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ベタニヤのシモンの家でこれまでに生存した最も偉大な人
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101章
ベタニヤのシモンの家で
イエスはエリコを出発してベタニヤに向かわれます。これは,険しい地域を19㌔も登ってゆく旅なので,ほとんど一日かかります。エリコは海面下約250㍍のところにありますが,ベタニヤは海抜約760㍍のところにあります。ベタニヤには,ラザロとその姉妹たちの家があることをあなたは思い出すでしょう。この小さな村は,エルサレムから約3㌔のところにあり,オリーブ山の東の斜面に位置しています。
大勢の人々が,過ぎ越しを祝うためにもうエルサレムに着いています。この人々は儀式上の清めをするために早く来たのです。おそらく死体に触るか何かをして汚れた状態にあったのでしょう。それで彼らは,受け入れられる状態で過ぎ越しを祝うため,手順に従って自分を清めるのです。早くから来ているそれらの人たちが神殿に集まると,大勢の人々は,イエスが過ぎ越しにやって来るかどうかについていろいろと予想しています。
エルサレムは,イエスについての論争が起こりやすいところです。宗教指導者がイエスを捕まえて殺そうとしていることは,みんなが知っています。事実,イエスの居所を知っている者は,宗教指導者たちに通報せよという命令が出されているのです。指導者たちは,ここ数か月の間に3回もイエスを殺そうとしました。幕屋の祭りと献納の祭りの時,それからラザロを復活させた後です。それで人々は,イエスがもう一度人中に姿を現わすようなことをするだろうかといぶかっています。人々は「あなた方の意見はどうだ」と互いに話し合っています。
そうしているうちに,イエスはユダヤの暦でニサン14日に当たる過ぎ越しの6日前にベタニヤに到着されます。イエスは金曜日の夕方のいつか,つまりニサン8日の始まるころベタニヤに着かれます。安息日 ― 金曜日の日没から土曜日の日没まで ― に旅をすることはユダヤ人の律法で禁じられていたので,イエスは土曜日にはベタニヤへ行くことができませんでした。それでおそらく以前のようにラザロの家に行き,そこで金曜の夜を過ごされたのでしょう。
しかしベタニヤに住んでいる別の人が,イエスとその一行を土曜日の夕食に招きます。この人はシモンで,以前はらい病人でしたが,おそらくイエスに癒されていたのでしょう。マルタは勤勉な性格の人らしく客の給仕をしています。しかしマリアは,いかにも彼女らしく,イエスによく心を配りますが,今回はそれがもとで論争が起きます。
マリアは,「本物のナルド」の香油が450㌘ほど入っている雪花石こうの容器,つまり小さなびんを開けます。これは大変高価なものです。実際にその値段は1年分の賃金と同じくらいなのです。マリアがその油をイエスの頭と足にかけ,自分の髪でイエスの足をふくと,家中に香油の香りが漂います。
弟子たちは憤慨し,「なぜこんな無駄なことを」と言います。そしてユダ・イスカリオテは,「どうしてこの香油を三百デナリで売って,貧しい人々に施さなかったのか」と言います。しかしユダは貧しい人のことを本当に気にかけているのではありません。というのはユダは弟子たちが保管している金箱からお金を盗んでいたからです。
イエスはマリアを弁護されます。「彼女をそのままにしておきなさい」とお命じになります。「なぜあなた方は彼女を困らせようとするのですか。彼女はわたしに対してりっぱな行ないをしたのです。あなた方にとって,貧しい人たちは常におり,あなた方はいつでも望む時に彼らに善を行なえますが,わたしは常に共にいるわけではないからです。彼女は自分にできることをしました。埋葬を見越してわたしの体に前もって香油を付けようとしたのです。あなた方に真実に言いますが,世界中どこでも良いたよりが宣べ伝えられる所では,この女のしたことも,彼女の記念として語られるでしょう」。
イエスはベタニヤに24時間以上おられるので,イエスがそこにおられるという話が広まります。それで,大勢の人がイエスを見るため,シモンの家へやってきます。でも,人々はそこにいるラザロも見ようとしてやって来ます。そこで祭司長たちは,イエスばかりかラザロも殺そうと相談します。多くの人々は,イエスが復活させた人が生きているのを見て,イエスに信仰を持つようになっているからです。これらの宗教指導者たちは,実際なんと悪らつなのでしょう。 ヨハネ 11:55-12:11。マタイ 26:6-13。マルコ 14:3-9。使徒 1:12。
■ エルサレムの神殿ではどんなことが論議されていますか。なぜですか。
■ イエスは土曜日ではなく金曜日にベタニヤに着かれたに違いありませんが,それはどうしてですか。
■ イエスはベタニヤに来られるとき,恐らくどこで安息日を過ごされますか。
■ マリアのどんな行ないが,論争を引き起こしますか。イエスはどのようにマリアを弁護されますか。
■ 祭司長たちの悪らつさは,どんなことに表われますか。
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エルサレムへ勝利の入城をするキリストこれまでに生存した最も偉大な人
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102章
エルサレムへ勝利の入城をするキリスト
次の朝,ニサン9日の日曜日に,イエスは弟子たちと共にベタニヤを出発し,オリーブ山を越えてエルサレムへと向かわれます。ほどなくして一行は,オリーブ山にあるベテパゲに近づきました。イエスは二人の弟子に次のような指示をお与えになります。
「行って,向こうに見えるあの村に入りなさい。そうすれば,あなた方はすぐに,一頭のろばがつながれ,それと一緒に子ろばがいるのを見つけるでしょう。それらをほどいてわたしのところに連れて来なさい。そして,だれかが何か言うなら,『主がこれらをご入り用なのです』と言わねばなりません。そうすれば,彼はすぐにそれをよこすでしょう」。
初めのうち弟子たちは,これらの指示が聖書の預言の成就と関係があることを認識できませんでしたが,後でそのことに気づきました。預言者ゼカリヤは,神の約束された王が,ろばに,「しかも成熟した,雌ろばの子に乗って」エルサレムに入ることを予告していました。同じようにソロモン王も,ろばの子に乗って,自分が油そそぎを受ける場所へ行きました。
弟子たちがベテパゲに入り,子ろばと雌ろばを連れて行こうとすると,そこにいた人の幾人かが「何をしているのか」と言います。しかし,弟子たちが,その動物は主のために用いられますと言うと,その人たちはろばをイエスの所へ連れて行くのを許してくれます。弟子たちは,自分たちの外衣を雌ろばと子ろばの上に置きますが,イエスは子ろばのほうに乗られます。
イエスがエルサレムへ向かって乗り進むにつれ,群衆は増えていきます。ほとんどの人が自分の外衣を道路に敷きます。木の枝を切り落としてそれを敷く人々もいます。「エホバのみ名によって王として来るのは祝福された者! 天に平和,至高の所に栄光あれ!」と,群衆は叫びます。
その群衆の中にいたパリサイ人たちは,こうした言葉を聞いて憤慨し,「師よ,あなたの弟子たちを叱ってください」とイエスに訴えます。しかし,イエスはこうお答えになります。「あなた方に言いますが,もしこれらの者が黙っているなら,石が叫ぶでしょう」。
エルサレムに近づくとイエスはその都市を眺め,エルサレムのために涙を流してこう言われます。「もしあなたが,そうですあなたが,この日に,平和にかかわる事を見分けていたなら ― しかし今,それはあなたの目から隠されているのです」。エルサレムはかたくなに不従順な態度を示したので,必ずその代償を払うことになります。それをイエスは次のように予告されます。
「あなたの敵[ティツス将軍指揮下のローマ軍]が,先のとがった杭でまわりに城塞を築き,取り巻いて四方からあなたを攻めたてる……彼らは,あなたとあなたの中にいるあなたの子らを地面にたたきつけ,あなたの中で石を石の上に残したままにはしておかないでしょう」。イエスが予告されたエルサレムのこの滅びは,その37年後の西暦70年に実際に起きました。
群衆の中の多くの人は,わずか数週間前にイエスがラザロを復活させるのを見ていましたから,他の人たちにその奇跡について盛んに話しています。そのためイエスがエルサレム市内に入られると,市全体が騒ぎ立ちます。「これはだれなのか」,人々は知りたがっています。それで群衆は,「これは預言者イエス,ガリラヤのナザレから来た方だ!」と言いつづけます。起きている事柄を見てパリサイ人たちは,何一つうまくいかないのを嘆きます。彼らが言うとおり,「世は彼に付いて行ってしまった」からです。
イエスはエルサレムを訪れる時の習慣どおり,人々を教えるために神殿へ行かれます。そこへ盲人や足なえの人がやって来ると,その人たちをお治しになります。祭司長と書士たちは,イエスの行なっている驚くべき事柄を見,また神殿の中で少年たちが「救いたまえ,ダビデの子を!」と叫んでいるのを聞いて怒りだします。祭司長たちは「これらの者たちの言っていることが聞こえるか」と抗議します。
それに対しイエスは,「はい。あなた方は,『みどりごや乳飲み子の口から,あなたは賛美を備えられた』とあるのを読んだことがないのですか」とお答えになります。
イエスは教え続け,神殿内のすべての物を見て回られます。すでに時刻は遅くなっています。イエスは12人と共にそこを去り,ベタニヤまで3㌔ほどの道を戻られます。ベタニヤでは,おそらく友人ラザロの家で,日曜日の晩を過ごされます。 マタイ 21:1-11,14-17。マルコ 11:1-11。ルカ 19:29-44。ヨハネ 12:12-19。ゼカリヤ 9:9。
■ イエスは,いつ,どんな方法でエルサレムに王として入城されますか。
■ 群衆がイエスを賛美するのは,どれほど肝要なことですか。
■ イエスはエルサレムを眺めて,どんな気持ちになられますか。どんな預言をされますか。
■ イエスが神殿へ行かれると,どんな事が起きますか。
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再び神殿を訪れるこれまでに生存した最も偉大な人
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103章
再び神殿を訪れる
イエスと弟子たちは,エリコから到着してからベタニヤで三日目の夜を過ごしたところです。ニサン10日の月曜日の朝,あたりがほのかに明るくなるころ,一行はもうエルサレムへ向かっています。イエスは空腹を覚えられます。それで葉をつけたいちじくの木を見つけた時,その木に実がなっているかどうか見に行かれます。
その木は季節でもないのに早々と葉をつけています。6月が来なければいちじくの季節にはならないのです。今はまだ3月の下旬です。しかしイエスは,早くから葉をつけているのだから,実も早くからなっているはずだと考えられたようです。でも,イエスはがっかりさせられます。葉は,木に実があるように見せかけていただけでした。そこでイエスは,「もうお前からはだれも永久に実を食べないように」とその木を呪われます。イエスがそうされたために生じた結果とそれが持つ意義とはその次の朝学ぶことになります。
イエスと弟子たちはさらに旅を続け,やがてエルサレムに到着します。イエスは前日の午後検分された神殿に行かれます。しかし今日は3年前の西暦30年の過ぎ越しに来られた時のように,行動を起こされます。イエスは神殿で売り買いしている者たちを追い出し,両替屋の台と,はとを売っている者たちの腰掛けを倒されます。イエスは神殿の中を通って器物を運ぶことさえ,だれにも許されません。
神殿の中で両替をしたり,動物を売ったりしていた者たちをとがめて,イエスはこう言われます。「『わたしの家はあらゆる国民のための祈りの家と呼ばれるであろう』と書いてあるではありませんか。それなのに,あなた方はそれを強盗の洞くつとしました」。これらの者は,犠牲にする動物を彼らから買うしか方法のない人々に,法外な値段で売りつけていたので,強盗です。それでイエスはこのような商行為を,一種のゆすり,または強盗とみなしておられるのです。
祭司長と書士たち,また民の主立った者たちはイエスのしたことを聞くと,再びイエスを殺させる方法を探るようになります。こうして彼らは自分たちが矯正しようのない者であることを示します。しかし,イエスの語ることを聞こうとして民がみなずっと付きまとっていたので,イエスをどのようにして殺すか決めかねています。
生来のユダヤ人のほかに,異邦人も過ぎ越しに来ています。これら異邦人は,改宗者,つまりユダヤ人の宗教に改宗した人々です。改宗者と思われるあるギリシャ人たちがフィリポに近づき,イエスに会わせてくださいと頼みます。そのような会見がふさわしいかどうかを尋ねるためなのでしょう,フィリポはアンデレのところへ行きます。イエスはまだ神殿におられるようです。その場所ではそれらのギリシャ人もイエスを見ることができます。
イエスは残された命があと数日しかないのを知っておられますから,ご自分の状況を適切な例えで語られます。「人の子が栄光を受けるべき時が来ました。きわめて真実にあなた方に言いますが,一粒の小麦は地面に落ちて死なないかぎり,それはただ一粒のままです。しかし,死ぬならば,そのときには多くの実を結びます」。
一粒の小麦にはわずかな価値しかありません。しかし土の中にまかれて「死ぬ」,つまり種としての命を終えるならどうでしょうか。それはやがて芽を出し,時たつうちに茎となり,非常に多くの穀粒を生みだします。同じように,イエスもただ一人の完全な人間ですが,神への忠実を保って死ぬなら,イエスは,ご自分と同じ自己犠牲の精神を持つ忠実な人々に永遠の命を与える手段となるのです。それでイエスはこう言われます。「自分の魂を慈しむ者はそれを滅ぼしますが,この世において自分の魂を憎む者は,それを永遠の命のために保護することになります」。
イエスがご自分のことだけを考えておられるのでないことは明らかです。というのはイエスは次にこう説明されるからです。「だれでもわたしに仕えようとするなら,その人はわたしの後に従いなさい。そうすれば,わたしのいる所,そこに,わたしに仕える者もいることになります。だれでもわたしに仕えようとするなら,父はその人を尊ばれます」。イエスに従い,仕える者には何とすばらしい報いがあるのでしょう。それは王国でキリストと共にいるという栄誉を父から与えられるという報いなのです。
非常な苦しみと苦痛を伴う死が待っていることを考えながら,イエスは言葉を続けられます。「今わたしの魂は騒ぎます。何と言えばよいのでしょう。父よ,わたしをこの時から救い出してください」。イエスを待っているものを避けることができさえすれば,どんなに良いでしょう。しかし,それはできません。イエスは「わたしはこのゆえにこの時に至ったのです」と述べておられます。イエスはご自身が犠牲としての死を遂げることを含め,神の取り決めすべてに同意しておられるのです。 マタイ 21:12,13,18,19。マルコ 11:12-18。ルカ 19:45-48。ヨハネ 12:20-27。
■ 季節外れであったにもかかわらず,イエスはいちじくが見つかるはずだと思われたのはなぜですか。
■ イエスが神殿で商売をしていた者たちを「強盗」と呼ばれたのはなぜですか。
■ イエスはどんな点で,死ぬ一粒の小麦に似ていますか。
■ イエスはご自分を待ち受けている苦しみと死について,どのように感じておられますか。
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神の声を聞く ― 三度目これまでに生存した最も偉大な人
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104章
神の声を聞く ― 三度目
イエスは神殿におられ,間もなく死に直面しなければならないことを考えて苦しんでおられます。イエスが一番気にかけておられるのは,み父の評判がどうなるかということです。それでイエスは,「父よ,み名の栄光をお示しください」と祈られます。
その時,天から力強い声が響き,「わたしはすでにその栄光を示し,さらにまたその栄光を示す」と宣言します。
周りに立っていた群衆は驚きます。「み使いが彼に話しかけたのだ」と言い出す人もいれば,雷が鳴ったのだと言う人もいます。しかし,実際にはエホバ神が話されたのです。とはいっても,イエスに関連して神からの声が聞こえたのは,これが初めてではありません。
3年半ほど前にイエスがバプテスマを受けた時,バプテスマを施す人ヨハネは神がイエスについて,「これはわたしの子,わたしの愛する者である。この者をわたしは是認した」と言われるのを聞きました。次いで,前回の過ぎ越しのしばらく後に,ヤコブとヨハネとペテロは,自分たちの前でイエスが変ぼうされた時,神が,「これはわたしの子,わたしの愛する者である。わたしはこの者を是認した。この者に聴き従いなさい」と宣言されるのを聞きました。そして今度は,イエスが死なれる四日前のニサン10日に,三度目になる神の声を人々は聞きました。今回は,エホバは大勢の人に聞こえるように話されます。
イエスは,「この声は,わたしのためではなく,あなた方のために生じたのです」と説明されます。この声は,イエスが確かに神の子であり,約束のメシアである証拠となりました。イエスは言葉を続けて,「今,この世の裁きがなされています。今やこの世の支配者は追い出されるのです」と言われます。イエスが忠実な生涯を送られたという事実は,この世の支配者である悪魔サタンが「追い出される」,つまり処刑されるのは当然だということをはっきり示すものとなります。
イエスは間もなく死ぬことにはなるものの,その結果として生じる事柄に注意を促し,「しかしわたしは,自分が地から挙げられたなら,あらゆる人をわたしのもとに引き寄せます」と言われます。イエスの死は決して敗北ではありません。イエスはご自分の死によって,ほかの人々を引き寄せ,その人々が永遠の命を享受できるようにされるからです。
しかし群衆は,異議を唱えます。「わたしたちは律法から,キリストが永久にとどまることを聞きました。それなのに,人の子は挙げられねばならないとあなたが言うのはどうしてですか。この人の子とはだれのことなのですか」。
大部分の人々は,神ご自身の声を聞いたことをも含め,証拠はそろっているにもかかわらず,イエスが正真正銘の人の子,すなわち約束のメシアであることを信じていません。しかし,イエスは半年前の幕屋の祭りの時にしたように,再びご自身のことを「光」として語り,聞いている人たちに対し,「光のあるうちに光に信仰を働かせなさい。光の子らとなるためです」と言われます。これらの事柄を話し終えるとイエスは去って行き,身を隠されます。きっと,命が危険にさらされていたからでしょう。
イエスに対するユダヤ人の信仰の欠如は,『彼らの目は盲目になり,彼らの心はかたくなになった。彼らが立ち返っていやされることがないためである』というイザヤの言葉の成就となります。イザヤは幻の中で,エホバの天の法廷を見ました。エホバのそばには栄光に輝く,人間となられる前のイエスもおられます。それでもユダヤ人たちは,この方が約束の救出者であることを示す証拠をかたくなにも無視し,イザヤの書いた事柄が成就しました。
一方,支配者たちの中に(ユダヤ人の最高法廷であるサンヘドリンの成員と思われる)さえ,イエスに実際に信仰を持つ人が少なくありません。そのうちの二人が,ニコデモとアリマタヤのヨセフです。しかしこれらの支配者たちは,少なくとも当座は自分の信仰を告白しようとしません。会堂における自分の地位から追放されることを恐れているのです。またとない機会を見送るとは,なんと残念なことでしょう。
イエスは続けてこう言われます。「わたしに信仰を持つ者は,わたしだけでなく,わたしを遣わした方にも信仰を持つのです。また,わたしを見る者は,わたしを遣わした方をも見るのです。……しかし,わたしのことばを聞いてそれを守らない人がいても,わたしはその人を裁きません。わたしが来たのは,世を裁くためではなく,世を救うためだからです。……わたしの話した言葉が,終わりの日にその人を裁くのです」。
