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科学上の不正行為 より重大な不正行為目ざめよ! 1990 | 1月22日
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科学上の不正行為 より重大な不正行為
不正行為は,「欺く,もしくは偽り伝える行為」と定義されます。それは「価値あるものから人を引き離すために真理を意図的に歪曲すること」です。―ウェブスター大学生用新辞典 第9版。
「進化は事実である」。これは科学界に自分の正統的信念を確信させる標準的な信仰告白です。そして一般向けには大抵,『これは何度も証明されてきたことなので,もはや繰り返し証明する必要はない』という主張が付け加えられます。進化論者には繰り返し示せる証拠が一つもないので,それは非常に都合のよい主張です。それでもなお,「進化は事実である」という主張は幾年もの間,神秘主義的な詠唱のように繰り返し唱えられてきました。
昨年の4月,生物学者のリチャード・ドーキンズは,ニューヨーク・タイムズ・ブック・レビュー誌の書評の中で,「我々はここで,進化そのものの事実,筋の通った疑いを差し挟む余地の全くないほどに証明された事実のことを言っているのである」と書いています。そして,「生物学の授業で[創造説を取り上げることは],天文学の授業で地球平板説のために同量の時間を割くのと同じほどばかげたことである。あるいは,だれかが指摘したように,性教育の授業において,コウノトリ説のために同量の時間を要求するようなものである。進化を信じないと言い張る人がいれば,その人は無知な者,愚かな者,あるいは気が触れた者(あるいは,そのように考えたくはないが,邪悪な者)であると言って一向に差し支えない」と言いました。
スティーブン・ジェイ・グールドは,科学雑誌「ディスカバー」の1987年1月号の中で進化に関する小論を書いています。彼は徹底的にたたき込もうという意図から,この5ページの記事の中で12回も進化を事実であると宣言しています。その記事からの抜粋は次のとおりです。
ダーウィンの生涯の仕事は,「進化の事実を確立することであった」。「進化の事実は,科学においては十分に確立されている(地球が太陽の周りを回っているのと同じほど確かである)」。ダーウィンが死ぬころまでに,「考え深い人々はほとんどすべて進化の事実を受け入れるようになっていた」。グールドは,進化を「確かな事実」また「変移の事実」と述べています。「進化はやはり自然界の事実である」。「進化はどんな科学上の事実にも劣らず十分に確立されている」。「進化の事実に対する我々の確信は,豊富なデータに基づいている」。また,「進化の事実に関する」生物学者たちの意見の一致について述べています。「これまで神学者たちは進化の事実に困惑したことはない」。「わたしは進化の事実について同じ確信を抱く科学者たちを何百人も知っている」というのです。
グールドはその記事のある箇所で,「『旗持ちの少年たちの周りに集まれ』と甲高い声で叫ぶ教条主義者のように取られたくはないが,生物学者たちは進化の事実に関して……意見の一致を見ている」と言いました。しかし実際のところそれは,「『旗持ちの少年たちの周りに集まれ』と甲高い声で叫ぶ教条主義者」のように聞こえないでしょうか。
分子生物学者のマイケル・デントンは,進化は事実だと主張するこの饒舌に言及し,「もちろん今ではそのような主張は全くのナンセンスである」と一蹴しました。それはナンセンスを通り越した不正行為です。人を欺き,事実を偽り伝える行為です。価値あるものから人を引き離そうとして真理を歪曲することです。新聞,ラジオ,テレビ,自然を扱ったシリーズもの,科学番組,2年生以上の学年の教科書 ― これらはみな,一般の人々の頭に,進化は事実だというこの連祷をたたき込みます。しかし最近,ニューヨーク・タイムズ紙の伝えるところによれば,米国カリフォルニア州の教育委員会は,進化を事実として教えることにあまり重きを置かないようにといった,理科の教科書のための指導要綱を出しました。―1989年11月10日。
