-
神への恐れはあなたを益することができますかものみの塔 1987 | 12月1日
-
-
神への恐れはあなたを益することができますか
「まことの神を恐れ,そのおきてを守れ。それが人の務めのすべてだからである」― 伝道の書 12:13。
1,2 (イ)神に対するわたしたちの崇拝は何に基づいているべきですか。(ロ)しかし,神はほかに何を要求しておられますか。(申命記 10:12)
「神への恐れ」という言い方は奇異に感じられますか。本当に神を愛しているなら,それに加えて神を恐れる必要はないはずだ,と多くの人は考えるかもしれません。神を愛し,かつ恐れることが本当に必要なのでしょうか。もし必要であるのなら,神への恐れはわたしたちにどのような益を与えますか。
2 神に対するわたしたちの崇拝と奉仕は愛に基づいていなければならない,と聖書は述べています。イエスは,心と魂と思いと力をこめてエホバを愛するようにと語られた時,その点を明らかにされました。(マルコ 12:30)しかし,神の言葉の中では,神を恐れることの重要性も強調されています。伝道の書 12章13節で次のように言われているのはいかにも適切なことです。「まことの神を恐れ,そのおきてを守れ。それが人の務めのすべてだからである」。ご自分を恐れると同時に愛することを求めるエホバは,矛盾しておられるのでしょうか。
3 恐れに関して,どんなことを銘記しなければなりませんか。
3 恐れには幾つか種類があることを銘記しておけば,そうではないことがよく分かります。恐れについて考える人々が普通に思い起こすのは,望みを絶ち,わたしたちの勇気をくじく病的な感情です。言うまでもなく,わたしたちがエホバに対してそのように感じることをエホバは望まれないでしょう。わたしたちの天の父は,子供が父親の愛を確信しつつも,同時に父親の不興を買うことを恐れてそのもとにやって来るように,わたしたちがご自分のもとに来ることを願っておられます。悪いことを行なうよう誘惑された場合には,そのような恐れが天のみ父に対する従順を保たせる助けになるのです。これこそ,クリスチャンが持つべき正しい「敬虔な恐れ」です。―ヘブライ 5:7; 11:7。
4 愛はどのような恐れを除き去りますか。
4 エホバは,ご自分の僕たちが間違いをするたびに罰を与えるだけの無情な裁判官のような方ではありません。むしろ,ご自分の僕たちを愛し,彼らが成功することを願っておられます。ですから,わたしたちがたとえ何かの間違いをしたり罪を犯したりしたとしても,エホバへの恐れのために,その問題について神に話すのを差し控えるようなことはないはずです。(ヨハネ第一 1:9; 2:1)エホバに対する敬意のこもった恐れは,拒絶されたり拒否されたりすることを恐れる気持ちではありません。ヨハネ第一 4章18節にあるとおりです。「愛には恐れがなく,完全な愛は恐れを外に追いやります。恐れは拘束となるからです」。しかし,「完全な愛」は,わたしたちの創造者で命の授与者であられるエホバに対して抱くべき深い敬意と,正しい恐れを除き去るわけではありません。―詩編 25:14。
幾つかの益について考慮しなさい
5 (イ)知恵はどのようにしてのみ得られますか。(ロ)以前の麻薬中毒者は何に促されて,賢明ではない生き方を変えましたか。
5 「エホバへの恐れ」から生じる幾つかの益について考慮してみましょう。例えばそれは,真の知恵を得ることにつながります。人々はそのような知恵を得るために幾多の方法を試み,努力を惜しみませんでしたが,成功していません。「エホバへの恐れは知恵の初めである」という基本的な原則を無視するからです。(詩編 111:10。箴言 9:10)以前の麻薬中毒者が賢明な行動をとるのに,そうした恐れがどのように助けになったかを考慮してみてください。その人はこう説明しています。「神に関する知識を取り入れた私は,神を悲しませたり神の不興を買ったりすることに対する恐れをも培いました。神が見ておられることは分かっていましたし,私は神の目に是認された者となることを切望していました。その気持ちに動かされて私は,所持していた麻薬をトイレに流して処分しました」。この男の人は悪い習慣を克服し,エホバに命を献げ,今は南アフリカのヨハネスブルグで奉仕者になっています。
6 「エホバへの恐れ」はどのようにわたしたちを悪いことから守りますか。また,どんな事柄にわたしたちを導いてくれますか。
