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夫であり長老である ― 種々の責任を平衡を保って果たすものみの塔 1996 | 10月15日
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夫であり長老である ― 種々の責任を平衡を保って果たす
『監督は一人の妻の夫であるべきです』― テモテ第一 3:2。
1,2 司祭の独身制はなぜ聖書にかなっていませんか。
西暦1世紀の忠実なクリスチャンは自分の様々な責任を平衡を保って果たすことに関心を抱いていました。使徒パウロは,独身でいるクリスチャンは「さらにりっぱに行動していることにな(る)」と述べましたが,それは,そのような男子のほうがクリスチャンの会衆で監督として仕えるのにふさわしいという意味でしたか。パウロは実際のところ,独身を長老の条件としていたのでしょうか。(コリント第一 7:38)カトリックの僧職者は独身を義務づけられています。しかし,司祭の独身制は聖書にかなっていますか。東方正教会では,結婚している男子でも教区司祭にはなれますが,主教にはなれません。それは聖書と調和しているでしょうか。
2 クリスチャン会衆の土台を成した,キリストの12使徒の多くは結婚していました。(マタイ 8:14,15。エフェソス 2:20)パウロは,「わたしたちには,ほかの使徒や主の兄弟たち,またケファ[ペテロ]と同じように,姉妹を妻として連れて歩く権限があるのではありませんか」と書いています。(コリント第一 9:5)新カトリック百科事典も,「独身の戒律はもともと教会が設けたものであり」,また「新約[聖書]の聖職者たちは独身を強いられなかった」ことを認めています。エホバの証人は,教会法ではなく聖書中のひな形に従います。―テモテ第一 4:1-3。
長老の職と結婚は両立する
3 聖書中のどんな事実は,結婚している人もクリスチャンの監督になれることを示していますか。
3 パウロは,監督として任命される男子は結婚していない人であるようになどとは言わず,むしろテトスにあててこう書きました。「わたしはこの理由であなたをクレタに残しました。すなわち,わたしが命じたとおり,あなたが不備な点を正し,都市ごとに年長者たち[ギリシャ語,プレスビュテロス]を任命するためです。つまり,とがめのない人で,一人の妻の夫であり,放とうの責めを受けたり無規律であったりすることのない,信者である子供を持つ人がいるならばです。監督[ギリシャ語,エピスコポス。英語bishop(司教,または主教)の語源]は,神の家令としてとがめのない人で(なければなりません)」― テトス 1:5-7。
4 (イ)結婚していることがクリスチャンの監督の条件でないことはどうして分かりますか。(ロ)長老である独身の兄弟にはどんな利点がありますか。
4 逆に,結婚していることも,長老であるための聖書的条件ではありません。イエスはずっと独身でした。(エフェソス 1:22)1世紀のクリスチャン会衆の主立った監督であったパウロも,その時点では結婚していませんでした。(コリント第一 7:7-9)今日,長老として仕えている独身のクリスチャンは少なくありません。恐らくそれらの人たちは,独身であるがゆえに,監督としての務めを果たすための時間をより多く取れるでしょう。
『結婚した男子は分かたれる』
5 結婚している兄弟たちは聖書の述べるどんな事実を認めるべきですか。
5 クリスチャンの男子は,結婚すれば時間と配慮の必要な新たな責任を担うようになるということを銘記すべきです。聖書はこう述べています。「結婚していない男子は,どうしたら主の是認を得られるかと,主の事柄に気を遣います。一方,結婚している男子は,どうしたら妻の是認を得られるかと,世の事柄に気を遣い,彼は分かたれるのです」。(コリント第一 7:32-34)どのような意味で分かたれるのでしょうか。
6,7 (イ)結婚した男子が「分かたれる」一つの点は何ですか。(ロ)パウロは,結婚しているクリスチャンにどんな助言を与えていますか。(ハ)これは何かの仕事を受け入れるかどうかの決定にどのように影響する場合がありますか。
