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ハンガリー1996 エホバの証人の年鑑
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しかし,兄弟は激しい反対に遭うことがしばしばあったため,時々,アメリカに帰りたいと思うことがありました。そんな時,妻は,「あなた,私たちはなぜハンガリーへ帰って来たの? 宣べ伝えるためじゃなかったの?」と尋ねました。すると,ヤーノシュは落ち着きを取り戻すのでした。
内部および外部からの反対
良いたよりを宣べ伝える業が多くの地域に達し,その勢いを増すにつれ,反対も強くなりました。1925年に,政府は協会の文書を配布する許可を取り消しました。兄弟たちに霊的な食物を供給し続けるためには,クルジュで出版する「ものみの塔」誌の題を,「クリスチャン巡礼者」,「福音」などといった題に定期的に変える必要がありました。
僧職者も,兄弟たちに反対する活動を強化しました。一例として,カトリックの司祭ゾルターン・ニュイストルが編集した,「千年期説信奉者である聖書研究者」と題する小冊子はこう述べています。「ラッセル主義は共産主義のボルシェビズムよりも悪質で嫌悪すべきものである。なぜなら,……ラッセル主義は,宗教に姿を変えて無政府主義をあおりたてるものであり,革命,教会に対する迫害,僧職者の粉砕もしくは絶滅を神の計画としているからである」。
兄弟たちが警察から受けた残忍な扱いは,多くの場合,諸教会の扇動によるものでした。そうした残虐行為が実際にあったことは,米国に戻ったカローリー・サボーの体に残っていた傷跡からも明らかです。
こうした迫害に加えて,サタンと悪霊たちは内部に不和を引き起こしました。クルジュにいたヤーコプ・B・シーマが利己的な目標を追求し始め,神の王国の良いたよりを宣べ伝える業の重要性を見失い,自分に注意を引くことを望むようになったのです。このことは大きな分裂につながりました。
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ハンガリー1996 エホバの証人の年鑑
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この時期には,ファシズムがハンガリーに強力な影響を与えるようになっていました。ドイツの兄弟たちは強制的に出国させられ,ハンガリーの兄弟たちに対する迫害も激しくなりました。兄弟たちの多くは警察から残忍な扱いを受けた後,長期の禁固刑を言い渡されました。
注意深く開かれた集会
1930年代の終わりになると,集会は秘密裏に,また少人数でしか開けなくなりました。文書と言えば大抵,各会衆に「ものみの塔」誌が1冊あるだけで,兄弟たちはそれを回覧しました。
ティサバシュバーリ出身のフェレンツ・ナジは回顧します。「当時の『ものみの塔』研究は,今とは違っていました。来るはずの人が全員来ると,ドアを閉めました。時には,一つの記事を検討するのに6時間もかかることがありました。私は当時5歳ぐらいで,弟は私より一つ下でしたが,二人とも小さな椅子に座って,その長い研究に耳を傾けているのが好きでした。本当に楽しいひとときでした。今でもその時学んだ預言的な劇を幾つか覚えています。両親が私たちを育ててくれた方法は,良い実を結びました」。
80代になった今でもブダペストで忠実に奉仕しているエテル・ケチケメーティネー姉妹は,ティサカラーダで兄弟たちが昼休みに自分たちの畑で集会を開いていたことを覚えています。兄弟たちは,最初にある証人の土地を共に耕し,次に別の証人の土地へ行くという方法をとっていたため,役人たちはそうした集会を防止することができませんでした。秋と冬には,姉妹たちは一緒に腰を下ろして糸を紡ぎ,兄弟たちはその場に加わりました。警察は兄弟たちの活動を調査したものの,それをやめさせるわけにはいきませんでした。集まり合うそうした機会がない場合,兄弟たちはどこか別の場所で,朝の早い時間か夜遅くに集まりました。
機略縦横の宣明者たち
