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キリストの精神態度をあなた方のうちに保ちなさいものみの塔 2009 | 9月15日
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キリストの精神態度をあなた方のうちに保ちなさい
『キリスト・イエスと同じ精神態度をあなた方互いの間に持ちなさい』。―ロマ 15:5。
1 キリストの精神態度を身につけるよう努めるべきなのはなぜですか。
イエス・キリストは,こう言いました。『わたしのところに来て,わたしから学びなさい。わたしは気質が温和で,心のへりくだった者だからです。あなた方は自分の魂にとってさわやかなものを見いだすでしょう』。(マタ 11:28,29)この温かい招きの言葉には,イエスの愛ある精神態度がよく表われています。どんな人間も,イエス以上に優れた手本とはなれません。イエスは,神の子であり強力な方でしたが,思いやりや優しさを示しました。困っている人には特にそうしました。
2 これからイエスの態度のどんな面について考えますか。
2 この記事とこれに続く二つの記事では,どうすればイエスと同じ精神態度を養って保てるか,またどうすれば「キリストの思い」を生活に反映させることができるか,という点を考えます。(コリ一 2:16)おもに,イエスの温和で謙遜な気質,親切,神に対する従順,勇気,絶えることのない愛という,五つの面に注目しましょう。
キリストの温和な気質から学ぶ
3 (イ)イエスは弟子たちに,謙遜な者となるべきことに関する教訓を,どのようにして与えましたか。(ロ)イエスは,弟子たちが弱さを示した時,どうしましたか。
3 神の完全なみ子イエスは,不完全で罪のある人々の間で仕えるために,進んで地に来ました。後に人々によって殺されることになっていたにもかかわらず,常に喜びと自制心を保ちました。(ペテ一 2:21-23)その手本を『一心に見つめる』なら,他の人の欠点や不完全さが気になるとしても,イエスと同じその精神を保つことができます。(ヘブ 12:2)イエスは弟子たちに,「わたしと共にわたしのくびきの下に就いて」わたしから学びなさい,と勧めました。(マタ 11:29,脚注)弟子たちはどんなことを学べたでしょうか。一つとして,イエスは気質が温和で,弟子たちの欠点を見ても辛抱強く接しました。死を遂げる前の夜には,弟子たちの足を洗うことにより,「心のへりくだった者」となるべきであるという,弟子たちにとって忘れられない教訓を与えました。(ヨハネ 13:14-17を読む。)後に,ペテロ,ヤコブ,ヨハネが『ずっと見張っている』ことができなかった時には,彼らの弱さを思いやり深く認め,こう言いました。「シモンよ,あなたは眠っているのですか。……あなた方は,ずっと見張っていていつも祈り,誘惑に陥らないようにしていなさい。もとより,霊ははやっても,肉体は弱いのです」。―マル 14:32-38。
4,5 他の人の落ち度に対処するうえで,イエスの手本はどのように助けになりますか。
4 わたしたちは,信仰の仲間が競争心を表わしたり,すぐに腹を立てたり,長老たちや「忠実で思慮深い奴隷」からの助言になかなかこたえ応じなかったりする場合,どうするでしょうか。(マタ 24:45-47)サタンの世の人々の間によく見られる肉的な傾向を我慢することはできても,兄弟たちの間にそのような不完全さを見るのはとても耐え難く思える場合があります。もしも他の人の落ち度にすぐ苛立つようなら,『どうすれば「キリストの思い」をもっと反映できるだろうか』と自問する必要があります。イエスは,弟子たちが多少の霊的な弱さを示した時でも,心を乱されたりしませんでした。そのことを忘れないようにしましょう。
5 使徒ペテロの例について考えてみてください。イエスがペテロに,舟から降りて水の上を歩いて来なさい,と言った時,ペテロは実際に少しの間そうしましたが,風あらしを見ると,沈み始めました。イエスはどうしたでしょうか。いきり立って,「信仰がないからそうなるのだ。これを教訓としなさい」と告げたでしょうか。いいえ,「イエスはすぐに手を伸ばして彼をつかみ,『信仰の少ない人よ,なぜ疑いに負けたのですか』と言われ」ました。(マタ 14:28-31)わたしたちも,いつか兄弟の信仰の欠如と思われる事柄に対処しなければならない場合,いわば手を伸ばして助け,いっそうの信仰を持てるようにしてあげられるでしょうか。それこそまさに,ペテロに対するイエスの温和な気質の行動から学べる教訓なのです。
6 イエスは使徒たちに,目立った立場を得ようとすることについて何を教えましたか。
6 ペテロはまた,使徒たちの間で続いていた,自分たちのうちでだれが一番偉いのかという論争にかかわっていました。ヤコブとヨハネは,王国で自分たちがイエスの右と左に座ることを望んでいました。ペテロと他の使徒たちはそれを聞いて憤慨しました。イエスは,使徒たちがそのような態度を,生まれ育った社会の影響を受けて身につけたであろうことを知っていました。それで,彼らを自分のところに呼んで,こう言いました。「あなた方は,諸国民の支配者たちが人々に対して威張り,偉い者たちが人々の上に権威を振るうことを知っています。あなた方の間ではそうではありません。かえって,だれでもあなた方の間で偉くなりたいと思う者はあなた方の奉仕者でなければならず,また,だれでもあなた方の間で第一でありたいと思う者はあなた方の奴隷でなければなりません」。それから,自分自身の手本に注意を引いて,「ちょうど人の子が,仕えてもらうためではなく,むしろ仕え,自分の魂を,多くの人と引き換える贖いとして与えるために来たのと同じです」と述べました。―マタ 20:20-28。
7 わたしたち各人は会衆内でどのように一致に貢献できますか。