6 一つには,結婚した男子は自分の体に関する権限を手放します。パウロはこの点を極めて明確に述べました。「妻は自分の体に関して権限を行使するのではなく,夫がそうするのです。同じように,夫も自分の体に関して権限を行使するのではなく,妻がそうするのです」。(コリント第一 7:4)結婚を考えている人の中には,自分たちの結婚でセックスは主要な事ではないから,この訓戒はさほど重要ではない,と考える人がいるかもしれません。しかし,婚前の貞潔が聖書的要求ですから,クリスチャンは将来の配偶者の親密な関係の必要を実際に知っているわけではありません。
7 パウロは,『思いを霊の事柄に向けている』夫婦の場合でも,互いの性的な必要を配慮しなければならないことを示しています。コリントのクリスチャンたちにこう忠告しました。「夫は妻に対してその当然受けるべきものを与えなさい。また妻も夫に対して同じようにしなさい。互いにそれを奪うことがないようにしなさい。ただし,定められた時のあいだ相互に同意し,祈りに時をささげて,そののち再び共になる場合は別です。これは,あなた方の自己抑制が欠けていることのゆえに,サタンがあなた方を誘惑しつづけることのないためです」。(ローマ 8:5。コリント第一 7:3,5)残念なことに,この忠告が守られなかったときに姦淫が犯されたという事例が幾つもあります。こうした点から,結婚しているクリスチャンは,長期にわたって妻から離れていることになる仕事に関して,それを受け入れる前に物事を慎重に考慮すべきです。もはや独身の時と同じほど活動の自由はないのです。
8,9 (イ)パウロは,結婚しているクリスチャンは「世の事柄に気を遣(う)」と述べましたが,それはどういう意味でしたか。(ロ)結婚しているクリスチャンはどんなことに気を遣うべきですか。
8 長老も含め結婚しているクリスチャンの男子は,どのような意味で「世[コスモス]の事柄に気を遣(う)」ことになるのでしょうか。(コリント第一 7:33)パウロが,真のクリスチャンすべてが避けるべきこの世の悪い事柄について述べていたのでないことは全く明らかです。(ペテロ第二 1:4; 2:18-20。ヨハネ第一 2:15-17)神の言葉は,「不敬虔と世の[コスミコス]欲望とを振り捨てるべきこと,また現存する事物の体制にあって健全な思いと義と敬虔な専心とをもって生活すべきこと」を教えています。―テトス 2:12。
9 ですから,結婚しているクリスチャンは,普通の結婚生活の一部である日常的な事柄に正当な関心を払うという意味で「世の事柄に気を遣い」ます。これには住居,食物,衣服,レクリエーションなどが含まれ,子供がいればほかにも多くの事柄がかかわって来ることは言うまでもありません。しかし,子供のいない夫婦であっても,結婚生活をうまくゆかせるには,夫と妻の双方が配偶者の「是認を得(る)」よう気を遣わなければなりません。これは,種々の責任を平衡を保って果たすクリスチャンの長老たちにとって特に関心を払うべき点です。
良い夫であると共に良い長老である
10 クリスチャンが長老の資格にかなうためには,兄弟たちや外部の人々が何を観察できるようであるべきですか。
10 結婚していることは長老になる人の条件ではありませんが,クリスチャンの男子が結婚しているなら,長老の任に推薦される以前に,頭の権を正しく行使しつつ,愛のある良い夫であるよう努めている証拠を確かに示しているべきです。(エフェソス 5:23-25,28-31)パウロはこう書いています。「監督の職をとらえようと努めている人がいるなら,その人はりっぱな仕事を望んでいるのです。したがって,監督は,とがめられるところのない人で,一人の妻の夫で(あるべきです)」。(テモテ第一 3:1,2)長老は,妻が同じ信仰を持つクリスチャンであるかどうかにかかわりなく,良い夫であるよう最善を尽くしていることが明らかであるべきです。実際,会衆外の人々にさえ,その人が妻を大事にすると共に他の責任も果たしていることが分かるようであるべきでしょう。パウロはこう付け加えています。「その人は外部の人々からもりっぱな証言を得ているべきです。非難と悪魔のわなに陥ることのないためです」― テモテ第一 3:7。
11 「一人の妻の夫」という表現は何を意味しますか。それで,長老はどんな注意を払うべきですか。
