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天からの音信これまでに生存した最も偉大な人
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1章
天からの音信
聖書全巻は,天の父がわたしたちを教えるために備えてくださったものですから,事実上天からの音信です。しかし,2,000年近く昔に,「神のすぐみ前に立つ」み使いによって二つの特別な音信が伝えられました。そのみ使いの名前はガブリエルです。では2度にわたるその重要な地球訪問の事情を調べてみましょう。
西暦前3年のことです。たぶんエルサレムからそれほど遠くないユダヤの丘陵地に,エホバの祭司でゼカリヤという名の人が住んでいます。この人は高齢になっており,妻のエリサベツも年老いています。二人には子供がいません。ゼカリヤが当番のためエルサレムの神殿で祭司の務めを行なっていると,突然ガブリエルが香壇の右側に現われます。
ゼカリヤはたいへん恐れます。しかしガブリエルはゼカリヤの恐れを静めてこう言います。「ゼカリヤよ,恐れなくてよい。あなたの祈願は聞き入れられたからである。あなたの妻エリサベツはあなたに男の子を産むであろう。あなたはその名をヨハネと呼ぶのである」。ガブリエルは続けて,ヨハネは「エホバのみ前で偉大な者となる」,そして「準備のできた民をエホバのみまえに整える」と宣言します。
しかしゼカリヤはその言葉が信じられません。自分やエリサベツのような年齢で子供を持つことができるとはとても考えられないのです。それでガブリエルはゼカリヤに,「これらのことが起きる日まで,あなたは黙ったままで,話すことができないであろう。わたしの言葉を信じなかったからである」と言います。
その間,外では人々が,ゼカリヤはどうして神殿で手間どっているのだろうと,不思議に思っています。やっと出てきた時には,手まねができるだけで,物が言えません。それで人々は,ゼカリヤが超自然のものを見たのだと悟ります。
神殿で務めを行なう期間が終わると,ゼカリヤは家に帰ります。それから間もなく,言われたとおりのことが本当に起こります。エリサベツが妊娠したのです。エリサベツは子供が生まれるのを待ちながら,5か月のあいだ人々を避けて家に閉じこもっています。
後ほどガブリエルが再び現われます。だれと話すのでしょうか。ナザレの町の人でマリアという名の,まだ結婚していない,若い女性に話すのです。今度はどんな音信を伝えるのでしょう。聞いてごらんなさい。「あなたは神の恵みを得たのです。見よ,あなたは胎内に子を宿して男の子を産むでしょう。あなたはその名をイエスと呼ぶのです」と,ガブリエルはマリアに告げます。さらにガブリエルは,「これは偉大な者となり,至高者の子と呼ばれるでしょう。……彼は王としてヤコブの家を永久に支配するのです。そして,彼の王国に終わりはありません」と付け加えます。
それらの音信を伝えることをガブリエルは特権と考えているに違いありません。ヨハネとイエスについてさらに多くのことを読んでいくと,天からのそれらの音信がなぜそんなに大切なのか,一層はっきり分かるようになるでしょう。 テモテ第二 3:16。ルカ 1:5-33。
■ どんな二つの重要な音信が天から伝えられますか。
■ だれがその音信を伝えますか。またその音信はだれに伝えられますか。
■ その音信がたいへん信じにくいのはなぜですか。
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生まれる前から尊ばれたこれまでに生存した最も偉大な人
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2章
生まれる前から尊ばれた
み使いガブリエルが,マリアという若い女性に,あなたは永遠の王となる男の子を産むでしょうと告げると,マリアは,「どうしてそのようなことがあるのでしょうか。わたしは男と交わりを持っておりませんのに」と尋ねます。
ガブリエルは,「聖霊があなたに臨み,至高者の力があなたを覆うのです。そのゆえにも,生まれるものは聖なる者,神の子と呼ばれます」と説明します。
マリアがその音信を信じることができるように,ガブリエルは続けて言います。「そして,見よ,あなたの親族エリサベツも,あの老齢で子を宿し,うまずめと言われる彼女が,今や六月目となっています。神にとっては,どんな宣言も不可能なことではないのです」。
マリアはガブリエルの言葉を信じます。彼女はどう答えるでしょうか。「ご覧ください,エホバの奴隷女でございます! あなたの宣言どおりのことが私の身に起きますように」と,彼女は声を大きくして言います。
ガブリエルが去るとマリアはすぐに支度を整え,ユダヤの山地で夫のゼカリヤと一緒に暮らしているエリサベツを訪問するために出かけます。マリアが住むナザレからは,恐らく三日か四日かかる長い旅です。
ゼカリヤの家にたどり着くと,マリアは中に入ってあいさつをします。そのあいさつを聞くとエリサベツは聖霊に満たされ,マリアにこう言います。「女のうちであなたは祝福された者,あなたの胎の実も祝福されたものです! そして,わたしの主の母に来ていただくこの特権がわたしのものになるとはどうしてなのでしょう。ご覧なさい,あなたのあいさつの響きがわたしの耳に入ると,わたしの胎内の幼児は,歓喜のあまり躍り上がったのです」。
それを聞くとマリアは心から感謝して言います。「わたしの魂はエホバを大いなるものとし,わたしの霊は自分の救い主なる神のゆえに喜びにあふれます。神はご自分の奴隷女の卑しい立場を顧みてくださったからです。ご覧ください,今から後,あらゆる世代の人々がわたしを幸いな者と唱えるでしょう。強力な方がわたしに大いなることをしてくださったからで(す)」。マリアは恵みを示されているにもかかわらず,誉れをすべてエホバに帰します。「その方のお名前は神聖です。代々にわたり,その憐れみはその方を恐れる人々の上にあります」と,マリアは言います。
マリアは霊感による預言的な歌をもってエホバをたたえ続け,こう述べます。「神はみ腕をもって強大なことを行なわれ,心の意向のごう慢な者たちを広くお散らしになりました。権力を持つ人々を座から下ろし,立場の低い者たちを高くされました。飢えた者たちを良いもので十分に満ち足らせ,富む人々をむなし手でお去らせになりました。神はご自分の僕イスラエルを助けに来てくださいました。憐れみを思い出すためであり,それは,わたしたちの父祖に,すなわちアブラハムとその胤に永久にわたってお告げになったとおりです」。
マリアはエリサベツのもとに3か月ほどとどまります。エリサベツの妊娠の後期にあたるその期間,マリアは大きな助けになるに違いありません。共に神の助けによって子を宿したこの二人の忠実な女性が,人生のその祝福された時期に一緒にいられるのは,本当にすばらしいことです。
イエスは生まれる前でさえ尊ばれていたということに,あなたはお気づきでしょうか。エリサベツはイエスを「わたしの主」と呼びました。そしてエリサベツの胎内の子は,マリアが初めて姿を現わしたとき喜びのあまり躍り上がりました。しかし一方では,後になって,マリアとこれから生まれてくるマリアの子供を,敬意をもって扱わなかった人々がいたのです。そのことは後ほど分かります。 ルカ 1:26-56。
■ 自分がどのように妊娠するかをマリアが理解できるよう,ガブリエルは何と言いますか。
■ イエスは生まれる前からどのように尊ばれましたか。
■ マリアは預言的な歌の中で神をたたえ,何と言いますか。
■ マリアはエリサベツのところに,どれほどの期間滞在しますか。この期間にマリアがエリサベツのところに滞在するのは,なぜふさわしいことですか。
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道を備える者が生まれるこれまでに生存した最も偉大な人
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3章
道を備える者が生まれる
エリサベツは今にも子供が生まれそうな状態です。これまで3か月の間マリアはエリサベツのもとに滞在していました。しかし,別れを告げ,長い旅をしてナザレの家に帰る時になりました。あと6か月ほどでマリアにも子供が生まれるのです。
マリアが出発してから間もなくエリサベツは子供を産みます。お産が無事にすみ,エリサベツと赤ちゃんは元気で,大きな喜びがあります。エリサベツが赤ちゃんを隣人や親族に見せると,その人たちはみなエリサベツと一緒に喜びます。
イスラエルの男の赤ちゃんは,神の律法に従い,生まれてから八日目に割礼を受けなければなりません。その時には友人や親族がやって来ます。そういう人たちは,父親の名を取ってその子をゼカリヤと名づけるべきだと言います。しかしエリサベツは,「それはなりません! この子はヨハネと呼ばれるのです」とはっきり言います。それは,み使いガブリエルが,その子に付けるようにと述べた名前だったことを思い出してください。
しかし友人たちは,「あなたの親族の中に,その名で呼ばれている者はだれもいません」と異議を唱えます。それから手まねで,この子にどういう名前を付けたいですかと父親に尋ねます。ゼカリヤは物を書く板を求めると,皆が驚いたことに,「ヨハネがその名です」と書きます。
するとゼカリヤは奇跡的にまた物が言えるようになります。エリサベツが子供を産むというみ使いの発表を信じなかったため,ゼカリヤが話す能力を失ったのをあなたは思い出されるでしょう。さて,ゼカリヤが話すようになると,その近辺に住む人たちはみな驚嘆し,「この幼子はいったい何になるのだろうか」と心の中で考えます。
今やゼカリヤは聖霊に満たされ,神をたたえます。「イスラエルの神エホバがほめたたえられますように。ご自分の民に注意を向け,その救出を成し遂げられたからです。そして,わたしたちのため,ご自分の僕ダビデの家に救いの角を起こしてくださいました」。この「救いの角」はもちろん,これから生まれる主イエスです。神は,イエスによってわたしたちを「敵の手から救い出されたのち,いつの日もみ前で忠節と義とをもって恐れなく神聖な奉仕をささげる特権をわたしたちに得させ」てくださる,とゼカリヤは言います。
それからゼカリヤは息子ヨハネについて予告します。「しかし幼子よ,あなたは,至高者の預言者と呼ばれるでしょう。その道を備えるため,罪の許しによる救いの知識をその民に与えるために,エホバのみ前を先立って行くからです。それはわたしたちの神の優しい同情によるのであり,この同情と共に,夜明けが高い所からわたしたちに訪れます。闇と死の陰に座る者に光を与え,わたしたちの足を平和の道にまっすぐに向けさせるためです」。
このころにはすでに,マリアはナザレの家に到着しています。マリアはまだ結婚していないようです。妊娠していることがはっきり分かるようになったら,マリアはどうなるでしょうか。 ルカ 1:56-80。レビ記 12:2,3。
■ ヨハネはイエスよりどれほど年上ですか。
■ ヨハネが生まれて八日目にどんなことがありますか。
■ 神はご自分の民にどのように注意を向けられましたか。
■ ヨハネはどんな業を行なうと予告されますか。
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妊娠しているが結婚はしていないこれまでに生存した最も偉大な人
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4章
妊娠しているが結婚はしていない
マリアは妊娠3か月です。マリアが妊娠の初期にエリサベツを訪ねて行き,そこで過ごしたことをあなたは覚えているでしょう。しかし今はナザレの家に帰っています。マリアが妊娠していることは町の人たちに間もなく知れ渡るでしょう。マリアは確かに困った立場にあります。
さらに悪いことに,マリアは婚約していて,大工のヨセフの妻になることになっています。神がイスラエルにお与えになった律法では,ある男性と婚約している女性が進んで別の男性と性関係を持つなら,石打ちにされて殺されることをマリアは知っています。自分が妊娠していることをヨセフにどのように説明したらよいでしょうか。
3か月の間マリアがいなかったのでヨセフはマリアにとても会いたがっているに違いありません。二人が会った時,マリアは自分が妊娠していることをヨセフに打ち明けるでしょう。その妊娠は神の聖霊によるものであることを力の限り説明することでしょう。しかし,想像がつくように,それはヨセフにとってたいへん信じにくいことです。
ヨセフはマリアが評判の良い女性であることを知っています。それに,マリアを心から愛しているようです。しかし,マリアが何と主張しても,だれか別の男性によって妊娠したとしか思えません。それでもヨセフはマリアが石打ちにされて殺されたり,公に辱められたりするのを望みません。そこでひそかに離婚しようと決心します。その当時,婚約している人は結婚しているのと同じようにみなされ,婚約を解消するには離婚することが必要でした。
その後,ヨセフはその問題をまだ考えているとき眠りにつきます。するとエホバのみ使いが夢の中でヨセフに現われ,こう言います。「あなたの妻マリアを迎え入れることを恐れてはならない。彼女のうちに宿されているのは聖霊によるのである。彼女は男の子を産むであろう。あなたはその子をイエスと呼ばねばならない。彼は自分の民をその罪から救うからである」。
目を覚ましたヨセフは感謝の気持ちで一杯です。そしてさっそくみ使いが指示したとおりに行ない,マリアを家に迎え入れます。そのような公の行動は,事実上,結婚式に相当します。そしてヨセフとマリアが今や正式に結婚したことを知らせるものになります。しかしヨセフはマリアがイエスを身ごもっている間はマリアと性関係を持ちません。
この絵をご覧なさい。マリアは身重になっていますが,ヨセフはマリアをロバに乗せています。二人はどこへ行くのでしょう。マリアには今にも子供が生まれそうなのに,どうして旅に出かけるのでしょうか。 ルカ 1:39-41,56。マタイ 1:18-25。申命記 22:23,24。
■ マリアが妊娠していることを知った時ヨセフはどんな気持ちになりますか。どうしてですか。
■ 二人はまだ結婚していないのに,ヨセフはどうしてマリアを離婚することができますか。
■ どのような公の行動が,ヨセフとマリアの結婚式に相当しますか。
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イエスの誕生 ― いつ,またどこで?これまでに生存した最も偉大な人
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5章
イエスの誕生 ― いつ,またどこで?
ローマ帝国の皇帝カエサル・アウグスツスから,すべての人が自分の生まれた都市へ戻って登録しなければならないという布告が出されたので,ヨセフは生まれ故郷の都市ベツレヘムへ向けて旅をします。
ベツレヘムには,登録をするために大勢の人が来ています。それでヨセフとマリアが泊まれるところは家畜小屋しかありません。ロバなどの動物のいるその小屋の中でイエスは生まれます。マリアはイエスを布の帯にくるみ,家畜のえさを入れる飼い葉おけの中に寝かせます。
カエサル・アウグスツスが登録を命じる法律をつくったのは確かに神の導きによるものでした。それによってイエスは,約束の支配者が誕生する地として聖書がはるか昔に予告していた都市ベツレヘムで生まれることが可能になったのです。
今夜は本当に大切な晩です。野原では明るい光が一群の羊飼いの周りにきらめきます。エホバの栄光です! それからエホバのみ使いが羊飼いたちに,「恐れることはありません。見よ,わたしはあなた方に,民のすべてに大きな喜びとなる良いたよりを告げ知らせているのです。今日,ダビデの都市で,あなた方に救い主,主なるキリストが生まれたからです。そして,これがあなた方のためのしるしです。あなた方は,幼児が布の帯にくるまり,飼い葉おけの中に横たわっているのを見つけるでしょう」と言います。すると突然,さらに大勢のみ使いが現われ,「上なる高い所では栄光が神に,地では平和が善意の人々の間にあるように」と歌います。
み使いたちが去ると羊飼いたちは互いに,「ぜひベツレヘムまで行って,エホバがわたしたちに知らせてくださったこの出来事を見てこようではないか」と言います。そして急いで行き,み使いが語ったまさにその場所にイエスを見つけます。み使いから聞いたことを羊飼いたちが話すと,それを聞く人々はみな驚嘆します。マリアはこうして語られる事柄をすべて大切に心におさめます。
今日多くの人は,イエスが生まれたのは12月25日だと思っています。しかしベツレヘムの12月といえば,雨の多い寒い季節です。この時期に羊飼いが羊の群れと共に一晩中野原で過ごすことはありません。それに,ローマ皇帝が,すでに自分に反抗する傾向のある人々に,登録のため冬のさなかにそのような旅行をするよう求めたとは考えられません。イエスは秋の初めごろにお生まれになったようです。 ルカ 2:1-20。ミカ 5:2。
■ ヨセフとマリアはなぜベツレヘムへ旅をしますか。
■ イエスが生まれた夜,どんな驚くべきことが起きますか。
■ イエスは12月25日に生まれたのではないということはどうして分かりますか。
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約束の子これまでに生存した最も偉大な人
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6章
約束の子
ヨセフとマリアはナザレに戻らないで,ベツレヘムにとどまります。そしてイエスが生後八日になると,モーセに与えられた神の律法の命ずるところに従って,イエスに割礼を受けさせます。八日目には男の赤ちゃんに名前を付けるという習慣もあるらしく,ヨセフとマリアは,先にみ使いガブリエルから指示されたとおり,その子をイエスと名づけます。
1か月余りたち,イエスは生まれて40日になります。両親はイエスを今度どこへ連れて行くのでしょう。いま滞在している所から数キロしか離れていないエルサレムの神殿へ行くのです。モーセに与えられた神の律法によれば,男の子を産んだ母親は,出産から40日後に神殿で浄めの捧げ物をささげることが求められています。
マリアはそれを行なうのです。しかしマリアは捧げ物として小さな鳥を二羽携えてゆきます。このことから,ヨセフとマリアの経済状態がある程度分かります。モーセの律法は,鳥よりもずっと高価な若い雄羊をささげるようにと指示しています。しかし母親にそれだけの余裕がない場合は,二羽のやまばとか二羽のいえばとでもよいということになっています。
神殿では,一人の老人がイエスを取って腕に抱きます。老人の名はシメオンといいます。神はこの人に,エホバの約束されたキリスト,すなわちメシアを見るまでは死なないということを啓示しておられました。シメオンはこの日神殿に来ると,ヨセフとマリアが連れて来た子供のほうへ聖霊によって導かれます。
イエスを腕に抱くとシメオンは,「主権者なる主よ,今こそあなたは,ご自分の宣言どおり,この奴隷を安らかにゆかせてくださいます。わたしの目はあなたの救いの手だてを見たからです。それはあらゆる民の見るところであなたが用意されたものであり,諸国民からベールを取り除くための光,またあなたの民イスラエルの栄光です」と言って神に感謝します。
ヨセフとマリアはそれを聞いてひどく驚きます。するとシメオンは二人を祝福し,あなたの息子は『イスラエルの多くの人が倒れ,また再び立ち上がるために置かれています』と述べ,悲しみが鋭い剣のようにあなたの魂を貫くでしょうとマリアに言います。
この時,アンナという名の84歳になる女預言者もそこにいます。実際アンナは神殿から離れたことがありません。ちょうどこの時間に近くに来て,神に感謝をささげ,耳を傾ける人すべてに,イエスについて語りはじめます。
神殿であったこうした出来事をヨセフとマリアはたいへん喜びます。確かに二人はそうした出来事すべてによって,子供が神の約束された者であるという確信を強めます。 ルカ 2:21-38。レビ記 12:1-8。
■ イスラエルでは男の赤ちゃんにいつ名前を付けるのが習慣だったようですか。
■ イスラエル人の母親は息子が生後40日になると何をしなければなりませんでしたか。またその要求を満たす方法から,マリアの経済状態がどのようなものであることが分かりますか。
■ この時だれがイエスの本当の身分を認めますか。彼らはそのことをどのように示しますか。
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イエスと占星術者たちこれまでに生存した最も偉大な人
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7章
イエスと占星術者たち
何人かの人たちが東方からやって来ます。この人たちは占星術者,つまり星の位置の意味を解くことができると唱える人たちです。東方の自分の国にいたとき,新しい星を見,エルサレムまで幾百キロもその星の後について来たのです。
占星術者たちはエルサレムに着くと尋ねます。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。わたしたちは東方にいた時,その方の星を見たのです。わたしたちはその方に敬意をささげるために参りました」。
エルサレムにいるヘロデ王はそのことを聞くとたいへん動揺します。そして祭司長たちを呼び,メシアはどこで生まれることになっているのかと尋ねます。祭司長たちは聖書に基づいて,「ベツレヘムです」と答えます。するとヘロデは占星術者たちを呼び寄せ,「行ってその幼子を注意深く捜し,見つけたら,わたしのところに報告しなさい。わたしも行ってそれに敬意をささげるためである」と言います。しかし,実際にはヘロデは,その子を見つけて殺そうと思っているのです。
占星術者たちが出発すると,驚くべきことが起きます。東方にいたときに見た星が彼らの先を進んで行くのです。これが普通の星でなく,占星術者たちを導くため特別に用意された星であることは明らかです。占星術者たちがその星の後にずっとついて行くと,それはヨセフとマリアがいる家の真上で止まります。
家の中に入った占星術者たちは,マリアが幼子イエスと共にいるのを見つけ,ひれ伏してその子を拝みます。また,金・乳香・没薬といった贈り物を袋から取り出します。それから,子供の居場所を教えるためヘロデのところへ戻ろうとしたとき,そうしないようにと,夢の中で神から注意されます。それで彼らは別の道を通って自分たちの国へ去ってゆきます。
占星術者たちを案内したその星が空に現われるようにしたのはだれだと思いますか。その星はベツレヘムのイエスのもとへまっすぐ彼らを案内しなかったことを忘れないでください。むしろ占星術者たちはエルサレムへ導かれ,イエスを殺そうとしていたヘロデ王に接触しました。神が介入されて,イエスの居場所をヘロデに話さないようにと占星術者たちに注意されなかったなら,ヘロデはイエスを殺していたでしょう。イエスが殺されることを望んでいたのは,神の敵である悪魔サタンです。サタンはその星を使って自分の目的を果たそうとしたのです。 マタイ 2:1-12。ミカ 5:2。
■ 占星術者たちの見た星が普通の星でなかったことはどんなことから分かりますか。
■ 占星術者たちがイエスを見つけるとき,イエスはどこにいますか。
■ 占星術者たちを案内した星が現われるようにしたのがサタンであることはどうして分かりますか。
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暴君から逃れるこれまでに生存した最も偉大な人
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8章
暴君から逃れる
ヨセフは緊急な事態が生じていることを知らせるためにマリアを起こします。エホバのみ使いがたった今ヨセフに現われてこう言ったのです。「起きて,幼子とその母を連れてエジプトに逃げ,わたしが知らせるまでそこにとどまっていなさい。ヘロデがまさに,この幼子を捜して滅ぼそうとしているからである」。
3人はすぐに逃げ出します。それはちょうどよい時でした。占星術者たちが期待を裏切って国を去ったことをヘロデが知ったからです。占星術者たちは,イエスを見つけたらヘロデのところへ戻って報告することになっていたのを思い出してください。ヘロデはたいへん怒り,イエスを殺そうとして,ベツレヘムとその地域の2歳以下の男の子を皆殺しにせよという命令を出します。ヘロデは,東方から来た占星術者から以前に得た情報に基づいてこの年齢を割り出します。
男の赤ちゃんが皆殺しにされるのを見るのは非常に恐ろしいことです。ヘロデの兵士たちは家から家へ次々に押し入り,男の赤ちゃんを見つけると母親の腕の中から無理やり奪い取ります。どれほど多くの赤ちゃんが殺されるのか分かりませんが,母親たちがひどく悲しみ泣き叫ぶさまは,神の預言者エレミヤによる聖書預言の成就です。
その間に,ヨセフとその家族は無事エジプトにたどり着き,今はそこで暮らしています。しかしある晩,エホバのみ使いが夢の中で再びヨセフに現われ,「起きて,幼子とその母とを連れ,イスラエルの地に行きなさい。幼子の魂を求めていた者たちは死んだからである」と言います。それで,神のみ子はエジプトから呼び出されるであろうという聖書の別の預言の成就として,ヨセフの家族は故郷へ帰ります。
ヨセフはユダヤに落ち着くつもりでいるようです。彼らはエジプトに逃げる前にはユダヤのベツレヘムの町に住んでいました。ところが,ヘロデの息子でよこしまなアケラオが現在のユダヤの王であることをヨセフは知ります。さらに夢の中でエホバから危険について警告を受けます。それでヨセフとその家族は北に向けて旅をし,ガリラヤのナザレの町に落ち着きます。ユダヤ人の宗教生活の中心地から遠く離れたその町でイエスは成長されます。 マタイ 2:13-23。エレミヤ 31:15。ホセア 11:1。
■ 占星術者たちが戻らないので,ヘロデ王はどんな恐ろしいことをしますか。しかし,イエスはどのように保護されますか。
■ エジプトから帰ったとき,ヨセフがベツレヘムに再びとどまらなかったのはなぜですか。
■ その期間にどのような聖書預言が成就しますか。
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イエスの幼いころの家族生活これまでに生存した最も偉大な人
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9章
イエスの幼いころの家族生活
イエスが大きくなられるころのナザレは,どちらかといえば小さい,あまり重要視されていない都市です。ナザレは,美しいエズレルの谷からそれほど遠くない,ガリラヤと呼ばれる地域の丘陵地帯にあります。
イエスはたぶん2歳ぐらいのときに,ヨセフとマリアにエジプトからここへ連れて来られますが,その時のマリアの子供はイエスだけのようです。しかしそれはしばらくの間にすぎません。やがてヤコブ,ヨセフ,シモン,ユダが生まれます。またマリアとヨセフの間には女の子も何人か生まれます。結局イエスには少なくとも6人の弟や妹ができます。
イエスにはほかにも親せきがいます。わたしたちは,何キロも離れたユダヤに住む年上のいとこヨハネのことはすでに知っています。しかしガリラヤのもっと近い所に,マリアの姉妹と思われるサロメが住んでいます。サロメはゼベダイと結婚しています。それでその二人の息子であるヤコブとヨハネはイエスのいとこということになります。子供のころイエスがその二人と多くの時間を過ごされたかどうかは分かりませんが,後に3人は親しい仲間になります。
大勢になっていく家族を養うため,ヨセフは一生懸命に働かなければなりません。ヨセフは大工で,イエスを自分の息子として育てています。ですからイエスは「大工の息子」と呼ばれます。ヨセフはイエスも大工になるように仕込み,イエスはよく学びます。ですから後に人々はイエスのことを『これは大工だ』と言います。
ヨセフの家族の生活はエホバ神への崇拝を中心にして築かれています。ヨセフとマリアは神の律法を守って,「家で座るときも,道を歩くときも,寝るときも,起きるときも」,子供たちに霊的な事柄を教えます。ナザレには会堂がありますから,ヨセフも家族をそこへ定期的に連れて行って崇拝を行なっているに違いありません。しかし一家にとって一番の楽しみは,エルサレムのエホバの神殿に上る定期的な旅であるに違いありません。 マタイ 13:55,56; 27:56。マルコ 15:40; 6:3。申命記 6:6-9。
■ イエスには少なくとも何人の弟と妹がいますか。そのうちの何人かの名前を挙げてください。
■ イエスのいとこでよく知られている3人とはだれですか。
■ イエスは結局どんな世俗の職業に就かれますか。なぜですか。
■ ヨセフは家族に対してどんな重要な教育を行ないますか。
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エルサレムへの旅これまでに生存した最も偉大な人
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10章
エルサレムへの旅
春が来ました。過ぎ越しを祝うため,ヨセフの家族が友人や親せきと一緒に年に一度エルサレムへの春の旅をする時です。100㌔ほどのこの旅に出かけるときは,いつも興奮に包まれます。イエスはすでに12歳になっており,特別な関心を抱いてその祭りを楽しみにしています。
イエスとその家族にとって,過ぎ越しは1日だけの行事ではありません。それに続く七日間の無酵母パンの祭りも過ぎ越しの季節の一部とみなして,その祭りの期間もエルサレムにとどまります。その結果,この旅は,ナザレの家を出発する時から計算すると,エルサレムに滞在している期間を含め,全部でおよそ2週間かかります。ところが今年は,イエスに関係したあることのために,もっと長い旅になります。
その問題が分かったのは,エルサレムから帰る旅の途中のことです。ヨセフとマリアは,一緒に旅行している親せきや友人たちの中にイエスがいるものと思っていました。ところが,夜が来て泊まる時になっても,イエスが現われないのです。ヨセフとマリアは一緒に旅をしている連れの中を捜し回ります。イエスはどこにも見つかりません。それでヨセフとマリアはイエスを捜しにわざわざエルサレムへ戻ります。
二人は1日中捜しましたが,見つけることができません。二日目も,イエスは見つかりません。三日目になって,とうとうヨセフとマリアは神殿へ行きます。神殿の広間の一つで,イエスがユダヤ人の教師たちの真ん中に座って,その話すことを聴いたり質問したりしているのが見つかります。
「子供よ,どうしてこんなことをしてくれたのです。ご覧なさい,父上とわたしは痛む思いをしながらあなたを捜していたのです」と,マリアは言います。
どこへ行けばイエスが見つかるかをヨセフとマリアが知らなかったことにイエスは驚きます。それで,「なぜ私を捜さなければならなかったのですか。私が自分の父の家にいるはずのことをご存じではなかったのですか」と,イエスは言います。
そのことが両親にどうして分からないのか,イエスには理解できません。それでもイエスは両親と一緒に家へ帰り,引き続き彼らに服します。そして,知恵においても,身体的な成長においても,また神と人からの恵みの点でもさらに進んでいかれます。そうです,イエスは子供の時から,霊的な関心事を追い求めることだけでなく,両親に敬意を払う点でもりっぱな手本を示されます。 ルカ 2:40-52; 22:7。
■ 毎年春になると,イエスは家族と一緒にどんな旅に出かけますか。それはどれほど長い旅ですか。
■ イエスが12歳の時,旅の途中でどんなことが起きますか。
■ イエスは今日の若い人々にどんな手本を示されますか。
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ヨハネは道を備えるこれまでに生存した最も偉大な人
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11章
ヨハネは道を備える
イエスが神殿で教師たちに質問をしていた12歳の子供の時以来17年が過ぎ,西暦29年の春になりました。ヨルダン周辺の地方一帯で伝道を行なっている,イエスのいとこのヨハネはみんなの話題になっているようです。
ヨハネは,外見においても語ることにおいても本当に印象的な人です。らくだの毛でできた衣服を身にまとい,腰には革の帯を巻いています。食べ物は,いなごと野蜜です。彼が伝えている音信ですか。「悔い改めなさい。天の王国は近づいたからです」という音信です。
この音信は,ヨハネの話に耳を傾ける人々の心を奮い立たせます。悔い改める,つまり態度を改め,それまでの生き方を望ましくないものとして退ける必要を悟る人は少なくありません。それで,ヨルダン周辺の全地域から,またエルサレムからさえ,人々が大勢ヨハネのところへやって来ます。ヨハネはそれらの人々をヨルダン川の水中に浸して,バプテスマを施します。それは何のためでしょうか。
人々が神の律法契約に対する罪を心から悔い改めたことの象徴,もしくは承認としてバプテスマを施しているのです。ですから,幾人かのパリサイ人とサドカイ人がヨルダンへやって来た時,ヨハネは彼らを非難します。「まむしらの子孫よ」と,彼は言います。「悔い改めにふさわしい実を生み出しなさい。そして,自分の中で,『わたしたちの父にアブラハムがいる』などと言いだしてはなりません。あなた方に言っておきますが,神はこれらの石からアブラハムに子供たちを起こす力をお持ちになるのです。実際のところ,斧はすでに木の根もとに置いてあります。それゆえ,りっぱな実を生み出していない木はみな切り倒されて火に投げ込まれるのです」。
ヨハネが人々の注目を浴びているので,ユダヤ人たちは祭司やレビ人をヨハネのところに遣わします。「あなたはだれなのですか」と,彼らは尋ねます。
「わたしはキリストではありません」と,ヨハネは告白します。
「では何ですか。あなたはエリヤですか」と,彼らは尋ねます。
「そうではありません」と,彼は答えます。
「あなたはかの預言者ですか」。
「いいえ!」
彼らはしつこく尋ねます。「あなたはだれですか。わたしたちを遣わした人たちに答えができるようにしてください。あなたは自分について何と言いますか」。
「わたしは,預言者イザヤが言ったとおり,『エホバの道をまっすぐにせよ』と荒野で叫ぶ者の声です」と,ヨハネは説明します。
「では,あなたがキリストでもエリヤでもかの預言者でもないのであれば,どうしてバプテスマを施すのですか」と,彼らは尋ねます。
ヨハネは答えます。「わたしは水でバプテスマを施します。あなた方のただ中に,あなた方の知らない方が立っています。わたしの後に来る方です」。
ヨハネは,心の状態の正しい人々に王となられるメシアを受け入れさせることにより,道を備えているのです。このメシアについてヨハネは,「わたしの後に来る方はわたしより強く,わたしはその方のサンダルを外してさしあげるにも値しません」と言います。それどころかヨハネはこういうことさえ言います。「わたしの後に来る方は,わたしの前を進まれた。わたしより先に存在されたからである」。
こうして,「天の王国は近づいた」というヨハネの音信は,エホバの任命された王,イエス・キリストの宣教がまさに始まろうとしていることを公に知らせるものとなります。 ヨハネ 1:6-8,15-28。マタイ 3:1-12。ルカ 3:1-18。使徒 19:4。
■ ヨハネはどんな人ですか。
■ ヨハネはどうして人々にバプテスマを施すのですか。
■ ヨハネが,王国は近づいたと言うことができるのはなぜですか。
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イエスのバプテスマこれまでに生存した最も偉大な人
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12章
イエスのバプテスマ
ヨハネが伝道を始めておよそ6か月後,いま30歳のイエスはヨルダン川のヨハネのもとに来られます。何のためでしょうか。親ぼくのためですか。ヨハネの業の進み具合いに関心があるだけなのでしょうか。そうではありません。イエスはわたしにバプテスマを施してもらいたいとヨハネに言われます。
ヨハネはすぐにイエスを制し,「私こそあなたからバプテスマを受ける必要のある者ですのに,あなたが私のもとにおいでになるのですか」と言います。ヨハネはいとこのイエスが神の特別な子であることを知っています。イエスを身ごもっていたマリアが訪れた時,ヨハネは喜びのあまり母親の胎内で躍り上がりました。母親のエリサベツは後にそのことをヨハネに話したに違いありません。み使いがイエスの誕生を発表したことや,イエスが生まれた夜み使いたちが羊飼いに現われたことなども話していたでしょう。
ですからヨハネにとってイエスは決して未知の人ではなかったのです。自分の施しているバプテスマはイエスが受けるものではないこともヨハネは知っています。それは罪を悔い改めている人が受けるものですが,イエスは罪のない方です。しかし,ヨハネが制してもイエスは譲らず,「この度はそうさせてもらいたい。このようにしてわたしたちが義にかなったことをすべて果たすのはふさわしいことなのです」と言われます。
イエスがバプテスマを受けるのはどうして正しいことなのでしょうか。イエスのバプテスマは,罪の悔い改めの象徴ではなく,み父のご意志を行なうためにご自分を差し出したことの象徴だからです。イエスは大工でしたが,そのイエスが今や宣教を開始する時が来ました。そのためにイエスはエホバ神によって地上に遣わされたのです。ヨハネはイエスにバプテスマを施す時に何か異常なことが起きることを予期していると思いますか。
ヨハネは後でこう報告しています。「水でバプテスマを施すようにわたしを遣わした方が,『あなたは霊が下ってある人の上にとどまるのを見るが,それがだれであろうと,その者こそ聖霊でバプテスマを施す者である』とわたしに言われました」。それで,ヨハネは自分がバプテスマを施す人のうちのだれかに神の霊が下ることを予期しています。ですから,イエスが水から上がられるとき,『神の霊がはとのようにイエスの上に下る』のを見ても,実際には驚いていないかもしれません。
しかし,イエスがバプテスマを受けられた時に起きたのはそれだけではありません。イエスに対して『天が開かれます』。これはどういう意味でしょうか。それは,イエスがバプテスマを受けておられたとき,人間になる以前の天における生活の記憶がよみがえったということを意味するようです。こうしてイエスは今,人間となる以前の期間に天で神がイエスに語られたことを含め,エホバ神の霊の子としてのご自分の生活を完全に思い出されます。
それに加えて,イエスのバプテスマの時,天からの声が「これはわたしの子,わたしの愛する者である。この者をわたしは是認した」と宣言します。それはだれの声ですか。イエスご自身の声ですか。もちろんそうではありません。それは神の声です。イエスは神のみ子であって,ある人々が主張するように神ご自身でないことは明らかです。
しかしイエスは,最初の人間アダムがそうであったように,神の人間の子です。弟子ルカは,イエスのバプテスマについて述べたあとこう書いています。「イエス自身は,その業を開始された時,およそ三十歳であり,人の意見では,ヨセフの子……ヘリの子,……ダビデの子,……アブラハムの子,……ノアの子,……アダムの子,……神の子であった」。
アダムが「神の[人間の]子」であったのと同じく,イエスもそうです。イエスはこれまでに生存した最も偉大な人です。イエスの生涯を調べてみればそのことは明らかになります。しかし,バプテスマの時イエスは神との新しい関係に入られ,神の霊の子にもなられます。神はイエスに一つの道を歩み始めさせることによって,いわばイエスを今天に呼び戻されるのです。その道は,罪を宣告されている人類のためにイエスが人間としてのご自分の命を犠牲として永遠に捨てることにつながる道です。 マタイ 3:13-17。ルカ 3:21-38; 1:34-36,44; 2:10-14。ヨハネ 1:32-34。ヘブライ 10:5-9。
■ ヨハネにとってイエスはなぜ未知の人ではないのですか。
■ イエスは罪を犯したことがないのにどうしてバプテスマを受けられるのですか。
■ ヨハネがイエスについて知っていた事柄を考えると,神の霊がイエスの上に下る時ヨハネが驚かないかもしれないのはなぜですか。
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イエスが受けた誘惑から学ぶこれまでに生存した最も偉大な人
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13章
イエスが受けた誘惑から学ぶ
バプテスマのあとすぐイエスは神の霊によってユダヤの荒野へ導かれます。イエスには思い巡らすべき事柄がたくさんあります。というのは,バプテスマを受けられた時,「天が開け」たので天的な事柄をはっきり理解できるようになったからです。イエスには黙想すべきことが確かにたくさんあります。
イエスは荒野で四十日四十夜過ごされ,その間,何も食物を口にされません。それから,イエスがひどく空腹になられると,悪魔がイエスを誘惑しようと近づいて来て,「あなたが神の子であるなら,これらの石に,パンになるように命じなさい」と言います。しかしイエスは,自分にある奇跡を行なう力を個人的な欲求を満たすために用いるのは間違いだということを知っておられるので,誘惑を退けられます。
ところが悪魔はあきらめず,別の近づき方をしようとします。神殿の外壁から飛び降りてご覧なさい,神のみ使いたちがあなたを救ってくれるでしょう,とイエスに挑みます。しかし,イエスは,はなばなしいことを行なって見せるようにという誘惑に乗られません。そのような仕方で神を試みるのは間違っていることを,聖句を引用してお示しになります。
三番目の誘惑では,悪魔は何らかの奇跡的な方法で世のすべての王国をイエスに見せて,「もしあなたがひれ伏してわたしに崇拝の行為をするならば,わたしはこれらのすべてをあなたに上げましょう」と言います。しかし今度もイエスは,神への忠実を保つほうを選んで,間違った事をさせようとする誘惑に屈服されません。
わたしたちは,イエスが受けたこれらの誘惑から学ぶことができます。例えば,悪魔とは,一部の人が主張しているような,単なる邪悪な性質のことではなくて,目に見えない実在者であることが分かります。イエスが受けた誘惑はまた,世の政府がみな悪魔の所有物であることを示しています。というのは,もし本当に悪魔のものでなかったなら,それらをイエスに提供しても実際に誘惑することにはならなかったからです。
それで次の点を考えてください。悪魔は,自分に一度崇拝行為をするなら喜んでイエスに報いを与える,世のすべての王国さえも与えると言いました。この世の富や権力や地位などが得られる,欲望をかき立てる機会をわたしたちの前に置いたりして,同様の手口で悪魔がわたしたちを誘惑しようとするのは当然のことです。しかし,たとえどんな誘惑を受けようとも,神への忠実を保ってイエスの手本に従うのは本当に賢明なことと言えます。 マタイ 3:16; 4:1-11。マルコ 1:12,13。ルカ 4:1-13。
■ イエスは荒野に40日おられた間,どんなことについて黙想されたようですか。
■ 悪魔はどのような仕方でイエスを誘惑しようとしますか。
■ イエスの受けた誘惑から何を学ぶことができますか。
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イエスの最初の弟子たちこれまでに生存した最も偉大な人
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14章
イエスの最初の弟子たち
荒野で40日過ごした後,イエスはご自分にバプテスマを施したヨハネのところへ戻って来られます。イエスが近づくと,ヨハネは明らかにイエスを指差して,「見なさい,世の罪を取り去る,神の子羊です! これこそ,わたしの後に,わたしの前を進んだ人が来る,わたしより先に存在された方だから,とわたしが言ったその方です」と,そばにいる者たちに大きな声で言います。ヨハネはいとこのイエスよりも年上ですが,自分より先にイエスが天で霊者として存在しておられたことを知っているのです。
それでも,数週間前にイエスがバプテスマを受けに来られた時には,イエスがメシアになるべき方であることを,ヨハネは確実には知らなかったようです。ヨハネはそのことを認め,「わたしもこの方を知りませんでしたが,わたしが水でバプテスマを施しに来たのは,この方がイスラエルに明らかにされるためでした」と語ります。
イエスにバプテスマを施したとき何が起きたか,ヨハネは聞いている人たちに説明を続けます。「わたしは,霊が天からはとのように下って来るのを見ましたが,それはこの方の上にとどまりました。わたしもその方を知りませんでしたが,水でバプテスマを施すようにわたしを遣わした方が,『あなたは霊が下ってある人の上にとどまるのを見るが,それがだれであろうと,その者こそ聖霊でバプテスマを施す者である』とわたしに言われました。そしてわたしはそれを見たので,この方こそ神の子であると証ししたのです」。
次の日,ヨハネが弟子二人と一緒に立っていると,またイエスが近づいて来られたので,ヨハネは,「見なさい,神の子羊です!」と言います。すると,バプテスマを施す人ヨハネのその二人の弟子はイエスのあとに付いて行きます。片方の弟子はアンデレ,もう一方の弟子は,これらのことを記録した本人のようです。彼の名前もやはりヨハネです。察するところ,このヨハネもイエスのいとこで,マリアの姉妹サロメの息子のようです。
イエスは振り向いて,アンデレとヨハネがあとに付いて来るのを見,「あなた方は何を求めているのですか」とお尋ねになります。
「ラビ,どこに滞在しておられるのですか」と二人は尋ねます。
イエスは,「来てごらんなさい。そうすれば,あなた方は見るでしょう」とお答えになります。
時刻は午後の4時ごろでした。アンデレとヨハネはその日の夕刻までイエスのところにとどまります。後にアンデレは,非常に興奮して,ペテロと呼ばれる,自分の兄弟を捜しに大急ぎで出かけて行きます。そして,「わたしたちはメシアを見つけた」とペテロに話し,ペテロをイエスのところに連れて行きます。同じ時に多分ヨハネも兄弟のヤコブを見つけてイエスのところに連れて来たでしょう。しかし,いかにもヨハネらしくそのような個人的な情報は自分の記した福音書から省いています。
次の日,イエスはフィリポを見つけます。フィリポはアンデレやペテロと同じくベツサイダの出身です。イエスは,「わたしの追随者になりなさい」と彼に言われます。
それからフィリポは,バルトロマイとも呼ばれるナタナエルを見つけて,「わたしたちは,律法の中でモーセが,そして預言者たちが書いた方,ヨセフの子で,ナザレから来たイエスを見つけた」と言います。しかしナタナエルは疑わしく思い,「何か良いものがナザレから出ることがあるだろうか」と言います。
「来て,見なさい」とフィリポは勧めます。二人がイエスのほうに向かってやって来るとき,イエスはナタナエルについて,「見なさい,確かにイスラエル人,その内に欺まんのない人です」と言われます。
「あなたがわたしのことを知っておられるのはどうしてですか」と,ナタナエルは尋ねます。
「フィリポがあなたを呼ぶ前,あなたがいちじくの木の下にいた時に,わたしはあなたを見ました」と言われます。
ナタナエルは驚いて,「ラビ[師という意味],あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と言います。
「いちじくの木のすぐ下にいるのを見たとわたしが言ったので,あなたは信じるのですか」とイエスは尋ね,「あなたはこれより大いなる事を見るでしょう」と言われます。そしてこう約束されます。「きわめて真実にあなた方に言いますが,あなた方は,天が開けて,神のみ使いたちが人の子のもとに上り下りするのを見るでしょう」。
その後すぐにイエスは,新たに弟子になったばかりの人たちと共にヨルダン渓谷を去り,ガリラヤへ向かって旅をされます。 ヨハネ 1:29-51。
■ イエスの最初の弟子たちはだれですか。
■ ペテロは,そして多分ヤコブも,どのようにしてイエスに引き合わされますか。
■ どんなことがあって,ナタナエルはイエスが神の子であることを確信しますか。
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イエスの最初の奇跡これまでに生存した最も偉大な人
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15章
イエスの最初の奇跡
アンデレ,ペテロ,ヨハネ,フィリポ,ナタナエル,それにたぶんヤコブがイエスの最初の弟子になってから,一日か二日しかたっていません。彼らは今ガリラヤ地方に帰るところです。みんなその地方の人たちです。目的地は,イエスご自身がお育ちになったナザレからそう遠くない丘の上にある,ナタナエルの出身地カナです。彼らはそこで行なわれる婚宴に招かれていました。
イエスの母親もその婚礼に来ていました。結婚する人たちの家族の友達なのでしょうか,マリアは多くの客人を接待していたようでした。そういうわけでマリアは足りない物を目ざとく見つけ,「彼らにはぶどう酒がありません」とイエスに報告します。
マリアがそう言ったのは,実際には,ぶどう酒が足りないので何とかするようにというイエスへの暗示でしたが,イエスは最初気乗りしない様子で,「わたしはあなたとどんなかかわりがあるのでしょうか」と言われます。神から任命された王ですから,イエスは家族や友人からご自分の活動を指図される立場にはありません。それでマリアは,その問題を息子の手にゆだねるという賢明な方法をとり,給仕の者たちに,「彼があなた方に言うことは,何でもしてください」とだけ言います。
さて,そこには六つの大きな石の水がめが置いてあります。それぞれのかめには40㍑ほどの水が入ります。イエスは給仕たちに,「水がめに水を満たしなさい」とお命じになります。それで彼らはそれらの水がめの縁まで水を満たします。するとイエスは,「では今,少しくんで,宴会の幹事のところに持って行きなさい」と言われます。
幹事はそのぶどう酒が奇跡的に造られたとは知らずに,ぶどう酒の質の良いのに感心します。そして花婿を呼んでこう言います。「ほかの人はみな,上等のぶどう酒を最初に出し,みんなの酔いがまわったころに,それより劣ったのを出すものですが,あなたは上等のぶどう酒を今まで取って置いたのですね」。
これはイエスが初めて行なわれた奇跡で,イエスの新しい弟子たちはそれを見て,イエスに対する信仰を強めました。そのあと彼らは,イエスの母親や異父兄弟たちと共に,ガリラヤの海の近くにあるカペルナウムの町へ行きます。 ヨハネ 2:1-12。
■ カナで婚礼があるのは,イエスの宣教期間のいつごろのことですか。
■ イエスは母親の提案になぜ異議を唱えますか。
■ イエスはどんな奇跡を行なわれますか。それは他の人々にどんな影響を与えますか。
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エホバの崇拝に対する熱心これまでに生存した最も偉大な人
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16章
エホバの崇拝に対する熱心
イエスの異父兄弟 ― マリアの他の息子たち ― はヤコブ,ヨセフ,シモンそしてユダです。彼らはみなイエスやイエスの弟子たちと共に,ガリラヤの海の近くの町カペルナウムへ行きますが,その前にイエスの郷里であるナザレに足を止めるかもしれません。そうすれば家族は必要な物を荷造りすることができるからです。
しかしなぜイエスは,カナやナザレ,あるいはガリラヤの丘陵地帯の上にある他の場所で宣教を続けないでカペルナウムへ行かれるのでしょうか。一つには,カペルナウムがほかの所よりも目立つ場所にあり,ほかの町よりも大きな町だからでしょう。それに,新しくイエスの弟子になった人々のほとんどは,カペルナウムかその近くに住んでいますから,イエスから訓練を受けるのに家を離れる必要はありません。
イエスは,何か月か後にご自分で証言しておられるとおり,カペルナウムにおられる間に驚くべき業を行なわれます。しかし間もなく,イエスとその仲間はまた旅に出ます。時は春です。彼らは西暦30年の過ぎ越しの祭りに出席するため,エルサレムへ向かって進みます。エルサレムにいる間にイエスの弟子たちは,もしかしたらそれまで知らなかったかもしれないイエスの一面を見ます。
神の律法によると,イスラエル人は動物の犠牲をささげるよう要求されています。それでエルサレムに住む商人たちはイスラエル人の便宜をはかって,犠牲用の動物や鳥を売ります。ところが商人たちは神殿の内側でそれらを売っています。しかも人々をだまして,高すぎる値段で売っています。
強い義憤を感じたイエスは,縄でむちを作り,売る者たちを追い出されます。また,両替屋の硬貨をまき散らし,彼らの台を倒されます。そして,はとを売っている者たちに,「これらの物をここから持って行きなさい! わたしの父の家を売り買いの家とするのはやめなさい!」と叫ばれます。
それを見た時にイエスの弟子たちは,神の子に関する,「あなたの家に対する熱心がわたしを食い尽くすであろう」という預言を思い出します。それでもユダヤ人は,「こうした事をするからには,わたしたちにどんなしるしを見せるというのか」と尋ねます。イエスは,「この神殿を壊してみなさい。そうしたら,わたしは三日でそれを立てます」とお答えになります。
ユダヤ人はイエスが文字通りの神殿のことを言っているのだと考え,「この神殿は四十六年もかけて建てられたのに,それを三日で立てるというのか」と尋ねます。しかし,イエスはご自分の体という神殿について語っておられるのです。そして3年後,イエスが死人の中からよみがえらされた時,イエスの弟子たちはイエスのこの言葉を思い出します。 ヨハネ 2:12-22。マタイ 13:55。ルカ 4:23。
■ カナでの婚礼のあと,イエスはどんな場所へ行かれますか。
■ イエスはなぜ義憤を感じますか。そして何を行なわれますか。
■ イエスの行動を見て,イエスの弟子たちは何を思い出しますか。
■ イエスは「この神殿」について何と言われましたか。それはどういう意味ですか。
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ニコデモを教えるこれまでに生存した最も偉大な人
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17章
ニコデモを教える
西暦30年の過ぎ越しに出られた時,イエスは驚くべきしるし,つまり奇跡を行なわれます。その結果,多くの人がイエスに対して信仰を置くようになりました。ユダヤの最高法廷,サンヘドリンの成員であるニコデモも感銘を受け,もっと多くの事を知りたいと思います。そこで夜の暗い間にイエスを訪ねます。もし人に見られたら,ユダヤ人の他の指導者たちの間で自分の評判が悪くなるので,それを恐れたのかもしれません。
「ラビ,わたしたちは,あなたが教師として神のもとから来られたことを知っております。神が共におられない限り,あなたがなさるこうしたしるしを行なえる者はいないからです」と,ニコデモは言います。それに答えてイエスはニコデモに,神の王国へ入るには,人は「再び生まれなければ」ならない,と言われます。
でも,どうすれば再び生まれることができるのでしょうか。「自分の母の胎にもう一度入って生まれてくることなどできないではありませんか」と,ニコデモは尋ねます。
いいえ,再び生まれるとは,そういう意味ではありません。「水と霊から生まれなければ,だれも神の王国に入ることはできないのです」と,イエスは説明されます。イエスがバプテスマをお受けになった時,聖霊がイエスの上に下りました。そのようにしてイエスは「水と霊から」生まれました。そのとき神は天から,『これはわたしの子,わたしが是認した者である』と宣言することによって,ご自分が,天の王国に入る見込みを持つ霊の子を生み出したことを発表されました。その後,西暦33年のペンテコステの時に,バプテスマを受けている他の人々も聖霊を受け,神の霊の子として再び生まれます。
しかし,神の特別の人間の子の役割は重要なものです。「モーセが荒野で蛇を挙げたと同じように,人の子も挙げられねばなりません。それは,彼を信じる者がみな永遠の命を持つためです」と,イエスはニコデモに言われます。そうです,毒蛇にかまれたイスラエル人たちが,救われるために銅の蛇を見なければならなかったのと同じように,すべての人間は,死にゆく状態から救われるために,神の子に信仰を働かせる必要があります。
このことにおけるエホバの愛ある役割を強調して,イエスは次にニコデモにこう言われます。「神は世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持てるようにされた(の)です」。こうしてイエスは,宣教をお始めになってからちょうど6か月後にここエルサレムで,ご自分が,人類を救うための神の手段であることを明らかにされます。
イエスはさらにニコデモに説明されます。「神はご自分の子を世に遣わされましたが,それは,彼が世を裁くため」,つまり世に不利な裁きを下す,あるいは世を罪に定める,そして人類に滅びを宣告するためではありません。むしろ,イエスが言われるように,「世が彼を通して救われるためなのです」。
ニコデモはやみにまぎれて恐る恐るイエスのところへ来ました。それでイエスがニコデモとの会話を次の言葉で結ばれたのは興味深いことです。「さて,裁きの根拠はこれです。すなわち,光[イエスがその生活と教えにおいて体現されたもの]が世に来ているのに,人々が光よりむしろ闇を愛したことです。その業が邪悪であったからです。いとうべき事柄を習わしにする者は,光を憎んで,光に来ません。自分の業が戒められないようにするためです。しかし,真実なことを行なう者は光に来て,自分の業が神に従ってなされていることが明らかになるようにします」。 ヨハネ 2:23-3:21。マタイ 3:16,17。使徒 2:1-4。民数記 21:9。
■ 何がきっかけでニコデモはイエスを訪問しますか。ニコデモはなぜ夜来ますか。
■ 「再び生まれる」ということは何を意味しますか。
■ イエスは,わたしたちの救いにおけるご自分の役割を,どのような例によって示されますか。
■ イエスが世を裁くために来たのではないとは,どういう意味ですか。
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ヨハネは減ってゆき,イエスは増し加わってゆくこれまでに生存した最も偉大な人
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18章
ヨハネは減ってゆき,イエスは増し加わってゆく
西暦30年の春の過ぎ越しのあと,イエスとその弟子たちはエルサレムを去ります。しかし,ガリラヤの自分たちの家に戻るのではなく,ユダヤ地方へ出かけて行って,そこでバプテスマを施します。バプテスマを施す人ヨハネはそれまで,ほぼ1年間,同じことを行なっており,まだ弟子たちもいてヨハネと交わっています。
実際には,イエスはご自分でバプテスマを施すことをなさらず,弟子たちがイエスの指示のもとにそれを行ないます。イエスの弟子たちが施すバプテスマは,ヨハネが施したバプテスマと同じ意味を持ち,ユダヤ人が神の律法契約に対する罪を悔い改めたことを示す象徴です。しかし,イエスは復活後,異なった意義を持つバプテスマを施すよう弟子たちに指示をお与えになります。今日のクリスチャンのバプテスマは,エホバ神に奉仕するために献身したことの象徴です。
しかし,この時はイエスが宣教を開始されて間もないころですから,ヨハネもイエスも,別個にではありましたが,人々を教えたり,悔い改めた人々にバプテスマを施したりしています。ところが,ヨハネの弟子たちはねたみ心を起こし,イエスについて,「ラビ,……見てください,この人がバプテスマを施しており,みんながそのもとに行くのです」と,ヨハネに不満をもらします。
ヨハネはねたむどころかイエスの成功を歓び,弟子たちにもそれを歓んでほしいと思います。そして弟子たちに言います。「わたしは,自分はキリストではなく,その方に先立って遣わされた者であると言いましたが,そのことについてあなた方自身がわたしに証ししています」。それから麗しい例えを用いて次のように語ります。「花嫁を持つ者は花婿です。しかし,花婿の友人は,立って彼のことばを聞くと,その花婿の声に一方ならぬ喜びを抱きます。そのようなわけで,わたしのこの喜びは満たされているのです」。
花婿の友であるヨハネは,半年ほど前にも自分の弟子たちを歓んでイエスに紹介しています。その弟子たちのうちのある者は,霊で油そそがれたクリスチャンたちで構成される,キリストの天の花嫁級の一員となる見込みのある者になりました。ヨハネの目指すところは,キリストの宣教が成功するよう道を備えることですから,ヨハネは今いる自分の弟子たちもイエスの追随者になることを願います。それでバプテスマを施す人ヨハネは,「あの方は増し加わってゆき,わたしは減ってゆかねばなりません」と説明します。
先に,バプテスマを施す人ヨハネの弟子でもあった,イエスの新しい弟子ヨハネは,イエスの生まれと,人間の救いにおけるイエスの重要な役割とについてこのように書きます。「上から来る者は他のすべての者の上にある。……父はみ子を愛しておられ,すべてのものをその手にお与えになったのである。み子に信仰を働かせる者は永遠の命を持っている。み子に従わない者は命を見ず,神の憤りがその上にとどまっているのである」。
バプテスマを施す人ヨハネは,自分の業が減ってゆくことを述べますが,そのあと間もなく,ヘロデ王に捕縛されます。ヘロデは自分の兄弟フィリポの妻ヘロデアを取って自分の妻にしていました。そして,その行ないがふさわしくないことをヨハネが公に非難すると,ヘロデはヨハネを獄に入れてしまいます。イエスはヨハネが捕らえられたことをお聞きになると,弟子たちと共にユダヤを去り,ガリラヤへ向かわれます。 ヨハネ 3:22-4:3。使徒 19:4。マタイ 28:19。コリント第二 11:2。マルコ 1:14; 6:17-20。
■ イエスの指示により,イエスの復活の前に行なわれたバプテスマと,イエスの復活のあとに行なわれたバプテスマには,どんな意義がありますか。
■ ヨハネは,自分の弟子たちの不満が不当なものであることをどのように示しますか。
■ ヨハネはなぜ獄に入れられますか。
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サマリアの女に教えるこれまでに生存した最も偉大な人
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19章
サマリアの女に教える
ユダヤからガリラヤへ行く途中,イエスとその弟子たちはサマリア地方を通ります。旅のために疲れた一行は,正午ごろ,スカルの町にほど近い,ある井戸のそばで足を止め,休憩します。この井戸は何世紀も前にヤコブが掘ったもので,今日まで残っており,今のナブルスという都市の近くにあります。
イエスがここで休んでおられる間に,弟子たちは幾らかの食物を買うため町へ出かけて行きます。ひとりのサマリアの女が水をくみに来たとき,イエスは,「わたしに飲ませてください」と言われます。
ユダヤ人とサマリア人は,根深い偏見があるために,ふつう交渉を持ちません。それで女はひどく驚き,「ユダヤ人のあなたが,サマリア人の女であるわたしに,水を飲ませてほしいとおっしゃるのはどうしてですか」と尋ねます。
「もしあなたが,……『わたしに飲ませてほしい』と言っているのがだれであるかを知っていたなら,あなたはその者に求めたでしょうし,その者はあなたに生きた水を与えたことでしょう」。
彼女は言います。「だんな様,あなたは水をくむ手おけさえ持っておられず,しかもこの井戸は深いのです。それで,その生きた水をどこから持っておいでになるのですか。あなたは,わたしたちにこの井戸を与え,自らも息子や家畜たちと一緒にここから飲んだ,わたしたちの父祖ヤコブより偉大な方ではないはずですが」。
イエスはそれに答えて言われます。「この水を飲む人はみな再び渇きます。だれでもわたしが与える水を飲む人は,決して渇くことがなく,わたしが与える水は,その人の中で,永遠の命を与えるためにわき上がる水の泉となるのです」。
「だんな様,わたしにその水を下さって,わたしが渇くことがなく,またここまでいつも水をくみに来なくてもよいようにしてください」と,女は言います。
それでイエスは彼女に,「行って,あなたの夫をここに呼んできなさい」とおっしゃいます。
「わたしには夫がありません」と,女は答えます。
イエスは女の言ったことが事実であることを証明されます。「『夫がない』とはよく言いました。あなたには五人の夫がいましたが,今いるのは夫ではないからです」。
女はびっくりし,「だんな様,わたしは,あなたが預言者であることが分かります」と言います。そして霊的な事柄に関心のあることを示し,サマリア人は「この山[近くにあるゲリジム山]で崇拝しました。それなのにあなた方[ユダヤ人]は,崇拝するべき場所はエルサレムだと言います」と述べます。
しかし,崇拝のための場所は重要な事柄ではないことをイエスは指摘し,「真の崇拝者が霊と真理をもって父を崇拝する時が来ようとしています。……実際,父は,ご自分をそのように崇拝する者たちを求めておられるのです。神は霊であられるので,神を崇拝する者も霊と真理をもって崇拝しなければなりません」と言われます。
女は深い感動を覚えます。そして,「わたしは,メシアが,キリストと呼ばれる方がおいでになることを知っています。その方が到来されるときには,すべてのことをはっきりと告げ知らせてくださるでしょう」と言います。
「あなたに話しているわたしがそれです」と,イエスは宣言されます。考えてみてください。この女は,自分の生き方を軽べつする町の女たちと顔を合わせるのを避けるためでしょうか,真昼に水をくみに来て,イエスからすばらしい仕方で好意を示されました。イエスはほかのだれにも公然と話したことのない事柄を率直にその女に語られます。どんな結果になるでしょうか。
多くのサマリア人が信じる
弟子たちが食物を持ってスカルから戻ってみると,イエスはヤコブの井戸のそばの,彼らが出かけた時と同じ場所におられます。しかし,イエスは今サマリアの女と話しておられます。弟子たちが帰ると,女は水がめを残したまま去って,市内のほうへ向かいます。
イエスが話された事柄に深い関心を抱いたその女は,都市の人々に,「来て,わたしのした事をみな言い当てた人を見てください」と告げます。それから,好奇心をそそるように,「もしやこれがキリストではないでしょうか」と問いかけます。その質問は目的を果たし,人々は自分の目で見ようと出かけて行きます。
その間,弟子たちは,市内から持ち帰った食物を召し上がるようイエスに勧めます。しかしイエスは,「わたしには,あなた方の知らない,食べるべき食物があります」とお答えになります。
弟子たちは,「だれも彼に食べる物を持って来なかったではないか」と互いに言います。イエスは次のように説明されます。「わたしの食物とは,わたしを遣わした方のご意志を行ない,そのみ業をなし終えることです。あなた方は,収穫までにはまだ四か月あると言うのではありませんか」。しかし,イエスは霊的な収穫を指して,「目を上げて畑をご覧なさい。収穫を待って白く色づいています。すでに,刈り取る者は報酬を受け取って永遠の命のための実を集めています。こうして,まく者と刈り取る者とは共に歓ぶのです」と言われます。
もしかするとイエスは,サマリアの女と出会ったことが大きな成果を上げていること,つまりその女が証言をしたために多くの人がイエスを信じつつあることを,すでに見抜いておられるのかもしれません。彼女は町の人々に証言し,その人は「わたしのした事をみな言い当てた」と告げます。それでスカルの人々は,井戸のそばにおられたイエスのところへやって来ると,自分たちのところに滞在してもっと多くのことを話してくださるように頼みます。それでイエスはその招きに応じ,二日間とどまられます。
サマリア人はイエスの話を聴き,さらに多くの者が信じます。それから彼らはその女に向かって,「わたしたちはもう,あなたの話のゆえに信じているのではない。自分で聞いて,この人こそ確かに世の救い主だということが分かるのだ」と言います。確かにサマリアの女のしたことは,どうすれば聴く人々がさらに調べてみる気持ちになるよう好奇心を刺激し,キリストに関する証言を行なえるかを示す優れた手本です。
収穫までに ― これは大麦の収穫のようです ― あと4か月あることを思い出してください。パレスチナでは大麦の収穫は春に行なわれます。ですから今はたぶん11月か12月でしょう。これは,イエスとその弟子たちが,西暦30年の過ぎ越しのあと,ユダヤで8か月ほど教えたり,バプテスマを施したりしたことを意味します。今度は彼らは故郷のガリラヤへ向かいます。そこではどんな事が待ち受けているでしょうか。 ヨハネ 4:3-43。
■ サマリアの女は,イエスから話しかけられて,なぜ驚きますか。
■ イエスは,生きた水と崇拝のための場所についてその女に何を教えますか。
■ イエスは自分がだれであるかをどのようにその女に明らかにされますか。それを明らかにされたことはなぜそれほど驚くべきことなのですか。
■ サマリアの女はどんな証言をしますか。どんな結果になりますか。
■ イエスの食物は収穫とどのような関連がありますか。
■ 西暦30年の過ぎ越しのあと,イエスがユダヤで宣教を行なわれた期間をどのように定めることができますか。
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カナで行なわれた二番目の奇跡これまでに生存した最も偉大な人
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20章
カナで行なわれた二番目の奇跡
イエスはユダヤで長い間伝道活動を行なわれたあと,ご自分の郷里に戻られますが,それは十分の休息をとるためではありません。それどころか,ご自分の育った土地ガリラヤで,さらに大規模な宣教を開始されます。しかしイエスの弟子たちは,イエスのもとにとどまらないで,家族のいる自分の家に帰り,以前の仕事に就きます。
イエスはこれからどんな音信を宣べ伝えるのでしょうか。「神の王国は近づきました。あなた方は悔い改めて,良いたよりに信仰を持ちなさい」という音信です。それに対する反応はどうでしょうか。ガリラヤ人はイエスを受け入れます。みんなイエスを敬います。でもそれは,必ずしもイエスが告げる音信のためではありません。ガリラヤ人の中には何か月か前,過ぎ越しの時にエルサレムにいて,イエスが行なわれた驚くべきしるしを見た人が大勢いたからです。
イエスはガリラヤでの大々的な宣教をカナでお始めになるようです。以前,イエスがユダヤから戻られた時,カナにおける婚宴の席で,水をぶどう酒に変えられたことをあなたは思い出すかもしれません。二度目の今回は,王ヘロデ・アンテパスの政府のある役人の子供が重い病気にかかっています。イエスがユダヤからカナに来られたことを聞いたその役人は,カペルナウムにある自分の家からはるばるイエスを探してやって来ます。悲しみに打ちひしがれたその役人は,『どうぞ,子供が死なないうちに,すぐにお越しくださいますように』と頼みます。
イエスは,『家へ帰りなさい。あなたの息子はよくなりました』とお答えになります。ヘロデの役人はその言葉を信じ,我が家までの遠い道を帰りはじめます。ところがその途中で自分の僕たちに会います。その僕たちは,すべてがうまくいったこと ― 息子が回復したことを主人に知らせるために急いでやって来たのです。『息子の容体はいつごろよくなったのか』とその人は尋ねます。
『昨日の午後1時ごろです』と,僕たちは答えます。
それはちょうどイエスが,『あなたの息子はよくなりました』と言われた時刻であったことに,その役人は気づきます。この事があってから,その役人と役人の家の者全員がキリストの弟子になります。
こうしてカナは,イエスが,ユダヤから戻られたことを示す奇跡を二度行なわれた場所となる恩恵にあずかりました。もちろん,イエスがその時までに行なわれた奇跡はその二つだけではありませんでしたが,それらの奇跡はイエスがガリラヤへ戻られたことをしるしづけるものであるため,重要な意義を持っています。
さてイエスは郷里のナザレに向かわれます。そこではどんな事が待っているでしょうか。 ヨハネ 4:43-54。マルコ 1:14,15。ルカ 4:14,15。
■ イエスがガリラヤへ帰られるとき,弟子たちはどうなりますか。人々はイエスをどのように迎えますか。
■ イエスはどんな奇跡を行なわれますか。そしてその事は関係者たちにどんな影響を及ぼしますか。
■ したがって,カナはイエスからどんな恩恵を受けますか。
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イエスの郷里の会堂でこれまでに生存した最も偉大な人
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21章
イエスの郷里の会堂で
イエスが郷里に戻られるとき,ナザレの町は沸き立つに違いありません。1年あまり前,ヨハネにバプテスマを施してもらうために出て行かれるまでは,イエスは大工として知られていました。しかしいまイエスは,奇跡を行なう人として遠く広く知られています。地元の人々は,イエスが自分たちの間でその驚くべき業を幾らか行なうのをぜひ見たいと思っています。
イエスが習慣どおり地元の会堂へ行かれると,人々の期待は高まります。礼拝の時,イエスは朗読のために立ち上がられ,預言者イザヤの巻き物がイエスに手渡されます。イエスは,エホバの霊によって油そそがれる方のことが述べられているところを見いだされます。今日わたしたちが持っている聖書のイザ 61章です。
この方が,捕らわれ人の釈放,盲人の視力の回復,およびエホバに受け入れられる年を宣べ伝えることについて読み終えると,イエスは巻き物を付き添いの者に返し,腰をおろされます。すべての人の目がじっとイエスに注がれます。その時イエスは,多分かなりの時間をかけて話をし,「あなた方がいま聞いたこの聖句は,きょう成就しています」と説明されます。
人々は「人を引きつける言葉」に驚嘆し,互いに「これはヨセフの子ではないか」と言います。しかしイエスは,ご自分が奇跡を行なうのを人々が見たがっていることを知っておられて,さらにこう言われます。「きっとあなた方はこの例えをわたしに当てはめるでしょう。『医者よ,自分を治せ。カペルナウムで起きたとわたしたちが聞いた事柄を,ここ,自分の郷里でも行なえ』と」。イエスの以前の隣人たちは,いやしは郷里から始め,郷里の人々にまずその益を得させるべきだと考えているようです。ですから自分たちはイエスに軽視されたと思っているのです。
人々が考えていることに気づかれたイエスは,この場合に当てはまる史実を幾つか語られます。エリヤの日に,イスラエルには多くのやもめがいましたが,エリヤはその女たちのだれのもとにも遣わされなかったことをイエスは指摘されます。むしろエリヤはシドンに住むイスラエル人でないやもめのもとへ行き,そこで命を救う奇跡を行ないました。また,エリシャの日に多くのらい病人がいましたが,エリシャはシリアから来たナアマンだけを清めました。
会堂にいた人々は,自分たちが利己的であることや自分たちに信仰がないことを暴露するこうした不利な歴史的比較に腹を立て,立ち上がってイエスを市の外へせき立てます。そして,ナザレが建っている山のがけ端で,イエスを投げ落とそうとします。しかしイエスは彼らに捕まることなく,無事に去って行かれます。 ルカ 4:16-30。列王第一 17:8-16。列王第二 5:8-14。
■ なぜナザレの町は沸き立ちますか。
■ 人々はイエスの話をどう考えますか。しかしそれから人々は何にひどく腹を立てますか。
■ 人々はイエスに何をしようとしますか。
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4人の弟子が召されるこれまでに生存した最も偉大な人
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22章
4人の弟子が召される
郷里のナザレで命をねらわれたイエスは,その後,ガリラヤの海のそばのカペルナウムという町に移られます。イザヤの別の預言,すなわち,海辺に住むガリラヤの人々が大いなる光を見るという預言はこうして成就することになります。
王国を宣べ伝えるという,光を携えてゆく業をこの地域で続けながら,イエスは4人の弟子を捜し出されます。その4人は以前イエスと一緒に旅をした人たちで,イエスと共にユダヤから帰った後,また漁師の仕事に戻っていました。イエスがその4人の弟子を捜し出されるのは,おそらく,ご自分が去ったあとも宣教を続けさせるようご自分が訓練することのできる,安定した真の援助者たちを持つべき時期が来たからでしょう。
それで海辺を歩いていると,シモン・ペテロとその仲間が網を洗っているのが見えたので,そちらの方へ行かれます。そしてペテロの舟に乗り,陸から離すようペテロにお求めになります。ある程度離れると,イエスは舟の中に座って,岸にいる群衆を教えはじめられます。
その後,ペテロに,「深いところに乗り出しなさい。そしてあなた方は,網を下ろして漁をしなさい」と言われます。
ペテロは,「先生,わたしたちはまる一晩労苦して何も取れなかったのですが,仰せのとおりに網を降ろしてみます」と答えます。
網を降ろしたところ,非常に多くの魚が取れたので,網が裂けはじめます。ペテロたちは,近くにいた一そうの舟にいる仲間の者たちに,来て手伝ってくれるようにとしきりに身ぶりで合図をします。まもなく両方の舟は魚で一杯になり,沈みはじめます。これを見て,ペテロはイエスの前にひれ伏し,「私からお離れください。私は罪深い男なのです,主よ」と言います。
イエスは,「恐れなくてもよい。今から後,あなたは人を生きながら捕るのです」とお答えになります。
イエスはペテロの兄弟のアンデレをも招き,「わたしに付いて来なさい。そうすれば,あなた方を,人をすなどる者にしてあげましょう」と二人にお勧めになります。漁師仲間である,ゼベダイの子のヤコブとヨハネも同様の招待を受けます。そして二人もやはり,ためらうことなくその招きに応じます。それでこの4人は漁師をやめて,イエスの最初の4人の安定した真の追随者になります。 ルカ 5:1-11。マタイ 4:13-22。マルコ 1:16-20。イザヤ 9:1,2。
■ なぜイエスはご自分に付いて来るよう弟子たちをお召しになるのですか。召されたのはだれですか。
■ ペテロはどんな奇跡にびっくりしますか。
■ イエスは,どんな種類の漁に弟子たちを招かれますか。
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カペルナウムで行なわれた幾つかの奇跡これまでに生存した最も偉大な人
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23章
カペルナウムで行なわれた幾つかの奇跡
イエスが最初の4人の弟子,すなわちペテロ,アンデレ,ヤコブ,ヨハネを召されたのち,彼らは安息日に全員カペルナウムの会堂へ行きます。そしてイエスはそこで教え始められます。イエスが権威を持つ者のように教えられ,書士たちのようではなかったので,人々はすっかり驚きます。
その安息日には,悪霊に取りつかれた男の人が来ていました。しばらくしてから,その人は大声でどなってこう言います。「ナザレ人イエスよ,わたしたちはあなたと何のかかわりがあるのですか。わたしたちを滅ぼそうとしてやって来たのですか。わたしはあなたがだれだかはっきり知っています,神の聖なる者です」。
その人を支配していた悪霊は実はサタンの使いの一人です。イエスはその悪霊を叱りつけ,「黙っていなさい。そして彼から出て来なさい!」と言われます。
すると,悪霊はその人にけいれんを起こさせ,声かぎりにわめき立てます。しかしその人を傷つけずにその人から出て来ます。皆はただただ驚くばかりです! そして「これはどういうことなのか。……彼は汚れた霊たちにさえ権威をもって命じる。すると彼らはこの人に従うのだ」と言います。このうわさは周囲の地域全体に広まります。
イエスと弟子たちは,会堂を出ると,みんなでペテロの家へ行きます。ペテロのしゅうとめは重い病気にかかって高い熱を出しています。人々は『どうか彼女を助けてください』と頼みこみます。それでイエスは彼女のところへ行ってその手を取り,彼女を起こされます。するとペテロのしゅうとめはたちまち病気が治って,イエスや弟子たちのために食事の準備をし始めます!
