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耐え難い悲しみ目ざめよ! 2011 | 4月
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耐え難い悲しみ
ニコリは元気な女の子でした。でも,ある日の晩,頭が痛いと言うので,両親が病院へ連れてゆきました。ところが翌日の晩,まだ診断が下らないうちに,心臓発作に見舞われました。その後の検査で,ニコリが珍しい細菌感染症にかかり,それが肺,腎臓,心臓にまで広がっていることが分かりました。そして二日もたたないうちに亡くなりました。まだ3歳でした。
愛する人の死はとりわけ辛い経験となります。その悲しみは耐え難く思えることもあります。ニコリの母イザベリは言います。「ニコリがいなくて寂しくてたまりません。ニコリの体のぬくもり,におい,優しさ,毎日花をプレゼントしてくれたこと,そのすべてが忘れられません。ニコリのことが頭から離れません」。
あなたも,子ども,夫や妻,兄弟,親,親しい友など,愛する人を亡くしたことがありますか。もしそうなら,どうしたらその悲しみを乗り越えられるでしょうか。
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死を受け入れる目ざめよ! 2011 | 4月
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死を受け入れる
「父が亡くなったという知らせにショックを受け,目の前が真っ暗になりました。死に立ち会えずに申し訳なかった,という思いにさいなまれました。愛する人の死ほど,苦しいことはありません。父が亡くなって本当に寂しいです」。―サラ。
文化や宗教に関係なく,多くの人は死について話すことをためらいます。言語によっては,不快感を和らげるための婉曲表現が幾つもあります。日本語では,人が「死んだ」と言う代わりに,「亡くなった」,「旅立った」,「帰らぬ人となった」というような言い方をします。
しかし,どんなに優しい言葉を用いても,愛する人を失った深い悲しみを和らげることはできません。悲しみのあまり,事実を事実として受け入れられない人もいます。
愛する人と死別した方は,必死に死を受け入れようとしておられるでしょう。本当は違うのに,平静を装っているかもしれません。もちろん,人の悲しみ方は同じではないので,悲しみを表に出さない人がすべて,自分の気持ちを押し殺しているわけではありません。a しかし,悲しみに暮れている家族などの前では気丈に振る舞わなければいけない,と思っていると,問題が生じかねません。
「自分が悲しむ時間はありませんでした」
24歳の時に母親を亡くしたナサニエルの経験を見てみましょう。こう言っています。「最初はどうしてよいか分かりませんでした。父や,動揺している母の友人たちを支えなければならない,と思いました。自分が悲しむ時間はありませんでした」。
1年余りたったころ,ナサニエルは自分が母親の死を受け入れられずにいることに気づきました。「父は今も,辛い気持ちを時々電話で伝えてきます。それは良いことです。父はそうする必要があるからです。わたしは喜んで助けになりたいと思っています。ただ,わたしに支えが必要な時,だれにも頼れないような気がします」。
死という現実によく直面する医療専門家を含め,介護をする人たちも,自分の感情を抑えなければいけないと考えるようです。20年余り医師の仕事をしてきたエロイザもその一人です。その職場には連帯感があり,エロイザと患者との間には強い絆がありました。こう言っています。「わたしは大勢の人の死を看取ってきました。その中には,わたしの心の友と言える人もいました」。
涙を流せば自然と楽になることをエロイザは知っていました。「でも,泣けませんでした。人を助けるためには強くなければならず,感情は抑えるべきだと思っていました。ほかの人もそれを期待していると思いました」。
「母がいない家はがらんとしていました」
愛する人を失って直面する大きな問題の一つは,孤独感かもしれません。例えば,19歳の時に母親をがんで亡くしたアシュリーは,こう言っています。「その後は,どうしてよいか分からず,独りぼっちでした。母はわたしにとって一番の友達でした。何をするにも一緒でした」。
アシュリーは,家には母親がいないので,帰りづらくなりました。それも無理はありません。「母がいない家はがらんとしていました。ただ自分の部屋に入って母の写真を眺めては,一緒にしたことを思い出して泣きました」。
あなたが家族や親友を失ったとしても,悲しんでいるのは決してあなただけではありません。多くの人が,悲しみを乗り越えてきました。どのようにでしょうか。見てみましょう。
[脚注]
a 悲しみ方には個人差があるので,家族などが亡くなっても感情を表に出さない人について,他の人があれこれ言うのは,正しいことではありません。
[5ページの拡大文]
「どうしてよいか分からず,独りぼっちでした。母はわたしにとって一番の友達でした」― アシュリー
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悲しむ人のための助け目ざめよ! 2011 | 4月
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悲しむ人のための助け
『エホバは心の打ち砕かれた者たちの近くにおられる』。―詩編 34:18。
愛する人が亡くなると気持ちが動揺し,ショック,放心,悲しみなどを経験するものです。罪悪感や怒りを感じることさえあるかもしれません。前の記事から分かるように,人の悲しみ方は同じではありません。ですから,ここにあげたすべてを経験することはないかもしれません。また,悲しみの表わし方が人と違うこともあるでしょう。それでも,悲しみを表わす必要があるなら,そうするのは間違ったことではありません。
「悲しんでください」
前の記事に出てきた医師エロイザは,母親の死後,自分の感情を抑えようとしました。「初めは泣きました。でも,患者が亡くなった時と同じように,すぐに気持ちを抑えつけるようになりました。そのためだと思いますが,かなり体調を崩しました。愛する人を失った方にはこう申し上げたいと思います。悲しんでください。悲しみを抑え込まずに外に出してください。そうすれば楽になります」。
しかし,何日か何週間かたつうちに,夫をがんで亡くしたセシリアと同じように感じ始めるかもしれません。セシリアはこう言っています。「わたしは立ち直れていない,みんなが思うとおりにできていないと思えて,時々自分が嫌になってしまいます」。
そのように考えているなら,悲しみ方に正解不正解はない,ということを忘れないようにしましょう。割とすぐに気持ちを切り替えることのできる人もいますが,そうできない人もいます。その切り替えを早めることはできません。ですから,ある“期限”までに立ち直るべきだとは考えないでください。a
しかし,悲しみが際限なく続き,そのために疲れ果てているなら,どうでしょうか。義にかなった人ヤコブも同じような経験をしました。ヤコブは息子のヨセフが死んだと聞いて,『慰めを受け入れようとしなかった』と記されています。(創世記 37:35)そのような場合,悲しみに呑み込まれてしまわないために,どんな実際的な方法を取れるでしょうか。
体をいたわる。セシリアは,「時々,どうしようもなく疲れてしまい,もう限界を超えていると思いました」と言っています。この言葉から分かるように,悲しみは体にも感情にも大きなダメージとなることがあります。ですから,きちんと健康に注意を払うのは大切です。睡眠を十分に取り,栄養のある物を食べてください。
買い物や料理をすることはもちろん,食べたいとも思えない場合もきっとあるでしょう。それでも,栄養を取らないなら,感染症などの病気にかかりやすくなり,状況は悪くなるだけです。健康を保つために,少量でも食べるようにしましょう。b
できるだけ,何か運動をしてください。歩くだけでもかまいません。体を動かすことにすれば,おのずと家の外へ出ることになります。また,適度な運動をすると,エンドルフィンが分泌されます。この脳内化学物質には気分をよくする働きがあります。
他の人に助けてもらう。このことは,夫婦の一方が亡くなったときは特に大切でしょう。配偶者にしてもらっていた仕事はきっと幾つもあるでしょう。それを今度はだれかが行なわなければなりません。家計や家事を扱ってもらっていたなら,それを自分でしようとしてもうまくできないと感じるかもしれません。そのような場合,上手にできる友人のアドバイスは大きな助けになります。―箴言 25:11。
真の友は「苦難のときのために生まれた」と聖書は述べています。(箴言 17:17)ですから,他の人の負担になりたくないと考えて,自分を孤立させてはなりません。むしろ,人との交友は,悲しみを越えて死を受け入れる助けになります。サリーという若い女性は母親の死後,人と接しているととても元気になることに気づきました。「多くの友達が何かとわたしを誘ってくれました。それは,深い孤独感と闘う助けになりました。『お母さんが亡くなって,今はどう?』といったシンプルな質問をしてくれるのがうれしいです。母について話すと心が癒されます」。
ためらわずに思い出す。写真を眺めたりして,愛する人と過ごした幸せな時間を思い出すようにしましょう。確かに,そうするのは最初のうち辛いかもしれませんが,時たつうちに,心を苦しめるというより,心を癒す助けになります。
日記をつけることもできるでしょう。楽しい思い出を綴り,生きている時に伝えたかった言葉を記すこともできます。書き出してみると,自分の気持ちを客観的に見やすくなるかもしれません。自分の感情を吐露する良い方法とも言えます。
遺品を取っておくことはどうでしょうか。これについてはさまざまな見方があります。人によって悲しみ方は異なるので,それも当然でしょう。故人の身の回りの品を取っておくのは立ち直る妨げになると感じる人もいれば,助けになると考える人もいます。前に出てきたサリーはこう言います。「母の物を,いろいろ取っておきました。これは良い方法だと思います」。c
「すべての慰めの神」に頼る。「あなたの重荷をエホバご自身にゆだねよ。そうすれば,神が自らあなたを支えてくださる」と聖書は述べています。(詩編 55:22)神への祈りは単なる精神的な支えのようなものではありません。それは『すべての患難においてわたしたちを慰めてくださる,すべての慰めの神』との大切な実際のコミュニケーションです。―コリント第二 1:3,4。
神の言葉 聖書は,すばらしい慰めを与えてくれます。クリスチャンの使徒パウロはこう述べました。『わたしは神に対して希望を持っております。義者と不義者との復活があるということです』。(使徒 24:15)聖書に基づく復活の希望について考えるのは,愛する人の死を悲しんでいる時に,この上ない慰めとなります。d 事故で十代の弟を失ったローレンという女性の場合もそうでした。「どんなに辛くても,聖書を手に取って,1節だけでも読みました。特に励みとなる部分を選んで,繰り返し読みました。例えば,ラザロが死んだ後にイエスがマルタに語った言葉には慰められました。イエスは,『あなたの兄弟はよみがえります』とおっしゃったのです」。―ヨハネ 11:23。
「それに押しつぶされないでください」
簡単なことではありませんが,悲しみを乗り越えようとするなら,前向きに生きてゆくことができます。そうしたからといって,亡くなった愛する人を裏切ること,忘れることにはなりません。ですから罪悪感を抱く必要はありません。事実,あなたはその人を決して忘れないでしょう。何かのことで一気に記憶がよみがえってくるかもしれませんが,辛い症状は徐々に和らいでくるでしょう。
切ない出来事を懐かしく思い起こすこともできるでしょう。例えば,前の記事に出てきたアシュリーはこう言っています。「母が亡くなる前の日のことを思い出します。母は気分がいいようで,珍しくベッドから出ていました。姉が母の髪をとかしていた時,ちょっとしたことで,わたしたち3人は笑いました。その時,久しぶりに母の笑顔を見ました。娘たちと一緒にいられることを本当に喜んでいたのです」。
亡くなった人と一緒にいた時に学んだ大切なことも思い起こせるでしょう。サリーはこう言っています。「母はすばらしい先生でした。大事なアドバイスをさりげなく与えてくれました。どうすれば良い決定ができるかを教えてくれました。母や父が言ったからではなく,自分で決定するように,ということです」。
愛する人の思い出は,前向きに生きるのに必要な力となります。アレックスという青年もそのことを実感しました。こう言っています。「父の死後,父の教えどおりに生きてゆこうと決めました。人生を楽しむことを忘れてはならないという教えです。親と死別した人たちにはこう言いたいと思います。親の死を完全に乗り越えることはできないとしても,それに押しつぶされないでください。悲しむのは自然なことですが,これからの人生を充実したものにすることが大切です」。
[脚注]
a 別の家に引っ越すとか,新しい人間関係を築くといったことも,急いで決めないほうがよいでしょう。そのようなことは,今の新たな状況に順応する時間を十分に取ってからにする必要があります。
b アルコールは死別の悲しみを和らげるかもしれませんが,それは一時的なものです。長い目で見ると,アルコールは悲しみを乗り越える助けにはならず,依存症を招くおそれがあります。
[8ページの拡大文]
「どんなに辛くても,聖書を手に取って,1節だけでも読みました」― ローレン
[7ページの囲み記事/図版]
罪悪感に対処する
あの人は自分のせいで死んだのではないか,と思っておられるでしょうか。それが事実であっても想像にすぎなくても,悲しいときにそう思うのは自然なことです。ですから安心してください。この場合も,そうした気持ちを抑え込む必要はありません。だれかに話すなら,楽になります。罪悪感に打ちのめされないようにするのは本当に大切なことです。
しかし,次のことを忘れてはなりません。どんなに人を愛していても,その人の生活をコントロールすることも,その人に「時と予見しえない出来事」が臨むのを防ぐこともできません。(伝道の書 9:11)さらに,あなたに悪い動機はなかったのではないでしょうか。例えば,医師に診せるのが遅れたとして,あなたは愛する人を病気で死なせるつもりだったのでしょうか。もちろんそうではありません。では,あなたには本当に人を死なせた罪があるのでしょうか。ありません。
ある母親は,娘を交通事故で失った後に罪悪感を感じましたが,対処できました。こう述べています。「娘を家から送り出したことで自分を責めました。でも,そう思うのはばかげていることに気づきました。夫と娘にお使いを頼んだのは,少しも間違っていません。あれは,偶然に起きた,ひどい事故だったのです」。
『でも,こう言えばよかった,こうすればよかったということが,たくさんあるんです』と言われるかもしれません。そう感じるのも無理はありません。しかし,父親であれ母親であれ子どもであれ,自分は完全だと言える人がいるでしょうか。聖書はこう述べています。『わたしたちはみな何度もつまずくのです。言葉の点でつまずかない人がいれば,それは完全な人です』。(ヤコブ 3:2。ローマ 5:12)ですから,自分が完全ではないという事実を受け入れましょう。『あの時,こうしていれば』とあれこれ考えてみても何も変わりません。むしろ立ち直りが遅れてしまうでしょう。e
[脚注]
e エホバの証人の発行した「愛する家族を亡くしたとき」という冊子をご覧ください。
[6ページの図版]
悲しみの時に,高齢の親のほうが子を慰めなければならないことがある
[9ページの図版]
日記をつけること,写真を見ること,助けてもらうことは,愛する人を失った悲しみを乗り越えるのに役立つ
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