それはイエスの時代の祭司長やパリサイ人が使った戦法と同じです。パリサイ人は,イエスを捕縛するために遣わした下役たちがイエスを捕縛せずに戻ってきたとき,こう詰問しました。「『あなた方はどうして彼を連れて来なかったのか』。下役たちは答えた,『あのように話した人はいまだかつてありません』。それに対してパリサイ人たちは答えた,『あなた方まで惑わされたわけではあるまい。支配者やパリサイ人で彼に信仰を持った者は一人もいないではないか。だが,律法を知らないこの群衆はのろわれた者たちなのだ』」。(ヨハネ 7:45-49)『要職にある人や教育のある人々はだれもイエスをメシアとして受け入れない。受け入れるのは愚かなのろわれた者たちだけだ』という言い方,これは権威をかさに着た横暴な行為です。
今日の進化論者もパリサイ人のような方法を用います。『我々と同じように信じればよいのだ。有能な科学者はみな進化を信じている。知識人もみな信じている。進化を信じないのは,教育のない,無知な者たちだけだ』と言います。大勢の人々は,そのような威嚇や精神的脅しによって進化論者の陣営に追い集められています。それらの人々は,進化論の弱点や不完全さ,根拠薄弱な推論,また無生の化学物質から生物が発生したという不可能なことが仮定されていることなどについて何も知りません。a そのため,進化論の布教師が繰り返し唱える呪文に乗せられます。その理論は教義となり,その布教師は尊大になり,反対者たちには軽べつ的な悪口が浴びせられます。その戦法は効を奏します。イエスの時代と同様,今日でも効を奏しています。
『進化は事実だ』という,この4語からなる宣伝文句は,短い(内容が少ない)単純な文章(言いやすい)で,一貫して繰り返されています(一つの短い随筆に12回)。それは人々を効果的に洗脳する宣伝の要素を備えており,繰り返して唱えればスローガンともなります。そして至る所で繰り返されるスローガンは,すぐに脳にプログラムされ,批判的調査や懐疑的吟味をほとんど受けずに人々の口をついて出て来ます。一つの理論がいったん一般社会の考え方の中でスローガンになると,もはやその理論の正しさを証明するものは要らなくなり,意見を異にする者は侮られます。もし意見を異にする人たちがそのスローガンの妥当性に対して道理にかなった反駁を加えるなら,人々は腹立たしく感じ,ただ一つ可能な反応を示します。つまり,あざけるのです。
『進化は事実だ』というデマ宣伝を得意とする進化論者たちは,ヒトラーの行動を真似ていることにもなります。というのは,ヒトラーはその著書の中で,自分が支配した大衆についてこう述べているからです。「精神が素朴で純真な大衆は,小さなうそよりも大きなうそを信じ込みやすい。大衆は自分でも小さなことにうそをつくことがあるが,とてつもなく大きなうそをつくほど厚かましくはないからである」。ある名言集には,「とびきり大きなうそを言い,それを頻繁に語れば,多くの人はそれを信じるだろう」という言葉が載っています。進化論者が語るのは明らかにとびきり大きなうそであり,確かに頻繁に語られています。というのは,幾百万もの人々がそれを信じているからです。
それはうそであり,不正行為とも言えます。なぜなら,それは「欺く,もしくは偽り伝える行為」,「価値あるものから人を引き離すために真理を意図的に歪曲すること」だからです。進化論者は,人間の先祖は何らかの微生物に始まって何らかのサルに終わる種々の動物であると教え,『神の真理を偽りと換える』ことをしてきました。彼らはそのうそにより,多くの人々を大きな価値のあるもの ― 自分たちの創造者である神に対する信仰 ― から引き離しています。―ローマ 1:25。
