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    ものみの塔 2004 | 11月1日
    • エホバの幸福な僕たち

      「自分の霊的な必要を自覚している人たちは幸いです」。―マタイ 5:3。

      1 真の幸福とは何ですか。それは何と結びついていますか。

      エホバの民は幸福であり,それを重要なことと考えています。詩編作者ダビデは声を上げ,「エホバをその神とする民は幸いだ!」と言いました。(詩編 144:15)幸い,つまり幸福とは,恵まれた良い状態にあるという感覚です。最も深い幸福感 ― 人の内奥に根ざすもの ― は,自分はエホバの祝福を受けているという認識から生じます。(箴言 10:22)そのような幸福感は,自分が天の父と親しい関係にあり,父のご意志を行なっているという自覚と結びついています。(詩編 112:1; 119:1,2)興味深いことに,イエスは,人が幸福な者とみなされる九つの理由を挙げました。それら幸福,もしくは至福とされるものについて,この記事と続く記事で調べますが,それは,「幸福な神」エホバに忠実に仕えるのがいかに幸福なことか,という点を悟らせてくれるでしょう。―テモテ第一 1:11。

      自分の霊的な必要を意識

      2 イエスはどんな機会に幸福について話しましたか。冒頭でどんなことを述べましたか。

      2 西暦31年,イエスは,古今を通じて最も有名な講話の一つを行ないました。それはガリラヤ湖を見渡す山腹で行なわれたので,山上の垂訓と呼ばれています。マタイ福音書はこう述べています。「その群衆をご覧になった時,イエスは山に上られた。そして腰を下ろされると,弟子たちがそのもとに来た。それからイエスは口を開いて彼らを教えはじめ,こう言われた。『自分の霊的な必要を自覚している人たちは幸いです。天の王国はその人たちのものだからです』」。イエスの冒頭の言葉は,字義どおりに訳せば,「霊に関して貧しい者たちは幸いです」,あるいは「霊を乞い求める人たちは幸いです」となります。(マタイ 5:1-3; 王国行間逐語訳[英語]; 脚注)「今日の英語訳」では,「自分が霊的に貧しいことを知っている人たちは幸いです」となっています。

      3 謙遜さは幸福にどのように寄与しますか。

      3 イエスは,この丘陵斜面での垂訓の中で,霊的に困窮していることを意識している人のほうがはるかに幸福である,という点を指摘しました。謙遜なクリスチャンで,自分の罪ある状態を十分に意識している人は,キリストの贖いの犠牲に基づいてエホバに許しを請い求めます。(ヨハネ第一 1:9)その結果として,思いの平安と真の幸福を得るのです。「自分の反抗を赦され,その罪を覆われる者は幸い」です。―詩編 32:1; 119:165。

      4 (イ)自分と他の人の霊的な必要を意識していることをどのように示せますか。(ロ)霊的な必要を自覚していると,どのように幸福が増し加わりますか。

      4 霊的な必要を意識していれば,聖書を毎日読み,「忠実で思慮深い奴隷」が「時に応じて」分配する霊的食物を吸収し,クリスチャンの集会にいつも必ず出席します。(マタイ 24:45。詩編 1:1,2; 119:111。ヘブライ 10:25)また,隣人を愛していれば,他の人の霊的必要も意識し,熱心に王国の良いたよりを宣べ伝えて教えるようになります。(マルコ 13:10。ローマ 1:14-16)他の人に聖書の真理を伝えることは,わたしたちを幸福にします。(使徒 20:20,35)わたしたちの幸福は,王国に関する素晴らしい希望やその王国がもたらす数々の祝福について黙想するとき,いっそう深まります。油そそがれたクリスチャンの「小さな群れ」にとって,王国の希望とは,キリストの王国政府の一員として天で不滅の命を受けることです。(ルカ 12:32。コリント第一 15:50,54)「ほかの羊」にとっては,その王国政府のもとで楽園となる地上で,永遠の命を受けることです。―ヨハネ 10:16。詩編 37:11。マタイ 25:34,46。