6 あなたは悪いことを避けたいと思っていますか。「エホバへの恐れは悪を憎むことを意味する」と記されています。(箴言 8:13)そうです,この正しい恐れがあれば,喫煙,麻薬の乱用,泥酔,性の不道徳など,神が非としておられる多くの悪い習慣から離れているよう助けられます。エホバを喜ばせることに加えて,人々に生じている恐るべき事柄から自分を守ることになります。恐るべき事柄の中には,人々が自らをその危険にさらしているぞっとするような病気も含まれています。(ローマ 1:26,27; 12:1,2。コリント第一 6:9,10。テサロニケ第一 4:3-8)神への恐れは,悪いことや曲がった事柄に巻き込まれないようあなたを助けるだけでなく,清く健全な事柄にあなたを導きます。「エホバへの恐れは浄(い)」と述べられているからです。―詩編 19:9。
7,8 (イ)一人の少女は,「エホバへの恐れ」が幸福につながることをどのように経験しましたか。(ロ)エホバを恐れる人にもたらされる別の益について述べてください。
7 大半の人々が追い求めている別の目標は,幸福です。どうすればそれを自分のものにできますか。神の言葉は,「エホバを恐れる人は幸いである」と述べています。(詩編 112:1; 128:1)一人の十代の少女の経験はその点を実証しています。この少女はあらゆる種類の不義の性関係のほか,心霊術,盗みなどともかかわるようになりました。それから聖書の研究を始め,エホバの言われることを聴き,エホバを恐れる必要を理解しました。その人はこのように述べています。「エホバを知ったことは,これまでの人生で最良の経験でした。エホバは真理と幸福を見いだせるよう私を大いに助けてくださいました。エホバは私の目を開き,いろいろ考えてエホバを見いだすための機会を本当に与えてくださったのですから,私はエホバに非常に多くのものを負っていると思います。これからは,この幸福を見いだせるよう,ほかの人たちを助けたいと思っています」。
8 エホバは,『ご自分のみ名を恐れる者たち』に報いを与えることも約束しておられます。(啓示 11:18)さらに,「エホバへの恐れは命に向かい,人は満ち足りて夜を過ごし,悪に見舞われることもない」のです。(箴言 19:23)実際,わたしたちが常に必要とするものすべてをもたらすのは,「エホバへの恐れ」です。その恐れと謙遜が結びつく時,「富と栄光と命」という結果が生じます。―箴言 22:4; 10:27。
9 「エホバへの恐れ」が,知恵を示す唯一の生き方と結びつくのはなぜですか。(ヨブ 28:28。ミカ 6:9)
9 このことから,まことの神を恐れるための十分な励ましが得られるのではないでしょうか。確かに,「エホバへの恐れ」は非常に心に訴えます。それは,真の満足をわたしたちに与えるすべてのものと結びついています。真の満足は今日では珍しい経験となっています。霊感による次の言葉は何と大きな励ましでしょう。「罪人が百回悪を行ない,その思いのままに長らえようとも,わたしはまことの神を恐れる者たちが神を恐れていたために良い結果になることに気づいてもいる。しかし,邪悪な者は決して良い結果を見ることなく,影のようなその日々を長くすることもない。彼は神を恐れていないからである」。(伝道の書 8:12,13)自分にとって物事が「良い結果になる」のを望まない人がいるでしょうか。この幸福な経験は,神を恐れる人だけのものです。―詩編 145:19。
10 わたしたちが神を恐れるべき肝要な理由には,どのようなものがありますか。
10 その点を考え,わたしたちは天の父エホバに対する深い畏敬の念を,そうです,畏怖の念を抱く決意を固めるべきではありませんか。確かにわたしたちは,エホバの不興を買うことに対する健全な恐れを抱くべきです。わたしたちは神がわたしたちに示してくださったすべての愛ある親切と善良さを深く感謝しています。わたしたちが持っているものはみな,神から来ています。(啓示 4:11)さらに神は,神に従わない人を死に至らせる力を持つ至上の裁き主,全能者であられます。使徒パウロは,「恐れとおののきをもって自分の救いを達成してゆきなさい」と勧めています。―フィリピ 2:12。ホセア 3:5。ルカ 12:4,5。
11 (イ)この終わりの日に,クリスチャンはどんな態度を避けるべきですか。(ロ)培うべきなのは,どんな精神ですか。
11 ここには,わたしたちが最小限のことを行ない,ともかく物事は順調に行くだろうと期待し,気の抜けた態度を取ることによって救いを得られるとは,少しも示されていません。それは,人々の心の中をご覧になれる,また人々の内奥の考えと意向を知っておられる方との関係を保つよう,この終わりの日に努力するクリスチャンが示すべき態度ではありません。(エレミヤ 17:10)エホバを正しく認識している人々だけが,神から認められるのです。エホバはこう言われます。「それで,わたしはこの者に注目する。苦しんで,霊において深く悔い,わたしの言葉におののいている者に」― イザヤ 66:2。
