ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 言葉が武器となる時
    目ざめよ! 1996 | 10月22日
    • 言葉が武器となる時

      「剣で突き刺すかのように無思慮に話す者がいる」― 箴言 12:18。

      「結婚式が終わってまだ何週間もたっていなかったのに,思いやりのない言葉を浴びせられたり,見くびった言い方をされたり,何かにつけてけなされたりするようになりました。主人にはとても太刀打ちできませんでした。わたしが何を言っても,主人は即座にそれをねじ曲げる言葉を考え出して言うことができました」とエレインは言います。a

      エレインは結婚して以来ずっと,陰険な攻撃を受けてきました。その種の攻撃は傷跡が残るわけではないので,同情してもらえることなどほとんどありません。不幸なことに,時間がたっても状況は良くなりませんでした。彼女は,「結婚して12年余りになりますが,主人が辛辣で下品なことを言ってわたしをけなしたり,皮肉ったりしない日は,1日としてありません」と述べています。

      舌は「御しがたい,有害なものであって,死をもたらす毒で満ちてい(る)」という聖書の言葉は誇張ではありません。(ヤコブ 3:8。詩編 140:3と比較してください。)このことは,結婚生活において特に真実です。リサという名の妻は,「『棒や石で骨折することはあるが,悪口で怪我をすることはない』だなんて,全くの見当違いです」と述べています。―箴言 15:4。

      夫たちも言葉による攻撃の的になる場合があります。「絶えず,あなたのことをうそつきとか,まぬけとか,またもっとひどい言葉で呼ぶ女性と一緒に暮らすのがどういうことか,お分かりになりますか」とマイクは言います。マイクとトレーシーとの4年にわたる結婚生活は,離婚に終わろうとしています。「彼女は,上品な方々の前ではとても話せないようなことを私に言います。私が彼女に話しかけることができないのも,遅くまで仕事場に残っているのも,それが理由です。そうするほうが,帰宅するよりもずっと安全なんです」。―箴言 27:15。

      使徒パウロがクリスチャンたちに,「わめき,ののしりのことばを……あなた方から除き去りなさい」と勧めたのも,もっともなことです。(エフェソス 4:31)ところで,この「ののしりのことば」とは何ですか。パウロはこの語を,単に声を荒立てることを意味する「わめき」(ギリシャ語,クラウゲー)と区別しています。「ののしりのことば」(ギリシャ語,ブラスフェーミア)は,どちらかというと音信の内容を指す表現です。横暴な,悪意に満ちた,屈辱的な,あるいは侮辱的な言葉であれば,大声で言おうが,小声で言おうが,ののしりの言葉であると言えます。

      言葉が負わせる傷

      ある種の辛辣な言葉は,ちょうど海の波が硬い岩を浸食するように,夫婦関係を弱めることがあります。ダニエル・ゴールマン博士は,「激しさが増し,時間が長引くほどに,危険は高まる。……いつも批判し,侮べつや嫌悪の念を抱くことは危険信号だ。それらは,夫あるいは妻が自分の配偶者を心の中で悪く解釈しているしるしだからである」と書いています。愛情がさめるにつれ,夫と妻は,ある本が述べているように,「法的には結婚しているが,感情的にはそうではない」状態になります。二人はいずれ結婚を全面的に解消することになるかもしれません。

      しかし,ののしりの言葉が影響を及ぼすのは,結婚関係だけではありません。聖書の箴言は,「心の痛みのゆえに打ちひしがれた霊がある」と述べています。(箴言 15:13)とげのある言葉を絶えず浴びせられることから生じるストレスは,人の健康に深刻な害を及ぼすことがあります。例えば,ワシントン大学(米国)が行なった調査によれば,絶えずののしられている女性は風邪を引いたり,膀胱の問題,カンジダ症,胃腸障害を起こしたりしやすいということが明らかになりました。

      言葉による虐待と身体的虐待の両方に耐えてきた多くの妻たちは,言葉は握りこぶしよりも人を傷つけると言います。ビバリーは,「平手打ちを食らってあざができても,そのうちに治って消えます。でも,私の容姿や料理の仕方や子供の世話について,主人が言ったひどいことは,絶対に忘れられません」と述べています。ジュリアも全く同じように感じています。彼女はこう述べています。「こんなことを言うと変に聞こえるかもしれませんが,何時間もこういう神経戦を続けるよりは,ひっぱたいて終わらせてくれたほうがよっぽどましです」。

