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    これまでに生存した最も偉大な人
    • 幕屋の祭りで

      イエスはバプテスマを受けてから3年ほどの間に有名になっていました。非常に多くの人がイエスの奇跡を見ていましたから,イエスの活動に関するうわさは国全体に広まっていました。さて,人々はエルサレムで行なわれる幕屋の祭りに集まると,そこでイエスを捜します。「あの人はどこにいるのか」と,人々は尋ねます。

      イエスは論争の的になっていました。「彼は善良な人だ」と言う人もいれば,「そうではない。群衆を惑わしているのだ」と言い張る人もいます。祭りの初めには,このようなひそひそ話が盛んになされますが,イエスのために公に語る勇気はだれにもありません。ユダヤ人の指導者たちから仕返しされるのを恐れているからです。

      祭りが半ばを過ぎたときイエスは到着し,神殿に上って行かれます。神殿にいた人々はイエスの優れた教える能力に驚嘆します。イエスはラビの学校に一度も行ったことがないので,ユダヤ人たちは,「どうしてこの人は,学校で学んだこともないのに学識があるのだろうか」と不思議に思うようになります。

      イエスは説明されます。「わたしの教えはわたしのものではなく,わたしを遣わした方に属するものです。だれでもこの方のご意志を行ないたいと願うなら,この教えについて,それが神からのものか,それともわたしが独自の考えで話しているのかが分かるでしょう」。イエスの教えは神の律法にしっかり従ったものなので,イエスが自分自身の栄光ではなく,神の栄光を求めておられるのは明らかなはずです。「モーセがあなた方に律法を与えたのではありませんでしたか」と問いかけてからイエスは,「あなた方のうちのだれも律法に従っていません」と叱責されます。

      それからイエスは,「なぜあなた方はわたしを殺そうとしているのですか」とお尋ねになります。

      祭りのために訪れていたと思われる群衆の中の人々は,そのような企てがあることを知りません。このようなすばらしい教師を殺そうとする者がいることなど,彼らには信じられません。それで彼らは,そのようなことを考えるとは,イエスはどうかしているに違いないと思い,「あなたには悪霊がいます。だれがあなたを殺そうとしているのですか」と言います。

      群衆には分からないかもしれませんが,ユダヤ人の指導者たちはイエスが殺されることを願っています。イエスが1年半前の安息日に一人の男をいやされた時,指導者たちはイエスを殺そうとしました。それでイエスは今,彼らに次のように尋ねて,彼らが道理をわきまえていないことを示されます。「モーセの律法を破らないようにするため人は安息日に割礼を受けるのに,安息日に人を全く健康にしたからといって,あなた方はわたしに対して激しく怒るのですか。うわべを見て裁くのをやめ,義にかなった裁きで裁きなさい」。

      事情に通じているエルサレムの住民は,「これは,彼らが殺そうとしている人ではないか。それなのに,見なさい,公然と話をしており,彼らは何も言わないのだ。支配者たちは,これがキリストであることをはっきり知るようになったわけではあるまい」と言うようになります。これらエルサレムの住民は,イエスがキリストであるとは考えない理由を説明して,「わたしたちは,この人がどこから来た者なのか知っているではないか。しかし,キリストが来るときには,それがどこから来た者なのかをだれも知らないはずだ」と言います。

      イエスはこのように答えられます。「あなた方はわたしを知っており,わたしがどこから来たのかも知っています。また,わたしは自分の考えで来たのではありません。わたしを遣わした方が実在しておられるのですが,あなた方はその方を知りません。わたしはその方を知っています。わたしはその方の代理者であり,その方がわたしを遣わされたからです」。これを聞くと,彼らはイエスを捕まえようとします。多分,獄に入れるためか,殺させるためでしょう。しかし,今はイエスが死ぬ時ではないので,彼らは捕らえることができません。

      それでも,多くの人がイエスに信仰を持ちます。実際,彼らはそうすべきでした。イエスは,水の上を歩き,風を和らげ,あらしの海を静め,少しのパンと魚で大勢の人々に奇跡的に食事をさせ,病人を治し,足なえを歩かせ,盲人の目を開け,らい病人を治し,死人をよみがえらせることさえされたからです。それで彼らは,「キリストが到来しても,この人が行なったよりも多くのしるしは行なわないのではないか」と尋ねます。