エホバを恐れることを学ばなければならない
12 (イ)イスラエル国民はどのような方法で,他の諸国民に勝る好意を示されましたか。(ロ)エホバはその見返りに,何を期待されましたか。
12 エホバがイスラエルと持たれた交渉について考えると,エホバを恐れる必要性をさらに深く銘記できます。宇宙の主権者からそうした気遣いと注意を示された国民はほかにありません。(申命記 4:7,8,32-36。サムエル第一 12:24)エホバへの恐れを持たず,神の民を奴隷にして圧迫したエジプト人に対してエホバが行なわれたことを,イスラエル人は自分自身の目で見ました。神はその見返りに何を期待されましたか。こう記されています。「民を,男も,女も,幼い者も,またあなたの門の内にいる外人居留者たちも集合させなさい。彼らが聴くため,また学ぶためである。彼らはあなた方の神エホバを恐れ,注意してこの律法のすべての言葉を履行しなければならないのである。また,彼らの子らでこれを知らない者たちも聴くように。彼らは,あなた方がヨルダンを渡って行って取得する地で生きる日の限りあなた方の神エホバを恐れることを学ばなければならない」― 申命記 31:12,13; 14:23。
13 親は自分の子供たちに関して,何を第一に気遣うべきですか。
13 イスラエル人の場合と同様,神の現代の僕たちも,『エホバを恐れることを学ばなければなりません』。そのために,わたしたちすべては,特に親は,重い責任を担うことになります。親の皆さんは,『自分はどうすればエホバを恐れる心を持てるよう子供たちを援助できるだろうか』と自問してください。いつか子供たちが成長して家を出る時,子供たちにとって,エホバを恐れる以上に霊的・精神的・物質的な面で良い保護となるものがあるでしょうか。エホバご自身,そのことの重要性を強調し,次のような訴えを行なっておられます。「彼らが,わたしを恐れ,わたしのすべてのおきてを常に守るこの心を培えばよいのである。それは,彼らまたその子らにとって,定めのない時に至るまで物事が良く運ぶためである」― 申命記 5:29; 4:10。
14 エホバを恐れる者となるよう子供たちを訓練する際に,親が念頭に置くべき一つの要素を挙げてください。そして,それをどのように適用すべきかを説明してください。
14 だれであれ,家族を養っているクリスチャンであれば,これが簡単な仕事ではないことにすぐ同意されるでしょう。それでも,神の霊感によるみ言葉は,幾らかの肝要な要素に親の注意を向けさせています。一つの点は,子供たちが小さな時から始めることです。どれほど小さな時からですか。イスラエル人がエホバからの教えを受けるために集まった時,そこには「幼い者」が含まれていました。(申命記 29:10-13; 31:12,13)言うまでもなく,その時にはイスラエルの女性は乳幼児を連れてやって来ました。すべての人に出席することが求められていたからです。彼らの息子や娘たちは,そうした集まりでは静かに話を聴く必要があることを,まさしく「幼い時から」学んだのでしょう。(テモテ第二 3:15)ですから,集会には「幼い者」を一緒に連れて来てください。さらに,あずかれるようになったらできるだけ早く,子供たちを野外奉仕に伴ってください。多くの若者たちは,学校に入る前であっても,雑誌や冊子の提供の仕方を学んでいます。小さな事柄において,「幼い者」たちに「エホバへの恐れ」を早くから教え始めてください。
15 2番目の要素は何ですか。親はどのようにそれを成し遂げることができますか。
15 もう一つの要素は首尾一貫していることです。子供たちに訓練,懲らしめ,教えを与える際,常に神の言葉に付き従うなら,それは可能です。気晴らしやレクリエーションを行なう時でも,そういう場合にどんなことが許されるかを聖書の原則を用いて指示するとき,首尾一貫した立場を保ってください。(エフェソス 6:4)神の言葉が非常に明確に示しているとおり,そのためには努力が求められます。こう記されています。「そして,わたしが今日命じているこれらの言葉をあなたの心に置かねばならない。あなたはそれを自分の子に教え込み,家で座るときも,道を歩くときも,寝るときも,起きるときもそれについて話さねばならない」。(申命記 6:4-9; 4:9; 11:18-21)幾年もそのように首尾一貫した態度を保つことは,エホバを恐れる心を培うよう子供たちを助けるために大きく貢献するでしょう。
