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  • 神への信仰 ― 奇跡を見なければ持てませんか
    ものみの塔 1997 | 3月15日
    • 神への信仰 ― 奇跡を見なければ持てませんか

      アルバートが神を探求しはじめたのは,20代初めのことでした。いろいろな宗教に当たってみましたが,依然として満足は得られませんでした。聖書を部分的に読んで,神がノア,アブラハム,サラ,モーセといった人物をどのように扱われたかを知りました。アルバートは聖書の神に引き付けられていました。しかし,神が実在することを確信できるのでしょうか。

      ある晩,アルバートは辺ぴな場所まで車を走らせ,「神様,どうかしるしをお与えください。あなたの存在を証明するものであれば,何でも構いません」と祈りました。アルバートは,ひたすら待ち続けました。当人の述懐によれば,何も起きなかったとき,自分の期待は「失望,むなしさ,怒りに変わった」ということです。

      アルバートのように,神を探求したのに成功しなかったと思っている人は少なくありません。それらの人は,僧職者の説教を聞いて混乱したり,テレビ伝道師の利潤追求の精神に幻滅したりしているのかもしれません。隣人の間に偽善が少なからず見られることにあきれて,何を信じたらよいのか分からない人たちもいます。しかし,古代イスラエルのダビデ王は息子ソロモンに対し,「もしあなたが神を求めるなら,[神は]ご自分をあなたに見いだされるようにされる」と保証しました。―歴代第一 28:9。

      では,神はどのようにご自分のことを啓示されるのでしょうか。しるし,つまり神の存在の証明となる,何らかの超自然的な体験ができるものと期待すべきでしょうか。タイム誌に掲載された最近の世論調査の結果によれば,アメリカ人の3分の2余りは奇跡を信じています。その記事はまた,「アメリカで特に急成長を遂げている教会はカリスマ派やペンテコステ派の会衆であり,その崇拝の軸になっているのは『しるしや不思議』である」ことに触れています。

      神を信じるには,「しるしや不思議」が本当に必要なのでしょうか。神は過去に奇跡を用いられました。例えば,神のみ子イエス・キリストの追随者たちを迫害していたタルソスのサウロは,エルサレムからダマスカスに向かう道中に驚くべき体験をしました。復活したイエスとのこの奇跡的な出会いは,サウロが改宗するきっかけになりました。(使徒 9:1-22)こうして元迫害者は,使徒パウロ,先頭に立ってキリスト教を擁護した人の一人になったのです。

      しかし,奇跡は必ずそうした好意的な反応を呼び起こすのでしょうか。神への純粋の信仰は,何らかの奇跡的な体験に依存しているのでしょうか。

  • 奇跡だけでは信仰が築かれないのはなぜか
    ものみの塔 1997 | 3月15日
    • 奇跡だけでは信仰が築かれないのはなぜか

      百聞は一見にしかず。多くの人は,そのように考えます。中には,神が何らかの奇跡的な方法でご自身のことを啓示されるなら自分も神を信じるだろうと言う人もいます。そうかもしれません。しかし,そのような考え方は,純粋の信仰につながるでしょうか。

      イスラエル人のコラ,ダタン,アビラムについて考えてください。聖書は彼らが,神による畏怖の念を抱かせる奇跡の目撃証人であったことを示しています。彼らは,エジプトに十の災厄が臨んだこと,イスラエル国民が紅海を渡って逃れたこと,エジプトのファラオとその軍勢が全滅したことを目撃しました。(出エジプト記 7:19–11:10; 12:29-32。詩編 136:15)コラ,ダタン,アビラムはまた,シナイ山でエホバが天から話されるのを聞きました。(申命記 4:11,12)それでも,こうした奇跡が起きて間もなく,これら3人の男子は,エホバとその任命された僕たちに対する反逆を唆しました。―民数記 16:1-35。詩編 106:16-18。

      それから約40年後,バラムという名の預言者も奇跡を目撃しました。み使いによる介入さえ,神の敵モアブ人に味方するのをバラムに思いとどまらせるものとはなりませんでした。そうした奇跡にもかかわらず,バラムは何のためらいもなくエホバ神とその民に敵対する立場を取りました。(民数記 22:1-35。ペテロ第二 2:15,16)しかしバラムのこうした信仰の不足も,ユダ・イスカリオテの場合と比べると,むしろ罪の軽いものに見えます。ユダはイエスと行動を共にし,数々の驚くべき奇跡の目撃証人となったにもかかわらず,銀30枚でキリストを裏切ったのです。―マタイ 26:14-16,47-50; 27:3-5。

