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エストニア2011 エホバの証人の年鑑
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その続きについてバクスター兄弟は語ります。「警察官たちは戻って来ました。押収の際に,一人の警察官が『神の救い』の書籍を1冊,自分のオーバーの大きなポケットに入れるのが見えました。私はよく,そうした人々が書籍を自分用に持って行って読むことがどれほどあるのだろうと考えたものです」。
1939年は不安と恐れに満ちた年でした。かなりの数のソ連兵が,エストニアに駐留することが認められました。バクスター兄弟はこう書いています。「毎日ラジオで共産主義の宣伝が繰り返し流されました。憶測,興奮,心配,恐怖心などが度を増していました。上空には,空挺部隊を乗せたソ連の軍用機が轟音を立てながら頻繁に飛んでいました」。
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エストニア2011 エホバの証人の年鑑
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バクスター兄弟,またアリグザンダー・ブライドソンと妻のヒルタも国にとどまる決意でいましたが,外国人が残ることはますます危険になりました。そのため,ラザフォード兄弟は彼らに出国するよう勧めます。バクスター兄弟とラトビアから来ていたダナム夫妻は,列車で出国し,シベリア経由でオーストラリアに行き着きます。ブライドソン夫妻は1年ほど後にスウェーデンに出国します。バクスター兄弟は,1994年6月21日に地上の歩みを終えるまで,オーストラリアの支部委員会で忠実に奉仕しました。a
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