16 (イ)3番目の要素とは何ですか。これが非常に重要なのはなぜですか。(ロ)親はどんなことを自問できますか。
16 親は自分自身も親として,「エホバを恐れる者たち」であることを子供の思いと心に強く印象づけるよう努めなければなりません。(詩編 22:23)そうするための一つの方法は,子供たちの訓練と懲らしめに神権的な助言を当てはめることです。これが,考慮すべき3番目の要素です。次のように自問してください。『自分は子供たちとの聖書研究を定期的に行なっているだろうか』。『幼い子供たちのために,「わたしの聖書物語の本」や「偉大な教え手に聞き従う」などの手引き書を十分活用しているだろうか』。『もう少し大きくなった子供たちには,「あなたの若い時代,それから最善のものを得る」や,「目ざめよ!」誌の「若い人は尋ねる」の記事を用いているだろうか』。『子供たちに有害な影響のない,健全なレクリエーションや娯楽を準備しているだろうか』。『自分は高等教育についてエホバの組織が述べてきた事柄を受け入れているだろうか』。『自分はその方針に沿って子供たちを教えているだろうか』。『子供たちのために設けた目標は,子供たちが「敬虔な恐れ」を持つための助けとなるものだろうか』。―ヘブライ 5:7。
17 子供たちがエホバを恐れることを学ぶとき,だれが益を受けますか。例を挙げて説明してください。
17 「エホバへの恐れ」を子供たちに教えるため,できる限りのことを行なうなら,その益と喜びは子供たちだけではなく,親にも及びます。例えば,当人の言葉を借りれば,一日の終わりに「傷だらけになった」ような気分でいても,エホバに祈る7歳の娘の言葉を聞いて,すべてのことには価値があるのだと思い直す一人の証人について考えてみてください。この婦人は自分の娘の祈りを聴いて涙をこぼし,胸がいっぱいになりました。娘はこう祈ったのです。「あいするエホバ,今日もわたしのためにしてくださった良いことすべてに感謝しています。それから,わたしの食べ物もありがとうございました。エホバ,けいむ所やきょうせいしゅうよう所の兄弟たちみんなが食べ物を得られるよう助けてください。ほかの国のやせた兄弟や姉妹たちもです。エホバ,そういう人たちもたくさん食べ物を得られるよう助けてください。病気の人たちがよくなって集会に行けるよう助けてください。エホバ,わたしが夜にねている間,どうかみ使いをとおしてわたしを守ってください。お母さんとお父さんとお兄ちゃんとおばあちゃんとおじいちゃん,それから真理にいる兄弟と姉妹のみなさんも守ってください。あなたのみ子イエスのお名前をとおしてお祈りします。アーメン」。
18 エホバを恐れるというこの問題に関して,わたしたちはどのように影響を及ぼし合いますか。
18 エホバを恐れるというこの問題に関して,わたしたちは自分の示す手本によって他の人に影響を及ぼすということを忘れてはなりません。親は子供に影響を及ぼします。長老と奉仕の僕は会衆に影響を及ぼします。旅行する監督は自分たちの仕える人々に影響を及ぼします。明らかに,「エホバを恐れることを学(ぶ)」ために一生涯,神の律法を読むようイスラエルの王たちに指示が与えられた理由はそこにありました。(申命記 17:18-20)エホバを恐れる面で王が示す模範は,国民全体に影響を及ぼすだけの力がありました。
19 イスラエル人に関して,歴史は何を証明していますか。
19 歴史は,一国民としてのイスラエルがエホバへの恐れを失ったことを証明しています。彼らは,神の律法に従おうと従うまいと,エルサレムに神殿があれば,それが“幸運を呼ぶ”一種のお守りのようになって自分たちは保護されると考えました。(エレミヤ 7:1-4。ミカ 3:11,12)しかし,彼らは間違っていました。エルサレムとその神殿は滅ぼされました。その後,イスラエル人は一国民として再び確立されましたが,その時にもエホバへの正しい恐れを示せませんでした。(マラキ 1:6)この経験からは多くを学べますが,それについては次の記事で扱われます。
20 わたしたちがエホバを恐れるべき理由をどのように要約できますか。
20 ですから,エホバへの恐れはエホバに対するわたしたちの愛を弱めるわけではないことを忘れないようにしましょう。むしろその恐れは,エホバへの愛を大きく強くするのです。神の命令全体に対する従順は,わたしたちがエホバを恐れていることだけではなく,エホバを愛していることを証明するのです。その二つはどちらも肝要です。一方を除いて,もう一方だけを持つことはできません。親がエホバに対するこの敬虔な恐れと愛を子供に教え込むのは,非常に重要なことです。それは,若い人と年長の人の双方に,何と大きな喜びをもたらすのでしょう。ですから,わたしたちも,「あなたのみ名を恐れるようわたしの心を一つにしてください」と述べた詩編作者と同様の考え方ができますように。―詩編 86:11。
-
-
エホバへの恐れを保ちなさいものみの塔 1987 | 12月1日
-
-
エホバへの恐れを保ちなさい
「『わたしは大いなる王なのである』と,万軍のエホバは言われた。『わたしの名は諸国民の中で畏怖の念を抱かせるものとなるであろう』」― マラキ 1:14。
1,2 (イ)マラキ書にはどんな強力な音信が収められていますか。(ロ)エホバの音信の冒頭の言葉は,どんな教訓を与えますか。
「宣告: マラキによる,イスラエルに関するエホバの言葉」。(マラキ 1:1)聖書のマラキ書は,心を鼓舞するこの簡潔な言葉で始まっています。普通の場合,聖書で言う宣告とは,邪悪な事柄に対する糾弾を指しています。イスラエル国民に対する直接的で強力な音信を伴うマラキ書の場合は,確かにそう言えます。この書について考慮すれば,わたしたちがエホバへの恐れと愛を保つ必要性が浮き彫りにされるでしょう。
2 この書の最初にある二つの節は,助言を与える際の教訓となります。エホバは,ご自分の話に耳を傾ける人たちを助けたいと願っておられることを,その人たちに保証しておられます。「『わたしはあなた方を愛した』と,エホバは言われた」。義務を怠ったイスラエルのうちの,正直な心を持った人々を元気づける,何と心温まる紹介の言葉でしょう。音信はこのように続いています。「するとあなた方は言った,『どのようにわたしたちを愛したのか』と。『エサウはヤコブの兄弟ではなかったか』と,エホバはお告げになる。『それでもわたしはヤコブを愛し,エサウを憎んだ。わたしはついに彼の山々を荒れ果てた所とし,その相続分を荒野のジャッカルのための場所とした』」。―マラキ 1:2,3。
3 エホバがヤコブとエサウに対して抱かれた感じ方には,どのような理由がありましたか。
3 エホバがヤコブを,そして後にヤコブの子孫であるイスラエル人を愛されたのはなぜですか。それは,ヤコブが神を恐れる人であり,神を恐れる親に敬意を払っていたからです。一方,エサウは利己的な人であって,神への恐れが欠けていました。それに,エサウの親はエサウの従順を期待できる生得的な権利を神から与えられていましたが,その親に対する敬意も欠けていました。エホバがヤコブを愛し,エサウを憎まれたのは当然でした。これはわたしたちに対する警告となります。神への恐れを失い,エサウのような物質主義者になることがないようにしなければなりません。エサウは自分の肉的な欲求を満たすことだけを求めていたのです。―創世記 26:34,35; 27:41。ヘブライ 12:16。
4,5 (イ)ヤコブとエサウの生き方はそれぞれ子孫にどんな影響を及ぼしましたか。(ロ)それはイスラエル人にどのような影響を及ぼしたはずですか。
4 ヤコブの歩みがその子孫に当たるイスラエル人にとって祝福となったように,エサウの歩みはその子孫に当たるエドム人に,祝福とは全く逆の結果をもたらしました。エドム人はエホバの祝福を享受できず,神の契約の民に意地悪く反対したため,エホバの憎しみを引き起こしました。彼らはネブカドネザルの軍隊によって,のちにはアラビア人によって壊滅させられました。エホバが預言されたとおり,一国民としてのエドム人はやがて消滅してしまいました。―オバデヤ 18。
5 エドムに対する神の裁きはマラキの時代よりも前に始まっていました。それはイスラエル人にどのような影響を及ぼしたはずですか。エホバは彼らにこう告げておられます。「あなた方の目もそれを見,あなた方自らも言うであろう,『イスラエルの領地に関してエホバが大いなるものとされるように』と」。(マラキ 1:5)イスラエルは幾世紀もの間,一国民としての彼らに対してエホバが抱いておられた愛を,自分たちの「目」で見てきたのです。
わたしたちの行動は,わたしたちが神を恐れているかどうかを示す
6 エホバはイスラエル人をどのように非難されましたか。
6 宣告は続きます。「『子は父を敬い,僕はその大主人を敬う。それで,もしわたしが父であるのなら,わたしに対する敬意はどこにあるのか。また,もしわたしが大主人であるのなら,わたしに対する恐れはどこにあるのか』と,万軍のエホバはあなた方に言った。わたしの名を軽んじている祭司たちよ」。(マラキ 1:6。出エジプト記 4:22,23。申命記 32:6)ちょうど父親が自分の子にするように,エホバはイスラエル人に矯正を施し,必要物をあてがい,保護を与えられました。神は当然その見返りとして何を期待されましたか。ご自分を敬い,恐れることです。祭司をも含めた国民全体がそれを怠り,むしろエホバのみ名に対する不敬と侮蔑を示していました。イスラエルは「背信の子ら」となりました。―エレミヤ 3:14,22。申命記 32:18-20。イザヤ 1:2,3。
7 イスラエル人はこの非難についてどのように感じましたか。エホバは彼らにどのように答えられましたか。
7 イスラエル人は,「わたしたちはあなたの名をどのように軽んじたか」と尋ねました。それに答えて,エホバは力強くこう言われました。「『わたしの祭壇の上に汚れたパンを差し出すことによってである』。するとあなた方は言った,『わたしたちはどのようにあなたを汚したか』と。『エホバの食卓は軽んずべきもの』と述べることによってである。また,盲の動物を犠牲のために差し出しながら,『何も悪いところはない』と言っている。また,足なえの動物や病気のものを差し出しながら,『何も悪いところはない』と言っている。『それを,どうか,あなたの総督のもとに持って行くように。彼はあなたのことを喜ぶであろうか。あなたを親切に迎えるであろうか』と,万軍のエホバは言われた」。―マラキ 1:6-8。
8 イスラエル人は自らの行動によって,何を示していましたか。
8 一人のイスラエル人が自分の動物の群れを見渡して,エホバにささげるためこっそり盲の動物や足なえの動物を選んでいるところを想像できるでしょう。そのようにして,そのイスラエル人は犠牲をささげるふりをしながら,利己的にも群れの動物の最良のものを自分のために取っておくことができました。総督に対してはそんな図々しいことはしないでしょう。ところがイスラエル人はエホバに対してそのようにしたのです。エホバには自分たちのたくらみや欺きを見ることができないと言わんばかりに!「わたしに対する恐れはどこにあるのか」と,エホバがお尋ねになったのも当然でした。イスラエル人は言葉ではエホバを恐れていると主張したかもしれませんが,その行動は別のことを明確に示していました。―申命記 15:21。
9 人々が行なっていたことに対して,祭司たちはどのような反応を示しましたか。
9 それら卑しむべき犠牲に対して,祭司たちはどんな反応を示しましたか。祭司たちは「何も悪いところはない」と言い,イスラエル人の邪悪な歩みを正当化しました。そのため,流刑に処されていてバビロンから帰還した人々は,真の崇拝を回復させる業を熱心に始めたものの,その後は不注意で誇り高く,独善的な態度をとるようになりました。エホバへの恐れを失ってしまったのです。したがって,彼らの神殿での奉仕は見かけだけのものとなり,形式的な仕方で祭りを守り行ないました。―マラキ 2:1-3; 3:8-10。
10 (イ)今日,エホバはどんな犠牲を望んでおられますか。(ロ)わたしたちの犠牲はどのような場合にのみエホバの是認を受けますか。
10 『でも,それは私たちには当てはまらない。もう動物の犠牲はささげていないのだから』と異議を唱える人がいるかもしれません。しかし,わたしたちには,ささげるべき別の種類の犠牲があります。緊急感のこもったパウロの訴えに注目してください。「兄弟たち,わたしは神の情けによってあなた方に懇願します。あなた方の体を,神に受け入れられる,生きた,聖なる犠牲として差し出しなさい。これがあなた方の理性による神聖な奉仕です」。(ローマ 12:1)今日エホバが望んでおられる犠牲は,あなたです! つまり,あなたのエネルギーと有形無形の資産と能力です。わたしたちの犠牲は,最良のものであって初めて神の是認を受けるのです。足なえで病気の犠牲のような残り物をエホバにささげるなら,エホバとわたしたちとの関係が影響を受けるのは必至です。
11 エホバに献身した僕たちは,各自どんなことを吟味すべきですか。
11 「何も悪いところはない」という趣旨のことを言う人がいるかもしれませんが,わたしたちはエホバがそれについてどう感じておられるかを知っています。ですから,わたしたちがささげている「神聖な奉仕」という「犠牲」を注意深く吟味してみましょう。その中には,宣べ伝える業,個人研究,祈り,集会への出席などにおいてわたしたちがあずかる分が含まれています。あなたは,エホバに自分の最良の部分をささげているという満足感を得ていますか。それとも,ささげているのは残り物にすぎませんか。週末に娯楽やレクリエーションに熱中しすぎて,王国の良いたよりを宣べ伝えたり,集会に出席したりするエネルギーがなくなってしまうという危険性があります。態度や動機を含むわたしたちの生き方全体,わたしたちの日々の生活は,わたしたちがエホバにささげる犠牲と結びついていなければなりません。それが間違いなく最良のものとなるようにしましょう。
真に神を恐れる人々を見分ける
12 今,どんな助言が与えられていますか。
12 「それで今,どうか,神の顔を和めて,わたしたちに恵みを示してくださるようにせよ」と預言は述べています。(マラキ 1:9)エホバはイスラエル人に対して,正しいことを行ない,神への正しい恐れを示し,神にふさわしいものを神にささげるよう勧めておられます。わたしたちは今日,同じようにしなければなりません。エホバのご要求にふさわしい生き方をしなければ,神の恵みを得ることも保つこともできないのです。
13 (イ)神への恐れがないと,どんなわなに陥る危険がありますか。(ロ)貪欲はどのようにイスラエル人の祭司たちに影響を及ぼしましたか。
13 神への正しい恐れがないと,神に対するわたしたちの奉仕は,単に形式主義から出たもの,また利己的な利得のために行なわれるものとなるかもしれません。エホバが神殿でのイスラエル人の祭司の奉仕に関して,どのように問いかけておられるかに注目してください。「『あなた方の中に,扉を閉じる者がだれかいるだろうか。そして,あなた方はわたしの祭壇に火を付けない ― 何の理由もなしに。わたしはあなた方のことを喜ばない』と,万軍のエホバは言われた。『あなた方の手からの供え物をわたしは喜びとはしない』」。(マラキ 1:10)そうです,祭司たちは聖なる所の扉に鍵を掛け,祭壇に火を付けて,神殿での務めを行なっていましたが,何の理由もなくそうしたのではありません。祭司たちは,神殿で犠牲をささげるために来るイスラエル人たちからの施しと賄賂を求めていたのです。エホバは当時,利己的な利得のためだけに行なわれる奉仕には何の喜びも感じられませんでした。それは今も同じです。そのような奉仕は神にとって嫌悪すべきものです。
14 常に貪欲に警戒する必要があるのはなぜですか。
14 利己心と貪欲に警戒する必要性は現代になって減少したわけではありません。聖書は,貪欲な人々はエホバの恵みを受けられないと述べて,貪欲を避けるよう繰り返し警告しています。(コリント第一 6:10。エフェソス 5:5)宣教を成し遂げるに当たって,エホバへの愛と恐れが,宣教を決して利己的な利得のために行なわないようわたしたちを守るものとなりますように。自分の心に生じるかもしれないその種の傾向は,どんなものでも直ちに抜き取るべきです。特に長老と奉仕の僕には,「不正な利得に貪欲」にならないようにとの警告が与えられています。(テトス 1:7。テモテ第一 3:8。ペテロ第一 5:2)中には,自分たちを物質面で援助できる兄弟たちとの関係だけを故意に深め,えこひいきをしたり,そのような人たちに助言を与えるのを渋ったりする人もいるかもしれません。わたしたちは,仲間のイスラエル人からの施しと賄賂を求めたイスラエルの貪欲な祭司のようにはなりたくありません。
15 (イ)マラキは,地上のあらゆる場所にエホバを恐れる者たちがいることをどのように示しましたか。(ロ)ほかのどんな聖句がそのことを支持していますか。
15 今,もしエホバが,「わたしに対する恐れはどこにあるのか」とお尋ねになったとしたら,『あなたを恐れる者たちがここにおります』と答えられる人々がどこかにいるでしょうか。確かにいます! それはだれでしょうか。地上のあらゆる場所に見いだされる,エホバの忠実な証人たちです。この国際的な人々のグループと,彼らが行なうことになっていた業は,マラキ 1章11節で次のように予告されていました。「『日の昇る所から日の沈む所に至るまで,わたしの名は諸国民の間で大いなるものとなり……進物,すなわち清い供え物がわたしの名に対してささげられるようになるのである。わたしの名は諸国民の間で大いなるものとなるからである』と,万軍のエホバは言われた」。―詩編 67:7; イザヤ 33:5,6; 41:5; 59:19; エレミヤ 32:39,40もご覧ください。
16 日の出から日没までという表現には,どんな異なった意味があると考えられますか。それは,どのように成し遂げられていますか。