      ユダヤ人の宗教指導者たちも,イエスが多くの奇跡を行なうことを知っていました。イエスがラザロを復活させると,彼らは「この人が多くのしるしを行なう」と認めることさえしました。しかし,いまや生きているラザロの姿を見て心を和らげ,信仰を持ったでしょうか。とんでもありません。むしろ,イエスもラザロも殺そうと謀りました。―ヨハネ 11:47-53; 12:10。

      神による直接の介入でさえ,これら邪悪な者たちのうちに信仰を生じさせることはありませんでした。イエスは,神殿境内におられたある時,「父よ,み名の栄光をお示しください」と声を出して祈られました。エホバは天からの声で,「わたしはすでにその栄光を示し,さらにまたその栄光を示す」とお答えになりました。ところが,この奇跡的な出来事は,その場に居合わせた人々の心の中に信仰を生じさせませんでした。「彼らの前で非常に多くのしるしを行なってこられたのに,彼らがイエスに信仰を持たなかった」と,聖書にあります。―ヨハネ 12:28-30,37。エフェソス 3:17と比較してください。

      奇跡が信仰を築かなかったのはなぜか

      数々の奇跡を見ながら,それほどまでに信仰が不足していたのはどういうわけでしょうか。イエスが宣教を開始された当時,ユダヤ人が全体として「キリスト」,すなわちメシアを「待ち設けて」いたことからすると,ユダヤ人の宗教指導者たちがイエスを退けたことは特に不可解に思えます。(ルカ 3:15)しかし,問題はその人たちが何を待ち設けていたか,ということにありました。辞書編集者のW・E・バインは,ある有名な聖書学者の言葉として,ユダヤ人はメシアが自分たちに「現世における勝利」と「物質面での栄華」を得させてくれるという考えに取り付かれていた,と述べています。したがって彼らは,謙遜で政治に関与しないナザレのイエス,すなわち真のメシアとして西暦29年に自分たちのただ中に現われた方を受け入れる用意ができていませんでした。宗教指導者たちはまた,イエスの教えが現状を覆し,自分たちの目立った立場を危うくするのではないかと心配しました。(ヨハネ 11:48)先入観と利己心にとらわれてイエスの奇跡の意味をつかみ損ねたのです。

      後にユダヤ人の宗教指導者と他の者たちは,イエスの追随者たちが神の恵みを得ていることを示す奇跡的な証拠を退けました。例えば,イエスの使徒たちが生まれつき足のなえていた人をいやした時,ユダヤ人の高等法廷のいきり立った成員たちは,こう尋ねました。「この人たちをどうしたらよいのか。実際のところ,人目を引くしるしが彼らを通してなされ,それはエルサレムの住民すべてに明らかなのだ。我々としてもそれを否定するわけにはゆかない。しかしそうではあるが,民の間にこれ以上広まることがないよう,もうこの名によってだれにもいっさい語らぬよう,脅しを加えて命じておこう」。(使徒 3:1-8; 4:13-17)明らかに,このすばらしい奇跡がこれらの者たちの心の中に信仰を築いたり,それを生じさせたりすることはありませんでした。

      人々が心の扉を閉ざす要因となってきたのは多くの場合,野心や誇りや貪欲です。この記事の冒頭に出てきたコラ,ダタン,アビラムの場合がそうだったようです。ねたみや恐れなど,数々の有害な傾向が妨げとなった人たちもいます。わたしたちはまた,不従順なみ使いである悪霊たち,かつては神ご自身の顔を見る特権を得ていた者たちのことを思い出すよう促されています。(マタイ 18:10)彼らは神の存在を疑ってはいません。事実,「悪霊たち(は)信じておののいて」います。(ヤコブ 2:19)それでも,神への信仰を持っていません。

      真の信仰が意味すること

      信仰とは,単に何かを信じるだけのことではありません。また,何かの奇跡に対して,感情によるその場かぎりの反応を示すだけのことでもありません。ヘブライ 11章1節には,「信仰とは,望んでいる事柄に対する保証された期待であり,見えない実体についての明白な論証です」とあります。信仰を持っている人は,エホバ神が約束される事柄はすべて果たされたも同然であることを心から確信しています。さらに,見えない実体についての証拠が否定の余地のない極めて強力なものであるために,信仰はその証拠そのものであると述べられています。確かに信仰は証拠に基づいています。そして過去において,奇跡は信仰を育て,それを築くのに役立ちました。イエスが行なわれたしるしは,イエスが約束のメシアであることを人々に確信させました。(マタイ 8:16,17。ヘブライ 2:2-4)同様に,奇跡的ないやしや異言といった,神の聖霊すなわち活動力の賜物は,ユダヤ人がもはやエホバの恵みを得ておらず,神の是認はいまや神のみ子イエス・キリストによって設立されたクリスチャン会衆の上にあるという証拠になりました。―コリント第一 12:7-11。