      群衆がこうしたことをつぶやいているのを聞くと,パリサイ人と祭司長たちはイエスを捕らえようとして下役たちを遣わします。 ヨハネ 7:11-32。

  • 彼らはイエスを捕らえそこなう
    これまでに生存した最も偉大な人
    • 彼らはイエスを捕らえそこなう

      幕屋の祭りがまだ行なわれている間に,宗教指導者たちはイエスを捕らえようとして警務の下役たちを遣わします。イエスは隠れようとはされません。むしろ,「わたしは,自分を遣わした方のもとに行くまでに,もう少しの間あなた方と共にいます。あなた方はわたしを捜すようになりますが,わたしを見いだせないでしょう。そして,わたしのいる所に,あなた方は来ることができません」と言って,公然と教えつづけられます。

      ユダヤ人たちは理解できないので,互いにこう話し合います。「この人はどこへ行って,わたしたちが見つけられないようにするつもりなのだろう。ギリシャ人の間に離散しているユダヤ人たちのところに行って,ギリシャ人に教えるつもりではあるまい。『あなた方はわたしを捜すようになるが,わたしを見いだせないであろう。そして,わたしのいる所に,あなた方は来ることができない』という,彼のこのことばはどういう意味なのか」。もちろんイエスは,近づきつつあるご自分の死と天の命への復活について話しておられるのです。敵たちは天まで追って行くことはできません。

      祭りの七日目,最後の日になりました。祭りの間は毎朝,一人の祭司がシロアムの池から汲んだ水を注ぎ出しました。その水は祭壇の基部に流れ落ちました。イエスは恐らく人々にこの日ごとの儀式を思い起こさせるためでしょう,声を張り上げて話されます。「だれでも渇いている人がいるなら,わたしのところに来て飲みなさい。わたしに信仰を持つ者は,まさに聖書が言ったとおり,『その内奥のところから生きた水の流れが流れ出る』のです」。

      実際イエスはここで,聖霊が注ぎ出される時の壮大な結果について述べておられます。聖霊がそのように注ぎ出されるのは,翌年のペンテコステの時です。120人の弟子たちが人々に仕え始める時,生きた水の流れが流れ出ます。しかしその時まで,聖霊で油そそがれて天的な命に召されるキリストの弟子はだれもいないという意味において,霊はありません。

      イエスの教えを聞いて,ある人々は,「これこそ確かにあの預言者だ」と言い始めます。彼らは,来ることが約束されていた,モーセよりも偉大な預言者のことを言っているようです。他の人たちは,「これがキリストだ」と言いますが,「まさかキリストがガリラヤから出ることなどあるまい。聖書は,キリストがダビデの子孫から,そしてダビデのいた村ベツレヘムから来ると言っているではないか」と異議を唱える人もいます。

      そのため,群衆の間に分裂が生じます。イエスが捕らえられることを望んでいる者はいますが,手をかける者はだれもいません。警務の下役たちがイエスを捕らえずに戻って来ると,祭司長とパリサイ人たちは,「あなた方はどうして彼を連れて来なかったのか」と尋ねます。

      「あのように話した人はいまだかつてありません」と,下役たちは答えます。

  • 七日目にさらに教える
    これまでに生存した最も偉大な人
    • 七日目にさらに教える

      幕屋の祭りの最終日である七日目はまだ終わっていません。イエスは神殿の「宝物庫」と呼ばれる所で教えておられます。それは婦人の中庭と呼ばれる場所の中にあったようです。そこには人々が寄付を入れる箱があります。

      祭りの間は毎晩,神殿のその場所に特別な明かりがともされます。そこには四つの巨大な燭台が置かれています。それぞれの燭台には油を満たした四つの大きな水盤がついています。16の水盤の油を燃やすそれらの灯火の光は強力で,夜間に周囲をかなり遠くまで明るく照らします。イエスがいま話しておられることを聞いて,聴衆はその明かりのことを思い起こすかもしれません。イエスは,「わたしは世の光です。わたしに従う者は決して闇の中を歩むことがなく,命の光を持つようになります」と宣言されます。

      パリサイ人たちは,「あなたは自分自身について証しをしています。あなたの証しは真実ではありません」と反論します。

      それに対してイエスは,「たとえわたしが自分自身について証しするとしても,わたしの証しは真実です。わたしは,自分がどこから来たか,そしてどこへ行こうとしているかを知っているからです。しかしあなた方は,わたしがどこから来たか,そしてどこへ行こうとしているかを知りません」と答え,さらに,「わたしは,自分について証しする者であり,わたしを遣わした父もわたしについて証しされるのです」と付け加えられます。

      「あなたの父とはどこにいるのですか」と,パリサイ人たちは尋ねます。

      「あなた方はわたしも,わたしの父も知りません。もしあなた方がわたしを知っているとすれば,わたしの父をも知っているはずです」と,イエスはお答えになります。パリサイ人はなおもイエスを捕まえたいと思っていますが,手をかける者はいません。

      イエスは再び言われます。「わたしは去って行こうとしています。……わたしが行こうとしている所へ,あなた方は来ることができません」。

      それでユダヤ人たちは不思議に思うようになり,「彼は自殺するつもりなのではあるまい。『わたしが行こうとしている所へ,あなた方は来ることができない』と言っているが」と言います。

      イエスは,「あなた方は下の領域からの者ですが,わたしは上の領域からの者です。あなた方はこの世からの者ですが,わたしはこの世からの者ではありません」と説明し,それから,「わたしがその者であることを信じないなら,あなた方は自分の罪のうちに死ぬことになるのです」と言われます。

      もちろんイエスは,人間となる前のご自分の存在や,ご自分が約束のメシア,つまりキリストであることについて述べておられます。それでも彼らは,恐らく非常に侮辱的な口調で,「あなたはだれなのですか」と尋ねます。

      イエスは,彼らが自分を退けるのを見て,「一体なぜわたしはあえてあなた方に話しているのでしょうか」とお答えになります。そして,「わたしを遣わした方は真実な方であり,その方から聞いたこと,それをわたしは世で話しているのです」と述べてから,こう続けられます。「ひとたび人の子を挙げてしまうと,そのときあなた方は,わたしがその者であり,わたしが何事も自分の考えで行なっているのではないことを知るでしょう。わたしはこれらのことを,ちょうど父が教えてくださったとおりに話しているのです。そして,わたしを遣わした方は共にいてくださいます。わたしを独りだけにして見捨てたりはされませんでした。わたしは常に,その方の喜ばれることを行なうからです」。

      イエスがこうした事柄を話されると,多くの者がイエスに信仰を持ちます。イエスは彼らに,「わたしの言葉のうちにとどまっているなら,あなた方はほんとうにわたしの弟子であり,また,真理を知り,真理はあなた方を自由にするでしょう」と言われます。

      「わたしたちはアブラハムの子孫であって,だれにも奴隷になったことなどありません。『あなた方は自由になるでしょう』と言われるのはどうしてですか」と,反対者たちは口をはさみます。

      ユダヤ人たちは何度も外国の支配を受けてきましたが,だれであろうと圧制者を主人とは認めません。彼らは奴隷と呼ばれたくないのです。しかしイエスは,彼らがまさしく奴隷であることを指摘なさいます。どのような意味で奴隷なのでしょうか。イエスは,「きわめて真実にあなた方に言いますが,すべて罪を行なう者は罪の奴隷です」と言われます。

      罪の奴隷であることを認めようとしないなら,ユダヤ人たちは自らを危険な立場におくことになります。「奴隷は家の者たちの中にいつまでもとどまっているわけではありません。子はいつまでもとどまっています」と,イエスは説明されます。奴隷には相続権がないので,常に退けられる危険があります。その家に実際に生まれた子か養子だけが「いつまでも」,つまり生きている限りとどまるのです。

      「それゆえ,もし子があなた方を自由にするならば,あなた方は本当に自由になるのです」と,イエスは続けられます。それで,人々を自由にする真理とは,み子イエス・キリストに関する真理です。イエスの人間としての完全な命の犠牲によってのみ,人はだれでも死をもたらす罪から自由になれるのです。 ヨハネ 8:12-36。

  • 父に関する問題
    これまでに生存した最も偉大な人
    • 父に関する問題

      祭りの間に,イエスとユダヤ人の指導者たちとのやりとりはますます激しくなります。「わたしは,あなた方がアブラハムの子孫であることを知っています」と,イエスは言われます。「しかしあなた方はわたしを殺そうとしています。それは,わたしの言葉があなた方の間で進んでゆかないからです。わたしは,自分の父のもとで見た事柄を話します。それであなた方は,自分たちの父から聞いた事柄を行なうのです」。