エホバは,人類の世に対する愛に動かされてイエスを遣わし,イエスに信仰を働かせる者が救われるようにされました。人々が救われるかどうかは,エホバの指示によってイエスが話された事柄に人々が従うかどうかによって決まります。裁きは「終わりの日に」,つまりキリストの千年統治の期間中に行なわれます。
イエスは話の結びにこう述べられます。「わたしは自分の衝動で話したのではなく,わたしを遣わした父ご自身が,何を告げ何を話すべきかについて,わたしにおきてをお与えになったからです。またわたしは,父のおきてが永遠の命を意味していることを知っています。それゆえ,わたしの話すこと,それは,父がわたしにお告げになったとおりに話している事柄なのです」。 ヨハネ 12:28-50; 19:38,39。マタイ 3:17; 17:5。イザヤ 6:1,8-10。
■ どんな三つの場合に,イエスに関して述べる神の声が聞こえましたか。
■ 預言者イザヤは,どのようにイエスの栄光を予見しましたか。
■ イエスに信仰を持った支配者たちとはだれですか。彼らがイエスについて公然と告白しないのはなぜですか。
■ 「終わりの日」とは何のことですか。その時,人々は何に基づいて裁かれますか。
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重要な一日の始まりこれまでに生存した最も偉大な人
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105章
重要な一日の始まり
イエスは月曜日の夕方にエルサレムをたち,オリーブ山の東斜面にあるベタニヤへ戻られます。エルサレムにおけるイエスの最後の宣教はすでに二日終わりました。イエスは友人のラザロの所で再び夜を過ごされるに違いありません。金曜日にエリコから来られて以来,ベタニヤで夜を過ごされたのはこれで四日目です。
さて,ニサン11日の火曜日の朝,イエスと弟子たちは再び道を歩いています。この日はイエスの宣教の中でもたいへん重要で,今までで一番忙しい日になろうとしています。イエスが神殿に現われるのは,この日が最後です。また,イエスが裁判を受け処刑される前に,公の宣教を行なわれる最後の日でもあります。
イエスとその弟子たちは,オリーブ山上の同じ道を通ってエルサレムに向かいます。ベタニヤからのその道で,ペテロは,前日の朝イエスがのろわれた木に気づきます。「ラビ,ご覧ください,あなたがのろわれたいちじくの木は枯れてしまいました」とペテロは言います。
しかし,イエスはなぜ木を枯らしたのでしょうか。イエスはその理由についてこう話されます。「あなた方に真実に言いますが,ただ信仰を抱いて疑うことさえないなら,あなた方は,わたしがこのいちじくの木に行なったようなことができるだけでなく,この山[彼らが立っていたオリーブ山]に,『持ち上がって海に落ちよ』と言ったとしても,そのこともまた起きるのです。そしてあなた方は,信仰を抱いて祈り求めるものすべてを受けるのです」。
それで,イエスはこの木を枯らすことにより,神に信仰を持つことの必要性を,実例をもって弟子たちに教えられたのです。「あなた方が祈りまた求めることすべては,それをすでに受けたのだという信仰を持ちなさい。そうすれば,あなた方はそれを持つことになります」と,イエスは言われます。間近に起きようとしていた恐ろしい試練を考えると,弟子たちにとってこれは本当に重要な教訓でした。しかし,いちじくの木を枯らしたことと信仰の質には,別の関連もありました。
イスラエル国民は,このいちじくの木のように外見で人を欺いていました。この国民は神との契約関係に入っており,外見では神のおきてを守っているかのように見えたかもしれませんが,実際には信仰がなく,良い実を生み出さないことを示してきました。イスラエルには信仰が欠けているため,今も神ご自身のみ子を退けるようなことさえしています。ですから,イエスは実を結ばないいちじくの木を枯らすことにより,この不毛で不信仰な国民に臨む結末を目に見える仕方で示されたのです。
そのすぐ後,イエスと弟子たちはエルサレムへ入り,習慣どおり神殿へ行き,イエスはそこで教えはじめられます。祭司長と民の年長者たちは,前の日にイエスが両替屋たちに対して行なったことを覚えていたのでしょう,「どんな権威でこうしたことをするのか。そして,だれがあなたにこの権威を与えたのか」とイエスに挑みます。
イエスは答えてこう言われます。「わたしも,あなた方に一つのことを尋ねます。あなた方がわたしにそれを言うなら,わたしもあなた方に,どんな権威でわたしがこれらのことを行なうかを言いましょう。ヨハネによるバプテスマ,それはどこから出たものでしたか。天からでしたか,それとも人からでしたか」。
祭司と年長者たちは,どのように答えるべきかを相談しはじめます。「我々が,『天から』と言えば,彼は,『では,なぜ彼を信じなかったのか』と言うだろう。だが,『人から』と言えば,我々にとっては群衆が怖い。彼らは皆ヨハネを預言者と見ているからだ」。
宗教指導者たちは何と答えればよいか分かりません。それで彼らはイエスに,「わたしたちは知らない」と答えます。
そこでイエスは「わたしも,どんな権威で自分がこれらのことを行なうかを,あなた方には言いません」と返答されます。 マタイ 21:19-27。マルコ 11:19-33。ルカ 20:1-8。
■ ニサン11日の火曜日は,どんな重要な日ですか。
■ イエスはいちじくの木を枯らしたとき,どんな教訓をお与えになりましたか。
■ イエスはどんな権威で物事を行なうかについて尋ねた人々に,どのようにお答えになりましたか。
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ぶどう園の例えによって正体をあばくこれまでに生存した最も偉大な人
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106章
ぶどう園の例えによって正体をあばく
イエスは神殿におられます。だれの権威で物事を行なうのかを言うようにと迫った宗教指導者たちをろうばいさせたところです。イエスは,宗教指導者たちがどぎまぎしている間に,「あなた方はどう考えますか」とお尋ねになります。それから例えによって,彼らが実際にはどんな人間かを示されます。
イエスはこう語られます。「ある人に二人の子供がいました。彼は一番目の者のところに行って,『子供よ,今日,ぶどう園に行って働きなさい』と言いました。この者は答えて,『行きます,父上』と言いましたが,出かけて行きませんでした。二番目の者に近づいて,彼は同じことを言いました。この者は答えて,『行きません』と言いました。後ほど彼は後悔して出かけて行きました」。「この二人のうち,どちらが父の意志を行ないましたか」と,イエスはお尋ねになります。
「後の者です」と反対者たちは答えます。
そこでイエスは,「あなた方に真実に言いますが,収税人や娼婦たちがあなた方より先に神の王国に入りつつあるのです」と説明されます。収税人や娼婦たちは,初めのうちは神に仕えることを事実上拒んでいました。しかし,二番目の子供のように後悔して,実際神に仕えました。一方,宗教指導者たちは,一番目の子供のように,神に仕えると公言していましたが,イエスは彼らについてこう言われます。『[バプテスマを施す人]ヨハネが義の道をもってあなた方のところに来たのに,あなた方は彼を信じませんでした。ところが,収税人や娼婦たちは彼を信じました。あなた方は,それを見ながら,あとから後悔して彼を信ずるようにはなりませんでした』。
イエスは次に,これら宗教指導者の失敗が,単に神への奉仕を怠っているという点だけにあるのではないことを示されます。彼らは実際に邪悪でよこしまな者たちなのです。イエスはこう語られます。「ある人,つまり家あるじがいました。その人はぶどう園を設け,その周りに柵を巡らし,その中にぶどうの搾り場を掘り,塔を立て,それを耕作人たちに貸し出して,外国へ旅行に出ました。実りの季節が巡って来たとき,彼は自分の実りを得ようとして耕作人のもとに奴隷たちを派遣しました。ところが,耕作人たちは彼の奴隷たちを捕まえ,ひとりを打ちたたき,もうひとりを殺し,もうひとりを石打ちにしました。彼は再びほかの奴隷を最初より大ぜい派遣しました。しかし彼らはこれらにも同じことをしたのです」。
「奴隷たち」とは,「家あるじ」であるエホバ神がご自分の「ぶどう園」の「耕作人たち」のもとにお遣わしになった預言者たちのことでした。耕作人とは,イスラエル国民を代表する,主立った人たちのことで,聖書は,イスラエル国民が神の「ぶどう園」であることを明らかにしています。
イエスはこう説明されます。「耕作人たち」が「奴隷たち」を虐待して殺してしまったので,「最後に彼[ぶどう園の持ち主]は,『わたしの息子なら尊敬するだろう』と言って,自分の息子を彼らのもとに派遣しました。その息子を見ると,耕作人たちは互いに言いました,『これは相続人だ。さあ,こいつを殺してその相続財産を手に入れよう!』そうして彼を捕まえ,ぶどう園から追い出して殺してしまったのです」。
ここでイエスは宗教指導者たちに,「それで,ぶどう園の持ち主が来るとき,これらの耕作人をどうするでしょうか」とお尋ねになります。
宗教指導者たちは,「その者たちは悪らつですから,惨めな滅びをもたらし,そのぶどう園をほかの耕作人たち,納めるべき時に実りを納める者たちに貸し出すでしょう」と答えます。
こうして宗教指導者たちは,それとは知らずに自分自身に裁きを宣告します。彼らも,エホバが所有しておられたイスラエル国民という「ぶどう園」で働く,イスラエル人の「耕作人たち」の一部だからです。エホバはそのような耕作人たちに,真のメシアであるみ子への信仰という実りを納めるよう期待しておられます。彼らはそのような実を実らせていないので,イエスはこう警告されます。「あなた方は聖書[詩編 118編22節と23節]の中で読んだことがないのですか。『建築者たちの退けたその石が主要な隅石となった。これはエホバから生じたのであり,わたしたちの目には驚嘆すべきものである』とあるのです。このゆえにあなた方に言いますが,神の王国はあなた方から取られ,その実を生み出す国民に与えられるのです。また,この石の上に落ちる人は粉々になるでしょう。これがその上に落ちる人は,みじんに砕かれるでしょう」。
