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この類まれな機会をとらえなさいものみの塔 1996 | 11月15日
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聖書の救いの音信がピーターの関心を引きつけたのは,ピーターの医学の勉強もかなり進んでいたころのことでした。卒業して病院で医師として仕事を始めると,上司たちはピーターに神経外科の専門家になるようにしきりと勧めました。それは,多くの新人医師が一も二もなくとらえたいと思う機会でした。
けれども,ピーターaはこの機会を見送ることにしました。なぜでしょうか。必要とされる覇気や動機がなかっただけなのでしょうか。そうではありません。というのは,ピーターは実際,その申し出を注意深く検討したからです。献身しバプテスマを受けたエホバの証人となってからのピーターは,クリスチャン宣教のさまざまな分野にできるだけ多くの時間を費やしたいと願っていました。神経外科医の資格をいったん取れば,その仕事に自分の時間やエネルギーがどんどん奪われてしまうだろう,と彼は判断しました。この特別な見込みを放棄した彼は,愚かだったのでしょうか,それとも賢明だったのでしょうか。
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この類まれな機会をとらえなさいものみの塔 1996 | 11月15日
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冒頭で述べた若者のピーターは,自分の決定について注意深く考慮し,いろいろな選択肢を比較検討しました。神経外科医になる目的で勉強することは自分にとって悪いことではない,ということにも気づきました。しかし,自分にとって最も重要なことは何でしょうか。それはクリスチャン宣教の活動でした。その業の緊急性を考えると,そう言えるのです。同時に,ピーターには果たさねばならない責務がありました。彼は結婚しており,宣べ伝える業に全時間あずかっている妻を養わなければなりませんでした。(テモテ第一 5:8)それに,ピーターは教育に関連した借金を返済する必要もありました。では,彼はどうすることにしましたか。
ピーターは放射線学の専門家になり,超音波スキャンの仕事をすることにしました。この仕事なら,就労時間は普通ですみます。彼はまた,その訓練を正規の仕事時間中に受けることにしました。確かに,ある人はこれを第一線から退いた立場とみなすかもしれませんが,これによってピーターは,より多くの時間を霊的な活動に充てられるようになりました。
ピーターの決定を導いた別の要素もあります。異なる決定を下す人たちを裁くわけではありませんが,世俗の事柄に過度にかかわるようになると,クリスチャンとして危険な目に遭う,ということをピーターは知っていました。そうなると,霊的な責任を軽視するようになることもあり得ます。そのことは,仕事をめぐる別の例にも示されています。
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