11 もちろん,「一人の妻の夫」という表現は一夫多妻を非とするものですが,同時に夫婦間の忠実をも意味しています。(ヘブライ 13:4)とりわけ長老は,会衆内の姉妹たちを援助するさい特に注意深くある必要があります。助言や慰めを必要としている姉妹を訪問するときには,一人で行くことを避けるべきです。他の長老か奉仕の僕を一人,あるいはもし励ましの訪問をするだけのことであれば自分の妻を伴うのが良いでしょう。―テモテ第一 5:1,2。
12 長老や奉仕の僕の妻は,どんな描写にかなうよう努めるべきですか。
12 ちなみに,使徒パウロは,長老や奉仕の僕の条件を挙げた際,そのような特権に関して考慮される人の妻のためにも一言助言しました。こう書いています。「女たちもまじめで,人を中傷したりせず,習慣に節度を守り,すべての事に忠実であるべきです」。(テモテ第一 3:11)クリスチャンの夫は,この描写に適合するよう妻を助ける点で多くのことを行なえます。
妻に対して持つ聖書的な務め
13,14 長老は,たとえ妻が同じ信仰を持つエホバの証人ではなくても,妻と共に暮らし,良い夫であるべきなのはなぜですか。
13 言うまでもなく,長老や奉仕の僕の妻へのこの助言は,そのような妻自身も献身したクリスチャンであることを前提としています。クリスチャンは「主にある者とだけ」結婚するよう要求されているので,大抵はこれが当てはまります。(コリント第一 7:39)しかし,エホバに命をささげる献身の時点ですでに信者でない人と結婚していた兄弟,あるいは自分に落ち度はないものの妻がこの道から離れた兄弟についてはどうでしょうか。
14 そのこと自体は,当人が長老になることを妨げるものではないでしょう。同時にまた,妻が同じ信仰を持っていないというだけの理由で別居することを正当化するものでもありません。「あなたは妻につながれていますか。放たれることを求めてはなりません」と,パウロは忠告しました。(コリント第一 7:27)さらにこう述べています。「ある兄弟に信者でない妻がいて,彼女が夫と共に住むことを快く思っているなら,その人は妻を去ってはなりません。しかし,信者でない人が離れて行くなら,その離れるにまかせなさい。兄弟にせよ姉妹にせよ,そうした事情のもとでは隷属の身ではありません。神はあなた方を平和へと召されたのです。というのは,妻よ,あなたは夫を救えないとどうして分かるのですか。また,夫よ,あなたは妻を救えないとどうして分かるのですか」。(コリント第一 7:12,15,16)たとえ妻がエホバの証人でないとしても,長老は良い夫であるべきです。
15 使徒ペテロはクリスチャンの夫にどんな助言を与えていますか。もし長老が夫として妻をないがしろにするならどんな結果になりかねませんか。
15 クリスチャンの長老は,妻が自分と同じ宗教の信者かどうかにかかわりなく,妻には夫の愛ある心遣いが必要であることを認めるべきです。使徒ペテロはこう書いています。「夫たちよ,同じように,知識にしたがって妻と共に住み,弱い器である女性としてこれに誉れを配しなさい。あなた方は,過分の恵みとしての命を妻と共に受け継ぐ者でもあるからです。そうするのは,あなた方の祈りが妨げられないためです」。(ペテロ第一 3:7)妻の必要を知りながら顧みない夫は,自分とエホバとの関係を危うくします。エホバに近づこうとしても,『雲塊をもって阻まれ,祈りが通って行かなくなる』可能性があります。(哀歌 3:44)そうなるなら,クリスチャンの監督として仕える資格のない者となってしまうでしょう。
16 パウロの主な論点は何ですか。長老たちはこれについてどう考えるべきですか。
16 すでに述べたように,パウロの論議の主旨は,人は結婚するときに,それまで独身者として持っていた,「気を散らすことなく絶えず主に仕え」られる自由を幾らか手放す,ということです。(コリント第一 7:35)寄せられる報告によると,結婚している長老たちの中には,霊感によるパウロの言葉に関して推論する点で常に平衡を保ってきたとは言えない人がいます。それら兄弟たちは,良い長老ならこうすべきだと自分なりに考えてそのとおりにしようとするあまり,夫としての務めを幾らか見過ごすかもしれません。中には,会衆内でのある特権を受け入れれば霊的な面で妻の不利益になることが明らかであっても,その特権を辞退することに困難を覚える人もいるでしょう。そのような人たちは,結婚に伴う種々の特権を享受しますが,結婚に伴う種々の責任を果たす気持ちもあるでしょうか。
