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『あなた方は聖なる者でなければならない。わたしは聖なる者だからである』ものみの塔 1996 | 8月1日
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『あなた方は聖なる者でなければならない。わたしは聖なる者だからである』
「あなた方は聖なる者となるべきである。あなた方の神であるわたしエホバは聖なる者だからである」― レビ記 19:2。
1 世界の人々から聖者とみなされているどんな人たちがいますか。
世界の主要な宗教には大抵,それぞれに聖者とみなされている人たちがいます。インドでの活動で名高いマザー・テレサは,貧しい人々に献身的に仕えてきたことでしばしば聖人とされています。法王は“聖なる父”と呼ばれています。現代カトリック運動の一つであるオプス・デイ会を創設したホセ・マリア・エスクリバは,一部のカトリック教徒から「神聖さの鑑」とされています。ヒンズー教にもスワーミー,つまり聖者がいます。ガンジーは聖者の一人とあがめられました。仏教にも聖なる僧侶がおり,イスラム教にも聖なる預言者がいます。しかし,聖なる者であるとは,厳密にはどういうことでしょうか。
2,3 (イ)「聖なる」,また「神聖」という言葉には,どんな意味がありますか。(ロ)答えるべきどんな質問がありますか。
2 「聖なる」という言葉は,「1. ……神の力に関連した; 神にかかわる。2. 崇拝または崇敬の念をもって見られる,もしくはそれに値する。……3. 厳格な,もしくは高徳の宗教的また霊的方針に従って生活する。……4. 宗教的な目的のために指定された,もしくは取り分けられた」と定義されてきました。聖書の用法で,聖であるとは「宗教上の清さ,もしくは宗教上の清浄」を意味します。聖書の参考書である「聖書に対する洞察」によれば,「原語のヘブライ語[の言葉]コーデシュは,……神のために取り分けられていること,専ら用いられること,あるいは聖なるものとされること,……神への奉仕のために取っておかれている状態という考えを伝えて」います。a
3 イスラエル国民は,聖なる者となるよう命じられました。神の律法はこう述べました。「わたしはあなた方の神エホバ……である。あなた方は自分を神聖なものとし,聖なる者とならなければならない。わたしは聖なる者だからである」。神聖さの源はだれでしょうか。不完全なイスラエル人がどのようにして聖なる者になれましたか。今日のわたしたちは,聖なる者となるようにというエホバの呼びかけから,どんな教訓を得られるでしょうか。―レビ記 11:44。
イスラエルは神聖さの源にどのように結びついていたか
4 エホバの神聖さはイスラエルでどのように例示されましたか。
4 エホバ神に対するイスラエルの崇拝に関連した事柄はすべて聖なる事柄とみなされ,そのようなものとして扱われることになっていました。なぜでしょうか。なぜなら,エホバはまさに神聖さの根源だからです。聖なる幕屋および祭服や装飾品を作り整えたあとのモーセの記述は次の言葉で結ばれています。「最後に彼らは輝く平板,献納の聖なるしるしを純金で造り,その上に,印章の彫り込みをもって,『神聖さはエホバのもの』という銘の書き込みを行なった」。純金のこの輝く平板は,大祭司のターバンに固定され,大祭司が特別に神聖さを帯びた奉仕のために取り分けられていることのしるしとなりました。イスラエル人は,書き込みのなされたこのしるしが陽光の中できらめくのを見るたびにエホバの神聖さを思い起こしました。―出エジプト記 28:36; 29:6; 39:30。
5 イスラエル人は不完全であっても,どうすることによって聖なる者とみなされましたか。
5 それにしても,イスラエル人はどのようにして聖なる者になることができたのでしょうか。それはただ,エホバとの親密な関係を保ち,エホバへの清い崇拝を守ることによりました。聖なる状態で,つまり身体的にも霊的にも清い状態でエホバを崇拝するために,「最も聖なる方」についての正確な知識が必要でした。(箴言 2:1-6; 9:10)ですから,イスラエル人は純粋な動機と純粋な心で神を崇拝しなければなりませんでした。偽善的な崇拝の方式はすべてエホバにとって不快なものです。―箴言 21:27。
なぜエホバはイスラエルを糾弾されたか