16 ここでマラキが,全地で良いたよりを宣べ伝えることに関連していま行なわれている大いなる業について語っているのは,実に適切なことです。(マタイ 24:14。啓示 14:6,7)地理的な意味で,日の昇る所もしくは日の出から日の沈む所もしくは日没までとは,東から西までを指しています。今日地上のどこを見ても,エホバのご意志を行なっている,エホバを恐れる者たちがいます。日の出から日没までとは,一日中という意味でもあります。そうです,神を恐れる僕たちによって,絶えず賛美がささげられているのです。エホバの約束どおり,神のみ名は真にその名を恐れる人々によって全地で宣明されています。―出エジプト記 9:16。歴代第一 16:23,24。詩編 113:3。
神への正しい恐れを保ちなさい
17 エホバへの敬意と恐れを失うなら,どんな結果が生じるかもしれませんか。
17 エホバを敬うことも恐れることもしていない人にとって,崇拝と奉仕は重荷になります。エホバはイスラエル人にこう言われました。「あなた方は,『エホバの食卓は汚れたもの,その実,すなわちその食物は軽んずべきもの』と述べることによってわたしを汚している。しかもあなた方は,『見よ,何とうみ疲れることか』と言っ(た)」。(マラキ 1:12,13)同様のことは現代にも当てはまります。エホバへの恐れを失っている人々にとっては,集会も野外奉仕もクリスチャンとしての他の活動も重荷になることがあります。
18 現代の一部の神の僕たちに,時折どんなことが生じてきましたか。
18 そのような人たちのことが「ものみの塔」誌,1937年1月1日号の中でどのように描写されているかに注目してください。「それら不忠実な人々にとっては,主の命令に従い,他の人々の前で王国の実を結ぶことによって神に奉仕する特権は,単なる退屈な儀式かつ形式的行為となる。彼らにとって,それは人の前で輝く機会とはならない。印刷物の形で家から家に王国の音信を携えて行き,それを人々に提供することは,うぬぼれの強いそのような人たちにとっては非常な屈辱となる。彼らはそこに喜びを見いださない。……それゆえ,『このように本を持ち歩くのは,書籍販売計画にすぎない。何とうみ疲れさせる仕事だろう』と言ってきた。また,これからもそのように言い続ける」。今日でも,野外奉仕を卑しい仕事とみなし,集会に出席するのは退屈だと考える人々が時折見受けられます。エホバへの恐れと,それに相伴ってエホバへの愛を失うときにそうしたことが生じ得るのです。
19 エホバの備えに対する認識をどのように実証し続けることができますか。
19 エホバへの恐れを保つなら,神のみ前にあって絶えず謙遜になり,神がわたしたちのためにしておられる事柄全体に対する認識を常に抱けます。家での小さな集まりにせよ,幾万人もの出席者を数える競技場での大きな集まりにせよ,わたしたちはクリスチャンの兄弟たちと共にいられることの特権を,エホバに感謝しています。その感謝の念は,そのような集まりに出席することによって,さらには,築き上げる会話をしたり,集会で注解したりして,出席している他の人々を「愛とりっぱな業」に鼓舞することによって示されます。(ヘブライ 10:24,25)特権を得て集会の何らかの部分を扱う場合には,準備を最後の最後まで延ばし,急いで案を練るようなことはしないでしょう。そうした割り当てをありふれたものとして扱ってはなりません。それは神聖な特権であり,それをどのように扱うかということは,わたしたちがエホバを敬い,恐れていることを示す別の目安ともなるのです。
20 (イ)わたしたちは片時も何を忘れてはなりませんか。(ロ)わたしたちはどんな結論に達しますか。
20 神への恐れを失う人々は,何と悲惨な結末を迎えるのでしょう。そのような人々には,宇宙の主権者との関係を持つという過分の特権に対する認識が欠けています。「『わたしは大いなる王なのである』と,万軍のエホバは言われた。『わたしの名は諸国民の中で畏怖の念を抱かせるものとなるであろう』」。(マラキ 1:14。啓示 15:4)そのことを片時も忘れることがありませんように。「わたしは,あなたを真に恐れるすべての者たちの……仲間なのです」と述べた詩編作者に,わたしたち一人一人が倣えますように。(詩編 119:63)この問題を考慮したあと,わたしたちはソロモンが下したのと同じ結論に達します。ソロモンはこう述べました。「まことの神を恐れ,そのおきてを守れ。それが人の務めのすべてだからである。まことの神はあらゆる業をすべての隠された事柄に関連して,それが善いか悪いかを裁かれるからである」― 伝道の書 12:13,14。
-