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ガイアナ2005 エホバの証人の年鑑
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忠実な兄弟たちをさらに励ますために,1922年に世界本部からジョージ・ヤングがガイアナを訪れ,3か月ほど滞在しました。フェリックス・パウレットの言葉を借りれば,「彼は疲れを知らない働き人でした」。ヤングが持っていた聖書の知識や,力強い声,なめらかな身振り,また視覚に訴える資料に心を動かされ,神の言葉をもっと詳しく調べるようになった人は少なくありませんでした。「ものみの塔」誌,1923年1月1日号(英語)は,ヤングの報告に基づき,「真理に対する関心が世界のその地域において著しく深まったこと,すべての公開集会において出席者が増加し,会場が満員になったこと,それに伴い信者の側の熱意や専心が高まったこと」に言及しています。例えば,サマセット・ハウスでの集会は,当時わずか25人ほどだった王国伝道者に対して,平均出席者が100人でした。
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ガイアナ2005 エホバの証人の年鑑
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一方,ガイアナの首都ジョージタウンではエドワード・フィリップスという人が,そのころ国際聖書研究者として知られていたエホバの証人の発行した文書を手に入れました。学んでいる事柄を是非ともだれかに伝えたいと願ったフィリップスは,親族や友人を定期的に自宅に招き,聖書に関する形式ばらない話し合いをしていました。1908年には,ものみの塔協会に手紙を書き,当時は英領ギアナと呼ばれていたガイアナに代表者を遣わしてほしいと頼みました。a 4年後にイベンダー・J・カワードが来て,ジョージタウンとニューアムステルダムで,公会堂に集まった数百人の聴衆を前に聖書講演を行ないました。
フィリップスの息子フレデリックは,カワードの訪問の思い出をこう書いています。「カワード兄弟はすぐジョージタウンで有名人になり,兄弟の宣べ伝えた音信に関心を持った人たちが聖書研究者の群れと交わるようになりました。その当時は,『世々に渉る神の経綸』や『新しい創造物』などの本を討議しました。我が家はすぐに手狭になり,1913年にジョージタウンのサマセット・ハウスの2階に部屋を借りました。そこは1958年まで会衆の集会場として用いられました」。
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ガイアナ2005 エホバの証人の年鑑
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[138ページの図版]
ガイアナのジョージタウンのサマセット・ハウス。1913年から1958年まで会衆の集会場として使用された
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