そのあと,日が沈んでしまうと,人々が至る所から病人を連れてペテロの家へやって来ます。まもなく市全体が戸口のところに集まります! そしてイエスは,どんな病気にかかっているかに関係なく,病人をすべて治されます。また,悪霊につかれた人まで自由にされます。イエスに追い出される悪霊たちは出てくるときに,「あなたは神の子です」と叫びます。しかし,イエスは悪霊たちを叱りつけ,彼らに語ることを許されません。なぜならイエスがキリストであることを彼らは知っているからです。 マルコ 1:21-34。ルカ 4:31-41。マタイ 8:14-17。
■ イエスが4人の弟子を召されたあと,安息日に会堂でどんな事が起きますか。
■ 会堂を出てからイエスはどこへ行かれますか。また,そこでどんな奇跡を行なわれますか。
■ そのあと,その日の夕方にどんな事が起きますか。
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イエスが地上に来たのはなぜかこれまでに生存した最も偉大な人
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24章
イエスが地上に来たのはなぜか
イエスは4人の弟子たちと共にカペルナウムで忙しい一日を過ごされました。夜は夜でカペルナウムの人々は,イエスに病気を治してもらおうと病人をみなイエスの所に連れて来ました。独りになる時間は全くありませんでした。
さて,次の日の朝早く,まだ暗いうちに,イエスは起きて独りで外に出て行かれます。そしてひそかにみ父に祈ることのできる寂しい場所へ行かれます。しかし,独りでいることができるのはつかの間です。イエスのいないことに気づいたペテロや他の人々がイエスを捜しにやって来るからです。
イエスを見つけると,ペテロは「みんながあなたを捜しています」と言います。カペルナウムの人々はイエスが自分たちの所にとどまることを望みます。イエスが自分たちのためにしてくださったことを心から感謝しているのです。しかし,イエスは主にそのような奇跡的ないやしを行なうために地上へ来られたのでしょうか。イエスはそのことについて何と言われるでしょうか。
聖書のある記録によると,イエスは弟子たちに「どこかほかの所,近くの田舎町に行きましょう。わたしがそこでも宣べ伝えるためです。わたしが出て来たのはそのためだからです」とお答えになります。人々はとどまるようにとイエスに強く勧めますが,イエスは彼らに,「わたしはほかの都市にも神の王国の良いたよりを宣明しなければなりません。わたしはそのために遣わされたからです」と言われます。
確かに,イエスが地上に来られたのは特に,神の王国について宣べ伝えるためです。神の王国はみ父のお名前を立証し,人間のあらゆる病気を永遠に取り除きます。しかしイエスは,ご自分が神から遣わされていることを証明するために,奇跡的ないやしを行なわれます。何世紀も昔,モーセも同様に,神の僕として信任されていることを立証するために奇跡を行ないました。
さて,イエスがほかの都市で宣べ伝えるためにカペルナウムをあとにされると,4人の弟子たちも一緒に付いて行きます。その4人とは,ペテロおよびその兄弟のアンデレと,ヨハネおよびその兄弟のヤコブです。その4人は,ちょうど前の週に,イエスと一緒に旅をしてイエスの同労者になるよう最初に招待されたことをあなたは思い出すでしょう。
イエスが4人の弟子を伴って出かけた,ガリラヤの伝道旅行はすばらしい成功を収めます。実際,イエスの活動の評判はシリアじゅうに伝わります。そして大群衆がガリラヤ,ユダヤ,またヨルダン川の向こう側から来てイエスとその弟子たちに従います。 マルコ 1:35-39。ルカ 4:42,43。マタイ 4:23-25。出エジプト記 4:1-9,30,31。
■ イエスがカペルナウムで忙しい一日を送られた次の日の朝にはどんなことが起きますか。
■ イエスが地上に遣わされたのはなぜですか。また,イエスの奇跡はどんな目的に役立ちますか。
■ イエスと一緒にガリラヤの伝道旅行に出かけるのはだれですか。また,イエスの活動にはどんな反応がありますか。
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らい病人に示された同情心これまでに生存した最も偉大な人
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25章
らい病人に示された同情心
イエスと4人の弟子たちがガリラヤの諸都市を訪れると,イエスが行なっておられるすばらしい事柄についての知らせがその地域一帯に広まります。イエスのなさった事柄の話は,らい病をわずらっている男の人のいるある都市にも伝わります。医師のルカはその人のことを,「体じゅうらい病」にかかっていると描写しています。この恐ろしい病気はひどくなると,体のいろいろな部分がだんだんくずれてゆきます。ですからそのらい病人は哀れな状態にあります。
イエスがその都市に到着すると,そのらい病人はイエスに近づきます。神の律法によると,らい病人は,ほかの人たちが近づき過ぎてらい病がうつることのないよう,「汚れている,汚れている!」と呼ばわって警告しなければなりません。さてそのらい病人はひれ伏すとイエスに,「主よ,あなたは,ただそうお望みになるだけで,私を清くすることがおできになります」と懇願します。
その男の人はイエスに対して何と大きな信仰を抱いているのでしょう! それにしても,らい病のために何と哀れな姿をしているのでしょう! イエスはどうされるでしょうか。あなたならどうするでしょうか。イエスは同情され,手を伸ばしてその人に触り,「わたしはそう望みます。清くなりなさい」と言われます。すると,すぐにらい病は消えます。
あなたは,そのような同情心のある人を自分たちの王としていただくことを願いますか。そのらい病人に対するイエスの接し方を見ると,『彼は立場の低い者や貧しい者をふびんに思い,貧しい者たちの魂を救う』という聖書の預言が,イエスの王国の支配のもとで成就することを確信することができます。そうです,その時にはイエスは,苦しめられている人々すべてを助けたいというご自分の心からの願いを達成されるのです。
らい病人をいやす前でさえ,イエスの宣教は人々の間に非常な興奮を引き起こしていました。イザヤの預言の成就として,イエスはいやされた人に,「だれにも何も言わないようにしなさい」とお命じになり,それから,「行って自分を祭司に見せ,自分の清めのために,モーセの指示したものをささげなさい。彼らへの証しのためです」と言われます。
でもその人はうれしくて仕方がないので,奇跡的にいやされたことを秘密にしておくことができません。去って行くと,至るところでその話を広め始めます。そのために人々が強い関心と好奇心を持つようになったのか,イエスは表だっては都市に入ることができなくなります。それで,だれも住んでいない寂しい場所にとどまられます。それでも,イエスの言葉を聞き,また自分の病気を治してもらおうとして,人々が至るところからやって来ます。 ルカ 5:12-16。マルコ 1:40-45。マタイ 8:2-4。レビ記 13:45; 14:10-13。詩編 72:13。イザヤ 42:1,2。
■ らい病はどんな影響を及ぼすことがありますか。それで,らい病人はどのような警告を与えなければなりませんでしたか。
■ あるらい病人はイエスにどのように懇願しましたか。イエスの反応からどんなことを学べますか。
■ いやされた人はどうしてイエスの言われたとおりにすることができませんでしたか。それでどんな結果になりますか。
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カペルナウムの家に帰るこれまでに生存した最も偉大な人
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26章
カペルナウムの家に帰る
イエスの評判は今では遠く広く伝わっていて,イエスが滞在しておられる所には人里離れた場所であっても人々が大勢やって来ます。しかし,何日かのち,イエスはガリラヤの海のそばのカペルナウムへ戻られます。イエスが家に帰っておられるというニュースはたちまち町じゅうに広がり,イエスのおられる家に大勢の人がやって来ます。パリサイ人や律法の教師たちもはるばるエルサレムからやって来ます。
とても大勢の人が集まったので入口はふさがり,もうだれも中へ入る余地はありません。実に驚くべき出来事の生じる状況が整いました。このときの出来事はたいへん重要です。なぜならそれは,人間の苦しみの原因を取り除き,ご自分が選ぶ人すべての健康を回復させる力をイエスが持っておられることを理解するのに役立つ出来事だからです。
イエスが群衆を教えておられると,4人の人が,まひした人を寝台に載せてその家へ運んで来ます。その人たちは,イエスに友達をいやしてもらおうと思っているのです。しかし,群衆のために中へ入れません。何と残念なことでしょう! でも4人はあきらめません。平らな屋根に上って屋根に穴を開け,まひした人を載せたまま寝台をイエスのそばにつり降ろします。
イエスは話の邪魔をされて立腹されるでしょうか。決してそのようなことはありません! それどころか,イエスはその人たちの信仰に深い感銘をお受けになります。そしてまひした人に,「あなたの罪は許されています」と言われます。しかし,イエスは本当に罪を許すことがおできになるのでしょうか。書士やパリサイ人たちはそうは思いません。心の中で,「なぜこの男はこのように言うのか。神を冒とくしている。ただ一人,神以外のだれが罪を許せるのか」と論じます。
イエスは彼らの考えを知っておられて,「なぜあなた方は心の中でそのようなことを論じているのですか。このまひした人に,『あなたの罪は許されている』と言うのと,『起き上がって,あなたの寝台を取り上げて歩きなさい』と言うのでは,どちらが易しいですか」と言われます。
それからイエスは,批判者をはじめとする群衆に見せるため,驚くべきことを行なわれます。それは,地上で罪を許す権威がイエスにあり,イエスがかつて存在した人の中で最も偉大な人であるという事実を示すことになります。イエスはまひした人のほうを向くと,「起き上がって寝台を取り上げ,自分の家に帰りなさい」とお命じになります。すると,その人はすぐに起き上がり,寝台を持ってみんなの前を歩いて出て行きます。人々はすっかり驚いて神をたたえ,「わたしたちはかつてこのようなことを見たことがない」と大声で言います。
イエスが病気に関連して罪のことを話され,罪が許されることと身体が健康になることとが関係づけられていることに気づきましたか。聖書の説明によると,人間の最初の親であったアダムが罪を犯したので,人間はみなその罪の結果,つまり病気と死を受け継いでいます。しかし,神の王国の支配下では,イエスが,神を愛して神に仕える人すべての罪を許し,あらゆる病気が取り除かれるのです。それは何とすばらしいことでしょう! マルコ 2:1-12。ルカ 5:17-26。マタイ 9:1-8。ローマ 5:12,17-19。
■ 実に驚くべき出来事がどんな状況のもとで生じましたか。
■ まひした人はどのようにしてイエスのそばへ行くことができましたか。
■ なぜわたしたちはみな罪深いのでしょうか。しかし,イエスは,わたしたちの罪が許され,完全な健康が回復されるという希望をどのように与えてくださいましたか。
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召しを受けたマタイこれまでに生存した最も偉大な人
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27章
召しを受けたマタイ
体のまひした人をいやしてまもなく,イエスはカペルナウムからガリラヤの海の方へ出て行かれます。そこでも,人々が大勢イエスのもとにやって来るので,イエスは人々を教え始められます。それから進んで行かれるうちに,レビとも呼ばれるマタイが収税所に座っているのをご覧になり,「わたしの追随者になりなさい」と言われます。
ペテロやアンデレ,ヤコブやヨハネが召された時と同様,マタイもイエスの教えをすでによく知っていたようです。それで,その4人のように,イエスの招きに直ちに応じて立ち上がり,収税人としての責務を後にしてイエスに従います。
その後,たぶん,召されたことを祝うためでしょう,マタイは自分の家で盛大な歓迎の宴を催します。イエスとその弟子のほかに,マタイの以前の同僚も出席します。それらの人は,ひどく嫌われていたローマの当局者のために税金を徴集しているので,普通,仲間のユダヤ人からさげすまれています。それに多くの場合,それらの人は定まった税率よりも多くのお金を人々から不正に取り立てています。
イエスがそのような人たちと共に宴に来ているのを見て,パリサイ人はイエスの弟子に,「あなた方の教師が収税人や罪人と一緒に食事をするのはどういうわけか」と尋ねます。それを偶然耳にされたイエスは,そのパリサイ人たちにこうお答えになります。「健康な人に医者は必要でなく,病んでいる人に必要なのです。それで,『わたしは憐れみを望み,犠牲を望まない』とはどういうことなのか,行って学んできなさい。わたしは,義人たちではなく,罪人たちを招くために来たのです」。
マタイは,それらの収税人がイエスの話されることを聞いて霊的にいやされるよう彼らを自分の家に招いたようです。それでイエスは,神との健全な関係を得るのを助ける目的でそれらの収税人と交わられます。イエスは独善的なパリサイ人とは違い,それらの人々をさげすんだりはされません。むしろ同情され,事実上霊的な医師として彼らにお仕えになります。
ですから,イエスが罪人に憐れみをおかけになるのは,その罪を大目に見ておられるからではありません。むしろ,体の悪い人に示されたのと同様の優しい気持ちの表われなのです。例えば,イエスが同情の手を伸べ,らい病人に触って,「わたしはそう望みます。清くなりなさい」と言われた時のことを思い出してください。わたしたちも同様に,困っている人々を,特に霊的な面で援助して,憐れみを示すようにしたいものです。 マタイ 8:3; 9:9-13。マルコ 2:13-17。ルカ 5:27-32。
■ イエスがマタイをご覧になる時,マタイはどこにいますか。
■ マタイの職業は何ですか。そのような人はどうしてほかのユダヤ人からさげすまれていますか。
■ 人々はイエスに対してどんな不平を言いますか。イエスはどうお答えになりますか。
■ イエスはどうして罪人と交わるのですか。
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断食に関する質問これまでに生存した最も偉大な人
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28章
断食に関する質問
イエスが西暦30年の過ぎ越しに出席されてから,ほぼ1年が過ぎました。バプテストのヨハネが投獄されてから数か月たっています。バプテストのヨハネは自分の弟子たちがキリストの追随者になるよう願っていましたが,弟子たちがみなキリストの追随者になっているわけではありません。
さて,投獄されているヨハネの弟子が数人,イエスのもとにやって来て,「わたしたちとパリサイ人たちは断食を励行しているのに,あなたの弟子たちが断食をしないのはどうしてですか」と尋ねます。パリサイ人たちは自分たちの宗教儀式として週に2回断食を励行しているのです。そして,ヨハネの弟子たちも同様の習慣を守っているようです。また,彼らが断食をするのはヨハネの投獄を嘆き悲しむためでもあるようです。それでイエスの弟子たちが自分たちと一緒に断食をして悲しみを表わさないのを不思議に思います。
イエスはそれに答えて,「花婿の友人たちは,花婿が共にいるかぎり,嘆き悲しむ理由がないではありませんか。しかし,花婿が彼らから取り去られる日が来ます。その時,彼らは断食をするでしょう」と言われます。
ヨハネの弟子たちは,ヨハネ自身がイエスのことを花婿と語っていたのを思い出すべきでした。ですからヨハネだったら,イエスがおられるあいだ,断食をするのをふさわしいこととは考えないでしょう。また,イエスの弟子たちもそれをふさわしいとは考えません。後に,イエスが亡くなられる時,イエスの弟子たちは確かに嘆き悲しんで断食をします。しかし,イエスが復活させられて天に上られる時には,悲しみを表わす断食をさらに行なう理由はなくなります。
次いでイエスは例えをお話しになります。「縮んでいない布の継ぎ切れを古い外衣に縫いつける人はいません。その満ちた力が外衣を引っ張り,裂け目はいっそうひどくなるからです。また人は,新しいぶどう酒を古い皮袋に入れることもしません。もしそうすれば,皮袋は張り裂け,ぶどう酒はこぼれ出て,皮袋はだめになります。やはり人は,新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れます」。これらの例えは断食をすることと,どのような関係があるのでしょうか。
ご自分の追随者が,儀式的断食のような,ユダヤ教の古い慣行に従うなどとだれも期待すべきでないことを認識するよう,イエスはバプテストのヨハネの弟子たちを助けておられたのです。イエスは,捨てられるばかりになっている古びた崇拝の制度を取り繕って,その寿命を延ばすために来られたのではありません。キリスト教は,人間が作り上げた伝統を持つ,当時のユダヤ教に順応させられたりはしません。古い衣服に当てる新しい継ぎ切れ,古い皮袋に入れた新しいぶどう酒のようなものにはならないのです。 マタイ 9:14-17。マルコ 2:18-22。ルカ 5:33-39。ヨハネ 3:27-29。
■ だれが断食を励行しますか。それは何のためですか。
■ なぜイエスの弟子たちは,イエスが自分たちと一緒におられるあいだ断食をしないのでしょうか。その後,断食をする理由がすぐになくなるのはどうしてですか。
■ イエスはどんな例えを話されますか。その例えにはどういう意味がありますか。
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安息日に良い業を行なうこれまでに生存した最も偉大な人
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29章
安息日に良い業を行なう
西暦31年の春になりました。イエスがユダヤからガリラヤへ向かう途中サマリアの井戸で女の人に話しかけてから,数か月たちました。
さて,イエスは,ガリラヤ全土で広く教えを施してから,ふたたびユダヤに向けて出発され,その地の諸会堂で宣べ伝えられます。聖書がガリラヤにおけるイエスの宣教に注意を向けているのに比べると,今回のユダヤ訪問中のイエスの活動や,前回の過ぎ越しの後ユダヤで数か月過ごされた時の活動のことは,わずかしか述べられていません。恐らくイエスの宣教は,ユダヤでは,ガリラヤにおけるほど歓迎されなかったのでしょう。
ほどなくしてイエスは,西暦31年の過ぎ越しのために,ユダヤの主要都市エルサレムに向かっておられます。エルサレムの羊門のそばにベツザタという池があります。この池には病人や盲人や足のなえた人が大勢やって来ます。水が揺れるとき,その池の水の中に入る人はいやされる,と人々は信じているのです。
その日は安息日です。イエスは,38年の間病気にかかっている男の人がその池のところにいるのをご覧になります。その人が長い間病気であるのに気づいて,「あなたは健康になりたいのですか」とお尋ねになります。
その人はイエスに答えます。「だんな様,わたしには,水が揺れるとき,池に入れてくれる人がおりません。わたしがそこへ行くまでに,ほかの人が先に降りてしまうのです」。
イエスは,「起き上がり,あなたの寝台を取り上げて,歩きなさい」と言われます。すると,その人はすぐに体がよくなり,自分の寝台を取り上げて歩きはじめます!
しかし,ユダヤ人たちはその人を見ると,「安息日なのだから,あなたが寝台を運ぶことは許されていない」と言います。
その人はこう答えます。「わたしを健康にしてくださったその方が,『あなたの寝台を取り上げて,歩きなさい』と言われたのです」。
ユダヤ人たちは尋ねます。「『それを取り上げて,歩け』とあなたに言った人はだれなのか」。群衆がいたのでイエスはわきに退いてしまわれたため,いやされた人はイエスの名前を知りません。しかし,その後,神殿でイエスに出会い,自分をいやしてくれたのがだれであるかを知ります。
そこで,いやされた人は先ほどのユダヤ人たちを見つけて,自分を健康にしてくれたのはイエスであると告げます。それを知ると,ユダヤ人たちはイエスのところへ行きます。何のためでしょうか。どんな方法でそのようなすばらしい事が行なえるのか教えてもらうためでしょうか。そうではありません。これらの良い業を安息日に行なっているとして,イエスを非難するためです。しかも,それらのユダヤ人はイエスを迫害することさえはじめます。 ルカ 4:44。ヨハネ 5:1-16。
■ イエスが前回ユダヤを訪れてから,およそどのくらいになりますか。
■ ベツザタの池はどうして人々の間で評判になっていますか。
■ その池で,イエスはどんな奇跡を行なわれますか。ユダヤ人はどんな反応を示しますか。
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非難する人々に答えるこれまでに生存した最も偉大な人
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30章
非難する人々に答える
ユダヤ人の宗教指導者たちは,安息日を破ったと言ってイエスを非難します。するとイエスは,「わたしの父はずっと今まで働いてこられました。ですからわたしも働きつづけるのです」とお答えになります。
パリサイ人の主張とは違い,イエスの業は安息日の律法が禁じている種類のものではありません。宣べ伝えたり,いやしたりする業は神から割り当てられたもので,イエスは神の手本に倣い,その業を毎日行なっておられるのです。ところが,イエスの答えにユダヤ人は以前にもまして腹を立て,イエスを殺そうとします。どうしてでしょうか。
ユダヤ人たちは,イエスが安息日を破っていると信じているだけでなく,イエスが自分を神の直接の子であると称するのは冒とくだと思っているのです。しかし,イエスは恐れることなく,ご自分が享受しておられる神との恵まれた関係についてさらにこうお答えになります。「父は子に愛情を持っておられ,ご自身のなさる事をみな子に示される(の)です」。
イエスはさらに,『父が死人をよみがえらせるのと同じように,子もまた自分の望む者を生かすのです』と語られます。実際,み子はすでに死人を霊的な仕方でよみがえらせておられます。『わたしの言葉を聞いてわたしを遣わした方を信じる者は死から命へ移ったのです』とイエスは言われます。また続けて,「死んだ人々が神の子の声を聞き,それに注意を向けた者たちが生きる時が来ようとしています。それは今なのです」と語られます。
イエスが文字通りだれかを死人の中からよみがえらせたという記録はまだありませんが,そういう文字通りの復活があることを,非難する人々に次のようにお話しになります。「このことを驚き怪しんではなりません。記念の墓の中にいる者がみな,彼の声を聞いて出て来る時が来ようとしているのです」。
イエスが,神の目的の中でご自分の果たされる重要な役割に関し人々の前でそのようにはっきりと,明確に説明されたことは,今までのところ一度もなかったようです。それでも,イエスを非難していた人々は,その事に関して,イエスご自身の証言以外の証言も聞いています。イエスは,「あなた方は人々をヨハネのところに派遣し,彼は真理に対して証しをしました」と言って,そのことを彼らに思い出させます。
ちょうど2年前,バプテスマを施す人ヨハネは自分より後から来る方のことをそれらユダヤ人の宗教指導者に話しました。イエスは,いま投獄されているヨハネを彼らが以前にとても尊敬していたことを思い出させ,「あなた方はしばしの間,彼の光の中で大いに歓ぼうとしていました」と言われます。イエスは,それらの人々を助けたい,そうです,救いたいという気持ちから,そのことを思い出させたのです。しかし,ヨハネの証しを頼みにしてはおられません。
「わたしのしている業[さきほど行なわれたばかりの奇跡も含まれる]それ自体が,わたしについて,すなわち父がわたしを派遣されたことを証しする」と言われます。しかし,それに加えてイエスは,「わたしを遣わした父みずからわたしについて証ししてくださったのです」と言われます。例えば,神はイエスがバプテスマを受けられた時,「これはわたしの子,わたしの愛する者である」と言ってイエスについて証しされました。
実際のところ,イエスを非難した人々にはイエスを退ける理由がありません。自分たちは聖書を調べていると彼らは唱えますが,その聖書自体が,イエスについて証ししています。最後にイエスは,「あなた方がほんとうにモーセを信じているなら,わたしを信じるはずです。その者はわたしについて書いたからです。しかし,その者の書いたものを信じないのであれば,どうしてわたしの言うことを信じるでしょうか」と言われます。 ヨハネ 5:17-47; 1:19-27。マタイ 3:17。
■ イエスの業はなぜ安息日に違反するものではありませんでしたか。
■ イエスは,神の目的におけるご自分の重要な役割をどのように説明されますか。
■ ご自分が神の子であることを証明するため,イエスはだれの証しのことを指摘されますか。
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安息日に穀物の穂をむしるこれまでに生存した最も偉大な人
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31章
安息日に穀物の穂をむしる
イエスとその弟子たちは,ガリラヤにもどるために間もなくエルサレムを去ります。時は春で,畑では穀物が穂を出しています。弟子たちは空腹になっています。それで彼らは穀物の穂をむしって食べます。しかし,ちょうど安息日だったので,その行為は人々の注意を引かずにはすみません。
エルサレムの宗教指導者たちは,イエスが安息日のおきてを破ったと主張して,イエスを殺そうとしていました。そこでパリサイ人はイエスを責めます。「ご覧なさい,あなたの弟子たちは安息日にしてはいけないことをしています」と非難します。
パリサイ人に言わせると,穀物をむしり,それを両手にはさんでこすって食べるのは,収穫し脱穀することなのです。しかし,どういうものを仕事と言うかについてパリサイ人がとても厳しい解釈をしたので,喜ばしい,霊的に築き上げられる時となるはずの安息日が,煩わしいものになっていました。そこでイエスは聖書にある例を挙げて反論し,神は決して安息日の律法のそういうきびしすぎる適用を意図しておられないことを示されます。
イエスの説明によると,ダビデとその部下たちは空腹になった時,幕屋に寄って供えのパンを食べました。それらのパンはエホバの前からすでに下げられ,新しいパンが代わりに供えられていましたが,ふつうならそのパンは祭司たちが食べるものとして取っておかれました。それでも,事情が事情だったので,ダビデとその部下はそのパンを食べた罪に問われたりはしませんでした。
イエスはまた別の例をあげてこう言われます。「またあなた方は,安息日に神殿にいる祭司たちが安息日を神聖でないもののように扱っても罪にならないことを,律法の中で読んだことがないのですか」。たしかに祭司たちは,安息日であっても,神殿で動物を殺す仕事や他の仕事を行なって,動物の犠牲を準備します。イエスは言われます。「ところが,あなた方に言いますが,神殿より偉大なものがここにいるのです」。
パリサイ人を諭しながらイエスは言葉をお続けになります。「『わたしは憐れみを望み,犠牲を望まない』ということの意味を理解していたなら,あなた方は罪科のない者たちを罪に定めたりはしなかったでしょう」。そして最後に,「人の子は安息日の主なのです」と言われます。それはどういう意味でしょうか。イエスは,千年にわたるご自身の平和な王国支配のことを言っておられるのです。
人類はこれまで6,000年間,暴力や戦争に明け暮れる悪魔サタンの支配のもとで苦しい奴隷状態にありました。それとは逆に,キリストの大いなる安息の支配は,すべてのそうした苦しみや圧制からの安息を得る時となるでしょう。 マタイ 12:1-8。レビ記 24:5-9。サムエル第一 21:1-6。民数記 28:9。ホセア 6:6。
■ イエスの弟子たちにどんな非難があびせられますか。イエスはどうお答えになりますか。
■ イエスはパリサイ人のどんな欠点を明らかにされますか。
■ どのような点でイエスは「安息日の主」ですか。
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安息日には何が許されるかこれまでに生存した最も偉大な人
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32章
安息日には何が許されるか
別の安息日に,イエスはガリラヤの海のそばの会堂に行かれます。そこには右手のなえた人が来ています。書士とパリサイ人は,イエスがその人をいやすかどうかを見ようとして,じっと見守っています。ついに彼らは,「安息日に病気を治すことは許されるだろうか」と尋ねます。
ユダヤ教の宗教指導者たちは,安息日にいやしが許されるのは命が危ないときだけであると信じています。例えば,安息日に骨を接ぐことやくじいたところに包帯をするのは許されないと教えています。それで,書士とパリサイ人たちは,イエスを訴える理由を得ようとしてイエスに質問しているのです。
しかし,イエスは彼らの考えをご存じです。また,どんな事柄が仕事を禁じる安息日の要求に背くことになるかについて,彼らが極端な,聖書的でない見方をしていることも知っておられます。ですからイエスは,手のなえた人に,「立って,中央に来なさい」と言われ,劇的な対決の舞台を設けられます。
さて,イエスは書士とパリサイ人たちのほうを向いて,「あなた方のうち,一匹の羊を持っていて,それが安息日に穴に落ち込んだ場合,それをつかんで引き出さない人がいるでしょうか」とお尋ねになります。羊は財源なので,彼らは次の日まで羊を穴の中にほうっておくことはしません。病気にでもなれば自分が損をするからです。それに,聖書は「義なる者はその家畜の魂を気遣っている」と述べています。
そのことと比較してイエスはさらに,「どう考えても,人は羊よりずっと価値のあるものではありませんか。それで,安息日にりっぱなことをするのは許されているのです」と言われます。筋の通った,しかも憐れみのあるこの論議には宗教指導者たちも反論できず,黙っています。
イエスは彼らのかたくなな愚かさに憤りと憂いを感じながら見回されます。それからその人にこう言われます。「あなたの手を伸ばしなさい」。そこでその人が手を伸ばすと,その手はいやされます。
パリサイ人たちはその人の手が元どおりになったことを喜ぶ代わりに,出て行ってすぐにヘロデ党の者たちとイエスを殺すことについて相談します。この政党には宗教的なサドカイ人たちもいるようです。普段この政党とパリサイ人は公然と対立していますが,イエスに敵対する点では固く団結しているのです。 マタイ 12:9-14。マルコ 3:1-6。ルカ 6:6-11。箴言 12:10。出エジプト記 20:8-10。
■ イエスとユダヤ教の宗教指導者たちの劇的な対決のために,どんな場面が設けられますか。
■ それらユダヤ教の指導者たちは安息日のいやしについてどんなことを信じていますか。
■ イエスは彼らの誤った見方を論ばくするため,どんな例えを使われますか。
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イザヤの預言を成就するこれまでに生存した最も偉大な人
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33章
イザヤの預言を成就する
パリサイ人とヘロデ党の者たちがイエスを殺そうと計画しているのを知って,イエスと弟子たちはガリラヤの海に退きます。パレスチナ全土から,またその境界の外からやって来た大勢の群衆が,イエスの周りに群がります。イエスが多くの者の病気を治された結果,ひどい病気にかかっている者が皆,イエスに触れようとして押し寄せます。
群衆がとても大勢なので,イエスは弟子たちに,一そうの小舟を用意していつでも使えるようにしておくようお命じになります。岸から離れれば,群衆が押し迫るのをとどめることができます。イエスは舟の上から群衆を教えることも,岸に沿って別の地方に移ってそこの人々を助けることもできます。
弟子のマタイは,イエスの活動が「預言者イザヤを通して語られたこと」を成就するものであることに注目します。それでマタイは,イエスが成就される次の預言を引用します。
「見よ,わたしが選んだわたしの僕,わたしの魂が是認したわたしの愛する者! わたしは自分の霊を彼の上に置き,彼は,公正とは何かを諸国民に明りょうにするであろう。彼は言い争わず,声を上げて叫ばず,まただれとて大通りでその声を聞くのでもない。彼は打ち傷のついた葦を砕かず,くすぶる亜麻の灯心を消さず,やがて公正を成功裏に送り出す。まさに,諸国民は彼の名に望みをかけるであろう」。
もちろん,イエスは神が是認しておられる愛する僕です。またイエスは,宗教上の偽りの伝統によってあいまいにされている真の公正を明りょうにされます。パリサイ人は神の律法を不正に適用しているので,安息日には病人に助けを差し伸べることさえしません。イエスは神の公正さを明りょうにし,人々から不正な伝統の重荷を取り除かれます。そのため,宗教指導者たちはイエスを殺そうとします。
『彼は言い争わず,大通りに聞こえるように声を上げることもない』とはどういう意味でしょうか。イエスは人々をいやす時,『ご自分のことを明らかにしないようにと彼らに厳重に言い渡されます』。イエスはご自分のことが街頭で騒々しく宣伝されることや,ゆがんだうわさが興奮した人の口から口に伝えられるのを望まれません。
またイエスは,比ゆ的な意味で折り曲げられ,なぎ倒された,打ち傷のついた葦のような人々に慰めとなる音信を伝えます。その人たちは,命の最後の輝きが消されようとしている,くすぶる亜麻の灯心のようです。イエスは打ち傷のついた葦を砕くことも,揺らめきいぶる亜麻を消すこともされません。むしろ,優しさと愛をこめて巧みに柔和な人たちを元気づけられます。まさに,イエスは諸国民が望みをかけることのできる方です。 マタイ 12:15-21。マルコ 3:7-12。イザヤ 42:1-4。
■ イエスは言い争ったり,大通りで声を上げたりしないでどのように公正さを明りょうにされますか。
■ 打ち傷のついた葦や亜麻の灯心に似ているのはどんな人ですか。また,イエスはその人たちをどのように扱われますか。
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使徒たちを選ぶこれまでに生存した最も偉大な人
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34章
使徒たちを選ぶ
バプテスマを施す人ヨハネが神の子羊としてイエスを紹介し,イエスが公の宣教を開始されてから,およそ1年半経ちました。その時にはすでに,イエスの初期の弟子たちとしてアンデレ,シモン・ペテロ,ヨハネ,そして恐らくヤコブ(ヨハネの兄弟),それにフィリポやナタナエル(バルトロマイとも呼ばれた)などがいました。そのうちに,大勢の人々が彼らに加わり,キリストに従いました。
さて,イエスが使徒たちをお選びになる時となりました。使徒たちはイエスの親しい仲間となり,特別な訓練を施されます。しかしイエスは,それらの者をお選びになる前に山に入られ,夜通し祈りをされます。たぶん,知恵と神の祝福を求められるのでしょう。夜が明けると,弟子たちを呼び,その中から12人を選ばれます。しかし,彼らはイエスの生徒であることに変わりはないので,やはり弟子と呼ばれます。
イエスは先に名前を挙げた6人を選ばれますが,それらは最初に弟子になった者たちです。イエスが収税所からお呼びになったマタイも選ばれました。選ばれたほかの5人は,ユダ(タダイとも呼ばれる),ユダ・イスカリオテ,カナナイ人シモン,トマス,アルパヨの子ヤコブです。このヤコブは小ヤコブとも呼ばれます。もう一人の使徒ヤコブよりも小柄であるためか,あるいは年が若いためかもしれません。
これら12人は,イエスと一緒にいるようになってからしばらく経っていたので,イエスは彼らをよくご存じです。実際,そのうちの何人かはイエスご自身の親族です。ヤコブとその兄弟ヨハネはイエスのいとこと思われます。そして,アルパヨはイエスの養父ヨセフの兄弟だったと思われるので,アルパヨの子である使徒ヤコブもイエスのいとこになります。
もちろんイエスは,何の問題もなく使徒たちの名前を覚えられます。しかし,あなたは覚えることができますか。まず,シモンという名の人が二人,ヤコブという名の人が二人,ユダという名の人が二人いること,またシモンにはアンデレという兄弟が,ヤコブにはヨハネという兄弟がいることを覚えましょう。それが,8人の使徒を覚えるかぎです。あとの4人は収税人(マタイ),後に疑いを抱いた人(トマス),木の下から呼び出された人(ナタナエル),その友人のフィリポです。
使徒たちのうち11人は,イエスの郷里であるガリラヤの出身です。ナタナエルはカナの出身です。フィリポとペテロとアンデレはもともとベツサイダの出身ですが,ペテロとアンデレは後にカペルナウムに移りました。そこにはマタイも住んでいたと思われます。ヤコブとヨハネは漁業に従事しており,カペルナウムかその近くに住んでいたようです。後にイエスを裏切ったユダ・イスカリオテだけがユダヤ出身の使徒だったようです。 マルコ 3:13-19。ルカ 6:12-16。
■ 使徒たちの中で,イエスの親族だったと思われるのはだれですか。
■ イエスの使徒たちはだれですか。使徒たちの名前をどのように覚えることができますか。
■ 使徒たちはどの地方の出身でしたか。
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最も有名な垂訓これまでに生存した最も偉大な人
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35章
最も有名な垂訓
これは聖書の歴史の中でも,最も忘れ難い場面の一つです。イエスは山腹に座り,有名な山上の垂訓を話しておられます。場所はガリラヤの海のそばで,カペルナウムの近くと思われます。イエスは夜通し神に祈られたあと,弟子たちの中から12人を使徒として選ばれました。それから,彼らと共に,山のこの平らな所に下りて来られます。
今はもうイエスはとても疲れておられ,睡眠を必要としておられる,とあなたは思うかもしれません。しかし,大勢の群衆が来ていました。100ないし110㌔ほど離れたユダヤやエルサレムからはるばるやって来た人々もいれば,北のティルスやシドンの沿岸地方から来た人々もいます。彼らはイエスの話を聞こうとして,また病気をいやしてもらおうとしてやって来ました。その中には,悪霊,つまりサタンの邪悪な使いたちに苦しめられている人々もいます。
イエスが下りて来られると,病気の人たちがイエスに触ろうとして近づいて来ます。イエスはその人たちをすべていやされます。それから山の小高い場所に上られたようです。イエスは腰を下ろすと,ご自分の前の平らな所に広がった群衆に教え始められます。考えてみてください。聴衆の中には今重い病気を患っている人はだれ一人いないのです!