      ところで,ある人を口では愛していると言いながら,激しく非難し,がみがみ叱る人がいるのはなぜでしょうか。次の記事ではこの疑問を検討します。

  • ののしりの言葉のもとを明らかにする
    目ざめよ! 1996 | 10月22日
    • ののしりの言葉のもとを明らかにする

      「心に満ちあふれているものの中から口は語る」― マタイ 12:34。

      上記の言葉は,2,000年ほど前にイエス・キリストが語ったものです。確かに,人が発する言葉は多くの場合,その人の内奥の感情や動機を反映しています。それは称賛に値するものかもしれません。(箴言 16:23)一方,不誠実なものである場合もあります。―マタイ 15:19。

      ある女性は自分の配偶者について次のように述べました。「主人はだしぬけに腹を立てるようです。ですから,主人との生活は,地雷の埋めてある野原を歩くような感じの時が結構多いですね。何がきっかけで爆発するか,全く分からないんです」。リチャードも,妻の同じような状況を次のように説明しています。「リンダはいつでも戦闘態勢にあります。彼女はただしゃべるだけでなく,私を子供扱いして,指を突きつけ,けんか腰で非難を浴びせるのです」。

      もちろん,どんなに仲の良い夫婦であっても,口論が生じる場合はあります。また,どんな夫もどんな妻も,後悔するようなことを言ってしまうものです。(ヤコブ 3:2)しかし,結婚生活におけるののしりの言葉には,それ以上のことが関係しています。自分の配偶者を威圧あるいは支配するための,屈辱的で批判的な言葉が関係しているのです。時には,うわべは温和を装った有害な言葉もあります。例えば,詩編作者ダビデは,話し方が穏やかでも腹黒い人について,次のように述べました。「彼の口の言葉はバターよりも滑らかだ。しかし,その心は戦いに傾く。彼の言葉は油よりも柔らかい。しかし,それは抜き身の剣である」。(詩編 55:21。箴言 26:24,25)外見が悪意に満ちたものであろうと,装ったものであろうと,辛辣な言葉には結婚関係を徹底的に破壊する力があります。

      その発端

      人はどうしてののしりの言葉を使うようになるのでしょうか。一般に,そうした言葉を使うようになる原因は,人が見聞きする事柄にまでたどることができます。多くの土地では,皮肉や侮辱やけなすことは,してもかまわないこと,また気の利いたこととさえ考えられています。a 特に夫たちは,“真の”男性を尊大で好戦的なものとして描くことの多いマスコミの影響を受けているのかもしれません。

      同じように,相手をけなすような話し方をする多くの人は,親がいつも怒りや憤りや侮べつの念をぶちまけていた家庭で育ちました。ですから,幼いころから,この種の振る舞いは正常なことだと思い込んでいるのです。

      そうした環境で育つ子供は,話し方以上のものを学び取るかもしれません。また,自分や他の人に対するゆがんだ見方を吸収する可能性もあります。例えば,辛辣な言葉を浴びせられる子供は,大きくなった時,自分は無価値な人間だと感じるかもしれず,かっとしやすくなることさえあります。しかし,父親が母親を言葉で虐待するのを子供が漏れ聞くだけならどうでしょうか。非常に幼い子供でさえ,女性を見下げる父親の態度を取り入れることがあります。男の子は父親の行状を見聞きして,男性には女性を支配する必要があり,そうするには女性を怖がらせたり,痛めつけたりすればよい,と思うようになるかもしれません。

      怒りっぽい親の子供は怒りっぽくなり,成長して「激怒の主人」となり,「多くの違犯」をおかすかもしれません。(箴言 29:22,脚注)こうして,人を傷つける話し方が,世代から世代へと受け継がれてゆくことになります。パウロが父親たちに,『あなた方の子供をいらいらさせないようにしなさい』と助言したのももっともです。(コロサイ 3:21)意味深いことに,「新約聖書神学辞書」によると,「いらいらさせて」と訳されているギリシャ語には,「戦いのために備える,奮起する」という意味もあります。