17 妻の中にはどのようになった人もいますか。そうした事態はどうすれば回避できたかもしれませんか。
17 もちろん,長老として熱心であるのはほめるべきことです。とはいえ,クリスチャンは,会衆内の様々な務めを果たしながら,妻に対して持つ聖書的な責任を無視するとしたら,平衡がとれていると言えるでしょうか。平衡を保つ長老は,会衆内の人たちの支えになることを願うと共に,妻の霊性にも関心を払います。長老の妻たちの中には霊的に弱くなった人や,霊的「破船」を経験した人もいます。(テモテ第一 1:19)妻には自分の救いを達成してゆく責任がありますが,もし長老が,「キリストが会衆に対してするのと同じ」ように妻を「養い,また大切にし(て)」いたなら,ある場合,そうした霊的な問題は避けることができたでしょう。(エフェソス 5:28,29)長老は『自分自身と群れのすべてに注意を払わ』なければならないのです。(使徒 20:28)結婚していれば,これには自分の妻も含まれます。
『肉身に招く患難』
18 結婚しているクリスチャンが経験する「患難」にはどんな面がありますか。これは長老としての活動にどのように影響することがありますか。
18 使徒はまた,こう書きました。「童貞の人が結婚したとしても,その人は罪を犯すことにはなりません。しかしながら,そうする人たちは自分の肉身に患難を招くでしょう。しかしわたしは,あなた方がそれに遭わないですむようにしているのです」。(コリント第一 7:28)パウロは,独身を保つ自分の手本に倣うことのできる人たちが独身でいて結婚生活に付き物の気苦労をしないですむことを願いました。子供のいない夫婦であっても,そうした気苦労には,健康の問題や金銭上の困難,また配偶者の年老いた親に対する聖書的な責任が含まれるかもしれません。(テモテ第一 5:4,8)長老はこうした種々の責任を模範的に果たさなければならず,そのことがクリスチャンの監督としての活動に影響する場合もあるでしょう。幸いなことに,ほとんどの長老は家族の責任と会衆の責任とを立派に果たしています。
19 パウロはどのような意味で,「妻を持っている者は持っていないかのようになりなさい」と述べましたか。
19 パウロはさらにこう述べました。「残された時は少なくなってい(ます)。今後,妻を持っている者は持っていないかのようになりなさい」。(コリント第一 7:29)もちろん,コリント人への手紙のこの章ですでに書いている事柄からして,どんな意味にせよ妻をないがしろにすべきだと言っているのでないことは明らかです。(コリント第一 7:2,3,33)パウロは,「世を利用している者はそれを十分に用いていない者のようになりなさい。この世のありさまは変わりつつあるからです」と書いて,自分がどういう意味でこれを述べたかを示しました。(コリント第一 7:31)今は,パウロの時代や使徒ヨハネの時代よりさらにはっきり,「世は過ぎ去りつつあ(る)」と言えます。(ヨハネ第一 2:15-17)ですから,キリストに従う点で幾らか犠牲を払う必要があると感じる,結婚しているクリスチャンは,結婚生活の喜びや特権に浸りきることができるわけではないのです。―コリント第一 7:5。
自己犠牲的な妻
20,21 (イ)多くのクリスチャンの妻は進んでどんな犠牲を払っていますか。(ロ)妻は,夫が長老であっても,何を正当に期待できますか。
20 長老が他の人々の益のために犠牲を払うのと同じように,多くの長老の妻も結婚生活における種々の責任と肝要な王国の関心事との平衡をとるよう努めてきました。大勢のクリスチャン婦人は,夫が監督としての務めを果たせるように喜んで協力しています。エホバは,そのようにする婦人たちを愛し,その人たちの示す立派な霊を祝福されます。(フィレモン 25)それでも,パウロの平衡のとれた助言の示すとおり,監督の妻は夫からのそれ相応の時間や心遣いを正当に期待できます。夫であり監督である者として,妻のためにも十分な時間を用いて種々の責任を平衡を保って果たしてゆくことは,結婚している長老の聖書的な務めです。
