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イエスの到来,それともイエスの臨在 ― どちらですかものみの塔 1996 | 8月15日
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イエスの到来,それともイエスの臨在 ― どちらですか
「あなたの臨在と事物の体制の終結のしるしには何がありますか」― マタイ 24:3。
1 イエスの宣教において,質問にはどのような役割がありましたか。
イエスは巧みに質問して,聴き手に考えさせ,物事を新たな観点で熟考させることさえされました。(マルコ 12:35-37。ルカ 6:9; 9:20; 20:3,4)感謝すべきことに,イエスは質問に答えることもされました。その答えのおかげで,それがなければ知ることも理解することもできなかったような真理が明らかになっているのです。―マルコ 7:17-23; 9:11-13; 10:10-12; 12:18-27。
2 今,どんな質問に注意を向けるべきですか。
2 マタイ 24章3節には,イエスがかつて答えた最も重要な質問の一つが記されています。地上での生涯を間もなく終えようとしていたイエスは,エルサレムの神殿が滅ぼされて,その滅びがユダヤ人の体制の終わりを画するものとなることを警告したばかりでした。そのあとマタイの記述はこうなっています。「イエスがオリーブ山の上で座っておられたところ,弟子たちが自分たちだけで近づいて来て,こう言った。『わたしたちにお話しください。そのようなことはいつあるのでしょうか。そして,あなたの臨在[「来たりたまう」(つまり,「到来」),ジェームズ王欽定訳]と事物の体制の終結のしるしには何がありますか』」― マタイ 24:3。
3,4 種々の聖書のマタイ 24章3節のかぎとなる語の訳し方には,どんな重大な違いがありますか。
3 聖書を読む幾百万もの人々は,『弟子たちはなぜこのような質問をしたのだろう。それに対するイエスの答えは自分にどう影響するのだろうか』と考えてきました。イエスは返答の中で,木が芽吹くのを見れば夏の「近い」ことが分かる,と言われました。(マタイ 24:32,33)そのため,多くの教会は,使徒たちが尋ねていたのはイエスの「到来」のしるし,つまりイエスの戻って来られる時が差し迫っていることを示すしるしである,と教えます。人々は,イエスがこの「到来」の時点でクリスチャンを天へ連れて行き,そのあと世の終わりをもたらす,と信じています。あなたはそれが正しいと思われますか。
4 新世界訳聖書を含め,幾つかの訳の聖書では,「到来」という訳の代わりに,「臨在」という語が用いられています。弟子たちが質問し,イエスがそれに答えて言われた事柄は,諸教会で教えられている事柄とは異なる,ということがあり得るでしょうか。実際にはどんなことが質問されたのでしょうか。イエスはどんな答えを述べましたか。
弟子たちは何を尋ねていたのか
5,6 使徒たちがどんな考えでマタイ 24章3節の質問をしたかについて,どんな結論を下せますか。
5 イエスが神殿について言われた事柄から推して,『イエスの臨在[もしくは,到来]と事物の体制[字義,「時代」]の終結のしるし』を尋ねた弟子たちは,恐らく,ユダヤ人の物事の取り決めのことを考えていたのでしょう。―欽定訳のコリント第一 10:11およびガラテア 1:4の「世」と比較してください。
6 この時の使徒たちは,イエスの教えをまだ十分に把握してはいませんでした。それより少し前には,「神の王国が今やたちどころに出現する」ものと想像していました。(ルカ 19:11。マタイ 16:21-23。マルコ 10:35-40)オリーブ山で説明を受けたあとでさえ,聖霊で油そそがれるまでは,イエスがイスラエルに王国を回復されるのは今なのかと尋ねました。―使徒 1:6。
7 使徒たちがイエスの将来の役割について尋ねたのはなぜですか。
7 それでも,彼らはイエスが去って行かれることは知っていました。少し前にイエスが,「光はもうしばらくあなた方の間にあることでしょう。光のあるうちに歩きなさい」と言われたからです。(ヨハネ 12:35。ルカ 19:12-27)ですから,彼らはきっと,『イエスが去って行こうとしておられるのであれば,戻って来られた時にはどのようにそれが認められるのだろうか』と考えたことでしょう。イエスがメシアとして登場した時,ほとんどの人はそれを認めませんでした。それから1年以上たっても,メシアが成就するはずの事柄すべてをイエスが成就するかどうかについての疑問が残されていました。(マタイ 11:2,3)ですから,使徒たちが将来のことを問い尋ねたのももっともなことでした。しかし,それにしても,彼らは,イエスが間もなく戻って来られることのしるしを尋ねていたのですか,それとも別の何かを尋ねていたのでしょうか。
8 使徒たちは恐らくどんな言語でイエスと話していましたか。
8 あなたがオリーブ山でのその会話を聴いている鳥だったとしたらどうでしょう。(伝道の書 10:20と比較してください。)あなたは多分,イエスと使徒たちがヘブライ語を話しているのを耳にしたことでしょう。(マルコ 14:70。ヨハネ 5:2; 19:17,20。使徒 21:40)しかし,恐らく,ギリシャ語も知っていたでしょう。