      もちろん,親の影響は,言葉あるいはその他の方法で他の人を激しく非難することの言い訳にはなりません。しかし,辛辣な話し方をする傾向がいかに根深いものとなり得るかを説明するのには確かに役立ちます。若い男性は,自分の妻を身体的に虐待することはないとしても,言葉や不機嫌な態度によって妻を虐待していないでしょうか。自己吟味をすると,女性を見下げる父親の態度を取り入れていたことが明らかになるかもしれません。

      明らかに,上記の原則は女性にも当てはめることができます。母親が父親を言葉で虐待していると,娘も結婚した時に自分の夫を同じように扱うかもしれません。聖書の箴言は,「苦々しく物を言う怒り立った女と共にいるよりは,荒れ地に住むほうが良い」と述べています。(箴言 21:19,基礎英語聖書)とはいえ,この点で特に注意を要するのは男性です。なぜでしょうか。

      虐げる者たちの力

      結婚関係において,普通,夫は妻よりも大きな力を持っています。ほとんどの場合,男性は女性よりも力が強いので,身体的な危害を加えるという脅しはどんなものであれ,いっそう恐ろしいものとなります。b さらに,往々にして,男性のほうが仕事の技術に優れ,自活する多くの術を持ち,経済的にも有利な立場にあります。このために,言葉で虐待される女性は追い詰められ,孤立しているように感じがちです。そうした女性は賢明なソロモン王の次の言葉に同感するかもしれません。「わたしは日の下で行なわれているすべての虐げの行為を見ようとして自ら引き返した。すると,見よ,虐げられている者たちの涙がある。しかし,彼らには慰めてくれる者がいなかった。彼らを虐げる者たちの側には力があった。それで彼らには慰めてくれる者がいなかったのである」― 伝道の書 4:1。

      夫が,思いやりがあると思えば,次の瞬間にはもうあら捜しをしているというような両極端の間を揺れ動くと,妻は当惑するかもしれません。(ヤコブ 3:10と比較してください。)さらに,夫が家族の物質的な必要をふさわしく顧みている場合,辛辣な言葉の標的となっている妻は,結婚生活において何かが間違っていると考えることに罪悪感を抱くかもしれません。夫がそのようなことをするのは自分が悪いのだとさえ思うかもしれません。ある女性は,「身体的な虐待を受けた妻と同じように,私はいつも自分がその原因を作っているのだと考えていました」と告白しています。別の妻は次のように述べています。「私は自分が夫を理解し,『がまんする』ようもっと努力しさえすれば,平和が得られると思うようになりました」。残念ながら,多くの場合,そうした虐待は続きます。

      多くの夫たちが,愛し慈しむと誓ったはずの女性を威圧することによって,自らの力を誤用しているのは,本当に悲劇です。(創世記 3:16)しかし,そうした状況はどうすればよいのでしょうか。「離婚は望みません。ただ,虐待をやめてほしいだけなんです」と,ある妻は言います。結婚して9年になるある夫は,次のことを認めました。「わたしは自分と妻の間に言葉による虐待があること,そして自分が虐待している側であることを知っています。妻と別れるのではなく,絶対に自分の行ないを改めたいと思います」。

      とげのある言葉で結婚生活を台なしにされている人たちに役立つことがあります。その点については,次の記事をご覧ください。

      [脚注]

      a 1世紀にも同じような状態が見られたようです。「新約聖書神学新国際辞典」は,「ギリシャ人にとって,人を侮辱したり,自分に対する侮辱に耐えたりする方法を知るのは,処世術の一つだった」ことを指摘しています。

      b 言葉による攻撃は,家庭内暴力に至る前段階となり得ます。(出エジプト記 21:18と比較してください。)虐待されている女性を扱っているカウンセラーは,次のように述べています。「命にかかわるような殴打,刺傷,首を絞めることなどの暴行からの保護命令を求めて来る女性たちは一様に,非身体的な虐待を受けた,長く痛ましい過去をも背負っていた」。