この種の不正行為は大きな害をもたらします。これにだまされる人たちは,創造者の律法から自由になったと考え,『正も邪もない。肉欲は何でも満たせ。人など気にせずに自分のしたいことをせよ。罪の意識など必要ない』と言って,自分勝手な行動をするようになります。道徳は崩壊し,抑制がきかなくなり,堕落の極みに達します。創造者と聖書の真の価値規準から離れると霊的に虚弱になり,「もともと捕らえられて滅ぼされるために生まれた理性のない動物のように」なってしまいます。―ペテロ第二 2:12。
[脚注]
a ものみの塔聖書冊子協会発行の「生命 ― どのようにして存在するようになったか 進化か,それとも創造か」という本の第4章をご覧ください。
[9ページの囲み記事]
「宣伝は,一つの基本的な原則に絶えず鋭い注意が向けられない限り,成功につながらない。それは短い言葉に集約されねばならず,その言葉は絶え間なく繰り返されねばならない。やはりここでも,この世界における他の非常に多くの物事と同様,成功するための第一条件,最重要の条件となるのは,一貫性である。……大衆は……最も単純な考えを何千回も繰り返し聞かなければ覚えない。変化を加えるとしても,宣伝によって伝えられている事柄の内容は決して改変してはならず,終わりにはいつも同じことを言わねばならない。こうしてスローガンには様々な角度から光を当てねばならないが,何らかの考えを述べる度にその終わりには必ず,再びスローガンを唱えなければならない」― アドルフ・ヒトラー著,「わが闘争」。
[10ページの囲み記事]
デマ宣伝
「進化の事実に関しては,広く意見の一致が見られている」―「科学の限界」,1933年。
「歴史的事実としての進化は,遅くとも19世紀の最後の数十年間に,筋の通った疑いを差し挟む余地のないまでに証明された」―「人間の自由の生物学的根拠」,1956年。
「生物進化はもはや学説ではなく,事実である」― ジュリアン・ハクスレー,1959年。
「地上における生物進化は確証された事実であるとする点で,著名な生物学者はみな一致している」―「あなたの生物学」,1963年。
「進化の裏づけとなる証拠を示される人は,それを歴史的事実として認めなければならない」― ニューオーリンズ「タイムズ・ピカユーン」紙,1964年。
「今日,進化論は,根本主義者の小集団を除くすべての人が受け入れている事実である」― ジェームズ・D・ワトソン,1965年。
「今では,進化は事実としての地歩を占めている」―「試練に立たされる科学」,1983年。
「我々には,進化を事実とする否定できない証拠がある」― アシュレー・モンタギュー,1984年。
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科学上の不正行為 最も重大な不正行為目ざめよ! 1990 | 1月22日
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科学上の不正行為 最も重大な不正行為
進化論者は,『進化は事実で,神は作り話だ』と言います。彼らはそのどちらの主張の正しさをも証明できませんが,偏見に証明は不要です。
私有地につき,立ち入り禁止。神よ,これはあなたへの通告です! 進化論者は生物学を立て札にして,神の立ち入りを禁止しています。『有能な科学者はみな進化を信じている』と,彼らは言います。要するに,『信じない科学者は無能である。我々の持っている専門知識がないのだ』と言うわけです。彼らの意見では,科学的な思考の中に神の占める場所はありません。それどころか,神の存在さえ証明できないのです。
言葉巧みに神を度外視するこのことこそ,彼らが犯している不正行為のうちでも最大の不正行為と言えます。
