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    イザヤの預言 ― 全人類のための光 II
    • 第27章

      エホバは清い崇拝を祝福される

      イザヤ 66:1-14

      1 イザヤ書の最後の章では,どんなテーマに焦点が当てられますか。どんな質問に答えが与えられますか。

      イザヤ書の最後の章で,この預言の書の主要なテーマの幾つかが劇的なクライマックスを迎え,数々の重要な質問に答えが与えられます。焦点の当てられているテーマは,エホバの持たれる崇高さ,偽善に対する憎しみ,邪悪な者を処罰する決意,忠実な者に対する愛と気遣いなどです。さらに,次のような質問に答えが与えられます。何によって,真の崇拝と偽りの崇拝を見分けられますか。神の民を抑圧しながら聖なる者ととなえる偽善者たちにエホバが応報なさることを,どうして確信できますか。エホバは,ご自分への忠実を保つ者たちをどのように祝福なさいますか。

      清い崇拝のかなめ

      2 エホバはご自分の雄大さに関連して,どんな宣言をしておられますか。この宣言に,どんな含みはありませんか。

      2 この預言は最初に,エホバの雄大さを強調しています。「エホバはこのように言われた。『天はわたしの王座,地はわたしの足台である。では,あなた方がわたしのために建てることのできる家はどこにあるのか。では,わたしのための休み場としての場所はどこにあるのか』」。(イザヤ 66:1)ここで預言者イザヤは,故国に復帰したユダヤ人がエホバの神殿を再建するのを思いとどまらせようとしている,と考える人たちもいます。しかし,そうではありません。エホバご自身が,神殿の再建をお命じになるからです。(エズラ 1:1-6。イザヤ 60:13。ハガイ 1:7,8)では,この聖句はどういう意味でしょうか。

      3 地がエホバの「足台」と描写されるのはふさわしい,と言えるのはなぜですか。

      3 まず,地がエホバの「足台」と描写されている理由を考えるとよいでしょう。これは,見下した表現ではありません。宇宙の無数の天体すべての中で地球だけが,この特別の名称を与えられているのです。この地球は,独特な存在として永久に存続します。エホバの独り子が贖いを支払った所も,エホバがご自身の主権の正当性をメシア王国によって立証なさる所も,地球だからです。地球がエホバの足台と呼ばれるのは,なんとふさわしいことなのでしょう。王は,高い王座に上るために,そしてその後,足の休み場として,そのような台を用いることがあります。

      4 (イ)地上のどんな建物もエホバ神の休み場となれないのはなぜですか。(ロ)「これらすべてのもの」という言い回しは何を意味していますか。エホバへの崇拝について,どのように結論すべきですか。

      4 言うまでもなく,王が足台の上に住むことがないのと同じく,エホバもこの地球上に住まわれるわけではありません。なにしろ,広大な物質の天でさえ,エホバを入れることはできないのです。まして,地上の単なる建物がエホバを収め入れ,文字どおりの神の家となることなどあり得ません。(列王第一 8:27)エホバの王座と休み場は霊の領域にあり,そこを指して,イザヤ 66章1節は「天」という表現を用いています。続く節は要点を強調し,こう述べています。「『さあ,これらすべてのものはわたしの手が造った。それでこれらすべてはあるようになった』と,エホバはお告げになる」。(イザヤ 66:2前半)エホバが大きく手を動かし,「これらすべてのもの」,つまり天と地のあらゆるものを指さしておられるところを思い描いてください。(イザヤ 40:26。啓示 10:6)全宇宙の偉大な創造者であるエホバは,ご自分にささげられた単なる建物以上のものを持つに値する方です。単なるうわべの崇拝以上のものに値する方なのです。

      5 『苦しんで,霊において深く悔いて』いることを,どのように示せますか。

      5 宇宙主権者にはどんな崇拝がふさわしいのでしょうか。ご自身がこう述べておられます。「それで,わたしはこの者に注目する。苦しんで,霊において深く悔い,わたしの言葉におののいている者に」。(イザヤ 66:2後半)そうです,清い崇拝に不可欠なのは,崇拝者の側の正しい心の態度です。(啓示 4:11)エホバの崇拝者は,『苦しんで,霊において深く悔いて』いなければなりません。これは,エホバはわたしたちが不幸であることを望んでおられる,という意味でしょうか。そうではありません。エホバは「幸福な神」であり,ご自分の崇拝者たちも喜びにあふれていることを望んでおられます。(テモテ第一 1:11。フィリピ 4:4)とはいえ,わたしたちは皆しばしば罪をおかします。自分の罪を軽くみなしてはなりません。罪のゆえに『苦しみ』,エホバの義の規準に達していないことを悲しむべきです。(詩編 51:17)悔い改め,罪の傾向と闘い,エホバに許しを祈り求めることにより,『霊において深く悔いて』いることを示す必要があります。―ルカ 11:4。ヨハネ第一 1:8-10。

      6 真の崇拝者たちはどんな意味で『神の言葉におののく』べきですか。

      6 さらにエホバは,『神の言葉におののいている』者たちに注目なさいます。これは,わたしたちが神の宣言を読むたびに恐れで身を震わせることを望んでおられる,という意味でしょうか。そうではありません。むしろ,わたしたちが畏敬と崇敬の念をもって神のことばを考察することを望んでおられるのです。わたしたちは神の助言を誠実に求め,生活のすべての面でそれを導きとします。(詩編 119:105)また,神に対して不従順になることや,神の真理を人間の伝統で汚したり,軽く扱ったりすることを考えるだけで恐れを感じる,という意味で『おののく』こともあるでしょう。そうした謙遜な態度は,清い崇拝に不可欠です。しかし残念ながら,そのような態度は今日の世界にほとんど見られません。

