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  • ねたみについてあなたが知るべき事柄
    ものみの塔 1995 | 9月15日
    • ねたみについてあなたが知るべき事柄

      ねたみとは何ですか。それは人に不安や悲しみや怒りを感じさせる激しい感情です。だれかが自分よりもうまく仕事をこなすように見えるとき,ねたみを感じるかもしれません。あるいは,友人が自分よりも称賛される時にねたましく思うかもしれません。しかし,ねたむのはいつでも悪いことですか。

      ねたみに打ち負かされる人は,ライバルになりそうな人に対して疑い深くなる傾向があります。古代イスラエルのサウル王がそのよい例でした。当初,サウルは自分の武具持ちであるダビデをたいへん気に入り,軍の指揮官に昇進させることさえしました。(サムエル第一 16:21; 18:5)その後,ある日,サウル王は女たちがダビデをたたえて,「サウルは千を討ち倒し,ダビデは万を」と言っているのを耳にしました。(サムエル第一 18:7)サウルはこのことが自分とダビデとの良い関係に影響を与えるのを許すべきではありませんでしたが,彼は憤慨しました。「サウルはその日以降,絶えずダビデを疑るように見てい(まし)た」― サムエル第一 18:9。

      人をねたましく思う人でも,他の人が傷つくことは望んでいないでしょう。その人は仲間の成功に腹を立て,同じ特質や状況を渇望しているだけなのかもしれません。一方,そねみは,特に非建設的な形のねたみです。そねむ人は,自分にとってねたましい人からひそかに良いものを差し控えたり,その人が危害を被るのを望んだりすることがあります。そねむ人は時として自分の感情を隠せません。サウル王がダビデを殺そうとしたように,やむにやまれず他の人を公然と傷つけるかもしれません。サウルは一度ならず,「ダビデを壁に突き刺そうと」して槍を投げつけました。―サムエル第一 18:11; 19:10。

      『でも私は人をねたむ人間ではない』と言われるかもしれません。確かに,ねたみはあなたの生活を支配してはいないでしょう。しかし,だれでもある程度はねたみ,つまり自分自身や他の人のねたみの感情の影響を受けています。わたしたちは他の人のねたみにはすぐに気づきますが,自分のねたみにはなかなか気づかないものです。

      「そねみの傾向」

      神の言葉である聖書の中で明らかにされているように,罪深い人間の性向の記録の中でしばしば目につくのは,ねたみの罪です。カインとアベルの記述を思い出されますか。アダムとエバのこれらの息子は二人とも神に犠牲をささげました。アベルがそうしたのは,彼が信仰の人だったからです。(ヘブライ 11:4)アベルは,地球に関する壮大な目的を成就する神の能力に信仰を抱いていました。(創世記 1:28; 3:15。ヘブライ 11:1)アベルはさらに,来たるべき地上のパラダイスでの命という報いを,神が忠実な人間に与えてくださることを信じていました。(ヘブライ 11:6)それで,神はアベルの犠牲を喜んでいることを示されました。もしカインが本当に自分の兄弟を愛していれば,神がアベルを祝福されたことをうれしく思ったことでしょう。その反対に,カインは「非常な怒りに燃え」ました。―創世記 4:5。

      神はカインに,自分も祝福を受けられるようにするため,善いことを行なうよう強く勧められました。それから神は,「善いことを行なうようにならなければ,罪が入口にうずくまっており,それが慕い求めているのはあなたである。あなたはそれを制するだろうか」と警告なさいました。(創世記 4:7)残念なことに,カインは怒りの伴ったねたみの気持ちを制しませんでした。その怒りに駆られて,義にかなった兄弟を殺してしまったのです。(ヨハネ第一 3:12)それ以来,紛争や戦いにより何億もの人命が奪われてきました。「戦争の基本的な原因として,領土や富や権力をもっと手に入れたいという願望,あるいは安全に対する願望を挙げることができるかもしれない」と,ワールドブック百科事典は説明しています。

      真のクリスチャンはこの世の戦争に参加しません。(ヨハネ 17:16)しかし残念なことに,クリスチャンが個人として口げんかに巻き込まれることはあります。会衆内の他の成員たちがどちらかの味方につけば,こうしたけんかは有害な舌戦に発展する可能性があります。聖書筆者のヤコブは,「あなた方の間の争いはどこから,また戦いはどこから起こるのですか」と仲間の信者に尋ねています。(ヤコブ 4:1)ヤコブは,彼らの物質主義的な貪欲さを暴露することによってその質問に答え,さらに,「あなた方は……貪りを続けます」,あるいは「ねたみを抱いています」と述べました。(ヤコブ 4:2,脚注)そうです,物質主義は貪りや,自分より暮らし向きが良さそうな人たちに対するねたみといったものにつながりかねません。この理由でヤコブは,人間の「そねみの傾向」について警告したのです。―ヤコブ 4:5。

      ねたみの原因について分析することにはどんな益がありますか。そうすることにより,わたしたちは正直になり,他の人との関係を改善するよう助けられます。また,より一層理解を示し,寛容になり,快く許すようにも助けられます。そして何よりも,人間の罪深い性向からの救済と救出をもたらす神の愛ある備えは,人間にとって絶対に必要であるということが浮き彫りにされます。―ローマ 7:24,25。

      罪深いねたみのない世界

      人間の観点からすれば,罪深いねたみのない世界は実現不可能に思えるかもしれません。著述家のラム・ランドーは,「長年にわたって集積された知恵は,哲学者や……心理学者がその問題についていろいろ述べてはいても,ねたみに責めさいなまれている人にとっては何の導きともならない。……しっと深い人を治した医師が果たしているだろうか」と述べています。

      しかし神の言葉は,不敬虔なねたみやそねみに再び悩まされる人がいない新しい世で人間として完全な命を得るという希望を差し伸べています。そのうえ,その新しい世の平和が,そうした邪悪な性格を示す人々によって乱されることはありません。―ガラテア 5:19-21。ペテロ第二 3:13。

      しかし,すべてのねたみが間違っているわけではありません。事実,聖書はエホバのことを「ねたむ神」と述べています。(出エジプト記 34:14)これはどういう意味ですか。そして,聖書はふさわしいねたみについて何と述べていますか。同時に,ふさわしくないねたみをどのように制することができますか。続く記事をご覧ください。

  • しっとのために私の人生は台なしになるところでした
    ものみの塔 1995 | 9月15日
    • しっとのために私の人生は台なしになるところでした

      しっとの悪影響を本当に受けるようになったのは,二番目の夫マークと結婚してからです。a 二人で何人もの連れ子を世話し,以前の配偶者と接しなければなりませんでした。耐え難い状況になることもありました。家族の中で何かの衝突があってもマークは私の肩を持ってくれないような気がして,マークは今でも別れた奥さんを愛している,と思うようになりました。私はしっと心を抑えるどころか,しっと心の命じるままに生きていました。マークの別れた奥さんが近くにいるといつもびくびくしていました。