  • とげのある言葉ではなく優しい言葉を
    目ざめよ! 1996 | 10月22日
    • とげのある言葉ではなく優しい言葉を

      「死も命も舌の力のうちにある」― 箴言 18:21。

      ののしる,つまり故意に侮辱的で口汚い言葉を使うことは,聖書中ではっきりと罪に定められています。モーセの律法下では,自分の親をののしった者は死刑に処せられることになっていました。(出エジプト記 21:17)ですから,エホバ神はこの問題を決して軽く見てはおられません。神の言葉である聖書は,人が神に仕えると言っている限り,“閉じられたドアの背後”で何が起きていようと大した問題ではない,という考え方を支持していません。聖書は次のように述べています。「自分では正しい方式に従う崇拝者であると思っていても,自分の舌にくつわをかけず,自らの心を欺いている人がいれば,その人の崇拝の方式は無益です」。(ヤコブ 1:26。詩編 15:1,3)ですから,もし男性が自分の妻を言葉で虐待するなら,その人のクリスチャンとしての他の業すべては,神の目から見て無価値とみなされるのです。a ―コリント第一 13:1-3。

      さらに,他の人をののしるクリスチャンは,会衆から追放される可能性があります。神の王国の祝福を失うことにさえなるかもしれません。(コリント第一 5:11; 6:9,10)他の人を傷つけるようなものの言い方をする人が徹底的な変化を遂げなければならないのは明らかです。では,どうしたらそうできるでしょうか。

      問題を明るみに出す

      人をののしるような話し方をする人は,自分が深刻な問題を抱えていることをはっきりと理解しない限り,変化しようとしないはずです。残念なことに,あるカウンセラーが述べたとおり,ののしりの言葉を使う多くの男性は,「自分の行動が虐待であるなどとは全然思っておらず,これらの男性にとって,そうした行動は全く正常なものであり,“自然な”夫婦関係」なのです。ですから,率直な態度で事態に注意を促さない限り,多くの人は変化する必要があることを理解しないでしょう。

      多くの場合,自分の状況を祈りのうちに考慮した妻は,自分自身と子供たちの福祉のために,また,神のみ前における夫の立場を心配するゆえに,思い切って話さなければならないと感じることでしょう。確かに,思い切って話したばかりに,問題が悪化したり,猛反発を受けたりする危険性は常に存在します。妻は話の切り出し方を前もって注意深く考えることにより,そうした事態を回避することができるかもしれません。「適切な時に話される言葉は,銀の彫り物の中の金のりんごのようだ」と聖書は述べています。(箴言 25:11)落ち着いている時に,温和かつ率直に切り出すなら,夫の心を動かせるかもしれません。―箴言 15:1。

      妻は,夫を責めるのではなく,とげのある言葉で自分がいかに傷ついているかという観点から話すよう努力すべきです。多くの場合,「わたしは……」と話すのが最も効果的です。例えば,『わたし,つらいんです。だって,……』とか,『わたし,あなたに……と言われると,落ち込んでしまうの』などと言うことができます。こうした言い方のほうが心を動かすものです。人ではなく,問題を攻撃しているからです。―創世記 27:46–28:1と比較してください。

      妻の確固とした,しかし巧みな介入は良い結果を生みます。(詩編 141:5と比較してください。)ある男性 ― 仮にスティーブンと呼ぶことにします ― は,そのとおりであることを知りました。「妻は,私の中に虐待者がいるのに,私がそのことに気づかないことを察知しました。そこで,毅然とした態度でそのことを私に話したのです」と彼は述べています。

      助けを得る

      しかし,もし夫が問題を認めることを拒むなら,妻はどうすればよいでしょうか。この時点で,第三者の援助を求める妻たちもいます。そうした危機に直面した場合,エホバの証人は会衆の長老たちに近づくことができます。聖書はこれらの男子に,神の霊的な羊の群れを牧する際には愛と親切を示すこと,同時に,神の言葉の健全な教えに「言い逆らう者を戒める」ことを強く勧めています。(テトス 1:9。ペテロ第一 5:1-3)夫婦間の個人的な事柄に干渉するのは長老の務めではありませんが,夫婦の一方がもう一方の辛辣な言葉によって傷つけられているなら,長老がそのことを心配するのは当然です。(箴言 21:13)聖書の規準に固く従うこれらの男子は,ののしりの言葉を大目に見たり,軽視したりすることはありません。b

      長老たちは,夫婦がうまくコミュニケーションを図るよう手助けできるかもしれません。例えば,ある長老は一人の女性から相談を受けました。その女性は仲間の崇拝者である夫から何年もの間言葉による虐待を受けてきたことを打ち明けました。長老はその夫婦に会うよう取り決めました。一方が話す時には,もう一方に最後までその話を聞くよう求めました。妻は自分の話す番が来ると,夫のかんしゃくにはもうがまんができない,と言いました。彼女の話によると,夫が帰宅する時に機嫌が悪いかどうかが分からないため,一日が終わるたびに胃が締めつけられるような気分になり,それが何年も続いているということでした。夫は感情を爆発させると,妻の家族や友人や妻自身をこきおろすのです。