      エホバは偽善的な崇拝を憎まれる

      7,8 エホバは,宗教上の偽善者たちの表面的な崇拝をどうご覧になりますか。

      7 イザヤは,自分と同時代の人々を注意深く観察し,エホバがご自分の崇拝者に求めておられる性向を持つ人がほとんどいないことをよく知っています。そのような状態ゆえに,背教したエルサレムは,差し迫った裁きを受けて当然なのです。エルサレムで行なわれている崇拝をエホバがどうご覧になっているかに注目してください。「牛をほふる者は人を討ち倒す者のようである。羊を犠牲としてささげる者は犬の首を折る者のようである。供え物をささげる者は ― 豚の血を! 乳香の記念をささげる者は,怪異な言葉をもって祝福を述べる者のようである。彼らはまた,自分の道を選んだ者であり,その嫌悪すべきものを彼らの魂は喜びとした」。―イザヤ 66:3。

      8 この言葉は,イザヤ書の最初の章に記録されているエホバの言葉を思い出させます。その章でエホバは,ご自分の民である片意地な人々に対して,あなた方の表面的な崇拝行為はわたしを喜ばせないだけでなく,実際にはますます義憤を感じさせている,と述べておられます。それら崇拝者たちが偽善的だからです。(イザヤ 1:11-17)それと同様に,ここでエホバは,その人々の捧げ物を凶悪な犯罪になぞらえておられます。その人々のささげる高価な雄牛の犠牲は,人を殺すことと同様に,決してエホバを和めることはないのです。他の犠牲は,犬や豚をささげることになぞらえられています。そうした動物は,モーセの律法の規定によれば汚れており,犠牲には全くふさわしくありません。(レビ記 11:7,27)エホバは,そうした宗教上の偽善を処罰せずにおかれるでしょうか。

      9 ユダヤ人の大半は,イザヤを通してエホバから与えられた諭しにどのように反応してきましたか。どんな結末を免れられませんか。

      9 エホバはこう言われます。「それに対して,わたしは彼らを虐待する道を選び,彼らにとって怖ろしいものを彼らにもたらすであろう。それは,わたしが呼んでも答える者はおらず,わたしが語ってもだれも聴く者はおらず,彼らはわたしの目に悪いことを行ないつづけ,わたしの喜ばないことを選んだからである」。(イザヤ 66:4)イザヤはこの言葉を,心からの確信を込めて語れるに違いありません。エホバに用いられる者として,長年にわたり神の民に『呼び』かけ,『語り』かけてきたからです。この預言者は,人々がおしなべて耳を傾けてこなかったことを,十分すぎるほど知っています。人々は悪いことを行ないつづけてきたので,応報を免れられません。エホバはまさに,その人々を処罰することを選び,背教した民の上に怖ろしい事を臨ませます。

      10 ユダに対するエホバの処置から,キリスト教世界に対する神の見方についてどんなことが分かりますか。

      10 同様に,現代のキリスト教世界も,エホバの喜ばれない事柄を習わしとしてきました。教会では偶像礼拝が盛んに行なわれ,説教壇では非聖書的な哲学や伝統がたたえられています。キリスト教世界は政治的な権力を求めるあまり,世の諸国家との霊的な姦淫関係にますます深入りしてきました。(マルコ 7:13。啓示 18:4,5,9)古代エルサレムの場合と同じく,キリスト教世界にも,当然の応報 ―「怖ろしい」もの ― が確実に臨もうとしています。同世界は,神の民に加えてきた仕打ちのゆえにも,必ず処罰を受けます。

      11 (イ)イザヤの時代の背教者たちの罪は,何によっていっそう重くなっていますか。(ロ)イザヤと同時代の人々は,どんな意味で,忠実な人たちを『神の名のゆえに』除外していますか。

      11 イザヤはこう続けます。「エホバの言葉を聞け,その言葉におののく者たちよ。『あなた方を憎み,わたしの名のゆえにあなた方を除外しているあなた方の兄弟たちは言った,「エホバの栄光がたたえられますように!」と。神はまた,あなた方の側の歓びをもって必ず現われ,彼らは恥をかく者となる』」。(イザヤ 66:5)イザヤの「兄弟たち」,つまり同国人は,エホバ神を代表し,その主権に服するという,神から与えられた責任を負っています。それを怠ったことは,非常にゆゆしい罪です。しかも,イザヤのような忠実で謙遜な人たちを憎むことにより,その罪はいっそう重くなっています。これら背教者たちは,忠実な人たちを憎み,除外します。その人たちがエホバ神を実直に代表しているからです。その意味で,『神の名のゆえに』除外していると言えます。その一方で,これらエホバの偽りの僕たちは,エホバを代表していると唱え,「エホバの栄光がたたえられますように!」といった宗教的な響きのある文句を信心深げに唱えています。a

      12 エホバの忠実な僕たちが宗教上の偽善者たちから迫害を受けた,どんな例がありますか。

      12 清い崇拝を固守する人々に対する偽りの宗教の憎しみは,耳新しい事柄ではありません。創世記 3章15節の預言のいっそうの成就なのです。その預言は,サタンの胤と神の女の胤との間の長年にわたる敵意を予告していました。イエスは,1世紀の油そそがれた追随者たちに,あなた方も,仲間である同国人の手によって苦しみに遭い,会堂から除外され,死に至るまでの迫害を受けるでしょう,と言われました。(ヨハネ 16:2)現代ではどうでしょうか。「終わりの日」の初めに,神の民は,同様の迫害が前途にあるのを見越しました。(テモテ第二 3:1)1914年,「ものみの塔」誌はイザヤ 66章5節を引用し,「これまで神の民に加えられた迫害のほぼすべては,クリスチャンを自任する人たちからのものであった」と注解しました。同じ記事はさらに,こう述べています。「我々は,この時代にその人たちが極端に走るかもしれないということだけは知っている。つまり,人を社会的に殺し,キリスト教組織として殺し,さらには実際の殺害も行なうかもしれない,ということである」。まさに,その言葉どおりになりました。その記事が出てからすぐ後の第一次世界大戦中,僧職者にあおられた迫害の熱は頂点に達しました。しかし,予告どおり,キリスト教世界は恥をかくことになりました。どのようにでしょうか。

