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フィンランド1990 エホバの証人の年鑑
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最初のパンフレットと大会
当初から,ハルテバ兄弟は印刷物の価値に着目しました。最初に編集されたパンフレットの名称は,「サールノハ・カンサッレ」(一般人の説教壇)でした。翌年その名称は「プヘイナ・カンサッレ」(人々に対する話)と改められました。それらのパンフレットには,英文の「ものみの塔」誌にある記事や,フィンランド語に訳されたラッセル兄弟の講演の写しが載っていました。また,集会や入手可能な出版物の広告も含まれていました。
1912年1月に,「プヘイナ・カンサッレ」はこのように伝えました。「『世々に渉る神の経綸』がフィンランド語で出版された時,聖書文書頒布者<コルポーター>の手を通し,また新聞記事や書籍販売者を通じて,その配布は初めて非常に多くの数に達しました。しかし,1910年のクリスマスの直後に,大きな変化が生じました。当初は熱意が見られたものの,その後,何もかも行き詰まるほどの強力な反対が起きたのです。幸いなことに,この状態は6か月と続きませんでした。新聞や書籍販売者による援助が途絶えたかに思えたとき,神は収穫の業にさらに多くの働き人を招いてくださいました」。続く報告によると,ヘルシンキではフィンランド語を話す約30人の兄弟とスウェーデン語を話す約10人の兄弟が,神の言葉を学ぶために週に二,三度定期的な集まりを開いていました。
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フィンランド1990 エホバの証人の年鑑
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[147ページの図版]
ヘルシンキに開設された最初の支部事務所。フィンランド語で発行された初期の出版物,「サールノハ・カンサッレ」
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