書士や祭司長たちは,自分たちのことが言われているのに気づき,義にかなった「相続人」であるイエスを殺そうとします。そのため,神の王国の支配者となる特権は,一国民としてのイスラエル人から取られ,『ぶどう園の耕作人』となる新しい国民,ふさわしい実を生み出す国民が形成されます。
宗教指導者たちは,イエスを預言者だとみなしていた群衆を恐れ,この時にはイエスを殺そうとしません。 マタイ 21:28-46。マルコ 12:1-12。ルカ 20:9-19。イザヤ 5:1-7。
■ イエスの最初の例えに出て来る二人の子供は,だれを表わしていますか。
■ 二番目の例えの中の「家あるじ」,「ぶどう園」,「耕作人たち」,「奴隷たち」,そして「相続人」とは,それぞれだれのことですか。
■ 『ぶどう園の耕作人たち』はどうなりますか。彼らに代わってだれが耕作人になりますか。
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婚宴の例えこれまでに生存した最も偉大な人
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107章
婚宴の例え
イエスは二つの例えによって,書士や祭司長たちの正体を暴露されました。そのため,彼らはイエスを殺してやりたいと思います。しかし,イエスは糾弾をやめるどころかさらに別の例えを話し,こう言われます。
「天の王国は,自分の息子のために婚宴を設けた人,つまりそのような王のようになりました。彼は,婚宴に招いておいた者たちを呼ぶため,自分の奴隷たちを遣わしましたが,その者たちは来たがりませんでした」。
エホバ神は,み子イエス・キリストのために婚宴を準備された王でした。最後には,油そそがれた14万4,000人の追随者たちから成る花嫁が,天でイエスと結ばれることになります。王の臣民とはイスラエルの人々で,その国民は西暦前1513年に律法契約に導き入れられたとき,「祭司の王国」となる機会を与えられました。それで,婚宴への招待は,その時イスラエル人に最初に差し伸べられました。
とはいえ,招かれていた者たちへの最初の呼びかけは,西暦29年の秋にイエスと弟子たち(王の奴隷たち)が王国を宣べ伝える活動を始めるまでなされていませんでした。生来のイスラエル人たちは,西暦29年から33年にかけて奴隷たちが行なったこの呼びかけを聞きましたが,行こうとしませんでした。そこで神は,招かれた者たちから成る国民に,もう一度機会を与えました。イエスはこのように話されます。
「再びほかの奴隷たちを遣わそうとして言いました,『招いてある者たちにこう言いなさい。「ご覧なさい,わたしは正さんを整えました。わたしの雄牛と肥えた動物はほふられ,すべての用意ができました。婚宴に来てください」』」。招いておいた者たちに対するこの二度目の,そして最後の呼びかけは,西暦33年のペンテコステの日に聖霊がイエスの追随者たちの上に注ぎ出された時に始まりました。今回の呼びかけは西暦36年まで続きました。
しかし,イスラエル人の大多数は,この招待をはねつけました。イエスはこう語られます。「ところが,彼らは無関心で,ある者は自分の畑に,別の者は自分の商売に出かけて行きました。しかし,ほかの者は,その奴隷たちを捕まえて不遜に扱い,それを殺してしまいました」。イエスは続けて,「そこで王は憤り,自分の軍隊を送ってそれら殺人者たちを滅ぼし,彼らの都市を焼きました」と言われます。このことは西暦70年に生じました。その年にエルサレムはローマ軍に敗れて破壊され,それら殺人者たちは殺されてしまいました。
さらにイエスは,その間に起きたことを説明されます。「それから[王]は自分の奴隷たちに言いました,『婚宴はたしかに用意ができているのだが,招いておいた者たちはそれに値しなかった。それゆえ,市外に通ずる道路に行き,だれなりとあなた方の見つける者を婚宴に招きなさい』」。奴隷たちはそのとおりにしたので,「婚礼の部屋は食卓について横になる者たちでいっぱいになりました」。
招いておいた者たちが住んでいた市の外の道路から客を集める業は,西暦36年に始まりました。ローマ軍の士官コルネリオとその家族は,割礼を受けていない非ユダヤ人の中から集められた最初の人たちでした。最初の招きを断わった人々の代わりとして,このような非ユダヤ人を集めることは,20世紀に至るまで続けられてきました。
婚宴の部屋がいっぱいになったのは,20世紀になってからのことです。イエスはその後起こることについて,こう述べておられます。「王が客を見回るために入って来たとき,結婚式の衣をまとっていない人をそこに見つけました。それでその人に言いました,『君,結婚式の衣を着けずにどうしてここに入って来たのか』。その人は何も言えなくなりました。そこで王は僕たちに言いました,『その手足を縛って彼を外の闇に投げ出しなさい。そこで彼は泣き悲しんだり歯ぎしりしたりするであろう』」。
結婚式の衣をまとっていない人は,キリスト教世界の偽のクリスチャンを表わしています。神はこれらの人々が,霊的なイスラエル人としてそれにふさわしい身分証明を持っているとご覧になったことはありませんでした。聖霊により,王国の相続人として彼らに油をそそがれたこともありませんでした。それで,偽クリスチャンたちは外の闇に投げ出され,そこで滅ぼされます。
イエスは,「招かれる者は多いが,選ばれる者は少ないのです」と述べて,例えを締めくくられます。キリストの花嫁の成員になるため,イスラエル国民から多くの者たちが招かれましたが,生来のイスラエル人で選ばれた人はほんのわずかでした。天で報いを受ける14万4,000人の客たちは,ほとんど非イスラエル人です。 マタイ 22:1-14。出エジプト記 19:1-6。啓示 14:1-3。
■ 初めに婚宴に招かれた人たちはだれですか。彼らがこの招待を受けたのはいつでしたか。
■ 招待された人への最初の呼びかけは,いつなされましたか。それを伝えるために用いられた奴隷たちとはだれでしたか。
■ 二度目の呼びかけは,いつなされましたか。その後だれが招待されましたか。
■ 結婚式の衣をまとっていない人は,だれを表わしていますか。
■ 招かれた多くの者とはだれですか。選ばれた少数の者とはだれですか。
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イエスをわなにかけ損なうこれまでに生存した最も偉大な人
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108章
イエスをわなにかけ損なう
イエスは神殿でずっと教え続けておられ,宗教上の敵たちの邪悪さを暴く三つの例えを語られたところです。それでパリサイ人たちは憤り,イエスをわなにかけて,イエスを捕まえる口実となるようなことを何か言わせようと相談します。パリサイ人たちは悪だくみを考え出し,自分たちの弟子をヘロデの党派的追随者と共に遣わして,イエスのあげ足を取ろうとします。
その男たちはこう言います。「師よ,わたしどもは,あなたが真実な方で,神の道を真実をもってお教えになることを知っております。そしてあなたはだれをも気にされません。人の外見をご覧にならないからです。それで,どうお考えになるか,わたしどもにお話しください。カエサルに人頭税を払うことはよろしいでしょうか,よろしくないでしょうか」。
イエスはこのようなお世辞にだまされたりはなさいません。イエスはもし自分が『それはよくない。この税金を払うのは,よいことでも正しいことでもない』と答えれば,ローマに対する扇動罪になるのをご存じです。しかし,もし『この税金は払うべきです』と言えば,ローマの支配下に置かれていることを快く思っていないユダヤ人たちはイエスを憎むでしょう。それでイエスは,「なぜあなた方はわたしを試すのですか,偽善者たちよ。人頭税の硬貨をわたしに見せなさい」とお答えになります。
彼らが一枚の硬貨を持って来ると,イエスは「これはだれの像と銘刻ですか」とお尋ねになります。
「カエサルのです」と彼らは答えます。
「それでは,カエサルのものはカエサルに,しかし神のものは神に返しなさい」。これらの男たちは,イエスの見事な答えを聞いて驚嘆します。そしてイエスを残して去って行きます。
パリサイ人がイエスに言いがかりをつけようとして失敗したのを見ると,復活などはないと言うサドカイ人たちがイエスに近づき,こう質問します。「師よ,モーセは,『人が子供を持たずに死ぬならば,その兄弟が彼の妻をめとって,自分の兄弟のために子孫を起こさねばならない』と言いました。さて,わたしたちのところに七人兄弟がいました。そして一番目の者は結婚して死亡し,子孫がなかったので,妻を自分の兄弟に残しました。二番目,三番目の者も,ついには七人全部が同じようになりました。みんなの最後にその女も死にました。そうすると,復活の際,彼女はその七人のうちだれの妻なのでしょうか。みんなが彼女を得たのですから」。
イエスは答えてこう言われます。「あなた方が聖書も神の力も知らないこと,これがあなた方の間違っている理由ではありませんか。死人の中からよみがえるとき,男はめとらず,女も嫁ぎません。天にいるみ使いたちのようになるのです。しかし,死んだ者たち,すなわち彼らがよみがえらされることに関しては,モーセの書の中,いばらの茂みに関する記述の中で,神が彼にどのように言われたかを,あなた方は読まなかったのですか。『わたしはアブラハムの神,イサクの神,ヤコブの神である』と言われたのです。この方は,死んだ者の神ではなく,生きている者の神なのです。あなた方は大いに間違っています」。
群衆は再びイエスの答えに驚き入ります。幾人かの書士でさえも,「師よ,よくぞ言われました」と言います。
イエスがサドカイ人を沈黙させたのを見たパリサイ人たちは,一団となってイエスのところにやって来ます。そのうちの一人の書士はイエスをさらに試そうとして,「師よ,律法の中で最大のおきてはどれですか」と尋ねます。
イエスはこう答えられます。「第一は,『聞け,イスラエルよ,わたしたちの神エホバはただひとりのエホバであり,あなたは,心をこめ,魂をこめ,思いをこめ,力をこめてあなたの神エホバを愛さねばならない』。第二はこうです。『あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない』。これらより大きなおきてはほかにありません」。事実,イエスはこう付け加えられます。「律法全体はこの二つのおきてにかかっており,預言者たちもまたそうです」。
その書士はイエスと同感であることをこのように言い表わします。「師よ,『神はただひとりであり,そのほかにはいない』と,真理に即してよくぞ言われました。そして,この,心をこめ,理解力をこめ,力をこめて神を愛すること,また,隣人を自分自身のように愛するこのことは,全焼燔の捧げ物と犠牲全部よりはるかに価値があります」。
イエスはこの書士がそう明な答えを出したことを認め,「あなたは神の王国から遠くありません」と言われます。
イエスはすでに三日間 ― 日曜日,月曜日,そして火曜日 ― 神殿で教えておられます。人々は喜んでイエスの話に耳を傾けますが,いらだった宗教指導者たちはイエスを殺そうとします。しかし今までのところでは,彼らの試みは失敗に終わっています。 マタイ 22:15-40。マルコ 12:13-34。ルカ 20:20-40。
■ パリサイ人はイエスをわなにかけるために,どんな悪だくみを考え出しますか。もしイエスが,よろしいとかよろしくないとか答えたなら,どうなりますか。
■ どのようにイエスは,わなにかけようとするサドカイ人の企てを巧みにくじかれますか。
■ パリサイ人は,イエスをさらにどんな仕方で試そうとしますか。結果はどうなりますか。
■ イエスはエルサレムにおける最後の宣教中に,何日間神殿で教えられますか。それはどんな影響を及ぼしますか。
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イエスは反対者たちを公然と非難するこれまでに生存した最も偉大な人
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109章
イエスは反対者たちを公然と非難する
イエスが宗教上の反対者たちを徹底的に論破したので,彼らは恐れを感じそれ以上は何も質問しません。そこでイエスはご自分のほうから,彼らが無知であることを暴かれます。「あなた方はキリストについてどう考えますか。彼はだれの子ですか」とお尋ねになります。
「ダビデの子です」とパリサイ人は答えます。
イエスは,キリストつまりメシアの肉の祖先がダビデであることは否定されませんが,こう質問されます。「では,どうしてダビデは,霊感によって[詩編 110編で]彼を『主』と呼び,『エホバはわたしの主に,「わたしがあなたの敵たちをあなたの足の下に置くまで,わたしの右に座っていなさい」と言われた』と言っているのですか。それで,ダビデが彼を『主』と呼んでいるのであれば,どうして彼の子でしょうか」。
パリサイ人たちは,キリスト,つまり油そそがれた者が実際にはどんな人であるかを知らないので黙っています。パリサイ人はメシアを単なるダビデの人間の子孫と考えていたようですが,そうではなく,メシアは以前から天で存在しておられ,ダビデより上位の方,すなわち主でした。
イエスはここで群衆と弟子たちのほうを向き,書士やパリサイ人について警告されます。イエスは,これらの者たちが神の律法を教え,「モーセの座に座って」いるゆえに,「彼らがあなた方に告げることはみな行ない,また守りなさい」と勧められます。しかしイエスはさらに,「その行ないに倣ってはなりません。彼らは言いはしますが,実行しないからです」と言われます。
彼らは偽善者です。ですからイエスは,何か月か前にあるパリサイ人の家で食事をしていた時に話されたような口調で,彼らを公然と非難されます。イエスは,「すべてその行なう業は人に見せようとしてするのです」と言われ,幾つかの例を挙げられます。
『彼らは,お守りとして身に着ける聖句入れの幅を広げます』。聖句入れは比較的小さな箱で,額か腕に付けます。その中には律法の四つの部分,すなわち出エジプト記 13章1節から10節と11節から16節,申命記 6章4節から9節と11章13節から21節が入っています。しかしパリサイ人たちは,自分たちが律法に対して熱心であることを印象づけるために,この箱を大きくしています。
イエスは続けて,彼らは「衣の房べりを大きくしている」と言われます。民数記 15章38節から40節で,イスラエル人たちは衣に房べりを付けるように命じられていますが,パリサイ人たちはほかのだれよりも大きな房べりを付けていました。何もかも人に見せるためなのです。『彼らは最も目立つ場所を好みます』とイエスははっきり言われます。
残念なことにイエスの弟子たちも,目立ちたいというこの欲望の影響を受けています。そこでイエスはこう諭されます。「しかしあなた方は,ラビと呼ばれてはなりません。あなた方の教師はただ一人であり,あなた方はみな兄弟だからです。また,地上のだれをも父と呼んではなりません。あなた方の父はただ一人,天におられる方だからです。また,『指導者』と呼ばれてもなりません。あなた方の指導者はキリスト一人だからです」。弟子たちは一番でありたいという欲望を捨てなければならないのです。イエスはこう訓戒されます。「あなた方の間で一番偉い者は,あなた方の奉仕者でなければなりません」。
次にイエスは書士やパリサイ人に対して,一連の災いを宣告され,彼らを繰り返し偽善者と呼ばれます。イエスは彼らが,『人の前で天の王国を閉ざし』,「やもめたちの家を食い荒らし,見せかけのために長い祈りをする者たち」であると言われます。
イエスは,「盲目の案内人よ,あなた方は災いです」と言われます。そしてパリサイ人が霊的価値観に欠けている点を非とされます。彼らが自分勝手な区別を設けているということはそのことを示す証拠です。例えばパリサイ人は,「神殿にかけて誓っても,それは何のことはない。しかし,神殿の金にかけて誓うなら,その者には務めがある」と言います。彼らはその崇拝の場所の霊的な価値よりも神殿の金に重きを置いて,自分たちが道徳的に盲目であることを示しているのです。
それからイエスは,以前にされたと同じように,パリサイ人がさほど重要でない植物の什一,または十分の一を支払うことに非常に注意深くありながら,「律法のより重大な事柄,すなわち公正と憐れみと忠実」を無視していると非難されます。
イエスはパリサイ人を,「盲目の案内人,ぶよは濾し取りながら,らくだを呑み込む者たち」と呼ばれます。パリサイ人たちがぶどう酒からぶよを濾し取るのは,それが虫だからというだけではなく,ぶよが儀式上汚れたものであるからです。しかし,彼らが律法のより重大な事柄を無視するのは,やはり儀式上汚れた動物であるらくだを呑み込むのに似ています。 マタイ 22:41-23:24。マルコ 12:35-40。ルカ 20:41-47。レビ記 11:4,21-24。
■ イエスが詩編 110編でダビデが述べたことについて質問する時,なぜパリサイ人たちは黙ってしまいますか。
■ パリサイ人たちが聖句入れや衣の房べりを大きくしているのはなぜですか。
■ イエスは弟子たちにどんな諭しをお与えになりますか。
■ パリサイ人はどんな区別を自分たちで勝手に設けていますか。イエスは,彼らがより重大な事柄を無視していることをどのように非難されますか。
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神殿での宣教を終えるこれまでに生存した最も偉大な人
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110章
神殿での宣教を終える
イエスが神殿に姿を現わされるのは,これが最後です。事実イエスは,三日後の裁判と処刑の際の出来事は別として,地上での公の宣教をこれで終えようとしておられます。イエスは書士やパリサイ人たちを引き続きけん責されます。
イエスは大きな声でさらに3回,「偽善者なる書士とパリサイ人たち,あなた方は災いです!」と言われます。イエスはまず最初に,彼らが「杯と皿の外側は清めますが,その内側は強奪と節度のなさとに満ちている」という理由で彼らに災いを宣言されます。それで,「杯と皿の内側をまず清め,それによって外側も清くなるようにしなさい」と訓戒されます。
次にイエスは,書士やパリサイ人たちが,敬虔そうに見せかけて内側の堕落や腐敗を隠そうとしているため,彼らは災いだと言われます。「あなた方は白く塗った墓に似ているからです。それは,外面はなるほど美しく見えますが,内側は死人の骨とあらゆる汚れに満ちているのです」。
最後の点として,書士やパリサイ人たちの偽善は,彼らが自ら進んで預言者たちの墓を建て,それを飾りつけて自分自身の慈善行為に人々の注意を引こうとしているのを見れば明らかです。しかし彼らは,イエスが暴露されたように,「預言者たちを殺害した者たちの子」なのです。事実,彼らの偽善をあえて暴こうとする人はだれでも,身を危険にさらすことになります。
イエスは続けて,最も強烈な言葉で非難されます。「蛇よ,まむしらの子孫よ,どうしてあなた方はゲヘナの裁きを逃れられるでしょうか」。ゲヘナとはエルサレムのごみ捨て場として使われていた谷でした。ですからイエスは,書士やパリサイ人たちが邪悪な道を追い求めているために永遠の滅びに至ることを述べておられるのです。
イエスの代理として遣わされる者についてはこう言われます。「あなた方はそのうちのある者を殺して杭につけ,ある者を会堂でむち打ち,都市から都市へと迫害するでしょう。こうして,義なるアベルの血から,あなた方が聖なる所と祭壇の間で殺害した,バラキヤ[歴代誌第二ではエホヤダと呼ばれている]の子ゼカリヤの血に至るまで,地上で流された義の血すべてがあなた方に臨むのです。あなた方に真実に言いますが,これらのことすべてはこの世代に臨むでしょう」。
ゼカリヤはイスラエルの指導者たちを激しく責めたので,「人々は彼に対して陰謀を企て,エホバの家の中庭で王の命令により彼を石撃ちに」しました。しかしイエスが予告されたとおり,イスラエルは流された義なる者の血すべてに対してその代価を支払うことになるでしょう。37年後の西暦70年にローマ軍がエルサレムと100万人以上のユダヤ人を滅ぼすとき,彼らはその代価を支払うことになります。
イエスはこの恐ろしい状況を考えて嘆かれ,再びはっきりとこう言われます。「エルサレム,エルサレム,……わたしは幾たびあなたの子供たちを集めたいと思ったことでしょう。めんどりがそのひなを翼の下に集めるかのように。しかし,あなた方はそれを望みませんでした。見よ,あなた方の家はあなた方のもとに見捨てられています」。
イエスはさらに,「『エホバのみ名によって来るのは祝福された者!』と言うときまで,あなた方は今後決してわたしを見ないでしょう」と言われます。それはキリストの臨在の日であり,その時イエスは天の王国を受け,人々は信仰の目でイエスを見るのです。
さて,イエスは神殿の宝物庫の箱と,群衆がそこにお金を入れる様子が見える場所に移動されます。富んだ人はたくさんの硬貨を入れています。しかしそこにひとりの貧しいやもめがやって来て,価のごくわずかな小さな硬貨二つを入れます。
イエスは弟子たちを呼び,「あなた方に真実に言いますが,この貧しいやもめは,宝物庫の箱にお金を入れているあの人たち全部よりたくさん入れたのです」と言われます。弟子たちは,どうしてそうなのか疑問に思ったに違いありません。それでイエスはこう説明されます。「彼らはみな自分の余っている中から入れましたが,彼女は,その乏しい中から,自分の持つもの全部,その暮らしのもとをそっくり入れたからです」。イエスはこれらのことを話されてから,これを最後に神殿を後にされます。
イエスの弟子の一人は神殿の大きさや美しさに驚嘆し,「師よ,ご覧ください,何という石,それに何という建物なのでしょう」と叫びます。実にその石の長さは10㍍以上,幅は4㍍以上,高さは3㍍以上もあるということです。
イエスは答えて,「あなたはこれらの大きな建物に見入っているのですか。石がこのまま石の上に残されて崩されないでいることは決してないでしょう」と言われます。
これらの話を終えてから,イエスと弟子たちはキデロンの谷を渡り,オリーブ山に登ります。ここからは,壮麗な神殿を見下ろすことができます。 マタイ 23:25-24:3。マルコ 12:41-13:3。ルカ 21:1-6。歴代第二 24:20-22。
■ イエスは最後に神殿を訪れている間に,何をなさいますか。
■ 書士やパリサイ人たちの偽善は,どのように明らかになっていますか。
■ 「ゲヘナの裁き」にはどんな意味がありますか。
■ イエスが,やもめは富んだ人よりたくさん寄付したと言われるのはなぜですか。
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終わりの日のしるしこれまでに生存した最も偉大な人
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111章
終わりの日のしるし
いまはもう火曜日の午後です。イエスがオリーブ山の上で腰を下ろし,下に見える神殿を眺めておられると,ペテロ,アンデレ,ヤコブ,それにヨハネが自分たちだけでやって来ます。石が一つとしてこのまま石の上に残されることはないとイエスが予告されたばかりなので,彼らは神殿のことが気がかりなのです。
しかし,彼らはそれ以外の考えもあってイエスのところに来ているようです。数週間前にイエスは,ご自分の「臨在」について語られましたが,この臨在期間中に『人の子は表わし示される』ことになっています。またこのことを語られる以前には,「事物の体制の終結」について彼らに話しておられました。ですから,使徒たちはそのことが非常に知りたいわけです。
「わたしたちにお話しください。[エルサレムとその神殿が滅びる結果になる]そのようなことはいつあるのでしょうか。そして,あなたの臨在と事物の体制の終結のしるしには何がありますか」と,彼らは言います。彼らの質問には事実上三つの点が含まれています。彼らはまず,エルサレムとその神殿の終わりについて,次に王国の権能を帯びたイエスの臨在に関して,そして最後に事物の体制全体の終わりについて知りたいと思っています。
そこでイエスは,長い話をしてそれら三つの質問すべてにお答えになり,ユダヤ人の事物の体制が終わる時を明らかにするしるしをお与えになりますが,それだけではありません。イエスはさらに,未来の弟子たちが,イエスの臨在期間中に,また事物の体制全体の終わりの時に住んでいるということを悟れるように,彼らへの警告となるしるしをお与えになります。
年月がたつにつれ,使徒たちはイエスの預言の成就を見ます。そうです,イエスが予告されたとおりの事が彼らの時代に起き始めるのです。したがって,37年後の西暦70年に生きているクリスチャンたちは,ユダヤ人の体制とその神殿が滅びるときに不意を突かれることはありません。
しかし,キリストの臨在と事物の体制の終結は,西暦70年には起こりません。王国の力を帯びたキリストの臨在はずっと後のことです。しかし,それはいつになるのでしょうか。イエスの預言を調べるなら,その答えが分かります。
イエスは,「戦争のこと,また戦争の知らせ」があることを予告します。『国民は国民に敵対して立ち上がり』,食糧不足や地震や疫病もあるでしょうと言われます。イエスの弟子たちは憎まれ,殺されます。偽預言者たちが起こって,多くの者を惑わします。不法が増し,大半の者の愛が冷えます。同時に,神の王国の良いたよりは,あらゆる国民に対する証しとして宣べ伝えられます。
イエスの預言は,西暦70年にエルサレムが滅びる前に限られた成就を見ましたが,そのおもな成就は,イエスが臨在される,そして事物の体制が終結する期間に見られます。1914年以降の世界の出来事を注意深く振り返ってみると,イエスの重要な預言はその年以降おもな成就を見ていることがはっきり分かります。
イエスがお与えになるしるしの別の部分は,「荒廃をもたらす嫌悪すべきもの」が現われることです。この嫌悪すべきものは西暦66年に,ローマの「野営を張った軍隊」という形で現われます。このローマの軍隊はエルサレムを包囲し,神殿の城壁の下を掘ります。「嫌悪すべきもの」は本来立つべきでない所に立っています。
このしるしのおもな成就における嫌悪すべきものは,国際連盟とその後身である国際連合です。キリスト教世界はこの世界平和のための機構を神の王国に代わるものとみなしているのです。何と嫌悪すべきことでしょう! ですから,やがて,国連とかかわりを持つ政治勢力はキリスト教世界(対型的なエルサレム)に急に襲いかかり,彼女を荒廃させるでしょう。
そのためイエスは,「世の初めから今に至るまで起きたことがなく,いいえ,二度と起きないような大患難がある」と予告されます。100万人を超える死者が出たと言われる西暦70年のエルサレムの滅びは確かに大患難でしたが,それはノアの日に起きた全地球的な洪水をしのぐ規模の患難ではありません。それで,イエスの預言のこの部分のおもな成就はこれから見られるはずです。
終わりの日における確信
ニサン11日火曜日も終わりに近づきますが,イエスは使徒たちと,王国の権能を伴うご自分の臨在と事物の体制の終結のしるしについて引き続き話し合っておられます。イエスは,偽キリストのあとを追わないようにと使徒たちに警告なさいます。そして,『できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうとする』企てがあると言われます。しかし,これらの選ばれた者たちは,遠目の利く鷲のように,真の霊的な食物が見いだされるところ,つまり本物のキリストが目に見えない様で臨在しておられるところに集まります。彼らが惑わされて偽キリストのもとに集まることはありません。
偽キリストは目に見える様で姿を現わせるにすぎません。それとは対照的に,イエスの臨在は目に見えません。イエスが,『太陽は暗くなり,月はその光を放たない』と言われているとおり,それは人類史の中で恐るべき時代に起きるでしょう。そうです,これは人類が存在するようになって以来最も暗い期間となるのです。あたかも太陽が日中に暗くなり,月が夜間に光を放たないかのようです。
さらにイエスは,「天のもろもろの力は揺り動かされるでしょう」と述べて,文字通りの天が不吉な様相を帯びるようになることを示唆されます。天は単に鳥だけの領域ではなく,戦闘機やロケットや宇宙探査機が飛び交うところとなります。恐れと暴力は,それまでの人類史でかつてなかったほど恐ろしいものになります。
その結果,「海のとどろきとその動揺のゆえに逃げ道を知らない諸国民の苦もんがあるでしょう。同時に人々は,人の住む地に臨もうとする事柄への恐れと予想から気を失います」と,イエスは言われます。実際,人間が存在して以来最も暗いこの期間は,イエスが言われるように,『人の子のしるしが天に現われ,地のすべての部族が嘆きのあまり身を打ちたたく』時へと至るのです。
しかし,「人の子」がこの邪悪な事物の体制を滅ぼすために『力を伴って』来るときに,すべての人が嘆くわけではありません。「選ばれた者たち」,つまり天の王国でキリストと共になる14万4,000人は嘆きません。また,彼らの仲間で,イエスが以前にご自分の「ほかの羊」と呼ばれた人々も嘆きません。これらの人々は,人類史上最も暗い期間に生きてはいますが,「これらの事が起こり始めたら,あなた方は身をまっすぐに起こし,頭を上げなさい。あなた方の救出が近づいているからです」というイエスの励ましの言葉にこたえ応じます。
イエスは,終わりの日に住むご自分の弟子たちが終わりの近いことを見分けられるように,次の例えを話されます。「いちじくの木やほかのすべての木をよく見なさい。それらが既に芽ぐんでいれば,あなた方はそれを観察して,もう夏の近いことを自分で知ります。このように,あなた方はまた,これらの事が起きているのを見たなら,神の王国の近いことを知りなさい。あなた方に真実に言いますが,すべての事が起こるまで,この世代は決して過ぎ去りません」。
したがってイエスの弟子たちは,しるしの様々な特色が成就するのを見るとき,事物の体制の終わりが近いこと,また神の王国が間もなくあらゆる悪を一掃することを悟るべきです。実のところ,その終わりは,イエスの予告された事柄すべてが成就するのを見る人々の生涯中に生じるのです。イエスは,非常に重大な終わりの日に生きる弟子たちへの訓戒として次のように語られます。
「食べ過ぎや飲み過ぎまた生活上の思い煩いなどのためにあなた方の心が押しひしがれ,その日が突然,わなのように急にあなた方に臨むことがないよう,自分自身に注意を払いなさい。それは,全地の表に住むすべての者に臨むからです。それで,起きることが定まっているこれらのすべての事を逃れ,かつ人の子の前に立つことができるよう,常に祈願をしつつ,いつも目ざめていなさい」。
賢い処女と愚かな処女
イエスは,使徒たちの求めに応じて,王国の権能を行使するご自分の臨在のしるしについて答えてこられましたが,今度はそのしるしの特徴についてさらに詳しく,三つのたとえ話,すなわち例えを使って説明されます。
それぞれの例えの成就を見ることができるのは,イエスの臨在中に生きている人々です。イエスは最初の例えをこのように話し出されます。「その時,天の王国は,自分のともしびを持って花婿を迎えに出た十人の処女のようになります。そのうち五人は愚かで,五人は思慮深い者でした」。
『天の王国は,十人の処女のようになります』というイエスの表現は,天の王国を受け継ぐ人の半数が愚かな人で,半数が思慮深い人であるという意味ではありません。むしろイエスは,天の王国に関連してこれこれの特徴がある,あるいは,王国に関連した物事はこのようになると言っておられるのです。
十人の処女は,天の王国に入る見込みのあるクリスチャン,もしくは見込みがあると自称するクリスチャンすべてを表わしています。クリスチャン会衆が,復活され,栄光をお受けになった花婿イエス・キリストの花嫁として迎えられるという約束を得たのは,西暦33年のペンテコステの時でした。しかしその婚礼は,将来のいつか天で行なわれることになっていました。
例えの中で,この十人の処女は花婿を迎えるため,また結婚式の行列に加わる目的で出かけてゆきます。花婿が到着するとき,処女たちはともしびで行列の進む道を照らします。そのようにして処女たちは,花婿が用意しておいた家に花嫁を連れて行く際に花婿に敬意を表わすのです。しかしイエスはこう説明されます。「愚かな者たちは自分のともしびを持ちましたが,油を携えていかず,一方,思慮深い者たちは,自分のともしびと共に,油を入れ物に入れて持って行きました。花婿が遅れている間に,彼女たちはみな頭を垂れて眠り込んでしまいました」。
花婿がかなり遅れたことは,支配する王としてのキリストの臨在が遠い将来であることを示しています。キリストは1914年についに王位に就かれます。しかしそれまでの長い夜の間に,処女たちはみな眠り込んでしまいます。しかし,彼女たちはこのことではとがめられていません。愚かな処女たちがとがめられているのは,油を入れ物に入れて持って行かなかったことです。イエスは,花婿が到着する前に,処女たちがどのように目を覚ますかをこう説明しておられます。「真夜中に,『さあ,花婿だ! 迎えに出なさい』という叫び声が上がりました。そこで,それらの処女はみな起きて,自分のともしびを整えました。愚かな者たちは思慮深い者たちに言いました,『あなた方の油を分けてください。わたしたちのともしびはいまにも消えそうですから』。思慮深い者たちはこう答えました。『わたしたちとあなた方に足りるほどはないかもしれません。むしろ,油を売る者たちのところに行って,自分のために買いなさい』」。
この油は,世を照らす者である真のクリスチャンを輝かせ続けるものを象徴しています。これはクリスチャンがしっかり把握している,霊感を受けて書かれた神の言葉であり,またその言葉を彼らが理解できるように助ける聖霊でもあります。この霊的な油により,思慮深い処女たちは婚宴への行列が続く間,花婿を歓迎する光を輝かせることができるのです。しかし愚かな処女級は,自分自身の中,つまり自分の入れ物の中に,必要な霊的な油を持っていません。そこでイエスは何が起きるかをこう描写されます。
「[愚かな処女たち]が[油を]買いに行っている間に花婿が到着し,用意のできていた処女たちは,婚宴のため彼と共に中に入りました。それから戸が閉められたのです。後に,残りの処女たちも来て,『だんな様,だんな様,開けてください』と言いました。彼は答えて言いました,『あなた方に真実を言いますが,わたしはあなた方を知りません』」。
キリストがご自分の天の王国に到着されると,油そそがれた真のクリスチャンたちから成る思慮深い処女級は,戻って来られた花婿をたたえて,この暗い世で光を輝かせる特権に目覚めます。しかし愚かな処女によって表わされていた者たちは,こうした歓迎の賛美を行なう用意ができていません。それでキリストは,定めの時が来ても,彼らに対しては天における婚宴への扉を開かれません。イエスは彼らをこの世の深夜の外の闇の中にほうっておかれ,やがて不法を働く者たちすべてと共に滅ぼされます。結論としてイエスは,「それゆえ,ずっと見張っていなさい。あなた方は,その日もその時刻も知らないからです」と言われます。
タラントの例え
イエスはオリーブ山上で使徒たちと話し合いを続け,別の例えを語られます。これは連続して話される三つの例えの2番目のものです。数日前エリコにおられたとき,イエスは王国がまだ遠い将来のものであることを示すためにミナの例えを語られました。今イエスが話される例えはそれと同様な特色を幾つも備えていますが,その成就においては,王国の権能を持つキリストの臨在中に見られる活動を描いています。また,イエスの弟子たちがまだ地上にいる間に,『イエスの持ち物』を増やすために働く必要があることも示しています。
イエスはこのように話を始められます。「それ[つまり,王国に関連した状況]はちょうど,人が外国へ旅行に出るにあたり,奴隷たちを呼び寄せて,自分の持ち物をゆだねたときのようになるのです」。この人とはイエスのことです。イエスは天という外国へ旅行に出られる前にご自分の奴隷たち,つまり天の王国を受け継ぐ見込みのある弟子たちにご自分の持ち物をゆだねられます。この持ち物とは文字通りの所有物ではなく,イエスがさらに多くの弟子を生み出す可能性を植え込まれた,耕された畑を表わしていました。
イエスは昇天される直前に,ご自分の持ち物を奴隷たちにゆだねられます。どのようにゆだねるのですか。地の最も遠いところにまで王国の音信を宣べ伝えて,耕された畑で働き続けるよう奴隷たちに指示を与えることによってです。イエスが述べておられるように,「(その人は)ある者には五タラント,別の者には二タラント,さらに別の者には一タラントと,各自の能力に応じてひとりひとりに与えてから,外国に行きました」。
このように,キリストの持ち物である八タラントは奴隷たちの能力,もしくは霊的な可能性に応じて分配されます。この奴隷たちは,弟子たちの様々な級を表わしています。1世紀に五タラントを受けた級には,使徒たちが含まれていたことでしょう。イエスはさらに,五タラントおよび二タラントを受け取った弟子たちが,王国を宣べ伝え弟子を作る業によって各々の金額を2倍にしたことを話されます。しかし一タラントを受けた奴隷は,それを地中に隠しておきました。
イエスは続けて,「長い時を経たのち,その奴隷たちの主人が来て,彼らとの勘定を清算しました」と話されます。イエスが清算のために戻って来られたのは,およそ1,900年後の20世紀になってからでしたから,それは確かに「長い時を経たのち」でした。次いでイエスはこう説明されます。
「五タラントを受けていた者が進み出,追加の五タラントを差し出して,こう言いました。『ご主人様,わたしに五タラントをゆだねてくださいましたが,ご覧ください,わたしはさらに五タラントをもうけました』。主人は彼に言いました,『よくやった,善良で忠実な奴隷よ! あなたはわずかなものに忠実であった。わたしはあなたを任命して多くのものをつかさどらせる。あなたの主人の喜びに入りなさい』」。同様に,二タラントを受け取った奴隷も自分のタラントを2倍にしたので,同じ称賛の言葉と報いを受けました。
それにしても,これらの忠実な奴隷たちはどのように主人の喜びに入るのでしょうか。彼らの主人であるイエス・キリストの喜びとは,外国という天のみ父のもとに行ったときに王国の所有物を受け取るというものでした。現代の忠実な奴隷たちに関して言えば,彼らには王国の責任をさらにゆだねられるという大きな喜びがあり,地上での歩みを終えるときには,天の王国に復活させられるという喜びの最高潮を迎えます。では,三番目の奴隷についてはどうですか。
この奴隷は不満を表わし,『ご主人様,わたしは,あなたが手厳しい方であることを知っておりました。それでわたしは怖くなり,行って,あなたの一タラントを地中に隠しておきました。さあ,これはあなた様のものです』と言います。この奴隷は,宣べ伝えて弟子を作ることによって,耕された畑で働くことをわざと拒みました。それで主人は彼のことを『邪悪で無精な者』と呼び,裁きを宣告します。『彼からその一タラントを取り上げなさい。それで,この何の役にも立たない奴隷を外の闇に投げ出しなさい。そこで彼は泣き悲しんだり歯ぎしりしたりするであろう』。この邪悪な奴隷級の人々は,外に投げ出されるので,霊的な喜びを一切奪い去られます。
これはキリストの追随者を自認する人すべてにとって,厳粛な教訓となっています。もしそのような人々が主人から称賛の言葉と報いを得たいと思うなら,また外の闇と最終的な滅びに投げ込まれたくないなら,宣べ伝える業を十分に行なって天の主人の持ち物を増やすために働かなければなりません。この点であなたは絶えず努力しているでしょうか。
キリストが王国の権能をもって到来するとき
イエスはまだ使徒たちと共にオリーブ山上におられます。ご自分の臨在と事物の体制の終結のしるしに関する使徒たちの質問に答えて,今イエスは一連の三つの例えのうちの最後の例えを語られます。そして,「人の子がその栄光のうちに到来し,またすべてのみ使いが彼と共に到来すると,そのとき彼は自分の栄光の座に座ります」と話し始められます。