21 しかし,クリスチャンの長老が,夫であるだけでなく父親でもある場合はどうでしょうか。その場合,責任はさらに加わり,監督すべきもう一つの分野を持つことになります。その点については,次の記事の中で取り上げます。
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父親であり長老である ― 両方の役割を果たすものみの塔 1996 | 10月15日
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父親であり長老である ― 両方の役割を果たす
「実際,自分の家の者を治めることも知らない人であれば,どのようにして神の会衆を世話するのでしょうか」― テモテ第一 3:5。
1,2 (イ)1世紀の独身の監督たちや結婚していて子供のいない監督たちはどのように兄弟たちに仕えることができましたか。(ロ)アクラとプリスキラは,どのように今日の多くの夫婦の模範となっていますか。
初期のクリスチャン会衆の監督は,独身の男子の場合もあれば,結婚していて子供のいない男子,あるいは妻と子供のいる人の場合もありました。それらクリスチャンの中には,使徒パウロがコリント人への第一の手紙の7章で与えた忠告に従って独身を保てた人もいたことでしょう。イエスは,「天の王国のゆえに自らを閹人とした閹人がいる」と述べておられました。(マタイ 19:12)そうした独身の男子は,パウロや恐らくはその旅仲間のある人たちのように,自由に旅行して兄弟たちを助けることができたでしょう。
2 聖書は,バルナバ,マルコ,シラス,ルカ,テモテ,テトスなどが独身であったかどうかを述べていません。それらの人は,結婚していたとしても,家族に対する責任の少ない自由な立場にいて,割り当てられる様々な務めのために広範に旅行することもできたものと思われます。(使徒 13:2; 15:39-41。コリント第二 8:16,17。テモテ第二 4:9-11。テトス 1:5)ペテロや「ほかの使徒」たちは妻と連れ立って各地へ赴いたようですが,それと同じようにこれらの人も妻を伴っていたことが考えられます。(コリント第一 9:5)アクラとプリスキラは,進んで自分の住む土地を替えた夫婦の模範です。パウロに従ってコリントからエフェソスへ行き,その後ローマへ移り住み,それから再びエフェソスに戻りました。聖書は,その二人に子供がいたかどうかを述べていません。兄弟たちに献身的に仕えたこの二人は,「諸国民のすべての会衆」から感謝されました。(ローマ 16:3-5。使徒 18:2,18。テモテ第二 4:19)今日でも,アクラとプリスキラのように,必要の大きな地方へ移り住むなどして他の会衆に仕えることのできる夫婦は少なくないでしょう。
父親であり長老である
3 1世紀の多くの長老たちが,結婚して家族を持つ人であったことは,どんな点に示唆されていますか。
3 西暦1世紀のクリスチャンの長老たちの大半は,結婚していて子供のいる人であったようです。パウロは,「監督の職をとらえようと努めている」男子の満たすべき資格を説明した際,そのようなクリスチャンは「自分の家の者をりっぱに治め,まじめさを尽くして子供を従わせている人」でなければならないと述べました。―テモテ第一 3:1,4。
4 結婚していて子供のいる長老には何が求められましたか。
4 すでに見たように,監督は,子供を持つことは言うに及ばず,結婚していることさえ求められていたわけではありません。しかし,結婚しているクリスチャンは,長老または奉仕の僕としての資格にかなうためには,妻に対し頭の権を愛をこめてふさわしく行使し,また子供たちをふさわしく従わせる能力のあることを示していなければなりませんでした。(コリント第一 11:3。テモテ第一 3:12,13)一家を切り盛りする点で重大な弱さのある兄弟は,会衆内の特別な特権にあずかる資格はないでしょう。なぜですか。パウロはこう説明しています。「実際,自分の家の者を治めることも知らない人であれば,どのようにして神の会衆を世話するのでしょうか」。(テモテ第一 3:5)肉親の者がその人の監督に服することを好まないとしたら,他の人たちはどのように反応するでしょうか。
「信者である子供を持つ」
5,6 (イ)パウロはテトスに,子供に関するどんな条件を述べましたか。(ロ)子供を持つ長老には何が期待されますか。
