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エストニア2011 エホバの証人の年鑑
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多言語による放送
早くも1927年に,ウェスト兄弟はタリンの民間ラジオ局で放送を行なう許可を得ました。兄弟が行なった「千年期の祝福」という講演は,エストニア語に通訳されました。この放送は多くの人の関心を高めましたが,同時に物議を醸しました。そのため,再び放送を行なう許可が得られたのは1929年になってからでした。その年以降,毎週日曜日にレギュラー番組が放送されるようになりました。話は英語,エストニア語,フィンランド語,ロシア語で,そして時折スウェーデン語とドイツ語で,また少なくとも1回はデンマーク語で行なわれました。それらの話も多くの人の関心を誘い,遠くはノルウェー,デンマーク,スウェーデン,フィンランド,ロシアのレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)でも聞くことができました。1932奉仕年度に200の講演が放送され,エホバのみ名を知らせるための効果的な手だてとなりました。僧職者が反対したのも驚くには当たりません。
僧職者は,エストニアの当局が共産主義と関連のある活動に強い不安を抱いていることを知り,エホバの証人は共産主義者と結びついているという偽りの主張をしました。エストニア当局は,国体を弱めかねない事柄に敏感に反応し,1934年にラジオによる講演を禁止しました。しかし,その措置に皆が同意したわけではありません。ある男子生徒は英語で次の手紙を寄せました。
「ものみの塔」とラザフォード判事へ
エストニアの政府があなたの講演の放送を禁止したことをとても残念に思います。わたしは学生です。親は裕福ではなく,わたしたち子どもに食べさせるため,きつい労働をしています。しかし,主に対する愛や希望は,両親の顔を照らす光のようです。わたしはこの冬,大病を患い,その中で唯一慰めとなったのは,ラジオで聞くあなたの講演でした。悲しみの涙は幸せの涙に変わりました。……どうしたらあの講演を聞けるのでしょう。……英語の勉強を始めました。この手紙は,辞書を見ずに英語で書いた最初の手紙です。……ラザフォード判事のご多幸を祈ります。
ラザフォード兄弟は自ら手紙の返事を書き,自分の講演のレコードを何枚かこの学生に送りました。
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エストニア2011 エホバの証人の年鑑
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[175ページの図版]
ラジオで講演を行なうカールロ・ハルテバ
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