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失敗もありましたが,エホバの力を実感してきましたものみの塔(研究用)2024 | 4月
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フィンランドで育つ
私は1955年に3人兄弟の末っ子として生まれました。今はバンターと呼ばれているフィンランド南部の海辺の都市で育ちました。
母は,私が生まれる数年前にバプテスマを受けてエホバの証人になりました。父はそのことを快く思っていなかったので,母が子供たちに聖書を教えることや集会に連れていくことを許しませんでした。それで私たち子供は,父がいない時に聖書について母から教えてもらいました。
7歳の時にはエホバに従うことを決意していた。
私は子供の頃からずっとエホバに従ってきました。こんなこともありました。7歳の時,ベリオフカイネンというフィンランド料理(血の入ったパンケーキ)を食べなかったので,学校の先生からとても怒られました。先生は私の顔をつかみ,パンケーキの刺さったフォークを無理やり口に入れようとしました。私はなんとかフォークを払いのけました。
12歳の時,父が亡くなり,集会に行けるようになりました。兄弟たちが優しく気遣ってくれたので,エホバともっと親しくなりたいと思いました。毎日聖書を読み,エホバの証人の出版物を真剣に学び始めました。このような良い習慣のおかげで,1969年8月8日,14歳の時にバプテスマを受けることができました。
学校を卒業してすぐに正規開拓奉仕を始めました。そして数週間後,伝道者がさらに必要なピエラベシに移動しました。フィンランドの中央近くにある町です。
ピエラベシで,後に妻となるシルッカと出会いました。彼女は謙虚でエホバを深く愛していました。また,目立った立場や安定した暮らしを追い求めるような人ではありませんでした。そういうところにとても魅力を感じました。2人ともエホバのためにできる限りのことをしたいと思っていたので,どんな奉仕もするつもりでした。私たちは1974年3月23日に結婚しました。新婚旅行へ行く代わりに,伝道者がかなり必要とされていたカルットゥラという場所に引っ越しました。
フィンランドのカルットゥラで借りていた家。
エホバからの助け
兄が譲ってくれた車。
エホバは,王国を第一にすれば必要なものを必ず与えるという約束を私たちが結婚した当初から果たしてくださいました。(マタ 6:33)カルットゥラに来た時,私たちには車がなくて自転車で移動していました。冬の気温は氷点下まで下がり,伝道する区域も広かったので車が必要でした。でも,買うお金はありませんでした。
ある日,兄がやって来て,車を譲ると言ってくれました。保険料もすでに支払われていたので,後は燃料を入れるだけでした。こうして,思いがけず車が与えられました。
エホバご自身が支えてくださったので,私たちは生活に必要なものについて心配せずに済みました。私たちにとってやるべきことは,ただ王国を第一にすることでした。
ギレアデ学校
1978年,開拓奉仕学校のクラスメートと。
1978年,開拓奉仕学校に出席していた時に,私たちを教えてくれたライモ・クオカネン兄弟がギレアデ学校に申し込むよう勧めてくれました。a それで,入校する資格を満たすために英語を学び始めました。1980年,まだギレアデに申し込むことができなかった時に,フィンランドの支部事務所に招待されました。当時,ベテル奉仕者はギレアデに申し込むことができませんでした。でも私たちは,自分たちではなくエホバが一番良いと思う所で奉仕したいと思っていたので,支部事務所の招待を受け入れることにしました。とはいえ,ギレアデに申し込むチャンスがいつか来るかもしれないと思い,英語の勉強はやめませんでした。
数年後,統治体の決定によってベテル奉仕者もギレアデに申し込めるようになりました。私たちはすぐに申込書を出しました。といっても,ベテルが嫌だったからではありません。ベテルでの奉仕はとても楽しかったです。でも,エホバが遣わしたいと思う所であれば,どこにでも行きたいと思っていました。私たちはギレアデに招待され,1985年9月に79期のクラスを卒業しました。コロンビアで奉仕することになりました。
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