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聖体祭儀 ― 知られていない事実ものみの塔 2008 | 4月1日
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「である」? それとも「表わしている」?
確かに,ある聖書翻訳はイエスの言葉を,「取って食べなさい。これはわたしの体である」,「皆,この杯から飲みなさい。これは……わたしの血……である」と訳しています。(マタイ 26:26-28,新共同訳; 斜体は本誌)また,エスティンというギリシャ語動詞は,基本的に「……である」を意味します。しかし,その同じ動詞が「……を象徴する」という意味を持つこともあります。興味深いことに,聖書の多くの訳ではこの動詞がしばしば,「……を意味する」または「……を表わす」と訳されています。b どう訳すのが最も正確かは文脈によって決まります。例えばマタイ 12章7節のエスティンは,多くの聖書翻訳で「意味する」または「意味である」と訳されています。次のような例があります。「もしあなたがたが,『わたしが望むのはいけにえではなく,あわれみである』とはどういう意味である[ギリシャ語,エスティン]か知っているならば,罪のない人々をとがめなかったであろう」。―「新約聖書」,フランシスコ会聖書研究所。
その点に関して,高く評価されている聖書学者の多くは,「……である」という訳はイエスがその聖句の中で言い表わした考えを正確に伝えていない,ということを認めています。例えばジャック・デュポンは,イエスの時代の文化や社会を考慮に入れ,結論として,この節の「最も自然な」訳は,「これはわたしの体を意味している」ないしは「これはわたしの体を表わしている」となるはずだ,と述べています。
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聖体祭儀 ― 知られていない事実ものみの塔 2008 | 4月1日
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b そのように訳されている例として,「新共同訳」(共同訳聖書実行委員会)のマタイ 27章46節やガラテア 4章24節をご覧ください。
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