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聖書は神とイエスについて何と述べていますかあなたは三位一体を信ずるべきですか
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別個の創造物であられるイエス
イエスは地上におられた時,一人の人間でしたが,その生命力をマリアの胎に移されたのは神でしたから,イエスは一人の完全な人間でした。(マタイ 1:18-25)しかし,最初からそのような存在だったのではありません。イエスご自身,ご自分が『天から下って』来た者であることを言明されました。(ヨハネ 3:13)ですから,後日,ご自分の追随者たちに,「それでは,人の子[イエス]がもといた所に上るのを見るならば……」と言われたのは,まさにもっともなことでした。―ヨハネ 6:62,新共; 新エルサレム。
したがって,イエスは地上に来る以前,天に存在しておられました。しかし,全能で永遠の三者一体の神に内在する位格の一つ,もしくは人格的存在のひとりとして存在しておられたのでしょうか。そうではありません。なぜなら,み使いたちが神によって創造された霊者だったのと同様,人間となる以前に存在していたイエスも創造された霊者のひとりであられたことを聖書ははっきりと述べているからです。み使いたちもイエスも創造される以前は存在していませんでした。
人間となる以前に存在しておられたイエスは,「すべての被造物の長子」でした。(コロサイ 1:15,バルバロ訳; 新エルサレム)イエスは「神の創造物の始め」でした。(啓示 3:14,改標,カトリック版)「始め」(ギリシャ語,アルケー)という言葉はイエスが神の創造物の「創始者」であったことを意味すると解釈するのは,当を得たこととは言えません。ヨハネは聖書中のその著作の中で,ギリシャ語のアルケーという言葉を様々な形で20回以上使っていますが,それらの言葉は常に「始め」という共通の意味を持っています。確かに,イエスは神の見えない創造物の始めとして,神によって創造されたのです。
イエスの起源に言及している,これらの参照箇所が,聖書の箴言の書の比喩的な「知恵」の語る言葉とたいへん密接に関連し合っていることに注目してください。こう記されています。「主は,その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお,先立って。山々の基も据えられてはおらず,丘もなかったがわたしは生み出されていた。大地も野も,地上の最初の塵もまだ造られていなかった」。(箴言 8:12,22,25,26,新共; 新エルサレム)この「知恵」という語は,神により創造された方を擬人化するために使われていますが,それは実際,人間となる以前に存在しておられた,霊の被造物としてのイエスを指す,比喩的な表現であるという点で,大抵の学者の意見は一致しています。
次いで,人間となる以前に存在していた「知恵」としてのイエスは,「その[神の]かたわらにあって,名匠」となっていたと言っておられます。(箴言 8:30,口語聖書; エルサレム)この名匠としての役割と調和して,コロサイ 1章16節はイエスについて,「神は天においても地上でも,あらゆるものを……彼を通して造られた」と述べています。―「今日の英語訳」(今英)。
それで,全能の神は,いわばご自分の年下の仲間とも言える,この名匠によって,他のすべてのものを造られたのです。聖書はそのことをこう要約しています。「わたしたちにとっては,父なる,ただひとりの神がおられ,この方からすべてのものが出ており……また,一人の主,イエス・キリストがおられ,この方を通してすべてのものがあ(るのです)」(下線は本書編者。)― コリント第一 8:6,改標,カトリック版。
確かに,神はこの名匠に向かって,『わたしたちの像に人を造ろう』と言われました。(創世記 1:26)中には,この言い回しの中の「わたしたち」という言葉が三位一体を示唆していると主張する人もいます。しかし,もしあなたが,『わたしたちのために何かを作ろう』と言うとしたら,普通,それは何人かの人々が結合して一人の人としてあなたの内にいることを示唆していると解する人は一人もいません。それは,二人かそれ以上の個々の人がある事柄を行なうため一緒に働くことを意味しているにすぎません。ですから,神が「わたしたち」という言葉をお用いになった時も,もうひとりの単一な方,ご自分の最初の霊の創造物,あの名匠,つまり人間となられる以前のイエスに話しかけておられたにすぎません。