7 わたしたちにとって,イエスの謙遜な精神態度について熟考することは,兄弟たちの間で「より小さい者として行動する」助けになります。(ルカ 9:46-48)そのような行動は一致に寄与します。エホバは大家族の父親のように,ご自分の子どもたちが「一致のうちに共に住む」,つまり仲良くやってゆくことを望んでおられます。(詩 133:1)イエスは真のクリスチャンすべてに関してみ父に,「あなたがわたしを遣わされたこと,そして,わたしを愛してくださったと同じように彼らを愛されたことを世が知る」ために,彼らが一つに結ばれるようにと祈りました。(ヨハ 17:23)ですから,一つに結ばれていれば,人々はわたしたちをキリストの追随者として見分けることができます。わたしたちは,そのように一致するために,他の人の不完全さに対してキリストと同じような見方をしなければなりません。イエスは快く許す人であり,その教えによれば,わたしたちは快く許す場合にのみ許していただけます。―マタイ 6:14,15を読む。
8 わたしたちは,長年神に仕えてきた人たちの模範からどんなことを学べますか。
8 わたしたちはまた,長年キリストに倣ってきた人たちの信仰に倣うことによっても,多くを学べます。それらの人は大抵,イエスのように,他の人の不完全さに理解を示します。キリストのような同情心を示すなら,『強くない者の弱いところを担い』やすくなるだけでなく,一致も促進される,ということを知っているからです。また,キリストの精神態度を反映するよう会衆全体を鼓舞することにもなるのです。それらの人が兄弟たちのために願っている事柄は,使徒パウロがローマのクリスチャンのために願ったのと同じ事柄です。パウロはこう述べました。「忍耐と慰めを与えてくださる神が,キリスト・イエスと同じ精神態度をあなた方互いの間に持たせてくださいますように。それは,あなた方が同じ思いになり,口をそろえて,わたしたちの主イエス・キリストの神また父の栄光をたたえるためです」。(ロマ 15:1,5,6)そうです,わたしたちの一致した崇拝はエホバへの賛美となるのです。
9 イエスの手本に倣うために聖霊が必要なのはなぜですか。
9 イエスは『心がへりくだっている』ことと,神の聖霊の実の一部である温和とを関連づけて話しました。したがって,わたしたちは,イエスの手本を研究するとともに,その手本にしっかり倣えるようにエホバの聖霊を必要とします。神の聖霊を祈り求め,その実 ―「愛,喜び,平和,辛抱強さ,親切,善良,信仰,温和,自制」― を培うよう努力すべきです。(ガラ 5:22,23)そのようにして,イエスの残した謙遜と温和の手本に従うなら,天の父エホバは喜んでくださいます。
イエスは人々に親切に接した
10 イエスは親切をどのようにはっきり示しましたか。
10 親切も,聖霊の実の一部です。イエスはいつも人々に親切に接しました。誠実な気持ちでイエスを捜してやって来た人すべてを『親切に迎えた』のです。(ルカ 9:11を読む。)わたしたちはイエスの親切な態度からどんなことを学べるでしょうか。親切な人は親しみ深く,穏やかで,思いやりがあり,慈しみに富んでいます。イエスはそのような人でした。『人々が羊飼いのいない羊のように痛めつけられ,ほうり出されている』のを見て,哀れみをお感じになりました。―マタ 9:35,36。
11,12 (イ)イエスの同情心が行動に表われた一つの事例について説明してください。(ロ)ここに取り上げられている実例からどんなことを学べますか。
11 イエスはまた,哀れみや同情心を行動に表わしました。一つの事例について考えてみましょう。ある女性が12年間も血の異常な流出に苦しんでいました。その人は,そういう状態なのでモーセの律法のもとで自分は儀式上汚れており,自分に触れる人もそうなる,ということを知っていました。(レビ 15:25-27)それでも,イエスの評判や態度について聞いていたので,『あの方ならわたしをいやせるし,必ずいやしてくださる』と確信していたに違いありません。「あの方の外衣にただ触るだけで,わたしはよくなる」と言い続けていたのです。それで,勇気を奮い起こして触り,いやされたのをすぐに感じ取りました。
12 イエスは,自分にだれかが触ったことに気づき,だれがそうしたのかを確かめようとして周囲を見回しました。その女性は,自分が律法に違犯したことで叱責されるのを恐れたのでしょう,おののいてイエスの足元にひれ伏し,すべてを打ち明けました。イエスは,苦しんでいたその貧しい女性を叱りつけたでしょうか。いいえ,そのようなことはせず,安心させるように,「娘よ,あなたの信仰があなたをよくならせました。平安のうちに行きなさい」と言ったのです。(マル 5:25-34)女性はそのような親切な言葉をかけられて,本当にほっとしたに違いありません。
13 (イ)イエスの態度はパリサイ人の態度とはどのように異なっていましたか。(ロ)イエスは子どもたちにどのように接しましたか。
13 キリストは,心のかたくななパリサイ人とは異なっていました。決して権威を乱用せず,他の人々の重荷を増し加えたりはしませんでした。(マタ 23:4)それどころか,エホバの物事の行ない方を,親切に辛抱強く教えました。追随者に愛情深く接し,常に愛と親切を示し,真の友となっていたのです。(箴 17:17。ヨハ 15:11-15)子どもたちでさえ,イエスのそばにいて緊張することなく,イエスも,子どもと一緒にいてくつろいだ気持ちでいたことは明らかです。忙しくても,していたことを中断して幼子たちと一緒に時を過ごしました。ある時,弟子たちが,依然として周囲の宗教指導者たちのようにうぬぼれた考えを抱いていて,人々が自分の幼い子どもをイエスのもとに連れて来て触ってもらおうとするのを止めようとしたこともありましたが,イエスはそれを喜ばず,こう言いました。「幼子たちをわたしのところに来させなさい。止めようとしてはなりません。神の王国はこのような者たちのものだからです」。そして,大切な教訓を与えるために子どもを例とし,「あなた方に真実に言いますが,だれでも,幼子のように神の王国を受け入れる者でなければ,決してそれに入れないのです」と述べました。―マル 10:13-15。
14 子どもは,健全な関心を払ってもらうことからどんな益を受けますか。
14 ここで,ちょっと考えてみてください。それら子どもたちは何年も後に大人になって,かつてイエス・キリストから『両腕に抱き寄せられて祝福された』ことを思い起こした時,どんな気持ちになったでしょうか。(マル 10:16)今日でも子どもたちは大きくなった時,健全で利他的な関心を示してくれた長老や他の人たちのことを懐かしく思うでしょう。そして,さらに重要なことですが,会衆内でそのような純粋の気遣いを示される子どもは幼いころから,エホバの霊がその民の上にあることを学びます。
不親切な世にあって親切を示す
15 今日,親切心が欠如していることに驚いたりしないのはなぜですか。
15 今日,多くの人は,他の人に親切にしている時間などない,と感じています。ですから,エホバの民は,学校や職場で,あるいは外出時に,また宣教奉仕において,世の精神の表われに毎日のように遭遇します。そのような場合に,がっかりするとしても,驚いたりはしません。エホバがパウロに霊感を与えて,真のクリスチャンはこの危機的な「終わりの日」にあって,『自分を愛する者や自然の情愛を持たない者』と接触せざるを得ない,ということを予告しておられたからです。―テモ二 3:1-3。
16 キリストのような親切を会衆内でどのように促進できますか。
16 一方,不親切な世とは対照的に,真のクリスチャン会衆内にはさわやかな雰囲気があります。わたしたち各人は,イエスに倣うことによってその健全な雰囲気に貢献できます。どのように倣えるでしょうか。まず言えることとして,会衆の多くの人は助けや励ましを必要としています。健康上の問題や他の難しい事情があるからです。そのような問題は,この「終わりの日」に増大しているとしても,決して新しいものではありません。聖書時代のクリスチャンも,同じような問題に苦しみました。ですから,当時のクリスチャンの場合と同様,助けになる事柄を行なうのは,今でもふさわしいことです。例えば,パウロはクリスチャンたちに,『憂いに沈んだ魂に慰めのことばをかけ,弱い者を支え,すべての人に対して辛抱強くある』よう勧めました。(テサ一 5:14)これには,キリストのような親切を実践することが含まれます。
17,18 イエスの親切な態度に,どのように倣えますか。
17 クリスチャンには,『兄弟たちを親切に迎える』,つまりイエスが接したであろう仕方で接する責任があります。長年の知り合いであれ,初対面であれ,兄弟たちに純粋の関心を示すのです。(ヨハ三 5-8)イエスが自ら進んで他の人に同情を示したように,わたしたちもそのようにし,いつも他の人にとってさわやかな存在になるよう努めるべきです。―イザ 32:2。マタ 11:28-30。
18 わたしたちは各々,他の人の福祉に積極的な関心を払うことにより,親切を示せます。そうする方法を探し,機会を作るようにしましょう。意欲的であってください。「兄弟愛のうちに互いに対する優しい愛情を抱きなさい」とパウロは勧め,「互いを敬う点で率先しなさい」とも述べています。(ロマ 12:10)つまり,キリストの手本に従いなさい,他の人に温かく親切に接しなさい,「偽善のない愛」を示す方法を学びなさい,ということです。(コリ二 6:6)パウロは,キリストのようなその愛を描写して,『愛は辛抱強く,親切で,ねたまず,自慢せず,思い上がらない』と言っています。(コリ一 13:4)わたしたちは,兄弟姉妹に恨みを抱いたりせず,「互いに親切にし,優しい同情心を示し,神がキリストによって惜しみなく許してくださったように,あなた方も互いに惜しみなく許し合いなさい」という勧めに従いたいものです。―エフェ 4:32。
19 キリストのような親切を示すことからどんな良い結果が生じますか。
19 いつでも,どんな状況においても,キリストのような親切を培って示すよう努力するなら,豊かな報いにあずかれます。エホバの霊が会衆内で十分に働き,聖霊の良い実を結ばせます。さらに,イエスの残した手本にわたしたちが従うとともに,そうするように他の人を助けるとき,わたしたちの幸福な一致した崇拝は神ご自身の喜びとなるのです。ですから,他の人に対する接し方にイエスの温和と親切を反映するよう絶えず努力してゆきましょう。
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キリストと同じように従順と勇気を示しなさいものみの塔 2009 | 9月15日
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キリストと同じように従順と勇気を示しなさい
「勇気を出しなさい! わたしは世を征服したのです」。―ヨハ 16:33。
1 神に対するイエスの従順は,どのように完ぺきなものでしたか。
イエス・キリストは,常に神のご意志を行ないました。天の父に従わないなどということは考えもしませんでした。(ヨハ 4:34。ヘブ 7:26)しかし,地上での状況のゆえに,従順を示すことは容易ではありませんでした。伝道活動を始めた時から,サタン自身をはじめ敵たちは,イエスの忠実な歩みをやめさせるために,説き伏せようとしたり,強要しようとしたり,だまそうとしたりしました。(マタ 4:1-11。ルカ 20:20-25)イエスに,ひどい精神的,感情的,身体的な苦痛をもたらし,ついには苦しみの杭の上での死に至らせました。(マタ 26:37,38。ルカ 22:44。ヨハ 19:1,17,18)イエスはその間ずっと,非常な苦しみに遭いながらも「死に至るまで従順」を保ちました。―フィリピ 2:8を読む。