5 パウロは,クレタの諸会衆に監督たちを任命するようテトスに指示を与えた際,次の条件を明記しました。「とがめのない人で,一人の妻の夫であり,放とうの責めを受けたり無規律であったりすることのない,信者である子供を持つ人がいるならばです。監督は,神の家令としてとがめのない人で(なければならないのです)」。では,「信者である子供を持つ」という条件にはどのような意味があるでしょうか。―テトス 1:6,7。
6 「信者である子供」という表現は,すでにエホバに命をささげて献身し,バプテスマを受けた若者,もしくは献身とバプテスマを目ざして進歩している年若い子供を指します。会衆の成員は,長老の子供がまずまず行儀がよく,従順であることを期待します。長老は自分の子供の内に信仰を築き上げるよう力を尽くしていることが明らかであるべきです。ソロモン王はこう書いています。「少年をその行くべき道にしたがって育て上げよ。彼は年老いても,それから離れないであろう」。(箴言 22:6)しかし,そのような訓練を受けてきた若者がエホバに仕えようとせず,さらには重大な悪行を犯すならどうでしょうか。
7 (イ)箴言 22章6節が柔軟性のない規則として述べられているのでないことはなぜ明らかですか。(ロ)長老の子供がエホバに仕える道を選ばない場合,自動的にその長老が特権を失うわけでないのはなぜですか。
7 上記の箴言が厳格な規則として述べられているのでないことは明らかです。それは自由意志の原則を無にするものではありません。(申命記 30:15,16,19)息子でも娘でも,責任年齢に達したなら,献身とバプテスマに関して自分で決定しなければなりません。父親である長老が,必要とされる霊的な助けや導きや懲らしめを明らかに与えてきたのに,子供がエホバに仕える道を選ばない場合,その長老は監督として仕える資格を自動的に失うわけではありません。一方,長老の家庭に未成年の子供が幾人かいて,その子供たちが次々に霊的な面で病気になって問題を抱えるとしたら,その長老はもはや「自分の家の者をりっぱに治め……ている人」とみなされないかもしれません。(テモテ第一 3:4)重要なのは,監督として「放とうの責めを受けたり無規律であったりすることのない,信者である子供」を持つよう最善を尽くしていることがはっきりしていなければならないという点です。a
「信者でない妻」を持つ
8 長老は信者でない妻に対してどのような行動をとるべきですか。
8 信者でない人を妻に持つクリスチャンの男子に関して,パウロはこう書きました。「ある兄弟に信者でない妻がいて,彼女が夫と共に住むことを快く思っているなら,その人は妻を去ってはなりません。……信者でない妻は兄弟との関係で神聖なものとされているからです。そうでなければ,あなた方の子供は実際には清くないことになります。でも今,彼らは聖なる者なのです。というのは,……夫よ,あなたは妻を救えないとどうして分かるのですか」。(コリント第一 7:12-14,16)ここで「信者でない」という語は,宗教上の信念を全く持っていない人ではなく,エホバに献身していない人を指して用いられています。その女性はユダヤ人であったか,あるいは異教の神々の信者だったかもしれません。今日,ある長老は,別の宗教を奉じている女性,あるいは不可知論,さらには無神論の女性と結婚しているかもしれません。その妻が夫のもとにとどまろうとしているのであれば,夫は信仰が違うというだけで妻を去ってはなりません。その長老は依然,「知識にしたがって妻と共に住み,弱い器である女性としてこれに誉れを配し」,妻を救うという望みを抱いて暮らすべきです。―ペテロ第一 3:7。コロサイ 3:19。
9 自分の宗教上の信念を子供に教える権利が法律によって夫と妻の双方に与えられている国において,長老はどのように行動すべきですか。これはその長老の持つ特権にどのように影響しますか。