人々は,そういう驚くべき奇跡を行なえる教師の話を聞きたがっています。しかし,イエスは主に,一番近くに寄り集まっていたと思われる弟子たちのために話をなさいます。しかしこの垂訓は,わたしたちの益にもなるよう,マタイとルカによって記録されました。
山上の垂訓に関するマタイの記述は,ルカの記述のおよそ4倍の長さになっています。さらにルカは,マタイの記録のある部分を,イエスの宣教の別の時に語られたものとしています。そのことは,マタイ 6章9節から13節とルカ 11章1節から4節,またマタイ 6章25節から34節とルカ 12章22節から31節を比較すれば分かります。しかし,これは驚くべきことではありません。イエスが同じことを一度ならず教えられたことは明らかです。ルカは異なる状況のもとで与えられたその教えを記録することにしたのです。
イエスの垂訓を非常に価値のあるものにしているのは,その内容の霊的な深さだけではなく,イエスがこうした真理を簡潔に,そして明確に示しておられる点です。イエスは人が普通経験する事柄を引き合いに出し,また人々がよく知っているものを話に織り込まれますから,神の道に従うより良い生き方を求めている人々はみなイエスの考えを容易に理解できます。
本当に幸福なのはだれか
だれでも幸福になりたいと思います。イエスはそのことをよくご存じなので,本当に幸福な人を描くことから山上の垂訓をお始めになります。わたしたちにも想像できる通り,これはすぐに大勢の聴衆の注意を引き付けます。しかし,イエスの最初の言葉は,多くの人にとって矛盾しているように思えるに違いありません。
弟子たちに言葉を掛けるようにしてイエスは話を始められます。「あなた方,貧しい人たちは幸いです。神の王国はあなた方のものだからです。いま飢えているあなた方は幸いです。あなた方は満たされるからです。いま泣き悲しむあなた方は幸いです。あなた方は笑うようになるからです。いつでも,人々があなた方を憎むとき……あなた方は幸いです。その日には歓び躍りなさい。ご覧なさい,天においてあなた方の報いは大きいからです」。
これは,ルカが記したイエスの垂訓の序論です。しかし,マタイの記録によると,イエスはさらに温和な気質の人たち,憐れみ深い人たち,心の純粋な人たち,平和を求める人たちは幸いであるとおっしゃいます。それらの人たちが幸福なのは彼らが地を受け継ぎ,憐れみを受け,神を見,神の子と呼ばれるからである,とイエスは言われます。
しかし,イエスが幸いであると言われたのは,楽しく過ごしている時のように単に陽気で愉快であるという意味ではありません。真の幸福はもっと深いもので,それには満ち足りた気持ち,すなわち人生における満足感や達成感が含まれます。
ですからイエスが言われる本当に幸福な人とは,自らの霊的な必要を認め,自分が罪深い状態にあるのを悲しみ,そして神を知り,神に仕えるようになる人々のことです。そうなると,たとえ神のご意志を行なうために憎まれ,また迫害されていても,彼らは幸福です。神を喜ばせており,永遠の命の報いを受けることを知っているからです。
しかし,イエスの話を聞いている人々の多くは,ちょうど今日のある人たちのように,繁栄や快楽こそ人を幸福にするものであると信じています。しかしイエスはそうでないことをご存じなので,聴衆の多くが驚くに違いない次のような対照的な話をなさいます。
「あなた方,富んだ人たちは災いです! あなた方は自分の慰めをすべて得ているからです。いま満たされているあなた方は災いです! あなた方は飢えるようになるからです。災いです! いま笑っているあなた方は。あなた方は嘆き,かつ泣き悲しむようになるからです。災いです! すべての人があなた方のことを良く言うときには。そのようなことは,彼らの父祖が偽りの預言者たちに対して行なったことなのです」。
イエスはどんな意味で言っておられるのでしょうか。富を得ることやおもしろおかしく快楽を追い求めること,また人からの称賛を楽しむことなどがなぜ災いとなるのでしょうか。それは,こうしたものを得また大切にするなら,真の幸福をもたらす唯一のものである神への奉仕が生活から締め出されるからです。イエスは同時に,単なる貧しさ,飢え,また嘆き悲しんでいる状態が人を幸福にすると言われたのでもありません。しかし,そういう恵まれない人たちはイエスの教えに反応することが多いために,真の幸福に恵まれます。
次にイエスは弟子たちに,「あなた方は地の塩です」と言われます。もちろんイエスは,彼らが文字通りの塩であると言っておられるのではありません。塩には腐敗を防ぐ力があります。エホバの神殿の祭壇の近くには大量の塩が置いてあり,職務を行なう祭司はそれを用いて捧げ物に塩をしました。
イエスの弟子たちは,腐敗を防ぐ影響力を人々に及ぼす点で「地の塩」です。実際,彼らが携える音信は,それに応じる人すべての命を保護することになります。それらの人々の生き方に忠節や忠実といった永遠の特質を持たせ,彼らのうちに霊的また道徳的な腐敗が少しも生じないよう予防するのです。
「あなた方は世の光です」と,イエスは弟子たちに語られます。ともしびはかごの下ではなくて燭台の上に置かれます。それでイエスは,『同じように,あなた方の光を人々の前に輝かせなさい』と言われます。イエスの弟子たちは公に証言することによって,また聖書の原則に従うりっぱな行状の模範となることによって光を輝かせます。
イエスの追随者に求められる高い規準
宗教指導者たちはイエスを神の律法の違犯者とみなし,今ではイエス殺害の陰謀さえ企てるようになりました。ですからイエスは,山上の垂訓の中で,「わたしが律法や預言者たちを破棄するために来たと考えてはなりません。破棄するためではなく,成就するために来たのです」と説明されます。
イエスは神の律法を大いに重んじ,他の人もそうするように励まされます。実際イエスは,「それゆえ,だれであれ,これら一番小さなおきての一つを破り,また人にそのように教える者は,天の王国に関連して『一番小さい者』と呼ばれるでしょう」と言われました。これは,そのような人が王国に入ることはないという意味です。
イエスは神の律法を無視するどころか,人が神の律法を破りかねないような態度でさえ罪に定められます。イエスは,律法が「あなたは殺人をしてはならない」と述べていることに触れた後,「しかし,わたしはあなた方に言います。自分の兄弟に対して憤りを抱き続ける者はみな法廷で言い開きをすることになり(ます)」と語られます。
仲間の者に対して憤りを抱き続けることは非常に重大なことであり,殺人につながりかねないことなので,イエスは,和解するためにどれほどのことをすべきかを例えで示されます。「それで,[犠牲の]供え物を祭壇に持って来て,兄弟が自分に対して何か反感を抱いていることをそこで思い出したなら,あなたの供え物をそこ,祭壇の前に残しておいて,出かけて行きなさい。まず自分の兄弟と和睦し,それから,戻って来たときに,あなたの供え物をささげなさい」と,イエスは教えられます。
イエスはさらに十戒の七番目のおきてに注意を向け,「『あなたは姦淫を犯してはならない』と言われたのをあなた方は聞きました」と述べられます。ところが,イエスは姦淫につながるような態度を持続することさえ罪に定め,「わたしはあなた方に言いますが,女を見つづけてこれに情欲を抱く者はみな,すでに心の中でその女と姦淫を犯したのです」と語られます。
イエスはここで,単にふとした不道徳な考えについてではなく『見つづけること』について語っておられます。そのように見つづけると強い欲望が募り,機会が訪れるなら,ついには姦淫を犯すことになるかもしれません。そういうことにならないようにするには,どうすればよいでしょうか。イエスはどのような思い切った処置が必要かを次のような例えで説明されます。「そこで,もしあなたの右の目があなたをつまずかせているなら,それをえぐり出して捨て去りなさい。……また,もしあなたの右の手があなたをつまずかせているなら,それを切り離して捨て去りなさい」。
人々はしばしば,自分の命が救われるのであれば病気にかかった実際の手足を進んで犠牲にします。しかしイエスによれば,不道徳な考えや行動を避けるためならいかなるものであれ,目や手のような貴重なものでさえ『捨て去る』のはもっと重要なことです。イエスの説明によると,そうしない人はゲヘナ(エルサレムの近くの燃えるごみの山)に投げ込まれます。それはとこしえの滅びを象徴しています。
イエスは,危害を加え怒りを引き起こす人に対処する方法も述べておられます。「邪悪な者に手向かってはなりません」というのがイエスの助言です。「だれでもあなたの右のほほを平手打ちする者には,他のほほをも向けなさい」とイエスは語られますが,襲われても自分や家族を守ってはならないと言っておられるのではありません。平手打ちは,身体を損なうというよりも侮辱するために加えられます。ですからイエスが言っておられるのは,だれかが争いや議論を引き起こそうとして,実際に平手打ちを加えたり侮辱的な言葉で刺激したりすることがあっても,仕返しをするのは正しくないということです。
イエスは隣人を愛するようにという神の律法に注意を向けさせた後,「しかし,わたしはあなた方に言いますが,あなた方の敵を愛しつづけ,あなた方を迫害している者たちのために祈りつづけなさい」と言われます。イエスはこのことを行なう強力な理由があることを次のように話されます。『それは,あなた方が天におられるあなた方の父の子であることを示すためです。父は邪悪な者の上にも善良な者の上にもご自分の太陽を昇らせてくださるのです』。
イエスは垂訓のこの部分を,「ですから,あなた方は,あなた方の天の父が完全であられるように完全でなければなりません」という訓戒で締めくくられます。イエスは,人々が完全無欠という意味で完全になることができると言っておられるのではありません。むしろ彼らは,神に倣い自分たちの愛を敵にまで広げることができるという意味です。ルカによる並行記述は,「あなた方の父が憐れみ深いように,あなた方も常に憐れみ深くなりなさい」というイエスの言葉を伝えています。
祈り,そして神への信頼
垂訓を続けておられたイエスは,敬虔な態度なるものをひけらかす人々の偽善を非難して,「施しをするときには,偽善者たちが……するように,自分の前にラッパを吹いてはなりません」と言われます。
イエスはさらに,「また,祈るとき,あなた方は偽善者たちのようであってはなりません。彼らは,人に見えるように会堂の中や大通りの角に立って祈ることを好むのです」と述べ,むしろ「祈るときには,自分の私室に入り,戸を閉じてから,ひそかなところにおられるあなたの父に祈りなさい」と教えられます。イエスご自身公の祈りをささげられたことがあるので,そうした祈りを非としておられるのではありません。イエスが非難しておられるのは,聴く人たちに感銘を与え,自分に称賛の言葉を得るための祈りです。
さらにイエスは,「祈る際には,諸国の人々がするように同じことを何度も繰り返し言ってはなりません」と諭されます。イエスは,繰り返すこと自体が悪いと言っておられるのではありません。イエスご自身祈る際に,「同じ言葉」を繰り返しお用いになったことがありました。しかし,イエスが非としておられるのは,祈りの文句を機械的に繰り返しながら数珠をつま繰る人々のように,暗記した文句を「何度も繰り返し」述べることです。
イエスは聴衆が祈るのを助けるため,七つの請願を含む模範的な祈りをささげられます。初めの三つの請願は,神の主権と神の目的を正しく認めているもので,神のお名前が神聖なものとされること,神の王国が来ること,そして神のご意志が行なわれることを願うものです。残る四つは個人的な願いで,日ごとの食物,罪の許し,忍耐できないような誘惑に遭わないこと,邪悪な者から救い出されることを求めるものです。
続いてイエスは,物質の所有物を過度に重視するわなに注意を向けられ,「あなた方は自分のために地上に宝を蓄えるのをやめなさい。そこでは蛾やさびが食い尽くし,また盗人が押し入って盗みます」と述べられます。そうした宝は朽ちやすいものであるばかりか,神のみ前に功績を積むことにはなりません。
ですからイエスは,「むしろ,自分のために天に宝を蓄えなさい」と言われます。これは神への奉仕を生活の中で第一にすることによってできます。こうして神のみ前に積み上げられた功績や,そのすばらしい報いはだれも取り去ることができません。それからイエスは,「あなたの宝のある所,そこにあなたの心もあるのです」と付け加えられます。
イエスはさらに物質主義のわなに注意を向け,次の例えを話されます。「体のともしびは目です。それで,もし目が純一であれば,あなたの体全体は明るいでしょう。しかし,目がよこしまであれば,あなたの体全体は暗いでしょう」。正常に働く目は,体にとって暗い場所にあるともしびのようです。しかし,物を正しく見るためには目は純一でなければなりません。つまり,焦点が一つのものに合っていなければならないのです。目の焦点がそれに合っていないと,物事の評価を誤り,神への奉仕よりも物質の追求を優先させるようになります。その結果,「体全体」が暗くなるのです。
イエスは説得力のある次の例えを語ってこの問題を最高潮にもってゆかれます。「だれも二人の主人に奴隷として仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛するか,一方に堅く付いて他方を侮るかのどちらかだからです。あなた方は神と富とに奴隷として仕えることはできません」。
イエスはこのように諭したあと,神への奉仕を第一にするなら物質の必要物について思い煩う必要はないことを聴衆に保証なさいます。イエスは,「天の鳥をよく観察しなさい。種をまいたり,刈り取ったり,倉に集め入れたりはしません。それでも,あなた方の天の父はこれを養っておられます」と述べてから,「あなた方はそれらより価値のあるものではありませんか」と言われます。
次にイエスは野のゆりに注意を向けられ,「栄光を極めたソロモンでさえ,これらの一つほどにも装ってはい(ない)」ことを指摘し,「では,神が……野の草木にこのように衣を与えておられるなら,ましてあなた方に衣を与えてくださらないことがあるでしょうか。信仰の少ない人たちよ」とおっしゃいます。それでイエスは,結論としてこう言われます。「思い煩って,『わたしたちは何を食べるのか』,『何を飲むのか』,『何を身に着けるのか』などと言ってはなりません。……あなた方の天の父は,あなた方がこれらのものをすべて必要としていることを知っておられるのです。ですから,王国と神の義をいつも第一に求めなさい。そうすれば,これらほかのものはみなあなた方に加えられるのです」。
命に通じる道
命に通じる道とはイエスの教えに従う道のことです。しかし,それは簡単なことではありません。例えば,パリサイ人には他の人を厳しく裁く傾向があります。彼らに倣う人々も少なくないようです。ですから,山上の垂訓を続けられるイエスは,「自分が裁かれないために,人を裁くのをやめなさい。あなた方が裁いているその裁きであなた方も裁かれることになるからです」と説かれます。
過度に批判的なパリサイ人の導きに従うのは危険なことです。ルカの記述によれば,イエスは「盲人が盲人を案内できるでしょうか。二人とも穴に転がり込んでしまうのではありませんか」と述べ,その危険性を例えで示しておられます。
他の人に対して非常に批判的で,欠点をおおげさに取り上げ,また非難することは,重大なとがになります。ですからイエスは,「どうして兄弟に,『あなたの目からわらを抜き取らせてください』と言えるのですか。しかも,ご覧なさい,自分の目の中には垂木があるのです。偽善者よ! まず自分の目から垂木を抜き取りなさい。そうすれば,兄弟の目からわらを抜き取る方法がはっきり分かるでしょう」とおっしゃいます。
これは,イエスの弟子たちは他の人に対して識別力を働かせてはならないという意味ではありません。なぜならイエスは,「神聖なものを犬に与えてはなりません。あなた方の真珠を豚の前に投げてもなりません」と言われるからです。神の言葉の真理は神聖で,比ゆ的な真珠のようです。しかし,犬や豚のようにそうした貴重な真理に何の認識も示さない人がいるなら,イエスの弟子たちはそうした人々をそのままにしておき,もっとよく聞く人たちを探さなければなりません。
イエスは以前にも山上の垂訓の中で祈りについて述べられましたが,今度は祈り続ける必要があることを強調されます。「求めつづけなさい。そうすれば与えられます」と勧め,神がいつでも祈りにこたえてくださることを例えで示し,こう言われます。「あなた方のうち自分の子からパンを求められるのはだれでしょうか ― その人は石を渡したりはしないではありませんか。……それで,あなた方が,邪悪な者でありながら,自分の子供たちに良い贈り物を与えることを知っているのであれば,まして天におられるあなた方の父は,ご自分に求めている者に良いものを与えてくださるのです」。
次にイエスは,一般に黄金律と呼ばれる有名な行動の規準となったものをお与えになります。イエスは,「それゆえ,自分にして欲しいと思うことはみな,同じように人にもしなければなりません」と言われます。この原則にしたがって生活することには,他の人に善を行ない,自分にして欲しいと思うように他の人を扱うという積極的な行動が関係しています。
命に通じる道が楽なものではないことはイエスの次の教えから分かります。「狭い門を通って入りなさい。滅びに至る道は広くて大きく,それを通って入って行く人は多いからです。一方,命に至る門は狭く,その道は狭められており,それを見いだす人は少ないのです」。
惑わされる危険が大きいので,イエスは,「羊の覆いを付けてあなた方のもとに来る偽預言者たちに警戒していなさい。内側では,彼らはむさぼり食うおおかみです」と警告されます。良い木と悪い木がその実によって見分けられるように,偽預言者たちもその行ないと教えとによって見分けられることをイエスは示されます。
続けてイエスは,人をイエスの弟子とするのは単にその人が言うことではなく,その人が行なうことであると説明されます。イエスのことを自分たちの主であると唱える人がいても,父のご意志を行なっていなければ,「わたしは彼らにはっきり言います。わたしは決してあなた方を知らない,不法を働く者たちよ,わたしから離れ去れ,と」とイエスは言われます。
最後にイエスは,垂訓の結論として記憶すべき言葉を語られます。「わたしのこれらの言葉を聞いてそれを行なう者はみな,思慮深い人に例えられるでしょう。それは岩塊の上に家を建てた人です。そして雨がどしゃぶりに降って洪水が来,風が吹いて打ちつけても,その家は崩れ落ちませんでした。岩塊の上に土台が据えられていたからです」。
その一方でイエスはこう宣言なさいます。「わたしのこれらの言葉を聞いてもそれを行なわない者はみな,愚かな人に例えられるでしょう。それは砂の上に家を建てた人です。そして,雨がどしゃぶりに降って洪水が来,風が吹いて打ち当たると,その家は崩れ落ち,その崩壊はひどいものでした」。
イエスが垂訓を終えられると,群衆はその教え方に驚きます。権威のある人のように教えておられ,彼らの書士たちのようではないからです。 ルカ 6:12-23。マタイ 5:1-12。ルカ 6:24-26。マタイ 5:13-48; 6:1-34; 26:36-45; 7:1-29。ルカ 6:27-49。
■ 最も忘れ難い説教をされる時イエスはどこにおられますか。そこにはどんな人たちが来ていますか。また,その直前にはどんなことがありましたか。
■ ルカが別の状況の中で垂訓の教えの幾つかを記録しているのは,なぜ驚くことではありませんか。
■ イエスの垂訓を非常に価値のあるものにしているのはどんな点ですか。
■ 本当に幸福なのはだれですか。なぜですか。
■ 災いに遭うのはだれですか。なぜですか。
■ イエスの弟子たちはどんな点で「地の塩」であり「世の光」ですか。
■ イエスは神の律法を重んじていることをどのように示されますか。
■ イエスは,殺人や姦淫の原因となるものを取り除くために,どんな教えを授けられますか。
■ イエスは他のほほを向けることについて話されますが,それにはどんな意味がありますか。
■ どうすればわたしたちは,神のように完全になることができますか。
■ イエスは祈りに関してどんな指示をお与えになりますか。
■ 天の宝のほうが勝っているのはなぜですか。また,それらはどうすれば得ることができますか。
■ 物質主義を避けるよう助けるために,どんな例えが話されますか。
■ 思い煩う必要がないとイエスが言われるのはなぜですか。
■ イエスは他の人を裁くことについて何と言われますか。しかし,弟子たちが人々に対して識別力を働かせる必要があることをどのように示されますか。
■ イエスは祈りに関してさらに何と言われますか。また,どんな行動の規準をお与えになりますか。
■ イエスは,命に通じる道が楽なものではないことや,惑わされる危険があることをどのように示されますか。
■ イエスは垂訓をどのように結ばれますか。それはどんな影響を及ぼしますか。
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ある士官のりっぱな信仰これまでに生存した最も偉大な人
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36章
ある士官のりっぱな信仰
イエスが山上の垂訓を語られるときには,イエスの公の宣教は半ばに達していました。このことは,イエスが地上での業を成し遂げるのにあと1年と9か月ほどしか残されていないことを意味しています。
さて,イエスはご自分の活動の根拠地とも言えるカペルナウムの都市に入られます。すると,ユダヤ人の年長者たちがイエスに近づいてお願いをします。彼らは,異邦人,つまりユダヤ人とは違う人種の人であるローマ軍の一士官から遣わされました。
士官の愛する僕が重い病気のために死にかけているので,士官はイエスにいやしてもらいたいのです。ユダヤ人たちは士官のために真剣にお願いし,「あの人はあなたがこれをお授けになるにふさわしい人です。わたしたちの国民を愛して,わたしたちのために自ら会堂を建てたほどなのです」と語ります。
イエスはためらわずに彼らと一緒に出かけられます。ところが,近くまで来ると,士官は友人たちを送って,「閣下,ご足労をおかけするまでもありません。私は,自分の屋根の下にあなたに入っていただくほどの者ではないからです。そのため,自分はみもとに参上するにはふさわしくない者と考えたのです」と言わせます。
人に命令することに慣れている士官としては何と謙遜な言葉なのでしょう。しかし士官は,非ユダヤ人との社交的な交渉を持つことを禁じるユダヤ人の習慣を知っているので,イエスのことも気にしているのかもしれません。ペテロでさえ,「ユダヤ人にとって,別の人種の人と一緒になったり近づきになったりするのがいかに許されないことか,あなた方もよく知っておられます」と述べました。
たぶん士官は,イエスがこの習慣を破る結果になるといけないと考えているのでしょう。友人たちを通してイエスにこう願います。「ただそのお言葉を下さって,私の僕がいやされるようにしてください。と申しますのは,私も権威のもとに置かれた人間ですが,私のもとにも兵士がおりまして,この者に,『行け!』と言えば,その者は行き,別の者に,『来い!』と言えば,その者は来ます。また,私の奴隷に,『これをせよ!』と言えば,それを致します」。
イエスはこれを聞いて驚嘆され,「あなた方に真実を言いますが,イスラエルの中のだれにも,わたしはこれほどの信仰を見たことがありません」と言われます。イエスは士官の奴隷をいやすと,この機会を利用して,信仰のある非ユダヤ人が不信仰のユダヤ人たちの退ける祝福をどのように受け継ぐかについて述べられます。
「東のほうや西のほうからの大勢の人が来て,天の王国でアブラハム,イサク,ヤコブと共に食卓について横になるでしょう。一方,王国の子らは外の闇に投げ込まれるのです。そこで彼らは泣き悲しんだり歯ぎしりしたりするでしょう」とイエスは語られます。
『外の闇に投げ込まれる王国の子ら』とは,キリストと共に支配者になる機会を最初に差し伸べられたのにそれを受け入れない生来のユダヤ人たちのことです。アブラハム,イサク,ヤコブは神の王国の取り決めを表わします。それでイエスは,異邦人が「天の王国」のいわば天の食卓について横になるよう歓迎されることを述べておられるのです。 ルカ 7:1-10。マタイ 8:5-13。使徒 10:28。
■ ユダヤ人たちが異邦人の士官のためにお願いしたのはなぜですか。
■ 士官がイエスを自分の家に入るよう招待しなかったことにはどんな理由があったと考えられますか。
■ イエスの結論の言葉にはどんな意味がありますか。
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イエスはやもめの悲しみを晴らすこれまでに生存した最も偉大な人
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37章
イエスはやもめの悲しみを晴らす
士官の僕をいやしてからほどなくして,イエスはカペルナウムから南西に30㌔あまり行ったところにあるナインという都市に向かわれます。弟子たちも大群衆も付いて行きます。一行がナインのはずれに近づいたのは夕方ごろと思われますが,そこで葬式の行列に出会います。若者の遺体が埋葬のために市内から運び出されるところです。
母親の境遇はとりわけ不幸なものになりました。やもめの身であるうえに,独り息子が死んだからです。夫が死んだ時は,息子がいることで慰められました。望みも願いも夢も,息子の将来に託すようになりました。しかし,もうだれにも慰めを見いだせません。町の人々に伴われて埋葬所へ向かう間,母親は深い悲しみに暮れています。
その婦人をご覧になると,イエスは彼女の深い悲しみに心が動かされます。そこで,優しく,しかも確信を与える確固とした口調で,その婦人に,「泣かないでもよい」と言われます。イエスの態度と行動は群衆の注意を引きます。そのため,イエスが近づいて遺体を運んでいた棺台にお触りになると,担いでいた者たちは立ち止まります。何をするつもりなのだろうか,とだれもが不審に思っているに違いありません。
イエスと行動を共にしている人々は,イエスが多くの病人を奇跡的にいやされたのを確かに見てきました。しかし,イエスが死人をよみがえらせるのは見たことがなかったようです。イエスにそのようなことができるのでしょうか。イエスは遺体に向かって,「若者よ,あなたに言います,起き上がりなさい!」とお命じになります。すると,その若者は起き直り,ものを言い始めます。ついでイエスは彼をその母にお渡しになります。
人々は若者が本当に生きているのを見て,「偉大な預言者がわたしたちの間に起こされた」と言いだします。また,「神はご自分の民に注意を向けてくださったのだ」と言う人もいます。この偉業に関するたよりは全ユダヤと周囲の全地方にすぐに広まります。
バプテスマを施す人ヨハネはまだ獄の中にいます。それでイエスが行なうことのできる業についてもっと知りたいと思います。ヨハネの弟子たちはそれらの奇跡についてヨハネに報告します。それに対してヨハネはどう反応するでしょうか。 ルカ 7:11-18。
■ イエスがナインの近くに来られた時,何が行なわれていましたか。
■ イエスはご覧になったことをどのようにお感じになりますか。それで何を行なわれますか。
■ イエスの奇跡に対して人々はどのような反応を示しますか。
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ヨハネの信仰は欠けていたかこれまでに生存した最も偉大な人
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38章
ヨハネの信仰は欠けていたか
獄に入れられてから今や1年ほどになる,バプテスマを施す人ヨハネは,ナインのやもめの息子の復活に関する報告を受けます。しかしヨハネは,その意義についてイエスから直接聞くことを望み,弟子のうち二人の者を遣わします。「あなたが来たるべき方なのですか。それとも,わたしたちはほかの方を待つべきでしょうか」と尋ねさせるためです。
これはおかしな質問かもしれません。特にヨハネは,2年ほど前にイエスにバプテスマを施した際,イエスの上に神の霊が下るのを見,神が是認なさる声を聞いていたからです。ヨハネの質問から,ヨハネの信仰は弱くなってしまったと判断する人がいるかもしれません。しかし,そういうことではありません。ヨハネが疑い始めていたなら,イエスはヨハネのことを大層おほめになることなどないでしょう。しかし実際にはこの時におほめになるのです。では,ヨハネがそのように尋ねるのはどうしてでしょうか。
ヨハネは,イエスがメシアであるとの確証をイエスから得たいだけなのかもしれません。これは,獄の中で苦しむヨハネを非常に力づけるものとなるでしょう。しかし,ヨハネの質問にはそれ以上の意味があるようです。ヨハネは,メシアによって成し遂げられると予告されていたすべての事柄を完全に成就する,来たるべき別の方,いわば後継者があるかどうかを知りたいと思っているようです。
ヨハネの知っている聖書預言によれば,神が油そそがれた者は王また救出者になることになっています。ところがヨハネは,イエスがバプテスマを受けられてから何か月もたったのに,まだ獄につながれたままです。それでヨハネはイエスにこう尋ねているようです。『あなたは本当に,実際の権をとって神の王国を樹立される方なのですか。それとも別の方,つまり後継者がおられて,わたしたちはその方がメシアの栄光に関するすばらしい預言をすべて成就なさるのを待つべきなのでしょうか』。
イエスは,『もちろんわたしが来たるべき者です』とヨハネの弟子たちに答える代わりに,その場で,大勢の人々のさまざまな疾患や病をいやして注目すべき業を示し,それからそれらの弟子たちにこう言われます。「行って,あなた方が見聞きしたことをヨハネに報告しなさい。盲人は見えるようになり,足なえの人は歩き,らい病の人は清められ,耳の聞こえなかった人は聞き,死人はよみがえらされ,貧しい人々には良いたよりが告げられています」。
言い換えれば,ヨハネの質問には,イエスが今行なっている以上のことをされて,ヨハネ自身を自由の身にしてくださるかもしれないという期待が示唆されているかもしれません。しかしイエスは,自分が行なっている奇跡以上のものを期待しないようヨハネに告げておられるのです。
ヨハネの弟子たちが去ると,イエスは群衆に向かって,ヨハネがマラキ 3章1節で予告されていたエホバの「使者」であることや,マラキ 4章5節と6節で予告されていた預言者エリヤであることをお話しになります。こうして,ヨハネ以前のどんな預言者にも劣らないとヨハネを称賛し,「あなた方に真実に言いますが,女から生まれた者の中でバプテストのヨハネより偉大な者は起こされていません。しかし,天の王国において小さいほうの者も彼よりは偉大です。ただ,バプテストのヨハネの日から今に至るまで,天の王国は人々の押し進む目標となって(います)」と述べられます。
イエスはここで,ヨハネが天の王国に入らないことを示しておられます。なぜなら,天の王国において小さいほうの者もヨハネよりは偉大だからです。ヨハネはイエスのために道を備えました。しかしヨハネが死んだのは,イエスの弟子たちがイエスと共に王国の共同支配者になるという契約,つまり協定をキリストが確実なものになさる前でした。そういう理由で,ヨハネは天の王国に入らないとイエスは言われるのです。その代わりに,ヨハネは神の王国の地上の臣民になります。 ルカ 7:18-30。マタイ 11:2-15。
■ イエスが来たるべき方なのか,それともほかの方を待つべきなのかをヨハネが尋ねるのはなぜですか。
■ イエスが,ヨハネによって成就したと言われたのはどんな預言でしたか。
■ バプテスマを施す人ヨハネが天でイエスと共にならないのはどうしてですか。
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誇り高い人々とへりくだった人々これまでに生存した最も偉大な人
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39章
誇り高い人々とへりくだった人々
バプテスマを施す人ヨハネの徳について触れたのち,イエスはご自分の周りにいる,誇り高くて気まぐれな人々に注意を向け,こう言明されます。「この世代……は,幼子たちが市の立つ広場に座って,自分の遊び仲間に叫ぶのに似ています。こう言うのです。『あなたたちのためにフルートを吹いたのに,あなたたちは踊らなかった。わたしたちが泣き叫んだのに,あなたたちは身をたたいて悲しまなかった』」。
イエスは何のことを言っておられるのですか。イエスはこのように説明されます。「ヨハネが来て食べたり飲んだりしないと,『彼には悪霊がいる』と人々は言い,人の子が来て食べたり飲んだりすると,『見よ,食い意地の張った,ぶどう酒にふける男,収税人や罪人たちの友』と言います」。
人々を満足させることはできません。彼らを喜ばせるものは何もありません。ヨハネは,み使いが「彼はぶどう酒や強い酒をいっさい飲んではならない」と布告したとおり,ナジル人として自制の要る簡素な生活を送っていました。ところが,ヨハネは悪霊につかれていると人々は言います。一方,イエスはほかの人たちのように生活し,少しも苦行をしないので,節度がないと非難されます。
人々を喜ばせるのは何と難しいのでしょう。彼らは遊び仲間に似ています。ある遊び仲間は,ほかの子供たちがフルートを吹くときにそれにこたえて踊ることも,仲間たちが泣き叫ぶときに悲しみを表わすこともしません。それでもイエスは,「知恵はその働きによって義にかなっていることが示されるのです」と言われます。そうです,証拠となる働きによって,ヨハネとイエスにもたらされている非難は偽りであることが明らかにされるのです。
続いてイエスは,コラジン,ベツサイダ,カペルナウムの3都市を挙げて非難なさいます。イエスは強力な業の多くをそれらの都市で行なっておられました。もしフェニキア人の都市であるティルスやシドンでこうした業を行なっていたなら,それらの都市は粗布をまとい灰をかぶって悔い改めていたであろう,とイエスは言われます。また,イエスの宣教期間中の本拠地であったと思われるカペルナウムを罪に定め,「裁きの日には,あなたよりソドムの地のほうが耐えやすいでしょう」と宣言されます。
次にイエスは,天の父を公に賛美されます。イエスがそうするよう心を動かされたのは,神が尊い霊的な真理を,賢くて知能のたけた者たちには隠し,立場の低い人々,いわばみどりごたちにはそれらの驚くべき事柄を啓示しておられるからです。
最後にイエスは,人の心に訴える招待を差し伸べられます。「すべて,労苦し,荷を負っている人よ,わたしのところに来なさい。そうすれば,わたしがあなた方をさわやかにしてあげましょう。わたしのくびきを負って,わたしから学びなさい。わたしは気質が温和で,心のへりくだった者だからです。あなた方は自分の魂にとってさわやかなものを見いだすでしょう。わたしのくびきは心地よく,わたしの荷は軽いのです」。
イエスはどのようにしてさわやかにしてくださるのでしょうか。宗教指導者たちが人々に負わせてきた,人を隷属させる伝統から自由にすることによってさわやかにしてくださるのです。例えばその中には,安息日を守るための厳格な規定が含まれます。イエスはまた,政治権力による支配がもたらすひどい重圧や,良心をさいなむ罪の重圧を感じている人々に安らぎの道を示し,それらの苦しむ人々に,どうすれば罪が許されるか,どうすれば神との貴重な関係を享受できるかを明らかにされます。
イエスが与える心地よいくびきとは,神への全き献身のくびきのことで,同情心に富み,憐れみ深い天の父に仕えることを可能にします。そして,イエスがご自分のもとに来る人々に与える軽い荷とは,命を得るための神のご要求である,聖書に記録されている神のおきてに従うことです。しかもそれは少しも重荷ではありません。 マタイ 11:16-30。ルカ 1:15; 7:31-35。ヨハネ第一 5:3。
■ イエスの世代の誇り高くて気まぐれな人々は,どんな点で子供のようですか。
■ なぜイエスは感動して天の父を賛美されますか。
■ 人々はどのように重荷を負わされていますか。また,イエスはどのような安らぎをお与えになりますか。
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憐れみに関する教訓これまでに生存した最も偉大な人
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40章
憐れみに関する教訓
イエスは,つい最近やもめの息子を復活させたナインにとどまっておられるのかもしれませんし,近くの都市を訪れておられるのかもしれません。シモンという名のパリサイ人が,そのような驚くべき業を行なっておられる方をもっとよく見たいものだと思い,食事を共にするようイエスを招きます。
イエスは,これまで収税人や罪人たちとの食事への招待に応じてこられたように,その食事の時を同席者たちに仕える機会とみなしてその招きに応じられます。ところが,イエスがシモンの家の中に入っても,普通,客に示されるような温かい心遣いは示されません。
ほこりっぽい道を旅すると,サンダルをはいた足はほてってきますし,汚くなります。そのため,もてなしとして客の足を冷たい水で洗うのが習慣になっています。それなのに,イエスは到着しても足を洗ってもらえません。また,一般的な礼儀である歓迎の口づけもありません。もてなす時に頭に塗る例の油も用意されていません。
食事が始まり,客たちが食卓について横になっていると,招かれていない一人の女が静かに部屋の中へ入って来ます。その女は,その都市で不道徳な生活を送っていることで知られています。『すべて荷を負っている者たちはさわやかさを求めてわたしのところに来るように』という招待を含めイエスの数々の教えを聞いていたのかもしれません。自分の見聞きした事柄に深く心を動かされ,やっとイエスを捜し当てたのです。
その女は,食卓についているイエスの後ろに回り,イエスの足下にひざまずきます。涙がイエスの足の上に落ちると,髪の毛でそれをふき取ります。また,瓶から香油を取り,イエスの足に優しく口づけして香油を注ぎます。シモンは不満そうな顔でそれを見ています。そして,「この人がもし預言者であるなら,自分に触っているのがだれで,どんな女なのか,彼女が罪人だということを知っているだろうに」と思います。
イエスはシモンの考えを読み取り,「シモン,わたしはあなたに言うことがあります」と言われます。
「師よ,おっしゃってください!」とシモンは答えます。
「ある貸し主に対して二人の人が債務者となっていました」と,イエスは話し始められます。「一方は五百デナリ借りていましたが,他方は五十デナリでした。返すためのものが彼らに何もなかったので,貸し主は彼らを二人とも惜しみなく許してやりました。では,二人のうちどちらが彼をよけいに愛するようになるでしょうか」。
シモンは,的外れに思える質問に対し,恐らく無関心な態度で,「彼が惜しみなくよけいに許してやったほうの者だと思います」と言います。
イエスは「あなたは正しく判断しました」と言ってから,女のほうを向いてシモンにこう言われます。「あなたはこの女を見ていますか。わたしはあなたの家の中に入りましたが,あなたはわたしの足のための水をくれませんでした。しかし,この女は自分の涙でわたしの足をぬらし,自分の髪の毛でそれをふき取りました。あなたはわたしに口づけしたりはしませんでしたが,この女は,わたしが入って来た時から,わたしの足に優しく口づけしてやめませんでした。あなたはわたしの頭に油を塗りませんでしたが,この女はわたしの足に香油を塗ったのです」。
こうしてこの女は,不道徳な過去の生活を心から悔い改めた証拠を示しました。それで,イエスは話の終わりに,「あなたに言いますが,このことによって,彼女の罪は,多いとはいえ,許されたのです。彼女は多く愛したからです。ところが,わずかしか許されていない者は,わずかしか愛さないのです」と言われます。
イエスは決して不道徳を容認しておられるわけでも,大目に見ておられるわけでもありません。むしろ,この出来事は,間違った生き方をしていたとしても,それを後悔していることを示し,救いを求めてキリストのところに来る人々をイエスが憐れみをもって理解してくださることを示しています。イエスはその女を真の意味でさわやかにし,「あなたの罪は許されています。……あなたの信仰があなたを救ったのです。平安のうちに行きなさい」と言われます。 ルカ 7:36-50。マタイ 11:28-30。
■ イエスは主人役のシモンからどのように迎えられますか。
■ だれがイエスを捜し当てましたか。それはなぜですか。
■ イエスはどのような例えを語られますか。そして,それをどのように適用なさいますか。
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論争の的となるイエスこれまでに生存した最も偉大な人
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41章
論争の的となるイエス
シモンの家でもてなしを受けてからほどなくして,イエスはガリラヤでの2回目の伝道旅行を開始されます。前回その地方を旅行した際には,最初の弟子たちであるペテロ,アンデレ,ヤコブ,ヨハネが一緒でしたが,今度は十二使徒と幾人かの女性が同行します。その中には,マリア・マグダレネ,スザンナ,ヨハンナなどがいます。ヨハンナの夫はヘロデ王のつかさです。
イエスの宣教の速度が速くなるにつれ,イエスの活動に関する論争も増えてゆきます。悪霊に取りつかれた,盲目でものの言えない人がイエスのもとに連れて来られます。イエスがその人をいやされると,その人は悪霊の支配から解放されてものを言い,目も見えるようになったので,群衆はただあっけにとられて,「もしかしたらこれがダビデの子ではなかろうか」と言いだします。
イエスが滞在しておられる家の周りに非常に大勢の群衆が集まったため,イエスや弟子たちは食事をすることもできません。イエスが約束の「ダビデの子」かもしれないと考える人々に加えて,イエスの信用を落とそうとしてはるばるエルサレムからやって来た書士やパリサイ人もいます。イエスの親族はイエスをめぐる騒ぎについて聞き,イエスをつかまえようとしてやって来ます。なぜつかまえるのでしょうか。
イエスの実の兄弟たちでさえ,イエスが神のみ子であることをまだ信じていないのです。それに,イエスが民衆の間に引き起こしていた騒動や争いは,ナザレで成長していた時の,彼らが知っていたイエスからすれば全く考えられないことです。そのため彼らは,イエスが精神的にどこかひどくおかしくなっていると考え,「彼は気が変になってしまった」と判断します。それで,イエスを捕らえて連れて行きたいと思っているのです。
しかし,イエスが悪霊に取りつかれた人をいやした証拠は明白です。書士やパリサイ人には,自分たちがその事実を否定できないことは分かっているのです。それでイエスの信用を落とすために,「この男が悪霊を追い出すのは,悪霊どもの支配者ベエルゼブブによる以外にはない」と人々に語ります。
その考えを知って,イエスは書士やパリサイ人を自分のところに呼び,「内部で分裂している王国はすべて荒廃に帰し,また内部で分裂している都市や家はすべて立ち行かないでしょう。同じように,サタンがサタンを追い出すなら,サタンは内部で分裂していることになります。そうしたら,彼の王国はどのようにして立ち行くでしょうか」と言われます。
何という痛烈な論法なのでしょう。パリサイ人たちは,彼ら自身の中の者たちが悪霊を追い出してきたと唱えているので,イエスはさらに,「仮にわたしがベエルゼブブによって悪霊を追い出すとすれば,あなた方の子らはだれによってこれを追い出すのですか」とお尋ねになります。言い換えれば,イエスに対する彼らの非難は,同様に自分たちにも向けられるべきなのです。それでイエスは,「しかし,わたしが悪霊たちを追い出すのが神の霊によるのであれば,神の王国はほんとうにあなた方に及んだのです」と警告されます。
イエスは,ご自分が悪霊を追い出すのはサタンを制する力のある証拠であることを例えで示し,「まず強い人を縛ってからでなければ,どうしてその強い人の家に侵入してその人の家財を奪えるでしょうか。縛ってから,その家の物を強奪するのです。わたしの側にいない者はわたしに敵しており,わたしと共に集めない者は散らすのです」と言われます。パリサイ人たちは明らかにイエスに敵しており,サタンの手先であることを実証しています。彼らはイスラエル人たちをイエスのもとから追い散らしているのです。
したがって,イエスはこれらサタン的な敵対者たちに,「霊に対する冒とくは許されません」と警告し,「人の子に逆らう言葉を語るのがだれであっても,その者は許されるでしょう。しかし,聖霊に言い逆らうのがだれであっても,その者は許されないのです。この事物の体制においても,また来たるべき体制においてもです」と説明されます。これらの書士やパリサイ人は悪意から,神の聖霊の奇跡的な所産であることが明らかな事柄をサタンによるものとし,この許されない罪を犯しました。 マタイ 12:22-32。マルコ 3:19-30。ヨハネ 7:5。
■ イエスの2回目のガリラヤ旅行は,最初の旅行とどこが違いますか。
■ イエスの親族がイエスをつかまえようとするのはなぜですか。
■ パリサイ人は,どのようにイエスの奇跡をけなそうとしますか。それに対してイエスはどのように反論されますか。
■ それらのパリサイ人はどのような罪を負いますか。それはなぜですか。
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イエスはパリサイ人を叱責するこれまでに生存した最も偉大な人
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42章
イエスはパリサイ人を叱責する
イエスは,もし自分がサタンの力によって悪霊を追い出しているのであれば,サタンは内部で分裂していることになると論じられます。そしてさらに,「あなた方は木をりっぱにしてその実もりっぱにするか,あるいは木を腐らせてその実も腐らせるかのいずれかにしなさい。木はその実によって知られるのです」と言われます。
悪霊を追い出すという良い実をイエスがサタンに仕えている結果であると非難するのは愚かなことです。実がりっぱなら,その木が腐っているはずはありません。一方,イエスに対する途方もない言いがかりや根拠のない反対というパリサイ人の腐った実は,パリサイ人自身が腐っていることを示す証拠です。イエスは,「まむしらの子孫よ,あなた方は邪悪な者であるのに,どうして良い事柄を語れるでしょうか。心に満ちあふれているものの中から口は語るからです」と,声を大きくして言われます。
言葉には心の状態が表われるので,わたしたちが語る事柄は裁きの根拠となります。イエスは,「あなた方に言いますが,人が語るすべての無益なことば,それについて人は裁きの日に言い開きをすることになります。あなたは自分の言葉によって義と宣せられ,また自分の言葉によって有罪とされるのです」と言われます。
イエスのあらゆる強力な業にもかかわらず,書士とパリサイ人は,「師よ,わたしたちはあなたからのしるしを見たいのですが」と言います。エルサレムからやって来たこれらの人たちはイエスの奇跡を個人的には見ていなかったのかもしれませんが,そうした奇跡に関しては,目撃証人による反ばくできない証拠が存在しているのです。それでイエスは,ユダヤ人の指導者たちに,「邪悪な姦淫の世代はしきりにしるしを求めますが,預言者ヨナのしるし以外には何のしるしも与えられないでしょう」と語られます。
イエスは,ご自分が何のことを言おうとしているのかを説明してこう続けられます。「ヨナが巨大な魚の腹の中に三日三晩いたように,人の子もまた地の心に三日三晩いるのです」。ヨナは魚に呑み込まれた後に,復活させられたかのように出て来ました。それでイエスは,ご自分が死んで三日目によみがえらされることを予告しておられるのです。ところがユダヤ人の指導者たちは,後日イエスが復活させられる時でさえ,「ヨナのしるし」を退けます。
そのためイエスは,ヨナの宣べ伝えることを聞いて悔い改めたニネベの人々が裁きの際に立ち上がり,イエスを退けるユダヤ人たちを罪に定めると言われます。同じようにイエスは,シェバの女王とも比較なさいます。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来て,自分の見聞きした事柄に驚嘆しましたが,イエスは,「見よ,ソロモン以上のものがここにいるのです」とはっきりおっしゃいます。
それからイエスは,汚れた霊が出て来る人の例えを語られます。ところがその人は,空いた所を良いもので満たしてはいないので,最初の霊よりも邪悪な七つの霊に取りつかれます。「この邪悪な世代もそのようになるでしょう」とイエスは言われます。イスラエル国民は清められ,数々の改革を経験していました。汚れた霊が一時的に出て行ったかのような状態でした。しかし,一国民として神の預言者たちを退け,キリストご自身に対する反対でそれが頂点に達したことは,その邪悪な状態が始めよりも一層悪くなっていることを示しています。
イエスが話しておられる間に,イエスの母と兄弟たちが到着し,群衆の後ろに立っています。それで,ある人が,「ご覧なさい,あなたのお母さんと兄弟たちが外に立ってあなたに話そうとしています」と言います。
「わたしの母とはだれですか。またわたしの兄弟たちとはだれのことですか」とイエスはお尋ねになります。それから,弟子たちのほうに手を差し伸べて,「ご覧なさい,わたしの母とわたしの兄弟たちです! だれでも天におられるわたしの父のご意志を行なう人,その人がわたしの兄弟,また姉妹,また母なのです」と言われます。こうしてイエスは,ご自分と親族とをつなぐ絆がどれほど大切であっても,弟子たちとの関係はそれ以上に大切であることを示されます。 マタイ 12:33-50。マルコ 3:31-35。ルカ 8:19-21。
■ パリサイ人が「木」も「実」もりっぱにすることができなかったのはどうしてですか。
■ 「ヨナのしるし」とは何ですか。それは後にどのように退けられますか。
■ 1世紀のイスラエル国民は,汚れた霊が出て来た人とどのように似ていましたか。
■ イエスは弟子たちとの親しい関係をどのように強調されますか。
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例えを使って教えるこれまでに生存した最も偉大な人
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43章
例えを使って教える
イエスがパリサイ人を叱責されたのは,カペルナウムにおられた時のようです。同じ日の後刻,イエスは家を出,近くのガリラヤの海まで歩いて行かれます。そこにも群衆が集まります。それでイエスは舟に乗って岸から離れ,岸辺にいる人々に天の王国について教え始められます。一連のたとえ話,つまり例えを用いて教えられますが,どのたとえ話でも,人々になじみのある場面が設定されます。
まず初めに,イエスは種をまく種まき人の話をされます。幾つかの種は道端に落ちて鳥に食べられてしまいます。ほかの種は岩地に落ちます。根が深くないので,新芽は焼けつくような太陽のもとで枯れてしまいます。さらにほかの種はいばらの間に落ちますが,いばらが伸びてそれをふさいでしまいます。最後に,幾らかの種は良い土に落ちて百倍の実を結び,あるものは六十倍,あるものは三十倍の実を結びます。
別の例えでイエスは,天の王国を種まき人になぞらえられます。人が寝起きしているうちに月日がたち,種は生長します。人はそれがどのように生長するかを知りません。種はまったくひとりでに生長し,穀粒が実ります。穀粒が熟すと,人はそれを収穫します。
イエスは3番目の例えを語られます。ある人がちゃんとした種類の種をまきますが,「人々が眠っている間に」,敵がやって来て小麦の間に雑草をまきます。その人の僕たちが雑草を引き抜くべきかどうか尋ねますが,その人はこう答えます。『いや。そのようにするなら小麦もいくらか根こぎにしてしまう。収穫まで両方とも一緒に成長させておきなさい。その時になったら,わたしは刈り取る者たちに,雑草をより分けて焼き,小麦を納屋に入れなさい,と言おう』。
イエスは,岸辺にいる群衆に対して話を続け,さらに二つの例えを話されます。「天の王国」は人が植えるからしの種粒に似ているとイエスは説明し,それはあらゆる種の中で一番小さいにもかかわらず,あらゆる野菜のうちで一番大きくなる,と言われます。それは木になり,鳥たちが来てその枝の間に宿を見つけます。
現代の人の中には,からしの種粒よりも小さい種があると異議を唱える人もいます。しかし,イエスは植物学を教えておられるのではありません。当時のガリラヤの人々がよく知っている種の中で,からしの種粒は実際に一番小さいのです。それで彼らは,イエスが例えの中で言われる驚異的な生長のことがよく分かるのです。
最後にイエスは,「天の王国」を,女が取って大升三ばいの麦粉に混ぜるパン種に例えられます。やがてそのパン種は練り粉全体に広がるとイエスは言われます。
これら五つの例えを話してから,イエスは群衆を解散させ,ご自分が滞在しておられる家に戻られます。ほどなくして,十二使徒や他の人々がイエスのもとにやって来ます。
イエスの例えから益を得る
イエスが浜辺の群衆に対する話を終えられると,弟子たちはイエスの新しい教え方に関心を抱いてイエスのもとにやって来ます。弟子たちはイエスが例えを使って話されるのを以前にも聞いたことはありましたが,このようにたくさんの例えを聞くのは初めてです。それで弟子たちは,「例えを使って彼らにお話しになるのはどうしてですか」とイエスに尋ねます。
イエスがそうなさる一つの理由は,「わたしは例えをもって口を開き,世の基が置かれて以来隠されてきた事柄を言い広める」という預言者の言葉が成就するためです。しかし,これにはさらにほかの理由があります。例えを使うことは,人々の心の態度を明らかにするのに役立つのです。
実際ほとんどの人は,単に優れた話し手また奇跡を行なう人として,イエスに関心を持っているだけで,主人として仕え,私欲を捨てて従うためにイエスに関心を持っているのではありません。彼らは,自分たちのものの見方や生き方には触れてもらいたくないのです。音信がそこまで入り込むのを望まないのです。
それでイエスはこのように言われます。「わたしが例えを使って彼らに話すのはこのためです。すなわち,彼らは見ていてもむだに見,聞いていてもむだに聞き,その意味を悟ることもないからです。イザヤの預言は彼らに成就しています。それはこう述べています。『……この民の心は受け入れる力がなくな(っ)てしまったからである』」。
さらにイエスはこう言葉を続けられます。「しかし,あなた方の目は見るゆえに,またあなた方の耳は聞くゆえに幸いです。あなた方に真実に言いますが,多くの預言者や義人たちは,あなた方が見ているものを見たいと願いながらそれを見ず,あなた方が聞いている事柄を聞きたいと願いながらそれを聞かなかったのです」。
そうです,十二使徒や彼らと共にいた他の人たちには受け入れる心があります。それでイエスは,「あなた方は,天の王国の神聖な奥義を理解することを聞き入れられていますが,あの人々は聞き入れられていません」と言われるのです。弟子たちが理解することを望んだので,イエスは彼らに種まき人の例えの意味を説明されます。
「種は神の言葉です」と,イエスは言われます。土とは心のことです。道端の堅い土の上にまかれた種については,「悪魔がやって来て,信じて救われることがないようにその心からみ言葉を取り去るのです」と説明されます。
一方,岩塊の上の土にまかれた種とは,喜んでみ言葉を受け入れる人の心のことです。ところが,み言葉はそうした心には根を深く下ろせないので,その人たちは試みや迫害の時期が来ると離れ去ってしまいます。
さらにイエスは,いばらの間に落ちた種とは,み言葉を聞いた人のことだと言われます。しかしこの人たちは,生活上の思い煩いや富や快楽に心を奪われます。ですからすっかりふさがれてしまい,何も完成しません。
最後にイエスは,りっぱな土の上にまかれた種について語られます。これは,りっぱな良い心でみ言葉を聞いたのち,それをしっかり保ち,耐え忍んで実を結ぶ者のことです。
教えの意味を説明していただこうとイエスを捜し出したこれらの弟子たちは何と祝福されたのでしょう。イエスは,真理が他の人たちにも及ぶようにするため,彼らが例えの意味を理解できるようにされます。「ともしびは量りかごの下や寝床の下に置くために持って来たりはしないではありませんか」と,イエスはお尋ねになります。そのとおりです。「それは燭台の上に置くために持って来る」のです。それからイエスは,「ですからあなた方は,どのように聴くかに注意を払いなさい」と付け加えられます。
さらに多くの教えを受ける
イエスに種まき人の例えの説明をしてもらいましたが,弟子たちはもっと多くのことを知りたいと思い,「畑の雑草の例えをわたしたちに説明してください」とお願いします。
弟子たちの態度と,浜辺にいる残りの群衆の態度には大きな違いがあります。それらの人々は例えの背後にある意味を知ろうとする誠実な願いに欠けており,例えの中で述べられている事柄の単なるあらましを知るだけで満足しています。イエスはそのような海辺の聴衆と,家の中におられるイエスのところにまでやって来た探究心のある弟子たちとを比べて,こう言われます。
「あなた方が量り出しているその量りであなた方は自分に対して量り出されるでしょう。そうです,あなた方はそれにさらに付け加えられるのです」。弟子たちはイエスに対して,いわば誠実な関心や注意を量り出しているので,さらに多くの教えを受けます。こうして,イエスは弟子たちの質問に答えて,次のように説明されます。
「りっぱな種をまく者は人の子です。畑は世界です。りっぱな種,それは王国の子たちです。それに対し,雑草は邪悪な者の子たちであり,それをまいた敵は悪魔です。収穫は事物の体制の終結であり,刈り取る者はみ使いたちです」。
その例えのそれぞれの特色が何を表わしているかを明らかにした後,イエスは結末を述べられます。事物の体制の終結の時に,刈り取る者,つまりみ使いたちは,雑草のような偽クリスチャンと真の「王国の子たち」とを分けるようになる,とイエスは言われます。その時,「邪悪な者の子たち」は滅ぼされるためのしるしをつけられますが,神の王国の子たち,つまり「義人たち」は彼らの父の王国でさん然と輝きます。
次にイエスは,探究心のある弟子たちにさらに三つの例えを話されます。まず最初に,「天の王国は畑に隠された宝のようです。人はそれを見つけてから隠しました。そして,喜びのあまり,出かけて行って自分の持つものすべてを売り,それからその畑を買うのです」と言われます。
次にイエスはこう語られます。「また,天の王国はりっぱな真珠を探し求める旅商人のようです。価の高い真珠一つを見つけると,去って行って自分の持つすべてのものを即座に売り,それからそれを買いました」。
イエスご自身は,隠された宝を見いだす人や,価の高い真珠を見つける商人に似ておられます。イエスは,いわばすべてのものを売り,身分の低い人間となるために天の誉れある地位を後にされました。その後,地上で人間として,非難や憎悪に満ちた迫害を受けて苦しみ,神の王国の支配者になるのにふさわしいことを証明されます。
イエスの追随者たちも,キリストの共同支配者か,または王国の地上の臣民かのどちらかになるという大きな報いを得るために,すべてのものを売るかどうかという挑戦を受けています。わたしたちは,神の王国にあずかることを生活上の他の何ものよりも価値のある事柄,つまり非常に高価な宝や貴重な真珠のようにみなすでしょうか。
最後にイエスは,「天の王国」をあらゆる種類の魚を寄せ集める引き網に例えられます。魚をより分けるさい,ふさわしくない魚は投げ捨てられますが,よい魚は取っておかれます。それでイエスは,事物の体制の終結の時にもそうなると言われます。み使いたちは邪悪な者たちと義人たちとをより分け,邪悪な者たちは滅ぼし尽くされるために別にされます。
イエスご自身,人をすなどるこの事業を開始し,「人をすなどる者」となるよう最初の弟子たちを招かれます。このすなどる業は,み使いたちの監督のもとに幾世紀にもわたって続けられて,最後に「引き網」をたぐり寄せる時が訪れますが,その「引き網」は,自分たちはクリスチャンであると主張する地上の組織を象徴的に表わしています。
ふさわしくない魚は投げ捨てられて滅ぼされますが,感謝すべきことに,わたしたちは,取っておかれる『よい魚』とみなしていただくことができます。イエスの弟子たちがさらに多くの知識と理解を求めたのと同様の誠実な願いを表わすなら,わたしたちもさらに多くの教えを受けて祝福されるだけでなく,とこしえの命という神からの祝福にもあずかれるでしょう。 マタイ 13:1-52。マルコ 4:1-34。ルカ 8:4-18。詩編 78:2。イザヤ 6:9,10。
■ イエスはいつ,またどこで例えを使って群衆に話されますか。
■ イエスは五つのどんな例えを群衆に語られますか。
■ からしの種粒はあらゆる種の中で一番小さいとイエスが言われるのはどうしてですか。
■ イエスが例えで話されたのはどうしてですか。
■ イエスの弟子たちは,彼らが群衆と異なっていることをどのように示しますか。
■ イエスは種まき人の例えの意味をどのように説明されますか。
■ 弟子たちは浜辺の群衆とどのように異なっていますか。
■ 種まき人,畑,りっぱな種,敵,収穫,刈り取る者はそれぞれだれを,または何を表わしていますか。
■ イエスはさらに三つのどのような例えを話されますか。それらの例えから何が学べますか。
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恐ろしいあらしを静めるこれまでに生存した最も偉大な人
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44章
恐ろしいあらしを静める
浜辺で群衆を教えたり,そのあとで例えの意味を弟子たちだけのいるところで説明したりして,活動に満ちた一日を送られたイエスは,夕方になって,「向こう岸に渡りましょう」と言われます。
ガリラヤの海の東岸にはデカポリスと呼ばれている地方があります。この地名は,ギリシャ語で「十」という意味のデカと,「都市」という意味のポリスから来ています。デカポリスの諸都市はギリシャ文化の中心地ですが,多くのユダヤ人の郷里でもあるようです。しかし,この地方でのイエスの活動は非常に限られており,あとで分かるように,今回の訪問でも長くは滞在できません。
向こう岸に行くようイエスが言われると,弟子たちはイエスを舟にお連れします。しかし,人目につかないように出発することなどできません。他の人たちもすぐに自分たちの舟に乗って,彼らについて行きます。向こう岸まではそれほど遠くありません。実際,ガリラヤの海は,長さが約21㌔,幅は一番広いところで12㌔の大きな湖にすぎないのです。
イエスがお疲れになっているのも無理はありません。ですからイエスは,舟が出るとすぐに,舟の後ろのほうで横になり,まくらをして眠り込んでしまわれます。使徒たちの中には経験を積んだ水夫で,ガリラヤの海で広く漁を行なっていた者が幾人かいました。それで,彼らが舟をこぐことを引き受けます。
しかし,これは楽な旅とはなりません。海面下約210㍍の湖面の比較的暖かな気温と近くの山々の比較的冷たい空気のために,強風が吹き降りて,湖の上に突然激しい風あらしを生じさせることがありますが,今その風あらしが発生したのです。ほどなくして,波が舟に打ちつけ,水をはねかけるため,舟はほとんど水浸しになります。ところが,イエスはなおも眠っておられます。
経験を積んだ船乗りたちは,舟を操るのに必死の努力を払います。彼らは以前にも何度かあらしを乗り切ったことがあるに違いありませんが,今度だけは自分たちの手に負えません。彼らは命を失うことを恐れてイエスを起こし,『ご主人様,気にかけてくださらないのですか。わたしたちは沈みそうです! お救いください。わたしたちはおぼれ死んでしまいます!』と叫びます。
イエスは身を起こして,風と海に,「静まれ! 静かになれ!」とお命じになります。すると,荒れ狂う風はやみ,海は静まります。それからイエスは弟子たちのほうを向いて,『なぜそれほど恐れるのですか。まだ少しも信仰がないのですか』とお尋ねになります。
それを聞いて,弟子たちは一方ならぬ恐れにとらえられ,『この人はいったいどういう方なのだろう。風や水にさえ命じると,それはこの方に従うのだ』と言い合います。
イエスは何という力を示されるのでしょう。わたしたちの王が自然の諸要素を制する力を持っておられることや,王国支配の期間中に王が地に対して十分な注意を向けられる時,すべての人は自然災害を恐れないで暮らせるようになることを知って,わたしたちは大きな安らぎを覚えます。
あらしが静まってしばらくすると,イエスと弟子たちは東岸に無事到着します。ほかの舟はあらしの激しいところは免れ,無事に引き返したのかもしれません。 マルコ 4:35-5:1。マタイ 8:18,23-27。ルカ 8:22-26。
■ デカポリスとは何ですか。それはどこにありますか。
■ ガリラヤの海で激しいあらしが起こるのはどんな自然条件のためですか。
■ 自分たちの技術では舟が操れなくて助からないことが分かると,弟子たちは何をしますか。
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意外な人が弟子になるこれまでに生存した最も偉大な人
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45章
意外な人が弟子になる
岸に上がられたイエスは,恐ろしい光景をご覧になります。ことのほか狂暴な二人の男が近くの墓地から出て来て,イエスのほうに走って来ます。彼らは悪霊に取りつかれています。そのうちの一人は他方よりも狂暴なので,ずっと長く悪霊に支配されてきたらしく,人々の注目を集めます。
このかわいそうな男は長いあいだ墓場に裸で住んでいました。昼も夜も絶え間なく叫んだり,石で自分の身に切りつけたりするのです。男は非常に狂暴なので,だれもその方面に行く道を通る勇気はありません。人々はその男を何度も縛ろうとしましたが,男は鎖を引きちぎり,足かせをはずしてしまいます。その男を従わせる力はだれにもありません。
その男がイエスに近づいて足もとにひれ伏すと,男を支配している悪霊は,「至高の神の子イエスよ,わたしはあなたと何のかかわりがあるのですか。わたしを責め苦に遭わせないことを神にかけて誓ってもらいます」と男に叫ばせます。
イエスはなおも,「その男から出て来なさい,汚れた霊よ」と言われます。しかしそのときイエスは,「あなたの名は何か」とお尋ねになります。
「わたしの名は軍団<レギオン>です。わたしたちは大勢いるからです」と,その悪霊は答えます。悪霊たちは,自分たちが取りつくことのできる人々の苦しみを見て楽しみ,臆病な暴徒のような心理で人々に襲いかかるのを喜びとしているようです。しかし,彼らはイエスと対面すると,底知れぬ深みに送り込まないよう願います。ここでもまた,イエスが大きな力を持っておられたことが分かります。イエスは邪悪な悪霊たちをさえ征服することができたのです。このことから,悪霊たちは自分たちの首領である悪魔サタンと共に底知れぬ深みに入れられることが,自分たちに対する神からの最終的な裁きであるということに気づいていることも分かります。
2,000頭ほどの豚の群れが近くの山で草を食べています。それで悪霊たちは,「わたしたちを豚の中に送り込んで,彼らの中に入れるようにしてください」と言います。悪霊たちは,肉の被造物の体に侵入することから,ある種の不自然な,サディスト的快感を味わうようです。豚の中に入るのをイエスがお許しになると,2,000頭の豚がみな断崖に殺到し,海に落ちてでき死します。
豚の世話をしていた者たちはそれを見て,市内やあたりの田舎に急いでそのことを知らせに行きます。それで人々は起きたことを見ようとしてやって来ます。彼らは到着して,悪霊たちを出してもらった男を目にします。何とその男は衣服を着け,正気に戻ってイエスの足もとに座っています。
目撃証人たちは,悪霊に取りつかれた男がどのようにしてよくなったかを人々に告げ,また豚の奇妙な死に方についても話します。それを聞くと,人々は非常な恐れにとらわれ,自分たちの地域から去るようイエスに切に求めます。それでイエスは,その求めに応じて舟にお乗りになりますが,それまで悪霊に取りつかれていた人がお供をさせていただきたいと懇願します。しかしイエスはその人に,「あなたの親族のもとに帰り,エホバがあなたにしてくださったすべての事,またあなたにかけてくださった憐れみについて知らせなさい」と言われます。
イエスは,世間を騒がせるようなうわさに基づいて人々が結論を下すのを望まれないので,いつもならだれにも話さないよう,ご自分がおいやしになる人に指示なさいますが,今回の処置は例外でしかも適切です。というのは,それまで悪霊に取りつかれていた人は,もうイエスに接する機会がないかもしれない人々の間で証言することになるからです。さらに,その人がそこにいること自体,善をなすイエスの力について証しし,豚が死んだことで広まりかねないどんな良くないうわさをも封じることになるでしょう。
それで先ほどまで悪霊に取りつかれていた人は,イエスの指示に従って去り,イエスが自分のためにしてくださった事をすべて,デカポリス全域でふれ告げるようになります。人々はただ驚くばかりです。 マタイ 8:28-34。マルコ 5:1-20。ルカ 8:26-39。啓示 20:1-3。
■ 悪霊に取りつかれた人は二人いるのに,一人が注目を浴びている理由は恐らくどこにあると思われますか。
■ 悪霊たちが将来,底知れぬ深みに入れられるのを知っていることは,どんなことから分かりますか。
■ 悪霊たちは好んで人や動物に取りつくようですが,それはどうしてですか。
■ イエスはなぜ悪霊に取りつかれていた人の場合に例外を設け,ご自分がその人のために行なった事柄を他の人々に語るよう指示されたのですか。
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イエスの外衣に触れた女これまでに生存した最も偉大な人
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46章
イエスの外衣に触れた女
イエスがデカポリスから戻られたという知らせがカペルナウムに届き,大群衆がイエスを迎えるため海辺に集まります。彼らは,イエスがあらしを静め,悪霊に取りつかれた人をいやされたことについて聞いていたに違いありません。それで,イエスが岸に上がられると,彼らは熱意と期待とを抱いてイエスの周りに集まります。
イエスに会いたがっている人の一人は会堂の主宰役員であるヤイロです。ヤイロはイエスの足もとにひれ伏し,「私の小さな娘はいまわの際におります。よくなって生きられるよう,どうかおいでになって,その上に手を置いてやってください」と何度も懇願します。まだわずか12歳のその娘はヤイロの独り娘なので,ヤイロにとってかけがえのない大切な子供です。
イエスはその願いをいれ,ヤイロの家に向かわれます。群衆もそのあとについて行きます。またもや奇跡が見られるという期待で,人々が興奮している様子を想像することができます。しかし,群衆の中の一人の女の注意は自分自身の抱える深刻な問題に向けられています。
その女は12年ものあいだ血の流出を患っています。次々と違う医者にかかって,治療のため全財産を使い果たしてしまいましたが,病気は良くならず,むしろ悪くなっていました。
想像がつくと思いますが,その女は病気でひどく衰弱していましたし,その病気は口にするのもはばかられる,恥ずかしい病気です。そういう病気のことは普通なら人前では話しません。また,モーセの律法のもとでは,血の漏出のある女は汚れた者とされ,その女やその女の血で汚れた衣に触れる者はだれでも身を洗わなければならず,夕方までは汚れた者とされます。
その女は,イエスの奇跡について聞き,ついにイエスを捜し当てました。「あの方の外衣にただ触るだけで,わたしはよくなる」と心の中で考えながら,自分が汚れていることを念頭において,できるだけ目立たないように群衆の中を進みます。そしてイエスの外衣に触ると,すぐに血の流出がやんだのを感じます。
「だれがわたしの外衣に触りましたか」というイエスの言葉に,女はとても驚いたに違いありません。イエスはどうして分かったのでしょう。ペテロは,『先生,群衆があなたを取り囲んで,押し寄せて来るのに,「だれが触ったか」と言われるのですか』とつぶやきます。
イエスは見回してその女を捜し,「だれかがわたしに触りました。わたしは,力が自分から出て行くのが分かったのです」と説明されます。実際,それは普通の接触ではありません。いやされる結果として,イエスの活力が奪われるからです。
気づかれずにはすまなかったのを知った女は,恐れおののきながらやって来ます。そしてイエスの前にひれ伏し,すべての人の前で,自分の病気をありのままに語り,自分がたった今どのようにしていやされたかを話します。
その女がすべてを告白したことに心を動かされたイエスは,同情心をもって女を慰め,「娘よ,あなたの信仰があなたをよくならせました。平安のうちに行きなさい。そして,あなたの悲痛な病気から解かれて健やかに過ごしなさい」と言われます。地を支配させるために神のお選びになる方が,こうした温かい同情心に富まれる方で,人々を気遣われるだけでなく,人々を助ける力も持っておられるということを知るのは実にすばらしいことです。 マタイ 9:18-22。マルコ 5:21-34。ルカ 8:40-48。レビ記 15:25-27。
■ ヤイロとはどんな人ですか。ヤイロがイエスのもとに来たのはなぜですか。
■ 一人の女はどのような問題を抱えていますか。助けを求めるためにイエスのもとに来ることがその女にとって難しかったのはなぜですか。
■ その女はどのようにいやされますか。また,イエスはその女をどのように慰められますか。
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涙が大きな喜びに変わるこれまでに生存した最も偉大な人
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47章
涙が大きな喜びに変わる
ヤイロは,血の流出を患う女がいやされたのを見て,イエスの奇跡的な力にますます強い確信を抱いたに違いありません。その日ヤイロは,イエスがこの奇跡を行なわれるよりも前から,12歳の愛する娘が死にかけているので来て助けてくださいとイエスに頼んでいたのです。しかし,ヤイロが一番恐れていたことが起きます。イエスがその女とまだ話しておられるうちに,何人かの者が来てヤイロにそっと言います。「娘さんは亡くなられました! どうして師をこれ以上煩わすのでしょうか」。
なんという衝撃的な知らせでしょう。考えてみてください。この人は地域社会で非常に尊敬されている人ですが,娘の死を知った今は全く無力でどうすることもできないのです。しかしイエスはその会話を耳にされます。そしてヤイロのほうをご覧になり,「恐れることはありません。ただ信仰を働かせなさい」と言ってヤイロを力づけられます。
イエスは,悲しみに打ちひしがれて自分の家に戻るヤイロに同行されます。彼らが到着した時,人々は嘆き悲しみ泣きわめいて大騒ぎをしていました。大勢の人が集まって,悲しみのあまり身を打ちたたいていました。イエスは中にお入りになると,「なぜ騒々しく騒ぎたてたり泣き悲しんだりしているのですか。幼子は死んだのではない,眠っているのです」と言われます。
これを聞いて,人々はイエスをばかにしたように笑いはじめます。彼らは少女が本当に死んだことを知っているからです。ところがイエスは,少女は眠っているにすぎないと言われます。イエスは神から与えられたご自分の力を用いて,人々は深い眠りから目覚めさせられるのと同じほどたやすくよみがえらされるのだということを示すつもりでおられるのです。
そこでイエスは,ペテロ,ヤコブ,ヨハネ,それに死んだ少女の母親と父親以外の人をみな外に出し,それからその5人と共に幼い少女が横たわっている所に行かれます。イエスは少女の手を握って,「タリタ クミ」と言われます。これは,訳せば,「乙女よ,あなたに言います,起きなさい!」という意味です。すると,少女はすぐに起き上がって歩きはじめます。少女の両親はこれを見て,大きな喜びで気も狂わんばかりになります。
イエスはその子に何か食べ物を与えるように指示してから,起きた事柄についてはだれにも話さないようにと,ヤイロとその妻にお命じになります。しかし,イエスの言葉に反してこの事はその地方全体に広まります。これは,イエスが人を復活させた2番目の例です。 マタイ 9:18-26。マルコ 5:35-43。ルカ 8:41-56。
■ ヤイロはどのような知らせを受けますか。イエスはヤイロをどのように力づけられますか。
■ 彼らがヤイロの家に到着した時,その家はどのような状態でしたか。
■ 死んだ子供は眠っているにすぎない,とイエスが言われたのはなぜですか。
■ イエスと一緒にいて復活を目撃した5人はどんな人たちでしたか。
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ヤイロの家を出てから,再びナザレを訪れるこれまでに生存した最も偉大な人
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48章
ヤイロの家を出てから,再びナザレを訪れる
その日は,デカポリスから船で旅をし,血の流出を患う女をいやし,ヤイロの娘を復活させるなど,イエスにとっては忙しい日です。しかし,一日はまだ終わっていません。イエスがヤイロの家を出られた時のことと思われますが,二人の盲人が,「ダビデの子よ,わたしたちに憐れみをおかけください」と叫びながら付いて来ます。
この男たちは,イエスに「ダビデの子よ」と呼びかけて,イエスがダビデの王位継承者,つまり約束のメシアであるという信仰を表わします。しかし,イエスは助けを求めるその叫びを無視しておられるように見えます。彼らの根気強さを試しておられるのかもしれません。しかし彼らはあきらめません。イエスが滞在しておられる所までイエスのあとから付いて行きます。イエスが家の中にお入りになると,彼らも中に入ります。
そこでイエスは,「あなた方は,わたしにそれができるという信仰がありますか」とお尋ねになります。
「はい,主よ」と,彼らは確信をもって答えます。
それでイエスは,彼らの目に触り,「あなた方の信仰どおりのことが起きるように」と言われます。すると急に,彼らの目は見えるようになります。次いでイエスは,「だれにも知られないようにしなさい」と厳しく言い渡されます。しかし,彼らはうれしさのあまり,イエスのご命令を無視して,イエスのことをその地方全体に言い広めます。
彼らが去るとすぐに,人々は悪霊に取りつかれた人を連れて来ます。その人は悪霊のせいで口がきけませんでした。イエスが悪霊を追い出されると,その人は直ちにものを言いはじめます。群衆はこれらの奇跡に驚嘆し,「このようなことはイスラエルでいまだかつて見たことがない」と言います。
そこにはパリサイ人たちもいました。彼らは奇跡を否定することはできませんが,その甚だしい不信仰のゆえに,「彼が悪霊を追い出すのは悪霊たちの支配者によるのだ」と言って,イエスの強力な業の源にまたもや言いがかりをつけます。
こうした出来事があって間もなく,イエスはご自分の郷里であるナザレに戻られます。この度は,弟子たちも共に行きます。およそ1年前にも,イエスはそこの会堂を訪れて教えたことがありました。人々は最初,イエスの快い言葉に驚嘆していましたが,後にその教えに腹を立て,イエスを殺そうとしました。ところが,イエスは憐れみ深くも,以前の隣人をもう一度助けようとされるのです。
他の場所では,人々がイエスの周りに群がりますが,ナザレの人々はそうではないようです。それで,イエスは安息日に会堂に行って教えられます。イエスの話を聞いていた人々の大半は驚き入って,「この人は,これほどの知恵とこうした強力な業をどこで得たのだろうか。これはあの大工の息子ではないか。彼の母はマリアと呼ばれ,兄弟たちはヤコブ,ヨセフ,シモン,ユダではないか。そして彼の姉妹たちも,みんなわたしたちと共にいるではないか。では,この人はどこでこれらのすべてのことを得たのだろうか」と言います。
『イエスはこの土地の者にすぎない。我々はイエスの成長を見てきたし,その家の者たちを知っている。どうしてメシアであり得ようか』と,彼らは推論します。そのため,偉大な知恵や奇跡という証拠がそろっているのに,イエスを退けます。イエスご自身の親族でさえ,イエスを親しく知っているため,イエスにつまずきます。それで,イエスは最後に,「預言者は自分の郷里や自分の家以外なら敬われないことはありません」と言われます。
実際イエスは人々の信仰のなさを不思議に思われたので,幾人かの病人の上に手を置いていやす以外に,そこでは何の奇跡も行なわれません。 マタイ 9:27-34; 13:54-58。マルコ 6:1-6。イザヤ 9:7。
■ 盲人たちは,イエスに「ダビデの子よ」と呼びかけることにより,何を信じていることを示しますか。
■ パリサイ人たちはイエスの奇跡をどう説明しましたか。
■ イエスは人々を助けるためナザレに戻られますが,それが憐れみ深い行為と言えるのはなぜですか。
■ イエスはナザレでどう迎えられますか。なぜですか。
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ガリラヤでもう一度伝道旅行をするこれまでに生存した最も偉大な人
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49章
ガリラヤでもう一度伝道旅行をする
イエスは約2年にわたって熱心に宣べ伝えてこられたので,ここで手を緩め,のんきに構えるようなことをなさるでしょうか。いいえむしろ,宣べ伝える活動を拡大し,また各地を回る旅に出かけられます。これはガリラヤでの3回目の伝道旅行です。イエスはその地域のすべての都市や村を訪れて会堂で教え,王国の良いたよりを宣べ伝えられますが,この旅を通してご覧になる事柄から,宣べ伝える業を強化する必要があるという確信をいよいよ強くされます。
イエスはどこへ行っても,霊的ないやしと慰めを必要としている群衆をご覧になります。彼らが羊飼いのいない羊のように痛めつけられ,ほうり出されていたので,イエスは哀れに思われます。それで弟子たちに,「確かに,収穫は大きいですが,働き人は少ないのです。それゆえ,収穫に働き人を遣わしてくださるよう,収穫の主人にお願いしなさい」と語られます。
イエスは一つの活動を計画されます。1年近く前に選んでおかれた十二使徒を呼び寄せ,二人を一組にして六つの伝道者の組をつくられます。それから,彼らに指示をお与えになります。「諸国民の道に行ってはならず,またサマリア人の都市に入ってはなりません。そうではなく,いつもイスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい。行って,『天の王国は近づいた』と宣べ伝えなさい」と説明されます。
彼らが宣べ伝えることになるこの王国とは,イエスが模範的な祈りの中で弟子たちに祈るよう教えられた王国のことです。その王国は,神の指名された王であるイエス・キリストが来ておられるという意味で近づいたのです。イエスは,この超人間的な政府の代表者としての弟子たちの資格を確証するため,病人を治し,死人をよみがえらせる力さえ彼らにお与えになります。そして,こうした奉仕をただで行なうよう指示されます。
次いでイエスは,伝道旅行のために物質上の準備を何もしないようにと弟子たちに言われます。「あなた方の腰帯の財布のために金や銀や銅を手に入れてはならず,また,旅のための食物袋も,二枚の下着も,またサンダルや杖も手に入れてはなりません。働き人は自分の食物を受けるに価するのです」。音信の価値を認める人々が弟子たちの必要にこたえ,食事や宿を提供してくれるでしょう。「どんな都市または村に入っても,そこにいるふさわしい人を捜し出し,去るまではそこにとどまりなさい」と,イエスは言われます。
さらにイエスは,王国の音信を携えて家の人に近づく方法について次のような指示をお与えになります。「その家の中に入るときには,家の者たちにあいさつをしなさい。そして,その家がふさわしいなら,あなた方の願う平安をそこに臨ませなさい。しかし,もしふさわしくないなら,あなた方からの平安をあなた方のもとに帰らせなさい。どこでも,人があなた方を迎え入れず,またあなた方の言葉を聴かない所では,その家またはその都市から出る際に,あなた方の足の塵を振り払いなさい」。
弟子たちの携える音信を受け入れない都市に関してイエスは,その都市に下される裁きが本当に厳しいものであることを示されます。イエスはこのように説明されます。「あなたがたに真実に言いますが,裁きの日には,その都市よりもソドムとゴモラの地のほうが耐えやすいでしょう」。 マタイ 9:35-10:15。マルコ 6:6-12。ルカ 9:1-5。
■ イエスがガリラヤでの3回目の伝道旅行を開始されたのはいつですか。イエスはその旅行から何を確信されますか。
■ 宣べ伝えるよう十二使徒を遣わす際,イエスは彼らにどのような指示をお与えになりますか。
■ 王国が近づいたという弟子たちの教えが間違っていないのはなぜですか。
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迫害に立ち向かう備えこれまでに生存した最も偉大な人
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50章
迫害に立ち向かう備え
イエスは宣べ伝える業を行なう方法を使徒たちに教えてから,反対者について彼らにこう警告なさいます。「ご覧なさい,わたしはあなた方を,おおかみのただ中にいる羊のように遣わすのです。……人々に用心していなさい。人々はあなた方を地方法廷に引き渡し,また自分たちの会堂でむち打つからです。いえ,あなた方はわたしのために総督や王たちの前に引き出されるでしょう」。
追随者たちは厳しい迫害に直面しますが,イエスは次のような励みとなる約束をされます。「人々があなた方を引き渡すとき,どのように,または何を話そうかと思い煩ってはなりません。話すべきことはその時あなた方に与えられるからです。話すのは単にあなた方ではなく,あなた方の父の霊が,あなた方によって話すのです」。
イエスは言葉を続けて,「さらに,兄弟が兄弟を,父が子供を死に渡し,また子供が親に逆らって立ち上がり,彼らを死に至らせるでしょう」と語り,「そしてあなた方は,わたしの名のゆえにすべての人の憎しみの的となるでしょう。しかし,終わりまで耐え忍んだ人が救われる者です」と付け加えられます。
宣べ伝えることは最重要な事柄です。それでイエスは,その業を自由に行なうためには思慮深さが求められることを強調し,「人々がある都市であなた方を迫害するときには,別の都市に逃げなさい。あなた方に真実に言いますが,人の子が到来するまでにあなた方がイスラエルの諸都市を回り尽くすことは決してないからです」と言われます。
イエスがこうした指示や警告や励ましを十二使徒にお与えになったことは確かですが,イエスはご自分が死んで復活させられたあと,世界的な伝道に参加する人々に対しても語っておられました。そのことは,イエスが言われたことから分かります。イエスの弟子たちは,使徒たちが宣べ伝えるために遣わされたイスラエル人から憎まれるだけでなく,『すべての人から憎まれる』とイエスは言われたからです。さらに,イエスが短い伝道運動に使徒たちを遣わされたとき,使徒たちは総督や王たちの前には引き出されなかったようです。また,そのとき家族によって死に渡された信者もいませんでした。
それでイエスは,「人の子が到来するまでに」弟子たちが宣べ伝えて回り尽くすことはないと言われたとき,栄光を受けられた王イエス・キリストがハルマゲドンにおけるエホバの刑執行者として到来する前に,弟子たちが設立された神の王国を宣べ伝えて人の住む全地を回り尽くすことはないということを預言的に語っておられたのです。
イエスはさらに,伝道に関する指示を与え,「弟子は師より上でなく,奴隷も主より上ではありません」と言われます。したがって,イエスの追随者たちは,イエスが神の王国を宣べ伝えたために受けたような虐待や迫害を予期しなければなりません。しかしイエスは,「体を殺しても魂を殺すことのできない者たちを恐れてはなりません。むしろ,魂も体も共にゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と諭されます。
イエスはこの点で模範を示すことになりました。全能者なるエホバ神への忠節を曲げることなく,死に至るまで恐れずに耐え忍ばれるのです。そうです,エホバは人の「魂」(ここでは生きた魂としての人の将来の見込みを意味する)を滅ぼすことばかりでなく,永遠の命を享受するよう人間を復活させることさえおできになるのです。天の父エホバは何と愛と同情心に富んでおられるのでしょう。
次にイエスは,弟子たちに対するエホバの愛ある気遣いを強調するこのような例えを話して彼らを励まされます。「すずめ二羽はわずかな価の硬貨ひとつで売っているではありませんか。それでも,あなた方の父の知ることなくしては,その一羽も地面に落ちません。ところが,あなた方の頭の毛までがすべて数えられているのです。それゆえ,恐れることはありません。あなた方はたくさんのすずめより価値があるのです」。
イエスが宣明するよう弟子たちにお命じになった王国の音信は,家族を分裂させるものとなります。家族のある成員はその音信を受け入れ,他の成員は受け入れないからです。「わたしが地上に平和を投ずるために来たと考えてはなりません。平和ではなく,剣を投ずるために来たのです」と,イエスは説明されます。そのため,家族のある成員にとって,聖書の真理を受け入れるには勇気が求められます。「わたしに対するより父や母に対して愛情を抱く者はわたしにふさわしくありません。また,わたしに対するより息子や娘に対して愛情を抱く者はわたしにふさわしくありません」と,イエスは述べられます。
イエスはこれらの指示の最後に,弟子たちを迎える者はご自分をも迎えることでもあることを説明し,「弟子であるということでこれら小さな者の一人にほんの一杯の冷たい飲み水を与える者がだれであっても,あなた方に真実に言いますが,その者は自分の報いを決して失わないでしょう」と言われます。 マタイ 10:16-42。
■ イエスは弟子たちにどのような警告をお与えになりますか。
■ イエスは彼らにどのような励ましや慰めをお与えになりますか。
■ イエスの指示が現代のクリスチャンにも当てはまるのはなぜですか。
■ イエスの弟子はどんな点で師より上ではないのですか。
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誕生日のパーティーの最中に殺されるこれまでに生存した最も偉大な人
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51章
誕生日のパーティーの最中に殺される
使徒たちに指示を与えた後,イエスは彼らを二人ずつ区域に遣わされます。ヤコブとヨハネ,フィリポとバルトロマイ,トマスとマタイ,ヤコブとタダイ,シモンとユダ・イスカリオテがそれぞれ一緒に行ったように,兄弟のペテロとアンデレも一緒に行くでしょう。これら6組の福音宣明者たちはどこへ行っても,王国の良いたよりを宣明し,奇跡的ないやしを行ないます。
一方,バプテスマを施す人ヨハネは相変わらず獄の中で,すでに2年近くつながれたままです。ヘロデ・アンテパスが自分の兄弟フィリポの妻ヘロデアを取って妻にするのは正しくないと,ヨハネが公に非難したのを思い出すかもしれません。ヘロデ・アンテパスはモーセの律法に従っていると主張したので,ヨハネがこの不義の関係を非難したのは正しいことでした。ヘロデはヨハネを獄に投げ入れましたが,そうするように促したのはヘロデアかもしれません。
ヘロデ・アンテパスは,ヨハネが義にかなった人であることを認めており,ヨハネの語ることを喜んで聞くことさえします。それで,ヨハネをどう扱ったものか決めかねています。一方,ヘロデアはヨハネを憎み,殺害する機会をずっとうかがっています。そして,ついに待っていた機会が訪れます。
ヘロデは西暦32年の過ぎ越しの少し前に,自分の誕生日のために盛大な祝いを計画します。パーティーには,ガリラヤの指導的な市民だけでなく,ヘロデに属する高官や士官がみな集まります。夜が更けると,前夫フィリポとヘロデアの間に生まれた年若い娘サロメが入って来て,客のために踊ります。男の客たちはサロメの踊りに魅了されます。
サロメはヘロデを大いに喜ばせます。ヘロデは,「何でも自分の欲しいものを求めなさい。お前にそれを上げよう」と宣言し,「お前の求めるものが何であれ,わたしの王国の半分まででも,お前に上げよう」と誓うことさえします。
返事をする前に,サロメは母親のところに行って相談します。「わたしは何を求めたらいいでしょうか」と,サロメは尋ねます。
ついに機会が訪れました! ヘロデアは迷うことなく,「バプテスマを施す者ヨハネの首を」と答えます。
サロメはすぐにヘロデのもとに引き返し,「バプテストのヨハネの首を大皿に載せて今すぐわたしにお与えくださいますように」と申し出ます。
ヘロデは大いに困惑しますが,客たちが自分の誓いを聞いていた以上,たとえ罪のない者を殺害することになろうとも,ヨハネの首を与えないのはきまりが悪いと考えます。すぐに陰惨な使命を帯びた刑執行者が獄に遣わされ,ほどなくして,ヨハネの首を大皿に載せて戻って来ます。そして,それをサロメに渡し,次いでサロメはそれを母親のもとに持って行きます。ヨハネの弟子たちはこの出来事について聞くと,やって来てヨハネの遺体を移し,彼を葬ります。それから,この件についてイエスに報告します。
後にヘロデは,イエスが人々をいやし,悪霊を追い出していることを聞いて驚き,イエスが実際には死人の中からよみがえらされたヨハネではないかと恐れます。それで,イエスの宣べ伝える事柄を聞くためではなく,自分の恐れている事柄が本当かどうかを確かめるため,イエスにぜひ会ってみたいと思います。 マタイ 10:1-5; 11:1; 14:1-12。マルコ 6:14-29。ルカ 9:7-9。
■ ヨハネが獄につながれているのはなぜですか。ヨハネを殺したくないとヘロデが考えるのはなぜですか。
■ ヘロデアはどのようにしてついにヨハネを殺させることができましたか。
■ ヨハネの死後,ヘロデはなぜイエスに会ってみたいと思いますか。
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イエスは奇跡によって幾千人もの人々に食事をさせるこれまでに生存した最も偉大な人
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52章
イエスは奇跡によって幾千人もの人々に食事をさせる
ガリラヤ全土を巡るすばらしい伝道旅行を楽しんでいた十二使徒は,ヨハネが処刑されてから程なくして,イエスのもとに帰り,自分たちが経験した驚くべき事柄について話します。イエスは,彼らが疲れており,来たり去って行ったりする者が非常に多くて食事をする時間さえないのを見て,『あなた方が休むことのできる寂しい場所にわたしたちだけで出発しましょう』と言われます。
彼らは,多分カペルナウムの近くから舟に乗り,ヨルダン川の東のベツサイダよりさらに向こうと思われる人里離れた場所に向かいます。しかし,彼らが行くのを多くの人が見,他の人たちもそのことを知らされます。それらの人たちはみな岸伝いに走って先回りをし,舟が岸に着くのを迎えます。
舟から降りて大群衆をご覧になったイエスは,人々が羊飼いのいない羊のようだったので,彼らを哀れに思われます。それで,彼らの病気をいやし,多くのことを教え始められます。
時間はまたたく間に過ぎます。弟子たちはイエスのもとに来て,「ここは人里離れた場所ですし,時刻ももう遅くなりました。彼らを去らせて,周りの田舎や村に行かせ,彼らが自分で何か食べ物を買うようにしてください」と言います。
ところがイエスは,「あなた方が彼らに何か食べる物を与えなさい」とお答えになります。それからイエスは,ご自分が何をするつもりかもう分かっているので,「これらの人々の食べるパンをどこで買いましょうか」と尋ねてフィリポを試されます。
フィリポには,これはどうにもならない状況に思えました。なぜなら,そこには男が約5,000人,女や子供も数えるなら1万人を上回る人がいるかもしれないからです。それでフィリポは,「二百デナリ[1デナリは当時の1日の賃金に相当しました]分のパンでも彼らには足りず,めいめいに少しずつ得させるほどにもならないでしょう」と答えます。
アンデレは,これほど多くの人たちに食事をさせるのは不可能だということを示すためかもしれませんが,「ここに,大麦のパン五つと小さな魚二匹を持っている小さな少年がいます」と言い,「でも,これほど大勢の中でこれが何になるでしょう」と言い添えます。
西暦32年の過ぎ越しを間近に控えた春の時期だったので,地面には青草がたくさん生えています。それでイエスは弟子たちに,50人また100人の群れになって草の上に横たわるよう人々に伝えさせます。そして,五つのパンと二匹の魚を取り,天を見上げて祝とうを述べ,パンを割き,魚を分け始められます。イエスはそれらを弟子たちにお渡しになり,弟子たちはそれを人々に配ります。驚いたことに,人々はみな満ち足りるまで食べます!