家から家の伝道が禁じられると,証人たちは聖書の真理を伝える別の手段を見いだしました。当時,携帯用蓄音機を使うことは比較的新しい方法で,その使用を禁じる法律はありませんでした。そのことを考えた兄弟たちは,良いおとずれを録音したレコードをかけてもいいですか,と家の人に尋ねました。家の人が,どうぞと言うと,ラザフォード兄弟の話のレコードをかけました。このために兄弟たちは,ラザフォード兄弟の講演を幾つか収めたハンガリー語のレコード盤を作製し,携帯用蓄音機と,大きなスピーカーのついた録音再生機の両方を活用しました。
それら録音された強力な聖書の音信について,後にケチケメーティネー姉妹の娘と結婚したヤーノシュ・ラコーは,思い出を語ります。「私は録音された話をシャートロイヨウーイヘイで聞きましたが,それはとてもうれしい経験でした。その話の中に,私の心に深く刻み込まれたこんな一節がありました。『君主政治,民主主義体制,貴族政治,ファシズム,共産主義体制,ナチスなど,すべての支配力はハルマゲドンにおいて消え去り,やがて忘れ去られるであろう』。聖書の真理が力強く話されるのには驚きました。1945年のその時に,私に深い感銘を与えたその話には,預言のような響きがありました」。
困難は続く
その後も迫害は続き,激しさを増してゆきました。あるカトリックの司祭がブダペストの協会の事務所を訪れ,ありったけの情報を集めて行ってからは,新聞紙上で中傷運動が始まりました。それに伴い,教会の説教壇から,またラジオを通じて,警告が発せられました。協会の文書は全国で押収され,証人たちは情け容赦なく殴打されました。キシュバールドでは,大勢の証人たちが役場に連行され,ひとりずつ別の部屋に連れて行かれて極悪非道な殴打に遭い,拷問されました。この様子を伝えた1938年の「エホバの証人の年鑑」(英文)は,こう問いかけました。「『復活祭』,すなわち,礼拝行進を行なう日曜日。この復活の日に彼らは何を祝うのか。ローマの異端審問の復活であろうか」。
僧職者たちは,ある役人たちを思いどおりに動かせないときには,ほかの手段を用いました。1939年の「年鑑」(英文)はこう報告しています。「友なる兄弟姉妹たちは,向こう見ずな連中にしばしば打ち据えられ,虐待されている。連中はそうするよう説き伏せられ,多くの場合,そのための報酬を受けるのである。ある場所では,地元の僧職者がこうした連中一人一人に,神の子らを偽って告発した報酬として,たばこ10㌔を与えていたことが分かった」。
非合法化される
5年間ドイツのマグデブルクにある協会の事務所で働き,その後,当時チェコスロバキア領だった場所で奉仕していたアンドラーシュ・バルタは,チェコスロバキアの一部とカルパト-ウクライナの一部がハンガリーに併合された後の1938年には,いつの間にかハンガリーの領土の中にいました。バルタ兄弟は早速,ハンガリーにおける協会の業を監督する役目を割り当てられました。ドイツでは,ナチス国家のもとでエホバの証人の活動はすでに禁止されていました。チェコスロバキアでは,証人たちの集会が禁じられていました。次いで1939年12月13日,ハンガリーでも証人たちの活動が非合法化されました。
その同じ年に,ハンガリーに二つの収容所が建てられました。一つはブダペストから約30㌔離れた所に,もう一つは,ハンガリー南西部の,ユーゴスラビアとの国境から約26㌔の所にある,ナジカニジャの町に設けられました。これらの収容所は間もなく,信用できないと言われていた人々 ― 社会の脅威として告発された犯罪者や共産主義者,そしてエホバの証人でいっぱいになりました。
同じころ,ブダペスト中央警察の警視は,エホバの証人の“指導部”を暴いて,この非合法団体の機能や対外関係を調べる目的で,刑事から成る班を組織しました。その後,逮捕,身体的また心理的虐待,投獄などが続きました。