      迅速かつ突然に生じる回復

      13 最初の成就において,『都からのどよめきの音』とは何ですか。

      13 イザヤはこう預言しています。「都からどよめきの音がする! 神殿から音がする! それは,エホバがその敵に当然の返報をする音である」。(イザヤ 66:6)この言葉の最初の成就において,「都」とはエルサレムのことであり,そこにはエホバの神殿があります。「どよめきの音」は,西暦前607年,バビロニアの侵入軍の攻撃を受ける時に都の中で聞こえる,戦いの騒ぎを示唆しています。では,現代の成就については何と言えますか。

      14 (イ)マラキは,エホバがご自分の神殿に来られることについて,どんなことを予告しましたか。(ロ)エゼキエルの預言どおり,エホバがご自分の神殿に来られた時,どんな結果が生じましたか。(ハ)エホバとイエスは,いつ霊的な神殿を検分なさいましたか。清い崇拝を代表すると唱える人々はどんな影響を受けましたか。

      14 イザヤ書のこの言葉は,他の二つの預言的な陳述と調和しています。その一つはエゼキエル 43章4節と6-9節に,もう一つはマラキ 3章1-5節に記録されています。エゼキエルもマラキも,エホバ神がご自分の神殿に来られる時について予告しています。マラキの預言によると,エホバは,ご自分の清い崇拝の家を検分し,ご自分を誤り伝える者たちを退ける精錬者として行動するために来られます。エゼキエルの幻の描写によれば,エホバは神殿に入り,不道徳と偶像礼拝の痕跡をすべて取り除くよう要求なさいます。b これらの預言の現代の成就として,1918年,エホバの崇拝と関連して,重要な霊的進展がありました。エホバとイエスは,清い崇拝を代表すると唱える人すべてを検分なさったようです。その検分の後,腐敗したキリスト教世界はついに捨て去られました。キリストの油そそがれた追随者たちにとって,その検分は短期間の精錬となり,それに続いて1919年に迅速な霊的回復が生じました。―ペテロ第一 4:17。

      15 どんな出産が予告されていますか。その予告は,西暦前537年にどのように成就しますか。

      15 その回復は,イザヤ書の続きの部分で,適切にもこう描写されています。「彼女は陣痛の起こる前に子を産んだ。産みの苦しみが始まる前に彼女は男の子を出産したのだ。だれがこのようなことを聞いただろうか。だれがこのような事柄を見ただろうか。地が一日のうちに陣痛と共に産み出されるだろうか。あるいは,国民が一時に生まれるだろうか。というのは,シオンには陣痛が起こり,また子らの出産もあったからである」。(イザヤ 66:7,8)バビロンで流刑になっているユダヤ人に関して,この言葉は感動的な最初の成就を見ます。シオンすなわちエルサレムは,再び,出産する女として描かれています。とはいえ,なんと異例な出産なのでしょう。あまりに迅速かつ突然であるため,産みの苦しみが始まる前に出産してしまうのです。これは適切な描写です。西暦前537年に神の民が紛れもない国民として再び誕生するとき,それはあまりに迅速かつ突然であるため,奇跡のように見えます。なにしろ,キュロスがユダヤ人を捕らわれから自由にした後,忠実な残りの者が故国に帰り着くまでは,わずか数か月なのです。イスラエル国民の最初の誕生に先だつ数々の出来事と比べると,なんと対照的なのでしょう。西暦前537年には,頑固な君主に自由を請願する必要はなく,敵意に満ちた軍隊から逃げることも,荒野に40年間とどまることも必要ありません。

      16 イザヤ 66章7,8節の現代の成就において,シオンは何を表わしますか。シオンの子たちはどのように再誕生を経験しましたか。

      16 現代の成就において,シオンは,エホバの天的な「女」,つまり霊者で成るエホバの天の組織を表わします。1919年,この「女」は,地上にいる油そそがれた子らが,組織された民すなわち「国民」として誕生するのを見て歓びました。その再誕生は,迅速かつ突然に生じました。c 油そそがれた者たちは,グループとしてわずか数か月のうちに,死んだような無活動状態から,神によって与えられた霊的活動領域という「地」における,生気あふれた活動的な命へと移ったのです。(啓示 11:8-12)その者たちは1919年の秋に,「ものみの塔」誌を補う新しい雑誌の刊行も発表しました。「黄金時代」と呼ばれたその新しい出版物(現在の「目ざめよ!」誌)は,神の民が生き返り,奉仕のために再び組織されたことの証拠となりました。

      17 エホバは,霊的イスラエルに関する目的を遂行する点で何ものにも阻止されないことを,どのようにご自分の民に保証しておられますか。

      17 宇宙のいかなる力も,この霊的な再誕生を阻止することはできません。次の節は,そのことを生き生きと述べています。「『わたしは,破れを生じさせながら,出産を生じさせないようにするだろうか』と,エホバは言われる。『あるいは,出産を生じさせながら,実際には閉ざすだろうか』と,あなたの神は言われた」。(イザヤ 66:9)出産の過程がひとたび始まると中断できないのと同じように,霊的イスラエルの再誕生も,ひとたび始まると止めることはできませんでした。確かに反対はありました。今後も多くの反対があるでしょう。しかし,エホバが始めた物事をとどめ得るのはエホバだけです。そして,エホバは決してそうなさいません。では,エホバは,生き返ったご自分の民をどのように扱われるでしょうか。

      エホバの優しい世話

      18,19 (イ)エホバは,心に触れるどんな例えを用いておられますか。その例えは,流刑中の神の民にどのように当てはまりますか。(ロ)今日の油そそがれた残りの者は,愛ある養育と世話からどのように益を得てきましたか。