ロバート・オーグロス,ジョージ・スタンシウ共著の「新しい生物学」は,その188ページで,神を無視する著名な科学者たちの言葉を強調しています。「ダーウィンは生物学からきっぱりと神の必要を除き去ったと一般に考えられている。『生物発達史は,超自然の力や神の力を持ち出さなくとも,純粋に博物学的な用語で理解できる,ということを我々は[ダーウィンから]教えられた』と,エルドリッジは言う。ジュリアン・ハクスレーは,『ダーウィン主義は,生物の創造者としての神の概念全体を理性的な討議の場から排除した』と語った。ジャコブは,『各種生物は創造者によってそれぞれ別個に設計されたという考えは,ダーウィンによって覆された』と書いている。またシンプソンは最初の生物の起源についてこう述べている。『いずれにしても,奇跡を仮定すべき根拠は全くない。生殖と突然変異の新たな過程の始まりは唯物論的なものではなかったと考える必要もない』」。
『そうすると,地上の生物には創造者である設計者はいないということなのだろうか』と言う人に,進化論者たちは,『そのようなものは全く不要だ。それは偶然の積み重ねなのだ。盲目的な偶然が設計者である。我々はそれを自然選択と呼ぶ』と答えます。
しかし,わたしたちは学べば学ぶほど,多くの意図的な造りに気づきます。そこに投入されている理知や知恵はまさに驚くべきものです。目的や考えや知恵のない偶然の作用でできたにしては余りにもできすぎてはいないでしょうか。創造的な知恵を反映している,自然界の幾百幾千もの見事な造りの物 ― 人間の発明家たちがしばしば模倣してきた物 ― の中から幾つかの例を取り上げてみましょう。
鳥の翼の空気力学は,それより劣る飛行機の翼の設計より何千年も前のものです。オウムガイとコウイカは,どんな深さのところを泳ぐときでも,浮力を維持するための浮揚タンクを,近代的な潜水艇よりずっと効率よく用います。タコやイカはジェット推進の名人です。コウモリやイルカは音波探知の専門家です。数種の両生類や海鳥には体内に自動“脱塩装置”が備わっているので,海水を飲んでも平気です。ある種の微細なバクテリアは回転式発動機を持っていて,それによって前後に走ることができます。
シロアリは見事な設計の巣を造り,水を使って,自分たちの住まいの空気調節を行ないます。昆虫,微小な植物,魚,樹木などは,独自の“不凍液”を用いています。ある種のヘビ,蚊,ツカツクリ,ヤブツカツクリなどに内蔵されている温度計は,ごく微小な温度差を感知します。スズメバチやジガバチの類は紙を作ります。海綿,菌類,バクテリア,ツチボタル,昆虫,魚 ― これらはみな冷光を放ちます。多くの場合,色のある光です。渡り鳥には,頭の中に羅針儀や地図や生物時計などを備えた種類のものが少なくありません。ゲンゴロウやクモは潜水用具や潜水鐘を用います。a ―15ページの挿絵をご覧ください。
こうした造りや本能的な知恵を考え出すには,人間の理知をはるかに超えた理知が必要です。(箴言 30:24)しかし,最も驚異的な例は極微の世界に見られます。進化論者たちはこの極微の世界に,生命の単純な始まり,人間を含む,明らかに複雑な造りのものがあらゆる場所に存在するに至る進化の過程の始まりを見ることを期待しました。単純な始まり? とんでもありません。最も小さな細胞の優れた造りを反映するその複雑さを考えてみてください。
「新しい生物学」の30ページにはこう書かれています。「普通の細胞は,毎秒何百という化学反応を起こし,およそ20分ごとに増殖する。しかも,これらがすべて非常に小さな規模で起きる。バクテリアは500余りでも,文章の終わりにある1個のピリオドが占めている面積の中に収まるだろう。[生物学者フランソワ・]ジャコブはバクテリアの細胞の微小な実験室に驚いている。その細胞は『考え得る最も小さなスペースの中で,比類のない技術をもっておよそ2,000の明確な反応を起こす。それら2,000の反応は全速力で発散また収束し,しかも混乱することはない』」。
L・L・ラリソン・カドモア著,「生命の中枢 ― 細胞の自然な成長」の13,14ページにはこう述べられています。「一つの細胞が単独で武器を造り,食物を捕らえ,それを消化し,老廃物を排せつし,動き回り,家を建て,直接的な方法にしろ奇妙な方法にしろ性行為を営むことができた。このような生き物が今なお周辺に存在している。この原生生物は,完全で欠けたところのない生き物だが単細胞であり,多くの能力を有してはいるが,組織も,器官も,心臓も,脳髄もない。それでも我々が持っているものはすべて持っている」。
リチャード・ドーキンズ著,「盲目の時計屋」の116ページには,一つの細胞内に収められている情報の量についてこう書かれています。「ユリの種やサンショウウオの精子1個のDNAには,ブリタニカ百科事典の60倍余りの情報が収まるほどの記憶容量がある。“原始的”という不適切な呼び方をされているアメーバ類の中には,そのDNAにブリタニカ百科事典の1,000倍の情報を有しているものがある」。
分子生物学者のマイケル・デントンは,「進化論: 危機にひんする理論」という本の250ページにこう書いています。「分子生物学は,今日地上に存在するあらゆる生物体のうち最も単純なもの,すなわちバクテリアの細胞でさえ,きわめて複雑なものであることを示してきた。最小のバクテリアの細胞は驚くほど小さく,重さは[1㌘の1兆分の1]足らずだが,その細胞一つ一つは事実上,まさに超小型の工場をなしている。その工場には,複雑ながら絶妙に設計された,分子の機械類が幾千台も備わっている。それらの機械は,全部合わせると1,000億個もの原子でできており,人間が組み立てるどんな機械装置よりはるかに複雑で,これに匹敵するものは非生物界には一つもない。
「分子生物学は,細胞体の基本的な造りが,バクテリアから哺乳類に至る地上のあらゆる生物体において本質的に同一であることをも示してきた。DNA,伝令RNA,およびタンパク質のそれぞれの役割は,あらゆる生物において同じである。遺伝暗号の意味するところもあらゆる細胞において実質的に同じである。タンパク質合成装置の大きさや構造などはあらゆる細胞においてほとんど同じである。それゆえ,これらの基本的な生化学的仕組みからすれば,どの生物体も他のいずれかの生物体より原始的であるとか,その祖先であるとか考えることはできず,地上の極めて多様な細胞すべてに進化論的な順序を示唆するような事実は何一つない」。
ジョージ・グリーンスタインは,地球の構造にかかわるこうした理知を認めています。同氏は自著「共生関係にある宇宙」の中で,時を同じくして生じた一連の神秘的で驚くべき,説明し難い出来事,同時に生じていなければ地上の生物は存在し得ないような出来事について語っています。その21ページから28ページにわたる次の言葉には,理知と目的を持つ神を度外視しては説明のつかない状況に関する苦悩が表われています。
「我々は,一つのなぞに直面していると私は考える。大きくて難解ななぞ,非常に重大な意味を持つなぞである。それはこの宇宙の居住適性,この環境の合目的性に関するなぞである」。同氏は,「生物出現の道を整えた,とてもありそうもない大きな偶発的出来事の続発としか思えないような事柄を詳しく述べ(て)」ゆきます。b 「同時に生じた事柄で,どれもみな我々人間の存在に必要不可欠なものとなる事柄のリストがある」。しかも「そのリストは長くなっていった。……同時に生じた事柄は非常に多い。それを読んでゆけばゆくほど,そのような“同時発生”が偶然に起きたとはまず考えられないという確信が強まった」。同氏が次に認めているとおり,進化論者が直面する一つの驚くべき事実があります。
「しかし,この確信が増すにつれ,別の何かも強まった。今でもこの“何か”を言葉で言い表わすことは難しい。それは激しい嫌悪感であった。そして時にはそれは肉体に影響を及ぼすほどの性質のものであった。不快な気持ちに身もだえしたものだ。宇宙が生物の生存に適していることは解明を必要とするなぞかもしれないと考えること自体,私には滑稽でばかげたことに思えた。嫌悪感で顔をゆがめずにその見解を考えてみることは難しい。……この反応は年がたつにつれて薄らぐということもなかった。この本を書いている間も絶えずそれと闘わねばならない。ほかの科学者たちの内部でも同じ反応が生じているに違いない。そして今その見解に対する無関心な態度が見られるのもそれが理由に違いないと思う。そればかりではない。無関心に見えるその態度は実は強い反感を覆い隠すものなのだ,と私は考えている」。