こうしたことのためにハンガリーのエホバの証人の活動は停止したでしょうか。そのようなことはありませんでした。しかし,事態が事態だけに,伝道者一人一人に,「蛇のように用心深く,しかもはとのように純真」でありなさいというイエスの助言に留意することが求められたのは確かです。(マタイ 10:16)1940年の「年鑑」(英文)は一例として,ある開拓者の姉妹がどのように用心深く行動したかを示しています。姉妹は黒いスカーフを頭にかぶり,肩にも黒いスカーフを巻いていました。一つの村で少し奉仕したころ,ある家の人が,二人の憲兵と一緒にこちらへ向かって来るのが目に入りました。その姉妹は脇道に隠れて,黒いスカーフを別の色のものに変え,二人の憲兵の方へ向かって落ち着いて歩きだしました。憲兵に,黒いスカーフをした女を見なかったか,と尋ねられた姉妹は,見ましたよ,急いでいるらしく反対の方へ走って行きました,と答えました。憲兵と,彼らのスパイは,その女を捕まえようと走って行きました。一方,この証人は静かに家に帰りました。
ある忠実な開拓者の姉妹は,僧職者から圧力を受けていた当局者の指示で,自分がどのように逮捕されたかを回想します。姉妹は一時,警察の監視下に置かれ,月に2回,警察に出頭することを義務づけられていました。しかし,警察署を出るが早いか,姉妹はいつも自転車に乗って自分の区域へ行き,伝道しました。姉妹が証言をやめないので,当局は姉妹を刑務所に入れました。最初は5日間,次は10日間,15日間,30日間,そして40日間が2回,その次は60日間,100日間が2回,そしてついには8年間も投獄しました。なぜでしょうか。人々に聖書を教えたからです。イエス・キリストの使徒たちのように,姉妹は,自分の支配者として人間より神に従ったのです。―使徒 5:29。
バルタ兄弟が翻訳の仕事にかかりきりになったため,協会は1940年,以前に地帯の僕(巡回監督)だったヤーノシュ・コンラードに,ハンガリーでの業の監督を委ねました。
収容所が増える
1940年8月,トランシルバニア(ルーマニア)の一部がハンガリーに接収されました。翌年,この地域での迫害は激しさを増しました。トランシルバニアのクルジュに収容所がもう一つ建てられ,老若を問わず,何百人もの兄弟姉妹がこの収容所に連れて来られました。証人たちは,信仰を捨てて以前の宗教に戻ることをしなかったため,のちほど,その収容所でさんざん残忍な仕打ちを受けました。この知らせが収容所の外にいる証人たちの耳に入ると,国中の忠実な兄弟たちは,心を一つにして収容所の兄弟たちのために祈りました。それから間もなく,当局によるクルジュ収容所の調査で不正行為が明るみに出,部隊指揮官と大半の看守が転属となりましたが,中には投獄された者もいました。この変化によって兄弟たちの苦難はある程度軽減され,兄弟たちはそのことをエホバに感謝しました。
一方,ハンガリー南西部では,ナジカニジャの近くにあった収容所に何組もの夫婦が一緒に拘禁され,まだ自宅にいた証人たちが,拘禁された夫婦の子供たちの面倒を見ていました。これらの収容所ではどこでも,エホバの民に圧力が加えられました。信仰を捨て,エホバの証人とのかかわりを一切放棄することを誓約して国家の認める以前の宗教に戻ります,と書かれた書類にただ署名しさえすれば,自由になれると持ちかけられたのです。
1941年6月27日,ハンガリーが対ソ戦に加わるに及んで,エホバの証人の置かれた状況はさらに危険をはらむようになりました。
国の僕が逮捕される
エホバの証人を扱う刑事から成る班の活動はその勢いを増し,多くの兄弟たちの家に手入れを行なうようになりました。コンラード兄弟は,何度も召喚状を受け取り,自宅は警官に踏み込まれ,そして週に2度,中央警察署に出頭するよう義務づけられていました。
1941年11月,コンラード兄弟は地帯の僕(巡回監督)を全員集め,自分は遠からず逮捕されるに違いないので,自分が逮捕された場合,地帯の僕の一人であるヨーゼフ・クリニエッツが業を監督することになると述べました。
果たしてその翌月の12月15日,コンラード兄弟は逮捕されました。拷問者たちは,地帯の僕や開拓者の名前を吐かせようとして,兄弟に対して数日間,言語に絶する野蛮な方法で残忍な仕打ちをしましたが,彼らの試みは成功しませんでした。最後に兄弟の身柄は地方検事に引き渡されました。結局,兄弟にはわずか2か月の禁固刑が言い渡されただけでした。ところが,刑期を終えても兄弟は釈放されませんでした。それどころか,社会にとって危険な人物という理由で,キシュタルチャの強制収容所に移されました。