人間は,天の栄光のうちにあるみ使いたちを見ることはできません。それでみ使いたちを伴った,人の子イエス・キリストの到来も,人間の目には見えないに違いありません。この到来は1914年に起きますが,その目的は何でしょうか。イエスはこう説明されます。「すべての国の民が彼の前に集められ,彼は,羊飼いが羊をやぎから分けるように,人をひとりひとり分けます。そして彼は羊を自分の右に,やぎを自分の左に置くでしょう」。
イエスは,恵みを受ける側に分けられた者たちがどうなるかを説明して,こう述べられます。「それから王は自分の右にいる者たちにこう言います。『さあ,わたしの父に祝福された者たちよ,世の基が置かれて以来あなた方のために備えられている王国を受け継ぎなさい』」。この例えの羊はキリストと共に天で支配するのではなく,王国の地上の臣民になるという意味で,王国を受け継ぎます。『世の基が置かれること』は,アダムとエバが,人類を請け戻す神の備えから益を受けられる最初の子供たちを産んだときに生じました。
しかし,羊が王の恵みを受ける右に分けられるのはなぜですか。王はこう答えます。「わたしが飢えると,あなた方は食べる物を与え,わたしが渇くと,飲む物を与えてくれたからです。わたしがよそからの者として来ると,あなた方は温かく迎え,裸でいると,衣を与えてくれました。わたしが病気になると,世話をし,獄にいると,わたしのところに来てくれました」。
羊は地上にいるので,自分たちが天の王のためにそのような立派な行為をどのように行なうことができたのか知りたいと思います。そこで,「主よ,いつわたしたちは,あなたが飢えておられるのを見て食べ物を差し上げたり,渇いておられるのを見て飲む物を差し上げたりしたでしょうか。いつわたしたちは,あなたがよそからの人であるのを見て温かく迎えたり,裸なのを見て衣を差し上げたりしたでしょうか。いつわたしたちは,あなたが病気であったり獄におられたりするのを見てみもとに参りましたか」と尋ねます。
王は,「あなた方に真実に言いますが,これらわたしの兄弟のうち最も小さな者の一人にしたのは,それだけわたしに対してしたのです」と答えます。キリストの兄弟たちとは,天でイエスと共に支配することになる14万4,000人の,地上に残っている者たちです。イエスによれば,彼らに善を行なうのは,イエスに善を行なうことと同じなのです。
次に,王はやぎに向かって話されます。「のろわれた者たちよ,わたしから離れ,悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火に入りなさい。わたしが飢えても,あなた方は食べる物を与えず,渇いても,飲む物を与えてくれなかったからです。わたしがよそからの者として来ても,あなた方は温かく迎えず,裸でいても,衣を与えてくれませんでした。病気であったり獄にいたりしても,世話をしてくれませんでした」。
しかし,やぎは,「主よ,いつわたしたちは,あなたが飢え,渇き,よそからの人であり,裸であり,病気であり,あるいは獄におられるのを見て,あなたに仕えませんでしたか」と不服を言います。やぎは,羊が有利な裁きを受けたのと同じ根拠に基づいて,不利な裁きを受けます。イエスは,「[わたしの兄弟のうち]これら最も小さな者の一人にしなかったのは,それだけわたしに対してしなかったのです」とお答えになります。
それで,この邪悪な事物の体制が大患難で終わりを迎える直前に,王国の権能をもったイエスの臨在は裁きの時となるでしょう。やぎは「去って永遠の切断に入り,義なる者たち[羊]は永遠の命に入ります」。 マタイ 24:2-25:46; 13:40,49。マルコ 13:3-37。ルカ 21:7-36; 19:43,44; 17:20-30。テモテ第二 3:1-5。ヨハネ 10:16。啓示 14:1-3。
■ 使徒たちはなぜ質問をしますか。しかし,ほかにもどんな考えがあるようですか。
■ 西暦70年に,イエスの預言のどの部分が成就しますか。しかし,その時どのような事は起きませんか。
■ イエスの預言が最初に成就したのはいつですか。しかし,そのおもな成就はいつ見られますか。
■ 最初の,また最後の成就における嫌悪すべきものとは何ですか。
■ エルサレムの滅びが,大患難の最終的な成就でないのはなぜですか。
■ 世界のどんな状態が,キリストの臨在を印付けますか。
■ 『地のすべての部族が嘆きのあまり身を打ちたたく』のはいつですか。しかし,キリストの追随者たちは何を行ないますか。
■ ご自分の未来の弟子たちが終わりの近いことを見分けるための助けとして,イエスはどんな例えを語られますか。
■ イエスは,終わりの日に住むようになる弟子たちのために,どんな訓戒をお与えになりますか。
■ 十人の処女はだれを表わしていますか。
■ クリスチャン会衆が花婿との結婚を約束されたのはいつでしたか。しかし花婿は,花嫁を婚宴に連れて行くためにいつ到着しますか。
■ 油は何を表わしていますか。思慮深い処女たちはその油を持っているので,何をすることができますか。
■ 婚宴はどこで催されますか。
■ 愚かな処女たちは,どんな大きな報いを失いますか。彼らはどうなりますか。
■ タラントの例えは,どんな教訓を教えていますか。
■ 奴隷たちとはだれのことですか。彼らがゆだねられる持ち物とは何ですか。
■ 主人はいつ清算にやって来ますか。主人はどんな状況を見て取りますか。
■ 忠実な奴隷たちが入る喜びとは何ですか。三番目の奴隷,つまり邪悪な奴隷はどうなりますか。
■ キリストの臨在はなぜ目に見えないはずですか。キリストはその時,どんな業を行なわれますか。
■ 羊はどんな意味で王国を受け継ぎますか。
■ 『世の基が置かれた』のはいつでしたか。
■ どんな根拠に基づいて,人々は羊あるいはやぎとして裁かれますか。
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イエスの最後の過ぎ越しが近づくこれまでに生存した最も偉大な人
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112章
イエスの最後の過ぎ越しが近づく
ニサン11日,火曜日も終わろうとするころ,オリーブ山上で使徒たちを教えておられたイエスは話を終えられます。なんと忙しく,活動に満ちた一日だったのでしょう。さて,夜を過ごすためにベタニヤへ帰る途中のことと思われますが,イエスは使徒たちに,「あなた方の知っているとおり,今から二日後には過ぎ越しが行なわれます。そして,人の子は杭につけられるために引き渡されるのです」と言われます。
翌日のニサン12日,水曜日,イエスは使徒たちと共に人目を避けて静かな場所で過ごされるようです。イエスはその前の日に宗教指導者たちを公然と叱責したので,彼らから命を狙われていることをご存じです。イエスは木曜日の晩に使徒たちと共に過ぎ越しを祝う際にどんな邪魔が入ることも望まれないので,水曜日には人々の前に姿を現わされません。
そのころ,祭司長たちと民の年長者たちは,大祭司カヤファの家の中庭に集まっていました。前日イエスから責められて憤慨した彼らは,うまく仕組んでイエスを捕らえ,イエスを殺そうと計画を練っています。それでも彼らは,「祭りの時はいけない。民の間に騒動が起きないようにするためだ」と言います。イエスに好意を抱いている民を恐れているのです。
宗教指導者たちがイエスを殺そうと陰謀を企てているところへ一人の客がやって来ます。何とそれはイエスの使徒の一人,ユダ・イスカリオテです。サタンは彼の中に,主人を裏切るという卑劣な考えを吹き込んでいたのです。「彼を裏切ってあなた方に渡せば,わたしに何をくれますか」というユダの言葉に,宗教指導者たちは大いに喜びます。彼らはモーセの律法で奴隷一人当たりの値段とされていた銀30枚を払うことに喜んで同意します。その時からユダは,まわりに群衆のいないときにイエスを裏切って彼らに渡す良い機会をうかがうようになります。
ニサン13日は水曜日の日没から始まります。イエスがエリコから来られたのは金曜日でしたから,これはベタニヤで過ごされる六日目の,そして最後の夜です。翌日の木曜日には,日没から始まる過ぎ越しの最終的な準備をする必要があります。過ぎ越しの子羊をほふって,丸ごと焼かなければならないのはその時です。その食事をどこで祝うのでしょうか。また,だれがその準備をするのでしょうか。
イエスはそのような詳細な点を述べておられません。それは過ぎ越しを祝っている最中にイエスを逮捕するようユダが祭司長たちに通報するのを防ぐためだったようです。しかし恐らく木曜日の昼過ぎに,イエスはペテロとヨハネに,「行って,わたしたちが食べる過ぎ越しを用意しなさい」と言い,ベタニヤからお遣わしになります。
「どこに用意するようにお望みですか」と二人は尋ねます。
イエスはこう説明されます。「水を土器に入れて運んでいる男があなた方に会うでしょう。そのあとに付いて行って,彼の入る家に入りなさい。そして,その家のあるじにこう言わねばなりません。『師があなたに言っておられます,「わたしが弟子たちと一緒に過ぎ越しの食事をすることのできる客室はどこでしょうか」と』。するとその人は整えられた大きな階上の部屋を見せてくれるでしょう。そこに用意をしなさい」。
その家あるじはイエスの弟子であるに違いありません。恐らくイエスからこの特別な時のために家を使わせてほしいと頼まれることを予期していたのでしょう。ともかくペテロとヨハネがエルサレムに到着してみると,事はすべてイエスの予告どおりに運びます。そこで二人は,子羊が用意され,イエスと十二使徒の13人が過ぎ越しを祝うのに必要な物をそろえる手はずがすべて整うのを見届けます。 マタイ 26:1-5,14-19。マルコ 14:1,2,10-16。ルカ 22:1-13。出エジプト記 21:32。
■ イエスは水曜日をどのように過ごされますか。それはなぜですか。
■ 大祭司の家ではどんな集まりが行なわれますか。ユダは何のために宗教指導者たちを訪れますか。
■ イエスは木曜日にだれをエルサレムへ遣わされますか。それは何のためですか。
■ これら遣わされた者たちは,この時もまたイエスの奇跡的な力を示すものとなった,どんな事柄を見ますか。
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