      イエスは,彼らの父がだれであるかは言われませんが,彼らの父がご自分の父とは異なることを明らかにされます。イエスがだれのことを考えておられるのかに気づかないユダヤ人の指導者たちは,「わたしたちの父はアブラハムです」と答えます。自分たちは,神の友であったアブラハムと同じ信仰を抱いていると彼らは思っているのです。

      ところがイエスは,「アブラハムの子供であるというなら,アブラハムの業を行ないなさい」と答えて彼らを驚かされます。実際,本当の息子なら自分の父親を見倣います。イエスはこう言われます。「しかし今,あなた方は,わたしを,神から聞いた真理をあなた方に告げた者を殺そうとしています。アブラハムはそのようなことを行ないませんでした」。それでイエスは再び,「あなた方は自分たちの父の業を行なっているのです」と言われます。

      イエスがだれのことを話しておられるのか,彼らはまだ理解していません。「わたしたちは淫行によって生まれたのではありません」と言って,自分たちはアブラハムの嫡子であるという態度を変えません。ですから,自分たちはアブラハムのような真の崇拝者であると唱え,「わたしたちには一人の父,神がいるのです」と言い張ります。

      しかし,神は本当に彼らの父でしょうか。イエスは,「もし神があなた方の父であるならば,あなた方はわたしを愛するはずです。わたしは神のもとから出てここにいるからです。そしてわたしは決して自分の考えで来ているのではありません。その方がわたしを遣わされたのです。わたしの話している事柄があなた方に分からないのはなぜでしょうか」と応酬されます。

      イエスはそれらの宗教指導者たちに,ご自分を退けるとどんな結果になるかを教えようとしてこられました。しかしこの際イエスは,「あなた方は,あなた方の父,悪魔からの者であって,自分たちの父の欲望を遂げようと願っているのです」とはっきり言われます。悪魔はどんな父ですか。イエスは,悪魔は人殺しであると言われただけでなく,「彼は偽り者であって,偽りの父」であるともおっしゃいました。それでイエスは結論として,「神からの者は神の言われることを聴きます。あなた方が聴かないのはこのため,つまり,神からの者ではないからです」と言われます。

      ユダヤ人たちはイエスの非難に腹を立て,「わたしたちが,あなたはサマリア人で,悪霊につかれている,と言うのは正しいのではありませんか」と答えます。サマリア人はユダヤ人から憎まれている国民なので,「サマリア人」という言葉は侮辱や非難の表現として使われています。

      イエスは,サマリア人であると侮辱されたことには気を留めず,「わたしは悪霊につかれてはいません。わたしの父を尊んでいるのであり,あなた方はそのわたしを辱めています」と答えられます。そしてさらに,「だれでもわたしの言葉を守り行なうなら,その人は決して死を見ることがありません」という驚くべき約束をされます。言うまでもなく,イエスは,ご自分に従うすべての者が文字通り死を決して見ないと言っておられるのではありません。むしろ,復活のない永遠の滅び,つまり「第二の死」を決して見ないという意味で言っておられるのです。

      ところが,ユダヤ人たちはイエスの言葉を文字通りに受け取ります。それでこう言います。「今わたしたちは,あなたが悪霊につかれていることがはっきり分かります。アブラハムは死にましたし,預言者たちもそうです。それなのにあなたは,『だれでもわたしの言葉を守り行なうなら,その人は決して死を味わうことがない』と言っています。あなたは,死んだわたしたちの父アブラハムよりも偉いわけではないでしょう。そして,預言者たちも死んだのです。あなたは,自分が何者であると唱えるのですか」。

      イエスがユダヤ人とのこのやりとりにおいて終始,ご自分が約束のメシアであるという事実を彼らに示しておられることは明らかです。しかし,ご自分がだれであるかに関する彼らの質問に直接答える代わりに,イエスはこう言われます。「わたしが自分に栄光を付すのであれば,わたしの栄光はむなしいものです。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父,あなた方が自分たちの神であると言うその方です。それでいて,あなた方はその方を知っていません。しかし,わたしはその方を知っています。そして,その方を知らないと言えば,わたしはあなた方のように,つまり偽り者になります」。

      さらにイエスは,「あなた方の父アブラハムは,わたしの日を見ることを見越して大いに歓び,それを見て歓んだのです」と言って,忠実なアブラハムに再び言及されます。確かにアブラハムは,信仰の目で約束のメシアの到来を待ち望んでいました。ユダヤ人たちは不信仰にも,「あなたはまだ五十歳になってもいないのに,アブラハムを見たことがあるのですか」と答えます。