マタイは,ギリシャ語では何と書いたか
9 マタイによる書の現代の翻訳はたいてい何を拠り所にしていますか。
9 西暦2世紀のものである幾つかの文献は,マタイが福音書を初めはヘブライ語で書いたことを示しています。マタイは後にその書をギリシャ語で書き直したようです。ギリシャ語の写本が現代まで数多く残っており,マタイの福音書を今日の言語に翻訳するための拠り所となっています。マタイはオリーブ山でのその会話をギリシャ語で何と書いたのでしょうか。弟子たちが尋ね,イエスが説明した「到来」もしくは「臨在」について何と書きましたか。
10 (イ)マタイはしばしば,「来る」を意味するどんなギリシャ語を用いましたか。その語はどんな意味を帯びる場合がありますか。(ロ)ほかにギリシャ語のどんな言葉が関心の対象となりますか。
10 マタイの最初の23章には,「来る」を意味する普通のギリシャ語動詞,エルコマイが80回余り出てきます。この語は,ヨハネ 1章47節で,「イエスは,ナタナエルが自分のほうへ来るのをご覧にな(った)」とあるように,近寄る,もしくは近づくという考えを伝える場合が少なくありません。このエルコマイという動詞は,用い方に応じて,「到着する」,「行く」,「着く」,「達する」,あるいは「出かけて行く」という意味になります。(マタイ 2:8,11; 8:28。ヨハネ 4:25,27,45; 20:4,8。使徒 8:40; 13:51)しかしマタイは,マタイ 24章3,27,37,39節で,別の言葉,福音書の中ではほかのどこにも出ていない名詞であるパルーシアを用いました。神が霊感を与えて聖書を書かせたことから見て,マタイがギリシャ語でその福音書を記す際,なぜ神はマタイを動かしてこれらの節にギリシャ語のこの言葉を選ばせたのでしょうか。それは何を意味しますか。わたしたちはなぜ知るべきですか。
11 (イ)パルーシアにはどんな意味がありますか。(ロ)ヨセフスの著書に見られる用例は,パルーシアについてのわたしたちの理解の正しさをどのように裏書きしていますか。(脚注をご覧ください。)
11 パルーシアが「共にいること; 臨在」という意味であることははっきりしています。バインの「新約聖書用語解説辞典」はこう述べています。「パルーシア……字義[的には],臨在。共にという意味のパラと,いることという意味のウーシア(いるを意味するエイミの変化形)から成り,到着ならびにその結果として共にいることを指す。例えば,ある婦人はパピルス文書の手紙の中で,自分の財産に関係した事柄を処理するために,ある場所での自分のパルーシアが必要であることについて述べている」。他の幾つかの辞典は,パルーシアは『支配者の訪問』を意味する,と説明しています。したがって,それは単に到着の瞬間ではなく,到着してからある期間に及ぶ臨在のことなのです。興味深いことに,ユダヤ人の歴史家で使徒たちと同時代の人であったヨセフスは,パルーシアをそのような意味で使いました。a
12 聖書そのものは,パルーシアの意味を確かめるのにどのように役立ちますか。
12 「臨在」という意味には古代の文献による明確な裏づけがありますが,クリスチャンはパルーシアが神の言葉の中でどのように用いられているかに特に関心を抱きます。答えは同じであり,臨在,もしくは,いることです。パウロの手紙にその例を見ることができます。例えば,フィリピの人々にあててこう書いています。「あなた方は常に従ってきましたが,つまり,わたしのいる時だけでなく,わたしのいない今いよいよ進んで従っていますが,そのようにして,恐れとおののきをもって自分の救いを達成してゆきなさい」。また,「[自分]が再び[彼ら]のもとにいること[パルーシア]により」彼らが歓べるよう彼らのもとにとどまることについても述べました。(フィリピ 1:25,26; 2:12)ほかの訳では,「わたしが再びあなた方と共にいること」(ウェイマス訳; 新国際訳),「わたしが再びあなた方と共にいる時」(エルサレム聖書; 新英訳聖書),「わたしがもう一度あなた方の間にいる時」(二十世紀新約聖書)となっています。パウロは,コリント第二 10章10,11節で,「身をもってそこにいる様」を「離れている」ことと対照的に述べています。これらの例においてパウロは,自分の近づいて行くことや到着することについて述べていたのでないことは明らかです。パルーシアを,その場にいるという意味で使っています。b (コリント第一 16:17と比較してください。)では,イエスのパルーシアに言及している箇所についてはどうでしょうか。「到来」という意味で言われているのでしょうか。それとも,ある期間に及ぶ臨在を指しているのでしょうか。
13,14 (イ)パルーシアはある期間に及ぶ,と結論せざるを得ないのはなぜですか。(ロ)イエスのパルーシアの長さについては何と言わなければなりませんか。
13 パウロの時代の,霊によって油そそがれたクリスチャンたちはイエスのパルーシアに関心を抱いていました。しかし彼らに対してパウロは,『動揺して理性を失う』ことがないよう警告しました。まず「不法の人」が現われなければなりません。それはキリスト教世界の僧職者のことでした。パウロの書いているところによれば,「不法の者が存在するのはサタンの働きによるのであり,それはあらゆる強力な業と偽りのしるしと異兆を伴い」ます。(テサロニケ第二 2:2,3,9)明らかな点ですが,「不法の人」のパルーシア,すなわち存在していることは,決してほんの一時的な到着のことではありませんでした。偽りのしるしが生み出される間,しばらく続くことになっていたのです。この点が重要なのはなぜですか。
14 そのすぐ前の節について考えてみてください。「不法の者が表わし示されますが,主イエスはその者を,ご自分の口の霊によって除き去り,その臨在の顕現によってこれを無に至らせる」とあります。「不法の人」の存在が一定のあいだ続くのと同じように,イエスの臨在もある程度の期間に及ぶ事柄であり,その不法な「滅びの子」の滅びをもって最高潮を迎えるのです。―テサロニケ第二 2:8。
ヘブライ語の見地
15,16 (イ)マタイによる書の多くのヘブライ語訳には,どの語が用いられていますか。(ロ)聖書でボーはどのように用いられていますか。
15 すでに述べたように,マタイは福音書を初めはヘブライ語で書いたようです。では,マタイ 24章3,27,37,39節でヘブライ語のどんな言葉を用いたのでしょうか。マタイによる書の幾つかの現代ヘブライ語訳には,使徒たちの質問にもイエスの返答にも,ボーという動詞の変化形が出ています。つまりその箇所は,「あなたの[ボー]と事物の体制の終結のしるしには何がありますか」,そして『人の子の[ボー]はちょうどノアの日のようになります』となっています。ボーにはどんな意味があるのでしょうか。
16 ヘブライ語の動詞ボーは,様々な意味合いを持ちますが,基本的には「来る」を意味します。「旧約聖書神学辞典」はこう述べています。『2,532回出てくるボーは,ヘブライ語聖書で最も頻繁に使われている動詞の一つであり,動作を表わす動詞の筆頭に挙がる』。(創世記 7:1,13。出エジプト記 12:25; 28:35。サムエル第二 19:30。列王第二 10:21。詩編 65:2。イザヤ 1:23。エゼキエル 11:16。ダニエル 9:13。アモス 8:11)もしイエスと使徒たちがそうした広い意味の語を用いたとしたら,その意味については議論の余地もあるでしょう。しかし,本当にその語だったのでしょうか。
17 (イ)マタイによる書の現代のヘブライ語訳はイエスや使徒たちの語ったことを必ずしも表わしているわけではありません。それはなぜですか。(ロ)イエスや使徒たちがどんな語を用いたかに関し,ほかのどこから手掛かりが得られるかもしれませんか。わたしたちはほかにどんな理由でその資料に関心を持ちますか。(脚注をご覧ください。)
17 念頭に置かなければならないのは,現代のヘブライ語版は翻訳であって,マタイがヘブライ語で書いたとおりのものではないかもしれないという点です。実のところ,イエスはボー以外の語,つまりパルーシアの意味にかなった語を使われた可能性が十分にあります。この点は,ジョージ・ハワード教授の著わした「マタイのヘブライ語福音書」という1995年に出版された本に見られます。この本は,ユダヤ人医師シェム・トブ・ベン・イサーク・イブン・シャプルトの唱えた14世紀のキリスト教反対論に焦点を合わせています。その文書にはマタイ福音書のヘブライ語本文の一つが載せられています。マタイのこの本文は,シェム・トブの時代にラテン語もしくはギリシャ語から翻訳されたものではなく,非常に古いもので,元々ヘブライ語で記されたものであることを示す証拠があります。c ですから,これによってわたしたちは,オリーブ山で言われた事柄にいっそう近づくことができるかもしれません。
18 シェム・トブはヘブライ語のどんな興味深い語を用いていますか。その語にはどんな意味がありますか。
18 シェム・トブのマタイによる書は,マタイ 24章3,27,39節でボーという動詞を用いていません。その代わりに,それと関連のある名詞ビアーを用いています。その名詞は,ヘブライ語聖書のエゼキエル 8章5節にだけ出ており,「入り口」を意味しています。そこに出てくるビアーは,来るという行動を表わすのではなく,建物の始まりの部分を指しています。入口もしくは敷居の内側にいる人は,建物の中にいるのです。また,死海文書の一部,聖書以外の宗教文書にもしばしば,一続きの祭司の務めが回って来ること,あるいは始まることに関してビアーという語が使われています。(歴代第一 24:3-19; ルカ 1:5,8,23をご覧ください。)さらに,古代シリア語(もしくはアラム語)「ペシタ訳」の,1986年に出版されたヘブライ語訳も,マタイ 24章3,27,37,39節でビアーを用いています。ですから,古代においてビアーという名詞には,聖書中のボーという動詞とは幾分異なる意味合いがあったかもしれないという証拠があります。このことに関心を持つのはなぜですか。
19 イエスと使徒たちがビアーを用いたとしたら,どんな結論になりますか。
19 使徒たちは質問の中で,またイエスは返事の中でこのビアーという名詞を用いたのかもしれません。たとえ使徒たちがイエスの将来の到着という考えしか念頭に置いていなかったとしても,キリストはビアーを用いて,彼らが考えていた以上の事柄を含めたかもしれません。イエスは新たな職務を開始するための到着に注意を向けておられたとも考えられます。イエスの到着はイエスの新たな役割の始まりとなるのです。これなら,マタイが後に用いたパルーシアの意味合いと合致します。ビアーのそのような用法は,当然ながら,エホバの証人が長年教えてきた事柄,すなわちイエスの与えた複合の「しるし」はイエスが臨在していることの表われであるという教えを支持することになります。
イエスの臨在の最高潮を待ち望む
20,21 ノアの日についてのイエスの言葉から何を学べますか。
20 イエスの臨在についてのこうした研究は,わたしたちの生き方や期待する事柄に直接影響するはずです。イエスは,油断なく見張っているようにとご自分の追随者たちに勧めました。ご自分の臨在を認められるようしるしをお与えになりました。もっとも,ほとんどの人は注意を払わないでしょう。「人の子の臨在はちょうどノアの日のようだからです。洪水前のそれらの日,ノアが箱船に入る日まで,人々は食べたり飲んだり,めとったり嫁いだりしていました。そして,洪水が来て彼らすべてを流し去るまで注意しませんでしたが,人の子の臨在の時もそのようになるのです」― マタイ 24:37-39。
21 ノアの日の期間中,その世代の大半の人々は自分たちの通常の営みをただ続けていました。イエスは,「人の子の臨在の時」も同じようになると予告されました。ノアの周りにいた人々は,何も起こりはしないと考えたかもしれません。ご存じのように,そうではありませんでした。ある期間に及んだそれらの日はやがて最高潮を迎え,「洪水が来て彼らすべてを流し去(り)」ました。ルカも同様の記述を残しており,それによるとイエスは「人の子の日」を「ノアの日」になぞらえておられます。イエスは,「人の子が表わし示されようとしている日も同様でしょう」と訓戒なさいました。―ルカ 17:26-30。
22 わたしたちはなぜマタイ 24章のイエスの預言に特に関心を抱くべきですか。
22 このすべてはわたしたちにとって特別な意味を帯びてきます。わたしたちは,戦争,地震,疫病,食糧不足,イエスの弟子たちに対する迫害など,イエスの予告された出来事を認める時代に住んでいるからです。(マタイ 24:7-9。ルカ 21:10-12)このような状態は,意味深くも第一次世界大戦と名づけられた,歴史を変えた紛争が起きて以来明白になってきましたが,大半の人々は,そうしたことを通常の歴史の一部とみなしています。しかし,真のクリスチャンはそれらの重大な出来事の意味を悟っています。それは,目ざとい人々がいちじくの木が芽吹くのを見て夏の近いことを理解するのと同じです。「このように,あなた方はまた,これらの事が起きているのを見たなら,神の王国の近いことを知りなさい」と,イエスは忠告しました。―ルカ 21:31。
23 マタイ 24章のイエスの言葉はだれに対して特別な意味を持っていますか。それはなぜですか。
23 イエスがオリーブ山で質問に答えて話された事柄の多くは,ご自分の追随者たちに対するものでした。終わりが来る前に全地に良いたよりを宣べ伝える救命活動の一端を担うのはその人々でした。「荒廃をもたらす嫌悪すべきものが……聖なる場所に立っている」のを識別できるのもその人々です。大患難前に『逃げる』ことによりそれにこたえ応じるのもその人々です。また,そのあとの言葉,すなわち「その日が短くされないとすれば,肉なる者はだれも救われないでしょう。しかし,選ばれた者たちのゆえに,その日は短くされるのです」という言葉から特に影響を受けるのもその人々なのです。(マタイ 24:9,14-22)では,身の引き締まるその言葉は一体何を言おうとしているのでしょうか。その言葉を根拠に,いま一層の幸福と確信と熱心さを示すことができる,と言えるのはなぜでしょうか。マタイ 24章22節に関する次の研究でその答えを得ることができるでしょう。
[脚注]
a ヨセフスの著書に見る用例: シナイ山での稲妻と雷鳴は「神がそこに臨在しておられること[パルーシア]を宣言するものであった」。幕屋における奇跡的な顕現は「神の臨在[パルーシア]を示すものであった」。神はエリシャの僕に,周りを囲んでいた戦車を見せることにより,「ご自分の僕の目にご自分の力と臨在[パルーシア]を明らかにされた」。ローマの役人ペトローニオスがユダヤ人をなだめようとした時,『神は』降雨を生じさせることにより『ペトローニオスに対し,ご自分が彼と共にいること[パルーシア]を確かに示された』と,ヨセフスは主張しています。ヨセフスはパルーシアを単に近づいて来ることやほんの一時的な到着を指して用いているのではありません。それには継続してゆく,しかも目に見えない臨在という意味があったのです。(出エジプト記 20:18-21; 25:22。レビ記 16:2。列王第二 6:15-17)―「ユダヤ古代誌」(英文),3巻5章2節[80節],8章5節[203節]; 9巻4章3節[55節]; 18巻8章6節[284節]と比較してください。
b E・W・ブリンガーは,「英語・ギリシャ語新約聖書の校訂辞典・語句索引」の中で,パルーシアが『いること,もしくはいるようになること,したがって臨在,到着していること,また到来した時からその後ずっととどまるという考えを含む到来』を意味することを指摘しています。
c 一つの証拠として,その文書には「み名」というヘブライ語の表現が含まれており,正式もしくは略式のつづりで19回出ています。ハワード教授はこう書いています。「ユダヤ人の反対論者がキリスト教文書を引用する際,そこに含まれる神名をどう読んだかは注目に値する。もしこれがギリシャ語かラテン語のキリスト教文書のヘブライ語訳であったとしたら,その訳文には,口にするのも恐れおおい神名の象徴であるYHWHではなく,アドーナーイ[主]が記されているはずである。……口にするのも恐れおおい名を彼が付加したとは説明し難い。証拠は,シェム・トブが,本文中に神名がすでに載せられていたマタイによる書を手にしていて,恐らくは,神名を削除して有罪とされる危険を冒すよりもそれをそのままとどめたであろうことを強く示唆している」。「新世界訳聖書 ― 参照資料付き」は,クリスチャン・ギリシャ語聖書の中に神の名を用いる根拠の一つとしてシェム・トブのマタイによる書(エ2)を挙げています。
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神が行動される時,あなたは救われますかものみの塔 1996 | 8月15日
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神が行動される時,あなたは救われますか
「その日が短くされないとすれば,肉なる者はだれも救われないでしょう。しかし,選ばれた者たちのゆえに,その日は短くされるのです」― マタイ 24:22。
1,2 (イ)自分の将来に関心を抱くのはなぜ正常なことですか。(ロ)ごく自然な関心がどんな重要な質問に関係していたかもしれませんか。
あなたはご自身のことにどれほど関心がありますか。今日の多くの人は,極端なまでに自分に関心を払い,自己中心的になっています。とはいえ,聖書は,自分に影響する事柄に適切な関心を抱くことを非としてはいません。(エフェソス 5:33)これには,自分の将来に関心を持つことも含まれます。ですから,自分の将来がどうなるかを知りたいと思うのはごく正常なことです。あなたは関心を持っていますか。
2 イエスの使徒たちが自分たちの将来についてそのような関心を抱いていたことは確かです。(マタイ 19:27)使徒たち4人がオリーブ山でイエスと共にいた時には恐らくそのことが一つの要素となっていたのでしょう。彼らはこう尋ねました。「そのようなことはいつあるのでしょうか。そして,これらのすべてのものが終結に至るように定まった時のしるしには何がありますか」。(マルコ 13:4)イエスは将来に対するごく自然な関心を無視されませんでした。それは,使徒たちが抱いた,そしてわたしたちも抱く関心なのです。イエスは再三にわたって,ご自分の追随者たちがどのような影響を受けるか,また最終的な結末がどうなるかを際立たせました。
3 イエスの返答をわたしたちの時代に結びつけるのはなぜですか。
3 イエスの返答は,わたしたちの時代に主要な成就を見る預言ともなりました。わたしたちはその成就を,今世紀に起きた世界戦争その他の紛争,無数の人命を奪う数々の地震,病気や死をもたらす食糧不足,および1918年のスペイン風邪の世界的流行から今日のエイズ禍に至るまでの疫病に見ることができます。とはいえ,イエスの返答の多くの部分はまた,西暦70年にローマ人がエルサレムを滅ぼすまでの過程,またその滅びそのもののうちに成就しました。イエスは弟子たちにこう警告しました。「あなた方は,自分自身に気を付けていなさい。人々はあなた方を地方法廷に引き渡し,あなた方は会堂で打ちたたかれ,わたしのために総督や王たちの前に立たされるでしょう。彼らに対する証しのためです」― マルコ 13:9。
イエスが予告した事柄と実際に起きた事柄
4 イエスの返答にはどんな警告が含まれていますか。
4 イエスは弟子たちが他の人々からどう扱われるかを予告しただけではありません。弟子たちとしてはどう行動すべきか,という点にも注意を促しました。例えば,「荒廃をもたらす嫌悪すべきものが,立ってはならない所に立っているのを見かけるなら(読者は識別力を働かせなさい),その時,ユダヤにいる者は山に逃げはじめなさい」と言われました。(マルコ 13:14)ルカ 21章20節の並行記述は,「エルサレムが野営を張った軍隊に囲まれるのを見たなら」となっています。最初の場合,その予告はどのようにそのとおりになりましたか。
5 西暦66年にユダヤにいたユダヤ人の間にはどんなことが起きましたか。
5 国際標準聖書百科事典(1982年)はこう述べています。「ユダヤ人はローマの支配下にあって次第に反抗的になっており,行政長官たちも次第に暴力的,冷酷,不正直になっていた。紀元66年に公然たる反逆が起きた。……熱心党の者たちがマサダを奪取し,次いでメナヘムに従ってエルサレムへ進軍したとき,戦争が始まった。同時に,総督駐在都市カエサレアのユダヤ人が多数虐殺され,この残虐行為のニュースが国中に広まった。この反乱の第1年から第5年まで,新たに鋳造された硬貨にはそれぞれの年号が刻まれた」。
6 ユダヤ人の反乱はローマ人のどんな反応を引き起こしましたか。
6 ケスティウス・ガルスの率いるローマの第12軍団は,シリアから進軍して,ガリラヤとユダヤを荒廃させ,次いで首都に侵攻して「聖なる都エルサレム」の上部地区を占拠するところまで行きました。(ネヘミヤ 11:1。マタイ 4:5; 5:35; 27:53)「ローマのエルサレム攻囲」と題する本は,事態の進展を要約してこう述べています。「ローマ軍は5日間にわたり,城壁をはしごでよじ登ろうとしては撃退された。しかし防衛軍は,雨あられと飛来してくるものに抗しきれず,ついに屈した。ローマ兵たちは,盾を頭上で固く組み合わせて保護の覆いとする戦術,つまり亀甲型えん蓋を作り,城壁の下を掘り,門に火をかけた。防衛軍はひどい恐慌状態に陥った」。都の中にいたクリスチャンはイエスの言葉を思い起こし,嫌悪すべきものが聖なる場所に立っているのを識別できました。a しかし,都が包囲されていたのであれば,そのクリスチャンたちはどのようにして,イエスの忠告どおりに逃げることができたでしょうか。
7 西暦66年,勝利を目前にしながらローマ軍はどうしましたか。
7 歴史家フラビウス・ヨセフスはこう述べています。「ケスティウス[・ガルス]は,包囲された者たちの絶望感にも,民衆の気持ちにも気づかずに,突如兵を呼び戻し,反撃を受けたわけでもないのに望みを捨て,全く不可解なことに,都から撤退した」。(ユダヤ戦記[英文],II,540,[xix,7])ガルスはなぜ退却したのでしょうか。理由が何であったにせよ,この退却のおかげで,クリスチャンはイエスの命令に従って,山地へ,安全な所へと逃げることができました。
8 エルサレムに対するローマ軍の行動の第二局面はどのような展開になりましたか。生き残った者たちはどんな経験をしましたか。
8 従順は命を救いました。ほどなくしてローマ軍は反乱を鎮圧するために行動しました。ティツス将軍は作戦の絶頂として西暦70年の4月から8月までエルサレムを攻囲しました。ユダヤ人がどれほどの苦しみを受けたかについてヨセフスの描写を読むと,ぞっとするものを感じます。ローマ軍との戦いで殺された者のほかに,ユダヤ人の集団同士の抗争や人肉嗜食も行なうほどの飢餓で死んだユダヤ人もいました。ローマ軍が勝利を収めた時にはすでに,ユダヤ人の死者は110万人に上っていました。b 生き残った9万7,000人も,一部の者は直ちに処刑され,他の者たちは奴隷にされました。ヨセフスはこう述べています。「17歳以上の者たちは鉄のかせをはめられて労役のためにエジプトへ送られもしたが,多くの者はティツスにより各地の属州への贈り物とされ,野外劇場で剣や野獣にかかって死んだ」。この選別がなされている間にも,捕虜のうち1万1,000人が餓死しました。
9 ユダヤ人に臨んだ結末をクリスチャンが経験しなかったのはなぜですか。しかし,どんな質問が残っていますか。
9 クリスチャンは主の警告に従い,ローマの軍隊が戻って来る前に都から逃げていたことを感謝することができました。こうして彼らは,イエスの言われた,エルサレムに臨んだ『世の初めからその時に至るまで起きたことがなく,二度と起きないような大患難』の一部から救われました。(マタイ 24:21)イエスはこう付け加えられました。「実際,その日が短くされないとすれば,肉なる者はだれも救われないでしょう。しかし,選ばれた者たちのゆえに,その日は短くされるのです」。(マタイ 24:22)これは当時どういう意味でしたか。そして,今は何を意味するでしょうか。
10 これまでわたしたちはマタイ 24章22節をどのように説明してきましたか。
10 以前,この『救われる肉なる者』とは,西暦70年にエルサレムに臨んだ患難を生き残ったユダヤ人のことである,と説明されました。クリスチャンが逃げ去っていたので,神はローマ人が速やかな滅びをもたらすままにすることができた,言い換えれば,「選ばれた者たち」が危険を脱していたことのゆえに患難の日は短くされて一部のユダヤ人の「肉なる者」が救われることになったのです。それら生き残ったユダヤ人は,わたしたちの時代に到来する大患難を生き残る人々を予表している,と考えられました。―啓示 7:14。
11 マタイ 24章22節に関する説明を再考したほうがよいと思われるのはなぜですか。
11 しかし,この説明は,西暦70年に起きた事柄と合致しているでしょうか。イエスは,人間の「肉なる者」がその患難から『救われる』,と言われました。あなたは,生き残った9万7,000人のうちの幾千人もの人々がやがて餓死し,あるいは劇場で殺りくされたことを知りながら,それらの人々のことを述べるのに『救われた』という表現を使うでしょうか。ヨセフスは,カエサレアにあった一つの劇場について,「野獣との格闘や互い同士の決闘で死んだ者,また焼き殺された者の数は2,500を超えていた」と述べています。それらの人々は,攻囲された時に死ななかったとはいえ,とても『救われた』とは言えません。イエスは彼らを,来たるべき「大患難」を生き残る幸福な人々に似ているとみなされるでしょうか。
肉なる者が救われる ― どのように?
12 神が関心を抱かれた,1世紀当時の「選ばれた者たち」とはだれでしたか。
12 西暦70年になる前から,神は生来のユダヤ人をもはやご自分の選びの民とはみなしておられませんでした。イエスは,神がその国民をすでに退けておられ,その首都と神殿,および崇拝の体制を終わりに至らせられる,ということを明らかにしました。(マタイ 23:37–24:2)神は,新しい国民,すなわち霊的イスラエルを選ばれました。(使徒 15:14。ローマ 2:28,29。ガラテア 6:16)このイスラエルは,あらゆる国民の中から選ばれて聖霊で油そそがれた男女で構成されました。(マタイ 22:14。ヨハネ 15:19。使徒 10:1,2,34,35,44,45)ケスティウス・ガルスによる攻撃が始まる数年前,ペテロは「父なる神の予知にしたがい,霊による聖化をもって……選ばれた者たち」にあてて手紙を書きました。霊によって油そそがれたそのような人たちは「選ばれた種族,王なる祭司,聖なる国民」でした。(ペテロ第一 1:2; 2:9)神はそのような選ばれた者たちを天に召してイエスと共に統治させるのです。―コロサイ 1:1,2; 3:12。テトス 1:1。啓示 17:14。
13 マタイ 24章22節のイエスの言葉にはどんな意味があったかもしれませんか。
13 こうして,選ばれた者たちとはだれのことかを見定めると,理解しやすくなります。患難の日は「選ばれた者たちのゆえに」短くされる,とイエスは予告されたからです。「のゆえに」と翻訳されているギリシャ語は,「のために」とも訳せます。(マルコ 2:27。ヨハネ 12:30。コリント第一 8:11; 9:10,23; 11:9。テモテ第二 2:10。啓示 2:3)ですから,イエスはこう言っておられたのかもしれません。『その日が短くされないとすれば,肉なる者はだれも救われないでしょう。しかし,選ばれた者たちのために,その日は短くされるのです』。c (マタイ 24:22)エルサレムに閉じ込められていたクリスチャンの選ばれた者たちの益となる,もしくは彼ら「のために」なることが何か起きましたか。
14 ローマの軍隊が西暦66年に不意にエルサレムから退却したとき,「肉なる者」はどのように救われましたか。
14 思い起こしてください。西暦66年,ローマ軍はその地全域に進攻し,上部エルサレムを占領し,城壁の下を掘り始めました。ヨセフスは,「あきらめずにもう少し攻囲を続けてさえいれば,すぐにも都を攻略できたであろう」と評しています。自問してみてください。『強力なローマの軍隊が突然に軍事行動を放棄して,「全く不可解なことに」退却するとはどういうことでしょうか』。軍事史の解説を専門とするルパート・ファルノーは,「ガルスの異様で災いに満ちた決定の十分な理由を首尾よく指摘できた歴史家は一人もいない」と述べています。どんな理由があったにせよ,結果的に言って,患難は短くされました。ローマ軍は退却し,ユダヤ人はそれを追撃しました。閉じ込められていた,油そそがれたクリスチャンの「選ばれた者たち」についてはどうでしょうか。攻囲が解かれたことは,患難の間に殺される危険から彼らが救われたことを意味しました。ゆえに,西暦66年の患難が短くされたことから益を受けたそれらのクリスチャンこそ,マタイ 24章22節で述べられている救われる「肉なる者」だったのです。
あなたの将来はどのようなものになりますか
15 マタイ 24章はわたしたちの時代に特に関心をそそると言えるのはなぜですか。
15 ある人は,『イエスの言葉のこの一層明確な理解に,どうしてわたしが特に関心を払う必要があるのですか』と尋ねるかもしれません。実のところ,イエスの預言は西暦70年に至るまでの事柄とその年に起きた事柄を超えてさらに大きな成就を見ることになっていた,と結論するべき理由があるからです。d (マタイ 24:7; ルカ 21:10,11; 啓示 6:2-8と比較してください。)エホバの証人はこれまで幾十年かにわたって,わたしたちの時代に生じているその主要な成就は,前途に大々的な規模の「大患難」を予期すべきことを証明している,と宣べ伝えてきました。その大患難の期間中,マタイ 24章22節の預言の言葉はどのように成就するでしょうか。
16 近づいている大患難について,「啓示」の書からどんな励みとなる事実を知ることができますか。
16 エルサレムに患難が臨んでからおよそ20年後,使徒ヨハネは「啓示」の書を記しました。それは,前途になお大患難が控えていることをはっきり示しました。自分に影響する事柄に関心のあるわたしたちは,この来たるべき大患難を人間の肉なる者が生きて通過することを「啓示」の書が預言的に保証しているのを知って安心できます。ヨハネは「すべての国民と部族と民と国語の中から来た……大群衆」について予告しました。どういう人たちのことでしょうか。天からの声が答えます。「これは大患難から出て来る者たちで(ある)」。(啓示 7:9,14)そうです,生き残る人々なのです。「啓示」の書を調べると,来たるべき大患難の時に事態がどのように展開するか,またマタイ 24章22節がどのように成就するかについても洞察できます。
17 大患難の最初の局面にはどんな事柄が含まれますか。
17 この患難の最初の局面では,「大いなるバビロン」と呼ばれる象徴的な売春婦が攻撃されます。(啓示 14:8; 17:1,2)彼女は偽りの宗教の世界帝国を表わしており,キリスト教世界がその中の特に責められるべき部分を成しています。啓示 17章16節から18節によれば,神はこの象徴的な娼婦を攻撃することを政治分子の心の中に入れられます。e この攻撃が,神の油そそがれた「選ばれた者たち」とその仲間である「大群衆」の目にどのように映るかを考えてみてください。宗教に対するこの壊滅的な攻撃が進行するにつれ,エホバの民も含むすべての宗教組織が一掃されるように思えるかもしれません。
18 大患難の最初の部分を切り抜けて救われる「肉なる者」はだれもいないように思えるかもしれないのはなぜですか。
18 マタイ 24章22節のイエスの言葉が大規模に成就するのはその時です。エルサレムにいた選ばれた者たちが危うく見えたのと同様,エホバの僕たちは,宗教に対する攻撃が行なわれる中で自分たちも除き去られる危険があるかのように,あたかもその攻撃で神の民の「肉なる者」すべてが一掃されてしまうかのように思えるかもしれません。しかし,西暦66年に起きた事柄を忘れないようにしましょう。ローマ軍による患難は短くされ,神の油そそがれた選ばれた者たちには,逃げて生き延びる機会が十分に与えられたのです。ですから,宗教に対する破壊的な攻撃が真の崇拝者たちの全地球的な会衆を抹殺することは許されない,と確信できます。その攻撃は敏速に,あたかも「一日のうちに」進行するでしょう。しかし,何らかの仕方でそれは短くされ,目指したとおりには遂げられないでしょう。その結果,神の民は『救われる』のです。―啓示 18:8。
19 (イ)大患難の初めの部分が過ぎたあと,どんなことが歴然としますか。(ロ)これはどんな事態につながりますか。
19 悪魔サタンの地上の組織に属する他の諸分子は,その後もしばらくは存続し,古くからのなじみであった宗教上の情婦との関係が失われたことを嘆くでしょう。(啓示 18:9-19)ある時点で彼らは,神の真の僕たちが残って「安らかに住(み,)皆,城壁もなく住んでおり」,簡単に餌食になりそうな状況にあることに目を留めます。実に驚くべきことが待ち受けています。神は,ご自分の僕たちに対する実際の攻撃もしくは攻撃の脅しにこたえて立ち上がり,大患難の最終部分において敵に裁きを執行されるのです。―エゼキエル 38:10-12,14,18-23。
20 大患難の第二局面において神の民はなぜ危険な状態に陥ることはありませんか。
20 大患難のこの第二局面は,西暦70年にローマ軍の二度目の攻撃によってエルサレムとその中にいた人々に生じた事柄と対応します。それは「世の初めから[その時]に至るまで起きたことがなく,いいえ,二度と起きないような大患難」となるでしょう。(マタイ 24:21)しかし,神の選ばれた者たちとその仲間は危険地帯にいない,つまり命を失う危険はないことを確信できます。もちろん,彼らは地理上の一つの場所に逃げているのではありません。1世紀にエルサレムにいたクリスチャンはその都市からヨルダン川の向こうのペラなどの山地へ逃げることができました。しかし,将来の場合,神の忠実な証人たちは全地にいるので,安全と保護は地理上の場所に依存しません。
21 最後の戦いではだれが戦いますか。どんな結果になりますか。
21 滅びは,ローマや他の何らかの人間的代理機関の軍勢によるのではありません。そうではなく,「啓示」の書は,処刑に当たる勢力を天からのものとして描写しています。そうです,大患難のその最終部分は,人間の軍隊によってではなく,「神の言葉」によって,すなわち復活した油そそがれたクリスチャンを含む「天にある軍勢」に支援された王イエス・キリストによって遂行されるのです。「王の王また主の主」であられるこの方は,西暦70年のローマ軍の場合よりはるかに徹底的な処刑を遂行することでしょう。王も,軍司令官も,自由人も奴隷も,小なる者も大なる者も,神に反対する人間はすべて除き去られます。サタンの世に属する種々の人間の組織も終わりに至ります。―啓示 2:26,27; 17:14; 19:11-21。ヨハネ第一 5:19。
22 「肉なる者」はさらにどんな意味で救われますか。
22 思い起こしてください。「肉なる者」は,油そそがれた残りの者たちについても「大群衆」についても,大いなるバビロンが患難の初めの部分で敏速に完全に没する時にすでに救われているのです。同様に,患難の最終部分においても,エホバの側に逃れている「肉なる者」は救われます。西暦70年の反逆的なユダヤ人の迎えた結末とは何という違いでしょう。
23 生き残る「肉なる者」は何を楽しみに待つことができますか。
23 ご自身の,またあなたの愛する人々の将来に起きる事柄を考えながら,啓示 7章16,17節で約束されている事柄に注目してください。「彼らはもはや飢えることも渇くこともなく,太陽が彼らの上に照りつけることも,どんな炎熱に冒されることもない。み座の真ん中におられる子羊が,彼らを牧し,命の水の泉に彼らを導かれるからである。そして神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去られるであろう」。まさにこれこそ,すばらしい,永続するものであり,本当に『救われた』状態なのです。
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