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  • 事故 ― 運命か,それとも状況が原因か
    ものみの塔 1991 | 10月15日
    • 事故 ― 運命か,それとも状況が原因か

      サンパウロのにぎやかなノーベデジューリョ通りを横切ろうとしていた若くて魅力的なファッションモデル,クリスティーナの目には,近づいてきたバスが見えませんでした。バスの運転手は必死にブレーキをかけましたが,間に合いません。クリスティーナはバスにひかれて死にました。

      この悲惨な事故は,ブラジルの新聞「オー・エスタド・デ・サンパウロ」(1990年7月29日付)の第一面に掲載されました。しかし,彼女はブラジルで毎年5万人を数える交通事故死者の一人にすぎません。また,交通事故によって障害者になる人がさらに幾万人もいる反面,事故に遭っても無傷の人もいます。では,なぜこの若い女性は助からなかったのでしょうか。その日に死ぬ運命にあったのでしょうか。

      その通りだと言う人は数えきれないほど大勢いることでしょう。そういう人たちは運命を信じています。つまり人の誕生の時刻をはじめ,大きな出来事は前もって定められているというわけです。このような信条から,「運命には勝てない」とか,「お迎えが来た」とか,「なるようにしかならない」などという表現が生まれました。よく耳にするそうした言葉は真実なのでしょうか。わたしたちは運命にもてあそばれるしかないのでしょうか。

      運命論,つまり出来事はすべて前もって定められているとする概念は,古代ギリシャ人やローマ人の間に浸透していました。今日でさえ,この考えは多くの宗教に根強く残っています。例えば,イスラム教は「アラーの許しなしに,また定められた時以外に死ねる者は一人もいない」というコーランの教えを保持しています。運命を信じることはキリスト教世界にも普通に見られ,ジャン・カルバンが教えた予定説によって育まれてきました。そのため僧職者たちは普通,悲しむ親族に向かって,事故は“神のみ心”だったと語ります。

      しかし,事故は運命の所産であるというこの見方は,常識や経験や論理に反します。一つには,自動車事故の場合,徹底的に調べると至極もっともな原因が明らかになるのが普通で,神が介入された結果とはとうてい言えないからです。さらに統計を見れば明らかに分かるとおり,シートベルトを着用するなど,適切な予防措置を取れば,死亡事故の起こる確率は大幅に低下します。何らかの安全のための予防措置によって,前もって定められている神のご意志を本当に妨げることができるでしょうか。

      また,運命を信じる人はその信仰から不利な影響を受けます。運命論は,速度制限や交通標識を無視するとか,飲酒運転や麻薬の影響を受けて運転するなど,無鉄砲な行為を助長するのではないでしょうか。もっとひどい場合,運命論を信じる人は,事故が自分に降りかかると神を責めるようになることがあります。そのような人たちは怒りを感じ,当惑して,神は無関心であると信じ込み,信仰を失うことすらあるかもしれません。「人生における最も苦い悲劇的な要素は,盲目的な運命や宿命を信じることである」という,詩人エマソンの言葉はまさに至言です。

      では,聖書は災難や事故についてどんなことを述べていますか。そうした出来事を運命の仕業であると本当に教えていますか。さらに,わたしたちが救われる見通しについては何と述べているでしょうか。このことに関してわたしたちに選択の余地はあるのでしょうか。

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      「人生における最も苦い悲劇的な要素は,盲目的な運命や宿命を信じることである」。 ラルフ・ウォルドー・エマソン

  • あなたの将来は運命によって定められていますか
    ものみの塔 1991 | 10月15日
    • あなたの将来は運命によって定められていますか

      致命的な事故に遭わずにすんだ場合,あなたは運が良かったと感じますか。それとも,ただたまたまその時に安全な場所にいたことをうれしく思いますか。

      賢人ソロモンはこう述べました。「わたしは日の下で引き返して見たのであるが,速い者が競走を,あるいは力のある者が戦いを自分のものにするわけではない。また賢い者が食物を得るのでも,理解のある者が富を得るのでもなく,知識のある者たちが恵みを得るのでもない。なぜなら,時と予見しえない出来事とは彼らすべてに臨むからである」。(伝道の書 9:11)予期せぬ事は何と頻繁に起きるのでしょう。本命の選手がけがをし,勝ち目の薄い選手が勝ちます。突然の事故のために正直なビジネスマンは経済的な破たんを経験し,いかがわしいことを行なっているライバルのほうが金持ちになります。しかし,ソロモンはこうした例外的な出来事を運命のせいにしましたか。決してそのようには見ませんでした。そういう出来事は「時と予見しえない出来事」の影響にすぎないのです。

