-
聖書は同性愛について何と述べているか目ざめよ! 2016 | No. 4
-
-
エホバの証人はどんなことを信じているか
エホバの証人は,聖書の道徳律は最善の導きであると信じ,その道徳律に従った生き方を選びます。(イザヤ 48:17)[2] ですから,同性愛を含め,あらゆる不道徳な行為を退けます。(コリント第一 6:18)[3] それがエホバの証人の選んだライフスタイルであり,エホバの証人にはそれを選ぶ権利があります。
エホバの証人は黄金律に従い,自分が扱ってほしいように他の人を扱うことに努める
同時にエホバの証人は,「すべての人に対して平和を追い求め」るよう努めます。(ヘブライ 12:14)同性愛行為は退けますが,自分の見方を人に押し付けたりはしません。同性愛者に対するヘイトクライムに加わったり,そうした犯罪について聞いて喜んだりすることもありません。エホバの証人は黄金律に従い,自分が扱ってほしいように他の人を扱うことに努めます。―マタイ 7:12。
聖書は偏見を助長しているのか
それでも一部の人たちは,聖書は同性愛に対する偏見を助長しており,聖書の道徳律を固く守る人たちは寛容ではない,と言います。そして,「聖書は人間が狭量だった時代に書かれた本だ。今は,どんな人種や国籍の人も,どんな性的嗜好の人も受け入れられる」と主張します。そうした人たちにとって,同性愛を退けるのは,肌の色の違う人を退けるのと同じことです。しかし,そう考えるのは正しいことではありません。なぜでしょうか。
同性愛行為を退けることと,同性愛者を退けることとは違うからです。聖書はクリスチャンに,あらゆる人を敬うよう命じています。(ペテロ第一 2:17)[4] しかしそれは,クリスチャンがあらゆる行為を容認しなければならない,という意味ではありません。
例えで考えてみましょう。喫煙を有害なものと考え,嫌悪感さえ抱く人がいるとします。その人の職場には,たばこを吸う同僚がいます。ではその人は,たばこに関する見方が同僚と違うというだけで狭量と見られるでしょうか。同僚と同じようにたばこを吸わないなら,同僚に偏見を抱いていることになりますか。もし同僚がその人に,たばこに関する見方を変えるよう求めるとしたら,同僚のほうこそ,狭量かつ不寛容だと言えないでしょうか。
エホバの証人は聖書の道徳律に従った生き方を選びます。聖書が禁じている行為は受け入れません。しかし,行動の仕方が自分と違う人たちを軽蔑したり不当に扱ったりすることはありません。
-
-
聖書は同性愛について何と述べているか目ざめよ! 2016 | No. 4
-
-
もう少し考えてみましょう。専門家たちの意見によると,攻撃などの行動特性には生物学的な原因があるようです。聖書は,攻撃の生物学的な側面について具体的には述べていませんが,「怒りやすい者」や「すぐに激怒する者」がいることは認めています。(箴言 22:24; 29:22)そのうえで,「怒りをやめ,激怒を捨てよ」と命じているのです。―詩編 37:8。エフェソス 4:31。
その命令は同意できるものではない,攻撃的な性格の人にとって厳しすぎる,と言う人はほとんどいないでしょう。実際,怒りが人の遺伝子に根ざしていると考える専門家たちでさえ,そうした傾向を抑えるよう人々を助けるために努力しています。
エホバの証人は,聖書の規準に反するどんな行動に対しても,それと同様の立場を取ります。結婚していない男女の性関係についても同じ見方をするのです。どんな場合であっても,聖書の次の助言を当てはめます。「あなた方一人一人が,自分の器をいかに聖化と誉れのうちに所有すべきかを知り,……貪欲な性欲のままに歩まないことです」。―テサロニケ第一 4:4,5。
-
-
聖書は同性愛について何と述べているか目ざめよ! 2016 | No. 4
-
-
エホバの証人は,聖書の道徳律を固く守りますが,自分の見方を他の人に押し付けることはしません。また,自分とはライフスタイルが違う人たちの人権を保護する法律を覆そうともしません。エホバの証人が伝えるメッセージは積極的なものであり,耳を傾ける人たちにそれを熱心に伝えます。―使徒 20:20。
-