      18 続く四つの節は,エホバの優しい世話について,心に触れる描写をしています。まず,イザヤはこう言います。「エルサレムを愛する者たちよ,あなた方は皆,彼女と共に歓び,彼女と共に喜び楽しめ。彼女のことで嘆き悲しんでいる者たちよ,あなた方は皆,彼女と共に大いに歓喜せよ。あなた方はその十分の慰めの乳房から乳を飲み,必ず満ち足りるからである。あなた方はその栄光の乳首から吸い,無上の喜びを経験するからである」。(イザヤ 66:10,11)ここでエホバは,幼子に乳を与える女性の例えを用いておられます。赤子は,おなかがすくとしきりに泣きます。しかし,母親の胸に引き寄せられて乳を飲むと,悲しさは,幸せな満足感に変わります。それと同じく,バビロンにいる忠実なユダヤ人の残りの者は,解放と回復の時が来ると,嘆き悲しんでいる状態から,幸福で満足した状態へと速やかに移ります。喜び楽しむようになるのです。エルサレムは,再建されて再び人が住むようになると,栄光を取り戻します。次いで,その都市の栄光は,忠実な住民を包み込みます。住民は以前のように,活動的な祭司団によって霊的に養われるでしょう。―エゼキエル 44:15,23。

      19 霊的イスラエルも,1919年の回復の後,祝福され,豊かに養われました。それ以来,「忠実で思慮深い奴隷」を通して分配される霊的食物の流れは安定しています。(マタイ 24:45-47)確かに,油そそがれた残りの者は,慰めと喜びの時を経験しています。とはいえ,さらに別の祝福もありました。

      20 古代と現代において,エルサレムはどのように,「奔流」という祝福を受けましたか。

      20 預言はこう続きます。「エホバはこのように言われたからである。『いまわたしは,平和を川のように,諸国民の栄光をみなぎりあふれる奔流のように彼女に差し伸べる。そしてあなた方は必ず乳を飲むであろう。あなた方は脇腹に抱えられて運ばれ,ひざの上で愛ぶされるであろう』」。(イザヤ 66:12)ここでは,乳を与える情景と,祝福の豊かな流れ ―「川」と「奔流」― の光景とが結びつけられています。エルサレムは,エホバから与えられる豊かな平和という祝福だけでなく,「諸国民の栄光」という祝福も受けます。その栄光は,神の民に向かって流れ,その民にとって祝福となります。これは,諸国の民がエホバの民に向かって,流れのように押し寄せることを意味しています。(ハガイ 2:7)古代の成就において,様々な国から来た大勢の人々が実際にイスラエルに付き従い,ユダヤ人の宗教に改宗しました。とはいえ,わたしたちの時代には,はるかに大規模な成就が生じてきました。「すべての国民と部族と民と国語の中から来た……大群衆」が,まさに人間の奔流となって,霊的ユダヤ人の残りの者に付き従うようになったのです。―啓示 7:9。ゼカリヤ 8:23。

      21 胸に訴える描写的表現を用いて,どんな慰めが予告されていますか。

      21 イザヤ 66章12節は,子供をひざの上で愛ぶし,脇腹に抱えて運ぶという,母性愛の表現についても述べています。次の節も同様の考えを表現していますが,興味深いことに,別の観点から述べています。「自分の母に絶えず慰められる人のように,わたしもあなた方を絶えず慰めるであろう。エルサレムに関してあなた方は慰められるであろう」。(イザヤ 66:13)先ほどの子供は,ここでは「人」つまり大人になっています。それでも母親は,苦難の時に我が子を慰めてやりたいという気持ちを失っていません。

      22 エホバは,ご自分の愛の優しさと強さをどのように示しておられますか。

      22 エホバは,こうした胸に訴える例えを用いて,ご自分の民に対する愛の強さと優しさを示しておられます。最も強い母性愛も,忠実な民に対するエホバの深い愛のささやかな反映でしかありません。(イザヤ 49:15)クリスチャンすべてが天の父のこの特質を反映することは,なんと肝要なのでしょう。使徒パウロはそうしました。それゆえ,クリスチャン会衆の長老たちの立派な模範となっています。(テサロニケ第一 2:7)イエスは,兄弟愛が,わたしの追随者を見分けるおもな特色となる,と言われました。―ヨハネ 13:34,35。

      23 復帰したエホバの民の幸福な状態を説明してください。

      23 エホバは行動によって愛を表明されます。それゆえ,こう続けておられます。「そして,あなた方は必ず見て,あなた方の心は必ず歓喜し,あなた方の骨も柔らかい草のように芽生えるであろう。そして,エホバのみ手は必ずその僕たちに知らされるが,神はその敵たちを実際に糾弾される」。(イザヤ 66:14)あるヘブライ語文法学者によると,『あなた方は必ず見るであろう』という表現には,流刑から帰還する人たちが復興した故国のどこを見ても,「その目に今や映るものは喜びである」という意味合いがあるようです。その人たちはまさに歓喜し,愛する故国に復帰できたことに,言い表わせないほどの感動を覚えるでしょう。あたかも骨が再び強くなっていくかのように,若返った気持ちになり,春の草のように活力にあふれます。すべての人は,この祝福された状態が人間の努力によってではなく,「エホバのみ手」によってもたらされたことを知るでしょう。

      24 (イ)今日のエホバの民に影響を与えている物事を考察して,あなたはどのように結論しますか。(ロ)わたしたちは何を決意すべきですか。

      24 あなたは,今日,神の民の間でエホバのみ手が働いていることを認めていますか。人間がいかに試みようとも,清い崇拝の回復をもたらすことは不可能だったはずです。すべての国民から来た幾百万もの貴重な人々を,霊的な地にいる忠実な残りの者に流れのように加わらせることも,到底できなかったに違いありません。そのようなことができるのはエホバ神だけです。こうしたエホバの愛の表明は,わたしたちにとって深い喜びの理由となります。神の愛を当たり前のものとみなすようなことが決してありませんように。今後も,『神の言葉に対するおののき』を持ちつづけましょう。聖書の原則に従って生き,エホバへの奉仕に喜びを見いだすことを決意しましょう。

