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グアドループ1995 エホバの証人の年鑑
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大会を開く場所を探す
グアドループで組織が拡大するにつれ,解決すべき問題が生じました。大会を開く施設がどこかにあるでしょうか。10年余りの間,ポワンタピートルの私立の学校,また,アビム市やカペステール市の市民会館を用いてきましたが,これらのホールはわたしたちが大会を開くには狭くなりました。どこか別の施設をあたらなければなりませんでした。
ラアランド兄弟の店の隣に空き地がありました。土地の持ち主は親切な人で,1964年12月末の巡回大会のためにその土地を無料で使わせてくれました。数日もしないうちに,わたしたちは地面に杭を打ってその上に板を差し渡した木造の建物を建て,その板の上に防水シートを敷いて屋根にしました。四方は壁がなく吹き抜きだったので,すぐに座席のある場所へ行けました。地元の兄弟たちが喜んで勤勉に働く様子は,手伝いに来ていた証人たちにとって大きな励ましでした。そして,700名近くの出席があったのは本当に祝福でした。新最高数だったのです。これから先の大会のために自分たちの施設が必要なことは明らかでした。
兄弟たちは,骨組みが鉄パイプで屋根はアルミニウム板という特異な建物を設計しました。700席を有する広さで,何と“大会ホール”全体が移動式でした。当時,グアドループの伝道者は約450人でしたから,十分ゆとりがあると思われました。
この建物は,1966年1月にバステール周辺で開かれた大会の際に初めて用いられました。公開講演の時間になると,907名もの熱心な聴衆が大会ホールの中にも周りにも詰めかけました。ホールはすでに狭すぎました。その後何年かの間,何度も何度もこのホールを拡張しなければなりませんでした。
巡回大会が雨の多い11月に当たることがしばしばありました。悪天候のため,泥だらけになることが多く,深い長靴を履いてゆくとよいことが分かりました。大会には慣例として満月の週末が選ばれました。兄弟たちが夜,自然の明かりを頼りに家路に就くことができるようにするためです。また月明かりのおかげで,大会の最後のプログラム終了直後に行なわれる幾らかの解体作業も容易になりました。
大会ホールの移動が可能だったため,区域のどこででも大会を開くことができたことは,グアドループで良いたよりを宣べ伝える業に優れた効果をもたらしました。さらに年に3回,そのホールを組み立て,また解体するという作業は,兄弟たちが共に働くことを学んだり,自己犠牲の精神を培ったりする機会になりました。疑いなく,この取り決めの上にはエホバの祝福があったのです。
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グアドループ1995 エホバの証人の年鑑
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マリーガーラント島で働く特別開拓者たちを支援するため,1969年4月,大会ホールをその島へ運び,そこで大会を開くことにしました。巡回監督のフォスティニ兄弟はこう報告しました。「それは類例のない大会でした。1,000人の証人たちがめいめい,水20㍑の入った缶を手に三隻の船から降り立ち,住民6,000人の小さな町グランブールに“侵入”するのを目撃した時の人々の驚きを想像なさってください。干ばつの時期で水が不足していたため,訪問者たちが水を持って来てくれたことで貯水池からの給水を節約できることに島の住民は感謝しました。波止場から町の中を通って大会会場まで果てしなく続く人々の列は,島の人たちが初めて目にする光景でした。島中の住民が証人たちの訪問を受け,ある場合は,同じ日の午前中に数回訪問を受けることもありました。幾日もたたないうちに,島の人は神の組織を知り,認識する機会を得たのです」。現在,マリーガーラント島には三つの会衆があります。
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