何に対する反感なのでしょうか。それは,目的を持つ創造者を認めれば説明がつくかもしれないという考えに対する反感です。グリーンスタインはそれをこう言い表わしています。「すべての証拠を調べると,何らかの超自然の力 ― というよりもむしろ力を持つ者 ― が関係しているに違いないという考えが執ようにわいてくる。我々は突然に,意図せずに,至上者の存在を示す科学的証拠を発見するということがあり得るだろうか。事態に介入し,先見の明をもってこの宇宙を我々の益になるよう設計したのは神だったのか」。しかし,グリーンスタインはそのような異端的な考えから元の考えに戻り,「神を持ち出しても説明にはならない」という,自分たちが信仰する教義の一つを唱えて,進化論という宗教に対する自分の正統派信仰を再度言明しています。
天体物理学者のフレッド・ホイルはその著書「知的な宇宙」の9ページで,グリーンスタインのような,神の立ち入りを恐れる人たちについて,「正統派の科学者たちは,真理の解明を期待するよりも,宗教が行き過ぎていた過去への逆戻りを防ぐことに関心を抱いており,[この関心が]前世紀から科学者の考えを支配してきた」と述べています。
次いでホイルは同書の中で,グリーンスタインを悩ませているそのなぞめいたものを取り上げています。ホイルはこう言います。「そのような特性が,愉快な出来事の糸のように自然界の構造全体に織り込まれているように思える。しかし,生物の存在にはそれら奇妙な偶然が非常に多く起きなければならないのだから,その原因となるものについて何らかの説明が必要のように思われる」。ホイルもグリーンスタインも,それら多くの「偶発的に同時に生じた事柄」を単に偶然として片づけることはできないと言います。そこでホイルは,それらの出来事の原因として,『宇宙が存在するようになるには理知の働きが必要である』,それも『より高等な理知』,『我々の理知に先行する理知,生物の生存に適した構造を意図した創造活動へと導いた理知』であると言います。
こう述べているからといって,ホイルが聖書の神のことを考えていると解すべきではありませんが,確かに彼は,宇宙と地球とその上の生物の存在の背後には計り知れない超自然の理知が存在するに違いないと見ています。そして,「『神』という言葉は,科学の分野では禁句になっている」と述べてはいますが,「我々人間よりも優れた理知を神と定義」できるかもしれないことを認めています。また,「前もってプログラムされた我々自身の知性を通して上から……この地上の人間にまで及んでいる理知の連鎖」があるのかもしれないという推測も行なっています。
ホイルはこう述べています。「それを示唆する事柄は非常に多い。心が落ち着かないのもその一つである。それは,人間には行なうべき重要なことがあるということを本能的に直観するのに似ている。その落ち着かない気持ちは,我々がそのものの本質を正確に突き止めることができずにいるがゆえに生じるのだ」。ほかの箇所ではこう述べています。「宗教的な衝動は人間に特有のもののようだ。……宗教を取り巻く数多くの伝統的な虚飾を捨て去ると,我々の心に残る教えは,簡単に言えば次のようなことになるのではなかろうか。つまり,あなたは空の“向こう”にある何ものかから出ているのだ。それを探し求めよ。そうすれば,予想以上に多くのことを見いだすだろう,ということである」。
人間は模索しています。人がそれと気づかずに模索しているのは,人間は神の像と様に似せて造られているという聖書の真理です。それは知恵,愛,力,公正,目的,人と動物の間の大きな隔たりとなっている様々な他の特質など,神の属性をある程度付与されているという意味です。わたしたちの知性は,神のそのような属性を反映できるよう,また神に対する真の崇拝を行なえるよう前もってプログラムされています。もしこれらの属性が正しい釣り合いを保っていないなら,また祈りや真の崇拝によって神との結びつきができていないなら,落ち着かない気持ちは残るでしょう。わたしたちは霊的な必要を自覚する者として造られていますが,その霊的な必要が満たされるとき,落ち着かない気持ちは消えて「一切の考えに勝る神の平和」が得られます。―フィリピ 4:7。創世記 1:26-28。