      私はいつもマークを見詰め,彼の目を見て視線を追うことさえしました。私はありもしないことさえ,その表情から読み取っていました。前の奥さんをまだ愛していると,彼をあからさまに非難したこともあります。ある時など,このことでマークはうんざりして,席を立つとクリスチャンの大会から帰ってしまいました。私はエホバのみ前で罪悪感を感じました。私のせいで家庭は滅茶滅茶になっていました。なぜなら,結局は子供たちにも影響が及んでいたからです。自分のしていることで自己嫌悪に陥りました。でも,いくら一生懸命努力しても,どうしてもしっと心は抑えられないように思えました。

      マークは,私を助けるどころか,仕返しを始めました。私が彼を非難すると,「焼いてるね。焼いているんだ,お前は」と怒鳴るのです。しっと心を抱かせるよう仕組んでいると思われる節もありました。多分そうすれば私のしっと深い傾向がなくなると思ったのでしょう。しかし,それは事態を悪化させただけでした。彼は,他の女性に関心を向け始め,どれほどきれいに見えるか解説するのです。そのため私はさらに強い劣等感を感じ,邪魔者にされていると思いました。別の感情 ― 憎しみ ― が醜い頭をもたげるところまでゆきました。その段階で私は混乱の極みに達し,彼や彼の家族と別れたいと思うようになりました。

      「ねたみは骨の腐れである」と述べる聖書の言葉は的を射ています。(箴言 14:30)今度は私の健康に影響が出るようになったのです。胃に潰瘍ができて,治るまでに長い時間がかかりました。マークがすることすべてを疑ってかかっていたので,私の人生はその後もずっと惨めでした。彼の衣服のポケットをくまなく調べ,電話番号が見つかると,相手方を確認するために電話をかけました。心の奥底では,自分のことが本当に恥ずかしく,エホバのみ前で恥ずかしい,と思ってよく泣きました。それでも自分を止めることができませんでした。私の最大の敵は自分自身でした。

      私の霊性は,もはや祈ることができないほど下がっていました。私はエホバを愛しており,正しいことを行ないたいと本当に願っていました。夫や妻について述べた聖句はすべて知っていましたが,それを当てはめることができませんでした。すばらしい子供たちがいるにもかかわらず,生まれて初めて,もう生きていたくなくなりました。

      クリスチャン会衆の長老たちは,とてもよく励ましてくれ,私を助けるために最善を尽くしてくださいました。しかし,話題が私のしっとの問題になると,私はきまりが悪くなり,そうした問題を抱えていることを認めたくなくて,いつも否定していました。

      結局,健康状態が悪化して,手術のために入院しなければならないところまでゆきました。入院中に,今までの生活ではいけないということに気づきました。マークと私は,過度に感情的にならずに自分たちの状況を吟味するため,3か月間別居することにしました。この期間中に,すばらしいことが起きました。「目ざめよ!」誌に,「アルコール依存症の親のもとで大人になった人のための助け」と題する記事が載ったのです。b

      実は,私の母はアルコール依存症でした。私は身体的な虐待を受けたわけではありませんが,両親は互いに対しても,私に対しても,愛情を体で表現することが全くありませんでした。母から抱きかかえてもらったり,愛していると言ってもらったりした記憶は全くありません。ですから,私は実際,愛し方も,それと同じくらい大切な愛され方も本当には知らずに成長しました。

      母はよく私に,父の浮気のことや,父への不信感について話していたので,私は全般的に男性を信頼しないで成長したように思います。そうした育ちのゆえに私は,他の人,特に他の女性に対していつも劣等感を抱いていました。「目ざめよ!」誌のその記事を読んで,こうした事柄の意味を理解するようになりました。生まれて初めて,しっとに関する自分の問題の根本的な原因を理解したのです。

      私は,「目ざめよ!」誌の記事を夫のマークに見せましたが,その記事は夫が私のことをもっとよく理解する面でも役立ちました。間もなく私たちは,別居を考えている夫婦に対する聖書の助言に従うことができるようになりました。そして仲直りしました。(コリント第一 7:10,11)今,私たちの結婚生活は,これまでになく良くなっています。私たちはほとんどの事柄を,特にクリスチャンの活動が関係しているときには,一緒に行ないます。マークは以前よりも感情移入をしてくれます。ほとんど毎日,どれほど私のことを愛しているか話してくれますし,私は今ではそのことを本当に信じています。

      マークの以前の奥さんと会うことがあらかじめ分かっている時はいつでも,エホバに力を祈り求め,円熟したクリスチャンらしく振る舞えるよう助けてください,とお願いします。そして,この方法はうまくゆきます。彼女に対する敵対感情でさえ薄らいでいます。もう消極的なことを考え続けることはありませんし,想像をたくましくすることもありません。

      今でも,間違ったしっと心はいくらか残っています。神の新しい世で完全な命を享受するようにならなければ,それが全く除き去られることはないでしょう。ともかく私は,しっと心の言いなりになるのではなく,しっと心を制することを学びました。確かに,しっとによって私の人生は台なしになるところでしたが,エホバとその組織のおかげで,今ではずっと幸福になっていますし,普通の健康な体に戻りました。私は再び,私の神エホバとの強力な関係を保っています。―寄稿。

  • 人をそねむ人
    ものみの塔 1995 | 9月15日
    • 人をそねむ人

      ヘブライ語には,「ねたみ」の語根は一つしかありません。罪深い人間に言及しているときには,そのヘブライ語は『そねみ』,または「対抗心」と訳されることがあります。(創世記 26:14。伝道の書 4:4)しかし,ギリシャ語の場合,「ねたみ」を表わす語は一つだけではありません。ゼーロスという語は,それに対応するヘブライ語と同じように,義にかなったねたみと罪深いねたみのどちらをも指すことがあります。ギリシャ語のもう一つの言葉フトノスには否定的な意味しかありません。「新世界訳」では基本的に「そねみ」と訳されています。

      フトノスという言葉は,古代ギリシャ語ではどのように使われていたのでしょうか。「アンカー聖書辞典」は,こう述べています。「フトノスに苦しめられている人は貪欲な人とは異なり,ある物を持つ他の人を恨めしく思うとしても,必ずしもその物を欲しがるわけではない。他の人がその物を持つことを望まないだけである。また,競争心の旺盛な人とも違う。その人の目的は競争心の旺盛な人とは異なり,勝つことではなく,他の人を勝たせないことにある」。

