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本当に幸福なのはどんな人かイエス 道,真理,命
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75章
本当に幸福なのはどんな人か
「神の指」によって邪悪な天使を追い出す
本当に幸福なのはどんな人か
イエスが伝道期間中に繰り返し教えたのは,祈りのことだけではありません。ガリラヤでイエスの奇跡を見た人々は,そうした奇跡は邪悪な天使の支配者の力によるのだと批判しました。今回,ユダヤの人々も同じことを言います。
イエスは,邪悪な天使のせいで口が利けなかった男性を癒やします。群衆はとても驚きますが,イエスに敵対する人たちはガリラヤの人々と同じ批判をし,こう言います。「彼は邪悪な天使の支配者ベエルゼブブの力で,邪悪な天使を追い出しているのだ」。(ルカ 11:15)また,イエスが何者であるかを突き止めたくて,天からのしるしをもっと見せてくれるよう頼む人たちもいます。
イエスは彼らが自分を試そうとしていることに気付き,ガリラヤの人々にしたのと同じ返事をします。まず,内部で分裂している王国はどれも倒れてしまうと話してから,「サタンも自分自身に敵対して分裂しているなら,その王国はどうして長く続くでしょうか」と尋ねます。それから彼らに対しはっきりこう言います。「私が邪悪な天使を追い出すのが神の力[または指]によるのであれば,神の王国はもうあなた方の所に来ています」。(ルカ 11:18-20)
イエスがそう言った時,人々はイスラエルの歴史で生じたある出来事を思い出したことでしょう。ファラオの宮廷にいた人たちはモーセが行った奇跡を見た時,「これは神の力[または指]です!」と叫びました。また,石板2枚に十戒を書き記したのも「神の指」でした。(出エジプト記 8:19; 31:18)その同じ「神の指」つまり聖霊によって,イエスは邪悪な天使を追い出したり病気を癒やしたりしています。イエスはそれを神から指名された王として行いました。ですから,神の王国はイエスの反対者たちの所に来ていると言えるのです。
イエスが邪悪な天使を追い出せることは,イエスがサタンを支配できる証拠です。それは,十分に武装して邸宅を守っている人をもっと強い人が打ち負かすのと同じです。ここでイエスは,邪悪な天使が出ていった人の例えをもう一度話します。その人は自分を良いもので満たさなかったので,最初の邪悪な天使が7人の天使を連れて戻ってきてしまい,最終的な状態は最初より悪くなるのです。(マタイ 12:22,25-29,43-45)これはイスラエル国民の状態にぴったり当てはまります。
ここで,話を聞いていた1人の女性が,「あなたを産んで乳を飲ませた女性は幸福です!」と大声で言います。ユダヤ人の女性たちは預言者の母親,特にメシアの母親になりたいと願っていました。それでこの女性は,こんなに素晴らしい教師の母親になったマリアは幸せだ,と思ったのでしょう。しかしイエスは,本当に幸福なのはどんな人かを教え,「いいえ,神の言葉を聞いて守っている人たちこそ幸福です!」と言います。(ルカ 11:27,28)イエスは,マリアに名誉が与えられるべきだということは絶対に言いませんでした。むしろ,男女を問わず本当の幸福は,血縁関係や達成した事柄ではなく,神に忠実に仕えることから味わえると教えたのです。
イエスはガリラヤで行ったように,しるしを求めた人たちを非難します。そして,「ヨナのしるし」以外のしるしは与えられないと言います。ヨナは魚の中に3日間いたこと,また大胆に伝道したことでしるしとなり,ニネベの人々は悔い改めました。イエスはこう言います。「しかし見なさい,ヨナを上回る者がここにいます」。(ルカ 11:29-32)さらにイエスは,シェバの女王が知恵を聞くためにやって来たソロモンを上回る者でもあります。
イエスは話を続け,「人はランプをともした後,それを人目に付かない所や籠の下ではなく,台の上に置」く,と言います。(ルカ 11:33)イエスは,これらの人々の前で教えたり奇跡を行ったりするのはランプを人目に付かない場所に置くようなものだ,と言っていたのかもしれません。彼らの目の焦点は合っていないので,イエスの奇跡の目的を理解できないのです。
イエスは邪悪な天使を追い出し,口が利けなくなっていた男性が話せるようにしました。それを見た人たちは神を賛美し,エホバが行っていることを他の人に話すよう動かされるはずです。しかし,イエスを批判した人たちはそのような反応をしません。そのためイエスは彼らにこう警告します。「それで,あなたの内の光が闇にならないように用心していなさい。あなたの体は,全体が明るく少しも暗い所がないなら,ランプが照らすときのように全く明るいでしょう」。(ルカ 11:35,36)
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パリサイ派の人と食事をするイエス 道,真理,命
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76章
パリサイ派の人と食事をする
イエスはパリサイ派の偽善を非難する
イエスはユダヤにいる時,あるパリサイ派の人から食事に呼ばれます。それは夕食ではなく昼食だったようです。(ルカ 11:37,38)パリサイ派の人たちには,食事の前に手を肘まで洗うしきたりがあります。でもイエスはそうしません。(マタイ 15:1,2)肘まで洗っても律法を破ることにはなりませんが,神はそこまですることを求めていません。
そのパリサイ派の人はイエスが伝統に従わないのを見て驚きます。イエスはそれに気付き,こう言います。「さて,パリサイ派の人たち,あなた方は杯と皿の外側は清めますが,あなた方の内側は貪欲と邪悪に満ちています。無分別な人たち! 外側を作った方は内側も作ったのではありませんか」。(ルカ 11:39,40)
問題となっているのは,食事の前に手を洗うことではなく,宗教的な偽善です。しきたりとして手を洗うパリサイ派などの人たちは,自分の心にある邪悪さを洗い落とせていないのです。それでイエスは彼らにこう言います。「憐れみの施しをする時には,内面からのものを与えなさい。そうすれば,あなた方は何もかも清くなるのです」。(ルカ 11:41)イエスの言う通りです。誰かに何かを与える時には,心からの愛に動かされてそうすべきです。正しいことを行うふりをして,人に良い印象を与えようとすべきではありません。
パリサイ派の人たちは与えていないわけではありません。イエスはこう言います。「あなた方は……ミントやヘンルーダなど,あらゆるハーブの10分の1を納めながら,神の公正と神への愛を無視してい[ま]す。10分の1を納める義務はありますが,後者を無視すべきではありません」。(ルカ 11:42)律法では,作物の10分の1を納めることが求められています。(申命記 14:22)納めるものには,ミントやヘンルーダなど,食物の香り付けに使われるハーブが含まれていました。彼らはそうしたハーブの10分の1をきちょうめんに納めていましたが,律法が要求しているもっと大切なことを行っていません。それは公正や慎みなどを示すことです。(ミカ 6:8)
イエスはさらにこう言います。「パリサイ派の人たち,あなた方は悲惨です! 会堂の最も良い座席や,広場であいさつされることを愛するからです。あなた方は悲惨です! 目に付きにくい墓のようだからです。人々はその上を歩いても気付きません」。(ルカ 11:43,44)人はそうした目立たない墓につまずき,儀式上汚れた人になってしまう可能性があります。イエスはここで,パリサイ派の人たちの汚れがはっきり見えないということを強調していたのです。(マタイ 23:27)
すると,律法に通じたある人が抗議し,「先生,その発言は私たちをも侮辱しています」と言います。しかし,彼らは自分たちが人々を助けていないことに気付くべきです。イエスはこう言います。「律法に通じたあなた方も悲惨です! 担うのが大変な荷を人に負わせますが,自分ではその荷に指一本触れないからです。あなた方は悲惨です! 預言者の墓を建てますが,預言者を殺したのはあなた方の父祖だからです」。(ルカ 11:45-47)
イエスが話した荷とは,口頭伝承とパリサイ派による律法の解釈のことです。パリサイ派の人たちは人々の生活を楽にするどころか,重荷となる規則を守ることを求めていたのです。彼らの父祖たちはアベル以降の預言者たちを殺しました。彼らは墓を建てて預言者を敬っているように見せかけていますが,実際の行動や態度は父祖たちと変わりません。しかも,一番偉大な預言者を殺そうとしています。神は彼らの責任を問うことになるとイエスは言います。そして,この時から38年後の西暦70年に,まさにその通りの出来事が生じました。
さらにイエスは,「律法に通じたあなた方は悲惨です! 知識の鍵を取り去ったからです。自分自身が入らず,入ろうとする人を妨げます」と言います。(ルカ 11:52)彼らは,神の言葉を理解するための扉を人々に開くべきですが,そうせずに,その扉を閉じているのです。
パリサイ派の人たちと律法学者たちはどう反応したでしょうか。イエスがその場を去ろうとすると,彼らは激しく詰め寄り,さらに質問をぶつけます。何かを学ぼうとしていたのではありません。逮捕する根拠になることをイエスに言わせようとしていたのです。
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財産に対する見方を教えるイエス 道,真理,命
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77章
財産に対する見方を教える
裕福な人の例え
ワタリガラスとユリについての話
王国を与えられる「小さな群れ」
イエスがパリサイ派の人の家で食事をしていると,たくさんの人が家の外に集まってきます。ガリラヤにいた時と同じです。(マルコ 1:33; 2:2; 3:9)ここユダヤでも,大勢の人たちがイエスに会って話を聞きたいと思っています。パリサイ派の人たちの態度とは大違いです。
イエスの最初の言葉は弟子たちにとって重要です。こう言ったのです。「パリサイ派のパン種つまり偽善に気を付けなさい」。イエスは同じ警告を以前にも与えました。しかし,食事の際の出来事を考えると,ここでもう一度警告が必要です。(ルカ 12:1。マルコ 8:15)パリサイ派の人たちは信心深いふりをして邪悪さを隠そうとすることがあります。それで,彼らが危険な存在であることをはっきり教えなければなりません。イエスはこう話します。「注意深く秘められているもので明らかにされないものはなく,秘密にされているもので知られないでいるものはありません」。(ルカ 12:2)
イエスの所に来た人たちの多くは恐らくユダヤの人々で,ガリラヤでイエスが教えた際にその場にいませんでした。それでイエスは,その時に教えた大切な点をもう一度話し,こう強く勧めます。「体は殺せてもその後は何もできない人たちを恐れてはなりません」。(ルカ 12:4)イエスは,弟子たちは神が養ってくださることを信じなければならない,と強調します。また,人の子とは誰のことかを認め,神が助けてくださることも確信しているべきです。(マタイ 10:19,20,26-33; 12:31,32)
すると突然,ある男性が自分の心配事を持ち出して,イエスにこう頼みます。「先生,相続財産を私と分けるよう私の兄弟に言ってください」。(ルカ 12:13)律法によると,長男は2倍の相続財産を与えられることになっているので,議論する必要はありません。(申命記 21:17)それなのに,この人は律法が定めている分よりも多く欲しいと考えているようです。イエスはどちらの肩を持つこともせず,「誰が私をあなたたち2人の裁判官や仲裁人に任命したのですか」と答えます。(ルカ 12:14)
そして全ての人に,「じっと見張っていて,あらゆる貪欲に警戒しなさい。満ちあふれるほど持っていても,命は所有物からは生じないからです」と言います。(ルカ 12:15)どれだけ裕福でも,いつかは死に,全てを後に残すことになります。イエスはその点を印象的な例えで強調し,神から良い評価を得ることの大切さも教えます。
「ある裕福な人の土地で作物が豊かに実りました。そこでその人は心の中で考え始めました。『どうしようか。作物を集める場所がない』。その人は言いました。『こうしよう。倉を取り壊して,もっと大きいのを建て,そこに穀物などの物を全て集めるのだ。そして自分に言おう。「おまえはたくさんの良い物を何年分も蓄えることができた。楽にして,食べて,飲んで,楽しめ」』。しかし神は言いました。『無分別な者よ,今夜,あなたの命は取り上げられる。そうしたら,蓄えた物は誰のものになるのか』。自分のために宝を蓄えても,神から見て裕福でない人はこうなるのです」。(ルカ 12:16-21)
弟子たちもこの話を聞いていた人たちも,もっと豊かな暮らしをするという誘惑にはまるかもしれません。毎日の心配事によって,エホバに仕えることから気をそらされる可能性もあります。それでイエスは,約1年半前に山上の垂訓で語った大切な教訓をもう一度教えます。
「何を食べるのだろうかと自分の命のことで,また何を着るのだろうかと自分の体のことで,思い煩うのをやめなさい。……ワタリガラスのことを考えなさい。種をまいたり刈り取ったりしませんし,納屋も倉も持っていません。それでも神はその鳥を養っています。あなたたちは鳥よりずっと価値があるのではありませんか。……ユリがどのように育つかを考えなさい。苦労して働いたり,糸を紡いだりはしません。しかし,栄華を極めたソロモンでさえ,このような花の1つほどにも装ってはいませんでした。……それで,何を食べるのか,何を飲むのかとばかり考えるのをやめ,心配して気をもむのをやめなさい。……天の父は,あなたたちがこうしたものを必要としていることを知っています。……神の王国を求めていきなさい。そうすれば,こうしたものはあなたたちに与えられます」。(ルカ 12:22-31。マタイ 6:25-33)
神の王国を求めるのはどんな人たちですか。イエスは,それが比較的少数の忠実な人であることを明らかにし,彼らを「小さな群れ」と呼びます。後に,その人数が14万4000人であることも明らかになります。彼らには何が保証されていますか。イエスは,「天の父は,あなたたちに王国を与えることをよしとしました」と言います。これらの人たちは,地上で宝を蓄えることに心を奪われません。そうした宝は盗まれてしまう危険があります。むしろ彼らの心は,「決して尽きることのない宝」に向けられています。その宝は,彼らが将来キリストと共に支配を行う天にあるのです。(ルカ 12:32-34)
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忠実な管理人は用意をしていなければならないイエス 道,真理,命
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78章
忠実な管理人は用意をしていなければならない
忠実な管理人は用意をしていなければならない
イエスは分裂させるために来た
イエスは天の王国に入るのは「小さな群れ」だけであると説明しました。(ルカ 12:32)この素晴らしい報いを決して軽く見るべきではありません。この報いを得る見込みを持つ人にとって,正しい態度がとても大切であることをイエスは強調します。
それでイエスは弟子たちに,自分が帰って来る時のために用意をしているよう,次のように忠告します。「身支度を整え,ランプをともしていなさい。主人が披露宴から帰って来て戸をたたく時にすぐ開けられるように待っている奴隷たちのようでありなさい。主人が来た時,見張っているところを見られるその奴隷たちは幸せです!」(ルカ 12:35-37)
弟子たちは,イエスがどんな態度を教えようとしているのかすぐに理解します。例えの使用人は用意をして主人が帰って来るのを待っています。イエスはこう説明します。「主人が第2夜警時[午後9時ごろから真夜中]に,あるいは第3夜警時[真夜中から午前3時ごろ]に来たとしても,用意ができているところを見られるなら,幸せです!」(ルカ 12:38)
この忠告には,勤勉な使用人となることや,よく働くことを勧める以上の重みがあります。なぜなら例えでは,どのように人の子イエスが来るかが示されているからです。イエスは弟子たちにこう話します。「あなたたちも用意をしていなさい。思ってもいない時刻に人の子は来るからです」。(ルカ 12:40)将来のある時点で,イエスは帰って来ます。それで,自分の弟子たち,特に「小さな群れ」には用意をしていてほしいと願っています。
ペテロはイエスの話の意味をはっきり理解したいと思い,「主よ,この例えは私たちにだけ話しているのですか。それとも,全ての人にもですか」と尋ねます。イエスはペテロの質問に直接答える代わりに,別の例えを話します。「主人が,時に応じて従者たちに必要な食料を与えていくため,彼らの上に任命する忠実な管理人,思慮深い者はいったい誰でしょうか。その奴隷は,主人が来た時に,そうしているところを見られるなら,幸せです! 実を言うと,主人は自分の全ての持ち物を管理させるためにその奴隷を任命します」。(ルカ 12:41-44)
最初の例えに出てくる「主人」とは,人の子であるイエスのことです。そして「忠実な管理人」とは,王国を与えられる「小さな群れ」の一部の人たちのことです。(ルカ 12:32)イエスは,その人たちが「時に応じて従者たちに必要な食料を与えていく」と話しました。イエスはペテロや他の弟子たちに真理を教え養いました。それで彼らは,将来人の子が来る期間中にも同じようなことが起きると結論できました。その期間中に,管理人が主人の「従者たち」つまりイエスの弟子たちに真理を教える体制が整うのです。
さらにイエスはこう言います。「しかし,もしもその奴隷が,『主人は来るのが遅い』と心の中で言い,使用人の男女をたたいて,食べたり飲んだり酔ったりし始めるなら,その奴隷の主人は,奴隷が予期していない日,思ってもいない時刻に来て,最も厳しく彼を罰し,不忠実な者たちと同じ目に遭わせます」。(ルカ 12:45,46)ここでもイエスは,弟子たちが油断することなく,自分たちの態度に注意を払っていなければならないことを強調していました。なぜなら,気を緩めてしまい,仲間の兄弟姉妹に反対するようにまでなってしまう危険があるからです。
次にイエスは,自分は「地上に火をおこすために」来たと話します。イエスは確かに地上に火をおこしました。イエスの教えは大きな議論を引き起こし,偽りの教えや伝統を焼き尽くすことになります。またその教えは,本来は固い絆で結ばれている人たちをも分裂させます。それで,「父が息子と,息子が父と対立し,母が娘と,娘が母と対立し,しゅうとめが嫁と,嫁がしゅうとめと対立します」。(ルカ 12:49,53)
イエスはここまでの話を主に弟子たちのために語りました。次にイエスは群衆に向けて話します。彼らの多くは,イエスがメシアであることを示す証拠があるのに,その事実を受け入れてきませんでした。それでイエスはこう言います。「皆さんは,西に雲が出るのを見ると,すぐに『嵐が来る』と言い,そうなります。また,南風が吹いているのが分かると,『熱波が来る』と言い,そうなります。偽善者たち,地や空の様子の調べ方を知っているのに,なぜ,この特別な時の調べ方を知らないのですか」。(ルカ 12:54-56)明らかに,人々はメシアを受け入れる用意ができていないのです。
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信仰のないユダヤ人が滅びてしまうのはなぜかイエス 道,真理,命
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79章
信仰のないユダヤ人が滅びてしまうのはなぜか
2つの悲惨な出来事から教える
安息日に体の不自由な女性を癒やす
イエスは神との関係を見直すよう,さまざまな方法で人々を助ける努力をしてきました。あるパリサイ派の人の家の前で人々と話した後にも,その機会が訪れます。
その場にいた人たちが,ある悲惨な出来事のことを持ち出します。それは,「犠牲をささげていたガリラヤ人たちを[ローマ総督のポンテオ・]ピラトが殺した」事件のことです。(ルカ 13:1)彼らは何が言いたいのでしょうか。
そのガリラヤ人とは,エルサレムへの送水路建設のために神殿の寄付箱のお金を使ったピラトに大勢のユダヤ人が抗議した際,騒ぎに巻き込まれて殺された人たちのことでしょう。ピラトは神殿の権威者たちの協力でお金を得たと思われます。人々は,ガリラヤ人たちが悪いことをしていたのでそういう目に遭ったのだと考えているようです。しかしイエスはそう考えません。
イエスは,「そのガリラヤ人たちはそうした苦しみに遭ったのだから他の全てのガリラヤ人よりひどい罪人だったのだ,と思いますか」と質問します。イエスは,決してそうではないと言います。しかし,この出来事をユダヤ人たちに関連付けて,「皆さんも,悔い改めないなら,皆,滅ぼされます」と警告を与えます。(ルカ 13:2,3)次にイエスは,恐らくピラトの送水路建設に関連して最近起きた惨事について,こう尋ねます。
「また,シロアムの塔が倒れて死んだあの18人はエルサレムの他の全ての住民より罪が重かった,と思いますか」。(ルカ 13:4)群衆は,その人たちが個人的に悪いことをしていたから死んだと思っているようです。しかしこの件でも,イエスはそう考えません。人は皆,「思いも寄らないこと」を経験し,その犠牲になる場合があると知っているからです。(伝道の書 9:11)それでも,人々はこの出来事から大切な点を学ぶべきです。イエスは,「皆さんも,悔い改めないなら,皆,滅ぼされます」と教えます。(ルカ 13:5)イエスはなぜ今のタイミングでこの教訓を強調するのでしょうか。
その答えは,イエスの伝道期間と関係があります。イエスは例えでこう説明します。「ある人が,ブドウ園に1本のイチジクの木を持っていました。実があるかと見に行きましたが,見つかりませんでした。それでブドウの栽培人に言いました。『このイチジクの木に実があるかともう3年も見に来ていますが,一つも見つかりません。切り倒してしまいなさい! なぜ土地を無駄にしているのですか』。栽培人は答えました。『ご主人さま,あと1年そのままにしてください。周りを掘って肥やしをやります。この先,実を結ぶようであればそれでいいですし,そうでなければ切り倒してください』」。(ルカ 13:6-9)
イエスは3年以上にわたって,ユダヤ人が信仰を培えるよう助けてきました。その努力を考えると,弟子となった人たちの数はわずかです。それでイエスは4年目に入って,ユダヤとペレアでますます熱心に伝道し教えます。それはまるで,ユダヤ人というイチジクの木の周りを掘って肥料をやっているようなものです。結果はどうですか。ほんの少数の人しか良い反応を示しません。全体的に見てユダヤ国民は悔い改めず,滅びに向かっています。
多くの人の信仰のなさは,イエスが例えを話したすぐ後に再び明らかになります。イエスは安息日に会堂で教えています。そこには,邪悪な天使に取りつかれているせいで18年間も腰が折れ曲がった女性が来ています。憐れみの気持ちに動かされたイエスはその女性に,「あなたはもう病弱ではありません」と言います。(ルカ 13:12)イエスが両手を置くと,女性はすぐさま真っすぐに立ち,神をたたえ始めます。
ところが,会堂の主宰役員は怒り,「仕事をすべき日は6日あるのだから,それらの日に来て治してもらいなさい。安息日は駄目だ」と言います。(ルカ 13:14)この人は,イエスの癒やす力を認めていないのではありません。安息日に癒やしてもらおうとやって来る人たちを非難しているのです。それでイエスはこう切り返します。「偽善者たち,あなた方はそれぞれ安息日に牛やロバを家畜小屋から解いて,水を飲ませに引いていきませんか。それなら,アブラハムの子孫でサタンが18年も縛っていたこの女性が安息日に解放されてもよいのではありませんか」。(ルカ 13:15,16)
反対者たちは恥ずかしくなります。群衆はというと,イエスがした素晴らしい事柄を見て,とても喜びます。次にイエスは,王国についての2つの預言的な例えをここユダヤで再び話します。これは以前にガリラヤの海のほとりで舟に乗って話したものと同じです。(マタイ 13:31-33。ルカ 13:18-21)
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立派な羊飼いと羊の囲いイエス 道,真理,命
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80章
立派な羊飼いと羊の囲い
立派な羊飼いと羊の囲いの話
今もユダヤで教えているイエスは,人々がイメージしやすい羊と羊の囲いの話をします。話を聞いたユダヤ人たちは,ダビデが語った,「エホバは私の牧者。私は何も不足しない。導かれて青々とした牧草地に寝そべ[る]」という言葉を思い出したでしょう。(詩編 23:1,2)ダビデは「詩編」の別の編でも国民全体に対し,こう呼び掛けています。「さあ,崇拝し,ひれ伏そう。私たちを造ったエホバの前でひざまずこう。この方は私たちの神。私たちは神の牧草地の民」。(詩編 95:6,7)これらの聖句から分かる通り,律法下のイスラエル人はこれまでずっと羊の群れに例えられてきました。
“羊”であるイスラエル人はモーセの律法契約という“羊の囲い”の中で生まれました。律法は柵のようになり,律法契約の下にいない人々の汚れた慣行からイスラエル人を保護しました。しかし,彼らの中には神の羊の群れを優しく扱わない人たちもいました。それでイエスはこう言います。「はっきり言っておきます。羊の囲いに,戸口を通ってではなくほかの所を乗り越えて入る人は,泥棒や強盗です。一方,羊飼いは戸口を通って入ります」。(ヨハネ 10:1,2)
人々は,メシアつまりキリストを自称する人たちのことを思い浮かべたでしょう。そうした人たちは泥棒や強盗のようです。人々はそのようなペテン師にではなく,イエスが語る次のような「羊飼い」に付いていくべきです。
「戸口番は羊飼いに対して戸口を開け,羊は彼の声を聞きます。羊飼いは自分の羊の名前を呼んで連れ出します。自分の羊を皆外に出すと,その先頭を行きます。羊は後に付いていきます。羊飼いの声を知っているからです。よその人には決して付いていかず,むしろ逃げます。その人たちの声を知らないからです」。(ヨハネ 10:3-5)
バプテストのヨハネは戸口番のような役割を果たし,「羊」が付いていくべきなのはイエスであることを明らかにしました。また,ガリラヤでもここユダヤでも,ある人々はイエスの声を聞き分けました。では,イエスは彼らをどこに「連れ出」しますか。イエスに付いていくとどんな結果になりますか。例えを聞いていたある人たちはそうした点を疑問に思ったようです。「イエスが言っている事を理解できなかった」からです。(ヨハネ 10:6)
イエスはこう説明します。「はっきり言っておきますが,私は羊が通る戸口です。私のふりをして来た人は皆,泥棒や強盗です。しかし羊は彼らの言うことを聞きませんでした。私は戸口です。私を通って入るなら救われ,出入りして牧草地を見つけます」。(ヨハネ 10:7-9)
この時,イエスは新しいことを教えていました。人々はイエスが律法契約への戸口でないことを知っています。その契約は何世紀も存在してきたからです。イエスは,自分が「連れ出」す羊は別の囲いに入ることになると話していたのです。では,その羊たちはどうなりますか。
イエスは自分の役割をさらに説明します。「私は,羊が命を得て生き続けるために来ました。私は立派な羊飼いです。立派な羊飼いは羊のために命をなげうちます」。(ヨハネ 10:10,11)「羊飼い」であるイエスは少し前に弟子たちに,「恐れることはありません,小さな群れよ。天の父は,あなたたちに王国を与えることをよしとしました」と言って励ましていました。(ルカ 12:32)ですから,「小さな群れ」を構成する人たちとは,イエスが新しい囲いに連れていく人たちのことです。そして,彼らは「命を得て生き続ける」ことになります。その群れの一員となるのは何という祝福なのでしょう。
イエスの話には続きがあります。「私にはほかの羊がいますが,この囲いのものではありません。私はその羊たちも連れてこなければならず,それらも私の声を聞きます。こうして,1つの群れ,1人の羊飼いとなります」。(ヨハネ 10:16)「ほかの羊」は「この囲いのものではありません」。王国を受け継ぐ「小さな群れ」とは別の囲いにいます。これら2つの囲いの羊に約束されている将来は違っているのです。しかし,どちらの囲いの羊にとってもイエスの役割は重要です。イエスはこう言います。「父は私を愛してくださいます。私が命をなげうつからです」。(ヨハネ 10:17)
群衆の多くは,「彼は邪悪な天使に取りつかれ,頭がおかしくなっている」と言います。しかし,イエスの話に引き付けられ,立派な羊飼いに付いていきたいと考える人たちもいます。そして,「あのような話は邪悪な天使に取りつかれた人にはできない。邪悪な天使が盲人の目を開けられるはずがない」と話します。(ヨハネ 10:20,21)生まれつき盲目だった男性をイエスが癒やした時のことを言っているのでしょう。
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父と一つであっても神ではないイエス 道,真理,命
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81章
父と一つであっても神ではない
「私と父とは一つです」
自分を神としたという非難の間違いを証明する
イエスはエルサレムでの献納の祭り(またはハヌッカ)に来ています。これは神殿の再献納を記念する行事です。100年以上前,シリアの王アンティオコス4世エピファネスは,神殿の大祭壇の上に別の祭壇を築きました。後に,ユダヤ人の祭司の子孫がエルサレムを奪い返し,エホバに神殿を再献納します。それ以来毎年,キスレウの25日から祭りが開かれているのです。キスレウの月は現在の11月後半から12月前半の時期に相当します。
それは寒い冬の時期です。イエスが神殿にあるソロモンの柱廊を歩いていると,ユダヤ人がイエスを取り囲み,「いつまで私たちを迷わせるのですか。あなたがキリストなら,はっきりそう言ってください」と言います。(ヨハネ 10:22-24)イエスは,「私は言いましたが,あなた方は信じません」と答えます。井戸の所でサマリア人の女性に,イエスは自分がキリストであると言いましたが,ユダヤ人たちに直接そう言ったことはありません。(ヨハネ 4:25,26)しかし以前,イエスは自分がどんな者かを明らかにし,「アブラハムが存在する前から私はいます」と話したことがあります。(ヨハネ 8:58)
イエスの願いは,自分の活動と,キリストが行うと予告されていた事柄とを比較し,イエスこそキリストであるという結論を各自が下すことです。そのため,自分がメシアであることを誰にも話さないよう弟子たちに命じてきたのです。でもイエスはここで,自分に敵意を抱いている相手にはっきりこう言います。「父の名において私が行っている事柄を見れば,私が誰かは明らかです。しかしあなた方は信じません」。(ヨハネ 10:25,26)
イエスがキリストであることを彼らが信じないのはなぜでしょうか。イエスはこう説明します。「あなた方は信じません。私の羊ではないからです。私の羊は私の声を聞きます。私は彼らを知っており,彼らは私に付いてきます。私は彼らに永遠の命を与え,彼らは決して滅ぼされません。誰も私の手から彼らを奪うことはありません。天の父が私に与えてくださった羊は,ほかの全てのものより大切で[す]」。そして,自分と父の絆がどれほど強いかを示し,「私と父とは一つです」と言います。(ヨハネ 10:26-30)イエスは地上におり,父は天にいますが,同じ目的を持って一致して行動しているのです。
ユダヤ人たちはその返事を聞いて激怒し,またもや石を拾って殺そうとします。でもイエスは恐れることなく,「私は,天の父が命じた立派な行いをあなた方の前で数多くしました。そのうちどの行いのために,私を石打ちにするのですか」と質問します。すると彼らは,「石打ちにするのは,立派な行いのためではなく,冒瀆のためだ。……自分を神とするからだ」と答えます。(ヨハネ 10:31-33)イエスは自分のことを神だとは一度も言っていないのに,なぜこのように非難されるのでしょうか。
それはイエスが,ユダヤ人が神にしかないと信じていた力を持っていることを話したからです。例えば,「羊」について話した際,「私は彼らに永遠の命を与え」ると言いました。それは人間にはできないことです。(ヨハネ 10:28)でもユダヤ人たちは,イエスが父から権威を与えられているとはっきり述べていることを真剣に受け止めていませんでした。
イエスは彼らの非難が間違いであることを示し,こう言います。「律法[詩編 82編6節]の中に,『私は言った。「あなた方は神だ」』と書かれていませんか。神にとがめられた人たちが『神』と呼ばれ,……父が神聖なものとして世に遣わした私が,自分は神の子だと言うと,『神を冒瀆している』と言うのですか」。(ヨハネ 10:34-36)
聖書は,不公平な裁判人のことをさえ「神」と呼んでいます。ですから,イエスが「自分は神の子だ」と言っても罪を問われる理由にはなりません。イエスは彼らをこう論破します。「私が,父が望むことを行っていないなら,私を信じてはなりません。しかし行っているなら,たとえ私を信じないとしても,その行いを信じなさい。そうすれば,父と私が結び付いていることが分かり,さらによく分かるようになります」。(ヨハネ 10:37,38)
するとユダヤ人たちはイエスを捕まえようとしますが,イエスは逃げます。そしてエルサレムを去ってヨルダン川を渡り,4年近く前にヨハネがバプテスマを施し始めた地域に行きます。
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