9 監督に子供がいるなら,「エホバの懲らしめと精神の規整とをもって」養育する点で,夫また父親としての頭の権をふさわしく行使することでしょう。(エフェソス 6:4)多くの国で,子供に宗教教育を施す権利は法律により夫婦の双方に与えられています。その場合,妻は子供に自分の宗教上の信念や慣習を教える権利を行使したいと言うかもしれません。子供を自分の教会に連れて行くことなどもそれに含まれるでしょう。b もちろん,子供は偽りの宗教儀式に参加しないことに関して,聖書で訓練された自分の良心に従うべきです。父親は家族の頭として子供との研究を行ない,また子供を可能な場合には王国会館での集会に連れて行く自分の権利を行使するでしょう。子供は自分で決定できる年齢になったなら,どちらの道に進むかを自分で決められます。(ヨシュア 24:15)子供を正しく教えて真理の道を歩ませようと,法律の許す範囲で力を尽くしていることが仲間の長老たちと会衆の成員の目にも分かるのであれば,その長老は監督としての資格を失うことはないでしょう。
『自分の家の者をりっぱに治める』
10 妻子のいる人が長老である場合,おもな務めはどこにありますか。
10 長老が父親である場合,妻が同じ信仰を持つクリスチャンであるとしても,自分の時間や心遣いを妻や子供たちと会衆の責任との間で適正に配分するのは決して易しいことではありません。聖書は,クリスチャンの父親には妻と子供を世話する義務がある,と極めて明快に述べています。パウロはこう書いています。「当然のことですが,自分に属する人々,ことに自分の家の者に必要な物を備えない人がいるなら,その人は信仰を否認していることになり,信仰のない人より悪いのです」。(テモテ第一 5:8)その同じ手紙の中でパウロは,結婚している男子ですでに良い夫また父親であることを示してきた人だけが,監督として仕えるよう推薦されるべきである,と述べました。―テモテ第一 3:1-5。
11 (イ)長老はどんな面で『自分に属する人々に必要な物を備える』べきですか。(ロ)これは長老が会衆での責任を果たすのにどのように助けになりますか。
11 長老は,物質的な面だけでなく,霊的また感情的な面でも自分に属する人々のために必要なものを『備える』べきです。賢王ソロモンはこう書きました。「自分の仕事を戸外で整え,自分のためにそれを畑で用意せよ。その後,あなたはまた,自分の家を築かなければならない」。(箴言 24:27)ですから監督は,物質面,感情面,また娯楽の面で妻や子供の必要とするものを備えると同時に,霊的な面でも妻子を築き上げるべきです。これには時間が必要です。その時間は会衆の事柄のためには使えないのです。しかし,それは家族の幸福や霊性という形で豊かな配当をもたらし得る時間です。長期的に見れば,自分の家族が霊的に強いなら,長老が家族内の問題を扱うために費やす時間は少なくてすむかもしれません。そうなれば,会衆の事柄の世話にいっそう心おきなく携わることができます。良い夫また良い父親としてのその模範は会衆に霊的な益をもたらすでしょう。―ペテロ第一 5:1-3。
12 長老である父親は,家族内のどんな事柄においてりっぱな模範を示すべきですか。
12 家の者をりっぱに治めることには,時間を予定して家族研究を司会することも含まれます。この点で長老が良い模範を示すことは特に重要です。強い家族は強い会衆を作るからです。監督であっても,他の奉仕の特権のためにいつも時間を取られて,妻や子供との研究を行なう時間がなくなるほどであってはなりません。現にそうなっているなら,自分の予定を再吟味するべきです。予定を立て直すか,時には幾つかの特権を辞退してでも,他の事柄のために使っている時間を減らさなければならないかもしれません。
平衡のとれた監督
13,14 「忠実で思慮深い奴隷」は家族のいる長老たちにどんな助言を与えてきましたか。
13 家族に対する責任と会衆に対する責任との間に平衡をとるようにという助言は特に新しいものではありません。これまで幾年にもわたり,「忠実で思慮深い奴隷」は長老たちにそのような趣旨の助言を与えてきました。(マタイ 24:45)37年余り前,「ものみの塔」誌,1959年9月15日号(英文),553,554ページには次のような忠告が載せられました。「実際,それは,時間を要するそれらの事柄すべてに平衡をとるということに帰着するのではないでしょうか。この平衡をとるには自分の家族の関心事にそれ相当の重きを置かなければなりません。確かにエホバ神は,人が自分の家の者たちの救いを顧みず,会衆の活動のために,また兄弟たちや隣人が救いを得るのを助けるために時間を使い果たすことを期待してはおられません。妻と子供に対する責任が第一です」。