      嘆き悲しむ人はどうして幸福になれるのか

      5 (イ)「嘆き悲しむ人たち」とはどのような人のことですか。(ロ)そのような嘆き悲しむ人は,どのように慰められますか。

      5 次にイエスが幸福に関して述べた言葉は矛盾しているかに見えます。イエスは,「嘆き悲しむ人たちは幸いです。その人たちは慰められるからです」と語りました。(マタイ 5:4)人は嘆き悲しむと同時にどうして幸福でいられるのでしょうか。イエスの言葉の意味を理解するには,ここで言われているのがどんな嘆きのことかを考える必要があります。弟子ヤコブの説明によれば,嘆きの原因の一つはわたしたちの罪の状態にあります。こう書いています。「あなた方の手を清くしなさい,罪人たちよ。また,あなた方の心を浄めなさい,優柔不断の者たちよ。惨めさに浸り,嘆き,泣きなさい。あなた方の笑いを嘆きに,喜びを失意に変えなさい。エホバのみ前にあって謙遜になりなさい。そうすれば,あなた方を高めてくださるでしょう」。(ヤコブ 4:8-10)自分の罪の状態を本当に悲しんでいる人は,慰められます。キリストの贖いの犠牲に信仰を働かせ,エホバのご意志を行なうことによって真の悔い改めを示すなら,罪を許していただけるからです。(ヨハネ 3:16。コリント第二 7:9,10)そのようにして,エホバとの貴重な関係を持つことができ,神に仕えて神を賛美するために永久に生きるという希望を抱くことができるのです。これが,深い内奥からの幸福感を生じさせます。―ローマ 4:7,8。

      6 一部の人々はどんな意味で嘆き悲しんでいますか。どのように慰められていますか。

      6 イエスの述べた言葉には,地上に広く見られる忌まわしい状態のゆえに嘆き悲しむ人たちも含まれます。イエスはイザヤ 61章1,2節の預言を自分に当てはめました。そこにはこう述べられています。「主権者なる主エホバの霊がわたしの上にある。それは,エホバがわたしに油をそそぎ,柔和な者たちに良いたよりを告げるようにされたからである。神はわたしを遣わして,心の打ち砕かれた者を包帯で包み,……嘆き悲しむすべての者を慰め(るようにされた)」。その任務は,まだ地上にいる油そそがれたクリスチャンにも当てはまります。それらの人は,友である「ほかの羊」の助けを得てその任務を遂行しています。皆が,「その[キリスト教世界を表わす背教したエルサレムの]中で行なわれているすべての忌むべきことのために嘆息し,うめいている者たち」の額に象徴的に印を付ける業に携わっています。(エゼキエル 9:4)そのように嘆き悲しんでいる人たちは,「王国の……良いたより」によって慰められます。(マタイ 24:14)エホバの義の新しい世が,間もなくサタンの邪悪な事物の体制に取って代わる,ということを知って喜ぶのです。

      温和な気質の人たちは幸い

      7 「温和な気質」という表現で表わされているのは,どんなことではありませんか。

      7 イエスは山上の垂訓の中でさらにこう述べました。「温和な気質の人たちは幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです」。(マタイ 5:5)気質の温和さは,性格的な弱さと考えられることもあります。しかし,それは弱さではありません。ある聖書学者は,「温和な気質の」と訳される言葉の意味について,こう書いています。「[気質の温和]な人の最大の特徴は,申し分のない自制心のある人だということである。それは意気地のない物柔らかさでも,感傷的な溺愛でも,受け身の平静さでもない。制御された強さである」。イエスは自分自身について,「わたしは気質が温和で,心のへりくだった者……です」と述べました。(マタイ 11:29)イエスはそのような方でしたが,義の原則を擁護する点では勇敢でした。―マタイ 21:12,13; 23:13-33。

      8 気質の温和さは何と密接に関連していますか。他の人との関係でこの特質が必要なのはなぜですか。

      8 ですから,気質の温和さは自制心と密接に関連しています。実際,使徒パウロは「霊の実」を概説したときに,温和と自制を並べて挙げています。(ガラテア 5:22,23)気質の温和さは,聖霊の助けのもとに培うべきものです。外部の人との,また会衆内の人たちとの平和に寄与する,クリスチャンの特質です。パウロはこう書いています。「優しい同情心,親切,へりくだった思い,温和,そして辛抱強さを身に着けなさい。……引き続き互いに忍び,互いに惜しみなく許し合いなさい」。―コロサイ 3:12,13。