6 マラキの時代のユダヤ人はエホバの食卓をどのように扱いましたか。
6 この点は,イスラエル人が不誠実にも質の劣る,欠陥のある犠牲を神殿に持って来た時に,はっきり示されました。エホバは預言者マラキを通して,彼らの捧げ物の質の悪さを糾弾されました。「『わたしはあなた方のことを喜ばない』と,万軍のエホバは言われた。『あなた方の手からの供え物をわたしは喜びとはしない』。……『しかしあなた方は,「エホバの食卓は汚れたもの,その実,すなわちその食物は軽んずべきもの」と述べることによってわたしを汚している。しかもあなた方は,「見よ,何とうみ疲れることか」と言って,それを鼻であしらうようにさせた』と,万軍のエホバは言われた。『そしてあなた方は,引き裂かれたもの,足なえのもの,病気のものを携えて来た。あなた方はそのようなものを供え物として携えて来たのである。わたしはあなた方の手にあるものに喜びを持てるだろうか』と,エホバは言われた」― マラキ 1:10,12,13。
7 西暦前5世紀のユダヤ人は,神聖さに反するどんな行動をとっていましたか。
7 マラキはユダヤ人の信義にもとる習わしを糾弾するために神に用いられました。それは西暦前5世紀のことと思われます。祭司たちは良くない手本を示しており,彼らの行状は決して聖なるものではありませんでした。その指導に従っていた民は,守るべき原則をしっかり守ろうとはせず,恐らく異教徒の若い女性をめとるために妻と離婚することまでしていました。マラキはこう書いています。「『エホバ自身,あなたとあなたの若い時の妻との間について証しをする者となった……。それはあなたの伴侶,あなたの契約の妻であるにもかかわらず,あなたはこれに対して不実な振る舞いをした。b ……それであなた方も,自分の霊に関して自らを守り,自分の若い時の妻に対してだれも不実な振る舞いをしてはならない。神は離婚を憎んだのである』と,イスラエルの神エホバは言われた」― マラキ 2:14-16。
8 クリスチャン会衆においても一部の人たちは,離婚に対する現代の考え方にどのように影響されてきましたか。
8 現代において,簡単に離婚ができる多くの国では離婚率が上昇してきました。クリスチャン会衆も影響を受けています。一部の人たちは,障害を克服して結婚生活を成功させるために長老たちの助けを求めることもせず,あまりにも早く投げ出してしまいます。多くの場合,子供たちが感情面で高い代償を払わされます。―マタイ 19:8,9。
9,10 エホバに対する自分の崇拝に関し,どんな点をよく考えるべきですか。
9 すでに見たように,マラキの時代の霊的に嘆かわしい状態のゆえに,エホバはユダの上辺だけの崇拝を厳しくとがめ,ご自分がただ清い崇拝のみを受け入れることを示されました。これを思うと,宇宙の主権者なる主であり真の神聖さの源であられるエホバ神に対する自分の崇拝の質はどうだろうか,と考えさせられるのではないでしょうか。わたしたちは本当に,神に聖なる奉仕をささげているでしょうか。自分を霊的に清い状態に保っているでしょうか。
10 これは,わたしたちが完全でなければならないという意味ではありません。それは不可能です。また,自分を他の人と比較してみるべきだという意味でもありません。それは,クリスチャン各自が事情の許す範囲で最善の崇拝を神にささげているべきである,という意味です。つまり,ささげる崇拝の質の問題です。わたしたちの行なう神聖な奉仕は,自分の最善のもの,すなわち聖なる奉仕でなければならないのです。どうすればその状態に達することができるでしょうか。―ルカ 16:10。ガラテア 6:3,4。
浄い心が清い崇拝につながる
11,12 神聖さに反する行ないはどこから生じますか。
11 イエスは,心にあるものが当人の言葉や行ないに表われる,という点をはっきり教えました。自分を義としていても聖なる者ではなかったパリサイ人に対して,イエスは,「まむしらの子孫よ,あなた方は邪悪な者であるのに,どうして良い事柄を語れるでしょうか。心に満ちあふれているものの中から口は語るからです」と言われました。後に,邪悪な行動は心の中の,つまり内奥の邪悪な考えから生じることを示してこう言われました。「口から出るものは心から出て来るのであり,それが人を汚します。たとえば,心から,邪悪な推論,殺人,姦淫,淫行,盗み,偽証,冒とくが出て来ます。これらは人を汚すものです」。―マタイ 12:34; 15:18-20。
12 このことからも,神聖さに反する行動というものは決して自然に,つまり前提となる原因もなしに生じるわけではないことが理解できます。そうした行動は,心に潜んでいた汚れた考え,すなわち密かな欲望や,恐らくは空想の結果です。ですからイエスはこう言えたのです。「『あなたは姦淫を犯してはならない』と言われたのをあなた方は聞きました。しかし,わたしはあなた方に言いますが,女を見つづけてこれに情欲を抱く者はみな,すでに心の中でその女と姦淫を犯したのです」。言い換えれば,淫行や姦淫は行動に移される前にすでに心に根を下ろしているのです。そのあと,都合のよい状況が訪れた時,神聖さに反するその考えが神聖さに反する行動となります。淫行,姦淫,男色,盗み,冒とく,背教などは,そうした考えの明白な結果と言えます。―マタイ 5:27,28。ガラテア 5:19-21。
13 神聖さに反する考えが神聖さに反する行為につながることを示す,どんな例がありますか。
13 この点は,様々な例で説明できます。ある国々では,賭博場が次々と開設されており,そのため賭け事を行なう機会が増えています。人は自分の金銭上の問題のため,このまやかしの解決策に頼ろうとするかもしれません。兄弟たちの中にも,もっともらしい理由を聞かされて,聖書の原則を退けたり軽く考えたりしてしまう人がいるかもしれません。c あるいは,テレビ,ビデオ,コンピューター,書籍など,どんなものからでも容易にポルノに接することができるため,クリスチャンが神聖さに反する行ないをしてしまう場合もあります。当人が霊的な武具を軽んじればそのようになり,いつの間にか不道徳に陥ってしまいます。しかし,ほとんどの場合,罪に陥る過程は思いの中で始まります。そうです,そうした状況でヤコブのこの言葉がそのとおりになるのです。「おのおの自分の欲望に引き出されて誘われることにより試練を受け(ま)す。次いで欲望は,はらんだときに,罪を産みます」― ヤコブ 1:14,15。エフェソス 6:11-18。
14 多くの人は,神聖さに反する行ないからどのように立ち返りましたか。
14 幸いなことに,弱さゆえに罪を犯すクリスチャンの多くは真の悔い改めを示し,長老たちはそのような人を霊的に立ち直らせることができます。悔い改めなかったために排斥された場合でも,やがて本心に立ち返って会衆に復帰する人は少なくありません。それらの人は,神聖さに反する考えが心に根づくのを許した時に自分があえなくサタンに捕まってしまった,ということを悟るのです。―ガラテア 6:1。テモテ第二 2:24-26。ペテロ第一 5:8,9。
課題 ― 自分の弱点と取り組む
15 (イ)なぜ自分の弱点を直視しなければなりませんか。(ロ)自分の弱点を認めるのに何が助けになりますか。
15 わたしたちは自分の心を客観的に知る努力をしなければなりません。進んで自分の弱点を直視し,それを認め,次いでそれを克服するよう努力するでしょうか。どうすれば改善できるかを正直な友人に進んで尋ね,次いでその忠告に耳を傾けるでしょうか。聖なる者でいるためには,自分の短所を克服しなければなりません。なぜでしょうか。なぜなら,サタンはわたしたちの弱点を知っているからです。サタンは巧妙な策略を用いて挑発し,罪を犯させよう,神聖さに反する行ないをさせようとするでしょう。ずる賢い行為により,わたしたちを神の愛から引き離して,もはや神聖にされた者でも,エホバの崇拝のために有用な者でもないようにならせようとします。―エレミヤ 17:9。エフェソス 6:11。ヤコブ 1:19。
16 パウロにはどんな葛藤がありましたか。
16 使徒パウロにも試練や試みとなるものがありました。ローマ人への手紙の中でこう告白しています。「わたしは自分のうち,つまり自分の肉のうちに,良いものが何も宿っていないことを知ってい(ま)す。願う能力はわたしにあるのですが,りっぱな事柄を生み出す能力はないからです。自分の願う良い事柄は行なわず,自分の願わない悪い事柄,それが自分の常に行なうところとなっているのです。……わたしは,内なる人にしたがえば神の律法をほんとうに喜んでいますが,自分の肢体の中では別の律法がわたしの思いの律法と戦い,わたしをとりこにして肢体の中にある罪の律法へと引いて行くのを見ます」― ローマ 7:18-23。
17 パウロは自分の弱点との闘いにどのように勝利を収めましたか。