      [脚注]

      a 今日,キリスト教世界の多くの人はエホバの固有名を用いようとせず,非常に多くの聖書翻訳からその名を取り除いてさえいます。その固有名を用いる神の民をあざける人たちもいます。ところが,そうした人たちの多くは,「ヤハを賛美せよ」という意味の「ハレルヤ」という表現を信心深げに用いています。

      b エゼキエル 43章7,9節で用いられている『その王たちの死がい』という表現は,偶像を指しています。エルサレムの反逆的な指導者たちと民は,偶像によって神の神殿を汚し,それらの偶像をいわば王としていました。

      c ここで預言されている誕生は,啓示 12章1,2,5節が述べる誕生と同じものではありません。「啓示」の書のその章において,『子,男子』はメシア王国を表わしており,その王国は1914年に機能し始めました。とはいえ,両方の預言の「女」は同じものです。

  • 諸国民のための光
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 II
    • 第28章

      諸国民のための光

      イザヤ 66:15-24

      1,2 光が不可欠であるのはなぜですか。今日,どんな闇が地を覆っていますか。

      エホバは光の源であり,「昼の光のために太陽を,夜の光のために月と星の法令を与える方」です。(エレミヤ 31:35)この点だけからしても,命の源と認められるべき方です。光は命を意味するからです。もし地球が太陽の暖かさと光を絶えず浴びていなかったなら,わたしたちの知っているような生命は存在しなかったことでしょう。この地球は,生息に適さない場所となってしまうのです。

      2 ですから,エホバが今の時代を先見して,光ではなく闇の時代を予告しておられることに,わたしたちは大いに関心を抱きます。イザヤは霊感を受け,「見よ,闇が地を,濃い暗闇が国たみを覆う」と書きました。(イザヤ 60:2)もちろん,この言葉は,物理的な闇ではなく,霊的な闇について述べています。しかし,この言葉の重大さを過小評価してはなりません。霊的な光を持たない人々は,いずれ生きてゆけなくなります。それは,太陽の光に恵まれない人の場合と同様です。

      3 この闇の時代において,どこから光を得られますか。

      3 この闇の時代にあって,エホバが備えてくださる霊的な光を無視することなどできません。自分の通り道を明るくするため,神の言葉に注意を向けることは肝要であり,できれば毎日聖書を読むべきです。(詩編 119:105)クリスチャンの集会は,「義なる者たちの道筋」にとどまるよう互いに励まし合う機会となります。(箴言 4:18。ヘブライ 10:23-25)勤勉な聖書研究や健全なクリスチャンの交わりから力を得るなら,この「終わりの日」の闇に呑み込まれないようにすることができます。「終わりの日」は,大いなる「エホバの怒りの日」に最高潮を迎えます。(テモテ第二 3:1。ゼパニヤ 2:3)その「怒りの日」は足早に近づいています。同様の日が古代エルサレムの住民に確かに臨んだように,それは必ず来るのです。

      エホバは『論争を取り上げる』

      4,5 (イ)エホバはどのようにエルサレムに攻め寄せますか。(ロ)西暦前607年のエルサレムの滅びを生き残るのは比較的少数の人々だけである,と結論できるのはなぜですか。(脚注をご覧ください。)

      4 感動的なイザヤの預言の結びの部分で,エホバは,ご自分の怒りの日に至るまでの物事を生き生きと描写しておられます。こう書かれています。「エホバご自身がまさに火のように来られる……。その兵車は暴風のようである。それは,その怒りを激しい怒りをもって,その叱責を火の炎をもって報いるためである。エホバご自身が火のようにまさしくその論争を取り上げられるからである。そうだ,その剣をもって,すべての肉なる者を攻める。エホバに打ち殺される者は必ず多くなる」。―イザヤ 66:15,16。

      5 イザヤと同時代の人々は,この言葉から,自分たちの状況の深刻さを悟れるはずです。バビロニア人がエホバの刑執行者としてエルサレムに攻め寄せ,その兵車が暴風のように砂じんをまき上げる時が来ようとしています。なんと恐ろしい光景でしょう。エホバは,それら侵入者を用いて,不忠実なユダヤ人の「肉なる者」すべてに対する火のような裁きを遂行されます。あたかもエホバ自ら,ご自分の民と戦っておられるかのようになるでしょう。神の「激しい怒り」が引き戻されることはありません。多くのユダヤ人が,「エホバに打ち殺される者」として倒れます。西暦前607年,この預言は成就します。a

      6 ユダでは,とがめるべきどんな習わしが行なわれていますか。

      6 エホバがご自分の民に対する『論争を取り上げる』のは,正当なことでしょうか。そのとおりです。イザヤ書の討議の中でこれまでに幾度も考慮した点ですが,ユダヤ人は,エホバに献身していたはずなのに,偽りの崇拝にすっかり染まっています。そしてエホバは,その者たちの行ないに盲目であったわけではありません。預言の続きの部分では,その点が再び示されています。「『中央の一つのものの後ろで園のために身を神聖にし,身を清め,豚の肉や忌み嫌うべきものを,跳びねずみをも食べる者たち,彼らはみな共にその終わりを迎える』と,エホバはお告げになる」。(イザヤ 66:17)これらのユダヤ人は,清い崇拝を行なう支度として『身を神聖にし,身を清めて』いるのでしょうか。明らかに,そうではありません。それどころか,特別な園で異教の浄めの儀式を行なっています。その後,豚の肉や,モーセの律法下で汚れたものとみなされている他の生き物の肉を貪欲にむさぼり食うのです。―レビ記 11:7,21-23。

