ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 生まれつき目の見えない人をいやす
    これまでに生存した最も偉大な人
    • 生まれつき目の見えない人をいやす

      ユダヤ人たちがイエスに石を投げつけようとしても,イエスはエルサレムから出て行かれません。その後安息日に,イエスと弟子たちは市内を歩いていて,生まれつき目の見えない人を見かけます。「ラビ,この人が盲人として生まれたのは,だれが罪をおかしたためですか。当人ですか,それともその親たちですか」と,弟子たちはイエスに尋ねます。

      弟子たちは,一部のラビが信じていたように,人は母親の胎内で罪をおかすことがあると考えているのかもしれません。しかしイエスは,「この人が罪をおかしたのでも,その親たちでもなく,神のみ業がこの人の場合に明らかにされるためだったのです」とお答えになります。この人の目が見えないのは,当人かその親たちが特定の過ちか罪をおかしたためではありません。最初の人アダムが罪をおかした結果人間はみな不完全になり,そのため,生まれつき目が見えないといった欠陥を持つようになったのです。この人のそうした欠陥は今,イエスが神のみ業を明らかにする機会を与えるものとなります。

      イエスは,そのような業を行なうことが緊急に必要であることを強調して,「わたしたちは,わたしを遣わした方の業を昼のうちに行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ようとしています。わたしが世にいる間,わたしは世の光なのです」と言われます。間もなく,イエスは死んで墓の暗闇に下ることになっています。そこではもはや何もすることができません。それまでの間,イエスは世を啓発する方です。

      これらのことを言い終えると,イエスは地面につばを吐いて,だ液で粘土を作り,目の見えないその人の両目にそれを当てて,「行って,シロアムの池で洗いなさい」と言われます。その人はこの言葉に従います。そして,言われたとおりにすると,その人は見えるようになります。その人は生まれて初めて目が見えるようになったので,大いに喜びながら戻って来ます。

      隣人たちや,その人のことを知っている他の人たちは驚いて,「これは,いつも座って物ごいをしていた男ではないか」と尋ねます。「これはその人だ」と言う人たちもいますが,信じられなくて,「いや,違う,ただ似ているだけだ」と言う人たちもいます。しかし当人は,「わたしはその者です」と言います。

      「では,どうしてあなたの目は開いたのか」と人々は尋ねます。

      「イエスという人が粘土を作ってわたしの両目になすりつけ,『シロアムに行って洗いなさい』と言いました。それで,行って洗いましたところ,見えるようになったのです」。

      「その人はどこにいるのか」と,彼らは尋ねます。

      「知りません」と,彼は答えます。

      それで人々は,以前盲目だったその人を自分たちの宗教指導者であるパリサイ人たちのところに連れて行きます。今度はパリサイ人たちが,どのようにして見えるようになったのか彼に尋ね始めます。「その人が粘土をわたしの両目に当てました。そしてわたしが洗いましたところ,今は見えるのです」と,その人は説明します。

      パリサイ人たちは確かに,いやされたこじきと共に歓ぶべきです。しかし彼らは,そうする代わりに,イエスを糾弾し,「これは神からの人ではない」と主張します。なぜ彼らはそう言うのでしょう。イエスが「安息日を守っていないから」です。しかし,ほかのパリサイ人たちは驚嘆して,「罪人である人が,どうしてこのようなしるしを行なえるだろうか」と言います。こうして,彼らの間には分裂があります。

      それで,彼らはその人に,「彼があなたの目を開けたことからして,あなたは彼について何と言うか」と尋ねます。

      「彼は預言者です」と,その人は答えます。

      パリサイ人たちはそれを信じようとしません。彼らは,イエスとこの人は人々をかつぐため,ひそかに結託しているに違いないと思い込んでいるのです。そこで彼らは問題を解決するため,そのこじきの親たちを呼びます。両親に尋ねてみようというわけです。 ヨハネ 8:59; 9:1-18。

  • 飽くまで不信仰なパリサイ人たち
    これまでに生存した最も偉大な人
    • 以前盲目だったこじきの両親は,パリサイ人たちの前に呼び出されておびえています。イエスに対する信仰を告白する者は会堂から追放されることになっているのを彼らは知っているのです。地域社会の他の人々との交わりがそのようにして絶たれた場合,貧しい家族は特に,非常な苦難に見舞われる恐れがあるので,親は用心しています。

      「これは,生まれつき目が見えなかったという,あなた方の息子か。では,現在見えるのはどうしてなのか」と,パリサイ人たちは尋ねます。

      「これがわたしどもの息子で,生まれつき目が見えなかったことは知っております。でも,今見えるのがどうしてかは知りませんし,だれがその目を開けたのかも知りません」と,親は言います。息子は起きたことをみな親に話していたに違いありませんが,親は慎重な態度を取り,「彼にお聞きください。彼は大人です。自分で話すはずです」と言います。

      それでパリサイ人たちはその人をもう一度呼びます。彼らは今度は,イエスの有罪を立証する証拠を集めたことをほのめかして,その人をおじけづかせようとします。「神に栄光をささげなさい。わたしたちはこの人が罪人であることを知っているのだ」と彼らは迫ります。

      そこでかつての盲人は,「その人が罪人かどうかわたしは知りません」と述べ,彼らの非難を否定したりはしません。しかし,「一つのことは知っています。わたしは目が見えませんでしたが,現在は見えるということです」と言い添えます。

      パリサイ人たちはその人の証言の不備を見つけようとして,「彼はあなたに何をしたのか。どのようにしてあなたの目を開けたのか」ともう一度尋ねます。

      その人は,「わたしはもうお話ししましたのに,お聴きになりませんでした。なぜもう一度お聞きになりたいのですか」と文句を言い,「あなた方もあの人の弟子になりたいわけではないのでしょうに」と皮肉ります。

      パリサイ人たちはその答えに激怒して,「お前はあの男の弟子だ」と非難し,「我々はモーセの弟子なのだ。我々は,神がモーセに語られたことを知っている。だが,この男については,どこからの者か知らない」と言います。

      その謙遜なこじきは驚きを表わし,「これはいかにも驚いたことです,あの人がどこからの者かをご存じないとは。わたしの目を開けた人ですのに」と答えます。こじきの目が見えるようになったことからどんな結論を導き出すべきですか。そのこじきはだれもが認めている前提となる事実を次のように指摘します。「神は罪人たちにはお聴きになりませんが,だれでも神を恐れてそのご意志を行なうなら,その者にはお聴きになることを,わたしたちは知っております。昔から,盲人として生まれた者の目を開けたというようなことは聞いたためしがありません」。したがって結論は明らかです。「神からの人でないなら,この人は全く何もできないはずです」。

      パリサイ人たちは,このような簡潔で明快な論理に対して何も答えることができません。彼らは真理に太刀打ちできないので,「お前は全く罪のうちに生まれながら,我々を教えるというのか」と言ってののしり,その人を追い出します。その人は会堂から追放されたようです。

      イエスはパリサイ人たちが行なった事柄を知ると,その人を見つけて,「あなたは人の子に信仰を持っていますか」と言われます。

      「だんな様,それはどなたのことでしょうか。わたしがその方に信仰を持てますように」と,かつての盲人のこじきは答えます。

      「あなたと話しているのがその者です」と,イエスは答えられます。

      その人は直ちにイエスの前にひれ伏し,「わたしはほんとうにその方に信仰を持っています,主よ」と言います。

      それでイエスは,「この裁きのためにわたしはこの世に来ました。すなわち,見えない者が見えるようになり,見える者が盲目になるためです」と説明されます。

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする