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イエスはまたもや殺されそうになるこれまでに生存した最も偉大な人
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エルサレムから出てヨルダン川を渡り,4年近く前にヨハネがバプテスマを施す業を開始した所に行かれます。そこはガリラヤの海の南岸から遠くない場所で,エルサレムからは二日ほどの道のりのようです。
そこでも大勢の人がイエスのもとに来て,「確かに,ヨハネはただ一つのしるしも行なわなかったが,ヨハネがこの人について言ったことはみな真実だった」と言うようになります。こうして,多くの者がここでイエスに信仰を持ちます。
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イエスは再びエルサレムに向かうこれまでに生存した最も偉大な人
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イエスは再びエルサレムに向かう
ほどなくしてイエスはまた旅路につかれ,都市から都市,また村から村を訪ねて教えておられます。いまイエスは,ヨルダン川を隔ててユダヤの向かい側にあるペレア地区におられるようですが,目的地はエルサレムです。
救いに値するのは限られた数の人々だけであるというユダヤ人の哲学のせいかもしれませんが,ある人が「主よ,救われつつある者は少ないのですか」と尋ねます。イエスは,「狭い戸口を通って入るため,精力的に励みなさい[すなわち,努力しなさい,もしくは奮闘しなさい]」と答えて,救われるためには何が必要かを人々に考えさせるようにされます。
そうした精力的な努力は急を要します。なぜなら,イエスが続けて言われるように,「入ろうと努めながら入れない者が多いからです」。彼らが入れないのはなぜですか。イエスはこう説明されます。『ひとたび家あるじが起き上がって戸に錠を下ろしてしまうと,人々が外に立って戸をたたき,「だんな様,開けてください」と言っても,彼は,「わたしはあなた方がどこの者か知らない。不義を働く者たちは皆,わたしから離れ去れ!」と言うでしょう』。
外に締め出される人々は,自分に都合のよい時にしかやって来ないようです。しかしそのころには,機会という戸は閉じられ,差し錠がかけられます。中に入るためには,たとえその時に都合が悪かったとしても,もっと早くから来ているべきでした。実際,エホバの崇拝を生活における第一の目標にしていない人には,悲しい結果が待ち受けています。
イエスはユダヤ人に仕えるよう遣わされていますが,そのユダヤ人の大部分は,救いのための神の備えを受け入れる優れた機会をとらえませんでした。それでイエスは,彼らが外に投げ出される時,彼らは泣き悲しんだり歯ぎしりしたりするでしょう,と言われます。一方,「東のほうや西のほうから,また北や南から」,そうです,あらゆる国から来る人々は,「神の王国で食卓について横になる」のです。
イエスは続けて言われます。「最後[虐げられているユダヤ人とさげすまれている非ユダヤ人]であったのに最初になる者がおり,また最初[物質的にまた宗教的に恵まれているユダヤ人]であったのに最後になる者がいるのです」。最後になるということは,そうした無精で,感謝を表わさない人々が神の王国に入ることは決してないという意味です。
ところが今,パリサイ人たちがイエスのもとにやって来て,「出て行ってここから去りなさい。ヘロデ[・アンテパス]があなたを殺そうとしているからです」と言います。このうわさは,自分の領地からイエスを逃げ去らせるため,ヘロデ自身が流したものかもしれません。ヘロデはバプテスマを施す人ヨハネの殺害にかかわりを持ったように,神の別の預言者の死にもかかわりを持つことになるのを恐れていたのかもしれません。しかし,イエスはパリサイ人たちにこう言われます。「行って,あのきつねに言いなさい,『見よ,わたしは今日と明日は悪霊たちを追い出し,いやしを成し遂げています。そして三日目には終わるでしょう』と」。
イエスはそこでの業を終えると,エルサレムへの旅をお続けになります。なぜなら,イエスが説明しておられるとおり,「預言者がエルサレムの外で滅ぼされることは許されない」からです。イエスがエルサレムで殺害されることが予想されるのはなぜでしょうか。なぜなら,エルサレムは,71人で構成されるサンヘドリンの高等法院の所在する首都であり,動物の犠牲がここでささげられるからです。それで,「神の子羊」がエルサレム以外の場所で殺されるのは許されないのです。
「エルサレム,エルサレム,預言者たちを殺し,自分に遣わされた人々を石打ちにする者よ ― めんどりが一かえりのひなをその翼の下に集めるように,わたしは幾たびあなたの子供たちを集めたいと思ったことでしょう。それなのに,あなた方はそれを望みませんでした。見よ,あなた方の家はあなた方のもとに見捨てられています」と,イエスは嘆き悲しまれます。この国民は神のみ子を退けたため,滅びに定められているのです。
エルサレムに向かって旅を続けておられた時,イエスはパリサイ人たちのある支配者の家に招かれます。その日は安息日です。人々はイエスをじっと見守っています。たぶん腕と足に水がたまっていると思われる,水腫にかかっている人がいるからです。イエスは,居合わせるパリサイ人や律法の専門家に向かって,「安息日に病気を治すことは許されていますか,いませんか」とお尋ねになります。
だれも一言も答えません。それでイエスは,その人をいやして去らせます。それからイエスは,「あなた方のうち,自分の息子や牛が井戸に落ち込んだ場合,安息日だからといってこれをすぐに引き上げない人がいるでしょうか」とお尋ねになります。やはりみな一言も答えません。 ルカ 13:22-14:6。ヨハネ 1:29。
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あるパリサイ人によるもてなしこれまでに生存した最も偉大な人
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あるパリサイ人によるもてなし
イエスはまだ,ある著名なパリサイ人の家におられ,水腫を患っていた男の人をいやしたところです。イエスは,招かれて来ていた人たちが食事のときに目立つ場所を選ぼうとする様子をご覧になって,謙遜さに関する一つの教訓をお与えになります。
イエスはこのように説明されます。「だれかから婚宴に招かれたなら,最も目立つ場所に横たわってはなりません。もしかすると,だれかあなたより主立った人がそのとき招かれているかもしれず,その場合,あなたやその人を招いた人が来て,『この人にその場所を譲ってください』と言うでしょう。そうすると,あなたは恥ずかしい思いをしながら,そこを立って最も低い場所に着くことになるのです」。
それでイエスはこう忠告なさいます。「あなたが招かれたときには,行って,最も低い場所で横になり,あなたを招いた人が来て,『友よ,もっと高いほうへ進んでください』と言うようにしなさい。そうするとあなたは,一緒にいるすべての客の前で誉れを受けることになるのです」。結論としてイエスはこう言われます。「だれでも自分を高める者は低くされ,自分を低くする者は高められるのです」。
次にイエスは,自分を招いたパリサイ人に向かって,神の目に真に価値ある正さんの設け方を述べられます。「あなたが正さんや晩さんを設けるときには,友人や兄弟,また親族や富んだ隣人などを呼んではなりません。恐らく彼らはいつかあなたを招き返して,それがあなたへの報いとなることでしょう。むしろ,あなたがごちそうを設けるときには,貧しい人,体の不自由な人,足なえの人,盲目の人などを招きなさい。そうすればあなたは幸いです。彼らにはあなたに報いるものが何もないからです」。
そのように,恵まれない人たちのために食事の席を設ける人は,それによって幸福になれます。なぜなら,イエスが自分を招いた人に説明されたとおり,「義人の復活の際に報いを受ける」からです。イエスがこの価値ある食事について述べられたので,その場にいた客のひとりは別の種類の食事について思い起こし,「神の王国でパンを食べる人は幸いです」と言います。しかし,すべての人がそのすばらしい見込みを正しく評価するわけではありません。イエスは続けて一つの例えを話し,そのことを示しておられます。
「ある人が盛大な晩さんを設けていました。そして大勢の人を招いたのです。そして彼は……自分の奴隷を遣わして,招いておいた人たちに,『おいでください。もう用意ができましたから』と言わせました。ところが,彼らはみな一様に言い訳をして断わり始めました。最初の者は彼に言いました,『わたしは畑を買ったので,出かけて行ってそれを見てこなければなりません。お願いします,お断わりさせてください』。また別の者は言いました,『五くびきの牛を買ったので,それを調べに行くところなのです。お願いします,お断わりさせてください』。さらに別の者は言いました,『妻をめとったばかりなのです。そのため,参上できないのですが』」。
何というつじつまの合わない言い訳でしょう。畑や家畜は普通,買う前に調べるものです。ですから,後になってそれらを急いで見に行く必要など実際にはないのです。同じように,結婚したからといって,そのような大切な招きに応じられないことはないはずです。それで,主人はそうした言い訳について聞くと怒り,奴隷にこう命じます。
「『急いで市の大通りや路地に出て行き,貧しい人,体の不自由な人,盲人,足なえの人などをここに連れて来なさい』。やがて奴隷は言いました,『ご主人様,お命じになったとおりに致しました。でも,まだ場所が余っております』。すると主人は奴隷に言いました,『道路や,柵を巡らした場所に出て行き,無理にでも人々に入って来させて,わたしの家がいっぱいになるようにしなさい。……招かれていたあの者たちにはだれにもわたしの晩さんを味わわせないのだ』」。
この例えはどんな状況を描いているのでしょうか。食事を用意した「主人」はエホバ神を表わしています。招待を差し伸べる「奴隷」はイエス・キリストです。そして「盛大な晩さん」とは,天の王国に入る者となるための機会のことです。
王国に入る者となるよう最初に招待を受けたのは,ほかでもない,イエスの時代のユダヤ人の宗教指導者たちでした。しかし彼らは招待に応じませんでした。そのため,特に西暦33年のペンテコステを初めとして二度目の招待が,ユダヤ国民のうちのさげすまれた,身分の低い人たちに差し伸べられるようになりました。それでも,神の天の王国の14万4,000の場所がいっぱいになるだけの人数にはなりませんでした。それで,3年半後の西暦36年に三度目で最後の招待が,割礼を受けていない非ユダヤ人に差し伸べられ,そのような人々を集める業が現代まで続けられてきたのです。 ルカ 14:1-24。
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弟子としての責任これまでに生存した最も偉大な人
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弟子としての責任
サンヘドリンの一員と思われる著名なパリサイ人の家を去ると,イエスは引き続きエルサレムへ向かって旅をされます。大群衆がイエスの後に従っています。しかし,どういう動機で付いて来るのでしょうか。イエスの本当の追随者であることには,実際にはどんなことが関係しているでしょうか。
皆が一緒に旅をしていた時,イエスは群衆のほうを振り向いて,彼らに衝撃を与えそうなこういうことを言われます。「わたしのもとに来て,自分の父,母,妻,子供,兄弟,姉妹,さらには,自分の魂をさえ憎まないなら,その人はわたしの弟子になることはできません」。
イエスはどういう意味でそうおっしゃっているのでしょうか。イエスはここで,イエスの追随者になる人は身内の者を文字どおり憎むべきだ,と言っておられるのではありません。そうではなく,イエスを愛するほどには身内の者を愛さないという意味で,身内の者を憎まなければならないのです。イエスの祖先に当たるヤコブは,レアを『うとんじ』ラケルを愛したと言われていますが,それは,レアが妹のラケルほどには愛されなかった,という意味でした。