      9 (イ)温和な気質が他の人との関係においてのみ表わされるものでないのはなぜですか。(ロ)温和な気質の人は,どのように『地を受け継ぎ』ますか。

      9 しかし,気質の温和さは,他の人との関係に限定されるわけではありません。わたしたちは,進んでエホバの主権に服することにより,気質の温和さを実証します。この点で最高の手本はイエス・キリストです。この地上におられた時,気質の温和さを示し,み父の意志に全面的に服しました。(ヨハネ 5:19,30)イエスは,地を受け継ぐ面で筆頭となる方です。地に対する,任命を受けた支配者だからです。(詩編 2:6-8。ダニエル 7:13,14)この相続物を,「人類の中から」選ばれた14万4,000人の「共同の相続人」と共有し,「地に対し王として支配」します。(ローマ 8:17。啓示 5:9,10; 14:1,3,4。ダニエル 7:27)キリストとその共同の支配者たちは,非常に大勢の羊のような人々を治めます。その人々のうえに,詩編の次の預言的な言葉が,喜ばしい成就を見ることになります。「柔和な者たちは地を所有し,豊かな平和にまさに無上の喜びを見いだすであろう」。―詩編 37:11。マタイ 25:33,34,46。

      義に飢え渇いている人たちは幸い

      10 「義に飢え渇いている」人は,どんなことによっても満たされますか。

      10 イエスがそのガリラヤの丘陵で話した際に概説した幸福の次の点はこうです。「義に飢え渇いている人たちは幸いです。その人たちは満たされるからです」。(マタイ 5:6)エホバはクリスチャンのために義の規準を定めておられます。ですから,義に飢え渇いている人は,神の導きに飢え渇いているのです。そのような人は自分の罪や不完全さを痛感しており,エホバのみ前で受け入れられる立場を切望しています。その人は神の言葉から,もし悔い改めて,キリストの贖いの犠牲に基づいて許しを求めるなら,神のみ前で義の立場を得られるということを学ぶとき,どんなにか幸福な気持ちになることでしょう。―使徒 2:38; 10:43; 13:38,39。ローマ 5:19。

      11,12 (イ)油そそがれたクリスチャンはどのようにして義にかなった者とされますか。(ロ)油そそがれた者の友となる人たちは,義に対する渇きをどのように満たされますか。

      11 そのような人は「満ち足りる」ので幸福になる,とイエスは語りました。(マタイ 5:6,王国行間逐語訳)天でキリストと共に「王として支配する」ように召された油そそがれたクリスチャンは,「命のために……義」と宣せられています。(ローマ 5:1,9,16-18)エホバはそれらの人を霊的な子としてご自分の養子にしておられます。それらの人は,天の王国政府で王また祭司となるために召されて,キリストと共同の相続人になります。―ヨハネ 3:3。ペテロ第一 2:9。

      12 油そそがれた者の友となる人たちは,まだ命のためには義と宣せられていません。しかし,キリストの流した血に対する信仰のゆえに,エホバからある程度,義と認められています。(ヤコブ 2:22-25。啓示 7:9,10)「大患難」のとき救い出される,エホバの友として,義とみなされているのです。(啓示 7:14)義に対する渇きは,その人々が「新しい天」のもとで『義が宿る』新しい地の一部となる時,いっそう満たされることになります。―ペテロ第二 3:13。詩編 37:29。

      憐れみ深い人たちは幸い

      13,14 自分が憐れみ深い者であることを実生活でどのように示す必要がありますか。わたしたちにもどんな益がありますか。

      13 イエスは山上の垂訓を続けて,こう語りました。「憐れみ深い人たちは幸いです。その人たちは憐れみを受けるからです」。(マタイ 5:7)法的な場面で憐れみは,悪行者に対し法律に基づく相応の処罰を科すことを控える裁判官の側の温情と理解されています。しかし,聖書中の用法によれば,「憐れみ」と訳される原語の言葉は,ほとんどの場合,不利な境遇にある人を救済する親切な思いやりや哀れみの表明を指しています。ですから,憐れみ深い人は,積極的に同情心を示す人です。イエスの例えに登場する,隣人愛に富むサマリア人は,困っている人に対して「憐れみ深く行動した」立派な例となっています。―ルカ 10:29-37。