      「きわめて真実にあなた方に言いますが,アブラハムが存在する前からわたしはいるのです」と,イエスはお答えになります。もちろんイエスは,人間になる前の,天の強大な霊者としてのご自身の存在について語っておられるのです。

      ユダヤ人たちは,アブラハムの前から存在していたというイエスの主張に憤り,イエスに投げつけようとして石を拾いますが,イエスは隠れて,神殿から無事に出て行かれます。 ヨハネ 8:37-59。啓示 3:14; 21:8。

  • 生まれつき目の見えない人をいやす
    これまでに生存した最も偉大な人
    • 生まれつき目の見えない人をいやす

      ユダヤ人たちがイエスに石を投げつけようとしても,イエスはエルサレムから出て行かれません。その後安息日に,イエスと弟子たちは市内を歩いていて,生まれつき目の見えない人を見かけます。「ラビ,この人が盲人として生まれたのは,だれが罪をおかしたためですか。当人ですか,それともその親たちですか」と,弟子たちはイエスに尋ねます。

      弟子たちは,一部のラビが信じていたように,人は母親の胎内で罪をおかすことがあると考えているのかもしれません。しかしイエスは,「この人が罪をおかしたのでも,その親たちでもなく,神のみ業がこの人の場合に明らかにされるためだったのです」とお答えになります。この人の目が見えないのは,当人かその親たちが特定の過ちか罪をおかしたためではありません。最初の人アダムが罪をおかした結果人間はみな不完全になり,そのため,生まれつき目が見えないといった欠陥を持つようになったのです。この人のそうした欠陥は今,イエスが神のみ業を明らかにする機会を与えるものとなります。

      イエスは,そのような業を行なうことが緊急に必要であることを強調して,「わたしたちは,わたしを遣わした方の業を昼のうちに行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ようとしています。わたしが世にいる間,わたしは世の光なのです」と言われます。間もなく,イエスは死んで墓の暗闇に下ることになっています。そこではもはや何もすることができません。それまでの間,イエスは世を啓発する方です。

      これらのことを言い終えると,イエスは地面につばを吐いて,だ液で粘土を作り,目の見えないその人の両目にそれを当てて,「行って,シロアムの池で洗いなさい」と言われます。その人はこの言葉に従います。そして,言われたとおりにすると,その人は見えるようになります。その人は生まれて初めて目が見えるようになったので,大いに喜びながら戻って来ます。

      隣人たちや,その人のことを知っている他の人たちは驚いて,「これは,いつも座って物ごいをしていた男ではないか」と尋ねます。「これはその人だ」と言う人たちもいますが,信じられなくて,「いや,違う,ただ似ているだけだ」と言う人たちもいます。しかし当人は,「わたしはその者です」と言います。

      「では,どうしてあなたの目は開いたのか」と人々は尋ねます。

      「イエスという人が粘土を作ってわたしの両目になすりつけ,『シロアムに行って洗いなさい』と言いました。それで,行って洗いましたところ,見えるようになったのです」。

      「その人はどこにいるのか」と,彼らは尋ねます。

      「知りません」と,彼は答えます。

      それで人々は,以前盲目だったその人を自分たちの宗教指導者であるパリサイ人たちのところに連れて行きます。今度はパリサイ人たちが,どのようにして見えるようになったのか彼に尋ね始めます。「その人が粘土をわたしの両目に当てました。そしてわたしが洗いましたところ,今は見えるのです」と,その人は説明します。

      パリサイ人たちは確かに,いやされたこじきと共に歓ぶべきです。しかし彼らは,そうする代わりに,イエスを糾弾し,「これは神からの人ではない」と主張します。なぜ彼らはそう言うのでしょう。イエスが「安息日を守っていないから」です。しかし,ほかのパリサイ人たちは驚嘆して,「罪人である人が,どうしてこのようなしるしを行なえるだろうか」と言います。こうして,彼らの間には分裂があります。

      それで,彼らはその人に,「彼があなたの目を開けたことからして,あなたは彼について何と言うか」と尋ねます。

      「彼は預言者です」と,その人は答えます。

      パリサイ人たちはそれを信じようとしません。彼らは,イエスとこの人は人々をかつぐため,ひそかに結託しているに違いないと思い込んでいるのです。そこで彼らは問題を解決するため,そのこじきの親たちを呼びます。両親に尋ねてみようというわけです。 ヨハネ 8:59; 9:1-18。

  • 飽くまで不信仰なパリサイ人たち
    これまでに生存した最も偉大な人
    • 飽くまで不信仰なパリサイ人たち

      以前盲目だったこじきの両親は,パリサイ人たちの前に呼び出されておびえています。イエスに対する信仰を告白する者は会堂から追放されることになっているのを彼らは知っているのです。地域社会の他の人々との交わりがそのようにして絶たれた場合,貧しい家族は特に,非常な苦難に見舞われる恐れがあるので,親は用心しています。

      「これは,生まれつき目が見えなかったという,あなた方の息子か。では,現在見えるのはどうしてなのか」と,パリサイ人たちは尋ねます。

      「これがわたしどもの息子で,生まれつき目が見えなかったことは知っております。でも,今見えるのがどうしてかは知りませんし,だれがその目を開けたのかも知りません」と,親は言います。息子は起きたことをみな親に話していたに違いありませんが,親は慎重な態度を取り,「彼にお聞きください。彼は大人です。自分で話すはずです」と言います。

      それでパリサイ人たちはその人をもう一度呼びます。彼らは今度は,イエスの有罪を立証する証拠を集めたことをほのめかして,その人をおじけづかせようとします。「神に栄光をささげなさい。わたしたちはこの人が罪人であることを知っているのだ」と彼らは迫ります。

      そこでかつての盲人は,「その人が罪人かどうかわたしは知りません」と述べ,彼らの非難を否定したりはしません。しかし,「一つのことは知っています。わたしは目が見えませんでしたが,現在は見えるということです」と言い添えます。

      パリサイ人たちはその人の証言の不備を見つけようとして,「彼はあなたに何をしたのか。どのようにしてあなたの目を開けたのか」ともう一度尋ねます。

      その人は,「わたしはもうお話ししましたのに,お聴きになりませんでした。なぜもう一度お聞きになりたいのですか」と文句を言い,「あなた方もあの人の弟子になりたいわけではないのでしょうに」と皮肉ります。

      パリサイ人たちはその答えに激怒して,「お前はあの男の弟子だ」と非難し,「我々はモーセの弟子なのだ。我々は,神がモーセに語られたことを知っている。だが,この男については,どこからの者か知らない」と言います。

      その謙遜なこじきは驚きを表わし,「これはいかにも驚いたことです,あの人がどこからの者かをご存じないとは。わたしの目を開けた人ですのに」と答えます。こじきの目が見えるようになったことからどんな結論を導き出すべきですか。そのこじきはだれもが認めている前提となる事実を次のように指摘します。「神は罪人たちにはお聴きになりませんが,だれでも神を恐れてそのご意志を行なうなら,その者にはお聴きになることを,わたしたちは知っております。昔から,盲人として生まれた者の目を開けたというようなことは聞いたためしがありません」。したがって結論は明らかです。「神からの人でないなら,この人は全く何もできないはずです」。

      パリサイ人たちは,このような簡潔で明快な論理に対して何も答えることができません。彼らは真理に太刀打ちできないので,「お前は全く罪のうちに生まれながら,我々を教えるというのか」と言ってののしり,その人を追い出します。その人は会堂から追放されたようです。

      イエスはパリサイ人たちが行なった事柄を知ると,その人を見つけて,「あなたは人の子に信仰を持っていますか」と言われます。

      「だんな様,それはどなたのことでしょうか。わたしがその方に信仰を持てますように」と,かつての盲人のこじきは答えます。

      「あなたと話しているのがその者です」と,イエスは答えられます。

      その人は直ちにイエスの前にひれ伏し,「わたしはほんとうにその方に信仰を持っています,主よ」と言います。

      それでイエスは,「この裁きのためにわたしはこの世に来ました。すなわち,見えない者が見えるようになり,見える者が盲目になるためです」と説明されます。

      すると,それを聴いていたパリサイ人たちは,「わたしたちも盲目であるというわけではないでしょうね」と尋ねます。もし彼らが精神的に盲目であることを認めるなら,イエスに敵対していることには弁解の余地があったでしょう。「あなた方が盲目であったなら,あなた方には罪がなかったでしょう」と,イエスは言われます。しかし,彼らは心をかたくなにして,自分たちは盲目ではなく,霊的な啓発など必要ないと主張します。それでイエスは,「あなた方は今,『わたしたちは見える』と言います。あなた方の罪は残るのです」と言われます。 ヨハネ 9:19-41。

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