17 さて,パウロの例で肝要なのは,彼が自分の弱点を認めていたことです。パウロは弱点があったとはいえ,「わたしは,内なる[霊的な]人にしたがえば神の律法をほんとうに喜んでいます」と言うことができました。パウロは善を愛し,悪を憎んでいました。それでも彼には,サタンと世と肉体に対する,わたしたちすべてが抱えているのと同じ戦いがありました。では,わたしたちはどうすればその戦いに打ち勝って,この世とその考え方から離れた聖なる者でいられるでしょうか。―コリント第二 4:4。エフェソス 6:12。
どうすれば聖なる者でいられるか
18 わたしたちはどうすれば聖なる者でいられますか。
18 聖なる状態は,抵抗の最も少ない道をとる,あるいは気ままに行動することによっては得られません。そのような人は常に自分の行ないの言い訳をし,責任を転嫁しようとするでしょう。わたしたちは自分の行動に責任を持つことを学ぶ必要があるかもしれません。家族の背景や遺伝のせいで巡り合わせが悪かったと主張する人のようであってはならないのです。問題の根源はその人の心の中にあります。その人は義を愛しているでしょうか。ぜひ聖なる者になりたいと思っていますか。神の祝福を願っているでしょうか。詩編作者は,「悪いことから遠ざかり,善いことを行なえ。平和を見いだすように努め,それを追い求めよ」と述べて,聖なる者となることの必要性を明示しました。使徒パウロはこう書いています。「あなた方の愛を偽善のないものにしなさい。邪悪なことは憎悪し,善良なことにはしっかりと付きなさい」。―詩編 34:14; 97:10。ローマ 12:9。
19,20 (イ)どうすれば思いを築き上げることができますか。(ロ)効果的に個人研究すればどんな結果が得られますか。
19 わたしたちは,物事をエホバの見地から見れば,そしてキリストの思いを持てば,『善良なことにしっかりと付く』ことができます。(コリント第一 2:16)どのようにしてその状態に到達できるのでしょうか。神の言葉を定期的に研究し,それについて黙想することによってです。この助言はこれまでに幾度も与えられてきました。わたしたちはその助言を真剣に受け止めているでしょうか。例えば,集会に出る前に,実際にこの雑誌を聖書と照らし合わせながら研究していますか。研究と言っても,各節の幾つかの語句に下線を引くだけのことではありません。研究記事一つは15分もあれば,ざっと目を通して線を引くこともできます。それでその記事を研究したと言えるでしょうか。実際,一つの記事を研究し,そこに含まれている霊的な益を吸収するには,一,二時間はかかるでしょう。
20 もしかしたら,毎週数時間テレビの前から離れて自分が聖なる者であるかどうかに真に注意を集中するよう,自分自身を鍛錬する必要があるかもしれません。定期的に研究すれば,霊的に築き上げられ,思いが活動して正しい決定,すなわち「聖なる行状」につながる決定をすることができます。―ペテロ第二 3:11。エフェソス 4:23; 5:15,16。
21 答えの必要などんな質問が残っていますか。
21 次に問題となるのは,わたしたちはクリスチャンとして,活動や行状のさらにどんな分野でエホバのように聖なる者となれるか,という点です。次の記事は,考えの糧となるでしょう。
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「すべての行状において聖なる者となりなさい」ものみの塔 1996 | 8月1日
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「すべての行状において聖なる者となりなさい」
「あなた方を召された聖なる方にしたがい,あなた方自身もすべての行状において聖なる者となりなさい。なぜなら,『あなた方は聖なる者でなければならない。わたしは聖なる者だからである』と書かれているからです」― ペテロ第一 1:15,16。
1 ペテロはなぜ,聖なる者となるようクリスチャンに促しましたか。
使徒ペテロはなぜ上のような助言を与えたのでしょうか。なぜなら,クリスチャンは各々自分の考えや行動がエホバの神聖さに調和したものとなるよう,それらに注意する必要がある,ということに気づいたからです。それで,上の言葉の前にこう書いています。「活動に備えて自分の思いを引き締め,あくまでも冷静さを保ちなさい。……あなた方は従順な子供として,以前無知であったために抱いた欲望にそって形作られるのをやめ(なさい)」― ペテロ第一 1:13,14。
2 真理を学ぶ前に抱いていた欲望が神聖なものでなかったのはなぜですか。
2 わたしたちが以前に抱いていた欲望は神聖なものではありませんでした。なぜでしょうか。なぜなら,わたしたちの多くは,キリスト教の真理を受け入れる前には世の生き方に倣っていたからです。ペテロはそれを知っていて率直にこう書きました。「過ぎ去った時の間,あなた方は,みだらな行ない,欲情,過度の飲酒,浮かれ騒ぎ,飲みくらべ,無法な偶像礼拝に傾いていましたが,諸国民の欲するところを行なうのはそれで十分……です」。もちろんペテロは,神聖さに反する行為として現代の世界に特有のものは挙げていません。当時それらは知られていなかったからです。―ペテロ第一 4:3,4。
3,4 (イ)どうすれば悪い欲望に打ち勝つことができますか。(ロ)クリスチャンは感情に動かされない人でなければなりませんか。説明してください。
3 お気づきでしょうか,そうした欲望は肉に,感覚に,また感情に訴えるものばかりです。そうした欲望に駆られると,考えや行動はたちまち神聖ではないものになってしまいます。これは,自分の行動を理性によって制御する必要のあることを示しています。パウロはその点をこのように言い表わしました。「そのようなわけで,兄弟たち,わたしは神の情けによってあなた方に懇願します。あなた方の体を,神に受け入れられる,生きた,聖なる犠牲として差し出しなさい。これがあなた方の理性による神聖な奉仕です」― ローマ 12:1,2。
4 神に聖なる犠牲を差し出すためには,感情ではなく,理性に支配されるようにしなければなりません。感じるままに行動して不道徳を犯してしまったという例は実に多いのです。とはいえ,感情を押し殺さなければならないという意味ではありません。そうでなければ,エホバへの奉仕で味わう喜びをどうして表現できるでしょうか。しかし,肉の業ではなく霊の実を生み出したいのであれば,自分の思いを作り直してキリストの考え方を身に着けなければなりません。―ガラテア 5:22,23。フィリピ 2:5。
聖なる生活,聖なる代価
5 聖なる者であるべきことをペテロが意識したのはなぜですか。
5 クリスチャンが聖なる者であるべきことを,ペテロがそれほどに意識したのはなぜでしょうか。なぜなら,人類のうちの従順な人々を請け戻すために聖なる代価が支払われたことをよく知っていたからです。こう書いています。「あなた方も知っているように,あなた方が父祖伝来のむなしい行状から救い出されたのは,朽ちるもの,つまり銀や金によるのでは(ありません)。それは,きずも汚点もない子羊の血のような貴重な血,すなわちキリストの血によるのです」。(ペテロ第一 1:18,19)そうです,神聖さの源であるエホバ神は,ご自分の独り子である「聖なる方」を地に遣わされたのです。それは,贖い代を払って,人々が神との良い関係を持てるようにするためでした。―ヨハネ 3:16; 6:69。出エジプト記 28:36。マタイ 20:28。
6 (イ)聖なる行状を追い求めることが容易でないのはなぜですか。(ロ)聖なる行状を保つのに何が助けになりますか。
6 しかし,認めなければならない点ですが,腐敗したサタンの世のただ中で聖なる生活を送るのは容易なことではありません。真のクリスチャンはサタンの事物の体制にあってもくじけずに生きてゆこうと努力していますが,サタンはそのようなクリスチャンの前にわなを仕掛けます。(エフェソス 6:12。テモテ第一 6:9,10)世俗の仕事,家族からの反対,学校でのあざけり,仲間の圧力などのために感じる重圧の下で聖なる状態を保つためには,どうしても強い霊性が必要です。これは,個人研究と,クリスチャンの集会に定期的に出席することの重要性を裏書きしています。パウロはテモテに,「キリスト・イエスに関連した信仰と愛をもってわたしから聞いた健全な言葉の型を常に保ちなさい」と助言しました。(テモテ第二 1:13)わたしたちは,健全さに資するそのような言葉を王国会館で聞くことができ,聖書を自分で研究する際に読むことができます。それは,様々な状況下で,行状の聖なる者として日々を送る上で助けになります。
家族内での聖なる行状
7 聖なる者となることは家族生活にどう影響するはずですか。
7 ペテロはレビ記 11章44節を引用した際,ギリシャ語のハギオスという語を用いました。この語には,「罪から隔てられた,それゆえに神に対して聖別された,神聖な」という意味があります。(「新約聖書用語解説辞典」,W・E・バイン編)これはクリスチャンとしてのわたしたちの家族生活にどう影響するでしょうか。これは,家族生活を愛に根ざしたものにしなさい,という意味であるはずです。「神は愛」だからです。(ヨハネ第一 4:8)自己犠牲的な愛は,夫婦の関係や親子の関係を滑らかにする油なのです。―コリント第一 13:4-8。エフェソス 5:28,29,33; 6:4。コロサイ 3:18,21。
8,9 (イ)クリスチャンの家庭にも時にどんな状況の生じることがありますか。(ロ)こうした問題に関して聖書はどんな健全な助言を与えていますか。
8 クリスチャンの家族であればそのように愛を示し合うことはごく自然にできる,と思えるかもしれません。しかし,愛が必ずしも,本来あるべき姿にまで支配的でないクリスチャン家庭もあることを認めないわけにはゆきません。王国会館ではそうしているように見えても,家の中ではその聖なる様がたちまち影を潜めてしまうかもしれません。そこでは,妻が依然としてクリスチャンの姉妹であること,また夫が王国会館で尊敬されていたその同じ兄弟であることを(しかも,奉仕の僕または長老でさえあることを)急に忘れてしまうのかもしれません。神経がいらだって激しい口論になる場合もあります。二重の規準が生活に入り込むことすらあります。もはやキリストの教えにかなった夫婦関係ではなく,ただいがみ合う男女にすぎなくなります。家庭内に聖なる雰囲気があるべきことを忘れてしまいます。世の人のような話し方をするようになるかもしれません。そうなると,意地の悪い辛らつな言葉が口を突いて出てくるようになりがちです。―箴言 12:18。使徒 15:37-39と比較してください。
9 しかし,パウロはこう助言しています。「腐ったことば[ギリシャ語,ロゴス サプロス,「人を汚す話し言葉」,ゆえに神聖さに反することば]をあなた方の口から出さないようにしなさい。むしろ,必要に応じ,どんなことにせよ築き上げるのに良いことばを出して,聞く人たちに恵みとなるようにしなさい」。この聞く人たちとは,子供たちを含め家の中の聞いている人すべてに当てはまります。―エフェソス 4:29。ヤコブ 3:8-10。
10 聖なることに関する助言はどのように子供たちにも当てはまりますか。
10 聖なることに関するこの指針はまた,クリスチャン家族内の子供たちにも等しく当てはまります。学校から家に帰ると,世の仲間たちの反抗的で敬意の欠けた話し方をまねたりするようになりがちです。子供の皆さん,エホバの預言者を侮辱した粗暴な少年たちの態度,また同じように口汚い冒とく的なことを言う今日の若者の態度につられないでください。(列王第二 2:23,24)人々の下品でがさつな言葉遣いに倣って自分の話し方を汚してはなりません。彼らは余りにも怠惰で,あるいは思いやりがないために品位のある言葉を使えないのです。クリスチャンとしてわたしたちの話し方は,聖なるもの,快いもの,人を築き上げるもの,親切なもの,また「塩で味つけされたもの」であるべきです。その点で他の人々とは異なっているべきです。―コロサイ 3:8-10; 4:6。
神聖さと家族内の未信者
11 聖なる者であることが独善的であることを意味しないのはなぜですか。
11 わたしたちはいつも聖なる行ないをするよう良心的に努める一方,家族内の未信者に対しては特に,相手を見下して自分を義とするような態度をとってはなりません。クリスチャンとしての親切な行為は,少なくとも,わたしたちが良い意味で異なっていること,つまりイエスの例えに出てくる善良なサマリア人が示したように愛や同情を示す方法を確かに心得ている,ということを未信者が理解する助けになるはずです。―ルカ 10:30-37。
12 クリスチャンの夫や妻は,どうすれば自分の配偶者の目に真理をより魅力的なものにすることができますか。
12 ペテロは,家族内の未信者にふさわしい態度をとることの重要性を強調し,クリスチャンの妻たちに対してこう書きました。「同じように,妻たちよ,自分の夫に服しなさい。それは,み言葉に従順でない者がいるとしても,言葉によらず,妻の行状によって,つまり,深い敬意のこもったあなた方の貞潔な行状を実際に見て引き寄せられるためです」。クリスチャンの妻は(この点では夫も),自分の行状を貞潔で,思いやりのある,敬意のこもったものにすることによって,信者でない配偶者の目にも,真理をより魅力的なものにすることができます。これは,信者でない配偶者が冷たくあしらわれたり,ないがしろにされたりすることがないよう,神権的な活動予定に融通性を持たせるという意味です。a ―ペテロ第一 3:1,2。
13 長老や奉仕の僕たちは,未信者のご主人が真理の価値を認識できるよう,時にはどのようにして助けになれますか。
13 長老や奉仕の僕たちは,未信者のご主人と知り合って親睦を図ることにより,時に助けになれます。そのようにすれば,証人たちも聖書のことだけでなく広く様々な事柄に関心を持つ,たしなみのある普通の人々であることを分かってもらえるかもしれません。ある長老は,ご主人が釣りを趣味としていることに関心を示しました。それだけで打ち解けた話ができました。そのご主人はやがてバプテスマを受けた兄弟となりました。また,ある未信者のご主人はカナリアが大好きでした。長老たちは負けていませんでした。長老の一人はカナリアについて勉強して,次に会った時にはそのご主人の好みの話題で会話を始められるようにしたのです。ですから,聖なる者であるとは,堅苦しい人,一つのことしか頭にない人という意味ではありません。―コリント第一 9:20-23。
どうすれば会衆内で聖なる者となれるか
14 (イ)会衆を弱体化させるためにサタンが用いる手段の一つは何ですか。(ロ)どうすればサタンのわなにかからないようにすることができますか。
14 悪魔サタンは中傷する者です。悪魔を指すギリシャ語の名,ディアボロスには,「告訴する者」もしくは「中傷する者」という意味があるのです。中傷はサタンの得意な手口の一つで,彼はそれを会衆内で使おうとします。好んで用いるのが,うわさ話です。この神聖さに反する行ないで悪魔の手先になってよいでしょうか。どういう場合にそうなってしまうでしょうか。うわさ話を始め,あるいは伝え,またそれに耳を傾けてしまう場合です。箴言の知恵のことばはこう述べています。「悪巧みをする者は常に口論を送り出し,中傷する者は親密な者たちを引き離してゆく」。(箴言 16:28)うわさ話や中傷に巻き込まれないようどんな対策を講じられるでしょうか。自分の話す事柄が常に人を築き上げるもの,また愛に基づいたものであるようにすべきです。兄弟たちの良くない点とされる事柄よりむしろ良い点に目を留めるようにすれば,会話はいつも気持ちの良い,霊的なものになるでしょう。忘れないでください,批判するのは容易です。そして,あなたの前で他の人についてうわさする人は,他の人の前であなたについてもうわさするかもしれません。―テモテ第一 5:13。テトス 2:3。
15 キリストに似たどんな特質は,会衆内のすべての人を聖なる状態に保つのに助けになりますか。
15 会衆を聖なる状態に保つためには,全員がキリストの思いを持つ必要があります。そして,わたしたちの知るとおり,キリストの支配的な特質は愛なのです。それでパウロはコロサイの人々に,キリストのように同情心の豊かな者となるよう諭してこう書いています。「したがって,神の選ばれた者,また聖にして愛される者として,優しい同情心,親切,へりくだった思い,温和,そして辛抱強さを身に着けなさい。……互いに惜しみなく許し合いなさい。……これらすべてに加えて,愛を身に着けなさい。それは結合の完全なきずななのです」。そして,さらに,「キリストの平和があなた方の心の中を制御するようにしなさい」と述べています。確かに,人を快く許すこの霊があれば,会衆の一致と神聖さを保つことができます。―コロサイ 3:12-15。
わたしたちの神聖さは近隣の人々にも明らかですか
16 わたしたちの聖なる崇拝はなぜ幸福なものであるはずですか。
16 近隣の人々についてはどうでしょうか。人々はわたしたちをどう見ていますか。わたしたちは真理の喜びを輝かせているでしょうか。あるいはそれを重荷のように思わせているでしょうか。わたしたちがエホバが聖なる方であるように聖なる者であるなら,話す事柄や行状にはっきり表われるはずです。わたしたちの聖なる崇拝が幸福なものであることは明白になるはずです。なぜでしょうか。わたしたちの神エホバは幸福な神であり,ご自分の崇拝者たちが喜びに満ちているようにと願っておられるからです。それゆえに詩編作者は,古代のエホバの民について,「エホバをその神とする民は幸いだ!」と言うことができました。わたしたちはその幸福感を反映しているでしょうか。子供たちも,王国会館や大会会場でエホバの民の中にいる時にその満ち足りた気持ちを表わしているでしょうか。―詩編 89:15,16; 144:15後半。