      イエス・キリストも同様の見方をされました。イエスは聴衆がよく知っていたと思われる出来事に言及し,こうお尋ねになりました。「シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人のことですが,これは彼らがエルサレムに住むほかのすべての人より負い目のある者だったしるしだとでも思いますか」。(ルカ 13:4)イエスはこれらの人々の死を,何か神秘的な運命や神のご意志のせいにはされませんでしたし,犠牲者たちには他の者たちよりもいくらか責めるべきところがあったなどとは考えておられませんでした。この悲惨な事故の場合も,時と予見しえない出来事が起きたことを示す一つの例にすぎません。

      聖書の中には,わたしたちの死ぬ時を神が前もって定めておられるという考えを支持するような箇所はどこにもありません。確かに伝道の書 3章1節と2節には,「何事にも定められた時がある。天の下のすべての事には時がある。誕生のための時があり,死ぬのに時がある。植えるのに時があり,植えられたものを根こぎにするのに時がある」と述べられています。しかしソロモンは,不完全な人間を苦しめる生と死の途切れることのないサイクルについて論じていたにすぎません。人は世に生まれ出て,時が来て平均寿命 ― 普通は70年から80年ぐらい ― に達します。そして死にます。それでも,農夫が『植え』たり『植えられたものを根こぎにし』たりするための正確な時を定めないのと同じように,神も死の正確な時を前もって定めたりはされません。

      実際,その後ソロモンは,人が早死にすることがあることに言及してこう述べました。「邪悪に過ぎる者であってはならない。また,愚かな者となるな。自分の時でもないのに,どうして死んでよいであろうか」。(伝道の書 7:17)もしも人の死ぬ時が前もって定められているとすれば,この諭しはどんな意味をなすというのでしょう。このように,聖書は運命という観念を否定しています。背教したイスラエル人はこの異教の概念を取り入れ,神から厳しい有罪宣告を受けました。イザヤ 65章11節には,「あなた方は,エホバを捨てる者,わたしの聖なる山を忘れる者,幸運の神のために食卓を整える者,また,運命の神のために,混ぜ合わせたぶどう酒を一杯に満たす者である」と述べられています。

      ですから,事故や災難を運命のせいにしたり,さらに悪いことに,神ご自身のせいにしたりするのは非常に愚かなことです。聖書は,『神は愛です』と述べていますから,人間を窮状に陥れた張本人として神を非難すれば,この基本的な真理に真っ向から反することになります。―ヨハネ第一 4:8。

      将来に関する神の目的

      しかし,わたしたちが救われる見通しについてはどうでしょうか。生活を支配する必然的な運命が存在しないということは,一生をあてもなくふらふらと暮らさなければならないという意味ですか。決してそうではありません。神は人類全体の将来を定めておられるからです。聖書は,『義の宿る新しい地』が創造されることについて述べています。―ペテロ第二 3:13。

      神はそれを成し遂げるために,人間の物事に直接介入されます。「あなたの王国が来ますように。あなたのご意志が天におけると同じように,地上においてもなされますように」という祈りを復唱することによって,あなたは気づかずに,それが起きることを祈ってこられたかもしれません。(マタイ 6:10)この王国とは天に設立された実在の政府のことです。王国が来るよう祈ることによって,あなたはその王国が現在の諸政府に代わって地を支配するよう祈っていることになります。―ダニエル 2:44。

      自分自身の将来を確かなものにする

      こうした劇的な出来事があなたの将来に及ぼす影響は,運命はおろか,時と予見しえない出来事にさえ依存しておらず,むしろあなたが選ぶ生き方に依存しています。シロアムの塔の惨事のことを思い起こしてください。イエスは一つの意味深い教訓を教えるためにその悲しい出来事を引き合いに出されました。塔の倒壊の犠牲者たちは自分の身に降りかかったものから逃れることができませんでした。それとは対照的に,イエスの話を聞いていた人たちは,神の不興の結果として臨む破滅を避けることができました。イエスは,「あなた方が悔い改めないなら,みな同じように滅ぼされるのです」と彼らに警告をお与えになりました。(ルカ 13:4,5)明らかに,彼らは自分自身の将来を選ぶことができたのです。

