。多くの場合,まかれたばかりの種に水を注ぐかのような証人たちの示す個人的な関心が変化を生じさせます。(コリント第一 3:6)実例を二つだけ考えてみましょう。

      個人的な関心は変化を生じさせる

      16,17 宣教奉仕において出会う人たちに個人的な関心を示すことが大切なのはなぜですか。

      16 ベルギーの若い証人カロリーンは年配の婦人を訪問しましたが,その人は王国の音信に全く関心を示しませんでした。その婦人の片方の手に包帯が巻かれていたので,カロリーンともう一人の証人は手伝いを申し出ましたが,断わられました。二日後,二人はその婦人の家を再び訪問し,具合はいかがですかと尋ねました。「すると,変化が生じました」とカロリーンは言います。「その人は,わたしたちが一人の人間としてのその人に本当に関心を抱いていることを知り,驚いていました。そして,わたしたちを家に招き入れ,聖書研究が始まりました」。

      17 米国の証人サンディーも,伝道する相手に個人的な関心を示しています。地元の新聞に載せられる誕生の知らせを調べ,「わたしの聖書物語の本」c を持って,子どもが生まれたばかりの親を訪問します。そのような母親はほとんどずっと家におり,訪問客に赤ちゃんを見せるのが好きなので,たいてい会話が始まります。「生まれたばかりの赤ちゃんに本を読んであげて結びつきを築くことの大切さを,親御さんと話し合うんです」とサンディーは言います。「それから,今の世の中で子育てをすることの大変さについて話します」。最近,そうした訪問の結果,一人の母親と6人の子どもがエホバに仕えるようになりました。わたしたちも自分のほうから積極的に行動し,個人的な関心を示すなら,宣教奉仕において同様の喜びを経験できるかもしれません。

      18 (イ)『多くの実を結ぶ』という条件を満たすのはわたしたちすべてにとって可能である,と言えるのはなぜですか。(ロ)あなたは,ヨハネ福音書が挙げている,弟子としてのどんな三つの条件を満たしたいと決意していますか。

      18 『多くの実を結びつづける』という条件を満たすのは可能である,ということを知るのは本当に励みになります。わたしたちはみな,年齢を問わず,どんな健康状態であろうと,また区域の受容性がどうであろうと,多くの実を結べるのです。どのようにですか。霊の実をいっそう十分に発揮し,能力の限りを尽くして神の王国の音信を広めることによってです。同時に,『イエスの言葉のうちにとどまっている』ように,そして『わたしたちの間に愛がある』ように努力します。そうです,わたしたちは,ヨハネ福音書が挙げている,弟子としてのこうした三つの重要な条件を満たすことにより,自分が『ほんとうにキリストの弟子である』ことを実証するのです。―ヨハネ 8:31; 13:35。

      [脚注]

      a 例えの中のぶどうの枝は,イエスの使徒たち,および神の天の王国で場所を得る見込みを持つ他のクリスチャンを指しています。とはいえ,この例えには,今日のキリストの追随者すべてが益を得られる真理が含まれています。―ヨハネ 3:16; 10:16。

      b 老齢や病気のために自宅から外に出られない人たちも,手紙や,差し支えなければ電話で証言を行なうことができるかもしれません。また,訪ねてきた人に良いたよりを伝えることもできるでしょう。

      c エホバの証人の発行。

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