神は誘惑され得ただろうか
マタイ 4章1節は,イエスが「悪魔の誘惑を受ける」ことについて述べています。サタンは「世のすべての王国とその栄光」をイエスに示した後,「もしあなたがひれ伏してわたしに崇拝の行為をするならば,わたしはこれらのすべてをあなたに上げましょう」と言いました。(マタイ 4:8,9)サタンはイエスを神に対して不忠節な者にならせようとしていたのです。
しかし,もしイエスが神であったなら,それは忠節に関するどんな試験だったのでしょうか。神はご自身に反逆できたのでしょうか。いいえ,できませんでした。しかし,み使いや人間は神に反逆できましたし,また実際そうしました。イエスが神ではなく,自分自身の自由意志を持つ,別個の単一なる方で,み使いや人間のように,不忠節になりたいと思えば,そうなり得る方であって初めて,この方を誘惑することが意味をなしたでしょう。
一方,神が罪をおかしてご自身に対して不忠節になり得るということは考えられません。「そのみ業は完全……忠実の神……義であり,廉直であられる」からです。(申命記 32:4)それで,もしイエスが神であったなら,誘惑されることはあり得なかったでしょう。―ヤコブ 1:13。
イエスは神ではなかったので,不忠節になることもあり得たでしょう。しかし,イエスは忠実を保ち,「サタンよ,離れ去れ!『あなたの神エホバをあなたは崇拝しなければならず,この方だけに神聖な奉仕をささげなければならない』と書いてあるのです」と言われました。―マタイ 4:10。
贖いはどれほど価値があったか
イエスが地上に来られた主な理由の一つも,三位一体と直接関係があります。聖書はこう述べています。「神はただひとりであり,また神と人間との間の仲介者もただひとり,人間キリスト・イエスであって,この方は,すべての人のための対応する贖いとしてご自身を与えてくださ(いました)」― テモテ第一 2:5,6。
完全な人間以上の者でも,それ以下の者でもなかったイエスは,アダムが失ったもの ― 地上の完全な人間としての命を受ける権利 ― を正確に償う贖いとなられました。それで,使徒パウロがイエスを「最後のアダム」と呼び得たのももっともなことで,パウロは同じ文脈の中で,「アダムにあってすべての人が死んでゆくのと同じように,キリストにあってすべての人が生かされ(ま)す」と言いました。(コリント第一 15:22,45)イエスの完全な人間としての命は,神の公正により要求された「対応する贖い」で,それ以上のものでも,それ以下のものでもありませんでした。人間の公正に関する基本的な原則の場合でさえ,代償は犯された悪行に適合するものであるべきです。
しかし,もしイエスが神の一部であったなら,その贖いの価値は神ご自身の律法が要求する以上の無限に高いものとなったでしょう。(出エジプト記 21:23-25。レビ記 24:19-21)エデンで罪をおかしたのは,完全な人間アダムであって,神ではありませんでした。ですから,真に神の公正と調和すべき贖いは,厳密に価値の等しいもの ― 完全な人間 ―「最後のアダム」でなければなりませんでした。そこで,神はイエスを贖いとして地上に遣わした時,イエスを公正の原則にかなうもの,つまり化身でも,神人でもなく,『み使いたちより低い』完全な人間とされたのです。(ヘブライ 2:9。詩編 8:5,6と比較。)全能の神の一部 ― 父,子,あるいは聖霊 ― のいずれかであれば,一体どうしてみ使いたちよりも低くなれたのでしょうか。
どのように「独り子」であられたか
聖書はイエスのことを神の「独り[英文の字義,『ただ一人生まれた』]子」と呼んでいます。(ヨハネ 1:14; 3:16,18。ヨハネ第一 4:9)三位一体論者は,神が永遠に存在するので,神の子も永遠に存在すると言います。しかし,ある人が息子であると同時に,どうして父と同じほど年を取っているなどということがあり得るでしょうか。
イエスの場合,「独り」,つまり文字通りには「ただ一人生まれた」という言葉は,「父親として子をもうける」ことを意味する「生む」という言葉の辞書の定義と同じではないと,三位一体論者は主張します。(ウェブスター大学生用新辞典第9版)そして,イエスの場合,それは「始めのない関係」,つまり生み出されることなしに存在する,一種のひとり息子と父との関係を意味すると言うのです。(バインの旧約・新約聖書用語解説辞典)これはあなたにとって筋道の通ったことと思えますか。人は子をもうけなくとも,息子の父となれるのでしょうか。
さらに,聖書ではどうして,「独り」,つまり文字通りには「ただ一人生まれた」という意味の同じギリシャ語の言葉が(バインも何ら説明せずに認めているように)イサクとアブラハムとの関係を表わすために用いられているのでしょうか。ヘブライ 11章17節では,イサクのことがアブラハムの「独り子」,つまり「ただ一人生まれた子」と呼ばれています。イサクの場合,彼は普通の意味での独り子,つまりただ一人生まれた子であって,時間もしくは立場において父と同等ではありませんでした。このことには疑問の余地がありません。
イエスやイサクを指して使われている「独り」,つまり文字通りには「ただ一人生まれた」という意味のギリシャ語の基本的な言葉はモノゲネースで,これは「ただ一人の」という意味のモノスと,「生ずる」,「なる(生まれ出る)」という意味の語根語ギノマイでできていると,ストロング編,「聖書詳細用語索引」は述べています。したがって,モノゲネースは,「ただ一人産まれた,ただ一人生まれた,すなわちただ一人の子供」と定義されています。―E・ロビンソン編,「新約聖書希英辞典」。
ゲルハルト・キッテルの編さんした,「新約聖書神学辞典」は,「[モノゲネース]は『唯一の後裔』,すなわち兄弟や姉妹がいないという意味である」と述べています。同辞典はまた,ヨハネ 1章18節; 3章16,18節,およびヨハネ第一 4章9節では,「イエスの関係は単にただ一人の子供とその父のそれに例えられているのではない。それはただ一人生まれた方とみ父との関係なのである」と述べています。
ですから,独り子,つまりただ一人生まれた子であられたイエスには,命の始めがありました。それで,全能の神を,アブラハムのように地的な父親が息子を生むのと同じ意味で,イエスを生んだ方,つまりその父と呼ぶことができるのは,もっともなことです。(ヘブライ 11:17)したがって,聖書の中で神がイエスの「父」と呼ばれている場合,それはその言葉どおりのこと,つまりそのおふた方はふたりの別個の単一なる方であられることを意味しています。神は年上の方で,イエスは時間,地位,力,および知識の点で年下の方です。
イエスは天で創造された,神のただひとりの霊の子ではなかったことを考えると,「独り子」,つまり「ただ一人生まれた子」という言葉がイエスの場合に使われた理由が明らかになります。創造されたほかの無数の霊者たち,つまりみ使いたちもまた,アダムの場合と同様の意味で,「神の子たち」と呼ばれています。なぜなら,その生命力は,命の泉つまり源であられるエホバ神から生じたからです。(ヨブ 38:7。詩編 36:9。ルカ 3:38)しかし,それらのみ使いは皆,神により直接生み出された,ただひとりの方であられた「独り子」を通して創造されたのです。―コロサイ 1:15-17。
イエスは神であると考えられていたか
イエスは聖書の中でしばしば神の子と呼ばれていますが,かつてイエスのことを子なる神と考えた人は,1世紀には一人もいませんでした。「ただひとりの神がおられることを信じている」悪霊たちでさえ,霊の領域における自分たちの経験から,イエスが神ではないことを知っていました。それで,彼らはイエスを別個の「神の子」として正しく呼びかけました。(ヤコブ 2:19。マタイ 8:29)また,イエスが亡くなった時,傍らに立っていた異教徒のローマの兵士たちは,イエスの追随者から聞いていたことが正しいに違いない,つまりイエスは神であるというのではなく,「確かにこれは神の子であった」と言いました。―マタイ 27:54。
したがって,イエスは,「神の子」という句により,三位一体の一部としてではなく,創造された別個の存在として引き合いに出されています。神の子である以上,イエスは神ご自身ではあり得なかったでしょう。というのは,ヨハネ 1章18節は,「いまだかつて,神を見た者はいない」と述べているからです。―新共; 改標,カトリック版。
弟子たちはイエスのことを神ご自身ではなく,『神と人間との間のただひとりの仲介者』とみなしました。(テモテ第一 2:5)仲介者は定義からして,仲介を必要とする当事者たちとは別個の者ですから,イエスが自ら和解を図ろうとしていた当事者たちのいずれかと同一の実在者だというのは,矛盾しています。ご自分がそうではないのに,そうであるかのように見せ掛けておられたことになるでしょう。
神とイエスとの関係に関して聖書が示していることは明白で,首尾一貫しています。ただエホバ神だけが全能者であられます。そして,人間となられる以前のイエスを直接創造されました。したがって,イエスには始めがありましたから,イエスは力もしくは永遠性の点で決して神と同等な方ではあり得ませんでした。
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聖書は神とイエスについて何と述べていますかあなたは三位一体を信ずるべきですか
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イエスは神を「唯一まことの神」と呼ばれました。(ヨハネ 17:3)神のことを複数の人格的存在で成る神として呼ばれたことは決してありません。そのような訳で,エホバ以外のだれかが全能者と呼ばれている箇所は,聖書のどこにもありません。さもなければ,「全能」という言葉は無意味なものになります。また,イエスも聖霊も決してそのように呼ばれてはいません。というのは,ただエホバだけが最高の方だからです。創世記 17章1節で,エホバは,「わたしは全能の神である」と言明しておられます。また,出エジプト記 18章11節は,『エホバは他のすべての神々に勝って偉大な方である』と述べています。
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神は常にイエスよりも上位の方ですかあなたは三位一体を信ずるべきですか
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神は常にイエスよりも上位の方ですか
イエスはご自分が神であるとは決して主張されませんでした。イエスがご自身について言われたことはすべて,ご自分がどんな点でも ― 力,知識,年齢のいずれの点でも ― 神と同等であるとは考えておられなかったことを示唆しています。
天上にせよ,地上にせよ,イエスのどの存在期間であれ,その話や行動は神との従属関係を反映しています。神は常に上位の方であって,イエスは神によって創造された,より劣った方です。
神とは区別されているイエス
イエスはご自分が神とは別個の一被造物であること,またご自分より勝った神,ご自分の崇拝する神,ご自分が「父」と呼んだ神がおられることを何度も示されました。イエスは神,すなわち父への祈りの中で,「唯一まことの神であるあなた」と言われました。(ヨハネ 17:3)また,ヨハネ 20章17節ではマグダレネのマリアに,「わたしの父であり,あなたがたの父である方,また,わたしの神であり,あなたがたの神である方のところへわたしは上る」と言われました。(新共; 改標,カトリック版)使徒パウロはコリント第二 1章3節で,そのような関係を確証して,『わたしたちの主イエス・キリストの神また父がほめたたえられますように』と述べています。イエスはご自分の父なる神を持っておられたのですから,同時にご自分がその神であるということはあり得なかったでしょう。
使徒パウロはイエスと神が明らかに別個の方であることをきたんなくこう述べました。「わたしたちにとっては,唯一の神,父である神がおられ……また,唯一の主,イエス・キリストがおられ(るのです)」。(コリント第一 8:6,新共; エルサレム)同使徒は「神とキリスト・イエスと選ばれた天使たちとの前で」と述べた際,その区別を示しています。(テモテ第一 5:21,新共; 改標共同訳)互いに異なった存在である,天のイエスとみ使いたちについてパウロが述べているのと同様,イエスと神もやはり異なった存在です。
また,ヨハネ 8章17節と18節のイエスの言葉にも重要な意味があります。イエスはこう述べておられます。「あなた方自身の律法の中に,『二人の証しは真実である』と書いてあります。わたしは,自分について証しする者であり,わたしを遣わした父もわたしについて証しされるのです」。イエスはここで,ご自分と父,すなわち全能の神がふたりの異なった実在者に違いないことを示しておられます。さもなければ,どうして本当に二人の証人が存在し得るでしょうか。
イエスはさらに,「なぜ,わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに,善い者はだれもいない」と言って,ご自分が神とは別個の存在であることを示されました。(マルコ 10:18,新共; エルサレム)ですから,イエスは,神のように善い者は一人もおらず,イエスご自身でさえそのような者ではないと言われました。神はご自分がイエスとは別個の存在であることを示すような仕方で善い方となっておられるのです。
神の柔順な僕
イエスは次のようなことを何度も言われました。「子は,父のなさることを見なければ,自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも,子もそのとおりにする」。(ヨハネ 5:19,新共; モンシニョール・R・A・ノックス訳,「聖書」)「わたしは,自分の意志ではなく,わたしを遣わした方のご意志を行なうために天から下って来(まし)た」。(ヨハネ 6:38)「わたしの教えはわたしのものではなく,わたしを遣わした方に属するものです」。(ヨハネ 7:16)遣わした方は,遣わされた者よりも上位の方ではありませんか。
この関係はぶどう園に関するイエスの例えの中でもはっきり示されています。イエスはご自分の父なる神をぶどう園の所有者に例えられました。その所有者は,ユダヤ人の僧職者を表わしていた耕作人たちにぶどう園を任せて,外国へ旅行に出かけました。後日,その所有者が一人の奴隷を遣わして,ぶどう園の実りを幾らか得させようとしたところ,耕作人たちはその奴隷を打って,むなし手で去らせました。そこで,所有者は二番目の奴隷を遣わし,そののち三番目の奴隷をも遣わしましたが,それらの奴隷も二人とも同じように扱われました。ついに,所有者は,「わたしの愛する息子[イエス]を遣わすことにしよう。これなら恐らく尊敬するだろう」と言いました。しかし,不正な耕作人たちは言いました。「『これは相続人だ。こいつを殺して,相続財産を我々のものにしよう』。そうして,彼をぶどう園の外に追い出して,殺してしまったのです」。(ルカ 20:9-16)ですから,イエスはご自分の立場を,ちょうど柔順な息子が父から遣わされるように,神のご意志を行なうよう神から遣わされる者に例えられました。
イエスの追随者たちは常にイエスを神と同等な方ではなく,神の柔順な僕とみなしました。彼らは,「[神]が油を注がれた聖なる僕イエス」について神に祈り,「聖なる僕イエスの名によって……しるしと不思議な業が行なわれるようにしてください」と願いました。―使徒 4:23,27,30,新共; 改標,カトリック版。
いつでも上位の方であられる神
イエスが宣教を開始するに際し,バプテスマを受けて水の中から上がって来られた時,天からの神の声が,「これはわたしの子,わたしの愛する者である。この者をわたしは是認した」と言いました。(マタイ 3:16,17)神はご自身がご自分の子であり,ご自身がご自分を是認し,ご自身がご自分を遣わした,と言っておられたのでしょうか。いいえ,創造者なる神は上位の者であるご自分が,より劣った者である,み子イエスを前途の業のために是認したと言っておられたのです。
イエスは,「エホバの霊がわたしの上にある。貧しい者に良いたよりを宣明させるためわたしに油をそそ(いだからである)」と述べて,父の優位性を示唆されました。(ルカ 4:18)油をそそぐとは,上位者がそれまでに権威を持っていないだれかに権威もしくは使命を授けることです。ここでは,神は明らかに上位者です。なぜなら,神はイエスに油をそそいで,イエスが以前持っていなかった権威をイエスにお与えになったからです。
イエスは二人の弟子の母親から,ご自分が王国に入る際,二人の息子をイエスの右と左に座らせてほしいと頼まれた時,ご自分の父の優位性をはっきりと示されました。イエスは,「わたしの右と左にだれが座るかは,わたしの決めることではない。それは,わたしの父によって定められた人々に許されるのだ」とお答えになりました。(マタイ 20:23,新共; エルサレム)イエスが全能の神であったなら,それらの地位はイエスがご自分でお与えになったことでしょう。しかし,イエスはそれを与えることができませんでした。なぜなら,それは神がお与えになるものであって,イエスは神ではなかったからです。
イエスご自身の祈りは,ご自分が下位の地位にあることを力強く示した実例です。イエスはまさに死のうとしていた時,「父よ,もしあなたの望まれることでしたら,この杯をわたしから取り除いてください。しかしやはり,わたしの意志ではなく,あなたのご意志がなされますように」と祈って,だれがご自分の上位者かを示されました。(ルカ 22:42)イエスはだれに祈っておられましたか。ご自身の一部にそうしておられましたか。いいえ,イエスは全く別個の方,み父,つまり神に祈っておられました。その方のご意志は勝っており,イエスご自身の意志とは異なったものであり得たでしょうし,ただその方だけが『その杯を取り除き』得たのです。
その後,イエスは死に臨んで,「わが神,わが神,なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。(マルコ 15:34,新共; エルサレム)イエスはだれに向かって叫んでおられたのですか。ご自分に,それともご自身の一部に向かって叫んでおられたのですか。確かに,「わが神」という叫び声は,自分自身のことを神とみなした者から出たのではありませんでした。それに,もしイエスが神であったなら,イエスはだれに見捨てられたのでしょうか。自分自身に見捨てられましたか。それでは意味をなさなかったでしょう。イエスはまた,「父よ,わたしの霊をみ手に託します」と言われました。(ルカ 23:46)もしイエスが神であったなら,どんな理由があって,ご自分の霊を父に託されたのでしょうか。
イエスは亡くなった後,あしかけ三日のあいだ墓にいました。もしイエスが神であったなら,「わたしの神,わたしの聖なる方,あなたは死なれることがありません」というハバクク 1章12節の言葉は間違っていたことになります。しかし聖書は,イエスが確かに死んで,墓の中で無意識であったことを述べています。それに,だれがイエスを死人の中から復活させましたか。イエスが本当に死んだのなら,ご自分を復活させることはできなかったでしょう。一方,もしイエスが実際に死んだのでなかったなら,その見せ掛けの死は,アダムの罪に対する贖い代を払うものではなかったでしょう。しかし,イエスは確かにご自分の正真正銘の死によってその代価をそっくり支払われました。それで,「神は,死の苦しみを解いて[イエス]を復活させ(てくださいました)」。(使徒 2:24)上位者であられる全能の神が,より劣った者である,ご自分の僕イエスを死人の中からよみがえらせてくださったのです。
イエスが人々を復活させる奇跡を行なう能力を持っていたことは,イエスが神であられたことを示唆していますか。では,使徒たちや預言者エリヤやエリシャもやはりそのような力を持っていましたが,それらの人たちは人間以上の者とはなりませんでした。神は預言者たちやイエスや使徒たちを支持していることを示すため,奇跡を行なう力を彼らにお与えになりました。しかしそのために,彼らのうちのだれかが複数の神の一部になったわけではありませんでした。
イエスの持っておられた知識には限界があった
イエスは現在の事物の体制の終わりに関する預言を述べた際,「その日,その時は,だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」と言われました。(マルコ 13:32,新共; 改標,カトリック版)もしイエスが神の一部で,神と同等な子であったなら,父の知っておられることをご自分も知っておられたことでしょう。ところが,イエスはご存じではありませんでした。それは,イエスが神と同等ではなかったからです。
同様に,ヘブライ 5章8節によれば,イエスは「苦しんだ事柄から従順を学ばれました」。神が何かを学ばなければならなかったなどと考えられるでしょうか。いいえ,考えられません。しかし,イエスは学ばなければなりませんでした。神の知っておられることをすべてご存じだったわけではないからです。それに,イエスは神が決して学ぶ必要のないこと,つまり従順を学ばなければなりませんでした。神は決してだれにも従う必要がありません。
イエスが復活させられて,天で神と共になられた時でも,神とキリストがそれぞれ知っておられる事柄には,やはり相違がありました。聖書巻末の書の冒頭の「イエス・キリストの黙示。この黙示は……神が……キリストにお与えに(なった)……ものである」という言葉に注目してください。(啓示 1:1,新共; 改標,カトリック版)もし,イエスご自身が神の一部であったなら,神の別の一部つまり神から黙示,もしくは啓示を与えられる必要があったでしょうか。確かにイエスはそのすべてをご存じだったでしょう。神はご存じだったからです。ところが,イエスはご存じではありませんでした。イエスは神ではなかったからです。
イエスは引き続き神に従属しておられる
イエスは人間となる前に存在していた時でも,地上にいた時でも,神に従属しておられました。復活後も,引き続き従属的な第二の地位にとどまっておられます。
ペテロや彼と共にいた人たちはイエスの復活について語った時,ユダヤ人のサンヘドリンに対して,「神はこの方[イエス]を……ご自分の右に高めました」と告げました。(使徒 5:31)パウロは,「神は彼をさらに上の地位に高め(ました)」と述べました。(フィリピ 2:9)もしイエスが神であったなら,どうしてイエスを高める,すなわち以前享受していたものよりも高い地位に引き上げることができたのでしょうか。イエスはすでに三位一体の高められた一部となっていたことでしょう。もしイエスが高められる以前に神と同等であったなら,何らかの点でさらに高められたイエスは,神よりも上位の者とされたことでしょう。
パウロはまた,キリストが「天そのものに入り,今やわたしたちのために神の御前に現れてくださった」と述べました。(ヘブライ 9:24,新共; エルサレム)もしあなたがだれかほかの人の前に出るとしたら,あなたはどうしてその人であり得るでしょうか。そういうことはあり得ません。あなたは異なった別個の方であるに違いありません。
同様に,殉教者ステファノは石打ちにされて死ぬ直前に,「天を見つめて,神の栄光およびイエスが神の右に立っておられるのを目にし」ました。(使徒 7:55)明らかにステファノはふたりの別個の単一なる方を見ましたが,聖霊や三位一体の神を見たのではありませんでした。
啓示 4章8節から5章7節までの記述では,神がご自分の天の王座に座っておられる様子が示されていますが,イエスのことはそのようには示されていません。イエスは神の右手から巻き物を受け取るため神に近づかなければなりません。これは,天のイエスが神ではなく,神とは別個の方であることを示しています。
前述の事柄と一致して,英国,マンチェスターのジョン・ライランズ図書館会報は次のように述べています。「復活後,天的な命を得たイエスは,この世でのイエスとして地上で命を受けた時と同様,どの点から見ても,神の位格とは異なった別個の存在としての人格的単一性を保持する方として描かれている。イエスは神と並べられたり,神と比べられたりすると,ちょうどみ使いたちがそうであったように,確かに神の天の法廷にいる,さらにもうひとりの天的な存在のように思える。もっとも,神の子であるイエスは別の範ちゅうの方なので,み使いたちよりもはるかに上の位に位置している」。―フィリピ 2:11と比較。
同会報はまた,こう述べています。「しかし,天界のキリストの生活や職務について述べられていることは,神聖な地位の点でイエスが神ご自身と等しい方で,紛れもない神であることを意味しておらず,また暗示してもいない。それどころか,我々はイエスの天的な人格的存在や奉仕に関する新約聖書の描写のうちに,神とは別個であるが,同時に神に従属している方の姿を見るのである」。
イエスはこれからも永遠の将来にわたり,天で神に従属する別個の僕として存在してゆかれます。聖書はそのことを次のように表現しています。「次いで,世の終わりが来ます。そのとき,[天におられる]キリストは……父である神に国を引き渡されます。……御子自身も,すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです」― コリント第一 15:24,28,新共; 新エルサレム。
イエスはご自分が神であるとは決して主張されなかった
聖書の見解は明白です。全能の神エホバはイエスとは別個の人格的存在であるだけでなく,いつでもイエスより上位の方であられます。イエスは常に神の謙遜な僕で,より劣った別個の存在として表わされています。そのようなわけで,聖書ははっきりと,『すべての男の頭はキリストである』のと同様に,「キリストの頭は神です」と述べています。(コリント第一 11:3)また,このようなわけで,イエスご自身も,『父はわたしよりも偉大な方である』と言われました。―ヨハネ 14:28,新共; 改標,カトリック版。
実際,イエスは神ではありませんし,またそうであるとは決して主張されませんでした。このことを認める学者は増えています。それは,ライランズ図書館の「会報」が次のように述べているとおりです。「最近のおよそ三,四十年間に行なわれた新約聖書の研究により,確かにイエスは……自分が神であるとは決して信じていなかったという結論に達する,新約聖書の立派な学者が増えている」。
同「会報」はまた,1世紀のクリスチャンについてこう述べています。「ゆえに,キリスト,人の子,神の子,および主などの敬称を[イエス]に付した彼らは,そのようにして,イエスが神であることではなく,イエスが神の業を行なっていたことに言及していたのである」。
ですから,一部の宗教学者たちでさえ,イエスが神であるという概念は聖書の証言全体に反していることを認めています。聖書では,神は常に上位者であられ,イエスは従属の僕であられます。
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