      7 キリスト教世界は,偶像礼拝にふけったユダとどのように似ていますか。

      7 唯一まことの神との契約関係にある国民が,なんと嫌悪すべき状況に陥っているのでしょう。とはいえ,考えてみてください。今日でも,キリスト教世界の諸宗派に,これに匹敵する嫌悪すべき状況が見られます。それらも神に仕えていると唱え,その指導者の多くは信心深さを装っています。しかし実際には,異教の教えや伝統によって身を汚しており,霊的な闇の中にいることを露呈しています。その闇はなんとひどいのでしょう。―マタイ 6:23。ヨハネ 3:19,20。

      『彼らはわたしの栄光を見ることになろう』

      8 (イ)ユダとキリスト教世界には何が臨みますか。(ロ)諸国民は,どんな意味で『エホバの栄光を見る』ことになりますか。

      8 エホバは,キリスト教世界のとがめるべき行動と偽りの教えに目を留めておられるのでしょうか。イザヤの記したエホバの言葉を読み,どんな結論を引き出せるか考えてください。こうあります。「彼らの業と考えに関してであるが,わたしはすべての国民と国語を共に集めるために来る。彼らは必ず来て,わたしの栄光を見ることになろう」。(イザヤ 66:18)エホバは,神の僕ととなえる人々の業だけでなく,その人々の考えもご存じであり,その両方を裁く用意をしておられます。ユダはエホバを信じていると唱えていますが,偶像礼拝の業と異教の習わしにより,その主張が偽りであることをさらけ出しています。ユダの市民が異教の儀式にのっとって身を“浄め”ても,何の益にもなりません。その国民は切り倒されます。そうなる時,偶像を崇拝する近隣の民もまざまざとそれを見ることでしょう。それらの民は,そうした出来事を目撃し,エホバの言葉が実現したことを認めざるを得ないという意味で,『エホバの栄光を見る』のです。こうしたことすべては,どのようにキリスト教世界に当てはまるでしょうか。同世界が終わりを迎える時,かつての友や取り引き相手の多くは,離れたところに立って,エホバの言葉が成就するのをなすすべもなく見守らざるを得ないでしょう。―エレミヤ 25:31-33。啓示 17:15-18; 18:9-19。

      9 エホバはどんな良いたよりを布告しておられますか。

      9 西暦前607年のエルサレムの滅びは,エホバがもはや地上に証人たちをお持ちにならない,ということを意味するのでしょうか。そうではありません。ダニエルとその3人の仲間のような,立派に忠誠を保つ人々は,バビロンに流刑になろうとも,エホバに仕えつづけます。(ダニエル 1:6,7)そうです,エホバの忠実な証人たちの系譜は途絶えることなく続き,70年の期間が終わると,忠実な男女はバビロンを去ってユダに戻り,そこで清い崇拝を復興します。それこそ,エホバが次に触れておられる事柄です。「わたしは彼らの中にしるしを置き,逃れた者たちのある者を諸国民のもとに遣わす。タルシシュ,プル,およびルド,弓を引く者たち,トバルとヤワン,遠くの島々に。それはわたしについての報告を聞いたことも,わたしの栄光を見たこともない者たちである。彼らは必ず諸国民の中でわたしの栄光について告げるようになるであろう」。―イザヤ 66:19。

      10 (イ)バビロンから解放された忠実なユダヤ人は,どんな意味でしるしとなりますか。(ロ)今日,だれがしるしとなっていますか。

      10 西暦前537年にエルサレムに帰還する大勢の忠実な男女は,驚くべきしるし,つまりエホバがご自分の民を救出されたことの証拠となります。捕らわれのユダヤ人がいつの日か自由になって,エホバの神殿で清い崇拝を推し進めるなどということを,いったいだれが考えたでしょうか。同様に,1世紀において『しるしとなり,奇跡となった』のは油そそがれたクリスチャンであり,その人たちのところに,エホバに仕えることを望む柔和な人々が群れ集まりました。(イザヤ 8:18。ヘブライ 2:13)今日,油そそがれたクリスチャンは,復興した自分たちの地で繁栄し,地上における驚くべきしるしとなっています。(イザヤ 66:8)それらの人は,エホバの霊の力の生きた証拠であり,心からエホバに仕えたいと願う柔和な人々を引きつけています。

      11 (イ)復興の後,諸国の人々はどのようにしてエホバについて学ぶようになりますか。(ロ)ゼカリヤ 8章23節は,まずどのように成就しましたか。

      11 では,西暦前537年の復興の後,エホバについての報告を聞いたことのない諸国の人々は,どのようにしてエホバを知るようになるのでしょうか。以下の点を考えてみましょう。バビロンでの捕らわれが終わっても,忠実なユダヤ人すべてがエルサレムに戻るわけではありません。ダニエルのようにバビロンにとどまる人もいれば,地の隅々に散って行く人たちもいます。遅くとも西暦前5世紀には,ペルシャ帝国全土にユダヤ人が住んでいました。(エステル 1:1; 3:8)そうした人々の中には,異教徒である隣人にエホバについて語った人たちがいたに違いありません。そうした諸国民の中には,ユダヤ教の改宗者となる人も大勢いたからです。1世紀にクリスチャンの弟子フィリポが伝道したエチオピアの宦官の場合もそうだったのでしょう。(使徒 8:26-40)こうしたことすべては,次のような預言者ゼカリヤの言葉の最初の成就として生じました。「その日には,諸国のあらゆる言語から来た十人の者が,ユダヤ人である一人の者のすそをとらえ,まさしくとらえてこう言う。『わたしたちはあなた方と共に行きます。神があなた方と共におられることを聞いたからです』」。(ゼカリヤ 8:23)確かにエホバは,諸国民に光を送り出されたのです。―詩編 43:3。