      人をそねむ人は,とかく自分自身の態度が問題の主な原因であることに気づいていません。同じ辞典はこう説明しています。「フトノスの特徴の一つは,自己認識の欠如である。フトネロスな人は自分の行動の理由を説明するよう求められるといつも,自分の攻撃した人はそうされるに価するとか,状況が不公平だから批判したなどと自分や他の人に言うだろう。友人について,どうしてそのような話し方ができるのか尋ねられたら,自分は友人のためを思って批判しているのだ,と言うだろう」。

      福音書筆者のマタイとマルコは,イエスの殺害に責任のある人たちの動機を描写するために,ギリシャ語のフトノスを用いています。(マタイ 27:18。マルコ 15:10)そうです,彼らはそねみに駆られていたのです。この同じ有害な感情に促され,背教者たちは以前の兄弟たちを悪意を抱いて憎むようになりました。(テモテ第一 6:3-5)人をそねむ人が神の王国に入れないのも無理はありません。エホバ神は,いつも『そねみ[英文字義]に満ちた』人はすべて「死に価する」と宣言しておられます。―ローマ 1:29,32。ガラテア 5:21。

  • エホバの清い崇拝のためのねたみ
    ものみの塔 1995 | 9月15日
    • エホバの清い崇拝のためのねたみ

      『エホバは,その名をねたむといい,ねたむ神である』― 出エジプト記 34:14。

      1 神の主要な特質は何ですか。それは神の抱かれるねたみとどのように結びついていますか。

      エホバはご自分を「ねたむ神」として述べておられます。「ねたみ」という語には良くない意味合いがあるために,これはなぜなのだろうか,と考える方もおられることでしょう。言うまでもなく,神の主要な特質は愛です。(ヨハネ第一 4:8)ですから,神が何らかのねたみの感情を抱かれるとすれば,それは人間の益になるものであるに違いありません。現に,これから見るとおり,神の抱かれるねたみは,宇宙の平和と調和のために肝要です。

      2 「ねたみ」と訳されるヘブライ語の他の訳し方としてどのようなものがありますか。

      2 「ねたみ」と訳されるヘブライ語の関連語はヘブライ語聖書の中に80回以上出てきます。そのほぼ半数はエホバ神に関して用いられています。G・H・リビングストンはこう説明しています。「神に適用される場合,ねたみの概念にひずんだ感情の含みはなく,むしろそれは,エホバへの崇拝におけるひたむきさに重きを置いている」。(「文化的環境から見た五書<ペンタチューク>」)そのようなわけで,新世界訳は時に,そのヘブライ語の名詞形を『全き専心を求めること』と訳出しています。(エゼキエル 5:13)別のふさわしい訳語としては,「激情」また「熱心」などがあります。―詩編 79:5。イザヤ 9:7。

      3 どのような点でねたみは時に良いことを果たしますか。

      3 人間はねたみを感じ得る者として創造されましたが,人類の罪への堕落は,歪んだかたちのねたみを生じさせる結果となりました。とはいえ,人間の持つねたみは,良いことのための力ともなり得ます。それは,人を動かして愛する者を有害な影響から守らせます。さらに,人はエホバとその崇拝のために正当なねたみを示すことができます。(列王第一 19:10)エホバのためのそのようなねたみの正しい理解を伝えるものとして,ヘブライ語のその名詞は,エホバに対して『張り合う関係を一切認めないこと』と訳すこともできます。―列王第二 10:16。

      金の子牛

      4 イスラエルに対する神の律法の中では,義にかなったねたみの関係するどんな命令が際立っていましたか。

      4 義にかなったねたみの例として,イスラエル人がシナイ山で律法を与えられてから後の出来事があります。イスラエル人は,人間のこしらえた神々を崇拝することがないようにと繰り返し戒められていました。エホバはこう告げました。「あなたの神であるわたしエホバは全き専心を要求する神[または,「ねたむ(熱心な)神; 対抗するものを容認しない神」]であ(る)」。(出エジプト記 20:5,脚注。出エジプト記 20:22,23; 22:20; 23:13,24,32,33と比較してください。)エホバはイスラエル人と契約を結び,その民を祝福して,約束の地に導き入れることを約束されました。(出エジプト記 23:22,31)それに対して民は,「エホバの話されたすべてのことをわたしたちは喜んで行ない,またそれに従います」と述べました。―出エジプト記 24:7。

      5,6 (イ)シナイ山のところに宿営していた時にイスラエル人はどのようにして大きな罪を犯しましたか。(ロ)エホバとその忠節な崇拝者たちはシナイで義にかなったねたみをどのように示しましたか。

      5 しかしながら,イスラエル人は日ならずして神に罪を犯しました。それはまだシナイ山のふもとに宿営していた時のことでした。モーセは山に上って幾日もたち,神からのいっそうの指示を受けに行ったままでした。民は,自分たちのために神を作ってくれるようにと,モーセの兄弟アロンに迫りました。アロンはそれに応じ,民が持ってきた金で子牛を作りました。その偶像はエホバを表わすものである,と唱えられました。(詩編 106:20)次の日,民は犠牲をささげて,しきりに「それに身をかがめ」ました。そうして民は「打ち興じた」のです。―出エジプト記 32:1,4,6,8,17-19。

      6 モーセが山から下りて来ると,イスラエル人は祭りを行なっているところでした。彼らの恥ずべき行為を見たモーセは,「エホバの側にいる者はだれか」と呼ばわりました。(出エジプト記 32:25,26)レビの子らがそのもとに集まりました。モーセは,剣を取って偶像礼拝に浮かれ騒ぐ者たちを処刑するようにと彼らに指示しました。それらレビ人は,神の清い崇拝のための自分たちのねたみをはっきり示して,罪を犯した兄弟たち約3,000人を殺しました。エホバは生き残っている者たちにも災厄を送って,その行動に裏打ちを与えました。(出エジプト記 32:28,35)その際に神は,「あなたはほかの神に平伏してはならない」という命令を再度述べ,「エホバは,その名をねたむといい,ねたむ神だからである」と言われました。―出エジプト記 34:14。

      ペオルのバアル

      7,8 (イ)多くのイスラエル人はペオルのバアルに関連してどのように甚だしい偶像礼拝に陥りましたか。(ロ)どのようにしてエホバからの神罰は止まりましたか。

      7 40年後,イスラエル国民が約束の地にまさに入ろうとしていた時,魅惑的なモアブ人とミディアン人の女たちが,自分たちのところに来てもてなしを楽しむようにと多くのイスラエル人を誘いました。それらイスラエルの男たちは,偽りの神々を崇拝する人々との親密な交わりを避けるべきでした。(出エジプト記 34:12,15)ところが彼らは,「ほふり場に向かう雄牛のように」して走って行き,それらの女たちと淫行を犯し,一緒になってペオルのバアルに身をかがめました。―箴言 7:21,22。民数記 25:1-3。