      14 憐れみ深さから来る幸福を知るには,困っている人に対して積極的に行動し,親切にする必要があります。(ガラテア 6:10)イエスは,自分が目にした人々に同情を覚えました。こう記されています。「彼らを哀れに思われた。彼らが羊飼いのいない羊のようであったからである。そして,彼らに多くのことを教え始められた」。(マルコ 6:34)イエスは,人間に最も必要なのは霊的なものであることを悟っていました。わたしたちも,他の人々が一番必要としているもの,すなわち『王国の良いたより』を伝えることにより,自分が同情心と憐れみに富んでいるということを示せます。(マタイ 24:14)また,仲間のうち年配のクリスチャン,やもめ,孤児に実際的な助けを差し伸べ,「憂いに沈んだ魂に慰めのことばをかけ(る)」こともできます。(テサロニケ第一 5:14。箴言 12:25。ヤコブ 1:27)そうすることによって,自分も幸福を味わうだけでなく,エホバの憐れみを受ける者ともなります。―使徒 20:35。ヤコブ 2:13。

      心の純粋な人,平和を求める人

      15 どうすれば心の純粋な人,また平和を求める人になれますか。

      15 イエスは六つめと七つめの幸福を次のように概説しました。「心の純粋な人たちは幸いです。その人たちは神を見るからです。平和を求める人たちは幸いです。その人たちは『神の子』と呼ばれるからです」。(マタイ 5:8,9)純粋な心とは,道徳的に清いだけでなく,霊的にも汚れがなく,エホバへの専心の点で統一されている心のことです。(歴代第一 28:9。詩編 86:11)原語の「平和を求める人たち」と訳されている言葉は,文字どおりには,「平和を作る人たち」という意味です。平和を求める人は,クリスチャンの兄弟たちと,そして,近隣の人たちとも努めて平和に過ごします。(ローマ 12:17-21)「平和を求めてそれを追い求め」ます。―ペテロ第一 3:11。

      16,17 (イ)油そそがれた者たちが「神の子」と呼ばれるのはなぜですか。どのように『神を見ます』か。(ロ)「ほかの羊」はどのように『神を見ます』か。(ハ)完全な意味で,「ほかの羊」はいつ,どのように「神の子」となりますか。

      16 心が純粋で平和を求める人たちは,「『神の子』と呼ばれる」,また「神を見る」と約束されています。油そそがれたクリスチャンは,まだ地上にいる時から霊によって生み出され,エホバとの養子縁組によって「子」とされています。(ローマ 8:14-17)復活して天でキリストと共になったときには,エホバのみ前で仕え,実際に神を見ます。―ヨハネ第一 3:1,2。啓示 4:9-11。

      17 平和を求める「ほかの羊」は,自分たちの「とこしえの父」となる,りっぱな羊飼いキリスト・イエスのもとでエホバに仕えます。(ヨハネ 10:14,16。イザヤ 9:6)キリストの千年統治後の最終的な試みを首尾よく通過する人たちは,養子縁組によってエホバの地上の子とされ,「神の子供の栄光ある自由を持つ」ようになります。(ローマ 8:21。啓示 20:7,9)その時を見越してエホバを父と呼びます。エホバに自分の命を献げ,エホバを命の与え主と認めているからです。(イザヤ 64:8)それらの人は,昔のヨブやモーセのように,信仰の目で「神を見る」ことができます。(ヨブ 42:5。ヘブライ 11:27)「心の目」で,また神についての正確な知識をもって,エホバの素晴らしい特質を見分け,ご意志を行なうことによって神に倣うように心掛けています。―エフェソス 1:18。ローマ 1:19,20。ヨハネ第三 11。

      18 イエスが概説した最初の七つの幸福によれば,今日真の幸福を得るのはどんな人たちですか。

      18 以上のように,自分の霊的な必要を自覚している人,嘆き悲しんでいる人,温和な気質の人,義に飢え渇いている人,憐れみ深い人,心の純粋な人,平和を求める人たちは,エホバに仕えることに真の幸福を感じます。とはいえ,そのような人たちは,これまでいつも反対に遭い,迫害されることさえありました。では,幸福は損なわれるのでしょうか。その点については,次の記事で取り上げます。

  • 迫害されていても幸福
    ものみの塔 2004 | 11月1日
    • 迫害されていても幸福

      「人々がわたしのためにあなた方を非難し,迫害し,あらゆる邪悪なことを偽ってあなた方に言うとき,あなた方は幸いです」。―マタイ 5:11。

      1 イエスは追随者たちに,幸福と迫害に関してどんな保証を与えましたか。

      イエスは,王国を宣べ伝えさせるために使徒たちを初めて送り出すにあたり,それらの人は反対に遭うことになる,と警告しました。「あなた方は,わたしの名のゆえにすべての人の憎しみの的となるでしょう」と言われました。(マタイ 10:5-18,22)しかし,それよりも前,山上の垂訓の中で,使徒たちをはじめとする人々に,そのような反対は必ずしも人の内奥の幸福を脅かすものではない,との保証を与えました。その時イエスは,幸福であることと,クリスチャンとして迫害されることとを結びつけることさえされました。どうして迫害が幸福をもたらすのでしょうか。

      義のために苦しむ

      2 イエスと使徒ペテロによれば,どんな苦しみは幸福をもたらしますか。

      2 イエスが述べた八つめの幸福は,こうです。「義のために迫害されてきた人たちは幸いです。天の王国はその人たちのものだからです」。(マタイ 5:10)苦しみに遭うこと自体は功績となるわけではありません。使徒ペテロはこう書きました。「罪をおかして打たれているときに,あなた方がそれを耐え忍ぶからといって,そのことにいったいどんなほめるべき点があるでしょうか。しかし,善を行なって苦しみに遭っているとき,あなた方がそれを耐え忍ぶなら,それは神にとって喜ばしいことなのです」。そして,さらにこう述べました。「しかしながら,あなた方のうちのだれも,殺人者,盗人,悪行者,あるいは他人の事に干渉する者として苦しみに遭ってはなりません。しかし,クリスチャンとして苦しみに遭うのであれば,その人は恥じることはありません。むしろその名によって神の栄光をたたえてゆきなさい」。(ペテロ第一 2:20; 4:15,16)イエスの言葉によれば,義のために苦しみを耐え忍ぶときに,その苦しみは幸福をもたらします。

      3 (イ)義のために迫害されるとは,どういう意味ですか。(ロ)迫害は初期のクリスチャンにどんな影響を及ぼしましたか。

      3 真の義は,神の意志と命令に従うことによって達成されます。したがって,義のために苦しむとは,神の規準や要求に背かせようとする圧力に抵抗するために苦しみを忍ぶ,という意味です。使徒たちは,イエスの名によって宣べ伝えるのをやめようとはしなかったために,ユダヤ人の指導者たちから迫害されました。(使徒 4:18-20; 5:27-29,40)では,そのゆえに喜びを失ったでしょうか。また,宣べ伝えることをやめたでしょうか。そのようなことは決してありません。「[使徒たち]は,彼の名のために辱められるに足る者とされたことを歓びつつ,サンヘドリンの前から出て行った。そして彼らは毎日神殿で,また家から家へとたゆみなく教え,キリスト,イエスについての良いたよりを宣明し続けた」のです。(使徒 5:41,42)その迫害は,使徒たちにむしろ喜びをもたらし,宣べ伝える業に対する熱意を新たにさせました。初期のクリスチャンは後に,皇帝崇拝をしようとしなかったためにローマ人から迫害されました。

      4 クリスチャンはどんな理由で迫害されることがありますか。

      4 現代においてエホバの証人は,「王国のこの良いたより」を宣べ伝えることをやめようとしないために迫害を受けてきました。(マタイ 24:14)自分たちのクリスチャンの集会が禁じられても,聖書の命じているとおりに集まり合うことを続け,そのための苦しみを進んで忍ぼうとします。(ヘブライ 10:24,25)また,クリスチャンとしての中立を守り,血の誤用を拒むゆえにも迫害されてきました。(ヨハネ 17:14。使徒 15:28,29)それでも,義を擁護するこうした立場は,今日の神の民に大きな内面の平安と幸福をもたらしています。―ペテロ第一 3:14。

      キリストのために非難される

      5 今日エホバの民が迫害されるのは,基本的にどんな理由によりますか。

      5 イエスが山上の垂訓の中で話した九つめの幸福も迫害と関連があります。イエスはこう述べました。「人々がわたしのためにあなた方を非難し,迫害し,あらゆる邪悪なことを偽ってあなた方に言うとき,あなた方は幸いです」。(マタイ 5:11)エホバの民が迫害される基本的な理由は,この民が現在の邪悪な事物の体制のものではないことにあります。イエスは弟子たちにこう語りました。「あなた方が世のものであったなら,世は自らのものを好むことでしょう。ところが,あなた方は世のものではなく,わたしが世から選び出したので,そのために世はあなた方を憎むのです」。(ヨハネ 15:19)同様に,使徒ペテロもこう述べました。「彼らは,あなた方がこうした道を自分たちと共に放とうの同じ下劣なよどみにまで走り続けないので,当惑してあなた方のことをいよいよあしざまに言います」。―ペテロ第一 4:4。

      6 (イ)残りの者とその友たちが非難され,迫害されるのはなぜですか。(ロ)そのように非難されると,幸福ではなくなりますか。

      6 すでに見たように,初期のクリスチャンはイエスの名によって宣べ伝えるのをやめなかったために迫害されました。キリストは追随者たちに任務を与えて,「あなた方は……地の最も遠い所にまで,わたしの証人となる」と言いました。(使徒 1:8)キリストの油そそがれた兄弟たちの忠実な残りの者は,忠節な友である「大群衆」の助けを受けつつその任務を熱心に遂行してきました。(啓示 7:9)それゆえにサタンは,「彼女の胤[神の組織の天的な部分である「女」の胤]のうちの残っている者たち,すなわち,神のおきてを守り行ない,イエスについての証しの業を持つ者たち」に戦いをしかけています。(啓示 12:9,17)エホバの証人であるわたしたちは,王国政府の現に統治している王イエスについて証ししています。その政府は,神の義にかなった新しい世の実現を妨げる人間の諸政府を滅ぼします。(ダニエル 2:44。ペテロ第二 3:13)わたしたちは,そのことを証しするゆえに非難され迫害されますが,キリストの名のために苦しみを忍ぶ自分たちを幸いな者とみなします。―ペテロ第一 4:14。

      7,8 初期のクリスチャンについて,反対者たちは偽ってどんなことを言いましたか。

      7 イエスが述べたところによれば,追随者たちはイエスのために人々から『あらゆる邪悪なことを偽って言われる』ときにも,自分を幸いな者と見ることができます。(マタイ 5:11)初期のクリスチャンの場合,確かにそうでした。西暦59年から61年ごろ使徒パウロがローマで拘禁されていた時,その地のユダヤ人指導者たちはクリスチャンのことを,「実際この派について,いたるところで反対が唱えられていることは,わたしたちの知るところ(です)」と言いました。(使徒 28:22)パウロとシラスは,「カエサルの布告に逆らって」行動し,「人の住む地を覆した」という罪状で訴えられました。―使徒 17:6,7。

      8 歴史家K・S・ラトゥレットは,ローマ帝国時代のクリスチャンについて,こう述べています。「訴えの理由は様々であった。異教の儀式に参加しようとしなかったために無神論者呼ばわりされた。異教の祝祭,……民衆の娯楽など,社会生活の多くの面から離れていたため,人間ぎらいとして嘲笑された。……夜に男女が集まり,……そのあと乱交が行なわれるなどと言われた。……[キリストの死の記念式]が信者たちだけの見守るところで行なわれたことも,クリスチャンは定期的に幼児をいけにえにしてその血と肉をむさぼる,といううわさの種にされた」。それだけでなく,皇帝崇拝をしようとしなかったため,初期クリスチャンは国家の敵とされ,訴えられました。

      9 1世紀のクリスチャンは,浴びせられた虚偽の非難にどう対応しましたか。今日の状況はどうですか。

      9 そのように虚偽の非難を浴びせられても,初期クリスチャンは,王国の良いたよりを宣べ伝えるという任務を遂行しました。西暦60年ないし61年にパウロは,「良いたより」が「世界じゅうで実を結んで増大して」おり,「天下の全創造物の中で宣べ伝えられた」と述べることができました。(コロサイ 1:5,6,23)今日でも同じことが生じています。エホバの証人は,1世紀のクリスチャンの場合と同じように,虚偽の非難を受けています。それでも今日,王国の音信を宣べ伝える業は成功しており,その業に加わる人は大きな幸福を味わっています。

      預言者たちと同じように迫害されても幸福

      10,11 (イ)イエスは九つめの幸福についての話をどのように結びましたか。そう述べたのはなぜですか。(ロ)預言者たちが迫害されたのはなぜですか。例を挙げてください。

      10 イエスは,九つめの幸福についての話の終わりに,「歓び……なさい。……人々はあなた方より前の預言者たちをそのようにして迫害したのです」と述べました。(マタイ 5:12)エホバが不忠実なイスラエルに警告するために遣わした預言者たちは,快く迎え入れられることはなく,多くの場合,迫害されました。(エレミヤ 7:25,26)使徒パウロは,その事実を証ししてこう書いています。「このうえ何を言いましょうか。さらに……ほかの預言者たちについて語ってゆくなら,時間が足りなくなるでしょう。彼らは信仰により,……あざけりやむち打ち,いえ,それだけでなく,なわめや獄によっても試練を受けました」。―ヘブライ 11:32-38。

      11 邪悪な王アハブとその妻イゼベルの治世中,多数のエホバの預言者が剣で殺されました。(列王第一 18:4,13; 19:10)預言者エレミヤは足かせ台につながれ,後には泥深い水溜めに投げ込まれました。(エレミヤ 20:1,2; 38:6)預言者ダニエルは,ライオンの穴蔵にほうり込まれました。(ダニエル 6:16,17)それらキリスト以前の預言者たちは皆,エホバの清い崇拝を擁護したために迫害されました。ユダヤ人の宗教指導者たちに迫害された預言者は少なくありません。イエスは書士やパリサイ人を,「預言者たちを殺害した者たちの子」と呼びました。―マタイ 23:31。

      12 エホバの証人であるわたしたちが,昔の預言者たちと同じように迫害されることを特権とみなすのはなぜですか。

      12 今日,エホバの証人であるわたしたちは,王国の良いたよりを熱心に宣べ伝えるゆえに,しばしば迫害されます。敵対する人たちはわたしたちの宣教を「強引な改宗の勧誘」であるとしますが,今の時代より前の忠実なエホバの崇拝者たちも同様の批判に直面したことをわたしたちは知っています。(エレミヤ 11:21; 20:8,11)昔の忠実な預言者たちの場合と同じ理由で苦しみに遭うことをわたしたちは特権とみなします。弟子ヤコブはこう書きました。「兄弟たち,苦しみを忍び,辛抱する点で,エホバの名によって語った預言者たちを模範としなさい。ご覧なさい,忍耐した人たちは幸福である,とわたしたちは言います」。―ヤコブ 5:10,11。

      幸福の奥深い理由

      13 (イ)迫害されても失意しないのはなぜですか。(ロ)わたしたちが堅く立てるのはどうしてですか。このことは何の証拠ですか。

      13 わたしたちは,迫害を受けても失意しません。それどころか自分は,預言者たち,初期のクリスチャン,そしてキリスト・イエスご自身の足跡に従っているのだと考えて,慰められるのです。(ペテロ第一 2:21)また,聖書を読んで,使徒ペテロの次のような言葉からも深く満ち足りた気持ちになります。「愛する者たちよ,あなた方の間の燃えさかる火は,試練としてあなた方に起きているのであり,何か異常なことが身に降り懸かっているかのように当惑してはなりません。キリストの名のために非難されるなら,あなた方は幸いです。栄光の霊,すなわち神の霊があなた方の上にとどまっているからです」。(ペテロ第一 4:12,14)さらに,自分が迫害のもとで堅く立てるのは,エホバの霊が自分の上にあり,それによって強くされているからにほかならない,ということを経験から知っています。聖霊によって支えられていることは,エホバの祝福を受けている証拠であり,その点を思うと真に幸福な気持ちになります。―詩編 5:12。フィリピ 1:27-29。

      14 義のために迫害されることを喜ぶべき,どんな理由がありますか。

      14 義のために反対や迫害を受けても幸福であるもう一つの理由は,それが真のクリスチャンとして敬虔な専心のうちに生活していることのしるしでもある,という点です。使徒パウロはこう書きました。「キリスト・イエスにあって敬虔な専心のうちに生活しようと願う人はみな同じように迫害を受けます」。(テモテ第二 3:12)試練のもとで忠誠を保てば,被造物はみな利己心からエホバに仕えているにすぎないというサタンの挑戦的主張に対するいま一つの返答になる,と考えると,この上なく幸福な気持ちになります。(ヨブ 1:9-11; 2:3,4)エホバの義なる主権の立証にほんのわずかでも貢献できるのは,本当にうれしいことです。―箴言 27:11。