      長老は妻に,夫の言葉を聞いてどう感じたかを説明するよう求めました。彼女はそれに対し,次のように述べました。「私はだれにも愛してもらえないようなつまらない人間なんだと思いました。時々,母に尋ねるんです。『お母さん,わたしって一緒に暮らしにくい人間かしら。かわいげがないかしら』って」。妻が夫の言葉を聞いてどう感じたかを説明すると,夫は泣き出しました。この時初めて,自分の言葉が妻をどれほど傷つけていたかを理解したのです。

      変化は可能です

      1世紀のクリスチャンの中にも,ののしりの言葉に関する問題を抱えていた人がいました。クリスチャンの使徒パウロはそれらの人たちに,「憤り,怒り,悪,ののしりのことば,……卑わいなことば」を捨て去るよう忠告しました。(コロサイ 3:8)とはいえ,辛辣な言葉は,ものの言い方というよりも,心の問題です。(ルカ 6:45)そのようなわけで,パウロは,「古い人格をその習わしと共に脱ぎ捨て,新しい人格を身に着けなさい」と言い添えたのです。(コロサイ 3:9,10)ですから,変化するには,話し方を変えるだけでなく,考え方を変えることも必要です。

      侮辱するような話し方をする夫には,そうさせている原因を見極める助けが必要かもしれません。c 詩編作者が示した次のような態度に見倣いたいと思うことでしょう。「神よ,わたしをくまなく探り,わたしの心を知ってください。わたしを調べて,不安の念を起こさせるわたしの考えを知ってください。わたしのうちに苦痛の道があるかどうかを見て……ください」。(詩編 139:23,24)例えば,自分の配偶者を威圧したり,支配したりする必要があると感じるのはなぜでしょうか。言葉による攻撃の引き金となるのはどんなことですか。心の底にある憤りが攻撃となって現われるのでしょうか。(箴言 15:18)恐らく批判的な言葉を浴びながら育ったことが原因で,自分は無価値な人間だという気持ちにさいなまれているのでしょうか。こうした自問は,自分の行動の原因を究明する助けになるかもしれません。

      しかし,ののしるような話し方を根絶するのは容易なことではありません。手厳しい話し方をする親や,尊大な振る舞いを助長する文化によってそれが植え付けられた場合は,特にそうです。しかし,どんなことが身に着いてしまっていても,時間の経過と共に,また努力を払うことによって,それを捨て去ることができます。この点で,聖書は最大の助けです。聖書の助けがあれば,強固に守り固められた振る舞いでさえ,覆すことができるのです。(コリント第二 10:4,5と比較してください。)どのようにですか。

      神から割り当てられた役割に対する正しい見方

      多くの場合,人を傷つけるような話し方をする男性は,神から割り当てられた夫と妻の役割を曲解しています。例えば,聖書筆者のパウロは,妻たちが「主に対するように自分の夫に服(す)」べきであり,「夫は妻の頭(である)」と述べています。(エフェソス 5:22,23)夫は,頭の権があるから,自分は絶対的な支配権を持っていると考えるかもしれません。しかし,そうではないのです。妻は,夫に従いますが,夫の奴隷ではありません。妻は夫の「助け手」であり,「補うもの」です。(創世記 2:18)ですから,パウロは次のように付け加えました。「夫は自分の体のように妻を愛すべきです。妻を愛する人は自分自身を愛しているのです。自分の身を憎んだ者はかつていないからです。むしろ人は,それを養い,また大切にします。キリストが会衆に対してするのと同じです」― エフェソス 5:28,29。

      クリスチャン会衆の頭であられるイエスは,弟子たちをひどくしかりつけて,今度はいつ批判が爆発するのだろうかとびくびくさせることなど決してありませんでした。それどころか,優しく接することにより,弟子たちの体面を保たれました。弟子たちに対し,「わたしがあなた方をさわやかにしてあげましょう。……わたしは気質が温和で,心のへりくだった者……です」と約束されました。(マタイ 11:28,29)イエスが頭の権をどのように行使されたかを祈りのうちに黙想するなら,夫は頭の権についてもっと平衡の取れた見方をするための助けを得ることができます。