国の僕が二人
一方,スイスにあった中央ヨーロッパ事務所は1942年,ハンガリーでの業を監督するよう,デーネシュ・ファルベーギを正式に任命しました。ファルベーギ兄弟は生来温和で柔順な性格でしたが,真理に対する熱意によって他の人を奮い立たせることができる人でした。兄弟はトランシルバニアで教師をしていたことがあり,第一次世界大戦後は,ルーマニアにおける業を組織するのに大きな働きをしました。
しかし,コンラード兄弟が,逮捕される場合に備えて一時的に業の責任を委ねていた地帯の僕クリニエッツ兄弟は,ファルベーギ兄弟にその任務が与えられたことを快く思いませんでした。ファルベーギ兄弟には難しい任務に立ち向かう能力はないと考えたのです。
クリニエッツ兄弟はいつも熱心で勇敢な,そして温和というよりも,むしろしっかりした性質の人でした。野外奉仕に熱心で,国中の兄弟たちからよく知られ,愛されていました。兄弟たちは二つのグループに分かれるようになりました。一方は,協会が任命したファルベーギ兄弟を認めるグループ,他方は,クリニエッツ兄弟と意見を共にし,そうした困難な時期の監督の責任はしっかりした人物の手に委ねられなければならない,とするグループです。
中には,同時に二人の地帯の僕の訪問を受ける会衆もありました。一人はファルベーギ兄弟が,もう一人はクリニエッツ兄弟が遣わした僕でした。残念なことに,そのような事態が生じると,二人の地帯の僕は兄弟たちを励ますどころか,互いに口論することもありました。忠実な兄弟たちがこれに心を痛めたのも無理からぬことでした。
アラグにあった競走馬の馬小屋
1942年8月,当局はハンガリーのエホバの証人を亡きものにしようと決意しました。そのため,10か所に収容場所を設け,老若男女の別なくエホバの証人をそこへ集めました。エホバの証人と接触のあることが知られている人であれば,まだバプテスマを受けていなくてもそこへ連れて行かれました。
ブダペストやその周辺の証人たちは,アラグにあった競走馬の馬小屋に連れて行かれました。小屋の両側には外壁に沿ってわらが敷いてあり,兄弟姉妹は夜その上で睡眠をとりました。もしだれかが夜,体の向きを変えたいと思う場合,そんな簡単なことでも,看守から正式な許可を得なければなりませんでした。昼間は,兄弟たちは強制的に壁のほうを向いて木のベンチに一列に座らされました。その間,看守たちは銃剣を持って馬小屋を行ったり来たりしていました。話すことは許されませんでした。
馬小屋の隣には小さな部屋があって,そこではイシュトバーン・ユハースとアンタル・ユハースという実の兄弟二人の指示のもとに,刑事たちが“取り調べ”を行なっていました。刑事たちは幾つかの方法で兄弟たちに拷問を加えましたが,その中には口にできないほど下劣なものもありました。
姉妹たちも容赦されませんでした。一人の姉妹は,悲鳴を上げても聞こえないよう,自分のストッキングを無理やり口の中に押し込まれました。それから,無理やり地面にうつ伏せにさせられたかと思うと,一人の刑事が姉妹の上に乗って姉妹の両足を持ち上げ,別の刑事が情け容赦なくその足の裏を打ちたたきました。その音と姉妹の悲鳴は,兄弟たちがいた部屋にもはっきりと聞こえました。
アラグで開かれた“法廷”
“取り調べ”は11月の末までに終わりました。その月,アラグにあったあるレストランのダンスホールに間に合わせの法廷が設けられ,ハインリッヒ・ワースの参謀である裁判官がそこで64人のエホバの証人に関する事件を扱いました。この法廷に入ったとき,証人たちは文書,聖書,タイプライター,蓄音機,レコードなどを目にしました。それらは,家宅捜索が行なわれたときに没収された品々でした。
告発されたこれら64人のうち,一人として軍の検察官から尋問を受けることもないまま,また,法廷が証人たちの弁護を委任した弁護士と話すことすらできないまま,裁判は開かれました。被告全員に対する尋問はわずか数時間で終わり,証人たちは自分を弁護する実質的な機会を与えられませんでした。一人の姉妹は,武器を持つ覚悟でいるかどうか尋ねられ,「私は女です。ですから,武器を取る必要はありません」と答えました。すると,「もし男だったら,武器を取るか」と尋ねられました。姉妹はこう答えました。「その質問には,男になったときにお答えします」。
その後,判決が言い渡されました。バルタ兄弟,ファルベーギ兄弟,コンラード兄弟は絞首刑でした。終身刑を宣告された人たちもあり,残りの人たちは2年から15年の禁固刑を言い渡されました。その日の午後,兄弟たちはブダペストのマルギット通りにあった軍刑務所に連行されました。死刑宣告を受けていた3人の兄弟たちは,すぐにも処刑されるだろうと考えていましたが,投獄されてからちょうど1か月後,弁護士がやって来て,兄弟たちの死刑宣告が終身刑に減刑されたことを伝えました。
兄弟たちが集められていたほかの九つの収容場所でも,アラグの馬小屋の場合と同様の方法で取り調べが行なわれました。有罪宣告を受けた兄弟たちは最終的に,国の北部のバーツにあった刑務所に移されました。
看守は修道女
姉妹たちは大抵,ブダペストのコンティ街にあった防諜刑務所に拘禁されました。3年以上の刑を言い渡された姉妹たちは,スロバキア国境近くにあるマーリアノストラ(我らのマリア)という村の女子刑務所に移されました。姉妹たちは,そこで看守を務めていた修道女たちから大変ひどい目に遭わされました。別の刑務所に以前いた証人たちも,この刑務所に連れてこられました。
だれであれ,修道女たちの設けた刑務所の規則に従う気のない者は地下牢に入れられました。これらの規則の中には,教会に出席する義務や,「イエス・キリストは褒むべきかな」というカトリックのあいさつをすることが含まれていました。囚人たちは,何かを与えられたなら,「このゆえに神が汝に報い給わんことを」という感謝の言葉を述べることになっていました。
もちろん,忠実な姉妹たちはこれらの規則に従いませんでした。教会へ行くことを拒否するたびに,地下牢に24時間閉じ込められました。そういうときには姉妹たちは,「このゆえに神が汝に報い給わんことを」と言ったものでした。証人たちは,小包の受け取り,親族との文通,面会など,普通なら与えられるはずの特権も,すべて取り上げられていました。ほんのわずかですが,これ以上苦しめられたくないと考えて妥協した人もいました。しかし,しばらくすると,忠実な証人たちに対する過酷な扱いは止みました。
ボールの強制収容所
1943年の夏には,国中の刑務所に収容されていた49歳未満の兄弟たちが地方の一つの町に集められ,兵役に就くよう命じられました。忠実な兄弟たちはまたしても残忍な仕打ちを受けましたが,確固とした立場を保って兵役を拒否し,提供された軍服の着用に同意しませんでした。しかし,グループの中の9人は軍の宣誓を行ない,制服を受け取りました。妥協はしたものの,彼らに平安はありませんでした。9人の離反者を含め,そこに集められた160人全員がボール(セルビア)にあった強制収容所に移されました。それから2年後のこと,それら離反者の一人は,処刑班の一員にされたときライフルを手に,青くなって震えていました。自分が処刑する人の中に,忠実な証人である実の弟がいたのです。
兄弟たちは,収容所への途上でも,また収容所内でも,苛酷な扱いを経験しました。しかし,収容所長は大抵,兄弟たちの良心に反する作業を強要することはしませんでした。一部の兵士が,証人たちを拷問にかけて無理やり良心に背かせようとしたとき,所長が謝ったことさえありました。
今でも忠実に仕えている70代の兄弟,カローリー・アーフラはこう語っています。「私たちの信仰をくじこうとする試みが幾つかありましたが,私たちは堅く立ち続けました。ある時,私たちはコンクリートで銃座を作ることになり,この作業のために二人の兄弟が選ばれました。二人はその仕事をきっぱりと拒否し,自分たちが投獄されたのは,戦争にかかわることを一切行なわないからだと言いました。将校は,作業を行なわなければ処刑する,と二人に告げました。兄弟たちのうちの一人が,ある兵士に山の向こう側に連れて行かれ,次いで銃声が聞こえました。将校はもう一人の兄弟の方を向いて,『さあ,お前の兄弟は死んでしまった。考え直すなら今だぞ』と言いました。
「その兄弟は,『私の兄弟が信仰のために死ぬことができたのであれば,私にできないことがあるでしょうか』と答えました。将校は先ほどの兵士に命じて“銃殺された”兄弟を連れて来させ,もう一人の兄弟の背中を軽くたたきながらこう言いました。『これほど勇敢な者たちなら,生きている資格がある』。そして,二人を解放したのです」。
兄弟たちは,自分たちが生きているのは,エホバの証人として奉仕するためであることを知っていました。ボールの収容所にはほかに何千人もの囚人がおり,証人たちはそれら囚人の多くに,エホバとその王国について徹底的に証言しました。こうした困難な時期に,エホバの証人は ― 刑務所内であれ,強制収容所内であれ,またほかのどこであれ ― 国中の至る所で証言する機会を終始活用しました。彼らはどこでも親切な人々に出会いました。要人の中にもそうした人がいて,証人たちの勇気ある忍耐を褒めました。中には,「引き続き信仰をもって耐え忍ばれますように」と励ましてくれる役人もいました。
証人たちが,忍耐を極限まで試されるボール収容所の危険な状況のもとに置かれてすでに11か月が経過していたとき,ゲリラ隊が村を襲撃しようとしている,といううわさが立ち始めました。収容所から退去するという決定が下されました。出発予定日の二日前に,徒歩での退去になることを知った証人たちは,早速,二輪荷車や四輪荷車を作り始めました。いざ出発という時に,証人たちのところには非常にたくさんの荷車があったため,将校や兵士や他の囚人たちも見に来て,エホバの証人のしたことに目を丸くしていました。
旅に出る前(3,000人のユダヤ人の囚人と共に),兄弟たち一人一人に700㌘のパンと魚の缶詰5缶があてがわれましたが,それは,これからの旅にとうてい足りる量ではありませんでした。しかし,将校たちが備えなかったものはエホバが備えてくださいました。どのようにでしょうか。兄弟たちが旅の途上で通った地域に住んでいたセルビア人とハンガリー人の手を通してです。彼らが兄弟たちに喜んでパンを提供したので,兄弟たちはそれらのパンを集めておき,休憩時間に,たとえほんの一口でも各人に一切れずつ行き渡るよう均等に分けました。何百人もの囚人がドイツ兵に引き渡され,途中で処刑されましたが,証人たちの上にはエホバの保護のみ手がありました。
再び忠誠が試みられる
1944年の終わりごろ,ソ連軍が接近してきたため,証人たちは,ハンガリーとオーストリアの国境の方へ移動するよう求められました。強健な男子がみな,戦地にいることに気づいた証人たちは,自国で重労働に従事するその地方の女性たちの手助けをしました。兄弟たちは,寝泊まりした場所では,その機会をとらえて証言しました。
1945年1月,収容所長は証人たちに,働ける者は全員ヤーノシュハーザの村役場に出頭せよ,と通達しました。ドイツ人の一人の士官が,塹壕を掘らせるためにそこから証人たちを村の外に連れ出しました。選ばれた最初の6人の兄弟がその作業を拒否すると,将校は直ちに,「やつらを処刑しろ!」と命じました。6人の兄弟は整列させられ,ハンガリー人の兵士たちはライフル銃を持ち,命令が出ればいつでも撃てる態勢で立っていました。残る76人の兄弟たちはそれを見守っていました。一人のハンガリー人の兵士がそっと,見守っていた兄弟たちを促し,「向こうへ行って,お前たちも道具を捨ててこい。さもないと,兵士たちは彼らを撃つぞ」と言いました。兄弟たちはすぐにその勧めに従いました。ドイツ人将校はひどく当惑し,最初は信じられないといった様子でじっと見つめているだけでした。それから,「こいつらも働きたくないというのか」と尋ねました。バルタ兄弟がドイツ語でこう答えました。「もちろん,働きたいのはやまやまですが,信仰に反する仕事はできません。私たちがどんな仕事も,最善を尽くして,良心的に,また効果的に行なってきたこと,そして今でも行なっていることは,ここの軍曹に尋ねればお分かりになるでしょう。しかし,あなたが私たちにさせようとしているこの仕事は,するわけにはいきません」。