弟子は「自分の魂[すなわち,命]をさえ」憎むべきである,とイエスは言われましたが,そのことも考えてみてください。この場合もやはり,イエスが言おうとしておられるのは,本当の弟子は自分の命を愛する以上にイエスを愛さなければならないということです。こうしてイエスは,ご自分の弟子になると重要な責任が伴うことを強調されます。それはよく考えもせずに引き受けるべきものではありません。
イエスの弟子であることには,患難や迫害に遭うことが関係しています。イエスは,「だれでも,自分の苦しみの杭を運びながらわたしのあとに付いて来ない者は,わたしの弟子になることができないのです」と言われます。ですから,本当の弟子は,イエスが忍ばれたのと同じそしりという重荷を,進んで担わなければなりません。その歩みには,必要なら,神の敵の手にかかって死ぬことさえ含まれます。イエスは間もなくそのような仕方で死ぬことになっています。
したがって,キリストの弟子になるということは,イエスに従う群衆が非常に注意深く検討する必要のある事柄です。イエスは一つの例えによってその事実を強調されます。「たとえば,あなた方のうちのだれが,塔を建てようと思う場合,まず座って費用を計算し,自分がそれを完成するだけのものを持っているかどうかを調べないでしょうか。そうしないなら,その人は土台を据えてもそれを仕上げることができないかもしれず,それを見ている人たちはみな彼をあざけって,『この人は建て始めはしたものの,仕上げることができなかった』と言い始めるかもしれません」。
こうしてイエスは,ご自分に付いて来る群衆に向かって,彼らが弟子になる前に,必要とされる事柄は果たせるという確信を持っているべきであり,それは塔を建てたいと思う人が,建て始める前に,それを完成させるための資金があることを確かめるのと同じである,ということを説明しておられるのです。イエスはもう一つの例えを挙げ,次のように話を続けられます。
「また,どんな王が,別の王と戦いを交えようとして行進するにあたり,まず座って,二万の軍勢で攻めて来る者に,一万の軍勢で相対することができるかどうかを諮らないでしょうか。事実,それができないなら,その者がまだ遠く離れた所にいる間に,一団の大使を遣わして和平を求めるのです」。
それからイエスは,その例えの要点を強調してこう言われます。「このように,確かにあなた方は,自分の持ち物すべてに別れを告げないかぎり,だれもわたしの弟子になることができません」。イエスに付き従っていた群衆,そしてキリストについて学ぶ人はだれでも,進んでそうしなければなりません。イエスの弟子になろうという人は,自分の持っているものすべて ― 命そのものも含め,自分の持ち物すべて ― を犠牲にする覚悟でいなければならないのです。あなたは喜んでそうしますか。
続けてイエスは,「いかにも塩はすぐれたものです」と言われます。イエスは山上の垂訓の中で,弟子たちのことを「地の塩」であると言われましたが,それは,文字どおりの塩に腐敗を防ぐ力があるのと同じく,弟子たちも人々に対して腐敗を防ぐ影響力を持っている,という意味です。「しかし,塩でさえその効き目を失うなら,何をもってそれに味をつけるでしょうか。それは土にも肥やしにもふさわしくありません」。「人々はそれを外に捨てるのです。聴く耳のある人は聴きなさい」とイエスは述べて,話を終えられます。
こうしてイエスは,しばらく前から弟子となっている人でも,弟子であり続ける決意を弱めてはならない,ということを示しておられます。もし決意を弱めるなら,その人は無価値なもの,この世からの笑いもの,そして神のみ前にふさわしくないどころか,神にそしりをもたらすものとなります。そうなれば,塩けのない,不純物の混じった塩のように,外に投げ出されることでしょう。そうです,滅ぼされるのです。 ルカ 14:25-35。創世記 29:30-33。マタイ 5:13。
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失われたものを捜すこれまでに生存した最も偉大な人
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失われたものを捜す
イエスは,謙遜な態度で神に仕える人々を捜し出したいと切に願っておられます。それであちこちを訪ね,会う人すべてに王国について話されます。その中には悪名高い罪人も含まれています。今ではそのような人々がイエスの話を聞きに近づいて来ます。
それを見ていたパリサイ人と書士たちは,彼らが無価値な人間と思っている人々と親しく交わるイエスを非難し,「この人は罪人たちを歓迎して一緒に食事をする」と不平をならします。その人たちは,罪人とそのように接するなら自分の品位が大いに下がると思っているのです! パリサイ人と書士たちは,一般の人々を足で踏みつける泥のようにみなしています。実際,彼らは,「地[土]の民」を意味するヘブライ語のアム・ハーアーレツという表現を使って,そのような人々を軽蔑していることを示します。
一方,イエスはどんな人にも威厳と親切と思いやりをもって接しておられます。その結果,悪行者としてよく知られている人たちを含め,立場の低い大勢の人々が真剣にイエスの話を聴こうとします。それにしても,パリサイ人から無価値な人間と思われている人々のために力を尽くすイエスに,パリサイ人が浴びせた非難はどうなったでしょうか。
イエスは例えを使って,彼らの反対にお答えになります。そして,自分たちは義にかなっており,神の囲いの中にいて安全だが,卑しいアム・ハーアーレツは迷い出て失われた状態にある,と考えていたパリサイ人の観点からイエスは話されます。イエスが問いかけるのを聞きましょう。
「あなた方のうち,百匹の羊を持っていて,そのうちの一匹を失ったときに,九十九匹を荒野に残し,失われたものを見つけるまでそれを捜しに行かない人がいるでしょうか。そして,見つけると,その人はそれを自分の肩に載せて歓びます。そうして,家に着くと,友人や隣人を呼び集めて,こう言うのです。『一緒に歓んでください。失われていたわたしの羊が見つかったからです』」。
それからイエスはこの話の適用を示し,「あなた方に言いますが,このように,悔い改める一人の罪人については,悔い改めの必要のない九十九人の義人について以上の喜びが天にあるのです」と説明されます。
パリサイ人は,自分たちは義にかなっているので,悔い改める必要はないと思っています。それより2年ほど前,イエスは,収税人や罪人と一緒に食事をしている,とパリサイ人のある者たちから非難された時,「わたしは,義人たちではなく,罪人たちを招くために来たのです」と言われました。悔い改める必要を認めない,ひとりよがりなパリサイ人は,天に何の喜びももたらしませんが,本当に悔い改める罪人は天に喜びをもたらすのです。
迷い出ていた罪人が戻って来ることは大きな歓びのいわれとなるという点を二倍強調するために,イエスはもう一つの例えを話され,こう言われます。「十枚のドラクマ硬貨を持っていて,一枚のドラクマ硬貨をなくした場合に,ともしびをともして家を掃き,それを見つけるまで注意深く捜さない女がいるでしょうか。そして,それを見つけると,彼女は自分の友人や隣人の女たちを呼び集めて,こう言います。『一緒に歓んでください。わたしのなくしたドラクマ硬貨が見つかったからです』」。
そしてイエスは,この例えも同じように適用し,続けてこう言われます。「あなた方に言いますが,このように,悔い改める一人の罪人については,神のみ使いたちの間に喜びがわき起こるのです」。
迷い出ていた罪人が戻って来ることに対して神のみ使いたちは何というすばらしい愛ある関心を抱いているのでしょう。かつては立場の低い,さげすまれていたアム・ハーアーレツがゆくゆくは神の天の王国の成員になることを考えると,そのことは特に注目に値します。それらの人たちは天でみ使いたちよりも高い立場を得ることになるのです。しかし,み使いたちはそのことでねたんだり,軽んじられていると感じたりはしません。むしろ,それら罪のある人間が,人生において様々な状況に直面し,それを克服してきたゆえに,同情心と憐れみに富む天の王また祭司として仕える資格を身に着けることを,み使いたちは謙虚に認めています。 ルカ 15:1-10。マタイ 9:13。コリント第一 6:2,3。啓示 20:6。
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いなくなった息子に関する物語これまでに生存した最も偉大な人
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いなくなった息子に関する物語
失われた羊と,なくなったドラクマ硬貨を見つける二つの例えをパリサイ人たちに話し終えられたイエスは,さらにもう一つの例えを話されます。それは,愛情のある父親と,二人の息子に対するその父親の扱い方についての例えです。それら二人の息子にはそれぞれ重大な欠点があります。
まずその例えの中の主人公である年下の息子です。その息子は,父親が快く分けてくれた相続財産を取りまとめて家を出,非常に不道徳な生き方をするようになります。しかし,イエスが話される物語に耳を傾け,登場人物がだれを表わしているか考えてみましょう。
イエスはこのように話を始められます。「ある人に二人の息子がありました。そして,そのうちの若いほうの者が父親に言いました,『父上,財産のうちわたしの頂く分を下さい』。そこで[父親]は自分の資産をふたりに分けてやりました」。この年下の息子はそれを受け取ってどうするのでしょうか。
イエスはこう説明されます。「その後,何日もたたないうちに,若いほうの息子はすべての物を取りまとめて遠い土地に旅行に出,そこで放とうの生活をして自分の財産を乱費しました」。実際に,年下の息子は売春婦たちと暮らすためにお金を使います。しかし,イエスが続けて述べておられるとおり,その後に苦難の時が訪れます。
「すべての物を使い果たした時,その地方一帯にひどい飢きんが起こり,彼は困窮し始めました。彼はその地方のある市民のもとに行って身を寄せることまでし,その人は彼を自分の畑にやって豚を飼わせました。そして彼は,豚が食べているいなごまめのさやで腹を満たしたいとさえ思っていましたが,彼に何か与えようとする者はだれもいませんでした」。
律法によれば,豚は汚れた動物とされていたので,豚の飼育を引き受けざるを得ないというのは実に卑しいことでした。しかし,その息子にとって一番苦しかったのは,豚に与えられていた食物でもいいから食べたいと思うほどのひどい空腹感でした。息子は身に招いた恐ろしい災難のゆえに,「本心に立ち返った」と,イエスは言われました。
イエスはさらに物語を続けて,こう説明されます。「彼は[自分に]言いました,『わたしの父のところでは実に多くの雇い人にあり余るほどのパンがあるのに,わたしはここで飢きんのために死にそうなのだ。立って父のところに旅をし,こう言おう。「父上,わたしは天に対しても,あなたに対しても罪をおかしました。わたしはもうあなたの息子と呼ばれるには値しません。あなたの雇い人の一人のようにしてください」』。そこで彼は立って父親のもとに行きました」。
ここで考えてみるべき事柄があります。息子が家を出る時,もし父親が息子に食ってかかってどなり声を上げていたなら,息子は自分のなすべき事柄についてそれほど一途な気持ちにはならなかったことでしょう。戻ることにしたとしても,父親と顔を合わせなくてもよいよう,故郷のどこかほかの場所で仕事を見つけようとしたかもしれません。しかし,そんなことは考えてもみませんでした。息子が望んだのは家に帰ることでした。
イエスの例えの中の父親が,愛と憐れみに富まれる天の父,エホバ神を表わしていることは明らかです。また,いなくなった息子,つまり放とう息子が,罪人として知られている人たちを表わしていることも分かるでしょう。イエスが話をしておられる相手のパリサイ人たちは以前に,そういう罪人たちと食事を共にしていると言ってイエスを非難したことがありました。では年上の息子はだれを表わしているのでしょうか。
いなくなった息子が見つかったとき
イエスの例えの中のいなくなった息子,つまり放とう息子は,父親の家に戻るとき,どのように迎えられるのでしょうか。イエスの話に耳を傾けてください。
「彼がまだ遠くにいる間に,父親は彼の姿を見て哀れに思い,走って行ってその首を抱き,優しく口づけしたのです」。何と憐れみ深く思いやりのある父親なのでしょう。わたしたちの天の父エホバを実によく表わしています。
たぶん父親は息子の放とうの生活について聞いていたことでしょう。それでも,詳しい説明を待たずに息子を家に喜んで迎えます。イエスにもこのように喜んで迎える精神があります。イエスは,例えの中の放とう息子によって表わされている罪人や収税人たちにご自分のほうから近づかれるのです。
確かに,イエスの例えに出てくる識別力のある父親は,戻って来た息子の悲しげな,打ちしおれた顔つきを見て,息子が悔い改めていることを幾らか察知しているに違いありません。しかし息子は,父親が優しく接してくれるので,自分の罪を打ち明けやすくなります。イエスはこう言われます。「その時,息子は言いました,『父上,わたしは天に対しても,あなたに対しても罪をおかしました。わたしはもうあなたの息子と呼ばれるには値しません。あなたの雇い人の一人のようにしてください』」。
しかし,息子が言い終えるか終えないうちに父親は行動を起こし,奴隷たちに次のように命じます。「さあ早く,長い衣,その一番良いのを出して来てこれに着せ,その手に輪をはめ,足にサンダルをはかせなさい。それから,肥えさせた若い雄牛を連れて来てほふるのだ。食べて,楽しもうではないか。このわたしの息子が,死んでいたのに生き返ったからだ。失われていたのが見つかったのだ」。こうして彼らは「興じ」始めます。
その間,父親の「年上の息子は野にいました」。物語の残りの話を聴いて,年上の息子がだれを表わしているか考えてください。イエスは年上の息子についてこう言われます。「[年上の息子が]帰って来て家に近づくと,合奏と踊りの音が聞こえたのです。そこで,僕の一人を呼び,これはどういうことなのかと尋ねました。僕は言いました,『あなたのご兄弟がおいでになったのです。それで,健やかに戻って来られたというので,あなたのお父様は肥えさせた若い雄牛をほふられたのです』。ところが彼は憤り,入って行こうとはしませんでした。すると,父親が出て来て,彼に懇願しはじめました。彼は答えて父親に言いました,『わたしはこれまで何年というものあなたのために奴隷のように働いてきて,一度といえあなたのおきてを踏み越えたことはありません。それなのに,このわたしには,友人と一緒に楽しむための子やぎさえただの一度も下さったことがありません。それが,娼婦たちと一緒になってあなたの資産を食いつぶした,このあなたの息子が到着するや,あなたは肥えさせた若い雄牛を彼のためにほふったのです』」。
年上の息子と同じように,罪人たちに憐れみや注意が向けられたことを批判したのはだれでしょうか。それは書士やパリサイ人たちではないでしょうか。イエスがこの例えを語ることにされたのは,罪人たちを喜んで迎えるイエスを彼らが批判したからです。ですから明らかに,彼らは年上の息子によって表わされている人々であるに違いありません。
イエスは年上の息子に対する父親の次のような訴えでご自分の話を結ばれます。「子よ,あなたはいつもわたしと一緒にいたし,わたしの物はみなあなたのものだ。だが,わたしたちはとにかく楽しんで歓ばないわけにはいかなかったのだ。このあなたの兄弟は,死んでいたのに生き返り,失われていたのに見つかったからだ」。
こうしてイエスは,年上の息子が最後にどうするかを伏せたままにされます。実のところ,後日,イエスの死と復活の後に,『非常に大勢の祭司たちがこの信仰に対して従順な態度を取るようになり』ました。その中には,イエスがここで話している相手の「年上の息子」級に属する人も幾人か含まれていたかもしれません。
しかし,現代においては,二人の息子はだれを表わしているのでしょうか。それは,エホバのお目的について十分よく知るようになり,エホバとの良い関係に入るための根拠を持っている人々であるに違いありません。年上の息子は,「小さな群れ」つまり「天に登録されている初子たちの会衆」に属する人々の一部を表わしています。それら一部の人たちは,年上の息子と同じような態度を取りました。彼らは,地上の級である「ほかの羊」を歓迎したいとは思いませんでした。「ほかの羊」のために自分たちの影が薄くなっていると感じたのです。
一方,放とう息子は,神の民のうち,世が提供する快楽を味わうために離れて行く人々を表わしています。しかし,やがてそれらの人々は,悔い改めて戻り,再び神の活発な僕となります。実際,許してもらう必要を認めて父のもとに帰る人々に対して,父は本当に優しく,また憐れみ深く接してくださいます。 ルカ 15:11-32。レビ記 11:7,8。使徒 6:7。ルカ 12:32。ヘブライ 12:23。ヨハネ 10:16。
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実際的な知恵をもって将来に備えるこれまでに生存した最も偉大な人
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実際的な知恵をもって将来に備える
イエスは群衆に対して,放とう息子の物語を話し終えられたところです。群衆の中にはイエスの弟子たち,不正直な収税人をはじめ罪人とみなされている人たち,それに書士やパリサイ人たちがいます。次にイエスは弟子たちに向かって,ある富んだ人に関する例えを話されます。その人は自分の家の管理人,つまり家令について好ましくない報告を受けました。
イエスの話によれば,その富んだ人は家令を呼び,彼を解雇するつもりであることを告げます。そこで家令は考えます。「どうしよう。主人はわたしから家令職を取り上げるということだ。わたしは土掘りをするほど強くはないし,物ごいをするのは恥ずかしい。そうだ,どうすればよいか分かったぞ。わたしが家令職から外されたとき,人々がわたしを自分の家に迎え入れてくれるようにするのだ」。
家令は何をするつもりなのでしょう。彼は主人に負債のある人たちを呼んで,『あなたはどれくらい借りがあるのか』と尋ねます。
『オリーブ油2,200㍑です』と,最初の者が答えます。
『あなたの契約書を受け取り,座って,早く1,100と書きなさい』と,家令はその者に言います。
家令は別の者にも,『さて今度はあなただが,どれくらい借りているのか』と尋ねます。
『小麦1万7,000㌔です』と彼は言います。
『あなたの契約書を受け取って,1万3,700と書きなさい』。
家令はまだ主人の財務管理をしているので,自分の権限で主人に借金のある人の返済額を減らすことができます。家令は,額を減らすことにより,自分が職を失う時に恩に報いてくれる可能性のある人々を友にしようとしているのです。
主人はそのことを聞くと,感心します。事実,主人は「その家令をほめました。不義な者ではありますが,実際的な知恵をもって行動したからです」。実際,イエスはこう付け加えられます。「この事物の体制の子らは,自分たちの世代に対しては,実際的なやり方の点で光の子らより賢いのです」。
そこでイエスは,弟子たちに対する教訓を引き出し,「不義の富によって自分のために友を作り,そうしたものが尽きたとき,彼らがあなた方を永遠の住みかに迎え入れてくれるようにしなさい」と励まされます。
イエスは家令の不義ではなく,先見の明のあるその実際的な知恵をほめておられるのです。「この事物の体制の子ら」は大抵,お返しのできる人々を友とするために抜け目なくお金や地位を利用します。ですから,「光の子ら」である神の僕たちも,自分たちに益となるような賢い方法で,「不義の富」である物質の資産を用いる必要があります。
しかし,イエスが言われるように,神の僕たちはそれらの富を用いて,「永遠の住みかに」迎え入れてくれる方を友とすべきです。小さな群れの成員にとって,その場所は天にあり,ほかの羊にとっては地上の楽園にあります。人々をそれらの場所に迎え入れることができるのはエホバ神とみ子だけなので,お二方との友情を培うために,わたしたちは自分の持つどんな「不義の富」でも,王国に関係した業を支援するために用いるよう努めるべきです。物質の富は必ず尽きたり絶えたりするものですから,そうしておけば,物質の富が尽きても,わたしたちの永遠の将来は保証されます。
イエスはさらに,こうした物質的な事柄,つまりごく小さな事であっても,それに気を配る点で忠実な人は,より重要な事柄に気を配る点でも忠実でしょうと言われ,続けてこのように話されます。「それゆえ,あなた方が不義の富に関して忠実であることを示していないなら,だれがあなた方に真実のもの[すなわち,霊的な関心事,もしくは王国の関心事]を託するでしょうか。そして,あなた方がほかの人の物[神がご自分の僕たちに託される,王国の関心事]について忠実であることを示していないなら,だれがあなた方に,あなた方のための物[永遠の住みかにおける命の報い]を与えるでしょうか」。
わたしたちは神の真の僕であると同時に,物質の富である不義の富の奴隷となることなど決してできません。イエスが結論として次のように述べておられるとおりです。「どんな家僕も二人の主人に対して奴隷となることはできません。一方を憎んで他方を愛するか,あるいは一方に堅く付いて他方を侮るようになるからです。あなた方は神と富とに対して奴隷となることはできません」。 ルカ 15:1,2; 16:1-13。ヨハネ 10:16。
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富んだ人とラザロこれまでに生存した最も偉大な人
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富んだ人とラザロ
イエスは弟子たちに,物質の富の正しい用い方について話し,人は富の奴隷であると同時に神の奴隷であることはできないということを説明してこられました。パリサイ人も聴いていますが,彼らはお金を愛する者たちなので,イエスのことをあざ笑うようになります。それでイエスは彼らにこのように言われます。「あなた方は人の前で自分を義とする者たちですが,神はあなた方の心を知っておられます。人の間で高大なものは,神から見て嫌悪すべきものだからです」。
この世の資産,政治権力,宗教的支配力や影響力に富んでいる人々にとって形勢が逆転する時が来たのです。彼らは卑しめられます。しかし自分の霊的な必要を認めている人たちは高められます。イエスはそうした変化が起きることを示して,パリサイ人に次のように言われます。
「律法と預言者たちとは[バプテスマを施す人]ヨハネまででした。その時以来,神の王国は良いたよりとして宣明されており,あらゆるたぐいの人がそれに向かって押し進んでいます。実際,律法の文字の一画が成就されないでいるよりは,天と地の過ぎ去るほうが易しいのです」。
書士とパリサイ人は,モーセの律法を堅く守っていると唱えて誇り高ぶっています。エルサレムでイエスがある男の目を奇跡によって見えるようにした時,「我々はモーセの弟子なのだ。我々は,神がモーセに語られたことを知っている」と彼らが豪語したのを思い起こしてください。しかし今やモーセの律法は,謙遜な人々を,神が任命した王であるイエス・キリストに導くというその意図された目的を果たしました。それで,ヨハネの宣教の開始と共に,あらゆる種類の人々,特に謙遜な人々や貧しい人々が神の王国の臣民になろうと努力しています。
モーセの律法はいまや成就しつつあるので,それを守る義務はなくなります。律法は様々な理由による離婚を許していますが,イエスは今こう言われます。「自分の妻を離婚して別の女をめとる者はみな姦淫を犯すのであり,夫から離婚された女をめとる者は姦淫を犯すことになります」。パリサイ人はこの宣言を聞いて,大いに腹立たしく思うに違いありません。彼らは多くの理由を根拠にして離婚を認めるので,なおのことそう思うでしょう。
イエスはパリサイ人に対して話を続け,身分,つまり立場がついには劇的に変化する二人の人に関する例えを話されます。二人の人がだれを表わすか,またその立場の逆転にはどんな意味があるか分かりますか。
イエスはこう説明されます。「ところで,ある富んだ人がいて,紫と亜麻布で身を飾り,豪しゃな日々を楽しんでいました。一方,ラザロという名のあるこじきは彼の門のところに置かれ,かいようだらけの身で,その富んだ人の食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていました。そのうえまた,犬が来ては彼のかいようをなめるのでした」。
イエスはここで,ユダヤ人の宗教指導者たちを表わすために富んだ人を用いておられます。その宗教指導者たちの中には,パリサイ人や書士たちだけでなく,サドカイ人や祭司長たちも含まれています。彼らは霊的な特権と機会に恵まれているため,富んだ人のように振る舞います。彼らの青みがかった紫の衣服は恵まれた身分を表わしており,白い亜麻布は彼らが独善的であることを示しています。
富んだ人級に属するそれらの誇り高い人々は,一般の貧しい人々をアム・ハーアーレツ,つまり地の民と呼んで徹底的にさげすんでいます。したがって,こじきのラザロは,宗教指導者たちから相応の霊的滋養物や特権を与えられていない人々を表わしています。それで一般の人々は,かいようだらけのラザロのように見下げられ,霊的に病気で,犬としか付き合えないとみなされています。しかし,ラザロ級の人々は霊的滋養物に飢え渇いているので,富んだ人の食卓から落ちる霊的食物がどんなにわずかな量であっても,それを受け取ろうとして門のところにいます。
イエスは次に,富んだ人とラザロの状態の変化を描写されます。どのように変化するのでしょうか。また,それらの変化は何を表わしていますか。
富んだ人とラザロは変化を経験する
富んだ人は霊的な特権や機会に恵まれている宗教指導者たちを表わしており,ラザロは霊的滋養物に飢えている一般の人々を表わしています。イエスは話を続けて,二人の境遇の劇的な変化を説明されます。
イエスはこう言われます。「さて,やがてこじきは死に,み使いたちによってアブラハムの懐の位置に運ばれました。また,富んだ人も死んで葬られました。そして,ハデスの中で目を上げると,自分は責め苦のうちにありましたが,はるか離れた所にアブラハムがおり,ラザロがその懐の位置にいるのが見えました」。
富んだ人とラザロは実際の人物ではなく,特定の部類の人々を象徴しているので,当然彼らの死も象徴的なものです。彼らの死は何を象徴している,つまり表わしているのでしょうか。
イエスは,『律法と預言者たちとはバプテスマを施す人ヨハネまででしたが,その時以来,神の王国は宣明されています』と言って,状況の変化をすでに指摘されました。それで富んだ人とラザロは,ヨハネとイエス・キリストが伝道を開始すると共に以前の自分の境遇,つまり状態に関して死にます。
謙遜な,悔い改めたラザロ級の人々は,霊的に恵まれていなかった以前の状態に関して死に,神の恵みを受ける立場になります。以前は宗教指導者たちに頼って霊的食卓からのおこぼれにあずかろうとしていましたが,今ではイエスがお与えになる聖書の真理が彼らの必要を満たしています。彼らはこうして,大いなるアブラハムであられるエホバ神の懐,つまり恵まれた位置に身を置くことになります。
一方,富んだ人級を構成する人々は,イエスの教えた王国の音信を頑固に拒みつづけるため,神の不興を買います。それで,恵みを受けているように思えた以前の立場に関して死ぬのです。事実,彼らは比喩的な責め苦に遭っている者として述べられています。では富んだ人の次の言葉を聴いてください。
「父アブラハムよ,わたしに憐れみをおかけになり,ラザロを遣わして,その指の先を水に浸してわたしの舌を冷やすようにさせてください。わたしはこの燃えさかる火の中で苦もんしているからです」。イエスの弟子たちが宣明した神による火のような裁きの音信は,富んだ人級の人々を苦しめます。彼らは,イエスの弟子たちがそのような音信の宣明をやめて,責め苦を幾らか和らげてくれることを願っているのです。
「しかしアブラハムは言いました,『子よ,あなたが自分の生きている間に,自分の良い物を全部受け,それに対してラザロが良くない物を受けたことを思い出しなさい。しかし今,彼はここで慰めを得,あなたは苦もんのうちにある。そして,これらすべてに加えて,わたしたちとあなた方との間には大きくて深い裂け目が定められており,そのため,ここからあなた方のもとに行きたいと思う者たちもそれができず,人々がそこからわたしたちのところに渡って来ることもできない』」。
ラザロ級と富んだ人級の間でそうした劇的な逆転が生じるのは,確かに公正なことであり,適切なことでもあります。その時から数か月後の西暦33年のペンテコステの時に新しい契約が古い律法契約に取って代わり,状態は完全に変わります。その時,神の恵みを受けるのはパリサイ人や他の宗教指導者たちではなく,イエスの弟子たちであることが間違えようのないほど明白になります。それで象徴的な富んだ人とイエスの弟子たちとを隔てている「大きくて深い裂け目」は,変わることのない,義にかなった神の裁きを表わしています。
富んだ人は次に「父アブラハム」に,「[ラザロを]わたしの父の家に遣わしてください。わたしには五人の兄弟がいますから」と頼みます。富んだ人はこうして,もう一人の父親との関係のほうが親しいことを認めます。その父親とは実は悪魔サタンのことです。富んだ人は,宗教上の同盟者である「五人の兄弟」が「この責め苦の場所」に来なくてすむよう,ラザロが神の裁きの音信に手ごころを加えることを求めます。
「しかしアブラハムは言いました,『彼らにはモーセと預言者たちがある。それに聴き従えばよい』」。そうです,もし「五人の兄弟」が責め苦を免れたいのであれば,イエスがメシアであることを明らかにしているモーセと預言者たちの書に注意を払って,イエスの弟子になればよいのです。ところが,富んだ人は異議を唱えます。「いいえ,そうではありません,父アブラハムよ,だれかが死人の中から行けば,彼らは悔い改めることでしょう」。
しかし富んだ人は,「モーセや預言者たちに聴き従わないなら,だれかが死人の中からよみがえっても,やはり説得に応じないであろう」と言われます。人々を納得させるために神が特別なしるしや奇跡を備えることはありません。神の恵みを得たい人は,聖書を読んで,当てはめなければならないのです。 ルカ 16:14-31。ヨハネ 9:28,29。マタイ 19:3-9。ガラテア 3:24。コロサイ 2:14。ヨハネ 8:44。
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憐れみに促されてユダヤに向かうこれまでに生存した最も偉大な人
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憐れみに促されてユダヤに向かう
何週間か前,エルサレムで献納の祭りが行なわれていた時,ユダヤ人たちはイエスを殺そうとしました。それでイエスは北に向かい,ガリラヤの海からさほど遠くない地方へ行かれたようです。
このところイエスは,再び南のエルサレムに向かって進み,途中,ヨルダン川の東の地域にあるペレアの村々で宣べ伝えてこられました。富んだ人とラザロに関する例えを話したあと,イエスは続けて弟子たちに,以前ガリラヤで教えた事柄をお教えになります。
例えば,神に属する「小さな者」の一人をつまずかせるよりは,「臼石を首にかけられて海の中に投げ込まれ(る)」ほうがましである,とイエスは言われます。また,人を許さなければならないことを強調して,「たとえ[兄弟]があなたに対して一日に七回罪をおかし,『わたしは悔い改めます』と言ってあなたのもとに七回戻って来たとしても,あなたはその人を許してあげなければなりません」と説明されます。
弟子たちが「わたしたちにさらに信仰をお与えください」と言うと,イエスは,「あなた方にからしの種粒ほどの信仰があったなら,この黒桑の木に,『根こそぎ抜かれて,海に植われ!』と言ったとしても,それはあなた方に従うでしょう」とお答えになります。ですから,少しでも信仰があれば,大きなことを成し遂げることができるのです。
次にイエスは,全能の神の僕にふさわしい態度を例証する,実際にありそうな状況を描いてこう言われます。「あなた方の中に,畑をすき返したり群れの番をしたりする奴隷がいて,その者が野から入って来ると,『すぐにここに来て,食卓について横になりなさい』と言う人がいるでしょうか。むしろ,『わたしの晩さんのために何か用意し,前掛けをかけて,わたしが食べたり飲んだりし終わるまでわたしに仕えなさい。そのあと,あなたは食べたり飲んだりしてよろしい』と言うのではありませんか。奴隷が割り当ての事をしたからといって,その人は恩義を感じたりしないではありませんか。ですからあなた方も,自分に割り当てられた事を全部したときには,『わたしたちは何の役にも立たない奴隷です。わたしたちのしたことは,当然すべきことでした』と言いなさい」。したがって,神の僕たちは,神に仕えることにより神に恩恵を施しているなどと決して考えるべきではありません。むしろ,神の家の信頼されている成員として神を崇拝する特権が与えられていることをいつも覚えておくべきです。
イエスがこの例えを話されたすぐ後のことと思われますが,一人の使いの者が到着します。その人は,ユダヤのベタニヤに住むラザロの姉妹,マリアとマルタからの使いでした。「主よ,ご覧ください,あなたが愛情を抱いてくださる者が病気です」と,その使いの者は言います。
イエスは,「この病気は死のためのものではなく,神の栄光のため,神の子がそれによって栄光を受けるためのものです」とお答えになります。イエスはその場所になお二日とどまられた後,「もう一度ユダヤへ行きましょう」と弟子たちに言われます。しかし弟子たちはイエスに,「ラビ,つい最近ユダ人たちはあなたを石打ちにしようとしたばかりですのに,またそこへおいでになるのですか」と言います。
イエスはそれに答えて,「日中の十二時間があるではありませんか。だれでも日中に歩くなら,何にもぶつかりません。この世の光を見ているからです。しかし,夜歩くなら,何かにぶつかります。光がその人のうちにないからです」と言われます。
イエスが言おうとしておられるのは,『日中の時間』,つまり神がイエスの地上での宣教期間として配分しておられる時間はまだ残されており,それが残されているうちは,だれもイエスに危害を加えることはできないということのようです。イエスには自分に残されている「日中」のわずかな時間を十分に用いる必要があります。その後に,敵たちがイエスを殺す「夜」が来るからです。
イエスはさらに,「わたしたちの友ラザロは休んでいますが,わたしは彼を眠りから覚ましにそこへ行きます」と言われます。
弟子たちは,ラザロは眠って休んでおり,それは回復に向かう良い徴候だと考えたのでしょう,「主よ,もし休んでいるのでしたら,彼はよくなるでしょう」と答えます。
そこで,イエスは彼らにはっきりと言われます。「ラザロは死んだのです。そしてわたしは,あなた方のために,すなわちあなた方が信じるために,自分がそこにいなかったことを歓びます。しかし,彼のところに行きましょう」。
トマスは,イエスがユダヤで殺されるかもしれないことを認めながらも,イエスを元気づけようと思い,仲間の弟子たちに,「わたしたちも行って,共に死のうではないか」と勧めます。それで弟子たちは,命の危険を冒して,憐れみに促されてユダヤに向かうイエスに付いて行きます。 ルカ 13:22; 17:1-10。ヨハネ 10:22,31,40-42; 11:1-16。
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