17 聖なる者として平衡のとれていることを示すのに実際面でどんな事ができますか。
17 わたしたちはまた,協力の精神や隣人としての親切心により,聖なる者として平衡のとれていることを示せます。時には,地区の清掃とか,国によっては一般道路や幹線道路の改良工事のために,近隣住民の協同作業が必要なこともあります。この点で,わたしたちが聖なる者であることは,自宅の庭や敷地その他の所有物の管理の仕方にもはっきり表われる場合があります。ごみを散らかして置いたり,壊れて古びた乗り物がだれの目にも留まるなど,敷地内がだらしなく乱雑であったりするなら,隣人に敬意を払っていると言えるでしょうか。―啓示 11:18。
仕事場や学校での神聖さ
18 (イ)今日のクリスチャンはどんなことのために難しい状況に立たされますか。(ロ)わたしたちはどのようにして世とは異なった者となれますか。
18 使徒パウロは,神聖さに欠けたコリントという都市に住んでいたクリスチャンにあててこう書いています。「わたしは自分の手紙の中で,淫行の者との交友をやめるようにとあなた方に書き送りましたが,それは,この世の淫行の者,あるいは貪欲な者やゆすり取る者,また偶像を礼拝する者たちと全く交わらないようにという意味ではありません。もしそうだとすると,あなた方は実際には世から出なければならないことになります」。(コリント第一 5:9,10)これはクリスチャンにとって一種の難しい状況となります。不道徳な,もしくは道徳観念の全くない人たちと日ごとに接しなければならない場合です。これは忠誠を大いに試みるものとなります。セクシュアル・ハラスメントまた不正や不正直な行ないが奨励,もしくは容認されている風土の土地では特にそうです。そうした状況にあるとしても,周りの人たちから“正常”とみなされるために自分の規準を下げるわけにはいきません。むしろ,クリスチャンとして親切ではあっても他と異なる行状によって,識別力のある人々や,自分の霊的な必要を認めて,より良いものを探し求めている人たちの目に留まるようにすべきです。―マタイ 5:3。ペテロ第一 3:16,17。
19 (イ)子供の皆さんには学校でどんな試練がありますか。(ロ)親は子供を支え,その聖なる行状を励ますために何を行なえますか。
19 同様に,子供たちも学校で多くの試練に遭います。親の皆さんはお子さんの通っている学校へ行ってみますか。そこがどのような雰囲気の所かご存じですか。学校の先生たちと接触を持っておられますか。なぜこのような問いが大切なのでしょうか。なぜなら,世界の多くの都市で学校は暴力や麻薬や性に翻弄される所となっているからです。子供たちに親からの同情心ある支えが十分にないとしたら,どうして忠誠を,そして聖なる行状を保てるでしょうか。適切にも,パウロは親の立場にある人たちに,「父たちよ,あなた方の子供をいらいらさせて気落ちさせることのないようにしなさい」と助言しました。(コロサイ 3:21)子供は日々直面する問題や試練を理解してもらえないと,いらいらしてしまいます。学校での様々な誘惑に対する備えは,クリスチャン家庭の霊的な雰囲気の中で始まるのです。―申命記 6:6-9。箴言 22:6。
20 わたしたちすべてにとって聖なる状態を保つことが不可欠なのはなぜですか。
20 結論として,わたしたちすべてにとって聖なる状態を保つことが不可欠なのはなぜでしょうか。なぜなら,それはサタンの世の考えが入り込んでくることに対する守りとなるからです。それはいま祝福であり,将来にも祝福となります。それは命を,義の新しい世での真の命を確実なものにする上で助けになります。またそれは,わたしたちが物分かりの悪い狂信者ではなく,平衡のとれた,近づきやすい,気持ちの通うクリスチャンとなるための助けにもなります。要するに,それはキリストのようなひととなりを得させるのです。―テモテ第一 6:19。
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