これらの兄弟のうちの一人は,後にこう語りました。「すると将校は,私たちを全員逮捕すると言いました。それは全く滑稽な話でした。いずれにせよ,私たちはみな囚人だったのですから」。
忠誠を保ったほかの人々
上記の兄弟たちと同様,国中の何百人もの兄弟姉妹たちが,他の多くの強制収容所や刑務所で自分の信仰のための同じ戦いをしました。
1944年の春,大勢のユダヤ人がナジカニジャの収容所からドイツの幾つかの収容所に移されました。その中に,エーバ・バースとオルガ・スレージンガーという二人のエホバの証人がいました。生まれがユダヤ人で,それぞれ,20歳と45歳でした。どちらの姉妹も熱心で誠実なエホバの崇拝者でした。バース姉妹は大変きゃしゃな人でしたが,逮捕される前はずっと開拓者として奉仕していました。姉妹はドゥナベチェで野外宣教に携わっていたとき,警察に逮捕され,村役場へ連行されました。
村長の扇動によって,姉妹は屈辱的な扱いを受けました。バース姉妹はその時のことをこう述べています。「私は髪を全部剃り落とされ,何も身にまとわずに10人から12人ほどの警察官の前に立たされました。それから警官たちは尋問を始め,ハンガリーにおける私たちの指導者がだれかを聞き出そうとしました。私は,イエス・キリストをおいてほかに指導者はいないことを説明しました」。それに対して警官たちは,こん棒で情け容赦なく姉妹を殴りつけました。しかしバース姉妹は,クリスチャンの兄弟たちを裏切るようなことはすまいと決意していました。
姉妹はまたこのように回想します。「その獣たちは私の両手両足を束ねて私の頭の上で縛り上げ,一人の警察官を除いて全員が私をレイプして辱めました。警官たちがあまりにきつく縛り上げたので,3年後にスウェーデンに来たときにも,まだ手首に跡が残っていました。私は甚だしく虐待されました。一番ひどい傷が癒えるまで,警官は私を地下室に2週間隠したほどです。私の惨状をあえてほかの人に見せるようなことはしなかったのです」。バース姉妹はナジカニジャの収容所に送られ,そこから,スレージンガー姉妹と一緒にアウシュビッツへ送られました。
姉妹は続けます。「オルガといると,安心していられました。オルガはつらい状況の中にいても,ユーモアのセンスを持っていられたのです。メンゲレ医師は新しく囚人が入って来ると,作業ができそうにない者と健康な者とを分ける仕事をしていました。前者はガス室に送られました。私たちの番になったとき,メンゲレはオルガに『年はいくつだ?』と尋ねました。オルガは茶目っけのある目つきで大胆にも,『二十歳です』と答えました。本当はその2倍の年齢でした。しかし,メンゲレは笑って,オルガを右側に行かせ,生かしておきました」。
姉妹たちの服には,ユダヤ人であることを示す黄色い星が縫いつけられていましたが,二人は異議を唱え,自分たちはエホバの証人であると主張しました。そして,黄色い星をはぎ取り,エホバの証人であることを示す紫色の三角形を縫いつけるよう求めました。そのためひどく殴られましたが,二人は言いました。「あなた方が何をしようとも,私たちがエホバの証人でなくなることなどありませんよ」。
その後,姉妹たちはベルゲンベルゼンの強制収容所に連れて来られました。突然,収容所内で発疹チフスが発生したのはそのころです。スレージンガー姉妹は重体になり,他の多くの人と共に収容所を出され,二度と姿を見せませんでした。それから間もなく,この地域は英軍によって解放されました。バース姉妹は病院に連れて行かれ,その後スウェーデンへ移り,すぐに兄弟たちと連絡を取りました。
ハンガリーで投獄されていた兄弟たちの多くは,後にドイツへ強制移送されました。そうした兄弟たちの大半は戦後,ハンガリーに戻りましたが,中には戻れなかった人もいます。デーネシュ・ファルベーギは,ブーヘンワルトの強制収容所からダハウの強制収容所へ送られる途中に亡くなりました。兄弟は30余年,エホバに忠実に仕えました。
死に至るまで忠実な証人たち
1944年の秋にナジカニジャの収容所の機構が解体したとき,まだドイツへ移送されていなかった証人たちは釈放されました。しかし,戦線に阻まれて家に戻ることができなかったため,事態が好転するまで周辺の農場で仕事をすることにしました。そして,1944年10月15日,ドイツのナチ党の支持するニーラシュケレステシュ・パールト(矢十字党)が権力を握り,時を移さず,若者たちを兵役に召集し始めました。
それから間もなく,兄弟たちは中立を保つゆえに再び逮捕されました。逮捕された年若い兄弟たちのうち5人は,オーストリアとの国境から10㌔ほどの所にあるケルメンドへ連れて行かれました。この町の学校の校舎の中では軍事法廷が開かれていました。最初に裁判にかけられたのはベルタラン・サボーで,銃殺隊による処刑を言い渡されました。サボー兄弟は,処刑される前に感動的な別れの手紙を書きました。「エホバの証人 ― 神の王国をふれ告げる人々」の662ページをご覧になれば,その手紙を読むことができます。その後,もう二人の兄弟,ヤーノシュ・ジョンドルとアンタル・ホーニシュが法廷に連れ出されました。この二人も揺るぎない態度を示したため,やはり処刑されました。
シャーンドル・ヘルメッツィは同じ場所で投獄されました。兄弟はその時のことを次のように回顧します。「私たちは,決まった時刻に中庭にあるトイレを使うことを許されていましたが,彼らは,これから起きることを私たちに見せるため,その時間を変更しました。『これで,お前たちもどうなるかが分かるだろう』と言いたかったのです。それは,愛する兄弟たちが命を失って倒れるのを見るという悲痛な瞬間でした。そのあと,私たちは監房に連れ戻されました。
「10分後,私たちは監房から呼び出され,兄弟たちの血痕をきれいにするよう言いつけられました。それで,兄弟たちの顔を間近に見ることになりました。ヤーノシュ・ジョンドルの表情は,普段のままでした。微笑を浮かべた,人なつっこい,穏やかなその表情からは,恐れはみじんもうかがえませんでした」。
同じころ,20歳になるラヨシュ・デリーという別の兄弟は,オーストリアとの国境から40㌔ほどの所にあるシャールバールという町のマーケット広場で,公然と絞首刑に処せられました。その様子を目撃していた一人の元役人は,1954年に,その日の出来事を思い出して次のように述べています。
「私たちは,民間人も軍人も,大勢で西へ向かって逃げているところでした。シャールバールを通ったとき,マーケット広場に絞首台が立てられているのを目にしました。その絞首台の下には,大変感じのよい,穏やかな表情の青年が立っていました。見物人の一人に,あの青年は何をしたのかと尋ねたところ,彼は武器を取り上げることもスコップを手にすることも拒否したのだ,という話でした。その近くには,機関銃を持った矢十字党の新兵が数人いました。新兵の一人が,皆に聞こえるような声で,『これが最後のチャンスだ。銃を取れ。さもないと絞首刑だぞ!』と言いました。若者は何も答えませんでした。その言葉に対して微動だにしませんでした。それから,しっかりした声で,『絞首刑にしたければしてください。でも,私は,単なる人間よりも私の神エホバに従います』と言いました。彼は絞首刑に処せられました」。
1946年の「年鑑」(英文)によれば,1940年から1945年にかけて,16人の証人が良心的兵役拒否のために殺され,そのほかに26人が虐待された結果,死亡しました。証人たちは,自分たちの主と同様,信仰によって世を征服しました。
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ハンガリー1996 エホバの証人の年鑑
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[90ページの図版]
死に至るまでエホバに忠節を保つ: (上)ベルタラン・サボー,銃殺隊により; (右)ラヨシュ・デリー,絞首刑で
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