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第4部 ―『われら人民は』目ざめよ! 1990 | 9月22日
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民主主義発祥の地と呼ばれることの多い古代ギリシャの誇りは,西暦前5世紀の昔に都市国家で,それも特にアテネで民主主義が実施されていたことです。しかし当時の民主主義は現代の民主主義とは異なっていました。一つの点として,ギリシャ市民は現代の人々よりも直接支配にかかわっていました。男性市民は全員,時事問題を討議するために一年中開かれる総会に属していました。総会は簡単な多数決によって,ポリスと呼ばれる都市国家の政策を決定しました。
しかし女性や奴隷や外国人居留者には参政権がありませんでした。したがってアテネで行なわれていた民主主義は,少数の特権階級だけのための貴族政治的な民主主義でした。住民の半数ないし5分の4には,政治に関する発言権が全くなかったようです。
それでも,この制度は言論の自由を確かに促進しました。投票権のある市民には,決定が下される前に自分の意見を表明する権利が与えられていたからです。また,官職に就く機会は男性の市民全員に開かれており,少数のエリートに限られてはいませんでした。個人やグループによる政治権力の乱用を防止する抑制機構も考案されていました。
「アテネ人自身は民主主義を誇りにしていた。民主主義は,君主制や貴族政治といった代替制度以上に,充実した申し分のない生活に一歩近づくための方法だと彼らは信じていた」と,歴史家のD・B・ヒーターは述べています。民主主義は順調なスタートを切ったかに見えました。
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第4部 ―『われら人民は』目ざめよ! 1990 | 9月22日
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古代ギリシャはその先例になっています。そこでも,自由な選挙なるものは知られていなかったからです。行政官はくじで選ばれ,1年の任期を1期か2期だけ務めるのが普通でした。アリストテレスは,“最良の人々”を選ぶという貴族主義的な要素が入り込むと言って選挙に反対しました。むしろ民主主義は,“最良の人々”だけの政治ではなく,全人民の政治であると考えられました。
ほかと比べれば最善?
古代アテネにおいてさえ民主的な支配は論議の的でした。プラトンはこれに関して懐疑的で,無知な人々の手にゆだねられる民主的な支配はもろいと考えていました。そういう人々は,扇動政治家が現われると,感情を揺さぶるその言葉に簡単に影響されてしまうからです。ソクラテスも,民主主義は衆愚政治にほかならないという意味のことを言っています。また,「政治理論史」という本によれば,古代ギリシャの三大哲学者の三番手アリストテレスも,「民主主義というのは,民主的になればなるほど衆愚政治になる傾向があり,……僭主政治に堕してゆく」と論じました。
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