      今日のわたしたちにも同様の機会,つまり自分の救いを達成する機会が差し伸べられています。(フィリピ 2:12)神は,「あらゆる人が……真理の正確な知識に至ること」を望んでおられます。(テモテ第一 2:4)わたしたちはだれでも遺伝的性格や経歴の影響をある程度受けているとはいえ,神はわたしたちに自由意志,すなわち自分の命をどのように用いるかを決定する能力を与えてくださいました。(マタイ 7:13,14)わたしたちは正しいことも間違ったことも行なうことができます。エホバ神に喜ばれる立場を得て,命を得ることもできれば,神に逆らって死ぬこともできます。

      神に頼らずに生きることを選ぶ人は少なくありません。そうした人々は物質や快楽や名声を追求するために自分たちの命をささげます。しかしイエスは,「じっと見張っていて,あらゆる強欲に警戒しなさい。満ちあふれるほどに豊かであっても,人の命はその所有している物からは生じないからです」と警告なさいました。(ルカ 12:15)では,わたしたちの命は何に依存しているのですか。聖書はヨハネ第一 2章15節から17節の中でこう説明しています。「世も世にあるものをも愛していてはなりません。……すべて世にあるもの ― 肉の欲望と目の欲望,そして自分の資力を見せびらかすこと ― は父から出るのではなく,世から出るからです。さらに,世は過ぎ去りつつあり,その欲望も同じです。しかし,神のご意志を行なう者は永久にとどまります」。

      命を選ぶ

      どうすれば自分が神のご意志を本当に行なっていることを確信できるでしょうか。イエスはこう断言されました。「彼らが,唯一まことの神であるあなたと,あなたがお遣わしになったイエス・キリストについての知識を取り入れること,これが永遠の命を意味しています」。(ヨハネ 17:3)聖書の正確な知識によって信仰の土台を据えることができます。「信仰がなければ,神を十分に喜ばせることはできません。神に近づく者は,神がおられること,また,ご自分を切に求める者に報いてくださることを信じなければならないからです」。(ヘブライ 11:6)あなたが身につける必要のある知識はすぐに得ることができます。エホバの証人は定期的な聖書研究によってそのような知識を得るよう幾百万人もの人々を援助してきました。a

      神に喜ばれる者となるには,幾らかの変化を遂げなければならないでしょう。何かの悪い習慣があればそれを克服し,不道徳な行ないをしていればそれをやめなければなりません。しかし,変化するのは無理だと思ってあきらめないでください。物事を変えることができないという考えも,運命論という偽りの教義の延長にすぎないのです。エホバからの助けがあれば,だれでも『思いを作り直し』,「新しい人格」を身につけることは可能です。(ローマ 12:2。エフェソス 4:22-24)神に喜ばれる者となる努力が神の目に留まらないことはありません。神はご自分の意志を行なう者たちを喜んで祝福してくださいます。

      もちろん,聖書を学んだからといってあなたが抱えている問題がすべて解決するわけではありません。神の真の僕も他の人々と同じように,事故や逆境に遭遇します。しかし,神は逆境に対処するための知恵をわたしたちに与えることができます。(ヤコブ 1:5)さらに,神との良い関係を持っているという自覚から来る喜びがあります。「エホバに依り頼んでいる者は幸いである」と箴言 16章20節は述べています。

      神の王国のもとで回復されるパラダイスでは,時と予見しえない出来事に脅かされることはもはやありません。実に神は,人の幸福を現在台なしにしているものすべてを取り除かれます。「神は[わたしたちの]目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死はなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない」と聖書は約束しています。(啓示 21:4)無数の事故の犠牲者は復活を経験します。―ヨハネ 5:28,29。

      あなたはこの壮麗な将来を相続するでしょうか。イスラエル人が約束の地にまさに入ろうとしていたとき,モーセは彼らにこう語りました。「わたしは……あなたの前に命と死,祝福と呪いを置いた。あなたは命を選び,あなたもあなたの子孫も共に生きつづけるようにしなければならない。すなわち,あなたの神エホバを愛し,その声に聴き従い,これに堅く付くのである。神はあなたの命,あなたの長い日々なのであ(る)」― 申命記 30:19,20。

      わたしたちは決して無情な運命にもてあそばれる無力な存在ではないのです。あなたの将来の幸福,それどころかあなたのとこしえの将来は,あなた自身の決定にまかされているのです。わたしたちは,あなたが命をお選びになることを強くお勧めします。

      [脚注]

      a 本誌の発行者に手紙でお知らせいただければ,そのような研究を取り決めることができます。

      [5ページの拡大文]

      背教したイスラエル人は運命という異教の概念を取り入れ,神から厳しい有罪宣告を受けた

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