      報いを見つめて喜び躍る

      15,16 (イ)イエスは,わたしたちが『歓び,かつ喜び躍る』よう,どんな理由を示しましたか。(ロ)油そそがれたクリスチャンのためにどんな報いが天に蓄え置かれていますか。それらの人の友である「ほかの羊」も,どのように報われますか。

      15 イエスは,昔の預言者たちのように汚名を着せられ迫害されても喜ぶべき,もう一つの理由を示しました。九つめの幸福についての言葉の終わり近くで,「歓び,かつ喜び躍りなさい。天においてあなた方の報いは大きいからです」と述べておられます。(マタイ 5:12)使徒パウロはこう書きました。「罪の報いは死ですが,神の賜物は,わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命……です」。(ローマ 6:23)そうです,『大きな報い』とは命のことです。それは,働いて勝ち取る賃金のようなものではありません。無償の賜物です。その報いはエホバから来るので「天に」ある,とイエスは言いました。

      16 油そそがれた人たちは「命の冠」を受けます。その場合の命とは,天でキリストと共に享受する不滅の命です。(ヤコブ 1:12,17)「ほかの羊」と呼ばれる,地上の希望を持つ人たちは,地上の楽園で永遠の命を受け継ぐことを楽しみにしています。(ヨハネ 10:16。啓示 21:3-5)どちらの級の人にとっても,その「報い」は勝ち取るものではありません。油そそがれた人も「ほかの羊」も,受けるのは,エホバの『より豊かに注がれた過分のご親切』による報いです。使徒パウロは神のそのご親切に感動して,「その言いつくしえぬ無償の賜物のゆえに,神に感謝がささげられますように」と述べました。―コリント第二 9:14,15。

      17 迫害のもとでも幸福で,比喩的に『喜び躍る』というのはなぜですか。

      17 クリスチャンの中には,その後まもなく皇帝ネロによる残虐な迫害に遭うことになる人もいましたが,使徒パウロはそれらの人にあててこう書きました。「患難にあっても歓喜しましょう。患難が忍耐を生じさせることをわたしたちは知っているからです。かわって,忍耐は是認を受けた状態を,是認を受けた状態は希望を生じさせ,その希望が失望に至ることはありません」。さらに,「希望によって歓びなさい。患難のもとで耐え忍びなさい」とも述べました。(ローマ 5:3-5; 12:12)抱いている希望が天のものであれ地上のものであれ,試練のもとで忠実を保ったことの報いは,受けるべきどんなものより,はるかに大きいと言えます。王イエス・キリストの支配下で永久に生きて,愛ある父エホバに仕えつつエホバを賛美する見込みを思うとき,この喜びは限りなく広がります。比喩的に言って『喜び躍る』のです。

      18 終わりが近づくにつれ,諸国民に関してはどんなことが予想されますか。エホバはどうされますか。

      18 幾つかの国のエホバの証人は,かつて迫害され,今もなお迫害されています。イエスは,事物の体制の終結に関する預言の中で真のクリスチャンに,「あなた方は,わたしの名のゆえにあらゆる国民の憎しみの的となるでしょう」と警告しました。(マタイ 24:9)終わりに近づくにつれ,サタンは諸国民を動かしてエホバの民に対する憎しみをあらわにさせます。(エゼキエル 38:10-12,14-16)それは,エホバの行動する時となります。「わたしは必ずわたしを大いなるものとし,わたしを神聖なものとし,多くの国々の民の目の前でわたしを知らせるであろう。そして彼らはわたしがエホバであることを知らなければならなくなる」とあります。(エゼキエル 38:23)エホバはそのようにしてその偉大なお名前を神聖にし,ご自分の民を迫害から救い出されます。ですから,「耐えてゆく人は幸い」なのです。―ヤコブ 1:12。

      19 わたしたちは,大いなる「エホバの日」を待ちながら,何をするべきですか。

      19 その大いなる「エホバの日」がいよいよ近づいている今,わたしたちはイエスの名のために「辱められるに足る者とされ」ているのですから,それを歓びとしましょう。(ペテロ第二 3:10-13。使徒 5:41)初期クリスチャンと同じように,わたしたちも「たゆみなく教え,キリスト[とその王国政府]についての良いたよりを宣明し」続けられますように。そのようにしながら,エホバの義の新しい世での報いを待ち望みましょう。―使徒 5:42。ヤコブ 5:11。

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