2,3 イエスが苦しみに遭いながらも従順であったことから,わたしたちはどんなことを学べますか。
2 イエスは,地上で人間として経験した事柄から,従順の新たな面を学びました。(ヘブ 5:8)しかしイエスの場合,エホバに仕えることについて新たに学ぶべきことなど何もなかったのではないか,と思えるかもしれません。なにしろイエスは,計り知れないほど長い期間にわたってエホバとの緊密な交友を持ち,創造が行なわれていた間は神の「優れた働き手」だったのです。(箴 8:30)とはいえ,そのイエスが人間となって苦しみに遭いながらも信仰のうちに耐え忍んだことは,全き忠誠の証しとなりました。神のみ子イエスは霊的に成長したのです。その経験からわたしたちはどんなことを学べるでしょうか。
3 イエスは完全な人でしたが,完全な従順を自力で保とうとしたのではありません。従順を保つために神の助けを祈り求めました。(ヘブライ 5:7を読む。)わたしたちの場合も,従順を保つためには,謙遜な,祈りのこもった態度が必要です。使徒パウロがクリスチャンたちに,「キリスト・イエスにあったこの精神態度をあなた方のうちにも保ちなさい」と助言したのは,そのためです。イエスは『自分を低くして,死に至るまで従順になった』のです。(フィリ 2:5-8)イエスのその歩みによって,人間は邪悪な社会のただ中にあっても従順を示せる,ということが証明されました。もちろん,イエスは完全な人間でした。では,わたしたちのような不完全な人間の場合はどうでしょうか。
不完全ではあっても従順を示す
4 わたしたちにとって,倫理的に自由な行為者として創造されているとは,どういうことを意味しますか。
4 神はアダムとエバを,理知を持つ者,倫理的に自由な行為者として創造されました。その子孫であるわたしたちも,倫理的に自由な行為者です。これはどういうことを意味するかというと,善を行なうか悪を行なうかを自分で決めることができる,言い換えれば,わたしたちは神から,神に従うか従わないかのどちらかを選ぶ自由を与えられている,ということです。そのような大きな自由には,責任が,つまり言い開きをする責任が伴います。実のところ,自分が生きるか死ぬかは,自分の倫理上の決定いかんによるのです。そうした決定は,身近な人々にも影響を及ぼします。
5 わたしたちは皆どんな苦闘をしていますか。どうすれば屈することなく闘えますか。
5 わたしたちは不完全さを受け継いでいるため,従順を楽に示せるわけではありません。神の律法に従うことは,いつも容易とは限らないのです。パウロも苦闘しました。「自分の肢体の中では別の律法がわたしの思いの律法と戦い,わたしをとりこにして肢体の中にある罪の律法へと引いて行くのを見ます」と書いています。(ロマ 7:23)もちろん,犠牲や苦痛や不都合が伴わない場合,従順であることはさほど難しくありません。しかし,従順でありたいという気持ちと『肉の欲望や目の欲望』との葛藤がある場合,わたしたちはどうするでしょうか。妨げとなるそうした力は,自分の不完全さや,周りの「世の霊」からの影響によって生じ,非常に強力です。(ヨハ一 2:16。コリ一 2:12)そうした力に屈しないようにするためには,何かの難しい状況や誘惑に直面する前に『自分の心を定めて』,いかなる状況のもとでもエホバに従おう,と決意しなければなりません。(詩 78:8)聖書中には,心を定めたゆえに屈しなかった人の実例がたくさんあります。―エズ 7:10。ダニ 1:8。
6,7 賢明な選択をするのに個人研究がどのように役立つか,例を挙げて説明してください。
6 心を定めるためには,一つとして,聖書と,聖書に基づく出版物を勤勉に研究しなければなりません。次のような自分を想像してみてください。個人研究をする晩の時間になり,み言葉から学ぶ事柄を適用できるようエホバの霊を求めて祈ったところです。明日の晩はテレビで映画番組を見ようと思っています。その映画は好評を得ている,と聞きました。しかし,不道徳や暴力が幾らか含まれていることも知っています。
7 そして今,エフェソス 5章3節のパウロの助言,「聖なる民にふさわしく,あなた方の間では,淫行やあらゆる汚れまた貪欲が口に上ることさえあってはなりません」という言葉を熟考しています。また,フィリピ 4章8節のパウロのアドバイスも思い起こします。(読む。)そして,霊感によるその助言をじっくり考え,こう自問します。『あえて自分の心と思いをそのような番組にさらすなら,神に対して全く従順であったイエスの手本に倣っていることになるだろうか』。では,どうしますか。とにかくその映画を見ますか。
8 わたしたちが倫理的また霊的な高い規準を保つべきなのはなぜですか。
8 『わたしは,暴力や不道徳を含む娯楽にせよ何にせよ,悪い交友の影響に屈したりするほど弱くはない』などと考えて自分の倫理的また霊的な規準を下げてしまうとしたら,それは間違いです。わたしたちは自分自身と自分の子どもを,サタンの霊の腐敗的な影響から守らなければなりません。コンピューターを使っている人は,自分のパソコンが有害なウイルスに感染しないように細心の注意を払います。感染すると,正常に機能しなくなったり,データを破壊されたりするだけでなく,乗っ取られて他のコンピューターへの攻撃に使われたりもするからです。わたしたちがサタンの「ずる賢い行為」から自分を守ろうとする場合の注意深さは,パソコンのウイルス対策以下であってよいでしょうか。―エフェ 6:11,脚注。
9 エホバに従おうという決意をいつも抱いているべきなのはなぜですか。
9 わたしたちは,ほとんど毎日,何かのことで物事をエホバの方法で行なうか行なわないかを選択しなければなりません。救いを得るには,神に従い,神の義の原則に沿って生きる必要があります。「死に至るまで」も従順であったキリストの手本に倣うことにより,自分の信仰が本物であることを示します。エホバはその忠実な歩みに報いてくださいます。イエスは,「終わりまで耐え忍んだ人が救われる」と約束しました。(マタ 24:13)しかし,そうするためには,イエスが示したような真の勇気を養うことが必要です。―詩 31:24。
イエス ― 勇気の最大の手本
10 わたしたちはどんな圧力をかけられる場合がありますか。その圧力に対してどうするべきですか。
10 わたしたちは,至る所でこの世の態度や行ないにさらされるので,汚されないようにするために勇気を必要とします。クリスチャンは,エホバの義の道からそれてしまう要因となりかねない,倫理的,社会的,経済的,宗教的な圧力を受けます。家族からの反対に直面する人も少なくありません。ある国々では,教育機関はかつてなく積極的に進化論を教え,無神論がますます受け入れられるようになっています。わたしたちは,そのような圧力に直面して,ただうずくまって何もしないでいるというわけにはいきません。圧力に抗して身を守るために,行動しなければならないのです。イエスの手本に目を留めるなら,どうすれば身を守れるかが分かります。
11 イエスの手本についてじっくり考えると,どのように勇気がわいてきますか。
11 イエスは弟子たちに,「世にあってあなた方には患難がありますが,勇気を出しなさい! わたしは世を征服したのです」と語りました。(ヨハ 16:33)イエスは,決して世の影響力に屈服しませんでした。世の圧力に負けて,宣べ伝える任務の遂行をやめたり,真の崇拝や正しい行ないの規準を下げたりはしなかったのです。わたしたちも,そのようなことはしません。イエスは,祈りの中で弟子たちについて,「わたしが世のものではないのと同じように,彼らも世のものではありません」と言いました。(ヨハ 17:16)キリストの勇気の手本について研究し,じっくり考えると,世から離れているのに必要な勇気がわいてきます。
イエスの示した勇気
12-14 イエスの勇気を物語る事例を挙げてください。
12 イエスは宣教奉仕の期間中ずっと,並々ならぬ勇気を示しました。神の子としての権威を行使し,恐れることなく,『神殿の中に入り,神殿で売り買いしていた者たちをみな追い出し,両替屋の台と,はとを売っていた者たちの腰掛けを倒し』ました。(マタ 21:12)地上での最後の夜,自分を兵士たちが捕縛するために来た時には,弟子たちを守るため勇敢に進み出て,「あなた方の捜しているのがわたしであれば,これらの者たちは去らせなさい」と言いました。(ヨハ 18:8)そして,そのすぐあとペテロに,剣をしまうよう命じて,自分が地上の武器にではなくエホバに確信を置いていることを示しました。―ヨハ 18:11。
13 イエスは,当時の愛の欠けた偽教師とその間違った教えを,恐れることなく暴露し,彼らにこう告げました。『偽善者なる書士とパリサイ人たち,あなた方は災いです! 人の前で天の王国を閉ざすからです。あなた方は律法のより重大な事柄,すなわち公正と憐れみと忠実を無視しています。杯と皿の外側は清めますが,その内側は強奪と節度のなさとに満ちているのです』。(マタ 23:13,23,25)イエスの弟子たちも,偽りの宗教指導者たちから迫害されるゆえに,また一部の弟子は殺されるゆえに,同じような勇気を必要としました。―マタ 23:34; 24:9。
14 イエスは悪霊たちにも勇敢に立ち向かいました。ある時などは,鎖でも縛れないほど強い,悪霊につかれた男に出会いましたが,少しもおびえることなく,その人を支配していた多くの悪霊を追い出しました。(マル 5:1-13)今日,神はクリスチャンに,そのような奇跡を行なう力は与えておられませんが,わたしたちも,宣べ伝えたり教えたりする際,『不信者の思いをくらましている』サタンに対して霊的な戦いをしなければなりません。(コリ二 4:4)イエスの場合と同様,わたしたちの武器は「肉的なものではなく,強固に守り固めたもの[根強い,間違った宗教的観念]を覆すため神によって強力にされたもの」です。(コリ二 10:4)それら霊的な武器の用い方についても,イエスの手本から多くのことを学べます。
15 イエスの勇気は何に根ざすものでしたか。
15 イエスの勇気は,強がりではなく,信仰に根ざすものでした。わたしたちの勇気も,そのようなものでなければなりません。(マル 4:40)では,どうすればわたしたちも本物の信仰を持てるでしょうか。この点でも,イエスの手本が導きとなります。イエスは,聖書に関する知識の深さと聖書に対する全き確信を示しました。武器として文字どおりの剣ではなく,神の言葉 聖書という霊の剣を用いました。再三再四,自分の教えの裏づけとして聖書を引き合いに出し,しばしば,「……と書いてある」と述べました。つまり,神の言葉に書いてある,ということです。a
16 どうすれば自分の信仰を増し加えることができますか。
16 わたしたちも,弟子であることに伴う試練は避けられませんが,それに耐え得る信仰を築くには,聖書を毎日読んで研究し,クリスチャンの集会に出席し,信仰の基である真理を思いの中に入れなければなりません。(ロマ 10:17)そして,学んだ事柄を黙想して ― つまり,深く考えて ― 心に染み込ませる必要もあります。わたしたちを勇気ある行動へと動かせる信仰は,生きた信仰だけです。(ヤコ 2:17)ですから,聖霊を祈り求めなければなりません。信仰は聖霊の実の一部だからです。―ガラ 5:22。
17,18 ある若い姉妹は学校でどのように勇気を示しましたか。