14 「ものみの塔」誌,1986年11月1日号,22ページには次の助言が載せられました。「家族ぐるみで野外宣教に携わっても親しさは増し加わりますが,子供に特有の傾向からすると,子供は親の個人的な時間や感情的なエネルギーをもっぱら自分に振り向けてほしいと思うものです。したがって,『自分に属する人々』を霊的,感情的,物質的に顧みながら,……会衆の務めにどれくらいの時間を充てることができるかを決定するには,平衡が必要とされます。[クリスチャンは]『まず,自分の家族の中で敬虔な専心を実践すべきことを学ぶ』べきです。(テモテ第一 5:4,8)」。
15 妻子のいる長老にはなぜ知恵と識別力が必要ですか。
15 聖書の箴言は,「家は知恵によって築き上げられ,識別力によって堅く立てられることになる」と述べています。(箴言 24:3)そうです,監督として神権的な務めを果たすと共に自分の家を築き上げるためには,確かに知恵と識別力が必要です。聖書的に言えば,その人には監督すべき分野が幾つかあります。それには,家族に対する責任と会衆に対する責任が含まれます。これらの分野の間で平衡を保つには識別力が必要です。(フィリピ 1:9,10)何を優先すべきかを決めるには知恵が必要です。(箴言 2:10,11)会衆での特権としての務めを果たす責任をどれほど感じるにしても,夫また父親として神から与えられている主要な責任は,家族を顧み,救うことである,という点を銘記すべきです。
良い父親であると共に良い長老である
16 長老が父親でもあるならどんな利点がありますか。
16 行儀のよい子供を持つ長老は,真の人材となり得ます。自分の家族をよく世話することを学び取っているなら,会衆内の他の家族を助ける立場に立てます。そうした家族の抱える問題をいっそう理解し,自分の経験を生かした助言を与えることができます。幸いなことに,世界中の大勢の長老たちは,夫として,父親として,そして監督として立派にやっています。
17 (イ)父親であり長老でもある人は何を決して忘れるべきではありませんか。(ロ)会衆の他の成員はどのように感情移入をするべきですか。
17 家族のいる人が長老であるためには,妻と子供を顧みつつ,会衆内の他の人たちのためにも時間を取って心遣いを示せるよう,自分の物事を組織できる円熟したクリスチャンでなければなりません。牧羊の業は家庭から始まる,ということを決して忘れてはなりません。会衆の成員は,妻と子供のいる長老には家族と会衆の両方に対する務めという責任があることをわきまえて,会衆のためにもっと時間を割くようにと過度の要求はしないようにするでしょう。例えば,翌朝学校に行かなければならない子供のいる長老は,夜の集会後いつでもしばらくとどまっていられるわけではないかもしれません。会衆の他の成員はそのことを理解して思いやりを示すべきです。―フィリピ 4:5。
長老はわたしたちにとって大切
18,19 (イ)コリント第一 7章を考察してどんなことを銘記できましたか。(ロ)そのようなクリスチャンの男子をどうみなすべきですか。
18 こうしてパウロのコリント人への第一の手紙の7章を考察してみると,パウロの忠告に従って王国の事柄のために自分の自由を活用している独身の男子が大勢いることがよく分かります。また,結婚していても子供のいない兄弟たちで,妻に当然の心遣いを示しながら,称賛すべき妻の協力を得て各地の地域区,巡回区,会衆,またものみの塔協会の支部で立派に監督として仕えている人たちも大勢います。最後に,エホバの民のほぼ8万を数える会衆には,父親として愛を込めて妻と子供の世話をするだけでなく,親切な牧者としても時間を割いて兄弟たちに仕えている人が大勢います。―使徒 20:28。
19 使徒パウロは,「りっぱに主宰の任を果たす年長者たち,とりわけ,話すことや教えることに骨折っている人たちを,二倍の誉れに値するものとみなしなさい」と書きました。(テモテ第一 5:17)そうです,家庭でも会衆でもりっぱに主宰の任を果たす長老たちは,愛と敬意を受けるに値する人たちです。確かに,「このような人をいつも重んじ(る)」べきです。―フィリピ 2:29。
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