      8 エホバは,この恥ずべき性崇拝にかかわった者たちを死なせるために神罰を送りました。神はさらに,潔白なイスラエル人に対し,罪を犯した兄弟たちを殺すように命じました。イスラエルの長の一人でジムリという名の者は,厚顔無恥にも,ミディアン人の族長の娘と関係を持とうとして,その娘を連れて自分の天幕に入りました。これを見るや,神を恐れる祭司ピネハスは,その不道徳な二人を処刑しました。これをもって神罰はやみ,神はこう言明されました。「ピネハスは,わたしの憤りをイスラエルの人々からそれさせた。ピネハスは彼らの中にあって,わたしを動かしたのと同じねたみの怒りを表わし,そのゆえにわたしは,自分のねたみのうちにイスラエル人を滅ぼし絶やすことはしなかった」。(民数記 25:11,新英訳聖書)国民としては滅びを免れたとはいえ,少なくとも2万3,000人のイスラエル人が死にました。(コリント第一 10:8)それらの人々は,約束の地に入るという年来の希望をかなえられませんでした。

      警告となる教訓

      9 エホバの清い崇拝のためのねたみを示さなかったイスラエルとユダの民に何が臨みましたか。

      9 悲しいことにイスラエル人はこれらの教訓を間もなく忘れてしまいました。エホバの清い崇拝のためのねたみを表わさなかったのです。「[彼らは]その彫像をもって神にねたみを起こさせるのであった」。(詩編 78:58)その結果エホバは,イスラエルの10部族がアッシリア人により西暦前740年に捕囚にされることを許されました。残りの2部族で成るユダ王国も,その首都エルサレムが西暦前607年に滅ぼされた際に同様の処罰を受けました。多くの人が殺され,生き残った人々は捕囚としてバビロンに連れ去られました。今日のすべてのクリスチャンに警告となる先例ではありませんか。―コリント第一 10:6,11。

      10 悔い改めない偶像礼拝者はどうなりますか。

      10 今日,地球人口の3分の1に当たる,およそ19億人がクリスチャンと唱えています。(1994年ブリタニカ年鑑)これらの人の大多数は,崇拝にイコン,像,十字架を用いる教会組織に所属しています。エホバは,偶像礼拝によってご自分にねたみを起こさせたのがご自身の民であっても惜しみ見ることはされませんでした。クリスチャンと唱えていても目に見える事物の助けを用いて崇拝する人々をも惜しみ見たりはされません。「神は霊であられるので,神を崇拝する者も霊と真理をもって崇拝しなければなりません」とイエス・キリストは言われました。(ヨハネ 4:24)そして聖書は,偶像礼拝に対して警戒するようクリスチャンを戒めています。(ヨハネ第一 5:21)悔い改めない偶像礼拝者は神の王国を受け継がない人々の中に数えられています。―ガラテア 5:20,21。

      11 クリスチャンは偶像に身をかがめなくてもどのようにして偶像礼拝の罪を持つ場合がありますか。そのような偶像礼拝を避ける助けとなるのは何ですか。(エフェソス 5:5)

      11 真のクリスチャンは偶像に身をかがめるようなことを決して行ないませんが,それだけでなく,神が,偶像礼拝的,また汚れていて罪深いとみなされる事柄をすべて避けなければなりません。一例として,聖書はこう戒めています。「淫行,汚れ,性的欲情,有害な欲望,また強欲つまり偶像礼拝に関して,地上にあるあなた方の肢体を死んだものとしなさい。こうした事柄のゆえに神の憤りは臨もうとしているのです」。(コロサイ 3:5,6)こうした言葉に従うには,不道徳な行為を退けなければなりません。そのためには,汚れた性的欲情を起こさせようとする娯楽を避けることも必要です。真のクリスチャンは,そのような欲情を満たそうとするよりは,神の清い崇拝のためのねたみの情を抱きます。

      敬虔なねたみの後代の例

      12,13 神の清い崇拝のためのねたみを示す面でイエスはどのように際立った手本を示されましたか。

      12 神の清い崇拝のためのねたみを示した人の最も際立った手本はイエス・キリストでした。宣教の最初の年に,イエスは貪欲な商人が神殿の中庭で営業しているのを見ました。そこを訪れるユダヤ人は,自分の持つ外貨を,神殿税として受け入れられる貨幣と交換してもらうために両替屋のサービスが必要だったのかもしれません。神の律法の求める犠牲をささげるために動物や鳥を買うことも必要でした。その種の商取引は神殿の中庭以外の場所でなされるべきでした。さらに悪いことに,それらの商人は,兄弟たちの宗教上の必要に不当に付け込んで法外な値を要求することもしていたようです。神の清い崇拝のためのねたみの情に燃えたイエスは,むちで羊や牛をそこから追い出しました。両替屋の台もひっくりかえして,「わたしの父の家を売り買いの家とするのはやめなさい!」と言われました。(ヨハネ 2:14-16)こうしてイエスは,「あなたの家に対する全き熱心[「ねたみ」,バイイングトン訳]がわたしを食い尽くし(た)」と述べる詩編 69編9節の言葉を成就されました。

      13 それから3年後,イエスは再び,貪欲な商売人たちがエホバの神殿で営業しているのをご覧になりました。イエスはそこをもう一度清めるでしょうか。神の清い崇拝のためのイエスのねたみには,その時にも,宣教を開始された時と同じほどに強いものがありました。売る者も買う者も共に追い出し,自分がそのように行動するさらに強力な理由を指摘してこう言われました。「『わたしの家はあらゆる国民のための祈りの家と呼ばれるであろう』と書いてあるではありませんか。それなのに,あなた方はそれを強盗の洞くつとしました」。(マルコ 11:17)敬虔なねたみをたゆまず示す面で何と優れた手本ではありませんか。

      14 清い崇拝のためのイエスのねたみはわたしたちをどのように動かすはずですか。

      14 今や栄光を受けた主イエス・キリストの性格は少しも変わってはいません。(ヘブライ 13:8)この20世紀にも,イエスは,み父の清い崇拝のために,地上におられた時と同じようなねたみを抱いておられます。その点は,啓示の書に記されている,七つの会衆に対するイエスの音信にも見ることができます。それは,今日この「主の日」におもに当てはまるものです。(啓示 1:10; 2:1–3:22)使徒ヨハネは幻の中で,栄光を受けたイエス・キリストの『目が火の炎のよう』であるのを見ました。(啓示 1:14)これは,キリストが諸会衆を検分し,それらが清さを保ってエホバへの奉仕にふさわしくあるように見届ける際,何事もその注目を逃れ得ないことを暗示しています。今日のクリスチャンも,二人の主人つまり神と富に仕えようとすることへのイエスの警告に留意していることが必要です。(マタイ 6:24)イエスはラオデキア会衆の物質主義的な成員に対して,「あなたがなまぬるく,熱くも冷たくもないので,わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。……熱心になり,そして悔い改めなさい」と語りました。(啓示 3:14-19)任命された会衆の長老たちは,物質主義のわなを避けるよう,言葉によっても手本によっても仲間の信者を助けるべきです。長老たちはまた,今日の,性に傾いた世界の道徳的腐敗からも群れを守らなければなりません。さらに神の民はイゼベル的影響を会衆内に少しも容認することのないようにします。―ヘブライ 12:14,15。啓示 2:20。

      15 エホバの崇拝のためのねたみを示す面で使徒パウロはどのようにイエスに見倣いましたか。

      15 使徒パウロはキリストに見倣いました。バプテスマを受けて日の浅いクリスチャンを霊的に健全でない影響から守るため,パウロは,「わたしは敬虔なしっとをもってあなた方をしっとしている[英文字義,敬虔なねたみをもってあなた方をねたんでいる]」と述べました。(コリント第二 11:2)これより前,清い崇拝を思うねたみに動かされたパウロは,その同じ会衆にあてて,悔い改めない淫行者で汚染の影響源となっていた者を排斥するよう指示しました。その際に与えられた霊感による指示は,7万5,500を超えるエホバの証人の会衆を清く保とうとする今日の長老たちにとっても大きな助けとなってきました。―コリント第一 5:1,9-13。

      神の持たれるねたみは民の益となる

      16,17 (イ)神が古代のユダを処罰した時,諸国民はどんな態度を示しましたか。(ロ)ユダの70年にわたる捕囚の後,エホバはエルサレムのためのご自分のねたみをどのように表明されましたか。

      16 神がユダの民を処罰してバビロンに捕囚となるのを許された時,その民は嘲弄の的となりました。(詩編 137:3)エドム人はねたみによる憎しみのもとに,神の民に災いをもたらす点でバビロニア人を助けることまで行ない,エホバはその事に注目されました。(エゼキエル 35:11; 36:15)生き残った人々は捕囚の身にあって悔い改め,70年後にエホバはその人々を故国に戻らせました。

      17 当初ユダの民は非常な窮状にありました。エルサレムの都とその神殿は破壊されたままでした。しかし,周囲の諸国民は神殿を建て直そうとする一切の努力に反対しました。(エズラ 4:4,23,24)エホバはそのことについてどのように感じられましたか。霊感による記録はこう記しています。「万軍のエホバはこのように言われた。『わたしは,エルサレムのため,シオンのために,大いなるしっとをもってしっとした[英文字義,大いなるねたみをもってねたんだ]。安楽にしている諸国民に対しては大いなる憤りをもって憤っている。わたしは少しだけ憤ったのだが,彼らは災いを助けたからである』。それゆえエホバはこのように言われた。『わたしは必ず憐れみを抱いてエルサレムに帰る。わたしの家もそこに建てられるであろう』と,万軍のエホバはお告げになる」。(ゼカリヤ 1:14-16)この約束どおりに,神殿とエルサレムの都は首尾よく再建されました。

      18 真のクリスチャンは第一次世界大戦中に何を経験しましたか。

      18 真のクリスチャン会衆は20世紀に同様の経験をしました。第一次世界大戦の間,エホバはご自分の民を懲らしました。世のその紛争にあって厳正な中立を保っていなかったためです。(ヨハネ 17:16)神は政治権力が彼らを圧迫するのを許されましたが,キリスト教世界はこの災いを歓びとしました。事実,僧職者は政治上の勢力を動かし,当時聖書研究者と呼ばれていたエホバの証人の業を禁止させる面で先頭に立ちました。―啓示 11:7,10。

      19 エホバはご自分の崇拝のためのねたみを1919年以来どのように示してこられましたか。

      19 それでも,エホバはご自分の崇拝のためのねたみを示され,大戦後の1919年に,悔い改めたご自分の民を恵みの立場に回復させました。(啓示 11:11,12)結果として,エホバの賛美者の数は,1918年の4,000人足らずから,今日のおよそ500万人へと増大しました。(イザヤ 60:22)間もなく,ご自分の清い崇拝のためのエホバのねたみはさらに劇的な形で表明されることでしょう。

      神のねたみによる将来の行動

      20 神は清い崇拝のためのねたみを示して間もなく何を行なわれますか。

      20 幾世紀もの間,キリスト教世界の諸教会は,エホバにねたみを起こさせた,背教のユダヤ人の歩みに倣ってきました。(エゼキエル 8:3,17,18)間もなくエホバ神は,国際連合の成員国の心に激烈な考えを抱かせることによって行動されます。それは,これら政治上の権力を動かしてキリスト教世界および偽りの宗教の残りの部分を荒廃させます。(啓示 17:16,17)真の崇拝者はその恐ろしいほどの神の裁きの執行を生き残ります。その人々は次のように述べる天の被造物の言葉にこたえ応じます。「あなた方はヤハを賛美せよ!……神は,その淫行[偽りの教え,また腐敗した政治に対する支援]によって地を腐敗させた大娼婦[偽りの宗教]に裁きを執行し,ご自分の奴隷たちの血の復しゅうを彼女の手に対して行なわれた」― 啓示 19:1,2。

      21 (イ)偽りの宗教が滅ぼされた後,サタンとその体制は何を行ないますか。(ロ)神はどのように応じられますか。

      21 偽りの宗教の世界帝国の滅びた後に何が起きるでしょうか。サタンは政治上の強国をかき立てて,エホバの民に対する全地球規模の攻撃に乗り出させます。真の崇拝を地の表から一掃しようとするサタンのこの企てに対して,まことの神はどのように応じられるでしょうか。エゼキエル 38章19節から23節はこう述べています。「わたし[エホバ]は,わたしの激情[または,ねたみ]によって,わたしの憤怒の火によって話さなければならなくなる。……わたしは疫病と血とをもって彼[サタン]に対して裁きを行なう。わたしはみなぎりあふれる大雨と雹,火と硫黄を彼とその隊,および彼と共にいる多くの民の上に降らせるであろう。そしてわたしは必ずわたしを大いなるものとし,わたしを神聖なものとし,多くの国々の民の目の前でわたしを知らせるであろう。そして彼らはわたしがエホバであることを知らなければならなくなる」。―ゼパニヤ 1:18; 3:8もご覧ください。

      22 エホバの清い崇拝のためにねたみのような熱情を持つ者であることをどのように示せますか。

      22 宇宙の主権者がご自分の崇拝者をねたみをさえもって顧みられるというのは何という慰めでしょう。神の過分のご親切への深い感謝にあふれて,わたしたちも,エホバ神の清い崇拝のための,ねたみのような熱情を抱きましょう。熱心さをもって,良いたよりを伝え続け,エホバがご自身の大いなるみ名を高めて神聖なものとされる壮大な日を,確信をもって待つ者でありますように。―マタイ 24:14。

  • エホバの清い崇拝のためのねたみ
    ものみの塔 1995 | 9月15日
    • [12ページの囲み記事]

      愛はねたまず

      そねみについて,19世紀の聖書学者アルバート・バーンズは次のように書きました。「これは悪の表われとして極めて広く見られるものの一つで,人間の堕落のほどを如実に示すものである」。バーンズはさらにこう述べました。「すべての戦争や抗争また世俗的な計画をその源にまでたどれる人がいれば,つまり,クリスチャンを自任する人によるものも含めあらゆる企てや目論みで,その人の宗教心を損ない,当人を世俗的な思いにならせる面で非常な影響を及ぼしているものを本源までたどれる人がいれば,それがどれほどそねみの情に帰せられるかを知って驚かされるであろう。我々は他の人が自分より繁栄していることに苦痛を覚え,自分には何の権利もないのに他の人の持つものを所有したいと欲する。そしてこれが,様々なやましい手段を導き,他の人のその楽しみを減じさせようとしたり,それを自分のものにしようとしたり,またそれを持つ人が一般に思われるほどには持っていないことを示そうとしたりさせる。……それによって,我々の胸中にあるそねみの精神は満たされるからである」。―ローマ 1:29。ヤコブ 4:5。

      これとは対照的に,バーンズは,『そねみを持たない』愛について,興味深い言葉を述べています。(コリント第一 13:4,ジェームズ王欽定訳)こう書いています。「愛は他の人の楽しむ幸福をそねまない。それは人の安寧を喜びとする。そして,人が……幸福を増大させる時,愛に動かされる人々は……それを減じさせようとはしない。それを持つ人にそのことできまりの悪い思いをさせようなどとはしない。その幸福感をそぐようなことはしない。自分がそれほど恵まれていないことについてつぶやいたり不平をもらしたりもしない。……他の人を愛しているなら,つまり人の幸福を歓んでいるならば,そねみを持つようなことはないはずである」。

  • 愛は不当なねたみを征服する
    ものみの塔 1995 | 9月15日
    • 愛は不当なねたみを征服する

      「愛はねたまず」― コリント第一 13:4。

      1,2 (イ)イエスは愛について弟子たちに何と語りましたか。(ロ)愛とねたみを同時に抱くことがあり得ますか。なぜそう答えられますか。

      愛は真のキリスト教を見分けるしるしです。「あなた方の間に愛があれば,それによってすべての人は,あなた方がわたしの弟子であることを知るのです」とイエス・キリストは言われました。(ヨハネ 13:35)使徒パウロは霊感のもとに,愛がどのようにクリスチャン相互の関係を律するべきかを説明しました。中でも,「愛はねたまず」と書いています。―コリント第一 13:4。

      2 上の言葉を記した時,パウロは不当なねたみについて述べていました。そうでなければ,その同じ会衆にあてて,「わたしは敬虔なしっとをもってあなた方をしっとしている[英文字義,敬虔なねたみをもってあなた方をねたんでいる]」とは言わなかったはずです。(コリント第二 11:2)パウロの『敬虔なねたみ』は,その会衆の中で腐敗的な影響をかもしていた人々のゆえに生じたものでした。それがパウロをして,コリントのクリスチャンのために,愛のこもった多くの助言を含む,霊感による二番目の手紙を書かせもしました。―コリント第二 11:3-5。

      クリスチャンの間でのねたみ

      3 ねたみの関係した問題がコリントのクリスチャンの間でどのように持ち上がっていましたか。

      3 コリントの人々にあてた最初の手紙の中で,パウロは,その地の新しいクリスチャンが互いに仲良く過ごしてゆくのを妨げていた問題を取り上げなければなりませんでした。それらのクリスチャンは特定の人物を高め,「それぞれ一方に付いて他方を退け,思い上が(って)」いました。それは会衆内に分裂をもたらし,それぞれに「わたしはパウロに属する」,「いや,わたしはアポロに」,「わたしはケファに」と言い合う結果になっていました。(コリント第一 1:12; 4:6)使徒パウロは聖霊の導きのもとに,問題の根本に触れることができました。コリントの人々は肉的な思いの人として振る舞い,「霊的な人」のように行動してはいませんでした。それでパウロはこう書きました。「あなた方はまだ肉的だからです。というのは,あなた方の間にねたみや闘争があることからすれば,あなた方は肉的であって,人々と同じ歩み方をしているのではありませんか」。―コリント第一 3:1-3。

      4 パウロは互いの関係について正しい見方ができるようどんな例えで兄弟たちを助けましたか。このことからどんな教訓を学べますか。

      4 パウロは,会衆内の様々な人が持つ才能や技能について正しい認識ができるようコリントの人々を助けました。パウロはこう尋ねています。「だれが人を他と異ならせるのですか。実際,自分にあるもので,もらったのではないものがあるのですか。では,確かにもらったのであれば,どうしてもらったのではないかのように誇るのですか」。(コリント第一 4:7)コリント第一 12章の中で,パウロは,会衆を構成する人たちは,手,目,耳など,人体を組み成す各部分のようであると説明しました。そして,神は体の各肢体が相互に顧み合うように造られた,という点を述べました。パウロはさらにこう書いています。「ひとつの肢体が栄光を受ければ,ほかのすべての肢体が共に歓ぶのです」。(コリント第一 12:26)今日の神の僕すべても,この原則を互い同士の関係に当てはめるべきです。だれかが受けた割り当てや神への奉仕で成し遂げた事柄のためにねたみを抱くのではなく,その人と歓びを共にするべきです。

      5 ヤコブ 4章5節でどんなことが示されていますか。聖書はこの言葉の真実さをどのように裏書きしていますか。

      5 これが,聞いてすぐに実行できることでないのは確かです。聖書の筆記者ヤコブは,「そねみの傾向」が罪ある人間すべての内に宿っていることを銘記させています。(ヤコブ 4:5)人間の最初の死は,カインが自分の不当なねたみに屈したためにもたらされました。フィリスティア人は,イサクが繁栄してゆくのをそねんでいやがらせをしました。ラケルは自分の姉に子供がたくさんできるのをねたみました。ヤコブの息子たちは弟のヨセフが特に恵みを受けることにねたみを持ちました。ミリアムは,イスラエル人ではなかった弟の嫁にねたみを抱いたようです。コラ,ダタン,アビラムはねたみの気持ちからモーセとアロンに対して謀反を企てました。サウル王はダビデの軍事面の相次ぐ成功にねたみを覚えるようになりました。自分たちの中でだれが一番偉いかについてイエスの弟子たちが繰り返し言い争ったのもねたみが一因であったに違いありません。不完全な人間はだれしも罪深い「そねみの傾向」から全く解かれてはいない,というのが真実のところです。―創世記 4:4-8; 26:14; 30:1; 37:11。民数記 12:1,2; 16:1-3。詩編 106:16。サムエル第一 18:7-9。マタイ 20:21,24。マルコ 9:33,34。ルカ 22:24。