17 キティーという若い姉妹は,本物の信仰によって勇気を奮い起こせる,ということを経験しました。学校でも「良いたよりを恥じて」はならない,ということを幼いころから知っており,仲間の生徒に良い証言をしたいという気持ちもありました。(ロマ 1:16)それで毎年,良いたよりを伝えようと決意はするものの,勇気を出せず,しり込みしていました。そうして十代半ばを過ぎ,通う学校が替わりました。そこで,「これまで何度も機会を逃してきた分,今度こそ頑張る」と言って,キリストのような勇気や思慮深さ,および良い機会を祈り求めました。
18 新しい学校での最初の日,生徒たちは一人ずつ自己紹介をするよう求められました。幾人かは自分の宗教的背景について述べるとともに,信仰を実践しているわけではないとも言いました。キティーは,これこそ祈り求めていた機会だと思い,自分の番になった時,確信をこめてこう言いました。「わたしはエホバの証人です。霊的な事柄や道徳的な事柄に関して聖書を導きとしています」。自己紹介を続けていると,一部の生徒たちはばかにするような顔つきをしましたが,他の生徒たちは注意を払い,後で質問してきました。先生はキティーを,自分の信念を擁護した良い例として挙げることさえしました。キティーは,イエスの勇気の手本から学んで本当によかった,と思っています。
キリストのような信仰と勇気を示す
19 (イ)本物の信仰を持つには,どんなことが必要ですか。(ロ)わたしたちがどうするとき,エホバは喜ばれますか。
19 使徒たちも,勇気ある行動が信仰に根ざすものでなければならないことを認識していました。イエスに,「わたしたちにさらに信仰をお与えください」と請い求めたこともあります。(ルカ 17:5,6を読む。)本物の信仰を持つとは,神の存在を信じるだけのことではありません。そのような信仰を持つには,エホバとの深い信頼関係を育むことが必要です。その関係は,幼い子どもと愛ある優しい父親との関係に似ています。ソロモンは霊感のもとにこう書きました。「我が子よ,あなたの心が賢くなったなら,わたしの心は,このわたしの心は歓ぶであろう。そして,あなたの唇が廉直なことを語るとき,わたしの腎は歓喜するであろう」。(箴 23:15,16)同じように,わたしたちが勇気をもって義の原則を擁護するとき,エホバは喜ばれ,それを知るわたしたちは一層の勇気を持てるのです。ですから,常にイエスの手本に倣い,勇気をもって義を擁護してゆきましょう。
[脚注]
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キリストの愛に促されて他の人を愛するものみの塔 2009 | 9月15日
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キリストの愛に促されて他の人を愛する
「イエスは……それまでも世にあるご自分の者たちを愛してこられたのであるが,彼らを最後まで愛された」。―ヨハ 13:1。
1,2 (イ)イエスの愛はどんな点で際立っていますか。(ロ)この記事では,愛のどんな面について考えますか。
イエスは愛の完全な手本を残しました。イエスに関する事柄 ― その言葉や行ない,教え,犠牲としての死など ― すべてに,イエスの愛がはっきり表われていました。地上での生涯のまさに終わりに至るまで,出会った人々,特に弟子たちに愛を示しました。
2 愛に関するイエスの際立った手本は,イエスの追随者の従うべき高い規準となっており,その手本を見るわたしたちは,霊的な兄弟姉妹や他のすべての人にイエスと同じような愛を示そう,という気持ちになります。この記事では,会衆の長老たちが,過ちを犯した人に,たとえそれが重大な過ちであっても愛を示す点で,イエスからどんなことを学べるかについて考えます。また,困難や災害や病気の多い時代にクリスチャンがイエスの愛に促されてどのように積極的な行動を取れるか,という点についても考えます。
3 イエスはペテロを,その重大な欠点にもかかわらず,どのように扱いましたか。
3 イエスの死の前夜,使徒ペテロは三度,イエスを知らないと言いました。(マル 14:66-72)それでもイエスは,予告していたとおり,立ち直ったペテロを許し,ペテロに重い責任をゆだねました。(ルカ 22:32。使徒 2:14; 8:14-17; 10:44,45)では,重大な欠点のある人に対するイエスの態度から,どんなことを学べるでしょうか。
悪行者に対するキリストの精神態度を示す
4 どんな状況では,キリストの精神態度を示すことが特に求められますか。
4 わたしたちは様々な状況でキリストの精神態度を示すことが求められますが,家族内であれ会衆内であれ重大な悪行を扱う場合には,とりわけ胸が痛むものです。サタンの体制の終わりの日が最高潮を迎えようとしている今,残念なことに,世の霊が道徳面でますます大きな被害をもたらしています。道徳面での世の悪い態度や無関心な態度は,若い人にも年長の人にも影響を及ぼし,狭い道を歩む決意を弱めさせる可能性があります。西暦1世紀には,クリスチャン会衆から排斥されなければならなかった人もいましたし,戒めを受けた人もいました。今日でも同じような状況が見られます。(コリ一 5:11-13。テモ一 5:20)それでも,そうした問題を扱う長老たちがキリストのような愛を示すとき,悪行者は大きな影響を受ける場合があります。
5 長老たちは,悪行者に対するキリストの態度に,どのように倣うべきですか。
5 長老たちはイエスのように,いつでもエホバの義の規準を支持しなければなりません。そうする際,エホバの温和,親切,愛を反映します。悪行を犯した人が本当に悔い改め,自分の過ちのゆえに『心が打ち砕かれ,霊が打ちひしがれて』いる場合,長老たちが「温和な霊をもってそのような人に再調整を施す」ことは難しくないかもしれません。(詩 34:18。ガラ 6:1)しかし,反抗的で悔恨の情をほとんど示さない人を扱う場合はどうでしょうか。
6 長老たちは,悪行者を扱う時,どんなことを避けなければなりませんか。それはなぜですか。
6 悪行者が聖書からの助言を退けたり,責任を転嫁しようとしたりすると,長老や他の人たちは憤りを覚えるかもしれません。その人によって引き起こされた害を知っているので,当人の行動や態度のことで自分の感情を表わしたくなるかもしれません。しかし,怒りは有害であり,「キリストの思い」を反映するものではありません。(コリ一 2:16。ヤコブ 1:19,20を読む。)イエスは当時のある人々にはっきりと警告しましたが,憎しみを込めて述べたり,苦痛を与えようとして言ったりしたことは一度もありませんでした。(ペテ一 2:23)それどころか,悪行者が悔い改めてエホバの恵みのもとに戻る道を開いておきました。実のところ,イエスが世に来た主な理由の一つは,「罪人を救う」ことにあったのです。―テモ一 1:15。
7,8 長老たちは審理問題を扱う際,何を導きとすべきですか。
7 この点でのイエスの手本は,会衆による懲らしめを受けなければならない人に対するわたしたちの態度に,どう影響するでしょうか。忘れてはならないことですが,会衆内で審理処置を取る聖書的な取り決めは,群れを保護するとともに,悪行者を懲らしめて悔い改めへと促すためのものです。(コリ二 2:6-8)一部の人が悔い改めずに排斥されるのは残念なことですが,それらの人の多くが後に再びエホバとその会衆に戻ってきているというのはうれしいことです。長老たちはキリストのような態度を示すなら,当人が改心してやがて戻って来るのを助けることになります。将来,それらかつての悪行者たちの中には,長老たちから与えられた聖書的な助言すべては覚えていないとしても,長老たちが尊厳を重んじてくれ,愛をもって扱ってくれたのを思い出す人もいることでしょう。
8 ですから長老たちは,難しい状況においても,「霊の実」,特にキリストのような愛を示さなければなりません。(ガラ 5:22,23)決して性急に悪行者を会衆から追い出してはなりません。過ちを犯した人がエホバのもとに戻ることを自分たちは望んでいる,ということを示すべきです。そうすれば,多くの例に見られるように,罪を犯した人は後に改心すると,エホバにも,また会衆に戻りやすくしてくれた「人々の賜物」にも深く感謝することでしょう。―エフェ 4:8,11,12。
終わりの時にあってキリストのような愛を示す
9 イエスが弟子たちに対する愛を実際的な仕方で示した実例を挙げてください。
9 ルカは,イエスが愛を実際的に示した,際立った例を記録しています。イエスは,滅びに定められた都市エルサレムがやがてローマの兵士に攻め囲まれ,人々は逃げられなくなる,ということを知っていたので,愛をもって弟子たちにこう警告しました。「エルサレムが野営を張った軍隊に囲まれるのを見たなら,その時,その荒廃が近づいたことを知りなさい」。弟子たちはどうすべきでしょうか。イエスは前もって,明確で具体的な指示を与えました。「その時,ユダヤにいる者は山に逃げはじめなさい。都の中にいる者はそこを出なさい。田舎にいる者は都の中に入ってはなりません。なぜなら,これは処断の日であり,それによって,書かれていることのすべてが成就するのです」。(ルカ 21:20-22)西暦66年にローマの軍隊がエルサレムを攻囲した後,従順な人たちは,イエスのその指示に従って行動しました。
10,11 初期クリスチャンはエルサレムを後にして避難しました。わたしたちにとって,その時の様子について考えることは,「大患難」に備えるうえでどのように助けになりますか。
10 クリスチャンは,エルサレムを後にして避難している間,かつてキリストから愛を示されたとおりに,互いにキリストのような愛を示す必要がありました。きっと,自分の持っている物は何でも互いに分け合わなければならなかったことでしょう。しかし,イエスの預言は,その古代都市の壊滅にとどまらず,はるか後の時代にかかわるものでした。イエスは,「世の初めから今に至るまで起きたことがなく,いいえ,二度と起きないような大患難がある」と予告したのです。(マタ 24:17,18,21)来たるべきその「大患難」の前と最中に,わたしたちも困難や欠乏を経験するかもしれません。キリストの精神態度を持っていれば,そうした苦難を切り抜けやすくなることでしょう。
11 その時,わたしたちはイエスの手本に倣い,利他的な愛を示す必要があるでしょう。その点に関連して,パウロはこう助言しています。「わたしたちは各々,築き上げるのに良い事柄によって隣人を喜ばせましょう。キリストでさえ自分を喜ばせることはされませんでした。……それで,忍耐と慰めを与えてくださる神が,キリスト・イエスと同じ精神態度をあなた方互いの間に持たせてくださいますように」。―ロマ 15:2,3,5。
12 わたしたちは今,どんな愛を培う必要がありますか。それはなぜですか。
12 イエスに愛されたペテロも,クリスチャンたちに,「偽善のない兄弟の愛情」を育むよう,また「真理に対する従順」を示すように勧めました。クリスチャンは『互いに心から熱烈に愛し合う』べきです。(ペテ一 1:22)今日わたしたちは,これまで以上に,そうしたキリストのような特質を培う必要があります。すでに,神の民すべてにのしかかる圧力は増大しています。だれもこの古い世のいかなる要素にも確信を置くべきではありません。そのことは,世界の金融システムにおける最近の混乱を見れば一目瞭然です。(ヨハネ第一 2:15-17を読む。)ですから,この体制の終わりが近づくにつれ,わたしたちはエホバとの,また仲間とのいっそう緊密な関係を持ち,会衆内で真の友情を育むことが必要です。パウロは,「兄弟愛のうちに互いに対する優しい愛情を抱きなさい。互いを敬う点で率先しなさい」と助言しています。(ロマ 12:10)ペテロはその点をいっそう際立たせて,「何よりも,互いに対して熱烈な愛を抱きなさい。愛は多くの罪を覆うからです」と述べています。―ペテ一 4:8。
13-15 災害が起きたあと,兄弟たちはキリストのような愛をどのように示しましたか。
13 世界じゅうのエホバの証人は,キリストのような愛を実践することで知られています。例えば,2005年に米国南部の広い地域に暴風とハリケーンが被害をもたらしましたが,その時の援助の要請にこたえ応じた証人たちについて考えてみてください。イエスの手本に促されて2万人余りの証人たちが,被災した兄弟たちを援助するために自発的に奉仕しました。その多くは,快適な家や安定した仕事を後にしてそうしたのです。
14 ある地域では,高潮が高さ10㍍もの水の壁を成して進み,内陸80㌔にまで達しました。水が引いた時には,その進路にあった家屋その他の建物の3分の1が全壊していました。幾つもの国から自発的にやって来た証人たちが,被災地に道具や建材を持ち寄ったり技術を提供したりして,必要とされる仕事を何でも進んで行ないました。やもめである実の姉妹二人は,自分たちの持ち物を小型トラックに詰め込み,3,000㌔余りの道のりを運転して援助に駆けつけました。一人はその地域にとどまり,地元の救援委員会を助けながら,正規開拓者として奉仕しています。
15 被災地の証人たちや他の人たちの家屋5,600軒以上が,再建または修理されました。地元の証人たちは,そのように愛をあふれるほど豊かに注がれて,どう感じたでしょうか。自宅が全壊したある姉妹は,小さなハウストレーラーに移りましたが,屋根は雨漏りし,料理用こんろも壊れていました。兄弟たちはその姉妹のために,質素ながらも快適な家を建築しました。姉妹は,そのきちんとした新しい家の前に立った時,エホバと兄弟たちに対する感謝にあふれて涙を流しました。多くの場合,住まいを失った地元の証人たちは,自分の家が再建された後も1年かそれ以上,仮の住まいにとどまりました。それは,新しい家を救援活動の奉仕者たちの宿舎として使ってもらうためでした。キリストの精神態度を示した,なんと立派な模範でしょう。
病気の人に対するキリストの態度を示す
16,17 わたしたちは,病気の人に対するキリストの精神態度を,どのように反映できますか。
16 わたしたちのうち,大きな自然災害に見舞われた人は比較的少数です。しかし,ほとんどの人は,自分自身か家族の健康上の問題に立ち向かわなければなりません。病気の人に対するイエスの精神態度は,わたしたちの倣うべき手本となっています。イエスは愛に促されて,病気の人を哀れに思いました。群衆が病人たちを連れて来ると,イエスは『具合いの悪い者すべてを治し』ました。―マタ 8:16; 14:14。
17 今日,クリスチャンはイエスのような奇跡的ないやしの力を持っていませんが,病気の人に対するイエスのような同情心豊かな精神態度は持っています。その態度はどのようにはっきり表われるでしょうか。一つとして,長老たちは,会衆内の病気の人を援助する取り決めを設けて見守り,マタイ 25章39,40節で述べられている行動の仕方に原則として従うことにより,キリストの精神態度を持っていることを示します。a (読む。)
18 二人の姉妹は,ある姉妹に対する純粋の愛を,どのように示しましたか。それはどんな結果になりましたか。
18 もちろん,長老ではなくても,他の人に良いことを行なえます。がんにかかっていて余命10日と告げられた,44歳の姉妹シャーリーンのことで行なわれた事柄は,その一例です。霊的姉妹であるシャロンとニコレットは,シャーリーンの必要と,その看病に当たる献身的な夫の労苦を見て,シャーリーンを最期までずっと掛かりきりで援助しました。それは6週間に及びましたが,終わりまで愛を示したのです。シャロンはこう述べています。「回復しないと知りつつ看護するのは辛いことです。でも,エホバが私たちを強めてくださいました。私たちはこの経験を通して,エホバに,また互いにいっそう引き寄せられました」。シャーリーンの夫はこう言います。「心優しいその姉妹たちの差し伸べてくださった親切で実際的な援助は,決して忘れません。お二人が純粋な動機を抱き,積極的な態度を示してくださったので,貞節なシャーリーンはこの最後の試練に耐える力を得,わたしは身体面や感情面で切実に必要としていた助けを得ました。お二人に対する感謝の気持ちは,いつまでも消えないでしょう。姉妹たちの自己犠牲によって,エホバに対するわたしの信仰と仲間の兄弟全体に対する愛は強くなりました」。
19,20 (イ)この一連の記事でキリストの精神態度のどんな五つの面を考察しましたか。(ロ)あなたはどうすることを決意していますか。
19 わたしたちは,この一連の三つの記事でイエスの精神態度の五つの面を考察し,どうすればイエスと同じ考え方や行動の仕方ができるかを学びました。イエスと同じように,「気質が温和で,心のへりくだった者」になりましょう。(マタ 11:29)他の人の不完全さや弱さが目につくとしても,親切に接するようにしましょう。試練に直面しても,勇気をもってエホバのご要求すべてに従いましょう。
20 そして,兄弟たちすべてにキリストのような愛を示してゆきましょう。キリスト自身,「最後まで」そうしました。そのような愛こそ,わたしたちをイエスの真の追随者として明らかにするものなのです。(ヨハ 13:1,34,35)そうです,『兄弟愛を保ちましょう』。(ヘブ 13:1)ためらってはなりません。自分の命を,エホバを賛美するため,また他の人を助けるために用いましょう。エホバはその誠実な努力を祝福してくださいます。
[脚注]
a 「ものみの塔」誌,1986年10月15日号,「『暖かくして,じゅうぶん食べなさい』と言うだけでなく,それ以上のことを行ないなさい」という記事を参照。
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