      緊張が高まる場合

      聖書の原則を知っていることと,圧力の下でそれを当てはめることとは,全く別の問題です。緊張が高まる場合,夫はどうすれば辛辣な話し方に逆戻りしないようにできるでしょうか。

      夫が怒った時に攻撃的な話し方をするのは,男らしさのしるしではありません。聖書は次のように述べています。「怒ることに遅い人は力ある者に勝り,自分の霊を制している人は都市を攻め取る者に勝る」。(箴言 16:32)真の男性であれば,自分の霊を制します。次のように考えることによって,感情移入を示します。『自分の言うことは妻にどんな影響を及ぼすだろうか。もし自分が妻の立場にいるなら,どう感じるだろうか』。―マタイ 7:12と比較してください。

      しかし,聖書は,腹の立つような状況もあることを認めています。そうした状況について,詩編作者は次のように書きました。「気をかき乱されるがよい。だが,罪をおかしてはならない。言いたいことは心の中で,寝床の上で言い,黙っていよ」。(詩編 4:4)また,次のようにも言われています。「腹を立てるのは間違いではないが,皮肉を言ったり,恥をかかせたり,品位を傷つけたりして,言葉で攻撃するのは間違っている」。

      夫は,話していることを制御できなくなってきたと思ったら,それが潮時だと考えることができます。部屋を出るか,散歩するか,一人になって気持ちを落ち着けるとよいでしょう。箴言 17章14節は,「言い争いが突然始まってしまう前にそこを去れ」と述べています。冷静になってから,話し合いを再開してください。

      もちろん,完全な人などいません。辛辣な話し方という問題を抱えている夫が,もとの状態に逆戻りしてしまうこともあります。その場合は,謝るべきです。「新しい人格」を身に着けることに,終わりはありません。しかし,そうするなら,大きな報いを刈り取ることになります。―コロサイ 3:10。

      優しい言葉

      そうです,「死も命も舌の力のうちにある」のです。(箴言 18:21)とげのある言葉に代えて,結婚関係を築き上げ,強化する言葉を用いなければなりません。聖書の箴言は次のように述べています。「快いことばは蜜ばちの巣であり,魂に甘く,骨のいやしとなる」― 箴言 16:24。

      数年前のこと,どんな要素が強い家族を作り上げ,それを効果的に機能させるのかを見定めるために,調査が行なわれました。「その調査の結果,そうした家族の一人一人が互いに好意を抱き,そのことを互いに言い続けていたことが分かった」と,結婚に関する専門家であるデービッド・R・メースは報告しています。「彼らは互いに支え合い,各人に自分が価値ある存在であるという気持ちを抱かせ,ふさわしい時をとらえては愛情を込めて語り,行動した。そのため,ごく自然な結果として,彼らは一緒にいることを楽しみ,互いを強め,それによって互いの関係は非常に満足のゆくものとなった」。

      敬虔な夫で,妻を言葉で故意に傷つけておきながら,妻を愛していると誠実な態度で言える人はいません。(コロサイ 3:19)もちろん,言葉で夫を虐待する妻についても同じことが言えます。確かに,パウロがエフェソス人に宛てた次の忠告に従うことは,配偶者双方の義務です。「腐ったことばをあなた方の口から出さないようにしなさい。むしろ,必要に応じ,どんなことにせよ築き上げるのに良いことばを出して,聞く人たちに恵みとなるようにしなさい」― エフェソス 4:29。

      [脚注]

      a 本誌は,加害者を男性として扱っていますが,この記事の中で述べられている原則は女性にも等しく当てはまります。

      b 長老として仕える資格を得るには,あるいは長老として仕え続けるには,人を殴ったりしないことが求められます。人を実際に殴ったり,辛辣な言葉で脅したりしてはならないのです。長老と奉仕の僕は,自分の家の者をりっぱに治めていなければなりません。他の場所ではどれほど親切な振る舞いをしようと,家庭で暴君である人には,長老になる資格がありません。―テモテ第一 3:2-4,12。

      c クリスチャンがそのための治療を受けるかどうかは,個人的に決定する事柄です。しかし,どんな治療を受ける場合も,それが聖書の原則に反していないことを確かめるべきです。

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする