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  • エルサレムでの幕屋の祭り
    イエス 道,真理,命
    • イエスがエルサレムの神殿で教えているところ

      66章

      エルサレムでの幕屋の祭り

      ヨハネ 7:11-32

      • イエスは神殿で教える

      バプテスマ後,イエスは有名になります。多くのユダヤ人がイエスの奇跡を見,イエスの活動についての話は広範囲に伝わっています。今は幕屋(または仮小屋)の祭りの最中で,大勢の人がイエスを捜しています。

      イエスについての意見はさまざまです。「彼は善い人だ」と言う人もいれば,「いや,群衆を惑わしている」と言う人もいます。(ヨハネ 7:12)人々は祭りの初めの期間に,こうしたひそひそ話をよくしていました。でも誰もイエスを支持する話を大きな声でする勇気はありません。ユダヤ人の指導者の反応を恐れていたのです。

      イエスは祭りが半分を過ぎたころに神殿へ行きます。人々の多くはイエスの教える能力の素晴らしさに驚きます。イエスがラビの学校に行ったことはないと知っているので不思議に思い,「どうしてこの人は,学校で学んだこともないのにこんなに聖書の知識があるのだろう」と言います。(ヨハネ 7:15)

      イエスはこう説明します。「私の教えは私のものではなく,私を遣わした神のものです。この方の意志を行いたいと願う人なら,この教えが神からのものか,それとも私が独自の考えで話しているのかが分かります」。(ヨハネ 7:16,17)イエスの教えは神の律法に沿ったものです。ですから,明らかにイエスは自分ではなく神が称賛されるよう願っています。

      さらにイエスはこう言います。「モーセが律法を与えたのではありませんか。それなのに,あなた方の誰も律法に従っていません。なぜ私を殺そうとするのですか」。その場にいたある人たちはエルサレム市外から来ていると思われますが,そうした悪巧みについて知りません。イエスのような優れた教師を殺そうとする人がいるとは信じられないのです。それで,そんなことを考えるイエスはどこかおかしいのではないかと思い,「あなたは邪悪な天使に取りつかれています。誰が殺そうとしているのですか」と言います。(ヨハネ 7:19,20)

      1年半前にイエスが安息日に男性を癒やした時,ユダヤ人の指導者たちはイエスを殺そうとしました。それでイエスはここで,指導者たちの分別のなさを見事に暴きます。まず,律法の規定について考えさせます。規定によると,男の子は生後8日目に割礼を施さなければならず,その日が安息日でもそれは変わりません。それからイエスはこう言います。「モーセの律法を破らないように安息日に割礼を施すのに,私が安息日に人をすっかり健康にすると,激しく怒るのですか。見掛けで裁くのをやめ,正しい裁きをしなさい」。(ヨハネ 7:23,24)

      すると,いきさつを知っているエルサレムの住民はこう言いだします。「これは,支配者たちが殺そうとしている人ではないか。それなのに,公然と話しており,支配者たちは何も言わない。この人がキリストだとはっきり分かったのだろうか」。では,イエスがキリストであるとエルサレムの住民が信じないのはなぜでしょうか。彼らはこう言います。「私たちは,この人がどこから来たのかを知っている。キリストが来る時には,どこから来たのかを誰も知らないはずだ」。(ヨハネ 7:25-27)

      そこでイエスはこう答えます。「あなた方は,私が誰でどこから来たのかを知っています。私は自分の考えで来たのではなく,私を遣わした方がいます。あなた方はその方を知りません。私はその方を知っています。私は代理としてその方に遣わされたからです」。(ヨハネ 7:28,29)イエスが自分の立場をはっきり示したため,ある人たちはイエスを捕まえて,牢屋に入れるか殺すかしようとします。しかし,イエスが死ぬ時はまだ来ていなかったため,失敗に終わります。

      とはいえ,イエスの強力な行いにより,大勢の人がイエスに信仰を持ちます。水の上を歩き,風を静め,少しのパンと魚で大勢の人に食事をさせました。病気を癒やし,足が不自由な人を歩けるようにし,盲人の視力を回復させ,重い皮膚病の人を癒やしました。死んだ人を復活させることまでしたのです。人々がこう言ったのも当然です。「キリストが来ても,この人が行ったほど多くのしるしは行わないのではないか」。(ヨハネ 7:31)

      人々の話を聞いたパリサイ派の人たちは祭司長たちと共に,イエスを逮捕させるため下役たちを派遣します。

  • 「あのように話した人はこれまでいませんでした」
    イエス 道,真理,命
    • イエスを逮捕するために送られた兵士たちが,イエスを連れずに戻ったところ

      67章

      「あのように話した人はこれまでいませんでした」

      ヨハネ 7:32-52

      • イエスを逮捕するために下役たちが遣わされる

      • ニコデモはイエスのために発言する

      イエスは幕屋(または仮小屋)の祭りのためにエルサレムにいます。そして,「群衆の多くがイエスに信仰を持」ったことを喜んでいます。しかし,宗教指導者たちは違います。イエスを逮捕するために下役たちを遣わします。(ヨハネ 7:31,32)でもイエスは隠れません。

      むしろ,イエスはエルサレムで人々を堂々と教え続けます。そして,こう言います。「私は,自分を遣わした方の元に行くまで,もうしばらくあなた方と共にいます。あなた方は私を捜しますが,見つけることができず,私がいる所に来ることができません」。(ヨハネ 7:33,34)でもユダヤ人たちは意味を理解できず,こう話します。「この人はどこへ行って見つからないようにするつもりなのか。ギリシャ人の間に離散しているユダヤ人の所へ行って,ギリシャ人を教えるつもりなのだろうか。『あなた方は私を捜しますが,見つけることができず,私がいる所に来ることができません』というのはどういう意味なのか」。(ヨハネ 7:35,36)この時イエスが言っていたのは,自分の死と天への復活についてでした。敵はイエスを天まで追い掛けることができません。

      祭りの7日目になりました。祭りの期間中は毎朝,祭司がシロアムの池からくんだ水を祭壇の上に注ぎ出し,水は祭壇の基部に流れ落ちます。イエスはこの儀式を人々に思い起こさせようとしたようです。それで,大声でこう言います。「喉が渇いている人がいるなら,私の所に来て飲みなさい。私に信仰を持つ人は,聖書にある通り,『その人の奥深くから,生きた水が流れ出ます』」。(ヨハネ 7:37,38)

      イエスは,弟子たちが聖霊で油を注がれ天での命の希望を持つようになる時,何が起きるかについて話していました。それが起きるのは,翌年のペンテコステの日です。その日に,聖霊で油を注がれた弟子たちが他の人に真理を伝え始め,命を与える水が流れ始めます。

      イエスの話を聞いたある人たちは,「これこそ確かにあの預言者だ」と言います。予告されていた,モーセよりも偉大な預言者のことを言っているようです。また,「これがキリストだ」と言う人もいます。しかし別の人たちは,「キリストがガリラヤから出るはずがない。聖書は,キリストがダビデの子孫で,ダビデがいた村ベツレヘムから出ると言っているではないか」と主張します。(ヨハネ 7:40-42)

      人々の間には分裂が生じます。イエスの逮捕を期待している人もいますが,誰もイエスを捕まえようとしません。下役たちがイエスを連れずに戻ると,祭司長とパリサイ派の人たちは,「どうして彼を連れてこなかったのか」と尋ねます。下役たちは,「あのように話した人はこれまでいませんでした」と答えます。すると宗教指導者たちは怒り,あざけってこう言います。「あなたたちまで惑わされたというのか。支配者やパリサイ派の中に彼に信仰を持った人がいるか。律法を知らないあの群衆は神に見放されているのだ」。(ヨハネ 7:45-49)

      ニコデモがイエスのために発言しているところ

      この時,パリサイ派でサンヘドリンの一員であるニコデモがイエスのために発言します。ニコデモは2年半ほど前に,晩にイエスを訪ね,イエスに対する信仰を言い表しました。ニコデモはこう言います。「私たちの律法では,まず本人の話を聞いて,行っている事を確認してから,裁くのではないか」。それを聞いた他の人たちは,「あなたもガリラヤ出身にでもなったのか。預言者はガリラヤからは現れないことを調べてみなさい」と言い返します。(ヨハネ 7:51,52)

      聖書は,預言者がガリラヤから出るとはっきり述べているわけではありません。とはいえ,キリストがそこから出るということは示しています。なぜなら,「大きな光」が「諸国の人々のガリラヤ」で見られるようになると予告しているからです。(イザヤ 9:1,2。マタイ 4:13-17)さらに,イエスは予告通りベツレヘムで生まれ,ダビデの子孫でもあります。しかし,パリサイ派の人たちはそのことに気付いていながら,イエスについての誤解を広めていたようです。

  • 神の子は「世の光」
    イエス 道,真理,命
    • イエスが夜に神殿で教えているところ

      68章

      神の子は「世の光」

      ヨハネ 8:12-36

      • イエスは子とは誰かを説明する

      • ユダヤ人はどんな意味で奴隷か

      幕屋の祭りの最終日である7日目に,イエスは神殿の中の「寄付箱」がある辺りで人々を教えています。(ヨハネ 8:20。ルカ 21:1)それは婦人の庭にある場所のようで,人々はそこで寄付をします。

      祭りの期間中,日が暮れるとそのエリアでは特別な明かりが準備されます。4つの巨大なランプ台で,それぞれには油を満たした4つの大きな鉢が付いています。この明かりはとても強力で,周囲をかなり遠くまで照らします。次のイエスの言葉を聞いた人はその明かりのことを思い浮かべたかもしれません。「私は世の光です。私の後に従う人は決して闇の中を歩むことがなく,命を与える光を持つようになります」。(ヨハネ 8:12)

      パリサイ派の人たちは,「あなたは自分について証言しています。それを信じることはできません」と文句を言います。イエスはこう答えます。「私が自分について証言していても,その証言は真実です。私は,自分がどこから来て,どこへ行くかを知っているからです。しかしあなた方は,私がどこから来て,どこへ行くかを知りません」。そしてさらにこう言います。「あなた方自身の律法にも,『2人の証言があれば真実である』と書いてあります。私について,私自身が証言し,私を遣わした父も証言します」。(ヨハネ 8:13-18)

      パリサイ派の人たちはイエスの説明に納得せず,「あなたの父親はどこにいるのですか」と尋ねます。イエスははっきりこう言います。「あなた方は私も私の父も知りません。もし私を知っているなら,私の父をも知っているはずです」。(ヨハネ 8:19)パリサイ派の人たちはイエスを逮捕したいと思っていますが,誰もイエスに手を出そうとしません。

      イエスは前に話したことを繰り返します。「私は去っていきます。あなた方は私を捜しますが,それでも罪を負ったまま死にます。私が行く所へあなた方は来ることができません」。ユダヤ人たちはその意味が分からず,「彼は自殺するつもりではないだろう。でも,『私が行く所へあなた方は来ることができない』と言っている」と言い合います。彼らはイエスがどこから来たのかに気付いていないので誤解しているのです。イエスはこう説明します。「あなた方は地上の領域の者ですが,私は天の領域の者です。あなた方は人間社会に属していますが,私はそうではありません」。(ヨハネ 8:21-23)

      イエスは,人間になる前に天にいたこと,自分が約束のメシアまたキリストであることについて話しています。宗教指導者たちはイエスがそのような人物であることを認めるべきです。しかし,彼らはイエスをばかにして,「あなたは誰なのですか」と聞きます。(ヨハネ 8:25)

      そうした敵対的な反応に対しイエスは,「一体,私は何のためにあなた方に話しているのでしょうか」と言います。そして自分の父に注意を向け,子の言うことを聞くべき理由を説明します。「私は,真実を語る方から世に遣わされ,その方から聞いたことを話しているのです」。(ヨハネ 8:25,26)

      イエスは,ユダヤ人たちが持っていない,父に対する確信を次のように言い表します。「あなた方は,人の子を杭に掛けた後に,私がその者で,何事も自分の考えで行っていたのではないことを知ります。私は,父が教えてくださった通りに,これらのことを話しています。そして,私を遣わした方は共にいてくださり,私を独りだけにはしませんでした。私は常に,その方が喜ぶことを行うからです」。(ヨハネ 8:28,29)

      あるユダヤ人たちはイエスに信仰を持ちます。それでイエスはその人たちにこう話します。「私の教えを常に守るなら,あなた方は本当に私の弟子であり,真理を知り,真理によって自由になります」。(ヨハネ 8:31,32)

      この言葉を聞いて不思議に思った人たちは,こう反論します。「私たちはアブラハムの子孫で,誰の奴隷になったこともありません。どうして『自由になる』と言うのですか」。ユダヤ人は何度も外国の支配を受けてきたのに,奴隷とは呼ばれたくないのです。しかしイエスはこう指摘します。「はっきり言っておきますが,罪を犯す人は皆,罪の奴隷です」。(ヨハネ 8:33,34)

      自分たちが罪の奴隷であることを認めようとしないなら,ユダヤ人たちは危険な立場にいることになります。イエスは,「奴隷は主人の家にいつまでもいるわけではありません。子はいつまでもいます」と説明します。(ヨハネ 8:35)奴隷には相続権がないため,いつ解雇されてもおかしくありません。その家で生まれた子か養子だけが「いつまでも」,つまり生きている限り家にいます。

      ですから,子についての真理は,死をもたらす罪から人を永遠に自由にする真理なのです。イエスはこう断言します。「子である私が自由にするなら,あなた方は本当に自由になります」。(ヨハネ 8:36)

  • 生まれつき盲目の男性を癒やす
    イエス 道,真理,命
    • 盲目の物乞いの男性がシロアムの池で目を洗った後,見えるようになったところ

      70章

      生まれつき盲目の男性を癒やす

      ヨハネ 9:1-18

      • 生まれつき盲目の物乞いが癒やされる

      イエスはまだエルサレムにいます。安息日に町の中を歩いていたイエスと弟子たちは,生まれつき盲目の物乞いに会います。弟子たちは,「ラビ,この人が生まれつき目が見えないのは,誰が罪を犯したからですか。本人ですか,それとも親ですか」と尋ねます。(ヨハネ 9:2)

      弟子たちは,その男性が前世に罪を犯したとは信じていませんが,母親のおなかの中で罪を犯したと思っているのかもしれません。イエスは答えます。「この人や親が罪を犯したからではありません。この件で,神の力が明らかにされます」。(ヨハネ 9:3)この男性が盲目になったのは,本人や親が何かの間違いをしたり罪を犯したりしたからではありません。人間は全て,アダムが罪を犯したために生まれつき不完全で,欠陥があります。盲目のような障害もその1つです。しかしこの人が盲目だったことがきっかけで,素晴らしいことが起こります。イエスが神の力を明らかにするのです。これまでにたくさんの病気を癒やした時と同じです。

      イエスは神の力を表すことを遅らせてはいけないことを強調し,こう言います。「私たちは昼のうちに,私を遣わした方の意志を行わなければなりません。誰も働くことができない夜が来ようとしています。私は世にいる間,世の光です」。(ヨハネ 9:4,5)イエスの死は迫っており,墓に入ればイエスは何もできなくなります。その時まで,イエスは世に光を輝かせ続けます。

      イエスが盲目の男性の両目に泥を塗っているところ

      では,どのようにこの人を癒やすのでしょうか。イエスは地面に唾を吐いて泥を作り,その男性の両目に塗って,「シロアムの池に行って洗いなさい」と言います。(ヨハネ 9:7)男性がその通りにすると,何と見えるようになります。生まれて初めて目が見えるようになったのです。その喜びを想像できますか。

      近所の人たちと,この男性の障害を知っていた他の人たちは驚き,「これは,座って物乞いをしていた男ではないか」と言います。それに対して,「その人だ」と言う人もいれば,起きたことが信じられず,「違う,でも似ている」と言う人もいます。すると本人は,「私がその人です」と言います。(ヨハネ 9:8,9)

      それで人々は,「では,どうして目が見えるようになったのか」と尋ねます。男性はこう答えます。「イエスという人が泥を作って私の両目に塗り,『シロアムに行って洗いなさい』と言いました。それで,行って洗ったら,見えるようになりました」。彼らが「その人はどこにいるのか」と聞くと,男性は,「知りません」と言います。(ヨハネ 9:10-12)

      その人はパリサイ派の人たちの所に連れていかれます。どのようにして見えるようになったのか,彼らも知りたいのです。それで男性はこう説明します。「その人が私の両目に泥を付け,私は洗いました。今は見えます」。パリサイ派の人たちも喜んでいいはずですが,彼らのうちの何人かはイエスを非難し,「この人は神の所から来たのではない。安息日を守っていない」と言います。一方,「罪人だったら,どうしてこんなしるしを行えるだろうか」と言う人もいます。(ヨハネ 9:15,16)彼らの意見は分かれてしまいました。

      彼らはその人に尋ねることにし,「あなたの目を開けた人だが,何者だと思うか」と聞きます。男性は,「あの人は預言者です」と断言します。(ヨハネ 9:17)

      パリサイ派の人たちは信じようとしません。皆をだますためイエスとその男性は何かをたくらんでいる,と思ったのかもしれません。それで,この男性が本当に目が見えなかったかどうか親に尋ねることにします。

  • パリサイ派の人たちが盲目だった男性に詰め寄る
    イエス 道,真理,命
    • 盲目だった男性が両親の目の前で,怒っているパリサイ派の人たちに答えているところ

      71章

      パリサイ派の人たちが盲目だった男性に詰め寄る

      ヨハネ 9:19-41

      • パリサイ派の人たちが盲目だった男性に詰め寄る

      • 宗教指導者たちは「目が見えない」

      パリサイ派の人たちは,盲目だった男性の視力をイエスが回復させたことを信じません。そこで男性の両親を呼び出します。両親は「会堂から追放」される可能性もあることを知っています。(ヨハネ 9:22)そのようにして他のユダヤ人たちとの交流を断たれるなら,社会的に孤立し,経済的にも生活が苦しくなってしまいます。

      パリサイ派の人たちは2つの質問をします。「これは,生まれつき目が見えなかった息子か。今は見えるのはどうしてか」。両親は,「これは息子で,生まれつき目が見えませんでした。でも,どうして今見えるのかは知りませんし,誰が目を開けたのかも知りません」と答えます。息子から話を聞いていたのかもしれませんが,言い方に気を遣い,「本人に聞いてください。もう大人です。自分で話すはずです」と言います。(ヨハネ 9:19-21)

      それでパリサイ派の人たちは男性を呼び戻します。そして,自分たちはイエスに不利な証拠を持っていると脅し,「神の前で本当のことを言いなさい。私たちはその人が罪人であることを知っているのだ」と言います。男性は追及をかわそうとし,「その人が罪人かどうかは分かりません」と答え,こうも言います。「1つ分かるのは,私は目が見えなかったのが,今は見えるということです」。(ヨハネ 9:24,25)

      彼らは満足せず,「彼はあなたに何をしたのか。どのようにして目を開けたのか」と尋ねます。男性はきっぱりと,「すでに話しましたが,あなた方は聞きませんでした。なぜもう一度聞きたいのですか。あなた方もあの人の弟子になりたいわけではないでしょう」と答えます。彼らは怒りだします。「あなたはあの男の弟子だが,私たちはモーセの弟子だ。神がモーセに語ったということは知っている。だが,この男については,どこからの者か知らない」。(ヨハネ 9:26-29)

      男性は驚き,「あの人がどこからの人か知らないのですか。あの人は私の目を開けました」と言います。そして,神が誰の願いを喜んで聞くかを明快に話します。「神は,罪人たちの願いは聞きませんが,神を畏れてその意志を行う人の願いなら,聞きます。生まれつき盲目の人の目を開けたという話は今まで聞いたことがありません」。結論はこうです。「神の所から来た人でなければ,何もできないはずです」。(ヨハネ 9:30-33)

      パリサイ派の人たちはこの説明に太刀打ちできません。「罪にまみれて生まれながら,私たちを教えるというのか」と言って男性を追い出します。(ヨハネ 9:34)

      イエスはそのことを聞くと男性を捜し,こう尋ねます。「人の子に信仰を持っていますか」。男性は,「それはどなたですか。その方に信仰を持ちたいのですが」と答えます。するとイエスははっきりこう言います。「あなたはその人に会ったことがあります。しかも,その人は今あなたと話しています」。(ヨハネ 9:35-37)

      男性は,「人の子に本当に信仰を持っています,主よ」と答え,信仰と敬意を示しひれ伏します。そこでイエスは深い言葉を述べます。「私がこの世に来たのは裁きのため,すなわち,見えない人が見えるようになり,見える人が見えないようになるためです」。(ヨハネ 9:38,39)

      その場にいたパリサイ派の人たちは目が見えないわけではありません。しかし,彼らは神について教えるという責任を果たしていたでしょうか。彼らは自分たちは正しいと言いたげに,「私たちも目が見えないというわけではないでしょうね」とイエスに尋ねます。イエスはこう答えます。「目が見えなかったなら,あなた方は罪を問われないでしょう。しかしあなた方は今,『見える』と言います。あなた方は罪を問われます」。(ヨハネ 9:40,41)彼らがイスラエルを教える立場にいなければ,メシアであるイエスを退けたとしてもまだ許せます。しかし彼らは律法に通じていたので,罪は重いのです。

  • アブラハムと悪魔のどちらが父なのか
    イエス 道,真理,命
    • ユダヤ人はイエスを石打ちにしようとするが,イエスは身を隠す

      69章

      アブラハムと悪魔のどちらが父なのか

      ヨハネ 8:37-59

      • ユダヤ人はアブラハムを父と主張する

      • イエスはアブラハムが生まれる前に生まれた

      イエスは幕屋の祭りでエルサレムにいる間,大切なことを教えます。そこにいたあるユダヤ人たちがイエスに,「私たちはアブラハムの子孫で,誰の奴隷になったこともありません」と言ったので,イエスはこう答えます。「あなた方がアブラハムの子孫であることは知っています。しかし,あなた方は私を殺そうとしています。私の教えを受け入れられないからです。私は自分の父の元で見た事を話し,あなた方は自分たちの父から聞いた事を行っています」。(ヨハネ 8:33,37,38)

      イエスの父は彼らの父とは違うということです。しかしユダヤ人たちはそれが分からず,「私たちの父はアブラハムです」と主張します。(ヨハネ 8:39。イザヤ 41:8)彼らはアブラハムの子孫なので,神の友アブラハムと同じ信仰を持っていると考えているのです。

      イエスは答えます。「アブラハムの子なら,アブラハムに倣って行動しているはずです」。本当の子なら父に倣うはずです。さらにイエスは,「あなた方は今,神から聞いた真理を告げた者,つまり私を殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしませんでした」と言い,「あなた方は自分たちの父に倣って行動しています」と指摘します。(ヨハネ 8:39-41)

      ユダヤ人たちには誰のことを言っているのか分かりません。「私たちは姦淫によって生まれたのではありません。私たちにはひとりの父,神がいます」と言い張ります。でも,本当にそうでしょうか。イエスはこう言います。「もし神があなた方の父なら,あなた方は私を愛するはずです。私は神の元から来てここにいるからです。自分の考えで来たのではなく,その方に遣わされました」。それから,「私が言っている事をあなた方が理解できないのはなぜでしょうか。それは,私の教えを受け入れようとしないからです」と話します。(ヨハネ 8:41-43)

      イエスは自分を退ける結果を示してきましたが,ここでずばりと指摘します。「あなた方は,あなた方の父,悪魔から出ていて,自分たちの父が欲することを行おうとしています」。そして彼らの父の正体を暴き,「その者はその始まりから人殺しで,真理から離れました」と言います。それから,こう述べます。「神の所から来た人は神の言う事を聞きます。あなた方は聞きません。神の所から来ていないからです」。(ヨハネ 8:44,47)

      ユダヤ人たちはかっとなり,「『あなたはサマリア人で,邪悪な天使に取りつかれている』と私たちが言うのも当然ではありませんか」と叫びます。彼らはイエスを「サマリア人」と呼び見下しました。イエスはそれを気に留めず,「邪悪な天使に取りつかれてはいません。私は父を尊んでいて,あなた方は私を辱めています」と答えます。イエスをどう見るかは重要な問題です。イエスは,「私の言葉を守る人は,決して死にません」という素晴らしい約束をしているからです。これは,イエスの弟子は死を経験しない,という意味ではなく,「第二の死」,つまり復活の希望のない永遠の滅びに至ることはないということです。(ヨハネ 8:48-51。啓示 21:8)

      ユダヤ人はその言葉を文字通りに取り,「今,あなたが邪悪な天使に取りつかれていることがはっきり分かります。アブラハムも預言者たちも死んだのに,あなたは,『私の言葉を守る人は,決して死を迎えない』と言っています。あなたは私たちの父アブラハムより偉くはないでしょう。アブラハムは死に……ました。自分を誰だと思っているのですか」。(ヨハネ 8:52,53)

      イエスはメシアであることを示そうとしているものの,質問には直接答えず,こう言います。「私が自分を称賛するなら,それはむなしいものです。私を称賛してくださるのは私の父で,あなた方が自分たちの神だと言う方です。しかし,あなた方はその方を知りません。私は知っています。私が,その方を知らないと言ったら,あなた方のようにうそつきになるでしょう」。(ヨハネ 8:54,55)

      ここでイエスは,「父アブラハムは,私が来る日をとても楽しみにしていて,その時を思い描いて喜びました」と述べます。アブラハムは神の約束を信じ,メシアが来ることを待ち望みました。それを聞いたユダヤ人たちは,「50歳になってもいないのに,アブラハムを見たことがあるのですか」と問い詰めます。そこでイエスは,「はっきり言いますが,アブラハムが存在する前から私はいます」と答えます。人間になる前に強力な天使として天にいたことを述べているのです。(ヨハネ 8:56-58)

      ユダヤ人たちはその言葉に激怒し,イエスを石打ちにしようとしますが,イエスはその場を無事に離れます。

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