      会衆内で

      6 長老たちはそねみの傾向をどのように抑制できますか。

      6 クリスチャンはすべてそねみや不当なねたみに用心する必要があります。これには,神の民の会衆を世話するように任命された長老団も含まれます。へりくだった思いを持つ長老は,他の長老以上に自分が目立つようにという野心などは抱きません。他方,長老のだれかが組織力や公開講演の話し方の面で抜きん出ているとすれば,他の長老たちはそのことを歓び,それを会衆にとって祝福とみなします。(ローマ 12:15,16)だれか兄弟がよく進歩し,生活面で神の霊の実を結んでいる証拠を示しているかもしれません。長老たちは,その兄弟の資格を検討するにあたり,奉仕の僕または長老として推薦しない理由付けに,何かささいな落ち度を取り立てることのないよう気をつけなければなりません。それは愛の不足,また道理に外れた見方の表われと言えるでしょう。

      7 クリスチャンが何かの神権的な割り当てを受ける時どんな問題の起きることがありますか。

      7 だれかが神権的な割り当てや霊的な祝福を受ける場合,会衆内の他の人たちはそねみを持たないよう用心する必要があります。例えば,ひとりの有能な姉妹がクリスチャンの集会での実演のために他の人より頻繁に用いられることがあるかもしれません。ある姉妹たちにとってこれが時にねたみの元となることがあるかもしれません。フィリピ会衆のユウオデアとスントケの間にも似たような問題があったのかもしれません。今日そのような女性たちがいれば,謙遜になり,「主にあって同じ思い」でいるよう,長老たちからの優しい励ましが必要な場合もあることでしょう。―フィリピ 2:2,3; 4:2,3。

      8 ねたみはどんな罪の行為に至らせることがありますか。

      8 あるクリスチャンは,現在は会衆内での特権の面で祝福されている人のかつての落ち度について知っている場合があるかもしれません。(ヤコブ 3:2)ねたみの気持ちから,そのことについて他の人たちに話して,会衆内でのその人の割り当てに疑念をはさみたい気持ちに駆られるかもしれません。それは,「多くの罪を覆う」愛にもとることと言えるでしょう。(ペテロ第一 4:8)ねたみから来る話は会衆の平和を乱しかねません。「あなた方が心の中に苦々しいねたみや闘争心を抱いているなら,真理に逆らって自慢したり偽ったりしてはなりません。それは上から下る知恵ではなく,地的,動物的,悪霊的なものです」と弟子ヤコブは戒めています。―ヤコブ 3:14,15。

      あなたの家族の中で

      9 夫婦はそれぞれしっとの気持ちをどのように抑えることができますか。

      9 多くの結婚が不当なねたみのために失敗に終わっています。配偶者を信頼しないのは愛のあることではありません。(コリント第一 13:7)一方,夫または妻が配偶者のしっとの気持ちに無神経な場合もあります。例えば,夫がだれかほかの異性に払う配慮のゆえに妻がしっとすることがあるかもしれません。あるいは,妻が多くの時間を割いて困窮している親族を顧みるので夫のほうがしっとを感じることもあり得ます。その種の感情に悩む夫や妻が何も言わぬまま,問題をさらにこじれさせるような形で自分の欲求不満を表わしてしまうかもしれません。しかしそのようにはせずに,しっと心を感じたほうの配偶者は意思を通わせて自分の感じ方を正直に伝えることが必要です。他方の配偶者としても,理解を示しつつ,自分の愛の確かさについて新たな保証を与える必要があります。(エフェソス 5:28,29)夫婦共に,しっと心を抱かせる状況を避けてそのような感情を和らげることが必要でしょう。時折クリスチャンの監督は,自分が神の羊の群れの牧者の一人としての務めを果たすため,会衆の異性の成員に対して一定の限度をわきまえつつ適切な配慮を払おうとしていることを,妻が理解できるように助けることが必要かもしれません。(イザヤ 32:2)言うまでもなく,長老はしっと心を当然に抱かせるような事柄を決して行なうことがないように注意すべきです。これには平衡が求められ,自分たち自身の夫婦関係を強めるための時間も確実に取るようにするべきです。―テモテ第一 3:5; 5:1,2。

      10 ねたみの気持ちを抑えるよう親はどのように子供を助けることができますか。

      10 また親は,子供たちを助けて不当なねたみというものを理解させなければなりません。子供たちは時にささいな事で言い争い,それがけんかとなる場合があります。その起こりは往々にしてねたみの気持ちにあります。子供の必要とする事柄はひとりひとり異なっているので,子供たちをすべて同じに扱うことはできません。そして子供たちも,人にはそれぞれ長所と短所のあることを理解する必要があります。いつも,ある子供と同じようにしっかりするよう励まされていると,一方にそねみを,他方に誇りの気持ちを育てることになるかもしれません。ですから親は,互い同士の競争ではなく,神の言葉にある手本を思い見て自分の進歩を量るように子供たちを訓練すべきです。聖書はこう述べています。「自己本位になって,互いに競争をあおり,互いにそねみ合うことのないようにしましょう」。むしろ,「各人は自分の業がどんなものかを吟味すべきです。そうすれば,他の人と比べてではなく,ただ自分自身に関して歓喜する理由を持つことになるでしょう」。(ガラテア 5:26; 6:4)最も肝要な点として,クリスチャンの親は,定期的な聖書研究により,神の言葉に含まれている良い手本と悪い手本を銘記させながら子供たちを助けてゆくべきです。―テモテ第二 3:15。

      ねたみを克服した手本

      11 ねたみの気持ちに処する点でモーセはどのように立派な手本でしたか。

      11 権力に飢えたこの世の指導者たちとは異なり,「モーセは地の表にいるすべての人の中でとりわけ柔和な人物」でした。(民数記 12:3)イスラエルの指導者としての務めがモーセ一人で担うには重すぎるようになった時,エホバはご自分の霊を他の70人のイスラエル人の上にも働かせ,モーセを補佐させるようにされました。それらの人々のうちの二人が預言者のように行動しはじめた時,ヨシュアは,それがモーセの指導者としての地位を不当に損なうと感じました。ヨシュアはそれらの人をとどめようとしましたが,モーセは謙遜な考え方をして,「あなたはわたしのためを思ってねたみを覚えるのか。いや,わたしはエホバの民の全員が預言者であったらとさえ願う。エホバはご自分の霊を彼らの上に置くこともできるのだ」と語りました。(民数記 11:29)そうです,モーセは他の人たちが奉仕の特権を受けることを幸せに感じたのです。ねたみを抱いて自分の栄光を求めようとはしませんでした。

      12 ヨナタンにねたみの情を避けさせたものは何でしたか。

      12 生じ得る不当なねたみを愛がどのように乗り越えるかについての立派な手本は,イスラエルの王サウルの子ヨナタンの場合に見られます。ヨナタンは父の位を継ぐ立場にありましたが,エホバはエッサイの子ダビデを次の王として選んでおられました。ヨナタンのような立場にいたなら,ダビデをライバルとみなしてねたみを抱いた人も多かったことでしょう。しかしヨナタンはダビデに対する愛のゆえに,その種の感情に決してとらわれませんでした。ヨナタンの死を知った時,ダビデは,「わたしの兄弟ヨナタン,わたしはあなたのために苦しんでいる。あなたはわたしにとって非常に快い人だった。あなたの愛はわたしにとって女の愛よりもすばらしかった」と述べました。―サムエル第二 1:26。

      最も際立った手本

      13 ねたみに関して最良の手本はどなたですか。なぜですか。

      13 エホバ神は正当なねたみをさえ統御する点で最も際立った手本であり,そのような感情を完全に制御しておられます。神のねたみが強力に表明されることがあるとすれば,それは常に神の愛,公正,知恵と調和した形でなされます。―イザヤ 42:13,14。

      14 サタンとは対照的にイエスはどんな手本を示されましたか。

      14 ねたみを統御した方として二番目に際立った手本は,神の愛するみ子イエス・キリストです。「神の形で存在してい(た)」のに,イエスは「強いて取ること,つまり,自分が神と同等であるようにということなどは考えませんでした」。(フィリピ 2:6)悪魔サタンとなった野心的なみ使いの取った歩みとは何という対照でしょう。「バビロンの王」のようにねたみに駆られたサタンは,自分をエホバと対抗する神として立てて「至高者に似せ」ようとしました。(イザヤ 14:4,14。コリント第二 4:4)サタンは,イエスが自分に『ひれ伏して崇拝の行為をする』ようにとさえ企てました。(マタイ 4:9)しかし,謙遜な態度でエホバの主権に服する歩みからイエスをそれさせることのできたものは何もありません。サタンとは対照的に,イエスは「自分を無にして奴隷の形を取り,人のような様になりました。それだけでなく,人の姿でいた時,彼は自分を低くして,死,それも苦しみの杭の上での死に至るまで従順になりました」。イエスはみ父の支配の正当性を擁護し,悪魔の高慢とねたみの歩みを全く退けました。イエスの忠実さのゆえに,「神は彼をさらに上の地位に高め,他のあらゆる名に勝る名を進んでお与えに」なりました。それは「天にあるもの,地にあるもの,地の下にあるもののすべてのひざがイエスの名によってかがみ,すべての舌が,イエス・キリストは主であると公に認めて,父なる神に栄光を帰するため」です。―フィリピ 2:7-11。

      あなたのねたみの気持ちを統御する

      15 ねたみの感情を抑えるよう注意しなければならないのはなぜですか。

      15 神やキリストとは違って,クリスチャンといえども人は不完全です。罪の傾向のゆえに,罪深いねたみの気持ちで行動してしまうことがあるかもしれません。それで,ねたみのままに何かの小さな落ち度や想像上の悪行について仲間の信者を批判するよりも,霊感による次の言葉の意味を黙想してみることのほうが大切です。「義に過ぎる者となってはならない。また,自分を過度に賢い者としてはならない。どうして自分の身に荒廃をもたらしてよいであろうか」― 伝道の書 7:16。

      16 本誌の過去の号の中で,ねたみについてどんな良い忠告が与えられましたか。

      16 ねたみということについて,「ものみの塔」誌(英文),1911年3月15日号は次の警告を載せていました。「わたしたちは主の大義のために大いに熱心になり,ねたみをも抱くべきではあるが,私的な事柄に関してそうなっているのではないことを十分に見定めなければならない。そして,自分が『人の事に干渉する者』となっていないかどうかを考えるべきである。そしてまた,長老が扱うのが妥当なことなのか,長老のもとに行くのが務めなのかどうかをも考えてみるべきである。わたしたちはすべて主の大義のため,また主の業のためにねたみを大いに持つべきであるが,それが苦々しいものではないよう特に注意するべきである。つまり,それが他の人に関してのねたみではなく,他の人のための,その利益と福祉を思うがゆえのねたみであることをしっかり見定めていなければならない」。―ペテロ第一 4:15。

      17 ねたみによる罪ある行為をどうしたら避けられますか。

      17 クリスチャンとしてわたしたちはどうしたら誇りや,ねたみや,そねみの気持ちを避けられるでしょうか。生活の中に神の聖霊が自由に流れるようにすることに解決があります。一つの点として,霊の良い実を示せるよう神の霊と助けを祈り求めることが必要です。(ルカ 11:13)また,祈りで始められ,神の霊と祝福が注がれる,クリスチャンの集会に出席することも必要です。さらに,神の霊感を受けた聖書を研究しなければなりません。(テモテ第二 3:16)そして,エホバの聖霊の力によってなされている王国伝道の業に加わることも必要です。(使徒 1:8)仲間のクリスチャンで何か辛い経験のために打ちひしがれている人を助けることも,神の霊の健全な感化に身をゆだねる方法になります。(イザヤ 57:15。ヨハネ第一 3:15-17)これらクリスチャンの務めすべてを熱心に果たしてゆくならば,ねたみによる罪ある行ないから身を守れるはずです。「霊によって歩んでゆきなさい。そうすれば,肉の欲望を遂げることは決してありません」と,神の言葉は述べているからです。―ガラテア 5:16。

      18 不当なねたみの感情といつまでも闘う必要がないのはなぜですか。

      18 愛は神の聖霊の実の筆頭に挙げられています。(ガラテア 5:22,23)今,愛を働かせることは,罪の傾向を制御する助けになります。では,将来はどうでしょうか。幾百万を数えるエホバの僕は,来たらんとする地上の楽園での命の希望を抱いており,そこにおいて人間としての完全性を目ざして向上できることを心待ちにしています。その新しい世では,愛が行き渡り,だれひとり不当なねたみの感情に屈することはなくなります。「創造物そのものが腐朽への奴隷状態から自由にされ,神の子供の栄光ある自由を持つようになる」からです。―ローマ 8:21。

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