使徒 17章27節と28節は,そういう模索を勧めています。すなわち,「人々が神を求めるためであり,それは,彼らが神を模索してほんとうに見いだすならばのことですが,実際のところ神は,わたしたちひとりひとりから遠く離れておられるわけではありません。わたしたちは神によって命を持ち,動き,存在しているから(です)」。わたしたちが生き,動き,存在しているのは,地球とその上に住む人間を含むこの宇宙の創造者であられる神によります。わたしたちは正統派宗教 ― この宗教のために多くの科学者を含め幾百万という人々が神に背を向けてしまった ― の虚飾や偽りの教理を捨て去って,エホバ神に対する真の崇拝を行なうことにより,地球を創造する際にエホバが最初から意図しておられた,楽園の地での永遠の命を得ることができます。―創世記 2:15。イザヤ 45:18。ルカ 23:43。ヨハネ 17:3。
これほどの理知が,目的も知恵もない偶然の中に存在すると考えるには,ただもう盲信する以外にはありません。それは預言者イザヤの時代の異教の宗教家たちの信仰と似ています。こう述べられています。「しかしあなた方は,エホバを捨てる者,わたしの聖なる山を忘れる者,幸運の神のために食卓を整える者,また,運命の神のために,混ぜ合わせたぶどう酒を一杯に満たす者である」。(イザヤ 65:11)進化論者たちは,岩から人間を生み出す無数の“幸運な”偶然に頼っていますが,いまだに自分たちの進化論の梯子の最初の横木に足を掛けることもできない状態です。彼らの「幸運の神」は折れた葦のようなものです。
フレッド・ホイルはこうしたことの中に不吉なものを感じています。「私につきまとって離れないもう一つのものは,人類のための機会の扉がやがては非常に狭くなるという自覚である。その扉を開けるには高度な科学技術が必要だが,地球外の世界と我々人類の間に一つの関係を確立しないならば,高度な科学技術だけでは自滅への道となるかもしれない。もしこの本の中で折に触れて述べた,ダーウィン説に対する私の反対論が手厳しいと思えるとしたら,それはその学説によって方向づけられた一つの社会が自滅への道をたどりそうに私が感じているからである」。
「鏡の国のアリス」という物語の中で,白の女王の奇妙な論理を信じられなかったアリスは,笑うことしかできませんでした。彼女はこう言いました。「しても無駄よ。ありそうもないことは信じられないわ」。それに対して女王はこう言いました。「練習が足りないのです。私があなたぐらいの年のころには,1日に30分間練習したものです。日によっては朝食前に,ありそうもないことを六つも信じたことだってあるのです」。
進化論者は白の女王の現代版です。ありそうもないことを信じるのに,限りない練習を重ねてきたのです。
[脚注]
a ものみの塔聖書冊子協会発行の「生命 ― どのようにして存在するようになったか 進化か,それとも創造か」という本の12章をご覧ください。
b 星と星の間の距離; 炭素を形成する,原子と原子内粒子の共鳴; 電子と陽子の対等かつ反対の電荷; 水の特異性と変則性; 太陽光線の周波数と光合成に必要な吸収周波数; 太陽と地球の隔たり; 過不足のない三次元の空間; その他。
[12ページの拡大文]
こうした意図的な造りや本能的な知恵を生み出すには理知が要る
[13ページの拡大文]
一つのバクテリアの細胞には,1,000億の原子がある
[14ページの拡大文]
『宇宙が存在するようになるには理知の働きが必要』
[15ページの図版]
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