      霊の奇跡的な賜物の中には,預言する能力も含まれていました。この奇跡を目撃した不信者の中には,「神はほんとうにあなた方の中におられる」とはっきり言い,エホバを崇拝するよう動かされる人もいました。(コリント第一 14:22-25)しかしエホバ神は,奇跡がキリスト教の崇拝の恒久的な特色となることを意図されませんでした。それで使徒パウロは,「預言の賜物があっても,それは廃され,異言があっても,それはや(む)」と書きました。(コリント第一 13:8)これらの賜物は,使徒たち,および彼らからそうした賜物を受けた人たちの死と共にやんだようです。

      それ以降,人々は信仰の根拠を見いだせなくなるのでしょうか。そういうことはありません。パウロはこう述べたからです。「[神]は善いことを行なって,あなた方に天からの雨と実りの季節を与え,食物と楽しさとをもってあなた方の心を存分に満たされたのですから,決してご自身を証しのないままにしておかれたわけではありません」。(使徒 14:17)事実,わたしたちの身の回りにある証拠に対して思いと心を開くことをいとわない,心の正直な人たちにとって,エホバ神の「見えない特質,すなわち,そのとこしえの力と神性とは,造られた物を通して認められるので,世界の創造以来明らかに見えるからであり,それゆえに彼ら[神を否定する人たち]は言い訳ができません」― ローマ 1:20。

      神の存在を信じる以上のことが求められます。パウロはこう勧めています。「この事物の体制に合わせて形作られるのをやめなさい。むしろ,思いを作り直すことによって自分を変革しなさい。それは,神の善にして受け入れられる完全なご意志を自らわきまえ知るためです」。(ローマ 12:2)このことは,本誌のようなキリスト教の出版物の助けを借りながら聖書を勤勉に研究することによって行なえます。神の言葉聖書の正確な知識に基づく信仰は,弱いものでも表面的なものでもありません。神のご意志を識別し,信仰のうちにそれを行なっている人々は,神に神聖な奉仕をささげています。―ローマ 12:1。

      見なくても信じる

      使徒トマスにとって,イエスが死人の中から復活させられたことに信仰を働かせるのは困難なことでした。トマスは,「その手にくぎの跡を見,わたしの指をくぎの跡に差し入れ,手をその脇腹に差し入れない限り,わたしは決して信じない」と断言しました。後にイエスが,杭につけられた時の傷跡のある体を着けて現われた時,トマスはこの奇跡に対して良い反応を示しました。それでもイエスは,「見なくても信じる者は幸いです」と言われました。―ヨハネ 20:25-29。

      今日,幾百万というエホバの証人は,「信仰によって歩んでいるのであり,見えるところによって歩んでいるのではありません」。(コリント第二 5:7)彼らは聖書に記されている奇跡を見ていませんが,そうした奇跡が起きたことを固く信じています。証人たちは,神とそのみ言葉に信仰を働かせます。彼らは,聖書の教えとその主要なテーマ ― エホバ神の主権の正しさが,神の天の王国によって立証されること ― を,神の霊の助けによって理解できています。(マタイ 6:9,10。テモテ第二 3:16,17)これら本当のクリスチャンは,聖書の賢明な助言を生活に当てはめており,そのことは彼らにとって大きな益となっています。(詩編 119:105。イザヤ 48:17,18)彼らは,聖書預言からして現代は「終わりの日」であるという議論の余地のない証拠を受け入れ,神の約束による新しい世が間もなく実現するという信仰を持っています。(テモテ第二 3:1-5。マタイ 24:3-14。ペテロ第二 3:13)神についての知識を他の人に伝えることは,彼らにとって喜びです。(箴言 2:1-5)証人たちは,神を求める人が神を本当に見いだすには聖書を研究する以外にないということを知っています。―使徒 17:26,27。

      前の記事に出てきたアルバートのことを覚えておられますか。奇跡を求める祈りが聞き届けられないまま数日たって,アルバートはエホバの証人の訪問を受けました。その年配の女性は聖書に基づく文書を幾らか残してゆきました。その後,アルバートは無料の家庭聖書研究に応じました。聖書の音信のことがさらに詳しく分かってくると,失望は興奮に変わりました。そして,自分がついに神を見いだしたことを悟るようになりました。

      聖書はこう勧めています。「あなた方は見いだせるうちにエホバを尋ね求めよ。近くにおられるうちに呼びかけよ」。(イザヤ 55:6)このことは,神からの現代の奇跡を待つことによってではなく,神の言葉に関する正確な知識を得ることによって行なえます。これは不可欠なことです。奇跡だけでは信仰は築かれないからです。

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