      「エホバへの供え物」を携えて来る

      12,13 西暦前537年以降,どのように「兄弟たち」がエルサレムに連れて来られますか。

      12 エルサレムが再建された後,故国から遠く離れた土地に散っているユダヤ人は,その都と,そこに回復された祭司団とを,清い崇拝の中心とみなすでしょう。そうした人々の中には,長距離の旅をして,エルサレムでの年ごとの祭りに出席する人も大勢いることでしょう。イザヤは,霊感のもとにこう書いています。「『彼らはすべての国の民の中から,あなた方の兄弟を皆エホバへの供え物として,馬,兵車,覆いの付いた車,らば,速足の雌のらくだに載せて,わたしの聖なる山,エルサレムに実際に連れて来るであろう』と,エホバは言われた,『イスラエルの子らが清い器に供え物を入れて,エホバの家に携えて来るように。そして,彼らからもまた,わたしはある者を祭司のため,レビ人のために取るであろう』」。―イザヤ 66:20,21。

      13 ペンテコステの日にイエスの弟子たちの上に聖霊が注ぎ出された時,この『すべての国の民の中から来た兄弟たち』に属する人々が,その場に居合わせました。こう記録されています。「エルサレムには,天下のあらゆる国から来たユダヤ人で,敬虔な人々が住んでいた」。(使徒 2:5)その人々はユダヤ人の習慣に従って崇拝を行なうためにエルサレムに来ていましたが,イエス・キリストに関する良いたよりを聞いた時,多くの人はイエスに信仰を働かせ,バプテスマを受けました。

      14,15 (イ)第一次世界大戦後,油そそがれたクリスチャンはどのように,霊的な「兄弟たち」をいっそう多く集めましたか。そうした「兄弟たち」はどのように,『清い器に入った供え物』としてエホバのもとに携えて来られましたか。(ロ)エホバはどんな意味で,『ある者を祭司のために取る』ことを行なわれましたか。(ハ)霊的な兄弟たちを集める業に加わった油そそがれたクリスチャンとして,どんな人たちがいますか。(このページの囲み記事をご覧ください。)

      14 この預言は,現代にも成就するのでしょうか。そのとおりです。第一次世界大戦後,油そそがれたエホバの僕たちは,神の王国が1914年に天で設立されたことを聖書から理解しました。そして,注意深い聖書研究により,王国相続者たち,つまり「兄弟たち」をさらに集めるべきことを悟りました。恐れを知らない奉仕者たちが,油そそがれた残りの者の成員となる見込みのある人々を探して,あらゆる交通手段を用い,「地の最も遠い所」にまで出かけて行きました。そうした見込みのある人々の大半は,キリスト教世界の諸教会から出て来ました。そして,見いだされると,エホバへの供え物として携えて来られました。―使徒 1:8。

      15 早い時期に集め入れられた油そそがれた者たちは,聖書の真理の知識を得る前の状態のままでエホバに受け入れていただけるとは期待しませんでした。『清い器に入った供え物』として,あるいは使徒パウロが述べるところの『キリストへの貞潔な処女』として自らを差し出せるよう,霊的また道徳的な汚れから身を清めるための手段を講じました。(コリント第二 11:2)油そそがれた者たちは,教理上の誤りを退けることに加え,この世の政治に関して厳正な中立の立場を保つ方法を学ぶ必要もありました。1931年,ご自分の僕たちがふさわしい程度に清められた時,エホバは慈しみ深くもその僕たちに,“エホバの証人”としてみ名を負う特権をお与えになりました。(イザヤ 43:10-12)では,エホバはどんな意味で,『ある者を祭司のために取る』ことを行なわれたのでしょうか。これら油そそがれた者たちは,グループとして,神に賛美の犠牲をささげる「王なる祭司,聖なる国民」の一部となったのです。―ペテロ第一 2:9。イザヤ 54:1。ヘブライ 13:15。

      取り入れの業は続く

      16,17 第一次世界大戦後において,「あなた方の子孫」とはだれのことですか。

      16 その「王なる祭司」は全員で14万4,000人であり,その人々を集める業はやがて完了しました。(啓示 7:1-8; 14:1)では,取り入れの業はそれで終わったのでしょうか。そうではありません。イザヤの預言の続きにはこうあります。「『わたしの造っている新しい天と新しい地がわたしの前に立っているのと同じように』と,エホバはお告げになる,『あなた方の子孫とあなた方の名も立ちつづけるからである』」。(イザヤ 66:22)この言葉の最初の成就として,バビロンでの捕らわれから帰還するユダヤ人は子を育てることを始めます。そのようにして,回復したユダヤ人の残りの者(「新しい地」)は,ユダヤ人の新しい管理機関(「新しい天」)のもとにしっかりと据えられるのです。とはいえ,この預言は今の時代に,特に顕著な成就を見てきました。

      17 霊的な兄弟たちで成る国民が産み出す「子孫」とは,地上で永遠に生きる希望を抱く「大群衆」のことです。その人々は,「すべての国民と部族と民と国語の中から」来て,「み座の前と子羊の前に」立ちます。「自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした」人々です。(啓示 7:9-14; 22:17)今日,この「大群衆」は,霊的な闇から離れ,エホバが備えておられる光へ移っています。イエス・キリストに信仰を働かせ,油そそがれた兄弟姉妹と同じく霊的にも道徳的にも清さを保とうと努めています。グループとして,キリストの指導のもとで奉仕を続け,永久に「立ちつづける」のです。―詩編 37:11,29。

      18 (イ)大群衆の成員はどんな点で,油そそがれた兄弟たちと同じように行動してきましたか。(ロ)油そそがれた者とその仲間はどのように,「新月から新月,安息日から安息日へと」エホバを崇拝しますか。

      18 これら地的な希望を抱く,骨折って働く男女は,道徳的また霊的に清さを保つことの肝要さを認めつつも,エホバを喜ばせるにはそれだけでは十分でない,ということを知っています。取り入れの業は真っ盛りであり,これらの男女はその業に参加したいと願っています。この人々について,「啓示」の書はこう預言しています。「[彼らは]神のみ座の前にいる……。そして,その神殿で昼も夜も神に神聖な奉仕をささげている」。(啓示 7:15)この言葉は,イザヤの預言の,最後から2番目の節を思い起こさせます。そこにはこうあります。「『必ず新月から新月,安息日から安息日へと,すべての肉なる者がわたしの前で身をかがめるために入って来るであろう』と,エホバは言われた」。(イザヤ 66:23)今日,そのとおりのことが生じています。「新月から新月,安息日から安息日へと」,つまり,毎月,毎週,定期的に,油そそがれたクリスチャンとその仲間である大群衆は,エホバを崇拝するためにやって来ます。とりわけ,クリスチャンの集会に出席し,公の宣教奉仕を行なうことによって,そうします。あなたも,定期的に『来て,エホバの前で身をかがめる』人たちの一人となっておられますか。エホバの民はそうすることに大きな喜びを見いだしており,大群衆に属する人たちは,「すべての肉なる者」― 生きているすべての人 ― がとこしえにわたって「新月から新月,安息日から安息日へと」エホバに仕える時代を待ち望んでいます。

      神に敵する者たちの最期

      19,20 聖書時代に,ゲヘナは何のために用いられましたか。ゲヘナは何の象徴ですか。

      19 これまで学んできたイザヤの預言も,残すところあと1節です。イザヤ書は,次のような言葉で結ばれています。「彼らは実際に出て行き,わたしに対して違犯をおかしていた者たちの死がいを見つめるであろう。それらについた虫は死なず,その火は消されず,それらはすべての肉なる者にとって必ず嫌悪の情を起こさせるものとなるからである」。(イザヤ 66:24)イエス・キリストは,生活を簡素にして王国の関心事を第一にするよう弟子たちを励ました際,この預言を念頭に置いておられたようです。こう述べておられます。「もしあなたの目があなたをつまずかせるなら,それを捨て去りなさい。あなたにとっては,片目で神の王国に入るほうが,二つの目をつけてゲヘナに投げ込まれるよりは良いのです。そこでは,うじは死なず,火は消されないのです」。―マルコ 9:47,48。マタイ 5:29,30; 6:33。

      20 このゲヘナとは,どんな場所ですか。幾世紀も前に,ユダヤ人の学者ダーウィード・キムヒはこう書きました。「それはエルサレムに隣接した……場所で,胸の悪くなるような所であり,人々は汚れたものや死がいをそこへ投げ捨てる。そこではまた,汚れたものや死がいの骨を燃やすために絶えず火が燃やされていた。したがって,邪悪な者の裁きは寓話的意味でゲーヒンノームと呼ばれている」。ゲヘナが,このユダヤ人の学者の言うように,廃棄物や埋葬に値しないとみなされた人々の死がいなどの処理に用いられていたのであれば,火は,そうした廃棄物を処分するのに適した手段だったでしょう。火が焼き尽くさなかった物は,うじが食い尽くします。神に敵する者すべての最期を示す,なんと適切な描写なのでしょう。b

      21 どんな人々にとって,イザヤ書は積極的な調子をもって終わっていますか。なぜそう言えますか。

      21 こうした死体や火や虫への言及を考えると,イザヤの感動的な預言は陰うつな調子をもって終わっている,と言えるのではないでしょうか。神に公然と敵する人々は,そう思うに違いありません。しかし,神の友である人々は,邪悪な者の永遠の滅びに関するイザヤの記述から大いに力づけられます。エホバの民は,敵が優位に立つことは二度とないという,この保証の言葉を必要としています。神の崇拝者に多大の苦悩を味わわせ,神のみ名に多大のそしりをもたらしてきたそれらの敵は,永遠の滅びを被ります。それゆえ,「苦難は二度と生じない」のです。―ナホム 1:9。

  • 諸国民のための光
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 II
    • [409ページの囲み記事]

      エホバへの油そそがれた供え物 ― すべての国の民から

      1920年,フアン・ムニスは米国をたってスペインへ向かい,その後,アルゼンチンへ移って,油そそがれた者たちの会衆を幾つも組織しました。1923年以降,真理の光は西アフリカの心の正直な人々の上にも輝きました。その年に,宣教者のウィリアム・R・ブラウン(バイブル・ブラウンとも呼ばれた)が,シエラレオネ,ガーナ,リベリア,ガンビア,ナイジェリアなどの土地で王国の音信を宣べ伝え始めたのです。同じ年,カナダ人のジョージ・ヤングはブラジルに出かけて行き,次いでアルゼンチン,コスタリカ,パナマ,ベネズエラに,そしてソビエト連邦にまで足を伸ばしました。同じころ,エドウィン・スキナーは英国から船でインドに行き,そこで長年にわたって収穫の業に力を尽くしました。

      [411ページの図版]

      ペンテコステの際に居合わせたユダヤ人の中に,『すべての国の民の中から連れて来られた兄弟たち』がいた

      [413ページ,全面図版]

  • 諸国民のための光
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 II
    • a エルサレムがバビロニア人の手に落ちた後の状況に関連して,エレミヤ 52章15節は,「民の中の立場の低い者たちの一部,市に残されていた残りの民」のことを述べています。「聖書に対する洞察」の第2巻,840ページは,この聖句について注解し,こう述べています。「『市に残されていた』という表現は,相当数の者が飢きんか病気か火災のいずれかで死んだり,戦いで打ち殺されたりしたことを示唆しているようです」。

      b ゲヘナでは,生きた人間ではなく死がいが焼き尽くされるのですから,この場所はとこしえの責め苦の象徴ではありません。

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