それからイエスは,「余ったかけらを集め,何も無駄にならないようにしなさい」と弟子たちに言われます。彼らがそれを集めると,12のかごは食物の残り物でいっぱいになります。 マタイ 14:13-21。マルコ 6:30-44。ルカ 9:10-17。ヨハネ 6:1-13。
■ イエスが使徒たちのために,自分たちだけになれる場所を求めたのはなぜですか。
■ イエスは弟子たちをどこに連れて行かれますか。彼らに必要な休息が取れなかったのはなぜですか。
■ 時刻が遅くなった時,弟子たちは何をするよう勧めますか。しかし,イエスはどのように人々の世話をされますか。
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待望の超人間的な支配者これまでに生存した最も偉大な人
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53章
待望の超人間的な支配者
イエスが奇跡によって幾千人もの人々に食物をお与えになると,人々は驚嘆して,「これこそ確かに,世に来ることになっていた預言者だ」と言います。そして,イエスはモーセよりも偉大なあの預言者に違いないと考えただけでなく,イエスならたいへん望ましい支配者になると結論します。それで,イエスをとらえて王にすることを計画します。
しかし,イエスは人々の計画を知り,無理やり王にさせられないよう,急いで移動なさいます。群衆を解散させるとイエスは,弟子たちを強いて舟に乗せカペルナウムに引き返させます。それからご自分は祈りをするために山の中に退かれます。その夜,イエスはただ独りでそこにおられます。
夜が明ける少し前,高い有利な地点から遠くを見渡しておられたイエスは,強風のため海が波立っているのに気づかれます。過ぎ越しが近いため,ほぼ満月になった月の光の中で,イエスは,弟子たちの乗った舟が波と闘いながら進んでゆくのをご覧になります。弟子たちは力いっぱい舟をこいでいます。
イエスはこれをご覧になると,山を下り,舟のほうに向かって波の上を歩き始められます。イエスが舟のところまで来られたとき,舟はすでに三,四マイル進んでいました。それでもイエスはそばを通り過ぎるかのように,なおも歩いて行かれます。弟子たちはイエスを見ると,「これは幻影だ!」と叫びます。
イエスは彼らを安心させるように,「わたしです。恐れることはありません」とお答えになります。
しかしペテロは,「主よ,あなたでしたら,水の上を歩いてみもとに来るようわたしにお命じください」と言います。
イエスは「来なさい!」とお答えになります。
そこで,ペテロは舟から降り,イエスのほうに向かって水の上を歩きます。ところが,風あらしを見て怖くなり,沈み始めたため,「主よ,お救いください!」と叫びます。
イエスはすぐに手を伸ばして彼をつかみ,「信仰の少ない人よ,なぜ疑いに負けたのですか」と言われます。
ペテロとイエスが舟に戻ると,風がやみ,弟子たちは驚嘆します。しかし,弟子たちはどうして驚嘆するのでしょうか。もし彼らが,わずか五つのパンと二匹の小さな魚で幾千人もの人々の空腹を満たすという,イエスが数時間前に行なわれた偉大な奇跡を認めて,「パンの意味」を把握していたなら,イエスが水の上を歩いたり風を和らげたりできるということは,それほど驚嘆すべきものには思えなかったはずです。しかし弟子たちはいまさらのようにイエスに敬意を表し,「確かにあなたは神の子です」と言います。
ほどなくして,彼らはカペルナウムに近い,美しくて肥よくな平野のゲネサレに着き,そこに舟をつなぎます。しかし,彼らが岸に上がると,人々はイエスに気づき,周囲の地方に行って病人を捜します。寝台に載せて連れて来られた病人たちは,イエスの外衣の房べりに触れただけですっかりよくなります。
一方,幾千人もの人々に奇跡的に食物が与えられたのを目撃した群衆は,イエスがもうそこにおられないのに気づきます。それで,ティベリアからの数そうの小舟が着くとそれに乗り,イエスを捜しにカペルナウムに渡ります。彼らはイエスを見つけると,「ラビ,いつここにおいでになったのですか」と尋ねます。あとで分かりますが,イエスは彼らを叱責されます。 ヨハネ 6:14-25。マタイ 14:22-36。マルコ 6:45-56。
■ イエスが奇跡によって幾千人もの人々に食物をお与えになると人々はイエスをどうしたいと思いますか。
■ イエスはご自分が上って行かれた山から何をご覧になりますか。そして何を行なわれますか。
■ 弟子たちがこれらの事柄について驚嘆すべきでなかったのはなぜですか。
■ 彼らが岸に着くと,どんなことが起きますか。
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「天からの真のパン」これまでに生存した最も偉大な人
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54章
「天からの真のパン」
前日は本当にさまざまな出来事がありました。イエスは奇跡によって幾千人もの人々に食物をお与えになった後,ご自分を王にしようとする人々の企てから逃れられました。その夜には,ガリラヤのしける海を歩いて渡り,あらしに揺られる水の上を歩いて沈み始めたペテロを救出し,弟子たちを難船から救うために波を静められました。
さて,ガリラヤの海の北東でイエスから奇跡によって食物を与えられた人々は,カペルナウムの近くでイエスを見つけ,「いつここにおいでになったのですか」と尋ねます。イエスは,あなた方はもう一度ただで食事にあずかろうとしてわたしを捜しに来たと言って彼らを叱り,滅びる食物のためではなく,永遠の命へとながく保つ食物のために働くよう彼らにお勧めになります。それで人々は,「神の業をするためにわたしたちは何を行なったらよいのですか」と尋ねます。
イエスは最も価値のある業を一つだけ挙げ,「あなた方が,その方の遣わした者に信仰を働かせること,これが神の業です」と説明されます。
ところが人々は,イエスがさまざまな奇跡を行なわれたにもかかわらず,イエスに信仰を働かせません。イエスが驚くべき事柄を数々行なわれた後でさえ,信仰のない彼らは,「では,あなたはしるしとして何を行ない,わたしたちがそれを見てあなたを信じるようにしているのですか。あなたはどんな業をしているのですか」と尋ね,「わたしたちの父祖は荒野でマナを食べました。『彼は天からパンを与えて彼らに食べさせた』と書いてあるとおりです」と言います。
イエスはしるしを求める彼らの願いに答え,奇跡的な備えの源を明らかにして,「モーセはあなた方に天からのパンを与えませんでした。しかし,わたしの父は,天からの真のパンをあなた方に与えておられるのです。天から下って来て世に命を与える者,それが神のパンだからです」とおっしゃいます。
人々は,「主よ,わたしたちにそのパンをいつもお与えください」と言います。
イエスは説明されます。「わたしは命のパンです。わたしのもとに来る者は少しも飢えず,わたしに信仰を働かせる者は決して渇くことがありません。しかしわたしは言いました,あなた方は確かにわたしを見た,それなのに信じない,と。父がわたしにお与えになるものは皆わたしのもとに来ます。そして,わたしのもとに来る者を,わたしは決して追いやったりはしません。わたしは,自分の意志ではなく,わたしを遣わした方のご意志を行なうために天から下って来たからです。わたしにお与えになったすべてのもののうちわたしがその一つをも失わず,終わりの日にそれを復活させること,これがわたしを遣わした方のご意志なのです。というのは,子を見てそれに信仰を働かせる者がみな永遠の命を持つこと,これがわたしの父のご意志だからです」。
そこでユダヤ人たちは,「わたしは天から下って来たパンである」と言ったことでイエスに対してつぶやき始めます。彼らはイエスを人間の親の息子にすぎないと考えていたので,ナザレの人々と同じように反対し,「これはヨセフの子のイエスであり,わたしたちはその父も母も知っているではないか。今になって,『わたしは天から下って来た』などと言うのはどうしてか」と言います。
イエスはこのように答えられます。「互いどうしつぶやくのはやめなさい。わたしを遣わした方である父が引き寄せてくださらない限り,だれもわたしのもとに来ることはできません。そしてわたしは,終わりの日にその人を復活させるのです。預言者たちの中に,『そして彼らは皆エホバに教えられるであろう』と書いてあります。父から聞いて学んだ者は皆わたしのもとに来ます。神から出た者のほかに,だれかが父を見たというのではありません。神から出た者は父を見ました。きわめて真実にあなた方に言いますが,信じる者は永遠の命を持っているのです」。
イエスはさらにこう繰り返されます。「わたしは命のパンです。あなた方の父祖は荒野でマナを食べましたが,それでも死にました。これは天から下って来るパンであり,だれでもそれを食べる者が死なないためのものです。わたしは天から下って来た生きたパンです。だれでもこのパンを食べるなら,その人は永久に生きます」。そうです,神が遣わしたイエスに信仰を働かせるなら永遠の命を持てるのです。マナにせよ他のどんなパンにせよ,永遠の命をもたらすことはできません。
天からのパンに関する論議は,人々がカペルナウムの近くでイエスを見つけてから程なくして始まったようです。ところが,その論議は収まることなく,イエスがカペルナウムの会堂で教えておられるときに最高潮を迎えます。 ヨハネ 6:25-51,59。詩編 78:24。イザヤ 54:13。マタイ 13:55-57。
■ 天からのパンに関する論議の前に何が起きましたか。
■ しるしを求めることが,そのすぐ前にイエスの行なった事柄から見て非常に不適当であったと言えるのはなぜですか。
■ ご自分が天からの真のパンであるというイエスの主張に対して,ユダヤ人たちがつぶやいたのはなぜですか。
■ 天からのパンについての論議はどこで始まりましたか。
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多くの弟子がイエスに従うのをやめるこれまでに生存した最も偉大な人
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55章
多くの弟子がイエスに従うのをやめる
イエスはカペルナウムの会堂で,天からの真のパンとしてのご自分の役割について教えておられます。イエスの話は,ガリラヤの海の東岸から人々が戻って来てイエスを見つけた時に始まった討論の延長のようです。ガリラヤの海の東岸は,彼らが奇跡によって備えられたパンと魚を食べた所です。
イエスは話を続けられ,「わたしが与えるパンとは,世の命のためのわたしの肉なのです」と言われます。ちょうど2年前の西暦30年の春,イエスはニコデモに,神は世を深く愛してみ子を救い主として与えられたと言われました。それでイエスは今,ご自分が間もなくささげる犠牲に信仰を働かせてご自分の肉を象徴的に食べるなら,人類の世のどんな人でも永遠の命が得られるということを示しておられるのです。
しかし,人々はイエスの言葉につまずき,「どうしてこの人は,自分の肉をわたしたちに与えて食べさせることができるのか」と尋ねます。イエスは,ご自分の肉を食べることが象徴的な方法でなされることを聴衆が理解するよう望まれます。それでその点を強調するために,文字どおりに受け止めると一層強く反発したくなるようなことを話されます。
イエスはこう宣言なさいます。「人の子の肉を食べず,その血を飲まないかぎり,あなた方は自分のうちに命を持てません。わたしの肉を食し,わたしの血を飲む者は永遠の命を持ち,わたしはその人を終わりの日に復活させるでしょう。わたしの肉は真の食物であり,わたしの血は真の飲み物なのです。わたしの肉を食し,わたしの血を飲む者は,ずっとわたしと結びついているのであり,わたしもその者と結びついています」。
イエスがここで人食いの風習について述べておられるとしたら,その教えは確かにきわめて不快なものに聞こえたでしょう。しかし言うまでもなく,文字どおりに肉を食べ,血を飲むことを唱道していたのではありません。イエスは次のことを強調しておられたにすぎません。つまり,永遠の命を得る人は皆,イエスがご自分の完全な人間の体を差し出し,ご自分の命の血を注いでささげることになっている犠牲に信仰を働かせなければならないということです。ところが,イエスの弟子でさえ大勢の者がその教えを理解しようとせず,「この話はひどい。だれがこれを聴いていられようか」と異議を唱えます。
イエスは多くの弟子がつぶやいているのを知って,「これがあなた方をつまずかせるのですか。それでは,人の子が自分の元いた所に上って行くのを見たとすれば,どうでしょうか。……わたしがあなた方に話したことばは霊であり,命です。しかし,あなた方の中には信じない者たちがいます」と言われます。
イエスはさらに,「このゆえにわたしは,父にそれを許していただいたのでない限り,だれもわたしのもとに来ることはできない,とあなた方に言ったのです」と言われます。そのため,多くの弟子が去って,もはやイエスに従おうとはしません。それでイエスは,十二使徒のほうをご覧になり,「あなた方も去って行きたいと思っているわけではないでしょう」とお尋ねになります。
ペテロは,「主よ,わたしたちはだれのところに行けばよいというのでしょう。あなたこそ永遠の命のことばを持っておられます。そしてわたしたちは,あなたが神の聖なる方であることを信じ,また知るようになったのです」と答えます。ペテロや他の使徒たちはこのことに関するイエスの教えを十分に理解してはいなかったかもしれませんが,忠節さを表わす何とりっぱな言葉を語ったのでしょう。
イエスはペテロの答えに喜ばれましたが,「わたしがあなた方十二人を選んだのではありませんでしたか。それでも,あなた方のうちの一人は中傷する者です」と言われます。イエスはユダ・イスカリオテについて語っておられるのです。多分この時に,ユダのうちに邪悪な歩みの「初め」,つまり始まりを見抜かれたのかもしれません。
イエスは自分を王にしようとする人々の試みに抵抗して彼らを失望させたばかりでした。人々は,『この人がメシアにふさわしい地位につかない限り,どうしてこの人をメシアなどと言えようか』と考えているかもしれません。これも人々の思いには新しい事柄でした。 ヨハネ 6:51-71; 3:16。
■ イエスはだれのためにご自分の肉をお与えになりますか。彼らはどのように『イエスの肉を食べ』ますか。
■ イエスがさらに述べられたどんな言葉に人々は衝撃を受けますか。しかし,イエスが強調しておられるのは何ですか。
■ 大勢の人々がイエスに従うのをやめた時,ペテロはどのように反応しましたか。
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人を汚すものは何かこれまでに生存した最も偉大な人
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56章
人を汚すものは何か
イエスに対する反対はさらに強くなります。弟子の多くが去るだけでなく,イエスが西暦31年の過ぎ越しの時期にエルサレムにおられた時と同じように,ユダヤのユダヤ人たちはイエスを殺そうとしています。
今は,西暦32年の過ぎ越しの時です。出席するようにというエホバのご要求にしたがって,イエスはエルサレムで行なわれる過ぎ越しに上られます。しかし,命が危険にさらされているので,非常に注意深く上られ,その後ガリラヤにお戻りになります。
エルサレムからパリサイ人と書士たちがイエスのもとに来るとき,イエスはたぶんカペルナウムにおられます。彼らは,宗教上の違法行為でイエスを責める口実を探しています。そして,「あなたの弟子が昔の人々からの伝統を踏み越えているのはどうしてですか」と尋ね,「たとえば,食事をしようとするときに,彼らは手を洗いません」と言います。これは神から要求されている事柄ではありませんが,パリサイ人はこの伝統的な儀式を行なわないことを重大な罪とみなしています。その儀式には,ひじまで洗うことが含まれていました。
イエスは彼らの非難についてはお答えにならず,彼らがよこしまで神の律法を故意に破っていることを指摘なさいます。そして「あなた方も自分たちの伝統のゆえに神のおきてを踏み越えているのはどうしてですか」と問いかけ,さらにこう言われます。「たとえば,神は,『あなたの父と母を敬いなさい』,そして,『父や母をののしる者は死に至らせなさい』と言われました。ところがあなた方は,『自分の父や母に向かって,「わたしの持つものであなたがわたしから益をお受けになるものがあるかもしれませんが,それはみな神に献納された供え物なのです」と言うのがだれであっても,その者は自分の父を少しも敬ってはならない』と言います」。
確かにパリサイ人は,お金や財産など,供え物として神に献納されたものは何でも神殿に属し,それを何かほかの目的のために用いることはできないと教えています。ところが実際には,献納された供え物は献納した人が持っているのです。こうして息子は,自分のお金や財産は「コルバン」,つまり神や神殿に献納された供え物であると言いさえすれば,年老いた両親が非常に苦しい状態にあるとしても,両親を援助するという責任を免れるのです。
神の律法をゆがめるというパリサイ人の悪らつなやり方に義憤を感じられたイエスは,「あなた方は,自分たちの伝統のゆえに神の言葉を無にしています。偽善者よ,イザヤはあなた方について適切に預言して言いました,『この民は唇でわたしを敬うが,その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを崇拝しつづけるのは無駄なことである。人間の命令を教理として教えるからである』」と言われます。
群衆は,パリサイ人がイエスに質問できるよう後ろに下がっていたのかもしれません。パリサイ人がイエスの強い非難に答えられなくなると,イエスは群衆を近くに呼んで,「わたしが話すことを聴いて,その意味を悟りなさい。外から入って行ってその人を汚すことのできるものは何もありません。人から出て来るものが人を汚すのです」と言われます。
後に彼らが家の中に入った時,弟子たちは,「あなたの言われたことを聞いてパリサイ人たちがつまずいたのをご存じですか」と尋ねます。
イエスは,「わたしの天の父がお植えになったのでない植物はみな根こぎにされます。彼らのことはほっておきなさい。彼らは盲目の案内人なのです。それで,盲人が盲人を案内するなら,二人とも穴に落ち込むのです」とお答えになります。
ペテロが人を汚す事柄について弟子たちのために説明を求めた時,イエスは驚かれたようです。イエスは,「あなた方もまだ理解していないのですか」と答え,このように言われます。「口の中に入るものはみな腸に進んで行き,下水に排出されることに気づいていないのですか。しかし,口から出るものは心から出て来るのであり,それが人を汚します。たとえば,心から,邪悪な推論,殺人,姦淫,淫行,盗み,偽証,冒とくが出て来ます。これらは人を汚すものです。しかし,洗ってない手で食事を取ることは人を汚しません」。
イエスはここで,通常の衛生に気をつけなくてもよいと言っておられるわけではありません。調理をする前や食事の前に手を洗う必要はないと言っておられるのではなく,非聖書的な伝統に固執して神の義の律法を巧みに免れようとする宗教指導者たちの偽善を非難しておられるのです。そうです,人を汚すのは邪悪な行ないです。イエスはそれが人の心から出ることを示しておられるのです。 ヨハネ 7:1。申命記 16:16。マタイ 15:1-20。マルコ 7:1-23。出エジプト記 20:12; 21:17。イザヤ 29:13。
■ イエスは今どのような反対に直面なさいますか。
■ パリサイ人はどのような非難を浴びせますか。しかしイエスによれば,パリサイ人はどのように神の律法を故意に破っていますか。
■ 人を汚すものは何であるとイエスは言われますか。
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苦しんでいる人たちへの思いやりこれまでに生存した最も偉大な人
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57章
苦しんでいる人たちへの思いやり
イエスは利己的な伝統に従うパリサイ人を糾弾した後,弟子たちと共に出発されます。覚えていると思いますが,イエスはこれより少し前,弟子たちと共に退いて少し休息を取ろうとされましたが,群衆に見つけられてだめになりました。そこで今度は,弟子たちを連れて,何十キロも北のティルスとシドンの地方に向かわれます。これは,イエスが弟子たちと共にイスラエルの境界を越える唯一の旅行のようです。
滞在する家が見つかると,イエスは自分たちの居どころをだれにも知られたくないことをお知らせになります。ところが,イスラエルの領土ではないこの地域においてさえ,人々の注目を逃れることはできません。ここシリアのフェニキアで生まれた一人のギリシャ人の女がイエスを見つけ,「主よ,ダビデの子よ,私に憐れみをおかけください。私の娘はひどく悪霊につかれています」と懇願し始めます。しかし,イエスは一言もお答えになりません。
ついに弟子たちが,「彼女を追い払ってください。あとに付いて来て,叫びつづけていますから」とイエスに言います。イエスはその女を無視している理由を説明して,「わたしは,イスラエルの家の失われた羊のほかはだれのところにも遣わされませんでした」と言われます。
それでも女はあきらめません。イエスに近づき,その前にひれ伏して,「主よ,私をお助けください!」と嘆願します。
女の真剣な訴えにイエスの心は大きく動かされたに違いありません。しかしイエスは,神の民イスラエルに仕えるという第一の責任を再び指摘なさいます。また同時に,その女の信仰を試すためでしょうか,他の国籍の人々に対するユダヤ人の偏見を引き合いに出して,「子供たちのパンを取って小犬に投げ与えるのは正しくありません」と言われます。
イエスの思いやりのこもった声の調子と顔の表情には確かに,ユダヤ人でない人々への優しい感情が表われています。イエスは異邦人のことを「小犬」と呼ぶことによって,異邦人を犬に例える表現を和らげることさえされます。女は感情を害するどころか,イエスがユダヤ人の偏見に言及されたのでその点を取り上げ,「そうです,主よ。けれど,小犬も自分の主人たちの食卓から落ちるパンくずを食べるのでございます」と謙虚に意見を述べます。
イエスは,「おお女よ,偉大です,あなたの信仰は」と答え,「あなたの願うとおりのことが起きるように」と言われます。すると,確かにそのとおりになります。女が自分の家に帰ると,娘は床の上におり,完全にいやされていました。
イエスと弟子たちは,シドンの海岸地方から国を横断してヨルダン川の源流に向かいます。ガリラヤの海の北側のどこかでヨルダン川を歩いて渡り,ガリラヤの海の東側のデカポリス地方に入るようです。彼らはそこから山に上りますが,群衆は彼らを見つけ,足のなえた人,体の不自由な人,盲人,口のきけない人,その他の病人や不具者などを大勢イエスのもとに連れて来ます。群衆がそれらの人をイエスの足もとに投げ出さんばかりにして置くと,イエスは彼らを治されます。人々は,口のきけなかった人がものを言い,足のなえていた人が歩き,盲人が見えるようになったのを見て驚き,イスラエルの神を賛美します。
イエスは耳の聞こえない,そしてほとんど話すこともできない一人の男の人に特別の注意を払われます。耳の聞こえない人たちは当惑することが多いものです。群衆の中にいる場合は特にそうです。イエスはこの人が特別おどおどしていたのに気づかれたのかもしれません。それで,思いやりを示し,群衆の中からその人だけを連れて行かれます。二人だけになると,イエスはその人のためにこれから行なう事柄をお示しになります。そして,ご自分の指をその人の両耳に入れ,つばをかけてから,その人の舌にお触りになります。それから天を見上げて深く息をつき,「開かれよ」と言われます。すると,その人の聴力は回復し,その人は普通に話せるようになります。
イエスがこうしていやしを数多く行なわれると,群衆は感謝のこもった反応を示し,「あの人はどんなことでも上手に行なった。耳の聞こえない人を聞こえるように,口のきけない人を話せるようにするのだ」と言います。 マタイ 15:21-31。マルコ 7:24-37。
■ イエスがギリシャ人の女の子供をすぐにいやされないのはなぜですか。
■ イエスはその後,弟子たちをどこに連れて行かれますか。
■ イエスは,耳が聞こえず,ほとんど話せない人に思いやりを示してその人をどのように扱われますか。
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パンとパン種これまでに生存した最も偉大な人
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58章
パンとパン種
デカポリスで,大群衆がイエスの周りに集まっていました。多くの人は遠方から,住民の大部分が異邦人であるこの地方にやって来ました。イエスの話を聴き,また病気を癒してもらうためでした。その人たちは,大きなかごを持って来ていました。異邦人の地域を通過する旅では,このかごに食糧を入れて運ぶのが習慣でした。
しかしイエスはやがて弟子たちを呼び,こう言われます。「わたしは群衆に哀れみを覚えます。わたしの近くにとどまってすでに三日になるのに,食べる物を何も持っていないのです。そして,何も食べないままで家に帰らせたりすれば,途中で力が尽きてしまうでしょう。実際,彼らの中には遠くから来ている人もいるのです」。
弟子たちは,「この人里離れた場所で,この人々を満足させるだけのパンをどこから得られるでしょうか」と尋ねます。
イエスは,「あなた方にはパンが幾つありますか」とお聞きになります。
「七つです。それに小さい魚が何匹かあります」と,弟子たちは答えます。
イエスは地面に横になるよう人々に指示してから,パンと魚を取り,神に祈りをささげ,それらを割いて,弟子たちに配りはじめられます。ついで弟子たちがそれを人々に配ります。そしてすべての者が食べて満足します。あとで,残ったものを集めたところ,4,000人ほどの男とほかに女や子供たちが食べたのに,七つの食糧かごがいっぱいになりました。
イエスは群衆を去らせると,弟子たちと共に舟に乗り,ガリラヤの海の西岸に渡られます。ここでパリサイ人が,天からのしるしを見せてくれるようイエスに頼んで,イエスを誘惑しようとします。今回はサドカイ派に属する者たちも一緒にいます。
イエスは彼らがご自分を誘惑しようとしていることに気づかれ,こうお答えになります。「夕方になると,あなた方はいつも,『晴天になるだろう,空が火のように赤いから』と言います。そして朝には,『今日は冬のような雨降りだろう。空は火のように赤いが,薄暗く見えるから』と言います。あなた方は空模様の解釈の仕方を知りながら,時代のしるしは解釈できないのです」。
それからイエスは彼らを,邪悪な姦淫の世代と呼び,前にパリサイ人に言われたと同じように,彼らにはヨナのしるしのほかは何のしるしも与えられない,とおっしゃいます。そこを去ると,イエスと弟子たちは舟に乗り,ガリラヤの海の北東の岸にあるベツサイダに向かいます。ところが,その途中で弟子たちは,パンを持って来るのを忘れたことに気づきます。みんなのために1個のパンしかありません。
イエスはこのほど,パリサイ人と,ヘロデの支持者であるサドカイ人に出会ったことを念頭において,「じっと見張っていて,パリサイ人のパン種とヘロデのパン種に気を付けなさい」と諭されます。パン種のことが言われたので弟子たちは,自分たちがパンを持って来るのを忘れたことをイエスは言っておられると思ったらしく,そのことで議論をはじめます。イエスは弟子たちが誤解したことに気づかれ,「なぜあなた方はパンを持っていないことについて論じているのですか」と言われます。
少し前にイエスは,奇跡によって何千人もの人々にパンをお与えになりました。この最近の奇跡はたぶん,わずか一日か二日前に行なわれたばかりです。ですから弟子たちは,イエスが文字通りのパンの不足を気にかけておられるのでないことは分かるはずです。それでイエスは,「あなた方は覚えていないのですか。わたしが五つのパンを五千人のために割いた時,あなた方はかけらを幾つのかごいっぱいに拾いましたか」と言われます。
「十二です」と,弟子たちは答えます。
「七つを四千人のために割いた時,かけらを幾つの食糧かごいっぱいに拾いましたか」。
「七つです」と,弟子たちは答えます。
「あなた方はまだ意味を悟らないのですか」とイエスはお聞きになります。「わたしがパンについて話したのでないことを,どうしてあなた方は悟らないのですか。ただ,パリサイ人とサドカイ人のパン種に気を付けなさい」。
弟子たちはついに要点をつかみます。パン種,つまり発酵させてパンをふくらませる物質は,腐敗を表わすのに使われていた語だったのです。イエスが象徴的な話し方をしておられること,そして「パリサイ人とサドカイ人の教え」に用心するよう警告されたことをいま理解しました。パリサイ人とサドカイ人の教えには,人々を腐敗させる影響力があるのです。 マルコ 8:1-21。マタイ 15:32-16:12。
■ どうして人々は大きな食糧かごを持って来ていますか。
■ デカポリスを去ってから,イエスは舟でどこへ行かれますか。
■ パン種についてイエスが言われたことを,弟子たちはどのように誤解していますか。
■ イエスはどんな意味で,「パリサイ人とサドカイ人のパン種」と言われますか。
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イエスは一体どういう方なのだろうこれまでに生存した最も偉大な人
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59章
イエスは一体どういう方なのだろう
イエスと弟子たちを乗せた舟がベツサイダに入ると,人々は一人の盲人をイエスのもとに連れて来て,その人に触れていやしてくださるよう請い求めます。イエスはその人の手を取って村の外へ連れて行き,その人の両目につばをかけてから,「何か見えますか」とお尋ねになります。
「人が見えます。木のようなものが見えますが,それらは歩き回っているからです」と,その人は答えます。イエスは両手をその人の両目に当て,はっきり見えるように視力を回復させます。そして,市街に入らないようにという指示を与えてその人を家に帰らせます。
イエスは次に弟子たちと共に,パレスチナの北の端にあるカエサレア・フィリピの村々へ向かわれます。海抜約350㍍の,カエサレア・フィリピの美しい場所までは長い上り坂で,およそ50㌔の道のりがあります。おそらく二日の旅にはなるでしょう。
その途中で,イエスは祈るためにひとりになられます。自分が死ぬ時まであと9か月か10か月ほどしかありません。弟子たちのことが心配です。すでに多くの者がイエスに従うのをやめました。どうしてよいか分からず,がっかりしている人もいるようです。なぜなら,人々がイエスを王にしようとしたのに,イエスはそれをはねつけたからです。また,敵から挑戦されたのに,ご自分が王であることを証明する天からのしるしを示さなかったからです。使徒たちはイエスの身分について何を信じているでしょうか。イエスが祈りをしているところへ使徒たちがやって来た時,イエスは,「群衆はわたしのことをだれであると言っていますか」とお尋ねになります。
「ある者はバプテストのヨハネ,他の者はエリヤ,さらに他の者はエレミヤまたは預言者の一人と言っています」と,使徒たちは答えます。そうです,人々はイエスのことを,死人のうちからよみがえらされたそれらの人の一人と考えているのです。
「だが,あなた方は,わたしのことをだれであると言いますか」と,イエスはお尋ねになります。
ペテロはすぐに,「あなたはキリスト,生ける神の子です」と答えます。
イエスはペテロの答えを是認されてから,「あなたに言いますが,あなたはペテロであり,この岩塊の上にわたしは自分の会衆を建てます。ハデスの門はそれに打ち勝たないでしょう」と言われます。ここでイエスはまずご自分が会衆を建てること,そしてその会衆の成員が地上での忠実な歩みを終えた後は死でさえ彼らを捕らえておくことはできない,と話されます。それからペテロに,「わたしはあなたに天の王国のかぎを与えます」とお告げになります。
こうしてイエスは,ペテロが異例の特権を受けることを明らかにされます。しかし,ペテロは使徒たちのうちで第一の立場が与えられるわけではなく,会衆の基とされるわけでもありません。イエスの会衆は岩塊の上に建てられますが,その岩塊とはイエスご自身のことです。しかしペテロは,幾つかのグループの人々のために天の王国に入る機会をいわば開く三つのかぎを与えられることになっています。
悔い改めたユダヤ人に,救われるには何をすべきかを示すため,ペテロは最初のかぎを,西暦33年のペンテコステの時に使うことになります。そのすぐあとには,信仰を抱いたサマリア人に神の王国に入る機会を開くため,2番目のかぎを用います。それから西暦36年には,割礼を受けていない異邦人のコルネリオとその友人たちに同じ機会を開くことにより,3番目のかぎを使います。
イエスは引き続き使徒たちと論じられます。使徒たちは,イエスが間もなくエルサレムで遭遇する苦しみや死について聞き,落胆します。ペテロは,イエスが天の命へ復活させられることを理解していなかったので,イエスをわきに連れて行き,「主よ,ご自分を大切になさってください。あなたは決してそのような運命にはならないでしょう」と言います。イエスは背を向けて,「わたしの後ろに下がれ,サタンよ! あなたはわたしをつまずかせるものです。あなたは,神の考えではなく,人間の考えを抱いているからです」と言われます。
使徒たちのほかにもイエスと共に旅をしていた人たちがいたらしく,イエスは次にそれらの人たちをご自分のところへ呼び集め,ご自分の追随者となるのは易しくないことについて説明されます。「わたしに付いて来たいと思うなら,その人は自分を捨て,自分の苦しみの杭を取り上げて,絶えずわたしのあとに従いなさい。だれでも自分の魂を救おうと思う者はそれを失うからです。しかし,だれでもわたしと良いたよりのために自分の魂を失う者はそれを救うのです」と,イエスは言われます。
そうです,イエスの追随者は,もしイエスの好意を受けるにふさわしい者であることを証明するつもりなら,勇気を持ち,自分を犠牲にしなければなりません。「だれでも,この罪深い姦淫の世代にあってわたしとわたしの言葉を恥じるようになる者は,人の子も,聖なるみ使いたちと共に自分の父の栄光のうちに到来する時,その者を恥じるのです」と,イエスは語られます。 マルコ 8:22-38。マタイ 16:13-28。ルカ 9:18-27。
■ なぜイエスは弟子たちのことを心配しておられるのですか。
■ イエスの身分に関して,人々はどんな考えを持っていますか。
■ ペテロはどんなかぎを与えられ,どのように用いることになっていますか。
■ ペテロはどんな矯正を受けますか。なぜですか。
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キリストの王国の栄光を予告するものこれまでに生存した最も偉大な人
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60章
キリストの王国の栄光を予告するもの
イエスは,カエサレア・フィリピの地方に入られ,使徒たちを含む群衆を教えておられます。そして,彼らに対してこの驚くべき発表をされます。「あなた方に真実に言いますが,ここに立っている者の中には,人の子が自分の王国をもって到来するのをまず見るまでは決して死を味わわない者たちがいます」。
『イエスはどういう意味でそう言われたのだろうか』と,弟子たちは不思議に思ったに違いありません。1週間ほど後,イエスはペテロとヤコブとヨハネを伴い,高大な山に登られます。弟子たちは眠そうですから,恐らく夜なのでしょう。イエスは,祈りをしておられるうちに,彼らの前で変ぼうされ,その顔は太陽のように輝きはじめ,その衣は光のようにまばゆくなります。
その時,「モーセとエリヤ」と見られる二人の人が現われて,『エルサレムで起きることになっている[イエスの]出立』についてイエスに話しはじめます。出立とは,イエスの死とそれに続く復活のことを指しているようです。それでこの会話は,イエスの屈辱的な死が,ペテロの願っていたような避けるべき事柄ではないことを証明しています。
弟子たちは,もうすっかり目が覚め,びっくりして見つめ,耳を澄まします。それは幻ですが,あまりにも真に迫っているので,ペテロはその情景に自分も加わるようになり,「主よ,わたしたちがここにいるのは良いことです。お望みでしたら,わたしはここに三つの天幕を立てます。一つはあなたのため,一つはモーセのため,一つはエリヤのためです」と言います。
ペテロが話しているうちに,明るい雲が彼らを覆い,雲の中から声がして,「これはわたしの子,わたしの愛する者である。わたしはこの者を是認した。この者に聴き従いなさい」と言います。弟子たちはその声を聞いて,うつ伏します。しかしイエスは,「起き上がりなさい。恐れることはありません」と言われます。彼らが身を起こして見ると,イエスのほかにはだれもいません。
翌日,山を下りてゆく途中,イエスは,「人の子が死人の中からよみがえらされるまでは,この幻についてだれにも語ってはなりません」とお命じになります。その幻の中にエリヤが現われたことで,弟子たちは一つの疑問を抱き,「なぜ書士たちは,エリヤがまず来なければならないと言うのですか」と尋ねます。
『エリヤはすでに来たのですが,人々はそれを見分けなかったのです』と,イエスは言われます。しかしイエスは,エリヤに似た役割を果たした,バプテスマを施す人ヨハネについて話しておられるのです。エリヤがエリシャのために道を整えたように,ヨハネはキリストのために道を整えました。
イエスも弟子たちもその幻によって本当に強められました。その幻は,いわばキリストの王国の栄光を予告するものです。まさにイエスが1週間前に約束しておられたとおり,弟子たちは事実上,「人の子が自分の王国をもって到来する」のを見たのです。イエスの死後ペテロは,『イエスと共に聖なる山にいた時,自分たちがキリストの荘厳さの目撃証人となった』ことについて書きました。
パリサイ人は,しるしを見せるようイエスに求めました。イエスが,神の選ぶ王として聖書の中で約束された者であることを証明するしるしです。彼らはそのようなしるしを何も与えられませんでした。他方,イエスの親しい弟子たちは,王国に関する預言を確証するものとして,イエスの変ぼうを見ることを許されました。ですから,ペテロは後に,「したがって,わたしたちにとって預言の言葉はいっそう確かなものとなりました」と書きました。 マタイ 16:13,マタ 16:28-17:13。マルコ 9:1-13。ルカ 9:27-37。ペテロ第二 1:16-19。
■ ある人たちは死を味わう前に,キリストがご自分の王国をもって到来するのをどのように見ますか。
■ 幻の中で,モーセとエリヤは何についてイエスと語り合いますか。
■ 弟子たちにとってその幻が,心を強める大きな助けになるのはなぜですか。
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悪霊に取りつかれた少年がいやされるこれまでに生存した最も偉大な人
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61章
悪霊に取りつかれた少年がいやされる
イエス,ペテロ,ヤコブ,それにヨハネがヘルモン山の支脈と思われる山へ行っていない間に,ほかの弟子たちはある問題にぶつかります。イエスは戻るとすぐに,よくない気配に気づかれます。弟子たちの周りに人々が群がり,書士たちが弟子たちと議論しています。人々はイエスを見ると,非常に驚き,走り寄ってあいさつします。「あなた方は彼らと何を言い争っているのですか」と,イエスはお尋ねになります。
群衆の中から一人の男の人が進み出て,イエスの前にひざまずき,「師よ,私は,息子が口のきけない霊につかれておりますので,あなたのもとに連れてまいりました。どこででも息子を捕まえますと,その霊は彼を地面にたたきつけ,彼は泡を吹き,歯がみして体力をなくしてしまいます。そして私は,あなたの弟子たちに,それを追い出してくれるように言いましたが,彼らにはできませんでした」と説明します。
どうやら書士たちは,弟子たちがその少年をいやせなかったのをいいことにして騒ぎたて,弟子たちの努力をあざけっているようです。ちょうどそのせっぱ詰まっていた時にイエスが到着されます。そして,「ああ,不信仰な世代よ,いつまでわたしはあなた方と共にいなければならないのでしょう。いつまであなた方のことを忍ばねばならないのでしょう」と言われます。
イエスは,居合わせた人すべてにその言葉を述べておられるようですが,特に,弟子たちを困らせていた書士たちに対して言われていることは疑えません。それからイエスはその少年のことに触れ,「その子をわたしのところに連れて来なさい」と言われます。しかし,少年がイエスのところにやって来ると,その少年に取りついていた悪霊は少年を地面に打ち倒し,激しいけいれんを起こさせます。少年は地面を転げ回り,口から泡を吹いています。
「こうした事がいつから起きているのですか」と,イエスはお尋ねになります。
「子供のころからずっとです。そして息子を滅ぼそうとして,その霊は何度となく彼を火の中にも水の中にも投げ込んだものです」と父親は言い,「何かもしおできになるなら,私どもを哀れんでお助けください」と嘆願します。
恐らく何年もの間,父親は助けを求めていたのでしょう。そして今度は,イエスの弟子たちでもだめだったので,非常に落胆しています。イエスはその人の必死の訴えを理解され,励ますような態度で,「その,『もしできるなら』という言い方です! 信仰があるなら,その人にはすべてのことができるのです」と言われます。
その父親はすかさず,「私には信仰があります!」と叫びますが,「信仰の必要なところで私を助けてください!」と懇願します。
イエスは群衆が一緒になって走り寄って来るのに気づき,その悪霊を叱りつけて,「口のきけない耳しいの霊よ,わたしはお前に命じる。この子から出て,もう入ってはならない」と言われます。悪霊は離れる時に再びその少年に叫び声を上げさせ,何度もけいれんを起こさせます。その後,少年が地面に横たわって動かなくなったため,ほとんどの人が,「彼は死んだ!」と言いはじめます。しかし,イエスがその手を取ると,その子は起き上がります。
それ以前に弟子たちは,送り出されて宣べ伝える業を行なった時に悪霊を追い出したことがありました。それで弟子たちは,ある家に入った時にそっとイエスに,「なぜわたしたちはそれを追い出せなかったのでしょうか」と尋ねます。
イエスは,弟子たちの信仰の不足が原因だったことを示唆して,「この種のものは祈りによらなければどうしても出ません」とお答えになります。今回の場合のような特別強力な悪霊を追い出すには,よい備えが必要だったのです。強い信仰に加えて,神が力を与えて助けてくださることを求める祈りが必要だったのです。
それからイエスはさらにこう言われます。「あなた方に真実に言いますが,からしの種粒ほどの信仰があるなら,この山に,『ここからあそこに移れ』と言うとしても,それは移るのであり,何事もあなた方にとって不可能ではないのです」。信仰はなんと強力なものになり得るのでしょう。
エホバへの奉仕における前進を阻む様々な障害や困難は,文字どおりの大きな山のように越えることも動かすこともできないものに思えるかもしれません。しかしイエスは,わたしたちが心の中で信仰を培い,水をやり,発育を促して成長させるなら,信仰は増し加わって円熟し,そうした山のような障害や困難も克服できることを示しておられます。 マルコ 9:14-29。マタイ 17:19,20。ルカ 9:37-43。
■ イエスはヘルモン山から戻って来られて,どんな事態に出くわされますか。
■ イエスは悪霊につかれた少年の父親にどんな励ましをお与えになりますか。
■ 弟子たちはなぜ悪霊を追い出せなかったのでしょうか。
■ イエスの説明によると,信仰はどれほど強力なものになり得ますか。
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謙遜さに関する教訓これまでに生存した最も偉大な人
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62章
謙遜さに関する教訓
イエスは,カエサレア・フィリピに近い所で,悪霊につかれた少年をいやした後,カペルナウムへ帰ることを望まれます。しかし,ご自分の死とその後の弟子たちの責務に対して弟子たちにもっとしっかり準備させることができるよう,道中はご自分と弟子たちだけになりたいと思われます。イエスは弟子たちにこう説明されます。「人の子は裏切られて人々の手に渡されるように定められています。そして人々は彼を殺し,三日目に彼はよみがえらされるでしょう」。
以前にもイエスはそのことについて話され,3人の使徒たちは実際にイエスの変ぼうを見,その幻の中でイエスの「出立」のことが話し合われていたのに,イエスの追随者たちはまだその点を理解していません。彼らのうちだれも,以前にペテロがしたように,イエスが殺されることを否定しようとはしませんが,そのことについてはそれ以上イエスに質問するのを恐れています。
一行はついに,イエスの宣教活動のいわば本拠となっていたカペルナウムに着きます。その町はペテロや他の数人の使徒たちの故郷でもあります。その町で,神殿の税金を集める人たちがペテロに近づきます。多分,一般に認められている習慣に何らかの点でイエスを違反させるつもりなのでしょう。彼らは,「あなた方の教師は[神殿のための]二ドラクマ税を払わないのですか」と尋ねます。
「払います」と,ペテロは答えます。
イエスは,そのすぐ後で家に到着されたのかもしれませんが,起きた事柄を知っておられます。それで,ペテロが問題を持ち出す前に,「シモンよ,あなたはどう考えますか。地の王たちは租税や人頭税をだれから受け取っていますか。自分の子たちからですか,それともよその人たちからですか」とお尋ねになります。
「よその人たちからです」と,ペテロは答えます。
「そうであれば,子たちは税を課されていないのです」と,イエスは言われます。イエスの父は宇宙の王,神殿で崇拝される方なのですから,実際,神殿のための税金を払うべき法的要求は神の子には課されません。「しかし,彼らをつまずかせないために,あなたは海に行き,釣り針を投じて,最初に上がる魚を取りなさい。その口を開けば,あなたはスタテル硬貨一つ[4ドラクマ]を見つけるでしょう。それを取って,わたしとあなたのために彼らに与えなさい」と,イエスは言われます。
弟子たちは,カペルナウムへ戻って来た後,多分ペテロの家で一緒に集まった時でしょう,「天の王国ではいったいだれが一番偉いのですか」と尋ねます。イエスは,カエサレア・フィリピから帰る道中,ご自分の後に付いて来る弟子たちの間で問題になっていた事柄に気づいておられたので,その質問が出る理由を知っておられます。それで,「あなた方は途中で何を議論していたのですか」とお尋ねになります。弟子たちはきまり悪く思い,黙っています。だれが一番偉くなるかということをめぐって自分たちの間で議論していたからです。
イエスの教えを受けてかれこれ3年になるのに,弟子たちがそのような議論をすることなど信じられないように思えますか。それは人間の不完全さに加えて,宗教的背景が強い影響を及ぼしていたことを物語っています。弟子たちはユダヤ教の中で育ちましたが,その宗教は何事においても地位や身分を強調しました。そのうえ,多分ペテロは,王国に関連したある種の「かぎ」を与えるというイエスの約束があったので,優越感を抱いていたかもしれません。ヤコブとヨハネは,イエスの変ぼうを見せてもらったので,同じような考えを抱いていたかもしれません。
どんな事情であったにせよ,イエスは弟子たちの態度を正すために,心を打つ一つの実例を示されます。一人の子供を呼んで弟子たちの真ん中に立たせ,両腕をその子にかけてこう言われます。「あなた方に真実に言いますが,身を転じて幼子のようにならなければ,あなた方は決して天の王国に入れません。それゆえ,だれでもこの幼子のように謙遜になる者が,天の王国において最も偉大な者なのです。そして,だれでも,わたしの名によってこのような幼子一人を迎える者は,わたしをも迎えるのです」。
弟子たちを正す何とすばらしい方法でしょう。イエスは,弟子たちに腹を立てて彼らのことをごう慢だ,貪欲だ,野心的だなどと言うことはされません。むしろ,年若い子供たちを例にして,彼らを正す教えをはっきり示されます。子供は遠慮がちで野心を抱かないという特質を持っており,自分たちの間の身分については考えないのが普通です。ですからイエスは,弟子たちが謙遜な子供たちの特徴であるそういう特質を培わねばならないことを示しておられます。イエスは結論としてこう述べておられます。「あなた方すべての間でより小さい者として行動する人こそ偉いのです」。 マタイ 17:22-27; 18:1-5。マルコ 9:30-37。ルカ 9:43-48。
■ カペルナウムへ戻る途中,イエスは再びどんなことをお教えになりますか。それはどのように受け止められますか。
■ なぜイエスには神殿のための税金を払う義務がないのですか。それなのに,なぜそれを支払われるのですか。
■ 弟子たちが議論し合うようになったのは,恐らく何が原因でしたか。イエスはどんな方法で彼らを正されましたか。
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誤りを正すさらに別の助言これまでに生存した最も偉大な人
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63章
誤りを正すさらに別の助言
イエスと使徒たちがまだカペルナウムの家にいる間に,だれが一番偉いかという使徒たちの議論だけでなく,ほかのことについても話し合われます。これも,カペルナウムへ帰る途中,イエスご自身がその場におられなかった時にあったことなのかもしれません。使徒ヨハネはこう報告します。「わたしたちは,ある人があなたの名を使って悪霊たちを追い出しているのを見ましたので,それをとどめようとしました。彼はわたしたちと一緒に従って来ないからです」。
ヨハネは,使徒たちだけが,資格を持つ治療者団だと考えているようです。それで,自分たちのグループに属さないその人が強力な業を行なうのはまちがいだと思っています。
ところが,イエスはこう助言なさいます。「彼をとどめようとしてはなりません。わたしの名によって強力な業を行ないながら,すぐさまわたしをののしることのできる者はいないからです。わたしたちに敵していない者は,わたしたちに味方しているのです。あなた方がキリストのものであるという理由であなた方に一杯の飲み水を与える者がだれであっても,あなた方に真実に言いますが,その者は決して自分の報いを失わないでしょう」。
その人がイエスの側に付くのに,文字どおりイエスの後に付いて行く必要はありませんでした。クリスチャン会衆はまだ設立されていなかったので,その人は使徒たちのグループの一人ではなかったにしても,別の会衆の者ということにはなりませんでした。その人は実際にイエスの名に信仰を抱いていました。だからこそ悪霊たちを追い出すことができたのです。その人は,イエスが言われた,報いに値する事柄に十分匹敵する行ないをしていたのです。その人はその行ないに対する報いを失わない,とイエスは説明しておられます。
しかし,その人が使徒たちの言葉や行動につまずいたならどうでしょうか。それは非常に重大なことになります。イエスはこう述べておられます。「信じるこれら小さな者の一人をつまずかせるのがだれであっても,その者は,ろばの回すような臼石を首にかけられて海に投げ込まれてしまったとすれば,そのほうが良いのです」。
イエスはご自分の追随者たちに,手や足や目と同じほど大切なものでも,つまずきのもとになるものは何であれ生活の中から除くべきであると言われます。そのような大事なものにしがみついたままゲヘナ(エルサレム近辺にある,火の燃えるごみの山)に投げ込まれるよりは,その大事なものを失っても神の王国に入るほうが良いからです。ゲヘナは永遠の滅びを表わしています。
イエスはさらに,「あなた方はこれら小さな者の一人をも侮ることがないようにしなさい。あなた方に言いますが,天にいる彼らのみ使いたちは,天におられるわたしの父のみ顔を常に見守っているのです」と警告されます。それから100匹の羊のうち1匹を失った人の例えを話し,「小さな者」の大切さについて説明されます。その人は99匹を残して,いなくなった1匹を捜し,見つけると99匹のこと以上にその羊のことを歓ぶのです。それでイエスは結論として,「同じように,これら小さな者の一人が滅びるのは,天におられるわたしの父にとって願わしいことではありません」と言われます。
恐らくイエスは,使徒たちの間で生じていた議論を念頭に置いておられたのでしょう,「あなた方自身のうちに塩を持ちなさい。そして,互いの間で平和を保ちなさい」とお勧めになります。味のない食物でも塩があれば割においしく食べられるものです。同様に,比喩的な塩があれば,人の言うことは受け入れやすくなります。そのような塩を持つことは平和を保つのに役立ちます。
しかし,人間の不完全さのために,大きな論争の起きることがあります。イエスはそうした事柄を扱うための指針も与え,こう言っておられます。「もしあなたの兄弟が罪を犯したなら,行って,ただあなたと彼との間でその過ちを明らかにしなさい。彼があなたの述べることを聴くなら,あなたは自分の兄弟を得たのです」。もしその人が聴かないなら,「あなたと一緒にあと一人か二人を連れて行きなさい。一切のことが二人または三人の証人の口によって確証されるためです」と助言しておられます。
イエスは,方法が尽きたときだけ,最後の手段として,問題を「会衆」に,すなわち,司法上の決定を下せる会衆内の責任ある監督たちのところへ持ってゆきなさいと言われます。もし罪を犯した人が監督たちの決定に従わないなら,「その人を,あなたにとって,諸国民の者また収税人のような者としなさい」と,イエスは結ばれます。
監督たちは,そのような決定を下すとき,エホバのみ言葉にある指示にしっかり付き従わなければなりません。そうすれば,彼らがある人を有罪とし,処罰に値するとみなすとき,その裁きは『すでに天において縛られたもの』となります。また,「地上で解く」,つまり人を無罪とみなすとき,それはすでに「天において解かれた」ものとなります。そのような司法上の審議において「二人か三人がわたしの名において共に集まっているところには,わたしもその中にいる」と,イエスは言われます。 マタイ 18:6-20。マルコ 9:38-50。ルカ 9:49,50。
■ なぜイエスの時代には,イエスと一緒に行動する必要がなかったのですか。
■ 小さな者をつまずかせることは,どれほど重大なことですか。イエスはそのような小さな者たちの大切さをどのように説明されましたか。
■ どんなことがあったためにイエスは,使徒たちに自分たちの間で塩を持つようにとお勧めになったのでしょうか。
■ 「解く」,また「縛る」という言葉には,どんな意味が含まれていますか。
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許すことに関する教訓これまでに生存した最も偉大な人
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64章
許すことに関する教訓
イエスはまだ弟子たちと共にカペルナウムの家におられるようです。イエスは兄弟間の不和を扱う方法について彼らと論じてこられました。それでペテロは,「主よ,兄弟がわたしに罪をおかすとき,わたしはその人を何回許すべきでしょうか」と尋ねます。ユダヤ人の宗教の教師たちは3回まで許すように提唱しているので,ペテロは,「七回までですか」と言った自分は非常に寛大だと考えたかもしれません。
しかし,そのように回数を数えるという考え自体正しくありません。イエスはペテロを正して,「あなたに言いますが,七回までではなく,七十七回までです」と言われます。イエスは,兄弟を許す回数に制限を設けてはならないということを示しておられるのです。
イエスは,許す義務が弟子たちにあることを彼らに銘記させるため,一つの例えを話されます。それは,自分の奴隷たちとの勘定を清算しようとした王に関する例えです。6,000万デナリという巨額の負債を抱えている一人の奴隷が王のもとに連れて来られます。ところが,その奴隷には負債が払えそうな手だてはありません。それで,イエスの説明によれば,王は奴隷とその妻および子供たちが身を売って支払いをするように命じます。
すると,奴隷は主人の足下にひれ伏し,「わたしのことをご辛抱ください。すべてをお返ししますから」と言って懇願します。
主人はその奴隷を哀れに思い,巨額の負債を寛大にも取り消してやります。ところが,イエスのそのあとの説明によれば,この奴隷は主人から負債を取り消してもらうと,すぐに出て行って,自分からわずか100デナリしか借りていない仲間の奴隷を見つけます。男は仲間の奴隷ののどをつかみ,「借りているものをみんな返せ」と言って,首を絞めはじめます。
しかし,仲間の奴隷はお金を持っていません。そこで,自分がお金を借りている奴隷の足下にひれ伏し,「わたしのことを辛抱してください。返しますから」と言って懇願します。しかし,その奴隷は自分の主人とは違って,憐れみ深くありません。そのため,仲間の奴隷を獄に入れてしまいます。
イエスの説明は続きます。さて,起きた事柄を見ていた他の奴隷たちは,出かけて行って主人に報告します。すると主人は腹を立て,その奴隷を呼び寄せて,「邪悪な奴隷よ,あなたがわたしに懇願したとき,わたしはあの負債をすべて取り消してあげた。わたしがあなたに憐れみをかけたように,今度はあなたが仲間の奴隷に憐れみをかけるべきではなかったのか」と言います。憤った主人は,借りているものをすべて返すまで,憐れみを知らないその奴隷を牢番たちに引き渡します。
そこでイエスは結論として,「もしあなた方各自が,自分の兄弟を心から許さないなら,わたしの天の父もあなた方をこれと同じように扱われるでしょう」と言われます。
許すことに関する何と優れた教訓なのでしょう。神が許してくださったわたしたちの罪という巨額の負債に比べれば,クリスチャンの兄弟がわたしたちに対しておかすかもしれないどんな違犯も全く取るに足りません。しかもエホバ神は,わたしたちを何千回も何万回も許してくださいました。わたしたちは,エホバ神に罪をおかしたことに気づかない場合さえ少なくありません。したがって,たとえ不満をいだく正当な理由があったとしても,兄弟を何度か許せるのではないでしょうか。イエスが山上の垂訓の中で教えられたように,神は,『わたしたちに負い目のある人々をわたしたちが許したように,わたしたちの負い目をも許してくださる』ということを忘れないようにしましょう。 マタイ 18:21-35; 6:12。コロサイ 3:13。
■ ペテロはどんなことから,兄弟を許すことに関する質問をしますか。ペテロが人を7回許すという自分の提案を寛大であると考えたかもしれないのはなぜですか。
■ 哀れみを求める奴隷の嘆願に対する王の反応と,仲間の奴隷の嘆願に対するその奴隷の反応はどのように異なっていましたか。
■ イエスの例えから何が学べますか。
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エルサレムへのひそかな旅これまでに生存した最も偉大な人
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65章
エルサレムへのひそかな旅
時は西暦32年の秋で,幕屋の祭りが近づいています。ユダヤ人がイエスを殺そうとした西暦31年の過ぎ越しの祭り以降,イエスはおもにガリラヤ地方で活動してこられました。それ以後イエスがエルサレムに行かれたのは,年3回のユダヤ人の祭りに参列する時だけだったようです。
そこでイエスの兄弟たちはイエスに,「ここから進んで行ってユダヤに入りなさい」と勧めます。エルサレムはユダヤ地方の主要な都市で,国全体の宗教上の中心地です。「自分では公に知られることを求めながら,物事をひそかに行なう者はいない」と,イエスの兄弟たちは論じます。
ヤコブ,シモン,ヨセフ,それにユダは,兄のイエスがほんとうにメシアであるとは信じていませんが,奇跡を行なうイエスの力を,祭りの時に集まる人々すべてに示してほしいと思っています。しかしイエスは,危険に気づいておられ,「世があなた方を憎む理由はありません。しかし,わたしのことは憎みます。わたしが世に関し,その業が邪悪であることを証しするからです」と言われます。それでイエスは兄弟たちに,「あなた方は祭りに上って行きなさい。わたしはまだこの祭りには上って行きません」と言われます。
幕屋の祭りは七日間の祝いです。八日目に厳粛な行事が行なわれて終了します。その祭りは農耕年が終わったことを示すもので,深い喜びと感謝を表わす時です。イエスの兄弟たちが祭りに上る旅行者の大集団と一緒に出発してから数日後,イエスと弟子たちは人目を避けてひそかに出かけます。ほとんどの人が通るヨルダン川に近い道ではなく,サマリアを抜ける道を行きます。
イエスと連れの者たちはサマリア人の村で宿を取ることが必要になるので,準備のためにイエスは先に使者をお遣わしになります。しかし人々は,イエスがエルサレムへ向かう途中であることを知り,イエスのためには何もしようとしません。ヤコブとヨハネは憤慨し,「主よ,天から下って彼らを滅ぼし尽くすようわたしたちが火に命ずることをお望みですか」と尋ねます。イエスは,そのようなことを提案した二人をお叱りになり,一行は別の村へ向かいます。
一行が道を進んでいると,ある書士がイエスに,「師よ,私は,あなたが行こうとしておられる所なら,どこへでも付いてまいります」と言います。
イエスは,「きつねには穴があり,天の鳥にはねぐらがあります。しかし人の子には頭を横たえる所がありません」と答え,もしその書士がイエスの追随者になれば苦難を経験するということを説明されます。その言葉には,書士はあまりにも誇り高いのでそのような生活様式を受け入れることはできないという意味も含まれているようです。
イエスは別の人に,「わたしの追随者になりなさい」とおっしゃいます。
その人は,「まず出かけて行って私の父を葬ることをお許しください」と答えます。
それに対してイエスは,「死人に自分たちの死人を葬らせ,あなたは行って神の王国を広く宣明しなさい」とおっしゃいます。その人の父親はまだ死んではいなかったようです。というのは,もし死んでいたのなら,その息子がそこにいてイエスの話を聴いていることなどありそうにもないからです。どうやらその息子は父親が死ぬまで待ってほしいと言っているようです。自分の生活の中で神の王国を第一にしようという気構えはないのです。
一行がエルサレムへの道を進んで行くと,もう一人の人がイエスに,「主よ,わたしはみ跡に従います。ですが,まずわたしの家の者に別れを告げることをお許しください」と言います。
イエスはそれに答えて,「手をすきにかけてから後ろのものを見る人は神の王国に十分ふさわしい者ではありません」と言われます。イエスの弟子になろうとする人は,王国の奉仕に目の焦点を合わせていなければなりません。耕す人がまっすぐ前を見ていないなら,大抵うねは曲がってしまいますが,ちょうどそれと同じように,後ろを向いてこの古い事物の体制を見る人は,とこしえの命に至る道から外れてしまうことでしょう。 ヨハネ 7:2-10。ルカ 9:51-62。マタイ 8:19-22。
■ イエスの兄弟はだれですか。彼らはイエスについてどう考えていますか。
■ サマリア人はなぜそんなに失礼な態度を取るのですか。ヤコブとヨハネは何をしたいと思いますか。
■ イエスは旅の途中で3回,どんな会話をなさいますか。自分を犠牲にして奉仕しなければならないことを,どのように強調されますか。
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幕屋の祭りでこれまでに生存した最も偉大な人
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66章
幕屋の祭りで
イエスはバプテスマを受けてから3年ほどの間に有名になっていました。非常に多くの人がイエスの奇跡を見ていましたから,イエスの活動に関するうわさは国全体に広まっていました。さて,人々はエルサレムで行なわれる幕屋の祭りに集まると,そこでイエスを捜します。「あの人はどこにいるのか」と,人々は尋ねます。
イエスは論争の的になっていました。「彼は善良な人だ」と言う人もいれば,「そうではない。群衆を惑わしているのだ」と言い張る人もいます。祭りの初めには,このようなひそひそ話が盛んになされますが,イエスのために公に語る勇気はだれにもありません。ユダヤ人の指導者たちから仕返しされるのを恐れているからです。
祭りが半ばを過ぎたときイエスは到着し,神殿に上って行かれます。神殿にいた人々はイエスの優れた教える能力に驚嘆します。イエスはラビの学校に一度も行ったことがないので,ユダヤ人たちは,「どうしてこの人は,学校で学んだこともないのに学識があるのだろうか」と不思議に思うようになります。
イエスは説明されます。「わたしの教えはわたしのものではなく,わたしを遣わした方に属するものです。だれでもこの方のご意志を行ないたいと願うなら,この教えについて,それが神からのものか,それともわたしが独自の考えで話しているのかが分かるでしょう」。イエスの教えは神の律法にしっかり従ったものなので,イエスが自分自身の栄光ではなく,神の栄光を求めておられるのは明らかなはずです。「モーセがあなた方に律法を与えたのではありませんでしたか」と問いかけてからイエスは,「あなた方のうちのだれも律法に従っていません」と叱責されます。
それからイエスは,「なぜあなた方はわたしを殺そうとしているのですか」とお尋ねになります。
祭りのために訪れていたと思われる群衆の中の人々は,そのような企てがあることを知りません。このようなすばらしい教師を殺そうとする者がいることなど,彼らには信じられません。それで彼らは,そのようなことを考えるとは,イエスはどうかしているに違いないと思い,「あなたには悪霊がいます。だれがあなたを殺そうとしているのですか」と言います。
群衆には分からないかもしれませんが,ユダヤ人の指導者たちはイエスが殺されることを願っています。イエスが1年半前の安息日に一人の男をいやされた時,指導者たちはイエスを殺そうとしました。それでイエスは今,彼らに次のように尋ねて,彼らが道理をわきまえていないことを示されます。「モーセの律法を破らないようにするため人は安息日に割礼を受けるのに,安息日に人を全く健康にしたからといって,あなた方はわたしに対して激しく怒るのですか。うわべを見て裁くのをやめ,義にかなった裁きで裁きなさい」。
事情に通じているエルサレムの住民は,「これは,彼らが殺そうとしている人ではないか。それなのに,見なさい,公然と話をしており,彼らは何も言わないのだ。支配者たちは,これがキリストであることをはっきり知るようになったわけではあるまい」と言うようになります。これらエルサレムの住民は,イエスがキリストであるとは考えない理由を説明して,「わたしたちは,この人がどこから来た者なのか知っているではないか。しかし,キリストが来るときには,それがどこから来た者なのかをだれも知らないはずだ」と言います。
イエスはこのように答えられます。「あなた方はわたしを知っており,わたしがどこから来たのかも知っています。また,わたしは自分の考えで来たのではありません。わたしを遣わした方が実在しておられるのですが,あなた方はその方を知りません。わたしはその方を知っています。わたしはその方の代理者であり,その方がわたしを遣わされたからです」。これを聞くと,彼らはイエスを捕まえようとします。多分,獄に入れるためか,殺させるためでしょう。しかし,今はイエスが死ぬ時ではないので,彼らは捕らえることができません。
それでも,多くの人がイエスに信仰を持ちます。実際,彼らはそうすべきでした。イエスは,水の上を歩き,風を和らげ,あらしの海を静め,少しのパンと魚で大勢の人々に奇跡的に食事をさせ,病人を治し,足なえを歩かせ,盲人の目を開け,らい病人を治し,死人をよみがえらせることさえされたからです。それで彼らは,「キリストが到来しても,この人が行なったよりも多くのしるしは行なわないのではないか」と尋ねます。
群衆がこうしたことをつぶやいているのを聞くと,パリサイ人と祭司長たちはイエスを捕らえようとして下役たちを遣わします。 ヨハネ 7:11-32。
■ イエスはいつ祭りに到着されますか。人々はイエスについてどんな話をしていますか。
■ イエスには悪霊がいるとある人たちが言う理由は何でしょうか。
■ エルサレムの住民はイエスをどうみなしますか。
■ どうして多くの人はイエスに信仰を持ちますか。
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彼らはイエスを捕らえそこなうこれまでに生存した最も偉大な人
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67章
彼らはイエスを捕らえそこなう
幕屋の祭りがまだ行なわれている間に,宗教指導者たちはイエスを捕らえようとして警務の下役たちを遣わします。イエスは隠れようとはされません。むしろ,「わたしは,自分を遣わした方のもとに行くまでに,もう少しの間あなた方と共にいます。あなた方はわたしを捜すようになりますが,わたしを見いだせないでしょう。そして,わたしのいる所に,あなた方は来ることができません」と言って,公然と教えつづけられます。
ユダヤ人たちは理解できないので,互いにこう話し合います。「この人はどこへ行って,わたしたちが見つけられないようにするつもりなのだろう。ギリシャ人の間に離散しているユダヤ人たちのところに行って,ギリシャ人に教えるつもりではあるまい。『あなた方はわたしを捜すようになるが,わたしを見いだせないであろう。そして,わたしのいる所に,あなた方は来ることができない』という,彼のこのことばはどういう意味なのか」。もちろんイエスは,近づきつつあるご自分の死と天の命への復活について話しておられるのです。敵たちは天まで追って行くことはできません。
祭りの七日目,最後の日になりました。祭りの間は毎朝,一人の祭司がシロアムの池から汲んだ水を注ぎ出しました。その水は祭壇の基部に流れ落ちました。イエスは恐らく人々にこの日ごとの儀式を思い起こさせるためでしょう,声を張り上げて話されます。「だれでも渇いている人がいるなら,わたしのところに来て飲みなさい。わたしに信仰を持つ者は,まさに聖書が言ったとおり,『その内奥のところから生きた水の流れが流れ出る』のです」。
実際イエスはここで,聖霊が注ぎ出される時の壮大な結果について述べておられます。聖霊がそのように注ぎ出されるのは,翌年のペンテコステの時です。120人の弟子たちが人々に仕え始める時,生きた水の流れが流れ出ます。しかしその時まで,聖霊で油そそがれて天的な命に召されるキリストの弟子はだれもいないという意味において,霊はありません。
イエスの教えを聞いて,ある人々は,「これこそ確かにあの預言者だ」と言い始めます。彼らは,来ることが約束されていた,モーセよりも偉大な預言者のことを言っているようです。他の人たちは,「これがキリストだ」と言いますが,「まさかキリストがガリラヤから出ることなどあるまい。聖書は,キリストがダビデの子孫から,そしてダビデのいた村ベツレヘムから来ると言っているではないか」と異議を唱える人もいます。
そのため,群衆の間に分裂が生じます。イエスが捕らえられることを望んでいる者はいますが,手をかける者はだれもいません。警務の下役たちがイエスを捕らえずに戻って来ると,祭司長とパリサイ人たちは,「あなた方はどうして彼を連れて来なかったのか」と尋ねます。
「あのように話した人はいまだかつてありません」と,下役たちは答えます。
宗教指導者たちは怒りに満たされ,なりふりかまわずにあざけったり,うそを言ったり,ののしったりします。そして,「あなた方まで惑わされたわけではあるまい。支配者やパリサイ人で彼に信仰を持った者は一人もいないではないか。だが,律法を知らないこの群衆はのろわれた者たちなのだ」と,あざ笑うように言います。
この時,パリサイ人でユダヤ人の支配者(つまり,サンヘドリンの一員)でもあるニコデモが,イエスのためにあえて語ります。覚えていると思いますが,2年半前,ニコデモは夜イエスのもとに来て,イエスに対する信仰を表わしました。さて,ニコデモは言います。「わたしたちの律法は,まず人の言い分を聞いてその人が何を行なっているかを知ってからでなければ,人を裁かないではないか」。
パリサイ人たちは,自分たちの仲間の一人がイエスを弁護したことにますます腹を立て,「あなたもガリラヤの出というわけではあるまい。預言者はガリラヤからは起こらないことを調べてみなさい」と厳しい調子で述べます。
聖書は,預言者がガリラヤから出ると直接には述べていませんが,「大いなる光」がその地方で見られるようになると述べて,キリストがそこから出ることは確かに示しています。さらにイエスはベツレヘムでお生まれになりました。それにイエスはダビデの子孫でもあります。パリサイ人たちはそのことを知っていたと思われますが,人々がイエスに対して抱いている誤解を広めたのは彼らのようです。 ヨハネ 7:32-52。イザヤ 9:1,2。マタイ 4:13-17。
■ 祭りの間,毎朝どんなことが行なわれますか。イエスはそのことにどのように人々の注意を引いておられるようですか。
■ 下役たちがイエスを捕らえることができなかったのはなぜですか。宗教指導者たちはどのような反応を示しますか。
■ ニコデモとはだれですか。彼はイエスに対してどのような態度を示しますか。また,仲間のパリサイ人からはどのように扱われますか。
■ キリストがガリラヤから出ることを示すどんな証拠がありますか。
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七日目にさらに教えるこれまでに生存した最も偉大な人
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68章
七日目にさらに教える
幕屋の祭りの最終日である七日目はまだ終わっていません。イエスは神殿の「宝物庫」と呼ばれる所で教えておられます。それは婦人の中庭と呼ばれる場所の中にあったようです。そこには人々が寄付を入れる箱があります。
祭りの間は毎晩,神殿のその場所に特別な明かりがともされます。そこには四つの巨大な燭台が置かれています。それぞれの燭台には油を満たした四つの大きな水盤がついています。16の水盤の油を燃やすそれらの灯火の光は強力で,夜間に周囲をかなり遠くまで明るく照らします。イエスがいま話しておられることを聞いて,聴衆はその明かりのことを思い起こすかもしれません。イエスは,「わたしは世の光です。わたしに従う者は決して闇の中を歩むことがなく,命の光を持つようになります」と宣言されます。
パリサイ人たちは,「あなたは自分自身について証しをしています。あなたの証しは真実ではありません」と反論します。
それに対してイエスは,「たとえわたしが自分自身について証しするとしても,わたしの証しは真実です。わたしは,自分がどこから来たか,そしてどこへ行こうとしているかを知っているからです。しかしあなた方は,わたしがどこから来たか,そしてどこへ行こうとしているかを知りません」と答え,さらに,「わたしは,自分について証しする者であり,わたしを遣わした父もわたしについて証しされるのです」と付け加えられます。
「あなたの父とはどこにいるのですか」と,パリサイ人たちは尋ねます。
「あなた方はわたしも,わたしの父も知りません。もしあなた方がわたしを知っているとすれば,わたしの父をも知っているはずです」と,イエスはお答えになります。パリサイ人はなおもイエスを捕まえたいと思っていますが,手をかける者はいません。
イエスは再び言われます。「わたしは去って行こうとしています。……わたしが行こうとしている所へ,あなた方は来ることができません」。
それでユダヤ人たちは不思議に思うようになり,「彼は自殺するつもりなのではあるまい。『わたしが行こうとしている所へ,あなた方は来ることができない』と言っているが」と言います。
イエスは,「あなた方は下の領域からの者ですが,わたしは上の領域からの者です。あなた方はこの世からの者ですが,わたしはこの世からの者ではありません」と説明し,それから,「わたしがその者であることを信じないなら,あなた方は自分の罪のうちに死ぬことになるのです」と言われます。
もちろんイエスは,人間となる前のご自分の存在や,ご自分が約束のメシア,つまりキリストであることについて述べておられます。それでも彼らは,恐らく非常に侮辱的な口調で,「あなたはだれなのですか」と尋ねます。
イエスは,彼らが自分を退けるのを見て,「一体なぜわたしはあえてあなた方に話しているのでしょうか」とお答えになります。そして,「わたしを遣わした方は真実な方であり,その方から聞いたこと,それをわたしは世で話しているのです」と述べてから,こう続けられます。「ひとたび人の子を挙げてしまうと,そのときあなた方は,わたしがその者であり,わたしが何事も自分の考えで行なっているのではないことを知るでしょう。わたしはこれらのことを,ちょうど父が教えてくださったとおりに話しているのです。そして,わたしを遣わした方は共にいてくださいます。わたしを独りだけにして見捨てたりはされませんでした。わたしは常に,その方の喜ばれることを行なうからです」。
イエスがこうした事柄を話されると,多くの者がイエスに信仰を持ちます。イエスは彼らに,「わたしの言葉のうちにとどまっているなら,あなた方はほんとうにわたしの弟子であり,また,真理を知り,真理はあなた方を自由にするでしょう」と言われます。
「わたしたちはアブラハムの子孫であって,だれにも奴隷になったことなどありません。『あなた方は自由になるでしょう』と言われるのはどうしてですか」と,反対者たちは口をはさみます。
ユダヤ人たちは何度も外国の支配を受けてきましたが,だれであろうと圧制者を主人とは認めません。彼らは奴隷と呼ばれたくないのです。しかしイエスは,彼らがまさしく奴隷であることを指摘なさいます。どのような意味で奴隷なのでしょうか。イエスは,「きわめて真実にあなた方に言いますが,すべて罪を行なう者は罪の奴隷です」と言われます。
罪の奴隷であることを認めようとしないなら,ユダヤ人たちは自らを危険な立場におくことになります。「奴隷は家の者たちの中にいつまでもとどまっているわけではありません。子はいつまでもとどまっています」と,イエスは説明されます。奴隷には相続権がないので,常に退けられる危険があります。その家に実際に生まれた子か養子だけが「いつまでも」,つまり生きている限りとどまるのです。
「それゆえ,もし子があなた方を自由にするならば,あなた方は本当に自由になるのです」と,イエスは続けられます。それで,人々を自由にする真理とは,み子イエス・キリストに関する真理です。イエスの人間としての完全な命の犠牲によってのみ,人はだれでも死をもたらす罪から自由になれるのです。 ヨハネ 8:12-36。
■ イエスは七日目にどこで教えられますか。そこでは夜に何が行なわれますか。またそれと,イエスの教えとはどのような関係がありますか。
■ イエスはご自分がどこから来たかについて何と言われますか。それは,イエスがだれであるかに関して何を明らかにするはずですか。
■ ユダヤ人はどんな意味で奴隷ですか。しかしどんな真理が彼らを自由にしますか。
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父に関する問題これまでに生存した最も偉大な人
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69章
父に関する問題
祭りの間に,イエスとユダヤ人の指導者たちとのやりとりはますます激しくなります。「わたしは,あなた方がアブラハムの子孫であることを知っています」と,イエスは言われます。「しかしあなた方はわたしを殺そうとしています。それは,わたしの言葉があなた方の間で進んでゆかないからです。わたしは,自分の父のもとで見た事柄を話します。それであなた方は,自分たちの父から聞いた事柄を行なうのです」。
イエスは,彼らの父がだれであるかは言われませんが,彼らの父がご自分の父とは異なることを明らかにされます。イエスがだれのことを考えておられるのかに気づかないユダヤ人の指導者たちは,「わたしたちの父はアブラハムです」と答えます。自分たちは,神の友であったアブラハムと同じ信仰を抱いていると彼らは思っているのです。
ところがイエスは,「アブラハムの子供であるというなら,アブラハムの業を行ないなさい」と答えて彼らを驚かされます。実際,本当の息子なら自分の父親を見倣います。イエスはこう言われます。「しかし今,あなた方は,わたしを,神から聞いた真理をあなた方に告げた者を殺そうとしています。アブラハムはそのようなことを行ないませんでした」。それでイエスは再び,「あなた方は自分たちの父の業を行なっているのです」と言われます。
イエスがだれのことを話しておられるのか,彼らはまだ理解していません。「わたしたちは淫行によって生まれたのではありません」と言って,自分たちはアブラハムの嫡子であるという態度を変えません。ですから,自分たちはアブラハムのような真の崇拝者であると唱え,「わたしたちには一人の父,神がいるのです」と言い張ります。
しかし,神は本当に彼らの父でしょうか。イエスは,「もし神があなた方の父であるならば,あなた方はわたしを愛するはずです。わたしは神のもとから出てここにいるからです。そしてわたしは決して自分の考えで来ているのではありません。その方がわたしを遣わされたのです。わたしの話している事柄があなた方に分からないのはなぜでしょうか」と応酬されます。
イエスはそれらの宗教指導者たちに,ご自分を退けるとどんな結果になるかを教えようとしてこられました。しかしこの際イエスは,「あなた方は,あなた方の父,悪魔からの者であって,自分たちの父の欲望を遂げようと願っているのです」とはっきり言われます。悪魔はどんな父ですか。イエスは,悪魔は人殺しであると言われただけでなく,「彼は偽り者であって,偽りの父」であるともおっしゃいました。それでイエスは結論として,「神からの者は神の言われることを聴きます。あなた方が聴かないのはこのため,つまり,神からの者ではないからです」と言われます。
ユダヤ人たちはイエスの非難に腹を立て,「わたしたちが,あなたはサマリア人で,悪霊につかれている,と言うのは正しいのではありませんか」と答えます。サマリア人はユダヤ人から憎まれている国民なので,「サマリア人」という言葉は侮辱や非難の表現として使われています。
イエスは,サマリア人であると侮辱されたことには気を留めず,「わたしは悪霊につかれてはいません。わたしの父を尊んでいるのであり,あなた方はそのわたしを辱めています」と答えられます。そしてさらに,「だれでもわたしの言葉を守り行なうなら,その人は決して死を見ることがありません」という驚くべき約束をされます。言うまでもなく,イエスは,ご自分に従うすべての者が文字通り死を決して見ないと言っておられるのではありません。むしろ,復活のない永遠の滅び,つまり「第二の死」を決して見ないという意味で言っておられるのです。
ところが,ユダヤ人たちはイエスの言葉を文字通りに受け取ります。それでこう言います。「今わたしたちは,あなたが悪霊につかれていることがはっきり分かります。アブラハムは死にましたし,預言者たちもそうです。それなのにあなたは,『だれでもわたしの言葉を守り行なうなら,その人は決して死を味わうことがない』と言っています。あなたは,死んだわたしたちの父アブラハムよりも偉いわけではないでしょう。そして,預言者たちも死んだのです。あなたは,自分が何者であると唱えるのですか」。
イエスがユダヤ人とのこのやりとりにおいて終始,ご自分が約束のメシアであるという事実を彼らに示しておられることは明らかです。しかし,ご自分がだれであるかに関する彼らの質問に直接答える代わりに,イエスはこう言われます。「わたしが自分に栄光を付すのであれば,わたしの栄光はむなしいものです。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父,あなた方が自分たちの神であると言うその方です。それでいて,あなた方はその方を知っていません。しかし,わたしはその方を知っています。そして,その方を知らないと言えば,わたしはあなた方のように,つまり偽り者になります」。
さらにイエスは,「あなた方の父アブラハムは,わたしの日を見ることを見越して大いに歓び,それを見て歓んだのです」と言って,忠実なアブラハムに再び言及されます。確かにアブラハムは,信仰の目で約束のメシアの到来を待ち望んでいました。ユダヤ人たちは不信仰にも,「あなたはまだ五十歳になってもいないのに,アブラハムを見たことがあるのですか」と答えます。
「きわめて真実にあなた方に言いますが,アブラハムが存在する前からわたしはいるのです」と,イエスはお答えになります。もちろんイエスは,人間になる前の,天の強大な霊者としてのご自身の存在について語っておられるのです。
ユダヤ人たちは,アブラハムの前から存在していたというイエスの主張に憤り,イエスに投げつけようとして石を拾いますが,イエスは隠れて,神殿から無事に出て行かれます。 ヨハネ 8:37-59。啓示 3:14; 21:8。
■ イエスは,ご自分の父と敵対者たちの父が異なることをどのように示されますか。
■ ユダヤ人たちがイエスをサマリア人と呼んだことにはどんな意味がありますか。
■ イエスはどのような意味で,ご自分の追随者たちは決して死を見ないと言われますか。
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生まれつき目の見えない人をいやすこれまでに生存した最も偉大な人
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70章
生まれつき目の見えない人をいやす
ユダヤ人たちがイエスに石を投げつけようとしても,イエスはエルサレムから出て行かれません。その後安息日に,イエスと弟子たちは市内を歩いていて,生まれつき目の見えない人を見かけます。「ラビ,この人が盲人として生まれたのは,だれが罪をおかしたためですか。当人ですか,それともその親たちですか」と,弟子たちはイエスに尋ねます。
弟子たちは,一部のラビが信じていたように,人は母親の胎内で罪をおかすことがあると考えているのかもしれません。しかしイエスは,「この人が罪をおかしたのでも,その親たちでもなく,神のみ業がこの人の場合に明らかにされるためだったのです」とお答えになります。この人の目が見えないのは,当人かその親たちが特定の過ちか罪をおかしたためではありません。最初の人アダムが罪をおかした結果人間はみな不完全になり,そのため,生まれつき目が見えないといった欠陥を持つようになったのです。この人のそうした欠陥は今,イエスが神のみ業を明らかにする機会を与えるものとなります。
イエスは,そのような業を行なうことが緊急に必要であることを強調して,「わたしたちは,わたしを遣わした方の業を昼のうちに行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ようとしています。わたしが世にいる間,わたしは世の光なのです」と言われます。間もなく,イエスは死んで墓の暗闇に下ることになっています。そこではもはや何もすることができません。それまでの間,イエスは世を啓発する方です。
これらのことを言い終えると,イエスは地面につばを吐いて,だ液で粘土を作り,目の見えないその人の両目にそれを当てて,「行って,シロアムの池で洗いなさい」と言われます。その人はこの言葉に従います。そして,言われたとおりにすると,その人は見えるようになります。その人は生まれて初めて目が見えるようになったので,大いに喜びながら戻って来ます。
隣人たちや,その人のことを知っている他の人たちは驚いて,「これは,いつも座って物ごいをしていた男ではないか」と尋ねます。「これはその人だ」と言う人たちもいますが,信じられなくて,「いや,違う,ただ似ているだけだ」と言う人たちもいます。しかし当人は,「わたしはその者です」と言います。
「では,どうしてあなたの目は開いたのか」と人々は尋ねます。
「イエスという人が粘土を作ってわたしの両目になすりつけ,『シロアムに行って洗いなさい』と言いました。それで,行って洗いましたところ,見えるようになったのです」。
「その人はどこにいるのか」と,彼らは尋ねます。
「知りません」と,彼は答えます。
それで人々は,以前盲目だったその人を自分たちの宗教指導者であるパリサイ人たちのところに連れて行きます。今度はパリサイ人たちが,どのようにして見えるようになったのか彼に尋ね始めます。「その人が粘土をわたしの両目に当てました。そしてわたしが洗いましたところ,今は見えるのです」と,その人は説明します。
パリサイ人たちは確かに,いやされたこじきと共に歓ぶべきです。しかし彼らは,そうする代わりに,イエスを糾弾し,「これは神からの人ではない」と主張します。なぜ彼らはそう言うのでしょう。イエスが「安息日を守っていないから」です。しかし,ほかのパリサイ人たちは驚嘆して,「罪人である人が,どうしてこのようなしるしを行なえるだろうか」と言います。こうして,彼らの間には分裂があります。
それで,彼らはその人に,「彼があなたの目を開けたことからして,あなたは彼について何と言うか」と尋ねます。
「彼は預言者です」と,その人は答えます。
パリサイ人たちはそれを信じようとしません。彼らは,イエスとこの人は人々をかつぐため,ひそかに結託しているに違いないと思い込んでいるのです。そこで彼らは問題を解決するため,そのこじきの親たちを呼びます。両親に尋ねてみようというわけです。 ヨハネ 8:59; 9:1-18。
■ その人の目が見えないのは何のせいですか。また,何のせいではありませんか。
■ だれも働くことのできない夜とは何ですか。
■ その人がいやされると,その人のことを知っていた人々はどのように反応しますか。
■ その人がいやされたことについてパリサイ人の意見はどのように分かれますか。
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飽くまで不信仰なパリサイ人たちこれまでに生存した最も偉大な人
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71章
飽くまで不信仰なパリサイ人たち
以前盲目だったこじきの両親は,パリサイ人たちの前に呼び出されておびえています。イエスに対する信仰を告白する者は会堂から追放されることになっているのを彼らは知っているのです。地域社会の他の人々との交わりがそのようにして絶たれた場合,貧しい家族は特に,非常な苦難に見舞われる恐れがあるので,親は用心しています。
「これは,生まれつき目が見えなかったという,あなた方の息子か。では,現在見えるのはどうしてなのか」と,パリサイ人たちは尋ねます。
「これがわたしどもの息子で,生まれつき目が見えなかったことは知っております。でも,今見えるのがどうしてかは知りませんし,だれがその目を開けたのかも知りません」と,親は言います。息子は起きたことをみな親に話していたに違いありませんが,親は慎重な態度を取り,「彼にお聞きください。彼は大人です。自分で話すはずです」と言います。
それでパリサイ人たちはその人をもう一度呼びます。彼らは今度は,イエスの有罪を立証する証拠を集めたことをほのめかして,その人をおじけづかせようとします。「神に栄光をささげなさい。わたしたちはこの人が罪人であることを知っているのだ」と彼らは迫ります。
そこでかつての盲人は,「その人が罪人かどうかわたしは知りません」と述べ,彼らの非難を否定したりはしません。しかし,「一つのことは知っています。わたしは目が見えませんでしたが,現在は見えるということです」と言い添えます。
パリサイ人たちはその人の証言の不備を見つけようとして,「彼はあなたに何をしたのか。どのようにしてあなたの目を開けたのか」ともう一度尋ねます。
その人は,「わたしはもうお話ししましたのに,お聴きになりませんでした。なぜもう一度お聞きになりたいのですか」と文句を言い,「あなた方もあの人の弟子になりたいわけではないのでしょうに」と皮肉ります。
パリサイ人たちはその答えに激怒して,「お前はあの男の弟子だ」と非難し,「我々はモーセの弟子なのだ。我々は,神がモーセに語られたことを知っている。だが,この男については,どこからの者か知らない」と言います。
その謙遜なこじきは驚きを表わし,「これはいかにも驚いたことです,あの人がどこからの者かをご存じないとは。わたしの目を開けた人ですのに」と答えます。こじきの目が見えるようになったことからどんな結論を導き出すべきですか。そのこじきはだれもが認めている前提となる事実を次のように指摘します。「神は罪人たちにはお聴きになりませんが,だれでも神を恐れてそのご意志を行なうなら,その者にはお聴きになることを,わたしたちは知っております。昔から,盲人として生まれた者の目を開けたというようなことは聞いたためしがありません」。したがって結論は明らかです。「神からの人でないなら,この人は全く何もできないはずです」。
パリサイ人たちは,このような簡潔で明快な論理に対して何も答えることができません。彼らは真理に太刀打ちできないので,「お前は全く罪のうちに生まれながら,我々を教えるというのか」と言ってののしり,その人を追い出します。その人は会堂から追放されたようです。
イエスはパリサイ人たちが行なった事柄を知ると,その人を見つけて,「あなたは人の子に信仰を持っていますか」と言われます。
「だんな様,それはどなたのことでしょうか。わたしがその方に信仰を持てますように」と,かつての盲人のこじきは答えます。
「あなたと話しているのがその者です」と,イエスは答えられます。
その人は直ちにイエスの前にひれ伏し,「わたしはほんとうにその方に信仰を持っています,主よ」と言います。
それでイエスは,「この裁きのためにわたしはこの世に来ました。すなわち,見えない者が見えるようになり,見える者が盲目になるためです」と説明されます。
すると,それを聴いていたパリサイ人たちは,「わたしたちも盲目であるというわけではないでしょうね」と尋ねます。もし彼らが精神的に盲目であることを認めるなら,イエスに敵対していることには弁解の余地があったでしょう。「あなた方が盲目であったなら,あなた方には罪がなかったでしょう」と,イエスは言われます。しかし,彼らは心をかたくなにして,自分たちは盲目ではなく,霊的な啓発など必要ないと主張します。それでイエスは,「あなた方は今,『わたしたちは見える』と言います。あなた方の罪は残るのです」と言われます。 ヨハネ 9:19-41。
■ かつて目が見えなかったこじきの親たちが,パリサイ人たちの前に呼ばれておびえていたのはなぜですか。それゆえ彼らはどのように用心深く答えますか。
■ パリサイ人たちは,かつての盲人をどのようにおじけづかせようとしますか。
■ パリサイ人たちは,その人のどういうもっともな論議に激怒しますか。
■ イエスに敵対するパリサイ人たちに弁解の余地がないのはなぜですか。
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イエスは70人を遣わすこれまでに生存した最も偉大な人
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72章
イエスは70人を遣わす
西暦32年の秋になりました。イエスがバプテスマを受けられてから,まる3年たちました。イエスとその弟子たちは最近エルサレムの幕屋の祭りに出席したので,まだエルサレムの近くにいるようです。事実イエスは,残る6か月の宣教期間の大半を,ユダヤか,ヨルダン川のすぐ向こう側のペレア地区で過ごされます。その地域も網羅する必要があります。
西暦30年の過ぎ越しの後,イエスが8か月ほどユダヤで宣べ伝えられたのは事実です。しかし,ユダヤ人たちが西暦31年の過ぎ越しの時にユダヤでイエスを殺害しようとしてからは,イエスは続く1年半を,ほとんどガリラヤだけで教えることに費やされました。その期間にイエスは,よく訓練された伝道者から成る大きな組織をつくられました。それは以前には持っておられないものでした。それで今やイエスは,ユダヤにおける最後の集中的な証言運動に着手されます。
イエスは,70人の弟子を選び,彼らを二人ずつ遣わして,この運動を開始されます。したがって,区域を回るのは合計35組の王国伝道者です。彼らは,イエスが行こうとしておられる都市と場所をすべて前もって訪問します。イエスは使徒たちを伴っておられたようです。
イエスは70人に,会堂へ行くようにとは指示されません。むしろ,個人の家に入るように告げ,「どこでも家の中に入ったなら,まず,『この家に平和がありますように』と言いなさい。そして,平和の友がそこにいるなら,あなた方の平和はその人の上にとどまるでしょう」と説明されます。彼らはどんな音信を告げることになっていますか。「『神の王国はあなた方の近くに来ました』と告げて行きなさい」とイエスは言われます。「マシュー・ヘンリーの注解」は70人の活動について,「彼らは自分たちの主人と同様,どこを訪れようと,家から家に伝道した」と伝えています。
70人に対するイエスの指示は,イエスが1年ほど前に12人をガリラヤでの伝道運動に遣わす際,彼らにお与えになった指示と似ています。イエスは70人に,彼らが直面するであろう反対について警告して,家の人に音信を伝える備えをさせただけでなく,病人をいやす力もお与えになります。したがって,イエスがしばらく後に到着される時には,多くの人が,そうした驚くべき事柄が行なえる弟子たちを持つ主人にぜひとも会ってみたいと思うことでしょう。
70人による宣べ伝える業と,それに続くイエスの業は,比較的短期間に終わります。35組の王国伝道者たちは,程なくしてイエスのところに戻り始めます。彼らは,「主よ,あなたの名を使うと,悪霊たちまでがわたしたちに服するのです」と,うれしそうに言います。イエスはそのような優れた奉仕の報告を聞いて,感動されたに違いありません。そのことはイエスが,「わたしには,サタンがすでに稲妻のように天から落ちたのが見えるようになりました。ご覧なさい,わたしはあなた方に,蛇やさそりを踏みつけ……る権威を与えました」とお答えになったことから分かります。
イエスは,終わりの時に神の王国が誕生し,その後にサタンとその悪霊たちが天から放逐されるということをご存じです。しかし今,ただの人間が,目に見えない悪霊たちをそのように追い出したということは,来たるべきその出来事に対する確信をさらに強めるものとなります。ですからイエスは,将来サタンが天から落とされることを絶対に確実な事柄として述べておられるのです。したがって,蛇やさそりを踏みつける権威が70人に与えられたというのは,象徴的な意味においてです。それでもイエスは,「このこと,つまり霊たちがあなた方に服していることを歓ぶのではなく,むしろ,あなた方の名が天に記されたことを歓びなさい」と言われます。
イエスは喜びにあふれ,これらご自分の謙遜な僕たちをそうした強力な仕方で用いてくださったみ父を公に賛美されます。そして弟子たちのほうを向き,「あなた方が見ているものを見る目は幸いです。あなた方に言いますが,多くの預言者や王たちは,あなた方が見ているものを見たいと願いながらそれを見ず,あなた方が聞いている事柄を聞きたいと願いながらそれを聞かなかったのです」と言われます。 ルカ 10:1-24。マタイ 10:1-42。啓示 12:7-12。
■ イエスは宣教を開始されてから最初の3年間,どこで伝道されましたか。また,最後の6か月間にどの地域を網羅されますか。
■ イエスは人々に会うため,どこへ行くよう70人に指示されますか。
■ サタンがすでに天から落ちたのを見た,とイエスが言われたのはなぜですか。
■ 70人はどのような意味で蛇やさそりを踏みつけることができますか。
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親切なサマリア人これまでに生存した最も偉大な人
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73章
親切なサマリア人
イエスは,エルサレムから3㌔ほど離れた村ベタニヤの近くにおられるようです。モーセの律法に通じたある人が質問をもってイエスに近づき,「師よ,何をすれば,わたしは永遠の命を受け継げるでしょうか」と尋ねます。
イエスはその人,つまり律法学者が単に情報を求めて質問しているのではなく,むしろ自分を試そうとしていることを見抜いておられます。その律法学者の目的は,イエスにユダヤ人の感情を傷つける答えをさせることかもしれません。そこでイエスは,その律法学者に自分の意見を述べさせるようにし,「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読みますか」とお尋ねになります。
律法学者はなかなか優れた洞察力を働かせてそれに答え,申命記 6章5節とレビ記 19章18節から神の律法を引用し,「『あなたは,心をこめ,魂をこめ,力をこめ,思いをこめてあなたの神エホバを愛さねばならない』,そして,『あなたの隣人を自分自身のように愛さねばならない』」と述べます。
「あなたは正しく答えました。『このことを行ないつづけなさい。そうすれば命を得ます』」と,イエスはお答えになります。
ところが,律法学者は満足しません。イエスの答えは自分にとってあまり明確ではないのです。律法学者は,自分自身の見方が正しく,したがって自分が他の人を扱う点で義にかなっているという確証をイエスから得たいのです。それで,「わたしの隣人とはいったいだれでしょうか」と尋ねます。
ユダヤ人は,「隣人」という言葉は仲間のユダヤ人にだけ適用されると考えています。レビ記 19章18節の文脈がそれを示しているように思えます。事実,後に使徒ペテロでさえ,「ユダヤ人にとって,別の人種の人と一緒になったり近づきになったりするのがいかに許されないことか,あなた方もよく知っておられます」と言いました。ですから,この律法学者は,自分たちから見れば,非ユダヤ人は実際には隣人ではないので,仲間のユダヤ人だけに親切にしていれば,義にかなった者になると考えています。恐らくイエスの弟子たちもそのように考えていたのでしょう。
イエスはどのようにして聴衆の感情を害さずに,彼らの見方を正すことができるでしょうか。イエスは一つの物語を話されますが,それは実際にあった出来事に基づいていたようです。「ある[ユダヤ人]がエルサレムからエリコに下って行く途中で,強盗たちに襲われました。彼らはその衣をはいだうえに殴打を加え,その人を半殺しにして去って行きました」と,イエスは説明されます。
そしてこう続けられます。「さて,たまたま,ある祭司がその道路を下って行くところでしたが,その人を見ると,反対側を通って行ってしまいました。同じように,ひとりのレビ人もまた,そこまで来て彼を見ると,反対側を通って行ってしまいました。ところが,その道路を旅行していたあるサマリア人がやって来ましたが,彼を見て哀れに思いました」。
多くの祭司や,神殿で祭司を補佐するレビ人たちは,エリコに住んでいます。そこまでの道のりは23㌔あります。彼らが奉仕するエルサレムの神殿から900㍍も下る危険な道です。祭司とレビ人は,苦しんでいる仲間のユダヤ人を助けてもよさそうですが,そうしようとはしません。むしろ,一人のサマリア人が助けます。ユダヤ人はサマリア人をとても憎んでいます。そのため,ユダヤ人たちは少し前に,イエスのことを「サマリア人」と呼び,非常に激しい言葉でイエスを侮辱しました。
サマリア人はそのユダヤ人を助けるために何をするでしょうか。イエスはこう言われます。「[彼は]その人に近づき,その傷に油とぶどう酒を注いで包帯をしてやりました。それから彼を自分の畜獣に乗せ,宿屋に連れて行って世話をしたのです。そして次の日,[約二日分の賃金に相当する]デナリ二つを取り出し,それを宿屋の主人に渡して,こう言いました。『この人の世話をしてください。そして,何でもこれ以外にかかるものがあれば,わたしがここに戻って来たときに返しますから』」。
イエスはこの物語を話された後,「これら三人のうちだれが,強盗に襲われた人に対して隣人になったと思いますか」と律法学者にお尋ねになります。
サマリア人にいかなる誉れを帰すことも快く思わないその律法学者は,ただ,「その人に対して憐れみ深く行動した者です」と答えます。
「行って,あなたも同じようにしてゆきなさい」と言って,イエスは話を結ばれます。
もしイエスがその律法学者に,非ユダヤ人も隣人であるとじかに告げておられたなら,その人はそれを認めないばかりか,恐らくほとんどの聴衆がイエスとの論議においてその人の肩を持ったことでしょう。しかし,実話に基づいたこの物語から,わたしたちの隣人には自分と同じ民族や国籍以外の人々も含まれることが,反論の余地のない仕方で明らかにされました。イエスはなんとすばらしい教え方をされるのでしょう。 ルカ 10:25-37。使徒 10:28。ヨハネ 4:9; 8:48。
■ 律法学者はイエスにどのような質問をしますか。その質問にはどんな目的があるように思われますか。
■ ユダヤ人たちは,自分たちの隣人はだれだと考えていましたか。弟子たちでさえそのような見方をしていると思われるどんな根拠がありますか。
■ イエスは,律法学者が反論できないよう,正しい見方をどのように教えられますか。
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マルタへの諭しと祈りに関する教えこれまでに生存した最も偉大な人
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74章
マルタへの諭しと祈りに関する教え
ユダヤにおける宣教期間中にイエスはベタニヤの村に入られます。そこはマルタとマリア,それに彼女たちの兄弟であるラザロが住んでいる村です。イエスは宣教の比較的早い時期にこの3人と会っていたので,彼らとすでに親しくなっておられたのかもしれません。いずれにせよ,今イエスはマルタの家を訪ね,マルタから歓迎されます。
マルタは,自分が持っている一番良い物でイエスをもてなそうと一生懸命です。実際,約束のメシアに自分の家を訪問してもらうというのは大きな誉れです。ですからマルタは,手の込んだ食事の準備に,またイエスの滞在が楽しく気持ちのよいものになるよう,他の多くの事柄にこまごまと心を砕いています。
一方,マルタの姉妹であるマリアは,イエスの足もとに座って,イエスの話を聴いています。しばらくすると,マルタがイエスに近づいて来て,「主よ,わたしの姉妹がわたしひとりに用事をさせておりますことを何とも思われないのですか。ですから,一緒になってわたしを助けるよう彼女におっしゃってください」と言います。
しかしイエスは,マリアに何も言おうとはされません。むしろ,物質的な事柄を心配しすぎる,とマルタを諭されます。「マルタ,マルタ,あなたは多くのことを思い煩って気を乱しています。ですが,必要なのはわずかなもの,というより一つだけです」と優しくたしなめられます。イエスは,多くの時間をかけて大変なごちそうを作る必要はないと言っておられるのです。ほんの二,三品,あるいは1品だけで十分です。
マルタの意図は良いところにあります。彼女は客を手厚くもてなしたいと思っています。しかし,物質的なものを備えることに心を砕き,それに注意を集中しているので,神のみ子から個人的な教えを受ける機会を逃しています。それでイエスは結論として,「マリアは良いものを選んだのであり,それが彼女から取り去られることはありません」と言われます。
その後,別の時に,一人の弟子がイエスに,「主よ,ヨハネもその弟子たちに教えたように,わたしたちにも祈りの仕方を教えてください」とお願いします。この弟子は,1年半ほど前にイエスが山上の垂訓の中で模範的な祈りを教えた時,その場にいなかったのかもしれません。それで,イエスは同じことを教えられますが,今度はさらに,たゆまず祈り続ける必要性を強調する例えを話されます。
イエスはまずこう言われます。「あなた方のうち,友人がいて,真夜中にそのもとに行き,『友よ,パンを三つ貸してください。友人が旅の途中でちょうど今わたしのところに来たのですが,出す物が何もないものですから』と言うのはだれでしょうか。そして,その人が中から答えてこう言うのです。『わたしを煩わすのはよしてくれ。戸にはもう錠が下ろしてあるし,幼子たちはわたしと一緒に寝床に入っているのだ。起きて行ってあなたに物を上げることなどできない』。あなた方に言いますが,その人は,自分が彼の友だということでは起きてきて物を与えないとしても,その大胆な執ようさのゆえには,必ずや起きてきてその必要とする物を与えるでしょう」。
イエスはこの比較によって,エホバ神が物語の中の“友人”のように,請願になかなか応じられないことを示そうとしておられるのではありません。むしろ,気の進まない“友人”も執ような求めには応じるのであれば,愛に富まれる天の父はなおのこと応じてくださるということを例えで示しておられるのです。それでイエスは言葉を続けてこう言われます。「それゆえにわたしはあなた方に言います。求めつづけなさい。そうすれば与えられます。探しつづけなさい。そうすれば見いだせます。たたきつづけなさい。そうすれば開かれます。だれでも求めている者は受け,探している者は見いだし,まただれでもたたいている者には開かれるのです」。
次にイエスは,不完全で罪深い人間の父親に言及されます。「実際,あなた方のうちどの父親が,自分の子が魚を求める場合に,魚のかわりに蛇を渡すようなことをするでしょうか。あるいはまた,卵を求める場合に,さそりを渡したりするでしょうか。それで,あなた方が,邪悪な者でありながら,自分の子供に良い贈り物を与えることを知っているのであれば,まして天の父は,ご自分に求めている者に聖霊を与えてくださるのです」。確かにイエスは,たゆまず祈り続けるための動機づけとなるすばらしい励ましをお与えになりました。 ルカ 10:38-11:13。
■ マルタはなぜイエスのためにそうした大がかりな準備をするのですか。
■ マリアは何をしていますか。イエスがマルタではなく,マリアのほうをほめられたのはなぜですか。
■ イエスが祈りについて再び教えることになるのはどうしてですか。
■ イエスはたゆまず祈り続ける必要性をどのように例えで示されますか。
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幸福の源これまでに生存した最も偉大な人
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75章
幸福の源
イエスはガリラヤでの宣教期間中に,数々の奇跡を行なわれましたが,今度はユダヤで同じことをされます。例えば,悪霊の仕業で口のきけなかった人から悪霊を追い出されます。群衆は驚嘆しますが,批判者たちは,ガリラヤの人々が唱えたのと同じような異議を唱えます。「彼は悪霊どもの支配者ベエルゼブブによって悪霊を追い出すのだ」と,彼らは主張します。ほかの者たちは,イエスが自分の身分に関してさらに有力な証拠を示すことを望み,天からのしるしを求めてイエスを誘惑しようとします。
イエスは彼らが考えている事柄を知って,ユダヤの批判者たちに対しても,ガリラヤの批判者たちに与えた答えと同様の答えをお与えになります。イエスは,内部で分裂している王国はすべて倒れるということを述べ,「それで,サタンも内部で分裂しているなら,その王国はどのようにして立ち行くでしょうか」とお尋ねになります。そして,「わたしが悪霊たちを追い出すのが神の指によるのであれば,神の王国はほんとうにあなた方に及んだのです」と述べて,批判者たちが危険な立場にあることを示されます。
イエスの奇跡を目撃する人たちは,それらの奇跡に対して,モーセが奇跡を行なうのを見た何世紀も前の人々と同じ反応を示すべきでした。それらの人々は,「これこそ神の指です!」と叫びました。十戒を石の書き板に刻んだのもやはり「神の指」でした。そして,イエスが悪霊を追い出したり,病人をいやしたりすることを可能にしているのも,神の聖霊,つまり神の活動力である「神の指」です。それで,王国の任命された王であるイエスはまさに批判者たちのただ中におられるので,神の王国は実際にそれらの批判者たちに及びました。
それからイエスは,ご自分が悪霊たちを追い出せるのはご自分がサタンを支配できる証拠であることを例えで示されます。それはちょうど,強い男がやって来て,しっかり武装して自分の宮殿を警護している人に打ち勝つのに似ています。イエスはまた,汚れた霊に関してガリラヤで語った例えを繰り返されます。その霊は人から出て行きますが,その人が空いた場所に良いものを満たさないと,その霊は他の七つの霊を連れて戻って来ます。こうして,その人の状態は最初より悪くなります。
これらの教えを聴いているとき,群衆の中にいた一人の女が心を動かされ,「あなたをはらんだ胎と,あなたが吸った乳房とは幸いです!」と叫びます。すべてのユダヤ人女性の願いは預言者,とりわけメシアの母親になることなので,その女がそう言ったのも理解できます。イエスの母親になったマリアは特に幸福である,と彼女は考えていたようです。
しかしイエスはすぐに,幸福の真の源に関してその女の誤りを正し,「いいえ,むしろ,神の言葉を聞いてそれを守っている人たちこそ幸いです!」とお答えになります。イエスは,ご自分の母マリアに特別な誉れを帰すべきであるということをほのめかしたりはされませんでした。むしろ,真の幸福は,どんな血縁関係や業績にあるのでもなく,神の忠実な僕であることにあるのだということを示されました。
イエスはまた,ガリラヤで行なったように,天からのしるしを求めるユダヤの人々をやはり叱責されます。イエスは彼らに,ヨナのしるし以外には何のしるしも与えられないでしょう,と言われます。ヨナは,魚の中に三日間いたこと,また大胆に宣べ伝えた結果,ニネベの人々が悔い改めるよう動かされたという二つの点でしるしとなりました。「しかし,見よ,ヨナ以上のものがここにいるのです」とイエスは言われます。また,シェバの女王はソロモンの知恵に驚嘆しました。しかし,「見よ,ソロモン以上のものがここにいるのです」ともイエスは言われます。
人はともしびをともすと,それを穴ぐらの中やかごの下ではなく,燭台の上に置いて,人々にその光が見えるようにします,とイエスは説明されます。イエスは,聴衆の中のそれらかたくなな人々の前で教えたり奇跡を行なったりするのはともしびの光を隠すようなものであるという意味で言われたのかもしれません。そのような観察者たちの目は純一であるわけでも,焦点が合っているわけでもないので,イエスの奇跡の所期の目的は達成されません。
イエスはちょうど悪霊を追い出され,口のきけない人が話せるようになったところでした。したがって,純一な,つまり焦点の合った目を持つ人々は,この輝かしい偉業をたたえ,良いたよりを宣明するよう動かされるはずでした。ところが,それらの批判者たちには,そうしたことは起こりません。それでイエスは終わりにこう言われます。「それゆえ,用心していなさい。もしかすると,あなたのうちにある光は闇であるかもしれません。それゆえ,あなたのからだ全体が明るく,暗いところが少しもなければ,それは,ともしびがその光線であなたを照らす場合のように,全部が明るいでしょう」。 ルカ 11:14-36。出エジプト記 8:18,19; 31:18。マタイ 12:22,28。
■ イエスが男をいやされると,どんな反応がありますか。
■ 神の指とは何ですか。また,神の王国は,イエスの話を聴いていた人々にどのように及んでいましたか。
■ 真の幸福の源は何ですか。
■ 人はどうすれば純一な目を持つことができますか。
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あるパリサイ人との食事これまでに生存した最も偉大な人
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76章
あるパリサイ人との食事
イエスが口のきけない人をいやした力の源を問題にする批判者たちの質問にお答えになった後,あるパリサイ人がイエスを正さんに招きます。パリサイ人は食事をする前に,手をひじまで洗う儀式を行ないます。彼らはそれを食事の前後だけでなく,食事中も行なうのです。その伝統は,書き記された神の律法に反してはいませんが,神が儀式的な清さに関して求めておられる事柄を越えています。
イエスがその伝統に従わないのを見て,イエスを招いたパリサイ人は驚きます。その驚きは言葉には表わされなかったかもしれませんが,イエスはそれに気づき,「では,あなた方パリサイ人たち,あなた方は杯や皿の外側は清めますが,あなた方の内側は強奪と邪悪でいっぱいです。道理をわきまえない人たち! 外側を作った者は内側も作ったのではありませんか」と言われます。
こうしてイエスは,儀式として手を洗うとはいえ,心を邪悪な事柄から洗い清めることのできないパリサイ人たちの偽善を暴露し,このようにお諭しになります。「憐れみの施しとして,内側にあるものを与えなさい。そうすれば,見よ,あなた方に関してほかのすべてのものは清くなるのです」。彼らは愛の心に動かされて与えるべきで,自分たちの見せかけの義を他の人たちに印象づけるために与えるべきではありません。
「あなた方パリサイ人は災いです!」イエスは言葉を続けられます。「あなた方は,はっかとヘンルーダそして他のあらゆる野菜の十分の一を納めますが,公正と神への愛を見過ごしているからです。これらこそあなた方は行なう務めがありました。もっとも,それら他のことも怠るべきではありません」。イスラエルに対する神の律法では,畑の産物の什一,つまり十分の一を払うことが求められています。はっかとヘンルーダは,食物の香りをよくするために使われる小さな植物もしくは薬草のことです。パリサイ人は取るに足りないこれらの薬草の十分の一までも注意深く払っていますが,イエスは,愛を示し,親切を行ない,慎み深くあることを求める,より重要な要求を無視していることで彼らを非難されます。
イエスはさらに彼らを非難し,「あなた方パリサイ人は災いです! あなた方は,会堂の正面の座席と市の立つ広場でのあいさつを愛するからです。あなた方は災いです! あなた方は,はっきり見えないので人がその上を歩いても気づかない記念の墓のようだからです」と言われます。彼らの汚れははっきり見えません。パリサイ人の宗教は見かけだけで,内側には何の価値もありません。その宗教は偽善に基づいているのです。
こうした非難を聴いて,神の律法に通じた人たちの中のある律法学者が,「師よ,そのように言われるのはわたしたちに対する侮辱です」と不平を言います。
イエスはそれら律法の専門家たちにも責任があると考え,「律法に通じたあなた方も災いです! あなた方は,背負いにくい荷を人に負わせますが,自分ではその荷に指一本触れないからです。あなた方は災いです! あなた方は預言者たちの記念の墓を建てますが,その預言者たちを殺したのはあなた方の父祖たちだからです」と言われます。
イエスが言及しておられる荷とは口頭伝承のことです。しかしそれらの律法学者は,人々が荷を負いやすいよう,小さな規則一つ取り除こうとはしません。イエスは,彼らが預言者たちの殺害をさえ承認することを明らかにし,こう警告されます。「『世の基が置かれて以来流されたすべての預言者の血がこの世代に対して要求されるのである。アベルの血から,祭壇と家との間で殺されたゼカリヤの血に至るまでが』。そうです,あなた方に言いますが,それはこの世代に対して要求されるのです」。
請け戻し得る人類の世が始まったのは,アダムとエバに子供たちが生まれた時です。したがって,アベルは『世の基が置かれた』時に生きていました。ゼカリヤが殺害されるというひどいことがあったあと,シリアの軍隊はユダを略奪しましたが,イエスはご自分の世代が,その一層の邪悪さゆえに,より大きな略奪に遭うことを予告されます。この略奪は38年ほど後の西暦70年に生じます。
イエスは続けて非難し,「律法に通じたあなた方は災いです! あなた方は知識のかぎを取り去ったからです。あなた方自身が入らず,また,入ろうとする者たちをも妨げたのです」と言われます。律法の専門家たちには,人々に神の言葉を説明し,その意味を解き明かす務めがありますが,彼らはそうしていないばかりか,理解する機会を人々から取り去っています。
パリサイ人と律法の専門家は,自分たちの実態を暴かれたことでイエスに対して激怒し,イエスが家を出られると,イエスに激しく反対して質問を浴びせ始めます。彼らはイエスをわなにかけて,イエスを捕らえる理由になる何かを言わせようとしているのです。 ルカ 11:37-54。申命記 14:22。ミカ 6:8。歴代第二 24:20-25。
■ イエスがパリサイ人と律法の専門家たちを非難されるのはなぜですか。
■ 律法学者たちは人々にどんな荷を負わせていますか。
■ 『世の基が置かれた』のはいつですか。
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相続財産に関する質問これまでに生存した最も偉大な人
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77章
相続財産に関する質問
人々は,イエスがパリサイ人の家で食事をしておられたのを知っているようです。それで,おびただしい数の人々が家の外に群がり,イエスが出て来られるのを待っています。パリサイ人たちはイエスに反対し,イエスが言われることに何か間違いを見つけようとしますが,人々は彼らとは違い,イエスの話を味わいながら熱心に耳を傾けます。
イエスはまずご自分の弟子たちに対して,「パリサイ人たちのパン種に気を付けなさい。それはつまり偽善のことです」と言われます。食事の際に示されたように,パリサイ人の宗教体制は全体が偽善に満ちています。しかし,たとえパリサイ人の邪悪さが見せかけの敬虔によって隠されていても,それはやがて明らかになります。「注意深く秘められているもので表わし示されないものはなく,知られないで終わる秘密はありません」と,イエスは言われます。
イエスはさらに,ガリラヤでの伝道旅行に12人を遣わす際に彼らに与えた励ましを繰り返し,「体を殺しても,その後もう何もできない者たちを恐れてはなりません」と言われます。神は1羽のすずめといえども忘れたりはされないので,あなた方をお忘れになることは絶対にない,とイエスは追随者たちに言われます。そして,「人々があなた方を,公の集会や政府の役人また権威者たちの前に連れて行くとき……聖霊が,言うべきことをその時あなた方に教える」でしょうと語られます。
群衆の中から一人の人が声を上げ,「師よ,わたしの兄弟に,相続財産をわたしと分けるように言ってください」と請願します。モーセの律法は長子が2倍の相続財産を受けることを規定しているので,議論の余地はないはずですが,その人は相続財産に関して律法が定める分よりも多くの分を望んでいるようです。
イエスがその問題に手を出そうとされなかったのは当然のことです。「人よ,だれがわたしを,あなた方の裁き人また分配人に任命したのですか」とイエスは言われます。それから群衆に対し,非常に大切な次の訓戒をお与えになります。「じっと見張っていて,あらゆる強欲に警戒しなさい。満ちあふれるほどに豊かであっても,人の命はその所有している物からは生じないからです」。確かに,人はどんなに多くの物を持つようになっても,死んですべてを後に残すのが普通です。イエスはこの事実を強調し,神のみ前に良い評判を築こうとしないことの愚かさを示すため,一つの例えを用い,次のように説明されます。
「ある富んだ人の土地が豊かに産出しました。そこで彼は自分の中で論じはじめて言いました,『どうしようか。作物を集める場所がないのだ』。それで言いました,『こうしよう。わたしの倉を取り壊して,もっと大きいのを建て,そこにわたしの穀物と良い物をみんな集めるのだ。そして自分の魂にこう言おう。「魂よ,お前にはたくさんの良い物が何年分もためてある。楽にして,食べて,飲んで,楽しめ」』。しかし神は彼に言われました,『道理をわきまえない者よ,今夜,あなたの魂は求められる。そうしたら,あなたの蓄えた物はだれのものになるのか』」。
イエスは結論として,「自分のために宝をためても,神に対して富んでいない者はこうなるのです」と言われます。弟子たちは,愚かにも富を築くというわなに捕らわれることはないかもしれませんが,日々の生活の思い煩いのため,エホバに魂を込めてお仕えすることから容易にそれていくかもしれません。それでイエスはこの機会を用いて,1年半ほど前に山上の垂訓の中で与えた優れた諭しを繰り返し与え,弟子たちのほうを向いてこう言われます。
「このような訳であなた方に言いますが,何を食べるのだろうかと自分の魂のことで,また何を着るのだろうかと自分の体のことで思い煩うのをやめなさい。……渡りがらすが種をまいたり刈り取ったりしないことによく注目しなさい。また,納屋も倉も持っていません。それでも神はこれを養っておられます。……ゆりがどのように育つかによく注目しなさい。労しも,紡ぎもしません。しかしあなた方に言いますが,栄光を極めたソロモンでさえ,これらの一つほどにも装ってはいませんでした。
「それで,自分は何を食べるのだろうか,何を飲むのだろうかと尋ね求めるのをやめ,心配して気をもむのをやめなさい。これらはみな,世の諸国民がしきりに追い求めているものですが,あなた方の父は,あなた方がこれらのものを必要としていることを知っておられるのです。それでやはり,絶えず神の王国を求めてゆきなさい。そうすれば,これらのものはあなた方に加えられるのです」。
とりわけ経済的に苦しい時,イエスの言葉は確かに細心の考慮に値します。物質の必要について過度に思い煩い,霊的なものの追求を怠るようになる人は,実際には,ご自分の僕に必要な物を備えてくださる神の能力を信じていないことを示しているのです。 ルカ 12:1-31。申命記 21:17。
■ ある人が相続財産について尋ねる理由はどこにあるようですか。イエスはどんな訓戒をお与えになりますか。
■ イエスはどんな例えを用いられますか。その要点は何ですか。
■ イエスはどんな諭しを繰り返されますか。それはどうして適切な諭しですか。
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用意をしていなさい!これまでに生存した最も偉大な人
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78章
用意をしていなさい!
イエスは,貪欲に警戒するよう群衆に語り,物質上の事柄に必要以上に注意を払うことがないよう弟子たちに警告した後,「恐れることはありません,小さな群れよ。あなた方の父は,あなた方に王国を与えることをよしとされたからです」と言って彼らを励まされます。こうしてイエスは,天の王国に入るのが比較的少数の人々(後に14万4,000人であることが分かる)だけであることを明らかにされます。とこしえの命を受け継ぐ人々の大半は王国の地的臣民になります。
「王国」はなんとすばらしい贈り物でしょう。イエスは「王国」を受けることに対して弟子たちが示すべきふさわしい反応について述べ,「自分の持ち物を売って,憐れみの施しをしなさい」と彼らにお命じになります。そうです,弟子たちは他の人の霊的な益のために自分たちの資産を用いて,「決して尽きることのない宝を天に」築くべきなのです。
イエスは次に,ご自分の帰りを迎える用意をしているよう弟子たちを諭し,こう言われます。「あなた方の腰に帯を締め,ともしびをたいていなさい。こうしてあなた方は,自分たちの主人が婚礼から帰って来るのを待ち,主人が到着して戸をたたいたらすぐに開けられるようにしている人たちのようでありなさい。主人が到着したときに,見張っているところを見られるそれらの奴隷は幸いです! あなた方に真実に言いますが,主人は帯を締め,彼らを食卓の前に横にならせ,そばに来て奉仕してくれるでしょう」。
この例えの中で,主人の帰りを迎える僕たちの用意ができているということは,僕たちが長い衣をまくり上げて帯の下にしっかりはさんでいることや,油がよく補給されたともしびの明かりの中で,夜遅くまで自分たちの務めに従事することに示されています。イエスは,『主人が第二見張り時[晩の9時から真夜中ごろまで]に,あるいはたとえ第三見張り時[真夜中から午前3時ごろまで]に到着したとしても,用意しているところを見られるなら,彼らは幸いです!』と説明されます。
主人は僕たちに変わった仕方で報います。彼らを食卓の前に横にならせ,彼らに仕え始めるのです。主人は彼らを奴隷としてではなく,忠節な友として扱います。主人の帰りを待っている間,夜を徹して主人のために働き続けたことに対する何とすばらしい報いなのでしょう。イエスは結論として,「あなた方も用意をしていなさい。あなた方の思わぬ時刻に人の子は来るからです」と言われます。
そこでペテロが,「主よ,この例えはわたしたちに話しておられるのですか,それとも,みんなにもですか」と尋ねます。
イエスは直接には答えずに,別の例えを話されます。「主人が,時に応じてその定めの食糧を与えさせるため,自分の従者団の上に任命する忠実な家令,思慮深い者はいったいだれでしょうか」と,イエスは問いかけてから,こう続けられます。「主人が到着して,そうしているところを見るならば,その奴隷は幸いです! 真実をこめてあなた方に言いますが,主人は彼を任命して自分のすべての持ち物をつかさどらせるでしょう」。
「主人」とは言うまでもなく,イエス・キリストのことです。「家令」は集合体としての弟子たちの「小さな群れ」を表わしています。「従者団」は,天の王国を受け継ぐ14万4,000人の人々から成るその同じグループのことを指していますが,この表現は個人としての彼らの働きを強調しています。忠実な家令にゆだねられる「持ち物」とは,地上における,主人の王としての関心事のことですが,その中には王国の地上の臣民も含まれています。
イエスは例えを話し続け,その家令,つまり奴隷級の成員がみな忠節であるとは限らないことを指摘して,このように説明されます。「もしもその奴隷が,心の中で,『わたしの主人は来るのが遅い』と言って,下男や下女たちをたたき,食べたり飲んだり酔ったりし始めるならば,その奴隷の主人は,彼の予期していない日……に来て,最も厳しくこれを罰(す)るでしょう」。
イエスは,ご自分が来たためにユダヤ人に火のような時が臨んだことを指摘されます。ユダヤ人の中にはイエスの教えを受け入れる者もいれば,退ける者もいるのです。イエスは3年余り前に水のバプテスマを受けられましたが,今やイエスの死へのバプテスマは刻一刻と終わりに近づいています。「それが終わるまで,わたしはどんなにか苦しむことでしょう」と,イエスが言われるとおりです。
イエスは弟子たちにこれらの事柄を言い終えると,再び群衆に語りかけ,ご自分の身分を示すはっきりとした証拠やその意味を彼らがかたくなにも認めようとしないことを嘆いて,こう言われます。「雲が西の方にわき起こるのを見ると,あなた方はすぐに,『あらしが来るぞ』と言い,そのとおりになります。また,南風が吹いているのを見ると,あなた方は,『熱波があるぞ』と言い,そのようになります。偽善者たち,あなた方は地や空の様子の調べ方を知っているのに,この特別な時の調べ方を知らないのはどうしてですか」。 ルカ 12:32-59。
■ 「小さな群れ」は何人で構成されますか。彼らは何を受け継ぎますか。
■ イエスは,ご自分の僕たちが用意をしている必要性をどのように強調されますか。
■ イエスの例えの中の「主人」,「家令」,「従者団」とはそれぞれだれですか。また,「持ち物」とは何ですか。
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国民としては滅びてもすべての人が滅びるわけではないこれまでに生存した最も偉大な人
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79章
国民としては滅びてもすべての人が滅びるわけではない
イエスがパリサイ人の家の外に集まっていた人々と話をされたすぐ後,ある者たちが「ガリラヤ人たちのこと,つまり[ローマ総督ポンテオ・]ピラトがその人たちの血をその犠牲と混ぜたこと」についてイエスに話します。それらのガリラヤ人たちは,エルサレムに水を引く水道を建設するために神殿の宝物庫のお金を使ったピラトに幾千人ものユダヤ人が抗議した際に殺された人々かもしれません。この出来事をイエスに告げている人々は,ガリラヤ人たちは自らの邪悪な行ないのゆえに災いに遭ったと言っているのかもしれません。
しかしイエスは,彼らの誤りを正して,「そうした苦しみに遭ったのだからこれらのガリラヤ人はほかのすべてのガリラヤ人よりひどい罪人だったとでも思いますか」と問いかけ,「決してそうではありません」とお答えになります。そしてその出来事を機に,「あなた方が悔い改めないなら,みな同様に滅ぼされるのです」とユダヤ人たちに警告なさいます。
イエスはさらに,その地方にあった別の悲劇を思い起こされます。その出来事も水道の建設と関係があるのかもしれません。イエスはこうお尋ねになります。「また,シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人のことですが,これは彼らがエルサレムに住むほかのすべての人より負い目のある者だったしるしだとでも思いますか」。いいえ,それはたまたま死亡したそれらの人たちが悪かったからではありません,とイエスは言われます。むしろ,そうした悲劇は大抵,「時と予見しえない出来事」のせいです。ところがイエスは,その出来事を機に再び,「しかし,あなた方が悔い改めないなら,みな同じように滅ぼされるのです」と警告されます。
次いでイエスは,ふさわしい例えを述べて,こう説明されます。「ある人が,自分のぶどう園に植えた一本のいちじくの木を持っていました。それで,それに実があるかと見に来ましたが,一つも見つかりませんでした。そこでぶどうの栽培人に言いました,『わたしはこれで三年もこのいちじくの木に実があるかと見に来たが,まだ一つも見つからない。これを切り倒してしまいなさい! いったいなぜこのために土地を無駄にしていなければいけないのか』。栽培人は答えて言いました,『ご主人様,それを今年もそのままにしてやってください。いずれ周りを掘って肥やしをやりますから。それでこれから先,実を生み出すようでしたらよろしいですし,そうでなければ,切り倒してしまって結構です』」。
イエスは3年以上にわたりユダヤ国民に信仰を培わせようとしてこられましたが,イエスの労苦の実とみなせるのは,わずか数百人の弟子たちだけです。そこでイエスは宣教の4年目に,より一層の努力を払い,ユダヤとペレアで熱心に宣べ伝え,教えることによって,ユダヤ人といういちじくの木の周りを象徴的に掘って肥やしを与えておられるのです。しかし,それは徒労に終わります。ユダヤ国民は悔い改めようとはしないので,滅びに向かっています。こたえ応じるのはその国民の残りの者たちだけです。
それから程なくして,イエスは安息日に会堂で教えておられます。イエスはそこで,悪霊に苦しめられているため18年間も体が折れ曲がったままの女をご覧になります。哀れに思われたイエスは,その女に向かって,「女よ,あなたは,自分の虚弱さから解き放されています」と話しかけられます。そして,両手を女の上に置かれると,女はたちどころにまっすぐになり,神の栄光をたたえ始めます。
しかし,会堂の主宰役員は腹を立て,「仕事をすべき日は六日ある。だから,それらの日に来て治してもらうがよい。安息日にはいけないのだ」と抗議します。こうしてその役員は,人をいやすイエスの力は認めますが,安息日にいやしてもらいに来る人々を非難します。
「偽善者たち」と,イエスはお答えになります。「あなた方はそれぞれ安息日に自分の牛やろばを畜舎からほどき,水を飲ませに引いて行くのではありませんか。それなら,アブラハムの娘で,サタンが,見よ,十八年も縛っていたこの女が,安息日にこのかせから解かれるのは当然ではありませんでしたか」。
さて,イエスに反対していた人々は,これを聞いて恥ずかしく思うようになります。いっぽう群衆は,イエスが行なわれたすべての栄光ある事柄を見て歓びます。イエスはそれにこたえて,1年ほど前にガリラヤの海の舟の上から語った,神の王国に関する二つの預言的な例えをもう一度話されます。 ルカ 13:1-21。伝道の書 9:11。マタイ 13:31-33。
■ ここではどんな悲劇について述べられていますか。イエスはそこからどんな教訓を引き出されますか。
■ 実を生み出さないいちじくの木と,その木に実を生み出させる試みは,どんな事柄に当てはめることができますか。
■ 主宰役員は人をいやすイエスの能力をどのように認めますか。しかし,イエスはその人の偽善をどのように暴露されますか。
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羊の囲いと羊飼いこれまでに生存した最も偉大な人
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80章
羊の囲いと羊飼い
イエスは,神殿がエホバに再び献納されたことを祝う献納の祭り,つまりハヌッカを祝うために,エルサレムに来られました。約200年前の西暦前168年に,アンティオコス4世エピファネスはエルサレムを占領して,神殿とその祭壇を汚しました。しかし3年後に,エルサレムは奪回され,神殿は再び献納されました。それ以降,再献納の祝いが毎年行なわれてきました。
この献納の祭りは,現代の暦の11月後半から12月前半に相当するユダヤ月,キスレウの25日に行なわれます。ですから,西暦33年のきわめて重要な過ぎ越しまで,100日と少ししか残っていません。祭りの時期は寒い季節なので,使徒ヨハネはこの時期を「冬期」と呼んでいます。
さてイエスは一つの例えを用い,三つの羊の囲いと,りっぱな羊飼いとしてのご自分の役割に言及されます。イエスが話される最初の羊の囲いは,モーセの律法契約の取り決めであることが分かります。律法は,神とのこの特別な契約に入っていない人々の腐敗した習わしからユダヤ人を隔てる囲いとしての役割を果たしました。イエスはこう説明されます。「きわめて真実にあなた方に言いますが,羊の囲いに戸口を通って入らず,どこかほかの場所からよじ登る者,その者は盗人であり,強奪者です。しかし,戸口を通って入る者は羊の羊飼いです」。
やって来て,自分はメシア,つまりキリストであると称えた人々もいましたが,彼らは真の羊飼いではありませんでした。イエスは真の羊飼いについてさらにこう言われます。「戸口番はこの者に対して戸を開け,羊はその声を聴き,彼は自分の羊の名を呼んで導き出します。……羊は……よその者には決して付いて行かず,むしろその者からは逃げるのです。よその者たちの声を知らないからです」。
最初の羊の囲いの「戸口番」はバプテスマを施す人ヨハネでした。ヨハネは戸口番として,イエスが牧場に導き出すことになるそれら象徴的な羊たちに,イエスがだれであるかを明らかにすることにより,イエスに対して「戸を開け」ます。イエスが名を呼んで導き出すそれらの羊は,イエスが,「きわめて真実にあなた方に言いますが,わたしは羊の戸口[すなわち,新しい羊の囲いの戸口]です」と説明しておられるように,ついには別の羊の囲いに入れられます。イエスが弟子たちとの新しい契約を制定し,その後のペンテコステの時に彼らの上に天から聖霊を注がれると,弟子たちはこの新しい羊の囲いに入ることを許されます。
イエスはご自分の役割をさらに説明してこう言われます。「わたしは戸口です。だれでもわたしを通って入る者は救われ,その人は出入りして,牧草地を見つけるのです。……わたしは,彼らが命を得,しかも満ちあふれるほど豊かに得るために来ました。……わたしはりっぱな羊飼いであり,自分の羊を知り,わたしの羊もわたしを知っています。ちょうど父がわたしを知っておられ,わたしが父を知っているのと同じです。そしてわたしは羊のために自分の魂をなげうちます」。
イエスはその少し前に,「恐れることはありません,小さな群れよ。あなた方の父は,あなた方に王国を与えることをよしとされたからです」と述べて,ご自分の追随者たちを慰められました。ついには14万4,000人という数になるこの小さな群れは,この新しい2番目の羊の囲いの中に入ります。しかし,イエスはさらにこう言われます。「わたしにはほかの羊がいますが,それらはこの囲いのものではありません。それらもわたしは連れて来なければならず,彼らはわたしの声を聴き,一つの群れ,一人の羊飼いとなります」。
「ほかの羊」は『この囲いのものではない』ので,彼らは別の囲い,つまり3番目の囲いのものに違いありません。これらあとの二つの囲い,つまり羊のおりの定めは異なっています。一つの囲いの中の「小さな群れ」は天でキリストと共に支配し,もう一つの囲いの中の「ほかの羊」は楽園となった地上で暮らします。しかし,二つの囲いの中にいても,彼らがねたんだり,差別を感じたりすることはありません。イエスが言われるように,羊は「一人の羊飼い」のもとで『一つの群れとなる』からです。
りっぱな羊飼いであるイエス・キリストは,両方の囲いの羊のために進んでご自分の命をお与えになります。「わたしはそれを自分からなげうつのです。わたしはそれをなげうつ権限があり,またそれを再び受ける権限があります。このことに関するおきてをわたしは自分の父から受けました」と,イエスは言われます。イエスがこう言われると,ユダヤ人の間に分裂が生じます。
群衆の中には,「彼は悪霊につかれ,気が狂っている。どうして彼の言うことを聴くのか」と言う人が大勢いますが,「これは悪霊に取りつかれた人の言うことではない」と答える者もいます。それから彼らは,2か月前にイエスが生まれつき目の見えない人を治されたことを指しているのでしょう,「悪霊が盲人たちの目を開けることなどできないではないか」と言い添えます。 ヨハネ 10:1-22; 9:1-7。ルカ 12:32。啓示 14:1,3; 21:3,4。詩編 37:29。
■ 献納の祭りとは何ですか。それはいつ祝われますか。
■ 最初の羊の囲いは何ですか。その戸口番はだれですか。
■ その戸口番は羊飼いに対してどのように戸を開けますか。その後,羊はどこに入ることを許されますか。
■ りっぱな羊飼いの二つの囲いを構成しているのはだれですか。彼らは幾つの群れになりますか。
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イエスはまたもや殺されそうになるこれまでに生存した最も偉大な人
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81章
イエスはまたもや殺されそうになる
冬期なので,イエスはソロモンの柱廊として知られる屋根のある通路を歩いておられます。柱廊は神殿に沿っています。ユダヤ人たちはここでイエスを取り巻き,「いつまであなたは,わたしたちの魂をどっちつかずにしておくのですか。あなたがキリストなら,わたしたちにはっきり言ってください」と言い始めます。
「わたしはあなた方に言いましたが,あなた方は信じません」と,イエスは答えられます。イエスは彼らに対して,井戸のところでサマリアの女に話された時のように,自分はキリストであると直接に言われたことはありませんでしたが,ご自分が上の領域からの者であり,アブラハムの前から存在していたということを説明して,ご自分がだれであるかを事実上明らかにしておられました。
しかしイエスは,ご自分の活動と,聖書が予告していたキリストの成し遂げる事柄とを比較して,ご自分がキリストであるという結論に,人々が自分で到達することを望んでおられるのです。イエスが以前弟子たちに,ご自分がキリストであることをだれにも告げないようお命じになったのはそのためでした。今も同じ理由で,敵意を示すそれらのユダヤ人に対し,「わたしが自分の父の名において行なっている業,これがわたしについて証しします。しかしあなた方は信じません」と言われます。
どうして彼らは信じないのでしょうか。イエスがキリストであることを示す証拠が欠けているためですか。そうではありません。それはイエスが次に述べられたような理由によります。「[あなた方は]わたしの羊ではないからです。わたしの羊はわたしの声を聴き,わたしは彼らを知っており,彼らはわたしに付いて来ます。そしてわたしは彼らに永遠の命を与え,彼らはいつまでも決して滅ぼされることがなく,だれも彼らをわたしの手から奪い取る者はいません。父がわたしに与えてくださったのは,ほかのすべてのものより偉大なものであり,だれもそれを父の手から奪い取ることはできません」。
次にイエスは,ご自分とみ父との親しい関係を描写して,「わたしと父とは一つです」と説明されます。イエスは地上におられ,み父は天におられるので,明らかにイエスは,ご自分とみ父とが文字通りに,つまり物理的に一つであると言っておられるのではありません。むしろ,お二人が目的において一つである,お二人は一致しているという意味でそう言っておられるのです。
イエスの言葉に腹を立てたユダヤ人たちは,以前の幕屋の祭り,つまり仮小屋の祭りの時の場合と同じように,石を拾い上げてイエスを殺害しようとします。イエスは,ご自分を殺そうとしている者たちに敢然と立ち向かい,「わたしは,父からのりっぱな業をあなた方に数多く見せました。そのうちどの業のために,あなた方はわたしを石打ちにするのですか」と言われます。
「りっぱな業のためではなく,冒とくのために,つまり,あなたが人間でありながら自分を神とするからこそ,わたしたちは石打ちにするのだ」と,彼らは答えます。イエスはご自分が神であるなどと一度も主張されたことがないのに,どうしてユダヤ人たちはそのように言うのでしょうか。
それは,ユダヤ人が神だけにしかないと考えている力をイエスが自分にもあるとされているためと思われます。例えば,イエスは「羊」に関して,「わたしは彼らに永遠の命を与え(ます)」と言われたばかりですが,それはいかなる人間もなし得ない事柄です。ところがユダヤ人は,イエスがみ父から権威を受けていることを認めておられる点を見逃しています。
それからイエスは次のように尋ねて,自分は神より下であると言っていることをお示しになります。「あなた方の律法[詩編 82編6節]の中に,『わたしは言った,「あなた方は神だ」』と書いてあるではありませんか。神のとがめの言葉が臨んだ者たちを『神』と呼(んだのに)あなた方は,父が神聖なものとして世に派遣されたわたしが,自分は神の子だと言ったからといって,『神を冒とくしている』とわたしに言うのですか」。
聖書が人間の不公平な裁き人をさえ「神」と呼んでいる以上,「自分は神の子だ」と言っているイエスに,それらのユダヤ人はどんなとがを見つけることができるでしょうか。イエスはさらにこう言われます。「もしわたしが父の業を行なっていないのであれば,わたしを信じてはなりません。しかしそれを行なっているのであれば,たとえわたしを信じないとしても,その業を信じなさい。それは,父がわたしと結びついておられ,わたしが父と結びついていることを,あなた方が知るようになり,常に知っているためです」。
イエスがこう言われると,ユダヤ人たちはイエスを捕らえようとします。しかしイエスは,先の幕屋の祭りの時と同じようにその場を逃れ,エルサレムから出てヨルダン川を渡り,4年近く前にヨハネがバプテスマを施す業を開始した所に行かれます。そこはガリラヤの海の南岸から遠くない場所で,エルサレムからは二日ほどの道のりのようです。
そこでも大勢の人がイエスのもとに来て,「確かに,ヨハネはただ一つのしるしも行なわなかったが,ヨハネがこの人について言ったことはみな真実だった」と言うようになります。こうして,多くの者がここでイエスに信仰を持ちます。 ヨハネ 10:22-42; 4:26; 8:23,58。マタイ 16:20。
■ イエスは,ご自分がキリストであることを人々がどのように見分けることを望んでおられますか。
■ イエスとみ父とはどのように一つですか。
■ イエスが自分を神にしているとユダヤ人たちが言うのはどこに理由があるようですか。
■ イエスが詩編を引用されたことは,イエスが神と等しい者であるとは主張しておられないことをどのように示していますか。
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イエスは再びエルサレムに向かうこれまでに生存した最も偉大な人
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82章
イエスは再びエルサレムに向かう
ほどなくしてイエスはまた旅路につかれ,都市から都市,また村から村を訪ねて教えておられます。いまイエスは,ヨルダン川を隔ててユダヤの向かい側にあるペレア地区におられるようですが,目的地はエルサレムです。
救いに値するのは限られた数の人々だけであるというユダヤ人の哲学のせいかもしれませんが,ある人が「主よ,救われつつある者は少ないのですか」と尋ねます。イエスは,「狭い戸口を通って入るため,精力的に励みなさい[すなわち,努力しなさい,もしくは奮闘しなさい]」と答えて,救われるためには何が必要かを人々に考えさせるようにされます。
そうした精力的な努力は急を要します。なぜなら,イエスが続けて言われるように,「入ろうと努めながら入れない者が多いからです」。彼らが入れないのはなぜですか。イエスはこう説明されます。『ひとたび家あるじが起き上がって戸に錠を下ろしてしまうと,人々が外に立って戸をたたき,「だんな様,開けてください」と言っても,彼は,「わたしはあなた方がどこの者か知らない。不義を働く者たちは皆,わたしから離れ去れ!」と言うでしょう』。
外に締め出される人々は,自分に都合のよい時にしかやって来ないようです。しかしそのころには,機会という戸は閉じられ,差し錠がかけられます。中に入るためには,たとえその時に都合が悪かったとしても,もっと早くから来ているべきでした。実際,エホバの崇拝を生活における第一の目標にしていない人には,悲しい結果が待ち受けています。
イエスはユダヤ人に仕えるよう遣わされていますが,そのユダヤ人の大部分は,救いのための神の備えを受け入れる優れた機会をとらえませんでした。それでイエスは,彼らが外に投げ出される時,彼らは泣き悲しんだり歯ぎしりしたりするでしょう,と言われます。一方,「東のほうや西のほうから,また北や南から」,そうです,あらゆる国から来る人々は,「神の王国で食卓について横になる」のです。
イエスは続けて言われます。「最後[虐げられているユダヤ人とさげすまれている非ユダヤ人]であったのに最初になる者がおり,また最初[物質的にまた宗教的に恵まれているユダヤ人]であったのに最後になる者がいるのです」。最後になるということは,そうした無精で,感謝を表わさない人々が神の王国に入ることは決してないという意味です。
ところが今,パリサイ人たちがイエスのもとにやって来て,「出て行ってここから去りなさい。ヘロデ[・アンテパス]があなたを殺そうとしているからです」と言います。このうわさは,自分の領地からイエスを逃げ去らせるため,ヘロデ自身が流したものかもしれません。ヘロデはバプテスマを施す人ヨハネの殺害にかかわりを持ったように,神の別の預言者の死にもかかわりを持つことになるのを恐れていたのかもしれません。しかし,イエスはパリサイ人たちにこう言われます。「行って,あのきつねに言いなさい,『見よ,わたしは今日と明日は悪霊たちを追い出し,いやしを成し遂げています。そして三日目には終わるでしょう』と」。
イエスはそこでの業を終えると,エルサレムへの旅をお続けになります。なぜなら,イエスが説明しておられるとおり,「預言者がエルサレムの外で滅ぼされることは許されない」からです。イエスがエルサレムで殺害されることが予想されるのはなぜでしょうか。なぜなら,エルサレムは,71人で構成されるサンヘドリンの高等法院の所在する首都であり,動物の犠牲がここでささげられるからです。それで,「神の子羊」がエルサレム以外の場所で殺されるのは許されないのです。
「エルサレム,エルサレム,預言者たちを殺し,自分に遣わされた人々を石打ちにする者よ ― めんどりが一かえりのひなをその翼の下に集めるように,わたしは幾たびあなたの子供たちを集めたいと思ったことでしょう。それなのに,あなた方はそれを望みませんでした。見よ,あなた方の家はあなた方のもとに見捨てられています」と,イエスは嘆き悲しまれます。この国民は神のみ子を退けたため,滅びに定められているのです。
エルサレムに向かって旅を続けておられた時,イエスはパリサイ人たちのある支配者の家に招かれます。その日は安息日です。人々はイエスをじっと見守っています。たぶん腕と足に水がたまっていると思われる,水腫にかかっている人がいるからです。イエスは,居合わせるパリサイ人や律法の専門家に向かって,「安息日に病気を治すことは許されていますか,いませんか」とお尋ねになります。
だれも一言も答えません。それでイエスは,その人をいやして去らせます。それからイエスは,「あなた方のうち,自分の息子や牛が井戸に落ち込んだ場合,安息日だからといってこれをすぐに引き上げない人がいるでしょうか」とお尋ねになります。やはりみな一言も答えません。 ルカ 13:22-14:6。ヨハネ 1:29。
■ イエスによれば,救われるためには何が必要ですか。外に締め出される者が多いのはなぜですか。
■ 「最後」であったのに最初になる者とはだれですか。また,「最初」であったのに最後になる者とはだれですか。
■ ヘロデがイエスを殺そうとしているということが言われた理由はどこにあるようですか。
■ 預言者がエルサレムの外で殺されることが許されないのはなぜですか。
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あるパリサイ人によるもてなしこれまでに生存した最も偉大な人
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83章
あるパリサイ人によるもてなし
イエスはまだ,ある著名なパリサイ人の家におられ,水腫を患っていた男の人をいやしたところです。イエスは,招かれて来ていた人たちが食事のときに目立つ場所を選ぼうとする様子をご覧になって,謙遜さに関する一つの教訓をお与えになります。
イエスはこのように説明されます。「だれかから婚宴に招かれたなら,最も目立つ場所に横たわってはなりません。もしかすると,だれかあなたより主立った人がそのとき招かれているかもしれず,その場合,あなたやその人を招いた人が来て,『この人にその場所を譲ってください』と言うでしょう。そうすると,あなたは恥ずかしい思いをしながら,そこを立って最も低い場所に着くことになるのです」。
それでイエスはこう忠告なさいます。「あなたが招かれたときには,行って,最も低い場所で横になり,あなたを招いた人が来て,『友よ,もっと高いほうへ進んでください』と言うようにしなさい。そうするとあなたは,一緒にいるすべての客の前で誉れを受けることになるのです」。結論としてイエスはこう言われます。「だれでも自分を高める者は低くされ,自分を低くする者は高められるのです」。
次にイエスは,自分を招いたパリサイ人に向かって,神の目に真に価値ある正さんの設け方を述べられます。「あなたが正さんや晩さんを設けるときには,友人や兄弟,また親族や富んだ隣人などを呼んではなりません。恐らく彼らはいつかあなたを招き返して,それがあなたへの報いとなることでしょう。むしろ,あなたがごちそうを設けるときには,貧しい人,体の不自由な人,足なえの人,盲目の人などを招きなさい。そうすればあなたは幸いです。彼らにはあなたに報いるものが何もないからです」。
そのように,恵まれない人たちのために食事の席を設ける人は,それによって幸福になれます。なぜなら,イエスが自分を招いた人に説明されたとおり,「義人の復活の際に報いを受ける」からです。イエスがこの価値ある食事について述べられたので,その場にいた客のひとりは別の種類の食事について思い起こし,「神の王国でパンを食べる人は幸いです」と言います。しかし,すべての人がそのすばらしい見込みを正しく評価するわけではありません。イエスは続けて一つの例えを話し,そのことを示しておられます。
「ある人が盛大な晩さんを設けていました。そして大勢の人を招いたのです。そして彼は……自分の奴隷を遣わして,招いておいた人たちに,『おいでください。もう用意ができましたから』と言わせました。ところが,彼らはみな一様に言い訳をして断わり始めました。最初の者は彼に言いました,『わたしは畑を買ったので,出かけて行ってそれを見てこなければなりません。お願いします,お断わりさせてください』。また別の者は言いました,『五くびきの牛を買ったので,それを調べに行くところなのです。お願いします,お断わりさせてください』。さらに別の者は言いました,『妻をめとったばかりなのです。そのため,参上できないのですが』」。
何というつじつまの合わない言い訳でしょう。畑や家畜は普通,買う前に調べるものです。ですから,後になってそれらを急いで見に行く必要など実際にはないのです。同じように,結婚したからといって,そのような大切な招きに応じられないことはないはずです。それで,主人はそうした言い訳について聞くと怒り,奴隷にこう命じます。
「『急いで市の大通りや路地に出て行き,貧しい人,体の不自由な人,盲人,足なえの人などをここに連れて来なさい』。やがて奴隷は言いました,『ご主人様,お命じになったとおりに致しました。でも,まだ場所が余っております』。すると主人は奴隷に言いました,『道路や,柵を巡らした場所に出て行き,無理にでも人々に入って来させて,わたしの家がいっぱいになるようにしなさい。……招かれていたあの者たちにはだれにもわたしの晩さんを味わわせないのだ』」。
この例えはどんな状況を描いているのでしょうか。食事を用意した「主人」はエホバ神を表わしています。招待を差し伸べる「奴隷」はイエス・キリストです。そして「盛大な晩さん」とは,天の王国に入る者となるための機会のことです。
王国に入る者となるよう最初に招待を受けたのは,ほかでもない,イエスの時代のユダヤ人の宗教指導者たちでした。しかし彼らは招待に応じませんでした。そのため,特に西暦33年のペンテコステを初めとして二度目の招待が,ユダヤ国民のうちのさげすまれた,身分の低い人たちに差し伸べられるようになりました。それでも,神の天の王国の14万4,000の場所がいっぱいになるだけの人数にはなりませんでした。それで,3年半後の西暦36年に三度目で最後の招待が,割礼を受けていない非ユダヤ人に差し伸べられ,そのような人々を集める業が現代まで続けられてきたのです。 ルカ 14:1-24。
■ イエスは謙遜さに関するどんな教訓をお与えになりますか。
■ 主人側の人は,どうすれば神の目に価値ある食事を用意することができますか。そうする人が幸福になれるのはなぜですか。
■ 招かれた人たちのした言い訳がつじつまの合わないものだったのはなぜですか。
■ イエスが話された「盛大な晩さん」の例えは,どういうことを説明するものですか。
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弟子としての責任これまでに生存した最も偉大な人
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84章
弟子としての責任
サンヘドリンの一員と思われる著名なパリサイ人の家を去ると,イエスは引き続きエルサレムへ向かって旅をされます。大群衆がイエスの後に従っています。しかし,どういう動機で付いて来るのでしょうか。イエスの本当の追随者であることには,実際にはどんなことが関係しているでしょうか。
皆が一緒に旅をしていた時,イエスは群衆のほうを振り向いて,彼らに衝撃を与えそうなこういうことを言われます。「わたしのもとに来て,自分の父,母,妻,子供,兄弟,姉妹,さらには,自分の魂をさえ憎まないなら,その人はわたしの弟子になることはできません」。
イエスはどういう意味でそうおっしゃっているのでしょうか。イエスはここで,イエスの追随者になる人は身内の者を文字どおり憎むべきだ,と言っておられるのではありません。そうではなく,イエスを愛するほどには身内の者を愛さないという意味で,身内の者を憎まなければならないのです。イエスの祖先に当たるヤコブは,レアを『うとんじ』ラケルを愛したと言われていますが,それは,レアが妹のラケルほどには愛されなかった,という意味でした。
弟子は「自分の魂[すなわち,命]をさえ」憎むべきである,とイエスは言われましたが,そのことも考えてみてください。この場合もやはり,イエスが言おうとしておられるのは,本当の弟子は自分の命を愛する以上にイエスを愛さなければならないということです。こうしてイエスは,ご自分の弟子になると重要な責任が伴うことを強調されます。それはよく考えもせずに引き受けるべきものではありません。
イエスの弟子であることには,患難や迫害に遭うことが関係しています。イエスは,「だれでも,自分の苦しみの杭を運びながらわたしのあとに付いて来ない者は,わたしの弟子になることができないのです」と言われます。ですから,本当の弟子は,イエスが忍ばれたのと同じそしりという重荷を,進んで担わなければなりません。その歩みには,必要なら,神の敵の手にかかって死ぬことさえ含まれます。イエスは間もなくそのような仕方で死ぬことになっています。
したがって,キリストの弟子になるということは,イエスに従う群衆が非常に注意深く検討する必要のある事柄です。イエスは一つの例えによってその事実を強調されます。「たとえば,あなた方のうちのだれが,塔を建てようと思う場合,まず座って費用を計算し,自分がそれを完成するだけのものを持っているかどうかを調べないでしょうか。そうしないなら,その人は土台を据えてもそれを仕上げることができないかもしれず,それを見ている人たちはみな彼をあざけって,『この人は建て始めはしたものの,仕上げることができなかった』と言い始めるかもしれません」。
こうしてイエスは,ご自分に付いて来る群衆に向かって,彼らが弟子になる前に,必要とされる事柄は果たせるという確信を持っているべきであり,それは塔を建てたいと思う人が,建て始める前に,それを完成させるための資金があることを確かめるのと同じである,ということを説明しておられるのです。イエスはもう一つの例えを挙げ,次のように話を続けられます。
「また,どんな王が,別の王と戦いを交えようとして行進するにあたり,まず座って,二万の軍勢で攻めて来る者に,一万の軍勢で相対することができるかどうかを諮らないでしょうか。事実,それができないなら,その者がまだ遠く離れた所にいる間に,一団の大使を遣わして和平を求めるのです」。
それからイエスは,その例えの要点を強調してこう言われます。「このように,確かにあなた方は,自分の持ち物すべてに別れを告げないかぎり,だれもわたしの弟子になることができません」。イエスに付き従っていた群衆,そしてキリストについて学ぶ人はだれでも,進んでそうしなければなりません。イエスの弟子になろうという人は,自分の持っているものすべて ― 命そのものも含め,自分の持ち物すべて ― を犠牲にする覚悟でいなければならないのです。あなたは喜んでそうしますか。
続けてイエスは,「いかにも塩はすぐれたものです」と言われます。イエスは山上の垂訓の中で,弟子たちのことを「地の塩」であると言われましたが,それは,文字どおりの塩に腐敗を防ぐ力があるのと同じく,弟子たちも人々に対して腐敗を防ぐ影響力を持っている,という意味です。「しかし,塩でさえその効き目を失うなら,何をもってそれに味をつけるでしょうか。それは土にも肥やしにもふさわしくありません」。「人々はそれを外に捨てるのです。聴く耳のある人は聴きなさい」とイエスは述べて,話を終えられます。
こうしてイエスは,しばらく前から弟子となっている人でも,弟子であり続ける決意を弱めてはならない,ということを示しておられます。もし決意を弱めるなら,その人は無価値なもの,この世からの笑いもの,そして神のみ前にふさわしくないどころか,神にそしりをもたらすものとなります。そうなれば,塩けのない,不純物の混じった塩のように,外に投げ出されることでしょう。そうです,滅ぼされるのです。 ルカ 14:25-35。創世記 29:30-33。マタイ 5:13。
■ 自分の身内の者や自分自身を『憎む』とは,どういう意味ですか。
■ イエスはどんな二つの例えを話しておられますか。それらの例えにはどんな意味がありますか。
■ イエスが話の終わりに塩に関して言われた事柄の要点は何ですか。
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失われたものを捜すこれまでに生存した最も偉大な人
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85章
失われたものを捜す
イエスは,謙遜な態度で神に仕える人々を捜し出したいと切に願っておられます。それであちこちを訪ね,会う人すべてに王国について話されます。その中には悪名高い罪人も含まれています。今ではそのような人々がイエスの話を聞きに近づいて来ます。
それを見ていたパリサイ人と書士たちは,彼らが無価値な人間と思っている人々と親しく交わるイエスを非難し,「この人は罪人たちを歓迎して一緒に食事をする」と不平をならします。その人たちは,罪人とそのように接するなら自分の品位が大いに下がると思っているのです! パリサイ人と書士たちは,一般の人々を足で踏みつける泥のようにみなしています。実際,彼らは,「地[土]の民」を意味するヘブライ語のアム・ハーアーレツという表現を使って,そのような人々を軽蔑していることを示します。
一方,イエスはどんな人にも威厳と親切と思いやりをもって接しておられます。その結果,悪行者としてよく知られている人たちを含め,立場の低い大勢の人々が真剣にイエスの話を聴こうとします。それにしても,パリサイ人から無価値な人間と思われている人々のために力を尽くすイエスに,パリサイ人が浴びせた非難はどうなったでしょうか。
イエスは例えを使って,彼らの反対にお答えになります。そして,自分たちは義にかなっており,神の囲いの中にいて安全だが,卑しいアム・ハーアーレツは迷い出て失われた状態にある,と考えていたパリサイ人の観点からイエスは話されます。イエスが問いかけるのを聞きましょう。
「あなた方のうち,百匹の羊を持っていて,そのうちの一匹を失ったときに,九十九匹を荒野に残し,失われたものを見つけるまでそれを捜しに行かない人がいるでしょうか。そして,見つけると,その人はそれを自分の肩に載せて歓びます。そうして,家に着くと,友人や隣人を呼び集めて,こう言うのです。『一緒に歓んでください。失われていたわたしの羊が見つかったからです』」。
それからイエスはこの話の適用を示し,「あなた方に言いますが,このように,悔い改める一人の罪人については,悔い改めの必要のない九十九人の義人について以上の喜びが天にあるのです」と説明されます。
パリサイ人は,自分たちは義にかなっているので,悔い改める必要はないと思っています。それより2年ほど前,イエスは,収税人や罪人と一緒に食事をしている,とパリサイ人のある者たちから非難された時,「わたしは,義人たちではなく,罪人たちを招くために来たのです」と言われました。悔い改める必要を認めない,ひとりよがりなパリサイ人は,天に何の喜びももたらしませんが,本当に悔い改める罪人は天に喜びをもたらすのです。
迷い出ていた罪人が戻って来ることは大きな歓びのいわれとなるという点を二倍強調するために,イエスはもう一つの例えを話され,こう言われます。「十枚のドラクマ硬貨を持っていて,一枚のドラクマ硬貨をなくした場合に,ともしびをともして家を掃き,それを見つけるまで注意深く捜さない女がいるでしょうか。そして,それを見つけると,彼女は自分の友人や隣人の女たちを呼び集めて,こう言います。『一緒に歓んでください。わたしのなくしたドラクマ硬貨が見つかったからです』」。
そしてイエスは,この例えも同じように適用し,続けてこう言われます。「あなた方に言いますが,このように,悔い改める一人の罪人については,神のみ使いたちの間に喜びがわき起こるのです」。
迷い出ていた罪人が戻って来ることに対して神のみ使いたちは何というすばらしい愛ある関心を抱いているのでしょう。かつては立場の低い,さげすまれていたアム・ハーアーレツがゆくゆくは神の天の王国の成員になることを考えると,そのことは特に注目に値します。それらの人たちは天でみ使いたちよりも高い立場を得ることになるのです。しかし,み使いたちはそのことでねたんだり,軽んじられていると感じたりはしません。むしろ,それら罪のある人間が,人生において様々な状況に直面し,それを克服してきたゆえに,同情心と憐れみに富む天の王また祭司として仕える資格を身に着けることを,み使いたちは謙虚に認めています。 ルカ 15:1-10。マタイ 9:13。コリント第一 6:2,3。啓示 20:6。
■ なぜイエスは罪人として知られている人々と交わられるのでしょうか。そのためパリサイ人からどのように非難されますか。
■ パリサイ人は一般の人々をどのようにみなしていますか。
■ イエスはどんな例えを話されますか。そこからどんな教訓が学べますか。
■ み使いたちの歓びは,なぜ注目に値しますか。
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いなくなった息子に関する物語これまでに生存した最も偉大な人
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86章
いなくなった息子に関する物語
失われた羊と,なくなったドラクマ硬貨を見つける二つの例えをパリサイ人たちに話し終えられたイエスは,さらにもう一つの例えを話されます。それは,愛情のある父親と,二人の息子に対するその父親の扱い方についての例えです。それら二人の息子にはそれぞれ重大な欠点があります。
まずその例えの中の主人公である年下の息子です。その息子は,父親が快く分けてくれた相続財産を取りまとめて家を出,非常に不道徳な生き方をするようになります。しかし,イエスが話される物語に耳を傾け,登場人物がだれを表わしているか考えてみましょう。
イエスはこのように話を始められます。「ある人に二人の息子がありました。そして,そのうちの若いほうの者が父親に言いました,『父上,財産のうちわたしの頂く分を下さい』。そこで[父親]は自分の資産をふたりに分けてやりました」。この年下の息子はそれを受け取ってどうするのでしょうか。
イエスはこう説明されます。「その後,何日もたたないうちに,若いほうの息子はすべての物を取りまとめて遠い土地に旅行に出,そこで放とうの生活をして自分の財産を乱費しました」。実際に,年下の息子は売春婦たちと暮らすためにお金を使います。しかし,イエスが続けて述べておられるとおり,その後に苦難の時が訪れます。
「すべての物を使い果たした時,その地方一帯にひどい飢きんが起こり,彼は困窮し始めました。彼はその地方のある市民のもとに行って身を寄せることまでし,その人は彼を自分の畑にやって豚を飼わせました。そして彼は,豚が食べているいなごまめのさやで腹を満たしたいとさえ思っていましたが,彼に何か与えようとする者はだれもいませんでした」。
律法によれば,豚は汚れた動物とされていたので,豚の飼育を引き受けざるを得ないというのは実に卑しいことでした。しかし,その息子にとって一番苦しかったのは,豚に与えられていた食物でもいいから食べたいと思うほどのひどい空腹感でした。息子は身に招いた恐ろしい災難のゆえに,「本心に立ち返った」と,イエスは言われました。
イエスはさらに物語を続けて,こう説明されます。「彼は[自分に]言いました,『わたしの父のところでは実に多くの雇い人にあり余るほどのパンがあるのに,わたしはここで飢きんのために死にそうなのだ。立って父のところに旅をし,こう言おう。「父上,わたしは天に対しても,あなたに対しても罪をおかしました。わたしはもうあなたの息子と呼ばれるには値しません。あなたの雇い人の一人のようにしてください」』。そこで彼は立って父親のもとに行きました」。
ここで考えてみるべき事柄があります。息子が家を出る時,もし父親が息子に食ってかかってどなり声を上げていたなら,息子は自分のなすべき事柄についてそれほど一途な気持ちにはならなかったことでしょう。戻ることにしたとしても,父親と顔を合わせなくてもよいよう,故郷のどこかほかの場所で仕事を見つけようとしたかもしれません。しかし,そんなことは考えてもみませんでした。息子が望んだのは家に帰ることでした。
イエスの例えの中の父親が,愛と憐れみに富まれる天の父,エホバ神を表わしていることは明らかです。また,いなくなった息子,つまり放とう息子が,罪人として知られている人たちを表わしていることも分かるでしょう。イエスが話をしておられる相手のパリサイ人たちは以前に,そういう罪人たちと食事を共にしていると言ってイエスを非難したことがありました。では年上の息子はだれを表わしているのでしょうか。
いなくなった息子が見つかったとき
イエスの例えの中のいなくなった息子,つまり放とう息子は,父親の家に戻るとき,どのように迎えられるのでしょうか。イエスの話に耳を傾けてください。
「彼がまだ遠くにいる間に,父親は彼の姿を見て哀れに思い,走って行ってその首を抱き,優しく口づけしたのです」。何と憐れみ深く思いやりのある父親なのでしょう。わたしたちの天の父エホバを実によく表わしています。
たぶん父親は息子の放とうの生活について聞いていたことでしょう。それでも,詳しい説明を待たずに息子を家に喜んで迎えます。イエスにもこのように喜んで迎える精神があります。イエスは,例えの中の放とう息子によって表わされている罪人や収税人たちにご自分のほうから近づかれるのです。
確かに,イエスの例えに出てくる識別力のある父親は,戻って来た息子の悲しげな,打ちしおれた顔つきを見て,息子が悔い改めていることを幾らか察知しているに違いありません。しかし息子は,父親が優しく接してくれるので,自分の罪を打ち明けやすくなります。イエスはこう言われます。「その時,息子は言いました,『父上,わたしは天に対しても,あなたに対しても罪をおかしました。わたしはもうあなたの息子と呼ばれるには値しません。あなたの雇い人の一人のようにしてください』」。
しかし,息子が言い終えるか終えないうちに父親は行動を起こし,奴隷たちに次のように命じます。「さあ早く,長い衣,その一番良いのを出して来てこれに着せ,その手に輪をはめ,足にサンダルをはかせなさい。それから,肥えさせた若い雄牛を連れて来てほふるのだ。食べて,楽しもうではないか。このわたしの息子が,死んでいたのに生き返ったからだ。失われていたのが見つかったのだ」。こうして彼らは「興じ」始めます。
その間,父親の「年上の息子は野にいました」。物語の残りの話を聴いて,年上の息子がだれを表わしているか考えてください。イエスは年上の息子についてこう言われます。「[年上の息子が]帰って来て家に近づくと,合奏と踊りの音が聞こえたのです。そこで,僕の一人を呼び,これはどういうことなのかと尋ねました。僕は言いました,『あなたのご兄弟がおいでになったのです。それで,健やかに戻って来られたというので,あなたのお父様は肥えさせた若い雄牛をほふられたのです』。ところが彼は憤り,入って行こうとはしませんでした。すると,父親が出て来て,彼に懇願しはじめました。彼は答えて父親に言いました,『わたしはこれまで何年というものあなたのために奴隷のように働いてきて,一度といえあなたのおきてを踏み越えたことはありません。それなのに,このわたしには,友人と一緒に楽しむための子やぎさえただの一度も下さったことがありません。それが,娼婦たちと一緒になってあなたの資産を食いつぶした,このあなたの息子が到着するや,あなたは肥えさせた若い雄牛を彼のためにほふったのです』」。
年上の息子と同じように,罪人たちに憐れみや注意が向けられたことを批判したのはだれでしょうか。それは書士やパリサイ人たちではないでしょうか。イエスがこの例えを語ることにされたのは,罪人たちを喜んで迎えるイエスを彼らが批判したからです。ですから明らかに,彼らは年上の息子によって表わされている人々であるに違いありません。
イエスは年上の息子に対する父親の次のような訴えでご自分の話を結ばれます。「子よ,あなたはいつもわたしと一緒にいたし,わたしの物はみなあなたのものだ。だが,わたしたちはとにかく楽しんで歓ばないわけにはいかなかったのだ。このあなたの兄弟は,死んでいたのに生き返り,失われていたのに見つかったからだ」。
こうしてイエスは,年上の息子が最後にどうするかを伏せたままにされます。実のところ,後日,イエスの死と復活の後に,『非常に大勢の祭司たちがこの信仰に対して従順な態度を取るようになり』ました。その中には,イエスがここで話している相手の「年上の息子」級に属する人も幾人か含まれていたかもしれません。
しかし,現代においては,二人の息子はだれを表わしているのでしょうか。それは,エホバのお目的について十分よく知るようになり,エホバとの良い関係に入るための根拠を持っている人々であるに違いありません。年上の息子は,「小さな群れ」つまり「天に登録されている初子たちの会衆」に属する人々の一部を表わしています。それら一部の人たちは,年上の息子と同じような態度を取りました。彼らは,地上の級である「ほかの羊」を歓迎したいとは思いませんでした。「ほかの羊」のために自分たちの影が薄くなっていると感じたのです。
一方,放とう息子は,神の民のうち,世が提供する快楽を味わうために離れて行く人々を表わしています。しかし,やがてそれらの人々は,悔い改めて戻り,再び神の活発な僕となります。実際,許してもらう必要を認めて父のもとに帰る人々に対して,父は本当に優しく,また憐れみ深く接してくださいます。 ルカ 15:11-32。レビ記 11:7,8。使徒 6:7。ルカ 12:32。ヘブライ 12:23。ヨハネ 10:16。
■ イエスはだれに対してこの例え,つまり物語を話しておられますか。なぜですか。
■ 物語の主人公はだれですか。その主人公はどうなりますか。
■ 父親と年下の息子はそれぞれイエスの時代のだれを表わしていますか。
■ イエスは例えの中の同情心に富む父親の模範にどのように倣っておられますか。
■ 弟が歓迎されているのを見て,年上の息子はどう思いますか。パリサイ人はどのようにこの年上の息子のように振る舞いますか。
■ イエスの例えは今日どのように当てはまりますか。
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実際的な知恵をもって将来に備えるこれまでに生存した最も偉大な人
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87章
実際的な知恵をもって将来に備える
イエスは群衆に対して,放とう息子の物語を話し終えられたところです。群衆の中にはイエスの弟子たち,不正直な収税人をはじめ罪人とみなされている人たち,それに書士やパリサイ人たちがいます。次にイエスは弟子たちに向かって,ある富んだ人に関する例えを話されます。その人は自分の家の管理人,つまり家令について好ましくない報告を受けました。
イエスの話によれば,その富んだ人は家令を呼び,彼を解雇するつもりであることを告げます。そこで家令は考えます。「どうしよう。主人はわたしから家令職を取り上げるということだ。わたしは土掘りをするほど強くはないし,物ごいをするのは恥ずかしい。そうだ,どうすればよいか分かったぞ。わたしが家令職から外されたとき,人々がわたしを自分の家に迎え入れてくれるようにするのだ」。
家令は何をするつもりなのでしょう。彼は主人に負債のある人たちを呼んで,『あなたはどれくらい借りがあるのか』と尋ねます。
『オリーブ油2,200㍑です』と,最初の者が答えます。
『あなたの契約書を受け取り,座って,早く1,100と書きなさい』と,家令はその者に言います。
家令は別の者にも,『さて今度はあなただが,どれくらい借りているのか』と尋ねます。
『小麦1万7,000㌔です』と彼は言います。
『あなたの契約書を受け取って,1万3,700と書きなさい』。
家令はまだ主人の財務管理をしているので,自分の権限で主人に借金のある人の返済額を減らすことができます。家令は,額を減らすことにより,自分が職を失う時に恩に報いてくれる可能性のある人々を友にしようとしているのです。
主人はそのことを聞くと,感心します。事実,主人は「その家令をほめました。不義な者ではありますが,実際的な知恵をもって行動したからです」。実際,イエスはこう付け加えられます。「この事物の体制の子らは,自分たちの世代に対しては,実際的なやり方の点で光の子らより賢いのです」。
そこでイエスは,弟子たちに対する教訓を引き出し,「不義の富によって自分のために友を作り,そうしたものが尽きたとき,彼らがあなた方を永遠の住みかに迎え入れてくれるようにしなさい」と励まされます。
イエスは家令の不義ではなく,先見の明のあるその実際的な知恵をほめておられるのです。「この事物の体制の子ら」は大抵,お返しのできる人々を友とするために抜け目なくお金や地位を利用します。ですから,「光の子ら」である神の僕たちも,自分たちに益となるような賢い方法で,「不義の富」である物質の資産を用いる必要があります。
しかし,イエスが言われるように,神の僕たちはそれらの富を用いて,「永遠の住みかに」迎え入れてくれる方を友とすべきです。小さな群れの成員にとって,その場所は天にあり,ほかの羊にとっては地上の楽園にあります。人々をそれらの場所に迎え入れることができるのはエホバ神とみ子だけなので,お二方との友情を培うために,わたしたちは自分の持つどんな「不義の富」でも,王国に関係した業を支援するために用いるよう努めるべきです。物質の富は必ず尽きたり絶えたりするものですから,そうしておけば,物質の富が尽きても,わたしたちの永遠の将来は保証されます。
イエスはさらに,こうした物質的な事柄,つまりごく小さな事であっても,それに気を配る点で忠実な人は,より重要な事柄に気を配る点でも忠実でしょうと言われ,続けてこのように話されます。「それゆえ,あなた方が不義の富に関して忠実であることを示していないなら,だれがあなた方に真実のもの[すなわち,霊的な関心事,もしくは王国の関心事]を託するでしょうか。そして,あなた方がほかの人の物[神がご自分の僕たちに託される,王国の関心事]について忠実であることを示していないなら,だれがあなた方に,あなた方のための物[永遠の住みかにおける命の報い]を与えるでしょうか」。
わたしたちは神の真の僕であると同時に,物質の富である不義の富の奴隷となることなど決してできません。イエスが結論として次のように述べておられるとおりです。「どんな家僕も二人の主人に対して奴隷となることはできません。一方を憎んで他方を愛するか,あるいは一方に堅く付いて他方を侮るようになるからです。あなた方は神と富とに対して奴隷となることはできません」。 ルカ 15:1,2; 16:1-13。ヨハネ 10:16。
■ イエスの例えに出てくる家令は,後で自分を助けてくれる可能性のある者たちをどのように友としますか。
■ 「不義の富」とは何ですか。それを用いてどのように友を作ることができますか。
■ わたしたちを「永遠の住みか」に迎え入れることができるのはどなたですか。それはどんな所ですか。
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富んだ人とラザロこれまでに生存した最も偉大な人
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88章
富んだ人とラザロ
イエスは弟子たちに,物質の富の正しい用い方について話し,人は富の奴隷であると同時に神の奴隷であることはできないということを説明してこられました。パリサイ人も聴いていますが,彼らはお金を愛する者たちなので,イエスのことをあざ笑うようになります。それでイエスは彼らにこのように言われます。「あなた方は人の前で自分を義とする者たちですが,神はあなた方の心を知っておられます。人の間で高大なものは,神から見て嫌悪すべきものだからです」。
この世の資産,政治権力,宗教的支配力や影響力に富んでいる人々にとって形勢が逆転する時が来たのです。彼らは卑しめられます。しかし自分の霊的な必要を認めている人たちは高められます。イエスはそうした変化が起きることを示して,パリサイ人に次のように言われます。
「律法と預言者たちとは[バプテスマを施す人]ヨハネまででした。その時以来,神の王国は良いたよりとして宣明されており,あらゆるたぐいの人がそれに向かって押し進んでいます。実際,律法の文字の一画が成就されないでいるよりは,天と地の過ぎ去るほうが易しいのです」。
書士とパリサイ人は,モーセの律法を堅く守っていると唱えて誇り高ぶっています。エルサレムでイエスがある男の目を奇跡によって見えるようにした時,「我々はモーセの弟子なのだ。我々は,神がモーセに語られたことを知っている」と彼らが豪語したのを思い起こしてください。しかし今やモーセの律法は,謙遜な人々を,神が任命した王であるイエス・キリストに導くというその意図された目的を果たしました。それで,ヨハネの宣教の開始と共に,あらゆる種類の人々,特に謙遜な人々や貧しい人々が神の王国の臣民になろうと努力しています。
モーセの律法はいまや成就しつつあるので,それを守る義務はなくなります。律法は様々な理由による離婚を許していますが,イエスは今こう言われます。「自分の妻を離婚して別の女をめとる者はみな姦淫を犯すのであり,夫から離婚された女をめとる者は姦淫を犯すことになります」。パリサイ人はこの宣言を聞いて,大いに腹立たしく思うに違いありません。彼らは多くの理由を根拠にして離婚を認めるので,なおのことそう思うでしょう。
イエスはパリサイ人に対して話を続け,身分,つまり立場がついには劇的に変化する二人の人に関する例えを話されます。二人の人がだれを表わすか,またその立場の逆転にはどんな意味があるか分かりますか。
イエスはこう説明されます。「ところで,ある富んだ人がいて,紫と亜麻布で身を飾り,豪しゃな日々を楽しんでいました。一方,ラザロという名のあるこじきは彼の門のところに置かれ,かいようだらけの身で,その富んだ人の食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていました。そのうえまた,犬が来ては彼のかいようをなめるのでした」。
イエスはここで,ユダヤ人の宗教指導者たちを表わすために富んだ人を用いておられます。その宗教指導者たちの中には,パリサイ人や書士たちだけでなく,サドカイ人や祭司長たちも含まれています。彼らは霊的な特権と機会に恵まれているため,富んだ人のように振る舞います。彼らの青みがかった紫の衣服は恵まれた身分を表わしており,白い亜麻布は彼らが独善的であることを示しています。
富んだ人級に属するそれらの誇り高い人々は,一般の貧しい人々をアム・ハーアーレツ,つまり地の民と呼んで徹底的にさげすんでいます。したがって,こじきのラザロは,宗教指導者たちから相応の霊的滋養物や特権を与えられていない人々を表わしています。それで一般の人々は,かいようだらけのラザロのように見下げられ,霊的に病気で,犬としか付き合えないとみなされています。しかし,ラザロ級の人々は霊的滋養物に飢え渇いているので,富んだ人の食卓から落ちる霊的食物がどんなにわずかな量であっても,それを受け取ろうとして門のところにいます。
イエスは次に,富んだ人とラザロの状態の変化を描写されます。どのように変化するのでしょうか。また,それらの変化は何を表わしていますか。
富んだ人とラザロは変化を経験する
富んだ人は霊的な特権や機会に恵まれている宗教指導者たちを表わしており,ラザロは霊的滋養物に飢えている一般の人々を表わしています。イエスは話を続けて,二人の境遇の劇的な変化を説明されます。
イエスはこう言われます。「さて,やがてこじきは死に,み使いたちによってアブラハムの懐の位置に運ばれました。また,富んだ人も死んで葬られました。そして,ハデスの中で目を上げると,自分は責め苦のうちにありましたが,はるか離れた所にアブラハムがおり,ラザロがその懐の位置にいるのが見えました」。
富んだ人とラザロは実際の人物ではなく,特定の部類の人々を象徴しているので,当然彼らの死も象徴的なものです。彼らの死は何を象徴している,つまり表わしているのでしょうか。
イエスは,『律法と預言者たちとはバプテスマを施す人ヨハネまででしたが,その時以来,神の王国は宣明されています』と言って,状況の変化をすでに指摘されました。それで富んだ人とラザロは,ヨハネとイエス・キリストが伝道を開始すると共に以前の自分の境遇,つまり状態に関して死にます。
謙遜な,悔い改めたラザロ級の人々は,霊的に恵まれていなかった以前の状態に関して死に,神の恵みを受ける立場になります。以前は宗教指導者たちに頼って霊的食卓からのおこぼれにあずかろうとしていましたが,今ではイエスがお与えになる聖書の真理が彼らの必要を満たしています。彼らはこうして,大いなるアブラハムであられるエホバ神の懐,つまり恵まれた位置に身を置くことになります。
一方,富んだ人級を構成する人々は,イエスの教えた王国の音信を頑固に拒みつづけるため,神の不興を買います。それで,恵みを受けているように思えた以前の立場に関して死ぬのです。事実,彼らは比喩的な責め苦に遭っている者として述べられています。では富んだ人の次の言葉を聴いてください。
「父アブラハムよ,わたしに憐れみをおかけになり,ラザロを遣わして,その指の先を水に浸してわたしの舌を冷やすようにさせてください。わたしはこの燃えさかる火の中で苦もんしているからです」。イエスの弟子たちが宣明した神による火のような裁きの音信は,富んだ人級の人々を苦しめます。彼らは,イエスの弟子たちがそのような音信の宣明をやめて,責め苦を幾らか和らげてくれることを願っているのです。
「しかしアブラハムは言いました,『子よ,あなたが自分の生きている間に,自分の良い物を全部受け,それに対してラザロが良くない物を受けたことを思い出しなさい。しかし今,彼はここで慰めを得,あなたは苦もんのうちにある。そして,これらすべてに加えて,わたしたちとあなた方との間には大きくて深い裂け目が定められており,そのため,ここからあなた方のもとに行きたいと思う者たちもそれができず,人々がそこからわたしたちのところに渡って来ることもできない』」。
ラザロ級と富んだ人級の間でそうした劇的な逆転が生じるのは,確かに公正なことであり,適切なことでもあります。その時から数か月後の西暦33年のペンテコステの時に新しい契約が古い律法契約に取って代わり,状態は完全に変わります。その時,神の恵みを受けるのはパリサイ人や他の宗教指導者たちではなく,イエスの弟子たちであることが間違えようのないほど明白になります。それで象徴的な富んだ人とイエスの弟子たちとを隔てている「大きくて深い裂け目」は,変わることのない,義にかなった神の裁きを表わしています。
富んだ人は次に「父アブラハム」に,「[ラザロを]わたしの父の家に遣わしてください。わたしには五人の兄弟がいますから」と頼みます。富んだ人はこうして,もう一人の父親との関係のほうが親しいことを認めます。その父親とは実は悪魔サタンのことです。富んだ人は,宗教上の同盟者である「五人の兄弟」が「この責め苦の場所」に来なくてすむよう,ラザロが神の裁きの音信に手ごころを加えることを求めます。
「しかしアブラハムは言いました,『彼らにはモーセと預言者たちがある。それに聴き従えばよい』」。そうです,もし「五人の兄弟」が責め苦を免れたいのであれば,イエスがメシアであることを明らかにしているモーセと預言者たちの書に注意を払って,イエスの弟子になればよいのです。ところが,富んだ人は異議を唱えます。「いいえ,そうではありません,父アブラハムよ,だれかが死人の中から行けば,彼らは悔い改めることでしょう」。
しかし富んだ人は,「モーセや預言者たちに聴き従わないなら,だれかが死人の中からよみがえっても,やはり説得に応じないであろう」と言われます。人々を納得させるために神が特別なしるしや奇跡を備えることはありません。神の恵みを得たい人は,聖書を読んで,当てはめなければならないのです。 ルカ 16:14-31。ヨハネ 9:28,29。マタイ 19:3-9。ガラテア 3:24。コロサイ 2:14。ヨハネ 8:44。
■ 富んだ人とラザロの死が象徴的なものに違いないのはなぜですか。彼らの死は何を表わしていますか。
■ イエスはヨハネの宣教の開始と共に,どんな変化が起きることを示されますか。
■ イエスの死によって何が取り除かれますか。それは離婚の問題にどんな影響を与えますか。
■ イエスの例えに出てくる富んだ人とラザロはそれぞれだれを表わしていますか。
■ 富んだ人が受けている責め苦とは何ですか。富んだ人は責め苦をどのような方法で和らげてくれるよう求めますか。
■ 「大きくて深い裂け目」は何を表わしていますか。
■ 富んだ人の本当の父親はだれですか。また,五人の兄弟とはだれのことですか。
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憐れみに促されてユダヤに向かうこれまでに生存した最も偉大な人
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89章
憐れみに促されてユダヤに向かう
何週間か前,エルサレムで献納の祭りが行なわれていた時,ユダヤ人たちはイエスを殺そうとしました。それでイエスは北に向かい,ガリラヤの海からさほど遠くない地方へ行かれたようです。
このところイエスは,再び南のエルサレムに向かって進み,途中,ヨルダン川の東の地域にあるペレアの村々で宣べ伝えてこられました。富んだ人とラザロに関する例えを話したあと,イエスは続けて弟子たちに,以前ガリラヤで教えた事柄をお教えになります。
例えば,神に属する「小さな者」の一人をつまずかせるよりは,「臼石を首にかけられて海の中に投げ込まれ(る)」ほうがましである,とイエスは言われます。また,人を許さなければならないことを強調して,「たとえ[兄弟]があなたに対して一日に七回罪をおかし,『わたしは悔い改めます』と言ってあなたのもとに七回戻って来たとしても,あなたはその人を許してあげなければなりません」と説明されます。
弟子たちが「わたしたちにさらに信仰をお与えください」と言うと,イエスは,「あなた方にからしの種粒ほどの信仰があったなら,この黒桑の木に,『根こそぎ抜かれて,海に植われ!』と言ったとしても,それはあなた方に従うでしょう」とお答えになります。ですから,少しでも信仰があれば,大きなことを成し遂げることができるのです。
次にイエスは,全能の神の僕にふさわしい態度を例証する,実際にありそうな状況を描いてこう言われます。「あなた方の中に,畑をすき返したり群れの番をしたりする奴隷がいて,その者が野から入って来ると,『すぐにここに来て,食卓について横になりなさい』と言う人がいるでしょうか。むしろ,『わたしの晩さんのために何か用意し,前掛けをかけて,わたしが食べたり飲んだりし終わるまでわたしに仕えなさい。そのあと,あなたは食べたり飲んだりしてよろしい』と言うのではありませんか。奴隷が割り当ての事をしたからといって,その人は恩義を感じたりしないではありませんか。ですからあなた方も,自分に割り当てられた事を全部したときには,『わたしたちは何の役にも立たない奴隷です。わたしたちのしたことは,当然すべきことでした』と言いなさい」。したがって,神の僕たちは,神に仕えることにより神に恩恵を施しているなどと決して考えるべきではありません。むしろ,神の家の信頼されている成員として神を崇拝する特権が与えられていることをいつも覚えておくべきです。
イエスがこの例えを話されたすぐ後のことと思われますが,一人の使いの者が到着します。その人は,ユダヤのベタニヤに住むラザロの姉妹,マリアとマルタからの使いでした。「主よ,ご覧ください,あなたが愛情を抱いてくださる者が病気です」と,その使いの者は言います。
イエスは,「この病気は死のためのものではなく,神の栄光のため,神の子がそれによって栄光を受けるためのものです」とお答えになります。イエスはその場所になお二日とどまられた後,「もう一度ユダヤへ行きましょう」と弟子たちに言われます。しかし弟子たちはイエスに,「ラビ,つい最近ユダ人たちはあなたを石打ちにしようとしたばかりですのに,またそこへおいでになるのですか」と言います。
イエスはそれに答えて,「日中の十二時間があるではありませんか。だれでも日中に歩くなら,何にもぶつかりません。この世の光を見ているからです。しかし,夜歩くなら,何かにぶつかります。光がその人のうちにないからです」と言われます。
イエスが言おうとしておられるのは,『日中の時間』,つまり神がイエスの地上での宣教期間として配分しておられる時間はまだ残されており,それが残されているうちは,だれもイエスに危害を加えることはできないということのようです。イエスには自分に残されている「日中」のわずかな時間を十分に用いる必要があります。その後に,敵たちがイエスを殺す「夜」が来るからです。
イエスはさらに,「わたしたちの友ラザロは休んでいますが,わたしは彼を眠りから覚ましにそこへ行きます」と言われます。
弟子たちは,ラザロは眠って休んでおり,それは回復に向かう良い徴候だと考えたのでしょう,「主よ,もし休んでいるのでしたら,彼はよくなるでしょう」と答えます。
そこで,イエスは彼らにはっきりと言われます。「ラザロは死んだのです。そしてわたしは,あなた方のために,すなわちあなた方が信じるために,自分がそこにいなかったことを歓びます。しかし,彼のところに行きましょう」。
トマスは,イエスがユダヤで殺されるかもしれないことを認めながらも,イエスを元気づけようと思い,仲間の弟子たちに,「わたしたちも行って,共に死のうではないか」と勧めます。それで弟子たちは,命の危険を冒して,憐れみに促されてユダヤに向かうイエスに付いて行きます。 ルカ 13:22; 17:1-10。ヨハネ 10:22,31,40-42; 11:1-16。
■ このところイエスはどこで宣べ伝えてこられましたか。
■ イエスは以前に教えたどんな事柄を再び教えられますか。また,実際にありそうなどんな状況を描いて,どんな大事な点を例証なさいますか。
■ イエスはどんな知らせを受けますか。イエスの言われる「日中」また「夜」という言葉にはどういう意味がありますか。
■ トマスはどういうつもりで,「行って,共に死のうではないか」と言いますか。
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復活の希望これまでに生存した最も偉大な人
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90章
復活の希望
イエスはついに,エルサレムから3㌔ほど離れたベタニヤの村のはずれまで来られます。ラザロが死んで埋葬されてから数日しかたっていません。ラザロの姉妹であるマリアとマルタはまだ嘆き悲しんでおり,大勢の人が二人を慰めるために二人の家に来ていました。
彼らが嘆き悲しんでいるとき,イエスがこちらに向かっておられることをだれかがマルタに知らせます。それで彼女は,妹には知らせなかったようですが,家を出て急いでイエスに会いに行きます。そして,イエスのところまで来ると,彼女と妹がこの四日間何度も口にしたに違いない言葉を繰り返し,「もしここにいてくださったなら,わたしの兄弟は死ななかったことでしょう」と言います。
しかしマルタは,イエスなら今でも自分の兄弟のために何かできるかもしれないという望みを言い表わし,「あなたが神にお求めになることは,神がみなお与えになることを知っております」と言います。
「あなたの兄弟はよみがえります」と,イエスは約束されます。
イエスはアブラハムや神の他の僕たちも待ち望んだ,将来の地上における復活のことを話しておられるものとマルタは考えます。それで彼女は,「彼が終わりの日の復活の際によみがえることは知っております」と答えます。
しかしイエスは,「わたしは復活であり,命です」と答えて,すぐに救助されるという希望をお与えになります。そして,「わたしに信仰を働かせる者は,たとえ死んでも,生き返るのです。そして,生きていてわたしに信仰を働かせる者はみな決して死ぬことがありません」と述べて,神がイエスに死を制する力をお与えになったことをマルタに思い起こさせます。
イエスはマルタに,その時生きている忠実な人々は決して死ぬことはないと言っておられるのではありません。むしろ,イエスが言おうとしておられるのは,ご自分に信仰を働かせることは永遠の命につながるということです。ほとんどの人は終わりの日に復活させられることにより,そのような命を享受します。しかし,地上でこの事物の体制の終わりを生き残る忠実な人もいることでしょう。それらの人たちにとって,イエスの言葉はまさに文字通りの意味で真実となります。彼らは決して死ぬことがないのです。イエスはこの驚くべき言葉を述べた後,「あなたはこれを信じますか」とマルタにお尋ねになります。
「はい,主よ。わたしは,あなたが神の子キリスト,世においでになるはずの方であることを信じてまいりました」と,マルタは答えます。
それからマルタは急いで妹を呼びに戻り,「師が来ておられ,あなたをお呼びです」と,そっと彼女に話します。マリアは直ちに家を出ます。他の人たちはマリアが行くのを見ると,記念の墓に行くのだろうと思い,そのあとに付いて行きます。
マリアはイエスのところまで来ると,泣きながらその足もとにひれ伏し,「主よ,もしここにいてくださったなら,わたしの兄弟は死ななかったことでしょう」と言います。マリアとそのあとに付いてきた大勢の人たちが泣き悲しんでいるのをご覧になると,イエスは深く心を動かされて,「あなた方は彼をどこに横たえたのですか」とお尋ねになります。
「主よ,おいでになって,ご覧ください」と,彼らは答えます。
イエスも涙を流されます。そのためユダヤ人たちは,「ご覧なさい,彼に対して何と愛情を抱いておられたのでしょう」と言います。
ある人たちは,数か月前の幕屋の祭りの時に,イエスが生まれつき目の見えない若者をいやされたことを思い起こして,「盲人の目を開けたこの人が,彼の死ぬのを防げなかったのだろうか」と言います。 ヨハネ 5:21; 6:40; 9:1-7; 11:17-37。
■ いつイエスはついにベタニヤの近くに来られますか。そしてそこにはどんな状況が生じていますか。
■ マルタはどんな根拠に基づいて復活を信じていますか。
■ ラザロの死はイエスにどんな影響を与えますか。
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ラザロが復活させられる時これまでに生存した最も偉大な人
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91章
ラザロが復活させられる時
イエスは今,お供の人々と一緒に,ラザロの記念の墓に来られました。その墓というのは実は洞くつで,入口に石が置かれています。「石を取りのけなさい」と,イエスは言われます。
マルタは,イエスが何をなさるつもりなのかよく分からないため,それに反対し,「主よ,もう臭くなっているに違いありません。四日になりますから」と言います。
しかしイエスは,「信じるなら神の栄光を見るでしょうと,わたしは言いませんでしたか」とお尋ねになります。
そこで石が取りのけられます。するとイエスは目を上げて,「父よ,わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。もっとも,常に聞いてくださることを知っておりました。しかし,まわりに立つ群衆のためにわたしは言いました。あなたがわたしをお遣わしになったことを彼らが信じるためです」と祈られます。イエスが人前で祈られるのは,ご自分が行なおうとしている事柄は神から受ける力によって成し遂げられるということを人々が知るためです。それから,イエスは大声で,「ラザロよ,さあ,出て来なさい!」と叫ばれます。
すると,ラザロが出て来ます。両手と両足は巻き布を巻かれたままであり,顔は布で覆われています。「彼を解いて,行かせなさい」と,イエスは言われます。
この奇跡を見て,マリアとマルタを慰めに来ていたユダヤ人の多くがイエスに信仰を持つようになります。しかし他の者たちは去って行って,起きた事柄をパリサイ人に知らせます。パリサイ人と祭司長たちは直ちに,ユダヤ人の高等法院であるサンヘドリンを召集する手はずを整えます。
サンヘドリンには,パリサイ人,サドカイ人,祭司長たち,それに以前の大祭司たちはもちろん,現職の大祭司であるカヤファも含まれています。彼らは,「この人が多くのしるしを行なうのだが,我々はどうすべきだろうか。彼をこのままほっておけば,みんなが彼に信仰を持つだろう。そして,ローマ人たちがやって来て,我々の場所も国民も奪い去ってしまうだろう」と嘆きます。
宗教指導者たちは,イエスが「多くのしるしを行なう」ことを認めていますが,彼らが気にしているのは自分たちの地位と権威のことだけです。サドカイ人は復活を信じていないので,ラザロがよみがえらされたことは彼らにとって特に手痛い打撃です。
そこで,サドカイ人と思われるカヤファが発言し,「あなた方は何も分かっていない。そして,一人の人が民のために死んで国民全体の滅ぼされないほうがあなた方の益になる,ということをよく考えていないのだ」と言います。
カヤファにそのように言わせたのは神でした。というのは使徒ヨハネが後に,「だが,[カヤファ]はこれを独自の考えから言ったのではない」と書いているからです。カヤファが実際に言おうとしたのは,権威や影響力のある自分たちの地位がこれ以上イエスによって弱められないようイエスを殺すべきだ,ということでした。しかし,ヨハネによれば,『カヤファは,イエスが死ぬように定められているのは,ただ国民のためだけではなく,神の子たちを集めるためでもあることを預言した』のです。そして実際に,み子がすべての人のための贖いとして死ぬことが神の目的なのです。
カヤファは今,サンヘドリンをうまく動かして,イエスの殺害を計画させます。しかしイエスは,サンヘドリンの一員で,友好的なニコデモからそうした計画があることを知らされたのかもしれませんが,そこを立ち去られます。 ヨハネ 11:38-54。
■ ラザロを復活させる前にイエスが人前で祈られるのはなぜですか。
■ その復活を見た人々はどのように反応しますか。
■ どんな点を見ればサンヘドリンの成員の邪悪さが分かりますか。
■ カヤファの意図は何でしたか。しかし,神は彼を用いて何を預言させましたか。
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イエスがエルサレムへ最後の旅をした時にいやされた10人のらい病人これまでに生存した最も偉大な人
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92章
イエスがエルサレムへ最後の旅をした時にいやされた10人のらい病人
イエスはエルサレムを去って,エフライムという都市に向かわれたため,イエスを殺そうとするサンヘドリンの企ては失敗しました。同市はエルサレムの北東わずか25㌔ほどのところにありました。イエスは敵たちから離れて,弟子たちと共にそこにとどまられます。
しかし,西暦33年の過ぎ越しの日が近づいていたので,イエスはやがてまた移動し,サマリアを通ってガリラヤに上って行かれます。亡くなられる前にイエスがこの地方を訪れるのはこれが最後です。イエスと弟子たちは,ガリラヤにいる間に,過ぎ越しの祝いのためにエルサレムへ向かう人々に加わるようです。一行はヨルダン川の東のペレア地区を通る道を行きます。
イエスは旅に出てまもなく,サマリアかあるいはガリラヤのある村に入る際,らい病を患っている10人の男にお会いになります。この恐ろしい病気にかかると,手足の指,耳,鼻,唇といった体の各部が徐々に腐ってゆきます。他の人にうつらないようにするため,神の律法は,らい病人に関して,「らい病の者は……口ひげを覆って,『汚れている,汚れている!』と呼ばわるべきである。その災厄が身にある日の間いつも,彼は汚れた者である。彼は……他から離れて住むべきである」と定めています。
10人のらい病人は,らい病人に対する律法の規制を守って,イエスから遠く離れたところにとどまっています。それでも,彼らは大声で,「イエスよ,先生,わたしたちに憐れみをおかけください!」と叫びます。
イエスは遠くにいる彼らを見て,「行って,自分を祭司たちに見せなさい」とお命じになります。イエスがこう言われるのは,神の律法によれば,祭司たちには,らい病人がその病気から回復した場合,治ったという宣言をする権限があるからです。こうしてそれらの人々は,健康な人たちとまた一緒に暮らしてもよいという承認を得るのです。
10人のらい病人は奇跡を起こすイエスの力を信頼しています。それで彼らは,まだいやされてはいませんでしたが,急いで祭司に会いに行きます。そしてその途中で,イエスに対する彼らの信仰は報われます。彼らは自分が健康になってゆくのを見,また感じるようになります。
清められたらい病人のうち9人はそのまま進んで行きますが,サマリア人である他の一人は戻って行ってイエスを捜します。なぜでしょうか。なぜなら,その人は自分の身に起きた事柄をとても感謝しているからです。その人は大声で神を賛美し,イエスを見つけると,その足もとにひれ伏して感謝します。
イエスはそれに答えて,「十人が清められたのではありませんでしたか。では,ほかの九人はどこにいるのですか。神に栄光を帰するために戻って来たのは,この他国の人のほかにはだれもいなかったのですか」と言われます。
それから,そのサマリア人の男に,「立って,出かけて行きなさい。あなたの信仰があなたをよくならせたのです」とお告げになります。
わたしたちは,イエスが10人のらい病人をいやされたことについて読む時,「では,ほかの九人はどこにいるのですか」というイエスの質問に含まれている教訓を心に銘記すべきです。9人が示した感謝の念の欠けた態度は重大な欠点です。わたしたちはこのサマリア人のように,神の義にかなった新しい世における永遠の命という確かな約束を含め,神から受けている事柄に感謝していることを示すでしょうか。 ヨハネ 11:54,55。ルカ 17:11-19。レビ記 13:16,17,45,46。啓示 21:3,4。
■ イエスを殺そうとする企ては,イエスのどんな行動のために失敗しますか。
■ イエスは次にどこに向かわれますか。イエスの目的地はどこですか。
■ らい病人たちが遠く離れて立っているのはなぜですか。イエスが彼らに祭司たちのところに行くようにと言われるのはなぜですか。
■ この経験から,わたしたちはどんな教訓を学ぶべきですか。
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人の子が表わし示されるときこれまでに生存した最も偉大な人
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93章
人の子が表わし示されるとき
イエスがまだ北部(サマリアかガリラヤ)におられるとき,パリサイ人たちは王国の到来についてイエスに尋ねます。彼らは王国が非常なきらびやかさと儀式を伴って来ると考えていますが,イエスは,「神の王国は際立って目につくさまで来るのではなく,また人々が『ここを見よ!』とか『そこを!』とか言うものでもありません。見よ,神の王国はあなた方のただ中にあるのです」と言われます。
「あなた方のただ中に」というイエスの言葉は,「あなた方のうちに」と訳されることがありました。そのため,ある人々は,イエスは神の王国が神の僕たちの心の中で治めると言っておられるのだと考えてきました。しかし,イエスが話しかけておられる,信仰のないそれらパリサイ人の心のうちに神の王国がないのは明らかです。それでも,神の王国は彼らのただ中にあります。神の王国の指名された王であるイエス・キリストがまさに彼らの間におられるからです。
王国の到来についてイエスが弟子たちにさらに語られるのは,パリサイ人たちが立ち去ってからのようです。イエスは,将来に王国の権力を執って臨在することを特に念頭に置いて,次のように警告されます。「人々はあなた方に,『そこを見よ!』とか,『ここを見よ!』とか言うでしょう。出て行ったり,[それら偽りのメシアたち]の後を追いかけたりしてはなりません。稲妻は,そのひらめきによって,天の下の一ところから天の下の別のところに輝きわたりますが,人の子もちょうどそのようだからです」。したがって,イエスが指摘しておられるのは,稲妻が広い地域にわたって見られるように,ご自分が王国の権力を執って臨在される際の証拠も,それを見たいと願う人すべてにはっきり見えるということです。
イエスは次に,ご自分の将来の臨在の際に人々がどんな態度を取るかを示すため,古代の出来事と比較し,こう説明されます。「また,ノアの日に起きたとおり,人の子の日にもまたそうなるでしょう。……また同じように,ちょうどロトの日に起きたとおりです。人々は食べたり,飲んだり,買ったり,売ったり,植えたり,建てたりしていました。しかし,ロトがソドムから出た日に天から火と硫黄が降って,彼らをみな滅ぼしたのです。人の子が表わし示されようとしている日も同様でしょう」。
イエスは,ノアの日やロトの日の人々が,食べたり,飲んだり,買ったり,売ったり,植えたり,建てたりする通常の活動を行なったというだけの理由で滅ぼされたと言っておられるのではありません。ノアやロトや彼らの家族でさえそうしたことを行ないました。しかし,他の人たちは神のご意志に何の注意も払わないでそうした活動を続けました。それが理由で彼らは滅ぼされたのです。同じ理由で人々は,この事物の体制に臨む大患難の際にキリストが表わし示されるとき,滅ぼされるでしょう。
イエスは,将来ご自分が王国の権力を執って臨在する時の証拠に急いでこたえ応じる大切さを強調して,「その日,屋上にいる人は,家財が家の中にあっても,それを取りに下りてはならず,野に出ている人も,後ろのものに戻ってはなりません。ロトの妻のことを思い出しなさい」と付け加えられます。
キリストの臨在の証拠が明らかになるとき,物質の所有物に対する愛着が妨げとなって,敏速な行動が取れないようであってはなりません。ロトの妻はソドムから出る途中,後に残してきた物を慕って後ろを振り返ったようです。そのため彼女は塩の柱になりました。
イエスは,ご自分の将来の臨在の際に見られる状況の説明を続けて,弟子たちにこう言われます。「その夜,二人の男が一つの寝床にいるでしょう。一方は連れて行かれ,他方は捨てられるのです。二人の女が同じ臼でひいているでしょう。一方は連れて行かれ,他方は捨てられるのです」。
連れて行かれることは,ノアとその家族が箱船に入ったことや,み使いたちがロトとその家族をソドムから連れ出したことに相当します。それは救いを意味しています。一方,捨てられることは,滅びを被ることを意味します。
ここで弟子たちは,「主よ,どこでですか」と尋ねます。
「死体のあるところ,そこには鷲も集まっているでしょう」と,イエスはお答えになります。救いのために『連れて行かれる』者たちは,「死体」に集まるという点で,遠くまで見通せる鷲のようです。死体は,目に見えない様で王国の権力を執って臨在される真のキリスト,およびエホバが備えられる霊的な宴と関係があります。 ルカ 17:20-37。創世記 19:26。
■ 王国はどのような意味でパリサイ人たちのただ中にありましたか。
■ キリストの臨在はどんな点で稲妻のようですか。
■ キリストの臨在の際になぜ人々は自分の行動のために滅ぼされるのですか。
■ 連れて行かれるとはどういう意味ですか。また,捨てられるとはどういう意味ですか。
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祈りと謙遜さの必要性これまでに生存した最も偉大な人
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94章
祈りと謙遜さの必要性
イエスは以前ユダヤにおられた時,たゆまず祈ることの大切さを示す例えを話されました。エルサレムへの最後の旅の途上にある今,あきらめずに祈る必要のあることをもう一度強調されます。弟子たちにさらに次のような例えをお話しになるのは,イエスがまだサマリアかガリラヤにおられる時かもしれません。
「ある都市に,神への恐れを抱かず,人に敬意も持たないある裁き人がいました。ところが,その都市にひとりのやもめがいて,しきりに彼のもとに来ては,『わたしが自分の訴訟の相手に対して公正な裁きを得られるようにしてください』と言いました。さて,しばらくのあいだ彼は気がすすみませんでしたが,後になって自分に言いました,『わたしは神を恐れたり人を敬ったりするわけではないが,とにかく,このやもめが絶えずわたしを煩わすから,彼女が公正な裁きを得られるようにしてやろう。そうすれば,とことんまでやって来てわたしをこづきまわすようなことはないだろう』」。
それからイエスはこの物語を適用して,「不義な者ではあるが,この裁き人の言ったことを聞きなさい! では,神は,日夜ご自分に向かって叫ぶその選ばれた者たちのためには,たとえ彼らに対して長く忍んでおられるとしても,必ず公正が行なわれるようにしてくださらないでしょうか」と言われます。
イエスが言っておられるのは,エホバ神がどこかその不義な裁き人に似ているということではありません。むしろ,不義な裁き人でさえ粘り強い嘆願にこたえ応じるのであれば,全く義にかなっておられ,善良であられる神は,ご自分の民があきらめずに祈るなら,間違いなくこたえてくださるということです。それでイエスは続けて,「あなた方に言いますが,[神は]彼らのため速やかに公正が行なわれるようにしてくださるのです」と言われます。
立場の低い人や貧しい人が公正な扱いを受けることは余りありませんが,権力のある人や富んだ人はしばしば優遇されます。しかし神は,邪悪な者たちが公正な処罰を受けるよう取り計らってくださるだけでなく,ご自分の僕たちに永遠の命を与えて,彼らが必ず公正な扱いを受けるようにしてくださいます。それにしても,速やかに公正が行なわれるよう神が取り計らってくださることを確信している人々はどれほどいるでしょうか。
イエスは,特に祈りの力と関係のある信仰に触れて,「人の子が到来する時,地上にほんとうに信仰を見いだすでしょうか」とお尋ねになります。この質問に対する答えは与えられないままになりますが,これは,キリストが王国の権威を持って到着される時,そのような信仰はあまり見られない,ということを暗に示しているのかもしれません。
イエスの話を聴いている人々の中には,自分の信仰に相当自信を持っている者たちがいます。彼らは,自分は義にかなっているのだと自負し,他の人たちを見下げます。イエスの弟子の中にもそういう人の部類に入る者がいるかもしれません。それでイエスは,それらの者たちに対して次の例えを話されます。
「二人の人が祈りをするため神殿に上りました。一人はパリサイ人,他の一人は収税人でした。パリサイ人は立って,これらのことを自分の中で祈りはじめました。『神よ,わたしは,自分がほかの人々,ゆすり取る者,不義な者,姦淫をする者などのようでなく,またこの収税人のようですらないことを感謝します。わたしは週に二回断食をし,自分が得るすべての物の十分の一を納めています』」。
パリサイ人たちは,他の人に感銘を与えるために人前で義を示すことで有名です。彼らが自分に断食を課している日は普通,月曜日と木曜日です。また彼らは,畑に生えた小さな薬草の十分の一さえ几帳面に支払います。数か月前の幕屋の祭りの際には,彼らが一般の人々を軽視していることが明らかになりました。そのとき彼らは,「律法[つまり,律法に対するパリサイ人の解釈]を知らないこの群衆はのろわれた者たちなのだ」と述べました。
イエスは話を続け,そのような「のろわれた」人たちについてこう言われます。「一方,収税人は離れたところに立って,目を天のほうに上げようともせず,胸をたたきながら,『神よ,罪人のわたしに慈悲をお示しください』と言いました」。その収税人は自分の欠点を謙遜に認めたので,イエスは,「あなた方に言いますが,この人は,先の人より義にかなった者であることを示して家に帰って行きました。自分を高める者はみな辱められますが,自分を低くする者は高められるのです」と言われます。
こうしてイエスは,謙遜であることの必要性をもう一度強調されます。独善的なパリサイ人の影響力が非常に強く,立場や地位が絶えず強調される社会で育ってきたので,イエスの弟子でさえ影響を受けたとしても不思議ではありません。それにしても,イエスは謙遜さに関する何とすばらしい教訓をお与えになったのでしょう。 ルカ 18:1-14。ヨハネ 7:49。
■ 不義の裁き人がやもめの願いを聞き届けるのはなぜですか。また,イエスの例えからどんな教訓が得られますか。
■ イエスはご自分が到来する時に,どんな信仰を見ることを期待しておられますか。
■ イエスはだれに対して,パリサイ人と収税人に関する例えを話されますか。
■ パリサイ人が示したどんな態度を避けるべきですか。
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離婚と子供たちへの愛に関する教訓これまでに生存した最も偉大な人
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95章
離婚と子供たちへの愛に関する教訓
イエスと弟子たちは,西暦33年の過ぎ越しの祭りに出るためエルサレムに向かっています。一行はヨルダン川を渡り,ペレア地区を通って行きます。イエスは数週間前にペレアにおられましたが,その後,友人のラザロが病気になったため,ユダヤに呼び出されました。イエスはペレアにおられたその間に,パリサイ人たちに離婚の話をされました。そこで彼らは再びその問題を持ち出します。
パリサイ人の間には,離婚に関して様々な考え方をするグループがあります。モーセは,「女に何かみだりな点」があれば離婚できると言いました。これは不貞だけに当てはまると考える者もいれば,「何かみだりな点」には非常に小さな違反も含まれると考える者もいます。それでパリサイ人たちは,イエスを試すために,「人が自分の妻を離婚することは,どんな根拠による場合でも許されるのですか」と尋ねます。彼らは,イエスがどう答えても,異なった見方を持つパリサイ人たちと問題を起こすに違いないと考えます。
イエスは,人間のどんな意見にも訴えることなく,結婚の最初の意図に言及して,問題を巧みに処理されます。イエスは,「あなた方は読まなかったのですか」と尋ね,このように話されます。「人を創造された方は,これを初めから男性と女性に造り,『このゆえに,人は父と母を離れて自分の妻に堅く付き,二人は一体となる』と言われたのです。したがって,彼らはもはや二つではなく,一体です。それゆえ,神がくびきで結ばれたものを,人が離してはなりません」。
イエスによれば,神の最初の目的は,夫婦が互いに堅く付くこと,つまり離婚しないことです。もしそうなら,「では,なぜモーセは,離縁証書を与えて妻を離婚することを規定したのですか」と,パリサイ人は言います。
「モーセは,あなた方の心のかたくなさを考え,妻を離婚することであなた方に譲歩したのであり,初めからそうなっていたわけではありません」と,イエスは答えられます。確かに神は,エデンの園で結婚のための真の規準を設けられた時,離婚のための備えは設けられませんでした。
イエスはパリサイ人たちに対してさらに,「あなた方に言いますが,だれでも,淫行[ギリシャ語,ポルネイアから]以外の理由で妻を離婚して別の女と結婚する者は,姦淫を犯すのです」と言われます。こうしてイエスは,ポルネイア,すなわち,はなはだしい性の不道徳が,神に認められる,離婚の唯一の根拠であることを示されます。
弟子たちは,結婚が永続する結合でなければならないこと,そして離婚の根拠となるのはそれしかないことを知り,「妻に対して男の立場がそのようなものであれば,結婚することは勧められません」と言います。結婚を考えている人は結婚のきずなの永続性を真剣に考慮しなければならないということに疑問の余地はありません。
イエスは次に独身について話されます。イエスの説明によれば,性的な面の発育に支障があったために結婚できない,生まれながらの閹人の男子がいます。また,残酷な目に遭って性的能力を奪われ,人によって閹人にされた男子もいます。最後に,天の王国に関係した事柄に一層十分身をささげられるよう,結婚して性関係を楽しみたいという欲望を抑える男子がいます。イエスは結論として,「[独身]を受け入れることのできる人は,受け入れなさい」と言われます。
さて,人々は幼子たちをイエスのもとに連れて来るようになります。ところが,弟子たちは,不必要なストレスからイエスを守りたいと思ったのでしょう,子供たちを叱って追い払おうとします。しかしイエスは,「幼子たちをわたしのところに来させなさい。止めようとしてはなりません。神の王国はこのような者たちのものだからです。あなた方に真実に言いますが,だれでも,幼子のように神の王国を受け入れる者でなければ,決してそれに入れないのです」と言われます。
イエスはここで何と優れた教訓を与えておられるのでしょう。神の王国を受けるためには,幼子の謙遜さと教えやすさに倣わなければなりません。しかし,イエスの模範はまた,特に親が子供たちと一緒に時を過ごすことの大切さを例証しています。イエスは今,子供たちを両腕に抱き寄せて祝福することにより,子供たちへの愛を示されます。 マタイ 19:1-15。申命記 24:1。ルカ 16:18。マルコ 10:1-16。ルカ 18:15-17。
■ パリサイ人たちは離婚に関してどんな様々な見方を持っていますか。それで彼らはイエスをどのように試しますか。
■ イエスは,パリサイ人たちがご自分を試そうとするときにどう対処されますか。また,離婚の唯一の根拠として,何を挙げられますか。
■ 結婚することは勧められない,とイエスの弟子たちが言うのはなぜですか。イエスはどんなことをお勧めになりますか。
■ イエスは幼子たちに対する扱いを通して,わたしたちに何を教えておられますか。
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イエスと,富んだ若い支配者これまでに生存した最も偉大な人
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96章
イエスと,富んだ若い支配者
イエスがエルサレムに向かってペレア地区を進んでおられると,ある若い人が走り寄って来てイエスの前にひざまずきます。その人は支配者と呼ばれています。多分,地元の会堂で顕著な地位を占めている,あるいはサンヘドリンの一員であるという意味でそう呼ばれているのでしょう。その人はまた非常に富んでいます。「善い師よ,永遠の命を受け継ぐためには何をしなければならないでしょうか」と,その人は尋ねます。
「なぜわたしのことを善いと呼ぶのですか。ただひとり,神以外には,だれも善い者はいません」と,イエスはお答えになります。その青年は「善い」という言葉を称号として用いているようです。そこでイエスは,そうした称号に値するのは神だけであるということをお知らせになります。
「しかし,命に入りたいと思うならば,おきてを絶えず守り行ないなさい」と,イエスは言葉を続けられます。
「どのおきてですか」と,その人は尋ねます。
イエスは十のおきてのうち五つを引用して,「ほかでもない,あなたは殺人をしてはならない,姦淫を犯してはならない,盗んではならない,偽りの証しをしてはならない,あなたの父と母を敬いなさい」とお答えになります。そして,さらに重要なおきてを付け加えて,「隣人を自分自身のように愛さねばならない」と言われます。
「わたしはそれらをみな若い時からずっと守ってきました」と,その人は本当に誠実に答えます。そして,「まだ何が足りないのですか」と尋ねます。
イエスは,その人の熱心で真剣な求めを聴いて愛を感じますが,その人が物質の所有物に愛着を感じていることに気づかれます。それで,その人の必要を指摘し,「あなたには一つのことが欠けています。行って,あなたが持っている物をみな売り,貧しい人たちに与えなさい。そうすれば,天に宝を持つようになるでしょう。それから,来て,わたしの追随者になりなさい」と言われます。
イエスは,その人が立ち上がり,ひどく悲しんで去って行くのをご覧になり,哀れみを感じられたことでしょう。その人は富んでいるために,真の宝の価値が見えないのです。イエスは,「お金を持つ人々が神の王国に入るのは何と難しい……のでしょう」と嘆かれます。
弟子たちはイエスの言葉にたいへん驚きますが,イエスがそれに続いて一般的な傾向を述べられると,さらに驚嘆します。イエスは,「実際,富んだ人が神の王国に入るよりは,らくだが縫い針の穴を通るほうが易しいのです」と言われます。
弟子たちが知りたいのは,「実際のところ,だれが救いを得られるのでしょうか」ということです。
イエスは彼らをまともに見て,「人には不可能でも,神にとってはそうではありません。神にとってはすべてのことが可能なのです」と答えられます。
ペテロは,自分たちがあの富んだ若い支配者とは大いに異なる選択をしてきたことに触れて,「ご覧ください,わたしたちはすべてのものを後にして,あなたに従ってまいりました」と述べます。それで,「実際のところ,わたしたちのためには何があるのでしょうか」と尋ねます。
イエスは,「再創造のさい,人の子が自分の栄光の座に座るときには,わたしに従ってきたあなた方自身も十二の座に座り,イスラエルの十二の部族を裁くでしょう」と,約束なさいます。そうです,イエスは,物事がエデンの園の場合のようになる,地上の状態の再創造があることを示しておられるのです。そして,ペテロや他の弟子たちは,全地に及ぶこの楽園をキリストと共に支配するという報いを受けます。確かに,そうしたすばらしい報いには,どんな犠牲をも払うだけの価値があります。
しかし,今でさえ数々の報いがあります。イエスは,「わたしのため,また良いたよりのために,家,兄弟,姉妹,母,父,子供,あるいは畑を後にして,今この時期に百倍を,すなわち家と兄弟と姉妹と母と子供と畑を迫害と共に得,来たらんとする事物の体制で永遠の命を得ない者はいません」とはっきり述べておられます。
イエスが約束しておられるとおり,イエスの弟子は,世界のどこに行っても,実の家族との関係よりも緊密で貴重な,仲間のクリスチャンたちとの関係を享受します。富んだ若い支配者はどうやら,この報いも,神の天の王国における永遠の命という報いも失うことになりそうです。
それからイエスは,「しかしながら,多くの最初の者が最後に,最後の者が最初になるでしょう」と付け加えられます。これはどういう意味でしょうか。
イエスは,富んだ若い支配者のように,宗教上の特権を享受する点で「最初の者」である多くの人は王国に入らないと言っておられるのです。彼らは「最後」になります。しかし,イエスの謙遜な弟子たちのように,独善的なパリサイ人たちから「最後の者」として ― 地の民,つまりアム・ハーアーレツとして ― 見下されている多くの人は,「最初」になります。「最初」になるというのは,彼らが王国でキリストの共同支配者になる特権を与えられるという意味です。 マルコ 10:17-31。マタイ 19:16-30。ルカ 18:18-30。
■ この富んだ青年は見たところどんな支配者ですか。
■ 善いと呼ばれることにイエスが異議を唱えられるのはなぜですか。
■ 若い支配者の経験は,富むことの危険をどのように例証していますか。
■ イエスは追随者たちにどのような報いを約束なさいますか。
■ どのようにして,最初の者は最後に,最後の者は最初になりますか。
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ぶどう園の働き人たちこれまでに生存した最も偉大な人
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97章
ぶどう園の働き人たち
「多くの最初の者が最後に,最後の者が最初になるでしょう」と,イエスは話されたところです。次にイエスはそのことを例えで示すため一つの物語をされます。「天の王国は,自分のぶどう園に働き人を雇うため朝早く出かけた人,つまりそのような家あるじのよう……です」と,イエスは話し始められます。
話は続きます。「[家あるじ]は,働き人たちと一日一デナリということで合意すると,彼らを自分のぶどう園に送り込みました。第三時ごろにも出て行き,ほかの者たちが仕事をしないで市の立つ広場に立っているのを見ました。そこでその人たちに言いました,『あなた方もぶどう園に行きなさい。何でも正当なものを上げますから』。それで彼らは出かけて行きました。家あるじは,第六時と第九時ごろにも出て行って,同じようにしました。最後に,第十一時ごろに出て行き,ほかの者たちが立っているのを見つけました。それで彼らに言いました,『なぜあなた方は仕事をしないで一日中ここに立っていたのか』。彼らは言いました,『だれもわたしたちを雇ってくれなかったからです』。家あるじは言いました,『あなた方もぶどう園に行きなさい』」。
家あるじ,つまりぶどう園の持ち主はエホバ神で,ぶどう園はイスラエル国民です。ぶどう園の働き人たちとは,律法契約に入れられた人々で,特に使徒たちの時代に生きているユダヤ人のことです。賃金契約は,丸1日働く人々とだけ結ばれます。賃金は1日の仕事に対して1デナリです。「第三時」とは午前9時のことなので,第三時,第六時,第九時,第十一時に呼ばれた人たちは,それぞれ9時間,6時間,3時間,1時間だけ働きます。
12時間,つまり丸1日働く人々は,宗教上の奉仕に絶えず従事してきたユダヤ教の指導者たちを表わしています。彼らは,生活の大部分を漁業や他の世俗の仕事をすることに費やしてきたイエスの弟子たちのようではありません。「家あるじ」は,西暦29年の秋になって初めてイエス・キリストを遣わし,それらの人々を集めてイエスの弟子としました。こうして彼らは「最後の者」,つまり第十一時に呼ばれたぶどう園の働き人になりました。
ついに,象徴的な仕事日がイエスの死と共に終わり,働き人たちに支払いをする時が来ます。異例な取り決めに従って,最後の者が最初に支払いを受けます。こう説明されています。「夕方になったとき,ぶどう園の主人は管理の者に言いました,『働き人たちを呼んで,賃金を払いなさい。最後の者から始めて順に最初の者にまでゆきなさい』。第十一時の者たちが来て,各々一デナリを受けました。それで,最初の者たちが来たとき,自分たちはもっと受けるものと考えました。ところが,彼らもやはり一デナリの割で支払いを受けました。それを受けると,彼らは家あるじに向かってつぶやきはじめ,『これら最後の者は一時間働いただけだ。それなのに,あなたは彼らを,一日の重荷と焼けつく暑さに耐えたわたしたちと同等にした!』と言いました。しかし家あるじは彼らの一人に答えて言いました,『君,わたしはあなたに何も不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリで合意したではないか。あなたの分を受け取って,行きなさい。わたしはこの最後の者にもあなたと同じように与えたいのだ。わたしが自分のもので自分の望むことを行なってもよいではないか。それとも,わたしが善良なので,あなたの目はよこしまになるのか』」。イエスは最後にもう一度前に述べた要点を繰り返し,「このように,最後の者が最初に,最初の者が最後になるでしょう」と言われました。
デナリを受け取るのは,イエスが亡くなられた時ではなく,「管理の者」であるキリストがご自分の弟子たちの上に聖霊を注がれる西暦33年のペンテコステの時です。それらイエスの弟子たちは「最後の」,すなわち第十一時の働き人のようです。デナリは聖霊の賜物それ自体を表わしているわけではありません。デナリは弟子たちがこの地上で用いるものです。それは,弟子たちの暮らしや永遠の命を意味するものです。それは神の王国を宣べ伝えるために油そそがれた霊的なイスラエル人になるという特権です。
最初に雇われた人たちはやがて,イエスの弟子たちが支払いを受けたことに気づきます。そしてそれらの弟子たちが象徴的なデナリを用いているのを目にします。ところが最初の者たちは,聖霊やそれに関連した王国の特権以上のものを望みます。彼らのつぶやきや不満は,ぶどう園の「最後の」働き人たちである,キリストの弟子たちを迫害するという形を取ります。
イエスの例えの成就は,この1世紀における成就だけで終わるのでしょうか。いいえ,そうではありません。この20世紀のキリスト教世界の僧職者たちは,その立場や責任のゆえに,神の象徴的なぶどう園での仕事のために雇われた「最初の者」となってきました。彼らは,ものみの塔聖書冊子協会と交わる献身した伝道者たちを,神への奉仕において何らかの正当な割り当てを持つ者の「最後の」者たちとみなしました。しかし実際には,デナリ,すなわち神の天的王国の油そそがれた大使として仕えるという誉れを受けたのは,僧職者たちが見下げた,まさにそれらの者たちだったのです。 マタイ 19:30-20:16。
■ ぶどう園は何を表わしていますか。ぶどう園の持ち主,12時間働く人たち,また1時間働く人たちはそれぞれだれを表わしていますか。
■ 象徴的な仕事日はいつ終わりましたか。支払いが行なわれたのはいつですか。
■ デナリを支払うことは何を表わしていますか。
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イエスの死を目前にして,弟子たちは言い争うこれまでに生存した最も偉大な人
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98章
イエスの死を目前にして,弟子たちは言い争う
イエスと弟子たちはヨルダン川の近くに来ています。川を渡って,ペレア地区からユダヤに入るのです。あと1週間ほど先に迫った西暦33年の過ぎ越しの祭りを祝うため,ほかにも大勢の人が一緒に旅行しています。
弟子たちはイエスが先に立って歩いて行かれるので,その大胆な決意にたいへん驚きます。数週間前にラザロが死んで,イエスがペレアからユダヤに入って行こうとされた時,トマスがほかの弟子たちに,「わたしたちも行って,共に死のうではないか」と言ったことを思い出してください。また,イエスがラザロを復活させた後,サンヘドリンがイエスの殺害を計画したことも思い出してください。今回再びユダヤに入ろうとしている弟子たちが恐れるのも不思議ではありません。
イエスは前途にある事柄に弟子たちを備えさせるため,12人をそっとわきに連れて行き,このように言われます。「さあ,わたしたちはエルサレムに上って行きます。そして,人の子は祭司長と書士たちのもとに引き渡され,彼らはこれを死罪に定めて諸国の人々に引き渡します。ついで彼らはこれを愚弄し,つばをかけ,むち打ち,そして殺します。しかし三日後に彼はよみがえるのです」。
ここ数か月の間に,イエスがご自分の死と復活について弟子たちに話をされたのはこれが三度目です。弟子たちはその話に耳を傾けましたが,理解できませんでした。それは彼らが,イスラエル王国は地上に回復されると信じ,キリストと共に地上の王国で栄光と誉れを享受するのを待ち望んでいるためかもしれません。
過ぎ越しの祭りに行く旅行者たちの中に,使徒ヤコブとヨハネの母親であるサロメがいます。イエスはこれらの男子を“雷の子ら”と呼ばれましたが,それは彼らの気性が激しかったからに違いありません。一時期,二人はキリストの王国で高い地位に就こうという野心を抱き,その願いを母親に知らせました。そこで母親は息子たちのためにイエスに近づき,その前で身をかがめて,恵みを願い求めます。
「あなたは何を望むのですか」と,イエスはお尋ねになります。
「これらわたしの二人の息子が,あなたの王国で,一人はあなたの右に,一人はあなたの左に座るようお申しつけください」と,彼女は言います。
それがだれの求めによる願い事かに気づかれたイエスは,ヤコブとヨハネにこう言われます。「あなた方は自分が何を求めているかを知っていません。あなた方は,わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか」。
「できます」と,彼らは答えます。彼らは,イエスが激しい迫害に遭って,最後に処刑されることを話されたばかりなのに,イエスが飲もうとしておられる「杯」にそのような意味があることを理解していないようです。
それでも,イエスは彼らにこうお告げになります。「確かにあなた方はわたしの杯を飲むでしょう。しかし,わたしの右また左に座るこのことは,わたしの授けることではなく,わたしの父によってそれが備えられている人たちのものです」。
やがて,他の10人の使徒はヤコブとヨハネが願い求めた事柄を知って,憤慨します。以前に使徒たちの間でだれが一番偉いかについて議論が起きたとき,ヤコブとヨハネは先頭に立って語っていたのかもしれません。二人がこの問題に関してイエスのお与えになった諭しを自分たちに当てはめていなかったことは,今回の要望を見ても明らかです。残念なことに,彼らは目立つことをまだ強く望んでいます。
イエスは,最近に起きたこの論争とそのために生じた反目に対処するため,12人を呼び集めます。そして,愛をこめて彼らを諭し,このように言われます。「あなた方は,諸国民の支配者たちが人々に対して威張り,偉い者たちが人々の上に権威を振るうことを知っています。あなた方の間ではそうではありません。かえって,だれでもあなた方の間で偉くなりたいと思う者はあなた方の奉仕者でなければならず,また,だれでもあなた方の間で第一でありたいと思う者はあなた方の奴隷でなければなりません」。
イエスは弟子たちが見倣うべき模範を残されました。そのことをこのように説明されます。「ちょうど人の子が,仕えてもらうためではなく,むしろ仕え,自分の魂を,多くの人と引き換える贖いとして与えるために来たのと同じです」。イエスは他の人々のために仕えて来られただけでなく,人類のために命をなげうつまでに仕える決意をもしておられるのです。弟子たちもそれと同じように,仕えてもらうよりも仕えることを願い,目立った立場に就くよりもより小さな者になることを願う,キリストのような気質を必要としています。 マタイ 20:17-28。マルコ 3:17; 9:33-37; 10:32-45。ルカ 18:31-34。ヨハネ 11:16。
■ なぜ弟子たちは恐れているのですか。
■ イエスはどのようにして,前途にある事柄に弟子たちを備えさせますか。
■ イエスに対し,どんな願い事がなされますか。他の使徒たちはどんな影響を受けますか。
■ イエスは使徒たちの問題にどのように対処されますか。
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イエスはエリコで教えるこれまでに生存した最も偉大な人
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99章
イエスはエリコで教える
イエスと,イエスについて来ている群衆はやがてエリコに着きます。エルサレムからその町までは1日の道のりです。エリコは二つの町でできていたようです。古くからあるユダヤ人の町と新しくできたローマ人の町は,1㌔半ほど離れていました。群衆が古い町から出て,新しい町に近づくと,そのざわめきが二人の盲目のこじきにも聞こえてきました。そのうちの一人はバルテマイといいます。
バルテマイとその友達は,そばを通っておられるのがイエスだということを知ると,「主よ,わたしたちに憐れみをおかけください,ダビデの子よ!」と叫びだします。群衆が二人に,静かにしなさいと厳しく言うと,二人はますます大きな声で叫び,「主よ,わたしたちに憐れみをおかけください,ダビデの子よ!」と言います。
イエスはその騒ぎを聞いて,立ち止まられます。そして一緒にいる者たちに,叫んでいる人たちを呼んで来なさい,と言われます。彼らが盲目のこじきのところに行き,そのうちの一人に,「勇気を出して,立ち上がりなさい。あなたをお呼びなのだ」と言うと,その盲人は興奮を抑えきれず,外衣を脱ぎ捨て,躍り上がってイエスのもとに行きます。
「わたしに何をして欲しいのですか」と,イエスはお尋ねになります。
「主よ,わたしたちの目が開くようにしてください」と,二人の盲人は懇願します。
イエスは哀れに思い,彼らの目にお触れになります。マルコの記述によると,イエスはそのうちの一人に,「行きなさい。あなたの信仰があなたをよくならせました」と言われます。盲人のこじきたちはすぐに視力を取り戻します。ですから,二人は神の栄光をたたえ始めたに違いありません。起きた事柄を見ると人々はみな神を賛美します。さっそくバルテマイとその友達は,イエスに付いて行くようになりました。
イエスがエリコの中を進んで行かれると,群衆は非常に大勢になります。みんなが,盲人をいやした方を見たいと思っています。人々が四方八方からイエスのところに押し寄せるため,イエスをちらっと見ることさえできない人もいます。ザアカイもそうです。ザアカイは,エリコの中とその周辺の収税人たちの長でした。でも背がとても低いので,起きていることを目にすることができません。
それでザアカイは,先に走って行き,イエスが進んで行かれる道のそばのいちじく桑の木によじ登ります。この高いところからは何でもよく見えます。群衆が近づいたとき,イエスは木の上のほうに向かって,「ザアカイよ,急いで下りて来なさい。わたしは今日,必ずあなたの家にとどまるからです」と呼びかけられます。ザアカイは歓びながら下りて来て,急いで家に戻り,この大切なお客さまを迎えるための支度を整えます。
しかしその様子を見ていた人々は,みんなぶつぶつ言いはじめます。イエスがあのような男の客になるのはふさわしくない,と考えたのです。なにしろザアカイは,税を集める仕事をするとき,不正にお金をゆすり取って金持ちになったのですから。
大勢の人々が付いて来ました。そしてイエスがザアカイの家に入ると,人々は,「罪人である人のところに泊まりに行ったのか」と不平を言います。しかしイエスは,ザアカイに悔い改める可能性のあることをご覧になります。イエスは落胆されませんでした。というのは,ザアカイが立ち上がって,こう宣言したからです。「ご覧ください,主よ,わたしは持ち物の半分を貧しい人々に与えていますし,何でも言いがかりをつけて人からゆすり取ったものは,四倍にして元に返しています」。
ザアカイは持ち物の半分を貧しい人々に与え,もう半分を,自分がだました人々への返済に当てることによって,自分の悔い改めが本物であることを証明します。その人たちへいくら払うべきかは,収税帳簿から計算できたようです。それでザアカイは,『人が羊を盗んだ場合,その者はその羊に対して四頭の羊をもって償う』と神の律法にあるとおり,4倍にして返すことを誓います。
イエスは,ザアカイが自分の持ち物を分配すると約束したのをご覧になって,お喜びになりました。というのは,このように言われたからです。「この日に救いはこの家に来ました。この人もまたアブラハムの子だからです。人の子は,失われたものを尋ね求め,それを救うために来たのです」。
少し前にイエスは,放とう息子の物語をして,『失われたもの』の状態を例えで説明されました。でも今回の話は,失われたものが見いだされた実例です。イエスがザアカイのような人々に注意を向けられることについて,宗教指導者たちや彼らに従う人々がぶつぶつ不平を言っても,イエスは引き続き,アブラハムの失われた子たちを捜しだしてゆかれます。 マタイ 20:29-34。マルコ 10:46-52。ルカ 18:35-19:10。出エジプト記 22:1。
■ イエスはどこで盲目のこじきに会われたようですか。イエスは彼らのために何をされますか。
■ ザアカイとはどんな人ですか。ザアカイが木によじ登ったのはなぜですか。
■ ザアカイはどのように悔い改めを実証しましたか。
■ ザアカイに対するイエスの接し方から,どんな教訓が学べますか。
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ミナの例えこれまでに生存した最も偉大な人
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100章
ミナの例え
おそらくイエスは,エルサレムへ行く途中に立ち寄られた,ザアカイの家にまだおられます。イエスの弟子たちは,エルサレムに着けばイエスはご自分がメシアであることを宣言して,ご自分の王国を立てられるのだろうと思っています。この考えを正して,王国はまだずっと先のものであることを示すために,イエスは一つの例えを話されます。
「ある高貴な生まれの人が,王権を確かに自分のものとして帰るため,遠くの土地へ旅行に出ました」とイエスは話されます。イエスはこの「高貴な生まれの人」で,「遠くの土地」とは天です。イエスがそこに到着されるとき,み父はイエスに王権をお授けになるのです。
けれども,出発する前にその高貴な生まれの人は十人の奴隷を呼んで,それぞれにミナ銀貨を一つ与え,「わたしが来るまで商売をしなさい」と言います。この十人の奴隷は,最初の成就では,イエスの初期の弟子たちを表わしています。もっと広い意味では,この奴隷たちは天の王国でイエスと一緒に相続人になる見込みのある人全部を表わしています。
ミナ銀貨は価値の高いお金で,一ミナは畑仕事をする人が約3か月働いてもらう賃金と同じ額です。でも,ミナは何を表わしているのでしょうか。また,奴隷たちはそのミナを使って,どんな商売をするのですか。
ミナは,イエスが約束の王国の王となって戻って来られる時まで,天の王国の相続者をさらに多く生み出すために,霊によって生み出された弟子たちが活用することのできた資産を表わしています。イエスは復活して弟子たちに現われた後,さらに多くの人々を弟子として天の王国級の人々を増やせるよう,弟子たちに象徴的なミナをお与えになりました。
イエスは話を続けられます。「ところが,その市民は[高貴な生まれの人]を憎み,その後から一団の大使を送って,『この人がわたしたちの王になることは望みません』と言わせました」。市民とは,イエスの弟子たちを除いたイスラエル人,またはユダヤ人です。イエスが天に去った後,これらのユダヤ人はイエスの弟子たちを迫害して,イエスに王になってほしくないと思っていることを知らせました。このようにして,ユダヤ人たちは,一団の大使を送った市民のように行動していました。
十人の奴隷たちはどのようにミナを使うでしょうか。イエスはこう説明されます。「やがて,王権を確かに得て戻って来た時,彼は,銀子を与えておいたこれらの奴隷を呼び寄せるように命令しました。彼らが商取引きをしてもうけたものを確かめるためでした。そこで,最初の者が出て来て言いました,『主よ,あなたの一ミナは十ミナをもうけました』。それで彼は言いました,『よくやった,善良な奴隷よ! あなたは非常に小さな事において忠実であることを示したから,十の都市に対する権威を持ちなさい』。さて,二番目の者が来て言いました,『主よ,あなたの一ミナが五ミナを得ました』。彼はこの者にも言いました,『あなたも五つの都市を受け持ちなさい』」。
十ミナを持った奴隷は,使徒たちを含む,西暦33年のペンテコステから現在に至るまでの弟子たちの級,またはグループを表わしています。五ミナをもうけた奴隷も,同じ期間に,自分に与えられた機会や能力に応じて,王の資産を地上で増やすグループを表わしています。どちらのグループも良いたよりを熱心に宣べ伝え,結果として大勢の心の正しい人々がクリスチャンになります。奴隷のうちの9人は上手に商売をして,自分の持ち物を増やしました。
イエスは話を続けられます。「しかし,別の者が来て言いました,『主よ,ここにあなたの一ミナがあります。わたしはこれを布にくるんでしまっておきました。お分かりでしょうが,わたしはあなたが怖かったのです。あなたは厳しい方だからです。ご自分の預けなかったものを取り立て,まかなかったものを刈り取られるのです』。彼はその者に言いました,『わたしはあなた自身の口からあなたを裁く,邪悪な奴隷よ。わたしが厳しい人間であり,自分の預けなかったものを取り立て,まかなかったものを刈り取ることを知っていたというのか。それなら,わたしの銀子を銀行に入れなかったのはどうしてか。そうしておけば,わたしは到着の折,それを利息と一緒に集めただろうに』。そうして彼はそばに立っている者たちに言いました,『この者からその一ミナを取って,十ミナ持っている者に与えなさい』」。
邪悪な奴隷にとって象徴的なミナを失うことは,天の王国での立場を失うことを意味します。そうです,邪悪な奴隷は,いわば十あるいは五つの都市を治める特権を失うのです。この奴隷が何か悪いことをしたために邪悪だと言われたのではなく,むしろ主人の王国の富を増やさなかったためにそう言い渡されたという点にも注意してください。
邪悪な奴隷のミナが最初の奴隷に渡されると,「主よ,彼は十ミナも持っています!」という反対の声が上がります。しかしイエスはこうお答えになります。「すべて持っている者にはさらに与えられ,一方,持っていない者からは,その持っているものまで取り上げられるのだ。それから,わたしがその王となることを望まなかったこれらわたしの敵どもをここに連れて来て,わたしの前で打ち殺せ」。 ルカ 19:11-27。マタイ 28:19,20。
■ イエスはどんなことからミナの例えを話されますか。
■ 高貴な生まれの人とはだれですか。この人が行く土地とはどこですか。
■ 奴隷たちはだれですか。また,ミナは何を表わしていますか。
■ 市民とはだれですか。その人々は自分たちの憎しみをどのように示しますか。
■ 一人の奴隷が邪悪であると言われたのはなぜですか。この奴隷がミナを失うことは,何を意味していますか。
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ベタニヤのシモンの家でこれまでに生存した最も偉大な人
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101章
ベタニヤのシモンの家で
イエスはエリコを出発してベタニヤに向かわれます。これは,険しい地域を19㌔も登ってゆく旅なので,ほとんど一日かかります。エリコは海面下約250㍍のところにありますが,ベタニヤは海抜約760㍍のところにあります。ベタニヤには,ラザロとその姉妹たちの家があることをあなたは思い出すでしょう。この小さな村は,エルサレムから約3㌔のところにあり,オリーブ山の東の斜面に位置しています。
大勢の人々が,過ぎ越しを祝うためにもうエルサレムに着いています。この人々は儀式上の清めをするために早く来たのです。おそらく死体に触るか何かをして汚れた状態にあったのでしょう。それで彼らは,受け入れられる状態で過ぎ越しを祝うため,手順に従って自分を清めるのです。早くから来ているそれらの人たちが神殿に集まると,大勢の人々は,イエスが過ぎ越しにやって来るかどうかについていろいろと予想しています。
エルサレムは,イエスについての論争が起こりやすいところです。宗教指導者がイエスを捕まえて殺そうとしていることは,みんなが知っています。事実,イエスの居所を知っている者は,宗教指導者たちに通報せよという命令が出されているのです。指導者たちは,ここ数か月の間に3回もイエスを殺そうとしました。幕屋の祭りと献納の祭りの時,それからラザロを復活させた後です。それで人々は,イエスがもう一度人中に姿を現わすようなことをするだろうかといぶかっています。人々は「あなた方の意見はどうだ」と互いに話し合っています。
そうしているうちに,イエスはユダヤの暦でニサン14日に当たる過ぎ越しの6日前にベタニヤに到着されます。イエスは金曜日の夕方のいつか,つまりニサン8日の始まるころベタニヤに着かれます。安息日 ― 金曜日の日没から土曜日の日没まで ― に旅をすることはユダヤ人の律法で禁じられていたので,イエスは土曜日にはベタニヤへ行くことができませんでした。それでおそらく以前のようにラザロの家に行き,そこで金曜の夜を過ごされたのでしょう。
しかしベタニヤに住んでいる別の人が,イエスとその一行を土曜日の夕食に招きます。この人はシモンで,以前はらい病人でしたが,おそらくイエスに癒されていたのでしょう。マルタは勤勉な性格の人らしく客の給仕をしています。しかしマリアは,いかにも彼女らしく,イエスによく心を配りますが,今回はそれがもとで論争が起きます。
マリアは,「本物のナルド」の香油が450㌘ほど入っている雪花石こうの容器,つまり小さなびんを開けます。これは大変高価なものです。実際にその値段は1年分の賃金と同じくらいなのです。マリアがその油をイエスの頭と足にかけ,自分の髪でイエスの足をふくと,家中に香油の香りが漂います。
弟子たちは憤慨し,「なぜこんな無駄なことを」と言います。そしてユダ・イスカリオテは,「どうしてこの香油を三百デナリで売って,貧しい人々に施さなかったのか」と言います。しかしユダは貧しい人のことを本当に気にかけているのではありません。というのはユダは弟子たちが保管している金箱からお金を盗んでいたからです。
イエスはマリアを弁護されます。「彼女をそのままにしておきなさい」とお命じになります。「なぜあなた方は彼女を困らせようとするのですか。彼女はわたしに対してりっぱな行ないをしたのです。あなた方にとって,貧しい人たちは常におり,あなた方はいつでも望む時に彼らに善を行なえますが,わたしは常に共にいるわけではないからです。彼女は自分にできることをしました。埋葬を見越してわたしの体に前もって香油を付けようとしたのです。あなた方に真実に言いますが,世界中どこでも良いたよりが宣べ伝えられる所では,この女のしたことも,彼女の記念として語られるでしょう」。
イエスはベタニヤに24時間以上おられるので,イエスがそこにおられるという話が広まります。それで,大勢の人がイエスを見るため,シモンの家へやってきます。でも,人々はそこにいるラザロも見ようとしてやって来ます。そこで祭司長たちは,イエスばかりかラザロも殺そうと相談します。多くの人々は,イエスが復活させた人が生きているのを見て,イエスに信仰を持つようになっているからです。これらの宗教指導者たちは,実際なんと悪らつなのでしょう。 ヨハネ 11:55-12:11。マタイ 26:6-13。マルコ 14:3-9。使徒 1:12。
■ エルサレムの神殿ではどんなことが論議されていますか。なぜですか。
■ イエスは土曜日ではなく金曜日にベタニヤに着かれたに違いありませんが,それはどうしてですか。
■ イエスはベタニヤに来られるとき,恐らくどこで安息日を過ごされますか。
■ マリアのどんな行ないが,論争を引き起こしますか。イエスはどのようにマリアを弁護されますか。
■ 祭司長たちの悪らつさは,どんなことに表われますか。
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エルサレムへ勝利の入城をするキリストこれまでに生存した最も偉大な人
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102章
エルサレムへ勝利の入城をするキリスト
次の朝,ニサン9日の日曜日に,イエスは弟子たちと共にベタニヤを出発し,オリーブ山を越えてエルサレムへと向かわれます。ほどなくして一行は,オリーブ山にあるベテパゲに近づきました。イエスは二人の弟子に次のような指示をお与えになります。
「行って,向こうに見えるあの村に入りなさい。そうすれば,あなた方はすぐに,一頭のろばがつながれ,それと一緒に子ろばがいるのを見つけるでしょう。それらをほどいてわたしのところに連れて来なさい。そして,だれかが何か言うなら,『主がこれらをご入り用なのです』と言わねばなりません。そうすれば,彼はすぐにそれをよこすでしょう」。
初めのうち弟子たちは,これらの指示が聖書の預言の成就と関係があることを認識できませんでしたが,後でそのことに気づきました。預言者ゼカリヤは,神の約束された王が,ろばに,「しかも成熟した,雌ろばの子に乗って」エルサレムに入ることを予告していました。同じようにソロモン王も,ろばの子に乗って,自分が油そそぎを受ける場所へ行きました。
弟子たちがベテパゲに入り,子ろばと雌ろばを連れて行こうとすると,そこにいた人の幾人かが「何をしているのか」と言います。しかし,弟子たちが,その動物は主のために用いられますと言うと,その人たちはろばをイエスの所へ連れて行くのを許してくれます。弟子たちは,自分たちの外衣を雌ろばと子ろばの上に置きますが,イエスは子ろばのほうに乗られます。
イエスがエルサレムへ向かって乗り進むにつれ,群衆は増えていきます。ほとんどの人が自分の外衣を道路に敷きます。木の枝を切り落としてそれを敷く人々もいます。「エホバのみ名によって王として来るのは祝福された者! 天に平和,至高の所に栄光あれ!」と,群衆は叫びます。
その群衆の中にいたパリサイ人たちは,こうした言葉を聞いて憤慨し,「師よ,あなたの弟子たちを叱ってください」とイエスに訴えます。しかし,イエスはこうお答えになります。「あなた方に言いますが,もしこれらの者が黙っているなら,石が叫ぶでしょう」。
エルサレムに近づくとイエスはその都市を眺め,エルサレムのために涙を流してこう言われます。「もしあなたが,そうですあなたが,この日に,平和にかかわる事を見分けていたなら ― しかし今,それはあなたの目から隠されているのです」。エルサレムはかたくなに不従順な態度を示したので,必ずその代償を払うことになります。それをイエスは次のように予告されます。
「あなたの敵[ティツス将軍指揮下のローマ軍]が,先のとがった杭でまわりに城塞を築き,取り巻いて四方からあなたを攻めたてる……彼らは,あなたとあなたの中にいるあなたの子らを地面にたたきつけ,あなたの中で石を石の上に残したままにはしておかないでしょう」。イエスが予告されたエルサレムのこの滅びは,その37年後の西暦70年に実際に起きました。
群衆の中の多くの人は,わずか数週間前にイエスがラザロを復活させるのを見ていましたから,他の人たちにその奇跡について盛んに話しています。そのためイエスがエルサレム市内に入られると,市全体が騒ぎ立ちます。「これはだれなのか」,人々は知りたがっています。それで群衆は,「これは預言者イエス,ガリラヤのナザレから来た方だ!」と言いつづけます。起きている事柄を見てパリサイ人たちは,何一つうまくいかないのを嘆きます。彼らが言うとおり,「世は彼に付いて行ってしまった」からです。
イエスはエルサレムを訪れる時の習慣どおり,人々を教えるために神殿へ行かれます。そこへ盲人や足なえの人がやって来ると,その人たちをお治しになります。祭司長と書士たちは,イエスの行なっている驚くべき事柄を見,また神殿の中で少年たちが「救いたまえ,ダビデの子を!」と叫んでいるのを聞いて怒りだします。祭司長たちは「これらの者たちの言っていることが聞こえるか」と抗議します。
それに対しイエスは,「はい。あなた方は,『みどりごや乳飲み子の口から,あなたは賛美を備えられた』とあるのを読んだことがないのですか」とお答えになります。
イエスは教え続け,神殿内のすべての物を見て回られます。すでに時刻は遅くなっています。イエスは12人と共にそこを去り,ベタニヤまで3㌔ほどの道を戻られます。ベタニヤでは,おそらく友人ラザロの家で,日曜日の晩を過ごされます。 マタイ 21:1-11,14-17。マルコ 11:1-11。ルカ 19:29-44。ヨハネ 12:12-19。ゼカリヤ 9:9。
■ イエスは,いつ,どんな方法でエルサレムに王として入城されますか。
■ 群衆がイエスを賛美するのは,どれほど肝要なことですか。
■ イエスはエルサレムを眺めて,どんな気持ちになられますか。どんな預言をされますか。
■ イエスが神殿へ行かれると,どんな事が起きますか。
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再び神殿を訪れるこれまでに生存した最も偉大な人
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103章
再び神殿を訪れる
イエスと弟子たちは,エリコから到着してからベタニヤで三日目の夜を過ごしたところです。ニサン10日の月曜日の朝,あたりがほのかに明るくなるころ,一行はもうエルサレムへ向かっています。イエスは空腹を覚えられます。それで葉をつけたいちじくの木を見つけた時,その木に実がなっているかどうか見に行かれます。
その木は季節でもないのに早々と葉をつけています。6月が来なければいちじくの季節にはならないのです。今はまだ3月の下旬です。しかしイエスは,早くから葉をつけているのだから,実も早くからなっているはずだと考えられたようです。でも,イエスはがっかりさせられます。葉は,木に実があるように見せかけていただけでした。そこでイエスは,「もうお前からはだれも永久に実を食べないように」とその木を呪われます。イエスがそうされたために生じた結果とそれが持つ意義とはその次の朝学ぶことになります。
イエスと弟子たちはさらに旅を続け,やがてエルサレムに到着します。イエスは前日の午後検分された神殿に行かれます。しかし今日は3年前の西暦30年の過ぎ越しに来られた時のように,行動を起こされます。イエスは神殿で売り買いしている者たちを追い出し,両替屋の台と,はとを売っている者たちの腰掛けを倒されます。イエスは神殿の中を通って器物を運ぶことさえ,だれにも許されません。
神殿の中で両替をしたり,動物を売ったりしていた者たちをとがめて,イエスはこう言われます。「『わたしの家はあらゆる国民のための祈りの家と呼ばれるであろう』と書いてあるではありませんか。それなのに,あなた方はそれを強盗の洞くつとしました」。これらの者は,犠牲にする動物を彼らから買うしか方法のない人々に,法外な値段で売りつけていたので,強盗です。それでイエスはこのような商行為を,一種のゆすり,または強盗とみなしておられるのです。
祭司長と書士たち,また民の主立った者たちはイエスのしたことを聞くと,再びイエスを殺させる方法を探るようになります。こうして彼らは自分たちが矯正しようのない者であることを示します。しかし,イエスの語ることを聞こうとして民がみなずっと付きまとっていたので,イエスをどのようにして殺すか決めかねています。
生来のユダヤ人のほかに,異邦人も過ぎ越しに来ています。これら異邦人は,改宗者,つまりユダヤ人の宗教に改宗した人々です。改宗者と思われるあるギリシャ人たちがフィリポに近づき,イエスに会わせてくださいと頼みます。そのような会見がふさわしいかどうかを尋ねるためなのでしょう,フィリポはアンデレのところへ行きます。イエスはまだ神殿におられるようです。その場所ではそれらのギリシャ人もイエスを見ることができます。
イエスは残された命があと数日しかないのを知っておられますから,ご自分の状況を適切な例えで語られます。「人の子が栄光を受けるべき時が来ました。きわめて真実にあなた方に言いますが,一粒の小麦は地面に落ちて死なないかぎり,それはただ一粒のままです。しかし,死ぬならば,そのときには多くの実を結びます」。
一粒の小麦にはわずかな価値しかありません。しかし土の中にまかれて「死ぬ」,つまり種としての命を終えるならどうでしょうか。それはやがて芽を出し,時たつうちに茎となり,非常に多くの穀粒を生みだします。同じように,イエスもただ一人の完全な人間ですが,神への忠実を保って死ぬなら,イエスは,ご自分と同じ自己犠牲の精神を持つ忠実な人々に永遠の命を与える手段となるのです。それでイエスはこう言われます。「自分の魂を慈しむ者はそれを滅ぼしますが,この世において自分の魂を憎む者は,それを永遠の命のために保護することになります」。
イエスがご自分のことだけを考えておられるのでないことは明らかです。というのはイエスは次にこう説明されるからです。「だれでもわたしに仕えようとするなら,その人はわたしの後に従いなさい。そうすれば,わたしのいる所,そこに,わたしに仕える者もいることになります。だれでもわたしに仕えようとするなら,父はその人を尊ばれます」。イエスに従い,仕える者には何とすばらしい報いがあるのでしょう。それは王国でキリストと共にいるという栄誉を父から与えられるという報いなのです。
非常な苦しみと苦痛を伴う死が待っていることを考えながら,イエスは言葉を続けられます。「今わたしの魂は騒ぎます。何と言えばよいのでしょう。父よ,わたしをこの時から救い出してください」。イエスを待っているものを避けることができさえすれば,どんなに良いでしょう。しかし,それはできません。イエスは「わたしはこのゆえにこの時に至ったのです」と述べておられます。イエスはご自身が犠牲としての死を遂げることを含め,神の取り決めすべてに同意しておられるのです。 マタイ 21:12,13,18,19。マルコ 11:12-18。ルカ 19:45-48。ヨハネ 12:20-27。
■ 季節外れであったにもかかわらず,イエスはいちじくが見つかるはずだと思われたのはなぜですか。
■ イエスが神殿で商売をしていた者たちを「強盗」と呼ばれたのはなぜですか。
■ イエスはどんな点で,死ぬ一粒の小麦に似ていますか。
■ イエスはご自分を待ち受けている苦しみと死について,どのように感じておられますか。
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神の声を聞く ― 三度目これまでに生存した最も偉大な人
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104章
神の声を聞く ― 三度目
イエスは神殿におられ,間もなく死に直面しなければならないことを考えて苦しんでおられます。イエスが一番気にかけておられるのは,み父の評判がどうなるかということです。それでイエスは,「父よ,み名の栄光をお示しください」と祈られます。
その時,天から力強い声が響き,「わたしはすでにその栄光を示し,さらにまたその栄光を示す」と宣言します。
周りに立っていた群衆は驚きます。「み使いが彼に話しかけたのだ」と言い出す人もいれば,雷が鳴ったのだと言う人もいます。しかし,実際にはエホバ神が話されたのです。とはいっても,イエスに関連して神からの声が聞こえたのは,これが初めてではありません。
3年半ほど前にイエスがバプテスマを受けた時,バプテスマを施す人ヨハネは神がイエスについて,「これはわたしの子,わたしの愛する者である。この者をわたしは是認した」と言われるのを聞きました。次いで,前回の過ぎ越しのしばらく後に,ヤコブとヨハネとペテロは,自分たちの前でイエスが変ぼうされた時,神が,「これはわたしの子,わたしの愛する者である。わたしはこの者を是認した。この者に聴き従いなさい」と宣言されるのを聞きました。そして今度は,イエスが死なれる四日前のニサン10日に,三度目になる神の声を人々は聞きました。今回は,エホバは大勢の人に聞こえるように話されます。
イエスは,「この声は,わたしのためではなく,あなた方のために生じたのです」と説明されます。この声は,イエスが確かに神の子であり,約束のメシアである証拠となりました。イエスは言葉を続けて,「今,この世の裁きがなされています。今やこの世の支配者は追い出されるのです」と言われます。イエスが忠実な生涯を送られたという事実は,この世の支配者である悪魔サタンが「追い出される」,つまり処刑されるのは当然だということをはっきり示すものとなります。
イエスは間もなく死ぬことにはなるものの,その結果として生じる事柄に注意を促し,「しかしわたしは,自分が地から挙げられたなら,あらゆる人をわたしのもとに引き寄せます」と言われます。イエスの死は決して敗北ではありません。イエスはご自分の死によって,ほかの人々を引き寄せ,その人々が永遠の命を享受できるようにされるからです。
しかし群衆は,異議を唱えます。「わたしたちは律法から,キリストが永久にとどまることを聞きました。それなのに,人の子は挙げられねばならないとあなたが言うのはどうしてですか。この人の子とはだれのことなのですか」。
大部分の人々は,神ご自身の声を聞いたことをも含め,証拠はそろっているにもかかわらず,イエスが正真正銘の人の子,すなわち約束のメシアであることを信じていません。しかし,イエスは半年前の幕屋の祭りの時にしたように,再びご自身のことを「光」として語り,聞いている人たちに対し,「光のあるうちに光に信仰を働かせなさい。光の子らとなるためです」と言われます。これらの事柄を話し終えるとイエスは去って行き,身を隠されます。きっと,命が危険にさらされていたからでしょう。
イエスに対するユダヤ人の信仰の欠如は,『彼らの目は盲目になり,彼らの心はかたくなになった。彼らが立ち返っていやされることがないためである』というイザヤの言葉の成就となります。イザヤは幻の中で,エホバの天の法廷を見ました。エホバのそばには栄光に輝く,人間となられる前のイエスもおられます。それでもユダヤ人たちは,この方が約束の救出者であることを示す証拠をかたくなにも無視し,イザヤの書いた事柄が成就しました。
一方,支配者たちの中に(ユダヤ人の最高法廷であるサンヘドリンの成員と思われる)さえ,イエスに実際に信仰を持つ人が少なくありません。そのうちの二人が,ニコデモとアリマタヤのヨセフです。しかしこれらの支配者たちは,少なくとも当座は自分の信仰を告白しようとしません。会堂における自分の地位から追放されることを恐れているのです。またとない機会を見送るとは,なんと残念なことでしょう。
イエスは続けてこう言われます。「わたしに信仰を持つ者は,わたしだけでなく,わたしを遣わした方にも信仰を持つのです。また,わたしを見る者は,わたしを遣わした方をも見るのです。……しかし,わたしのことばを聞いてそれを守らない人がいても,わたしはその人を裁きません。わたしが来たのは,世を裁くためではなく,世を救うためだからです。……わたしの話した言葉が,終わりの日にその人を裁くのです」。
エホバは,人類の世に対する愛に動かされてイエスを遣わし,イエスに信仰を働かせる者が救われるようにされました。人々が救われるかどうかは,エホバの指示によってイエスが話された事柄に人々が従うかどうかによって決まります。裁きは「終わりの日に」,つまりキリストの千年統治の期間中に行なわれます。
イエスは話の結びにこう述べられます。「わたしは自分の衝動で話したのではなく,わたしを遣わした父ご自身が,何を告げ何を話すべきかについて,わたしにおきてをお与えになったからです。またわたしは,父のおきてが永遠の命を意味していることを知っています。それゆえ,わたしの話すこと,それは,父がわたしにお告げになったとおりに話している事柄なのです」。 ヨハネ 12:28-50; 19:38,39。マタイ 3:17; 17:5。イザヤ 6:1,8-10。
■ どんな三つの場合に,イエスに関して述べる神の声が聞こえましたか。
■ 預言者イザヤは,どのようにイエスの栄光を予見しましたか。
■ イエスに信仰を持った支配者たちとはだれですか。彼らがイエスについて公然と告白しないのはなぜですか。
■ 「終わりの日」とは何のことですか。その時,人々は何に基づいて裁かれますか。
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重要な一日の始まりこれまでに生存した最も偉大な人
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105章
重要な一日の始まり
イエスは月曜日の夕方にエルサレムをたち,オリーブ山の東斜面にあるベタニヤへ戻られます。エルサレムにおけるイエスの最後の宣教はすでに二日終わりました。イエスは友人のラザロの所で再び夜を過ごされるに違いありません。金曜日にエリコから来られて以来,ベタニヤで夜を過ごされたのはこれで四日目です。
さて,ニサン11日の火曜日の朝,イエスと弟子たちは再び道を歩いています。この日はイエスの宣教の中でもたいへん重要で,今までで一番忙しい日になろうとしています。イエスが神殿に現われるのは,この日が最後です。また,イエスが裁判を受け処刑される前に,公の宣教を行なわれる最後の日でもあります。
イエスとその弟子たちは,オリーブ山上の同じ道を通ってエルサレムに向かいます。ベタニヤからのその道で,ペテロは,前日の朝イエスがのろわれた木に気づきます。「ラビ,ご覧ください,あなたがのろわれたいちじくの木は枯れてしまいました」とペテロは言います。
しかし,イエスはなぜ木を枯らしたのでしょうか。イエスはその理由についてこう話されます。「あなた方に真実に言いますが,ただ信仰を抱いて疑うことさえないなら,あなた方は,わたしがこのいちじくの木に行なったようなことができるだけでなく,この山[彼らが立っていたオリーブ山]に,『持ち上がって海に落ちよ』と言ったとしても,そのこともまた起きるのです。そしてあなた方は,信仰を抱いて祈り求めるものすべてを受けるのです」。
それで,イエスはこの木を枯らすことにより,神に信仰を持つことの必要性を,実例をもって弟子たちに教えられたのです。「あなた方が祈りまた求めることすべては,それをすでに受けたのだという信仰を持ちなさい。そうすれば,あなた方はそれを持つことになります」と,イエスは言われます。間近に起きようとしていた恐ろしい試練を考えると,弟子たちにとってこれは本当に重要な教訓でした。しかし,いちじくの木を枯らしたことと信仰の質には,別の関連もありました。
イスラエル国民は,このいちじくの木のように外見で人を欺いていました。この国民は神との契約関係に入っており,外見では神のおきてを守っているかのように見えたかもしれませんが,実際には信仰がなく,良い実を生み出さないことを示してきました。イスラエルには信仰が欠けているため,今も神ご自身のみ子を退けるようなことさえしています。ですから,イエスは実を結ばないいちじくの木を枯らすことにより,この不毛で不信仰な国民に臨む結末を目に見える仕方で示されたのです。
そのすぐ後,イエスと弟子たちはエルサレムへ入り,習慣どおり神殿へ行き,イエスはそこで教えはじめられます。祭司長と民の年長者たちは,前の日にイエスが両替屋たちに対して行なったことを覚えていたのでしょう,「どんな権威でこうしたことをするのか。そして,だれがあなたにこの権威を与えたのか」とイエスに挑みます。
イエスは答えてこう言われます。「わたしも,あなた方に一つのことを尋ねます。あなた方がわたしにそれを言うなら,わたしもあなた方に,どんな権威でわたしがこれらのことを行なうかを言いましょう。ヨハネによるバプテスマ,それはどこから出たものでしたか。天からでしたか,それとも人からでしたか」。
祭司と年長者たちは,どのように答えるべきかを相談しはじめます。「我々が,『天から』と言えば,彼は,『では,なぜ彼を信じなかったのか』と言うだろう。だが,『人から』と言えば,我々にとっては群衆が怖い。彼らは皆ヨハネを預言者と見ているからだ」。
宗教指導者たちは何と答えればよいか分かりません。それで彼らはイエスに,「わたしたちは知らない」と答えます。
そこでイエスは「わたしも,どんな権威で自分がこれらのことを行なうかを,あなた方には言いません」と返答されます。 マタイ 21:19-27。マルコ 11:19-33。ルカ 20:1-8。
■ ニサン11日の火曜日は,どんな重要な日ですか。
■ イエスはいちじくの木を枯らしたとき,どんな教訓をお与えになりましたか。
■ イエスはどんな権威で物事を行なうかについて尋ねた人々に,どのようにお答えになりましたか。
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ぶどう園の例えによって正体をあばくこれまでに生存した最も偉大な人
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106章
ぶどう園の例えによって正体をあばく
イエスは神殿におられます。だれの権威で物事を行なうのかを言うようにと迫った宗教指導者たちをろうばいさせたところです。イエスは,宗教指導者たちがどぎまぎしている間に,「あなた方はどう考えますか」とお尋ねになります。それから例えによって,彼らが実際にはどんな人間かを示されます。
イエスはこう語られます。「ある人に二人の子供がいました。彼は一番目の者のところに行って,『子供よ,今日,ぶどう園に行って働きなさい』と言いました。この者は答えて,『行きます,父上』と言いましたが,出かけて行きませんでした。二番目の者に近づいて,彼は同じことを言いました。この者は答えて,『行きません』と言いました。後ほど彼は後悔して出かけて行きました」。「この二人のうち,どちらが父の意志を行ないましたか」と,イエスはお尋ねになります。
「後の者です」と反対者たちは答えます。
そこでイエスは,「あなた方に真実に言いますが,収税人や娼婦たちがあなた方より先に神の王国に入りつつあるのです」と説明されます。収税人や娼婦たちは,初めのうちは神に仕えることを事実上拒んでいました。しかし,二番目の子供のように後悔して,実際神に仕えました。一方,宗教指導者たちは,一番目の子供のように,神に仕えると公言していましたが,イエスは彼らについてこう言われます。『[バプテスマを施す人]ヨハネが義の道をもってあなた方のところに来たのに,あなた方は彼を信じませんでした。ところが,収税人や娼婦たちは彼を信じました。あなた方は,それを見ながら,あとから後悔して彼を信ずるようにはなりませんでした』。
イエスは次に,これら宗教指導者の失敗が,単に神への奉仕を怠っているという点だけにあるのではないことを示されます。彼らは実際に邪悪でよこしまな者たちなのです。イエスはこう語られます。「ある人,つまり家あるじがいました。その人はぶどう園を設け,その周りに柵を巡らし,その中にぶどうの搾り場を掘り,塔を立て,それを耕作人たちに貸し出して,外国へ旅行に出ました。実りの季節が巡って来たとき,彼は自分の実りを得ようとして耕作人のもとに奴隷たちを派遣しました。ところが,耕作人たちは彼の奴隷たちを捕まえ,ひとりを打ちたたき,もうひとりを殺し,もうひとりを石打ちにしました。彼は再びほかの奴隷を最初より大ぜい派遣しました。しかし彼らはこれらにも同じことをしたのです」。
「奴隷たち」とは,「家あるじ」であるエホバ神がご自分の「ぶどう園」の「耕作人たち」のもとにお遣わしになった預言者たちのことでした。耕作人とは,イスラエル国民を代表する,主立った人たちのことで,聖書は,イスラエル国民が神の「ぶどう園」であることを明らかにしています。
イエスはこう説明されます。「耕作人たち」が「奴隷たち」を虐待して殺してしまったので,「最後に彼[ぶどう園の持ち主]は,『わたしの息子なら尊敬するだろう』と言って,自分の息子を彼らのもとに派遣しました。その息子を見ると,耕作人たちは互いに言いました,『これは相続人だ。さあ,こいつを殺してその相続財産を手に入れよう!』そうして彼を捕まえ,ぶどう園から追い出して殺してしまったのです」。
ここでイエスは宗教指導者たちに,「それで,ぶどう園の持ち主が来るとき,これらの耕作人をどうするでしょうか」とお尋ねになります。
宗教指導者たちは,「その者たちは悪らつですから,惨めな滅びをもたらし,そのぶどう園をほかの耕作人たち,納めるべき時に実りを納める者たちに貸し出すでしょう」と答えます。
こうして宗教指導者たちは,それとは知らずに自分自身に裁きを宣告します。彼らも,エホバが所有しておられたイスラエル国民という「ぶどう園」で働く,イスラエル人の「耕作人たち」の一部だからです。エホバはそのような耕作人たちに,真のメシアであるみ子への信仰という実りを納めるよう期待しておられます。彼らはそのような実を実らせていないので,イエスはこう警告されます。「あなた方は聖書[詩編 118編22節と23節]の中で読んだことがないのですか。『建築者たちの退けたその石が主要な隅石となった。これはエホバから生じたのであり,わたしたちの目には驚嘆すべきものである』とあるのです。このゆえにあなた方に言いますが,神の王国はあなた方から取られ,その実を生み出す国民に与えられるのです。また,この石の上に落ちる人は粉々になるでしょう。これがその上に落ちる人は,みじんに砕かれるでしょう」。
書士や祭司長たちは,自分たちのことが言われているのに気づき,義にかなった「相続人」であるイエスを殺そうとします。そのため,神の王国の支配者となる特権は,一国民としてのイスラエル人から取られ,『ぶどう園の耕作人』となる新しい国民,ふさわしい実を生み出す国民が形成されます。
宗教指導者たちは,イエスを預言者だとみなしていた群衆を恐れ,この時にはイエスを殺そうとしません。 マタイ 21:28-46。マルコ 12:1-12。ルカ 20:9-19。イザヤ 5:1-7。
■ イエスの最初の例えに出て来る二人の子供は,だれを表わしていますか。
■ 二番目の例えの中の「家あるじ」,「ぶどう園」,「耕作人たち」,「奴隷たち」,そして「相続人」とは,それぞれだれのことですか。
■ 『ぶどう園の耕作人たち』はどうなりますか。彼らに代わってだれが耕作人になりますか。
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婚宴の例えこれまでに生存した最も偉大な人
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107章
婚宴の例え
イエスは二つの例えによって,書士や祭司長たちの正体を暴露されました。そのため,彼らはイエスを殺してやりたいと思います。しかし,イエスは糾弾をやめるどころかさらに別の例えを話し,こう言われます。
「天の王国は,自分の息子のために婚宴を設けた人,つまりそのような王のようになりました。彼は,婚宴に招いておいた者たちを呼ぶため,自分の奴隷たちを遣わしましたが,その者たちは来たがりませんでした」。
エホバ神は,み子イエス・キリストのために婚宴を準備された王でした。最後には,油そそがれた14万4,000人の追随者たちから成る花嫁が,天でイエスと結ばれることになります。王の臣民とはイスラエルの人々で,その国民は西暦前1513年に律法契約に導き入れられたとき,「祭司の王国」となる機会を与えられました。それで,婚宴への招待は,その時イスラエル人に最初に差し伸べられました。
とはいえ,招かれていた者たちへの最初の呼びかけは,西暦29年の秋にイエスと弟子たち(王の奴隷たち)が王国を宣べ伝える活動を始めるまでなされていませんでした。生来のイスラエル人たちは,西暦29年から33年にかけて奴隷たちが行なったこの呼びかけを聞きましたが,行こうとしませんでした。そこで神は,招かれた者たちから成る国民に,もう一度機会を与えました。イエスはこのように話されます。
「再びほかの奴隷たちを遣わそうとして言いました,『招いてある者たちにこう言いなさい。「ご覧なさい,わたしは正さんを整えました。わたしの雄牛と肥えた動物はほふられ,すべての用意ができました。婚宴に来てください」』」。招いておいた者たちに対するこの二度目の,そして最後の呼びかけは,西暦33年のペンテコステの日に聖霊がイエスの追随者たちの上に注ぎ出された時に始まりました。今回の呼びかけは西暦36年まで続きました。
しかし,イスラエル人の大多数は,この招待をはねつけました。イエスはこう語られます。「ところが,彼らは無関心で,ある者は自分の畑に,別の者は自分の商売に出かけて行きました。しかし,ほかの者は,その奴隷たちを捕まえて不遜に扱い,それを殺してしまいました」。イエスは続けて,「そこで王は憤り,自分の軍隊を送ってそれら殺人者たちを滅ぼし,彼らの都市を焼きました」と言われます。このことは西暦70年に生じました。その年にエルサレムはローマ軍に敗れて破壊され,それら殺人者たちは殺されてしまいました。
さらにイエスは,その間に起きたことを説明されます。「それから[王]は自分の奴隷たちに言いました,『婚宴はたしかに用意ができているのだが,招いておいた者たちはそれに値しなかった。それゆえ,市外に通ずる道路に行き,だれなりとあなた方の見つける者を婚宴に招きなさい』」。奴隷たちはそのとおりにしたので,「婚礼の部屋は食卓について横になる者たちでいっぱいになりました」。
招いておいた者たちが住んでいた市の外の道路から客を集める業は,西暦36年に始まりました。ローマ軍の士官コルネリオとその家族は,割礼を受けていない非ユダヤ人の中から集められた最初の人たちでした。最初の招きを断わった人々の代わりとして,このような非ユダヤ人を集めることは,20世紀に至るまで続けられてきました。
婚宴の部屋がいっぱいになったのは,20世紀になってからのことです。イエスはその後起こることについて,こう述べておられます。「王が客を見回るために入って来たとき,結婚式の衣をまとっていない人をそこに見つけました。それでその人に言いました,『君,結婚式の衣を着けずにどうしてここに入って来たのか』。その人は何も言えなくなりました。そこで王は僕たちに言いました,『その手足を縛って彼を外の闇に投げ出しなさい。そこで彼は泣き悲しんだり歯ぎしりしたりするであろう』」。
結婚式の衣をまとっていない人は,キリスト教世界の偽のクリスチャンを表わしています。神はこれらの人々が,霊的なイスラエル人としてそれにふさわしい身分証明を持っているとご覧になったことはありませんでした。聖霊により,王国の相続人として彼らに油をそそがれたこともありませんでした。それで,偽クリスチャンたちは外の闇に投げ出され,そこで滅ぼされます。
イエスは,「招かれる者は多いが,選ばれる者は少ないのです」と述べて,例えを締めくくられます。キリストの花嫁の成員になるため,イスラエル国民から多くの者たちが招かれましたが,生来のイスラエル人で選ばれた人はほんのわずかでした。天で報いを受ける14万4,000人の客たちは,ほとんど非イスラエル人です。 マタイ 22:1-14。出エジプト記 19:1-6。啓示 14:1-3。
■ 初めに婚宴に招かれた人たちはだれですか。彼らがこの招待を受けたのはいつでしたか。
■ 招待された人への最初の呼びかけは,いつなされましたか。それを伝えるために用いられた奴隷たちとはだれでしたか。
■ 二度目の呼びかけは,いつなされましたか。その後だれが招待されましたか。
■ 結婚式の衣をまとっていない人は,だれを表わしていますか。
■ 招かれた多くの者とはだれですか。選ばれた少数の者とはだれですか。
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イエスをわなにかけ損なうこれまでに生存した最も偉大な人
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108章
イエスをわなにかけ損なう
イエスは神殿でずっと教え続けておられ,宗教上の敵たちの邪悪さを暴く三つの例えを語られたところです。それでパリサイ人たちは憤り,イエスをわなにかけて,イエスを捕まえる口実となるようなことを何か言わせようと相談します。パリサイ人たちは悪だくみを考え出し,自分たちの弟子をヘロデの党派的追随者と共に遣わして,イエスのあげ足を取ろうとします。
その男たちはこう言います。「師よ,わたしどもは,あなたが真実な方で,神の道を真実をもってお教えになることを知っております。そしてあなたはだれをも気にされません。人の外見をご覧にならないからです。それで,どうお考えになるか,わたしどもにお話しください。カエサルに人頭税を払うことはよろしいでしょうか,よろしくないでしょうか」。
イエスはこのようなお世辞にだまされたりはなさいません。イエスはもし自分が『それはよくない。この税金を払うのは,よいことでも正しいことでもない』と答えれば,ローマに対する扇動罪になるのをご存じです。しかし,もし『この税金は払うべきです』と言えば,ローマの支配下に置かれていることを快く思っていないユダヤ人たちはイエスを憎むでしょう。それでイエスは,「なぜあなた方はわたしを試すのですか,偽善者たちよ。人頭税の硬貨をわたしに見せなさい」とお答えになります。
彼らが一枚の硬貨を持って来ると,イエスは「これはだれの像と銘刻ですか」とお尋ねになります。
「カエサルのです」と彼らは答えます。
「それでは,カエサルのものはカエサルに,しかし神のものは神に返しなさい」。これらの男たちは,イエスの見事な答えを聞いて驚嘆します。そしてイエスを残して去って行きます。
パリサイ人がイエスに言いがかりをつけようとして失敗したのを見ると,復活などはないと言うサドカイ人たちがイエスに近づき,こう質問します。「師よ,モーセは,『人が子供を持たずに死ぬならば,その兄弟が彼の妻をめとって,自分の兄弟のために子孫を起こさねばならない』と言いました。さて,わたしたちのところに七人兄弟がいました。そして一番目の者は結婚して死亡し,子孫がなかったので,妻を自分の兄弟に残しました。二番目,三番目の者も,ついには七人全部が同じようになりました。みんなの最後にその女も死にました。そうすると,復活の際,彼女はその七人のうちだれの妻なのでしょうか。みんなが彼女を得たのですから」。
イエスは答えてこう言われます。「あなた方が聖書も神の力も知らないこと,これがあなた方の間違っている理由ではありませんか。死人の中からよみがえるとき,男はめとらず,女も嫁ぎません。天にいるみ使いたちのようになるのです。しかし,死んだ者たち,すなわち彼らがよみがえらされることに関しては,モーセの書の中,いばらの茂みに関する記述の中で,神が彼にどのように言われたかを,あなた方は読まなかったのですか。『わたしはアブラハムの神,イサクの神,ヤコブの神である』と言われたのです。この方は,死んだ者の神ではなく,生きている者の神なのです。あなた方は大いに間違っています」。
群衆は再びイエスの答えに驚き入ります。幾人かの書士でさえも,「師よ,よくぞ言われました」と言います。
イエスがサドカイ人を沈黙させたのを見たパリサイ人たちは,一団となってイエスのところにやって来ます。そのうちの一人の書士はイエスをさらに試そうとして,「師よ,律法の中で最大のおきてはどれですか」と尋ねます。
イエスはこう答えられます。「第一は,『聞け,イスラエルよ,わたしたちの神エホバはただひとりのエホバであり,あなたは,心をこめ,魂をこめ,思いをこめ,力をこめてあなたの神エホバを愛さねばならない』。第二はこうです。『あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない』。これらより大きなおきてはほかにありません」。事実,イエスはこう付け加えられます。「律法全体はこの二つのおきてにかかっており,預言者たちもまたそうです」。
その書士はイエスと同感であることをこのように言い表わします。「師よ,『神はただひとりであり,そのほかにはいない』と,真理に即してよくぞ言われました。そして,この,心をこめ,理解力をこめ,力をこめて神を愛すること,また,隣人を自分自身のように愛するこのことは,全焼燔の捧げ物と犠牲全部よりはるかに価値があります」。
イエスはこの書士がそう明な答えを出したことを認め,「あなたは神の王国から遠くありません」と言われます。
イエスはすでに三日間 ― 日曜日,月曜日,そして火曜日 ― 神殿で教えておられます。人々は喜んでイエスの話に耳を傾けますが,いらだった宗教指導者たちはイエスを殺そうとします。しかし今までのところでは,彼らの試みは失敗に終わっています。 マタイ 22:15-40。マルコ 12:13-34。ルカ 20:20-40。
■ パリサイ人はイエスをわなにかけるために,どんな悪だくみを考え出しますか。もしイエスが,よろしいとかよろしくないとか答えたなら,どうなりますか。
■ どのようにイエスは,わなにかけようとするサドカイ人の企てを巧みにくじかれますか。
■ パリサイ人は,イエスをさらにどんな仕方で試そうとしますか。結果はどうなりますか。
■ イエスはエルサレムにおける最後の宣教中に,何日間神殿で教えられますか。それはどんな影響を及ぼしますか。
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イエスは反対者たちを公然と非難するこれまでに生存した最も偉大な人
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109章
イエスは反対者たちを公然と非難する
イエスが宗教上の反対者たちを徹底的に論破したので,彼らは恐れを感じそれ以上は何も質問しません。そこでイエスはご自分のほうから,彼らが無知であることを暴かれます。「あなた方はキリストについてどう考えますか。彼はだれの子ですか」とお尋ねになります。
「ダビデの子です」とパリサイ人は答えます。
イエスは,キリストつまりメシアの肉の祖先がダビデであることは否定されませんが,こう質問されます。「では,どうしてダビデは,霊感によって[詩編 110編で]彼を『主』と呼び,『エホバはわたしの主に,「わたしがあなたの敵たちをあなたの足の下に置くまで,わたしの右に座っていなさい」と言われた』と言っているのですか。それで,ダビデが彼を『主』と呼んでいるのであれば,どうして彼の子でしょうか」。
パリサイ人たちは,キリスト,つまり油そそがれた者が実際にはどんな人であるかを知らないので黙っています。パリサイ人はメシアを単なるダビデの人間の子孫と考えていたようですが,そうではなく,メシアは以前から天で存在しておられ,ダビデより上位の方,すなわち主でした。
イエスはここで群衆と弟子たちのほうを向き,書士やパリサイ人について警告されます。イエスは,これらの者たちが神の律法を教え,「モーセの座に座って」いるゆえに,「彼らがあなた方に告げることはみな行ない,また守りなさい」と勧められます。しかしイエスはさらに,「その行ないに倣ってはなりません。彼らは言いはしますが,実行しないからです」と言われます。
彼らは偽善者です。ですからイエスは,何か月か前にあるパリサイ人の家で食事をしていた時に話されたような口調で,彼らを公然と非難されます。イエスは,「すべてその行なう業は人に見せようとしてするのです」と言われ,幾つかの例を挙げられます。
『彼らは,お守りとして身に着ける聖句入れの幅を広げます』。聖句入れは比較的小さな箱で,額か腕に付けます。その中には律法の四つの部分,すなわち出エジプト記 13章1節から10節と11節から16節,申命記 6章4節から9節と11章13節から21節が入っています。しかしパリサイ人たちは,自分たちが律法に対して熱心であることを印象づけるために,この箱を大きくしています。
イエスは続けて,彼らは「衣の房べりを大きくしている」と言われます。民数記 15章38節から40節で,イスラエル人たちは衣に房べりを付けるように命じられていますが,パリサイ人たちはほかのだれよりも大きな房べりを付けていました。何もかも人に見せるためなのです。『彼らは最も目立つ場所を好みます』とイエスははっきり言われます。
残念なことにイエスの弟子たちも,目立ちたいというこの欲望の影響を受けています。そこでイエスはこう諭されます。「しかしあなた方は,ラビと呼ばれてはなりません。あなた方の教師はただ一人であり,あなた方はみな兄弟だからです。また,地上のだれをも父と呼んではなりません。あなた方の父はただ一人,天におられる方だからです。また,『指導者』と呼ばれてもなりません。あなた方の指導者はキリスト一人だからです」。弟子たちは一番でありたいという欲望を捨てなければならないのです。イエスはこう訓戒されます。「あなた方の間で一番偉い者は,あなた方の奉仕者でなければなりません」。
次にイエスは書士やパリサイ人に対して,一連の災いを宣告され,彼らを繰り返し偽善者と呼ばれます。イエスは彼らが,『人の前で天の王国を閉ざし』,「やもめたちの家を食い荒らし,見せかけのために長い祈りをする者たち」であると言われます。
イエスは,「盲目の案内人よ,あなた方は災いです」と言われます。そしてパリサイ人が霊的価値観に欠けている点を非とされます。彼らが自分勝手な区別を設けているということはそのことを示す証拠です。例えばパリサイ人は,「神殿にかけて誓っても,それは何のことはない。しかし,神殿の金にかけて誓うなら,その者には務めがある」と言います。彼らはその崇拝の場所の霊的な価値よりも神殿の金に重きを置いて,自分たちが道徳的に盲目であることを示しているのです。
それからイエスは,以前にされたと同じように,パリサイ人がさほど重要でない植物の什一,または十分の一を支払うことに非常に注意深くありながら,「律法のより重大な事柄,すなわち公正と憐れみと忠実」を無視していると非難されます。
イエスはパリサイ人を,「盲目の案内人,ぶよは濾し取りながら,らくだを呑み込む者たち」と呼ばれます。パリサイ人たちがぶどう酒からぶよを濾し取るのは,それが虫だからというだけではなく,ぶよが儀式上汚れたものであるからです。しかし,彼らが律法のより重大な事柄を無視するのは,やはり儀式上汚れた動物であるらくだを呑み込むのに似ています。 マタイ 22:41-23:24。マルコ 12:35-40。ルカ 20:41-47。レビ記 11:4,21-24。
■ イエスが詩編 110編でダビデが述べたことについて質問する時,なぜパリサイ人たちは黙ってしまいますか。
■ パリサイ人たちが聖句入れや衣の房べりを大きくしているのはなぜですか。
■ イエスは弟子たちにどんな諭しをお与えになりますか。
■ パリサイ人はどんな区別を自分たちで勝手に設けていますか。イエスは,彼らがより重大な事柄を無視していることをどのように非難されますか。
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神殿での宣教を終えるこれまでに生存した最も偉大な人
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110章
神殿での宣教を終える
イエスが神殿に姿を現わされるのは,これが最後です。事実イエスは,三日後の裁判と処刑の際の出来事は別として,地上での公の宣教をこれで終えようとしておられます。イエスは書士やパリサイ人たちを引き続きけん責されます。
イエスは大きな声でさらに3回,「偽善者なる書士とパリサイ人たち,あなた方は災いです!」と言われます。イエスはまず最初に,彼らが「杯と皿の外側は清めますが,その内側は強奪と節度のなさとに満ちている」という理由で彼らに災いを宣言されます。それで,「杯と皿の内側をまず清め,それによって外側も清くなるようにしなさい」と訓戒されます。
次にイエスは,書士やパリサイ人たちが,敬虔そうに見せかけて内側の堕落や腐敗を隠そうとしているため,彼らは災いだと言われます。「あなた方は白く塗った墓に似ているからです。それは,外面はなるほど美しく見えますが,内側は死人の骨とあらゆる汚れに満ちているのです」。
最後の点として,書士やパリサイ人たちの偽善は,彼らが自ら進んで預言者たちの墓を建て,それを飾りつけて自分自身の慈善行為に人々の注意を引こうとしているのを見れば明らかです。しかし彼らは,イエスが暴露されたように,「預言者たちを殺害した者たちの子」なのです。事実,彼らの偽善をあえて暴こうとする人はだれでも,身を危険にさらすことになります。
イエスは続けて,最も強烈な言葉で非難されます。「蛇よ,まむしらの子孫よ,どうしてあなた方はゲヘナの裁きを逃れられるでしょうか」。ゲヘナとはエルサレムのごみ捨て場として使われていた谷でした。ですからイエスは,書士やパリサイ人たちが邪悪な道を追い求めているために永遠の滅びに至ることを述べておられるのです。
イエスの代理として遣わされる者についてはこう言われます。「あなた方はそのうちのある者を殺して杭につけ,ある者を会堂でむち打ち,都市から都市へと迫害するでしょう。こうして,義なるアベルの血から,あなた方が聖なる所と祭壇の間で殺害した,バラキヤ[歴代誌第二ではエホヤダと呼ばれている]の子ゼカリヤの血に至るまで,地上で流された義の血すべてがあなた方に臨むのです。あなた方に真実に言いますが,これらのことすべてはこの世代に臨むでしょう」。
ゼカリヤはイスラエルの指導者たちを激しく責めたので,「人々は彼に対して陰謀を企て,エホバの家の中庭で王の命令により彼を石撃ちに」しました。しかしイエスが予告されたとおり,イスラエルは流された義なる者の血すべてに対してその代価を支払うことになるでしょう。37年後の西暦70年にローマ軍がエルサレムと100万人以上のユダヤ人を滅ぼすとき,彼らはその代価を支払うことになります。
イエスはこの恐ろしい状況を考えて嘆かれ,再びはっきりとこう言われます。「エルサレム,エルサレム,……わたしは幾たびあなたの子供たちを集めたいと思ったことでしょう。めんどりがそのひなを翼の下に集めるかのように。しかし,あなた方はそれを望みませんでした。見よ,あなた方の家はあなた方のもとに見捨てられています」。
イエスはさらに,「『エホバのみ名によって来るのは祝福された者!』と言うときまで,あなた方は今後決してわたしを見ないでしょう」と言われます。それはキリストの臨在の日であり,その時イエスは天の王国を受け,人々は信仰の目でイエスを見るのです。
さて,イエスは神殿の宝物庫の箱と,群衆がそこにお金を入れる様子が見える場所に移動されます。富んだ人はたくさんの硬貨を入れています。しかしそこにひとりの貧しいやもめがやって来て,価のごくわずかな小さな硬貨二つを入れます。
イエスは弟子たちを呼び,「あなた方に真実に言いますが,この貧しいやもめは,宝物庫の箱にお金を入れているあの人たち全部よりたくさん入れたのです」と言われます。弟子たちは,どうしてそうなのか疑問に思ったに違いありません。それでイエスはこう説明されます。「彼らはみな自分の余っている中から入れましたが,彼女は,その乏しい中から,自分の持つもの全部,その暮らしのもとをそっくり入れたからです」。イエスはこれらのことを話されてから,これを最後に神殿を後にされます。
イエスの弟子の一人は神殿の大きさや美しさに驚嘆し,「師よ,ご覧ください,何という石,それに何という建物なのでしょう」と叫びます。実にその石の長さは10㍍以上,幅は4㍍以上,高さは3㍍以上もあるということです。
イエスは答えて,「あなたはこれらの大きな建物に見入っているのですか。石がこのまま石の上に残されて崩されないでいることは決してないでしょう」と言われます。
これらの話を終えてから,イエスと弟子たちはキデロンの谷を渡り,オリーブ山に登ります。ここからは,壮麗な神殿を見下ろすことができます。 マタイ 23:25-24:3。マルコ 12:41-13:3。ルカ 21:1-6。歴代第二 24:20-22。
■ イエスは最後に神殿を訪れている間に,何をなさいますか。
■ 書士やパリサイ人たちの偽善は,どのように明らかになっていますか。
■ 「ゲヘナの裁き」にはどんな意味がありますか。
■ イエスが,やもめは富んだ人よりたくさん寄付したと言われるのはなぜですか。
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終わりの日のしるしこれまでに生存した最も偉大な人
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111章
終わりの日のしるし
いまはもう火曜日の午後です。イエスがオリーブ山の上で腰を下ろし,下に見える神殿を眺めておられると,ペテロ,アンデレ,ヤコブ,それにヨハネが自分たちだけでやって来ます。石が一つとしてこのまま石の上に残されることはないとイエスが予告されたばかりなので,彼らは神殿のことが気がかりなのです。
しかし,彼らはそれ以外の考えもあってイエスのところに来ているようです。数週間前にイエスは,ご自分の「臨在」について語られましたが,この臨在期間中に『人の子は表わし示される』ことになっています。またこのことを語られる以前には,「事物の体制の終結」について彼らに話しておられました。ですから,使徒たちはそのことが非常に知りたいわけです。
「わたしたちにお話しください。[エルサレムとその神殿が滅びる結果になる]そのようなことはいつあるのでしょうか。そして,あなたの臨在と事物の体制の終結のしるしには何がありますか」と,彼らは言います。彼らの質問には事実上三つの点が含まれています。彼らはまず,エルサレムとその神殿の終わりについて,次に王国の権能を帯びたイエスの臨在に関して,そして最後に事物の体制全体の終わりについて知りたいと思っています。
そこでイエスは,長い話をしてそれら三つの質問すべてにお答えになり,ユダヤ人の事物の体制が終わる時を明らかにするしるしをお与えになりますが,それだけではありません。イエスはさらに,未来の弟子たちが,イエスの臨在期間中に,また事物の体制全体の終わりの時に住んでいるということを悟れるように,彼らへの警告となるしるしをお与えになります。
年月がたつにつれ,使徒たちはイエスの預言の成就を見ます。そうです,イエスが予告されたとおりの事が彼らの時代に起き始めるのです。したがって,37年後の西暦70年に生きているクリスチャンたちは,ユダヤ人の体制とその神殿が滅びるときに不意を突かれることはありません。
しかし,キリストの臨在と事物の体制の終結は,西暦70年には起こりません。王国の力を帯びたキリストの臨在はずっと後のことです。しかし,それはいつになるのでしょうか。イエスの預言を調べるなら,その答えが分かります。
イエスは,「戦争のこと,また戦争の知らせ」があることを予告します。『国民は国民に敵対して立ち上がり』,食糧不足や地震や疫病もあるでしょうと言われます。イエスの弟子たちは憎まれ,殺されます。偽預言者たちが起こって,多くの者を惑わします。不法が増し,大半の者の愛が冷えます。同時に,神の王国の良いたよりは,あらゆる国民に対する証しとして宣べ伝えられます。
イエスの預言は,西暦70年にエルサレムが滅びる前に限られた成就を見ましたが,そのおもな成就は,イエスが臨在される,そして事物の体制が終結する期間に見られます。1914年以降の世界の出来事を注意深く振り返ってみると,イエスの重要な預言はその年以降おもな成就を見ていることがはっきり分かります。
イエスがお与えになるしるしの別の部分は,「荒廃をもたらす嫌悪すべきもの」が現われることです。この嫌悪すべきものは西暦66年に,ローマの「野営を張った軍隊」という形で現われます。このローマの軍隊はエルサレムを包囲し,神殿の城壁の下を掘ります。「嫌悪すべきもの」は本来立つべきでない所に立っています。
このしるしのおもな成就における嫌悪すべきものは,国際連盟とその後身である国際連合です。キリスト教世界はこの世界平和のための機構を神の王国に代わるものとみなしているのです。何と嫌悪すべきことでしょう! ですから,やがて,国連とかかわりを持つ政治勢力はキリスト教世界(対型的なエルサレム)に急に襲いかかり,彼女を荒廃させるでしょう。
そのためイエスは,「世の初めから今に至るまで起きたことがなく,いいえ,二度と起きないような大患難がある」と予告されます。100万人を超える死者が出たと言われる西暦70年のエルサレムの滅びは確かに大患難でしたが,それはノアの日に起きた全地球的な洪水をしのぐ規模の患難ではありません。それで,イエスの預言のこの部分のおもな成就はこれから見られるはずです。
終わりの日における確信
ニサン11日火曜日も終わりに近づきますが,イエスは使徒たちと,王国の権能を伴うご自分の臨在と事物の体制の終結のしるしについて引き続き話し合っておられます。イエスは,偽キリストのあとを追わないようにと使徒たちに警告なさいます。そして,『できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうとする』企てがあると言われます。しかし,これらの選ばれた者たちは,遠目の利く鷲のように,真の霊的な食物が見いだされるところ,つまり本物のキリストが目に見えない様で臨在しておられるところに集まります。彼らが惑わされて偽キリストのもとに集まることはありません。
偽キリストは目に見える様で姿を現わせるにすぎません。それとは対照的に,イエスの臨在は目に見えません。イエスが,『太陽は暗くなり,月はその光を放たない』と言われているとおり,それは人類史の中で恐るべき時代に起きるでしょう。そうです,これは人類が存在するようになって以来最も暗い期間となるのです。あたかも太陽が日中に暗くなり,月が夜間に光を放たないかのようです。
さらにイエスは,「天のもろもろの力は揺り動かされるでしょう」と述べて,文字通りの天が不吉な様相を帯びるようになることを示唆されます。天は単に鳥だけの領域ではなく,戦闘機やロケットや宇宙探査機が飛び交うところとなります。恐れと暴力は,それまでの人類史でかつてなかったほど恐ろしいものになります。
その結果,「海のとどろきとその動揺のゆえに逃げ道を知らない諸国民の苦もんがあるでしょう。同時に人々は,人の住む地に臨もうとする事柄への恐れと予想から気を失います」と,イエスは言われます。実際,人間が存在して以来最も暗いこの期間は,イエスが言われるように,『人の子のしるしが天に現われ,地のすべての部族が嘆きのあまり身を打ちたたく』時へと至るのです。
しかし,「人の子」がこの邪悪な事物の体制を滅ぼすために『力を伴って』来るときに,すべての人が嘆くわけではありません。「選ばれた者たち」,つまり天の王国でキリストと共になる14万4,000人は嘆きません。また,彼らの仲間で,イエスが以前にご自分の「ほかの羊」と呼ばれた人々も嘆きません。これらの人々は,人類史上最も暗い期間に生きてはいますが,「これらの事が起こり始めたら,あなた方は身をまっすぐに起こし,頭を上げなさい。あなた方の救出が近づいているからです」というイエスの励ましの言葉にこたえ応じます。
イエスは,終わりの日に住むご自分の弟子たちが終わりの近いことを見分けられるように,次の例えを話されます。「いちじくの木やほかのすべての木をよく見なさい。それらが既に芽ぐんでいれば,あなた方はそれを観察して,もう夏の近いことを自分で知ります。このように,あなた方はまた,これらの事が起きているのを見たなら,神の王国の近いことを知りなさい。あなた方に真実に言いますが,すべての事が起こるまで,この世代は決して過ぎ去りません」。
したがってイエスの弟子たちは,しるしの様々な特色が成就するのを見るとき,事物の体制の終わりが近いこと,また神の王国が間もなくあらゆる悪を一掃することを悟るべきです。実のところ,その終わりは,イエスの予告された事柄すべてが成就するのを見る人々の生涯中に生じるのです。イエスは,非常に重大な終わりの日に生きる弟子たちへの訓戒として次のように語られます。
「食べ過ぎや飲み過ぎまた生活上の思い煩いなどのためにあなた方の心が押しひしがれ,その日が突然,わなのように急にあなた方に臨むことがないよう,自分自身に注意を払いなさい。それは,全地の表に住むすべての者に臨むからです。それで,起きることが定まっているこれらのすべての事を逃れ,かつ人の子の前に立つことができるよう,常に祈願をしつつ,いつも目ざめていなさい」。
賢い処女と愚かな処女
イエスは,使徒たちの求めに応じて,王国の権能を行使するご自分の臨在のしるしについて答えてこられましたが,今度はそのしるしの特徴についてさらに詳しく,三つのたとえ話,すなわち例えを使って説明されます。
それぞれの例えの成就を見ることができるのは,イエスの臨在中に生きている人々です。イエスは最初の例えをこのように話し出されます。「その時,天の王国は,自分のともしびを持って花婿を迎えに出た十人の処女のようになります。そのうち五人は愚かで,五人は思慮深い者でした」。
『天の王国は,十人の処女のようになります』というイエスの表現は,天の王国を受け継ぐ人の半数が愚かな人で,半数が思慮深い人であるという意味ではありません。むしろイエスは,天の王国に関連してこれこれの特徴がある,あるいは,王国に関連した物事はこのようになると言っておられるのです。
十人の処女は,天の王国に入る見込みのあるクリスチャン,もしくは見込みがあると自称するクリスチャンすべてを表わしています。クリスチャン会衆が,復活され,栄光をお受けになった花婿イエス・キリストの花嫁として迎えられるという約束を得たのは,西暦33年のペンテコステの時でした。しかしその婚礼は,将来のいつか天で行なわれることになっていました。
例えの中で,この十人の処女は花婿を迎えるため,また結婚式の行列に加わる目的で出かけてゆきます。花婿が到着するとき,処女たちはともしびで行列の進む道を照らします。そのようにして処女たちは,花婿が用意しておいた家に花嫁を連れて行く際に花婿に敬意を表わすのです。しかしイエスはこう説明されます。「愚かな者たちは自分のともしびを持ちましたが,油を携えていかず,一方,思慮深い者たちは,自分のともしびと共に,油を入れ物に入れて持って行きました。花婿が遅れている間に,彼女たちはみな頭を垂れて眠り込んでしまいました」。
花婿がかなり遅れたことは,支配する王としてのキリストの臨在が遠い将来であることを示しています。キリストは1914年についに王位に就かれます。しかしそれまでの長い夜の間に,処女たちはみな眠り込んでしまいます。しかし,彼女たちはこのことではとがめられていません。愚かな処女たちがとがめられているのは,油を入れ物に入れて持って行かなかったことです。イエスは,花婿が到着する前に,処女たちがどのように目を覚ますかをこう説明しておられます。「真夜中に,『さあ,花婿だ! 迎えに出なさい』という叫び声が上がりました。そこで,それらの処女はみな起きて,自分のともしびを整えました。愚かな者たちは思慮深い者たちに言いました,『あなた方の油を分けてください。わたしたちのともしびはいまにも消えそうですから』。思慮深い者たちはこう答えました。『わたしたちとあなた方に足りるほどはないかもしれません。むしろ,油を売る者たちのところに行って,自分のために買いなさい』」。
この油は,世を照らす者である真のクリスチャンを輝かせ続けるものを象徴しています。これはクリスチャンがしっかり把握している,霊感を受けて書かれた神の言葉であり,またその言葉を彼らが理解できるように助ける聖霊でもあります。この霊的な油により,思慮深い処女たちは婚宴への行列が続く間,花婿を歓迎する光を輝かせることができるのです。しかし愚かな処女級は,自分自身の中,つまり自分の入れ物の中に,必要な霊的な油を持っていません。そこでイエスは何が起きるかをこう描写されます。
「[愚かな処女たち]が[油を]買いに行っている間に花婿が到着し,用意のできていた処女たちは,婚宴のため彼と共に中に入りました。それから戸が閉められたのです。後に,残りの処女たちも来て,『だんな様,だんな様,開けてください』と言いました。彼は答えて言いました,『あなた方に真実を言いますが,わたしはあなた方を知りません』」。
キリストがご自分の天の王国に到着されると,油そそがれた真のクリスチャンたちから成る思慮深い処女級は,戻って来られた花婿をたたえて,この暗い世で光を輝かせる特権に目覚めます。しかし愚かな処女によって表わされていた者たちは,こうした歓迎の賛美を行なう用意ができていません。それでキリストは,定めの時が来ても,彼らに対しては天における婚宴への扉を開かれません。イエスは彼らをこの世の深夜の外の闇の中にほうっておかれ,やがて不法を働く者たちすべてと共に滅ぼされます。結論としてイエスは,「それゆえ,ずっと見張っていなさい。あなた方は,その日もその時刻も知らないからです」と言われます。
タラントの例え
イエスはオリーブ山上で使徒たちと話し合いを続け,別の例えを語られます。これは連続して話される三つの例えの2番目のものです。数日前エリコにおられたとき,イエスは王国がまだ遠い将来のものであることを示すためにミナの例えを語られました。今イエスが話される例えはそれと同様な特色を幾つも備えていますが,その成就においては,王国の権能を持つキリストの臨在中に見られる活動を描いています。また,イエスの弟子たちがまだ地上にいる間に,『イエスの持ち物』を増やすために働く必要があることも示しています。
イエスはこのように話を始められます。「それ[つまり,王国に関連した状況]はちょうど,人が外国へ旅行に出るにあたり,奴隷たちを呼び寄せて,自分の持ち物をゆだねたときのようになるのです」。この人とはイエスのことです。イエスは天という外国へ旅行に出られる前にご自分の奴隷たち,つまり天の王国を受け継ぐ見込みのある弟子たちにご自分の持ち物をゆだねられます。この持ち物とは文字通りの所有物ではなく,イエスがさらに多くの弟子を生み出す可能性を植え込まれた,耕された畑を表わしていました。
イエスは昇天される直前に,ご自分の持ち物を奴隷たちにゆだねられます。どのようにゆだねるのですか。地の最も遠いところにまで王国の音信を宣べ伝えて,耕された畑で働き続けるよう奴隷たちに指示を与えることによってです。イエスが述べておられるように,「(その人は)ある者には五タラント,別の者には二タラント,さらに別の者には一タラントと,各自の能力に応じてひとりひとりに与えてから,外国に行きました」。
このように,キリストの持ち物である八タラントは奴隷たちの能力,もしくは霊的な可能性に応じて分配されます。この奴隷たちは,弟子たちの様々な級を表わしています。1世紀に五タラントを受けた級には,使徒たちが含まれていたことでしょう。イエスはさらに,五タラントおよび二タラントを受け取った弟子たちが,王国を宣べ伝え弟子を作る業によって各々の金額を2倍にしたことを話されます。しかし一タラントを受けた奴隷は,それを地中に隠しておきました。
イエスは続けて,「長い時を経たのち,その奴隷たちの主人が来て,彼らとの勘定を清算しました」と話されます。イエスが清算のために戻って来られたのは,およそ1,900年後の20世紀になってからでしたから,それは確かに「長い時を経たのち」でした。次いでイエスはこう説明されます。
「五タラントを受けていた者が進み出,追加の五タラントを差し出して,こう言いました。『ご主人様,わたしに五タラントをゆだねてくださいましたが,ご覧ください,わたしはさらに五タラントをもうけました』。主人は彼に言いました,『よくやった,善良で忠実な奴隷よ! あなたはわずかなものに忠実であった。わたしはあなたを任命して多くのものをつかさどらせる。あなたの主人の喜びに入りなさい』」。同様に,二タラントを受け取った奴隷も自分のタラントを2倍にしたので,同じ称賛の言葉と報いを受けました。
それにしても,これらの忠実な奴隷たちはどのように主人の喜びに入るのでしょうか。彼らの主人であるイエス・キリストの喜びとは,外国という天のみ父のもとに行ったときに王国の所有物を受け取るというものでした。現代の忠実な奴隷たちに関して言えば,彼らには王国の責任をさらにゆだねられるという大きな喜びがあり,地上での歩みを終えるときには,天の王国に復活させられるという喜びの最高潮を迎えます。では,三番目の奴隷についてはどうですか。
この奴隷は不満を表わし,『ご主人様,わたしは,あなたが手厳しい方であることを知っておりました。それでわたしは怖くなり,行って,あなたの一タラントを地中に隠しておきました。さあ,これはあなた様のものです』と言います。この奴隷は,宣べ伝えて弟子を作ることによって,耕された畑で働くことをわざと拒みました。それで主人は彼のことを『邪悪で無精な者』と呼び,裁きを宣告します。『彼からその一タラントを取り上げなさい。それで,この何の役にも立たない奴隷を外の闇に投げ出しなさい。そこで彼は泣き悲しんだり歯ぎしりしたりするであろう』。この邪悪な奴隷級の人々は,外に投げ出されるので,霊的な喜びを一切奪い去られます。
これはキリストの追随者を自認する人すべてにとって,厳粛な教訓となっています。もしそのような人々が主人から称賛の言葉と報いを得たいと思うなら,また外の闇と最終的な滅びに投げ込まれたくないなら,宣べ伝える業を十分に行なって天の主人の持ち物を増やすために働かなければなりません。この点であなたは絶えず努力しているでしょうか。
キリストが王国の権能をもって到来するとき
イエスはまだ使徒たちと共にオリーブ山上におられます。ご自分の臨在と事物の体制の終結のしるしに関する使徒たちの質問に答えて,今イエスは一連の三つの例えのうちの最後の例えを語られます。そして,「人の子がその栄光のうちに到来し,またすべてのみ使いが彼と共に到来すると,そのとき彼は自分の栄光の座に座ります」と話し始められます。
人間は,天の栄光のうちにあるみ使いたちを見ることはできません。それでみ使いたちを伴った,人の子イエス・キリストの到来も,人間の目には見えないに違いありません。この到来は1914年に起きますが,その目的は何でしょうか。イエスはこう説明されます。「すべての国の民が彼の前に集められ,彼は,羊飼いが羊をやぎから分けるように,人をひとりひとり分けます。そして彼は羊を自分の右に,やぎを自分の左に置くでしょう」。
イエスは,恵みを受ける側に分けられた者たちがどうなるかを説明して,こう述べられます。「それから王は自分の右にいる者たちにこう言います。『さあ,わたしの父に祝福された者たちよ,世の基が置かれて以来あなた方のために備えられている王国を受け継ぎなさい』」。この例えの羊はキリストと共に天で支配するのではなく,王国の地上の臣民になるという意味で,王国を受け継ぎます。『世の基が置かれること』は,アダムとエバが,人類を請け戻す神の備えから益を受けられる最初の子供たちを産んだときに生じました。
しかし,羊が王の恵みを受ける右に分けられるのはなぜですか。王はこう答えます。「わたしが飢えると,あなた方は食べる物を与え,わたしが渇くと,飲む物を与えてくれたからです。わたしがよそからの者として来ると,あなた方は温かく迎え,裸でいると,衣を与えてくれました。わたしが病気になると,世話をし,獄にいると,わたしのところに来てくれました」。
羊は地上にいるので,自分たちが天の王のためにそのような立派な行為をどのように行なうことができたのか知りたいと思います。そこで,「主よ,いつわたしたちは,あなたが飢えておられるのを見て食べ物を差し上げたり,渇いておられるのを見て飲む物を差し上げたりしたでしょうか。いつわたしたちは,あなたがよそからの人であるのを見て温かく迎えたり,裸なのを見て衣を差し上げたりしたでしょうか。いつわたしたちは,あなたが病気であったり獄におられたりするのを見てみもとに参りましたか」と尋ねます。
王は,「あなた方に真実に言いますが,これらわたしの兄弟のうち最も小さな者の一人にしたのは,それだけわたしに対してしたのです」と答えます。キリストの兄弟たちとは,天でイエスと共に支配することになる14万4,000人の,地上に残っている者たちです。イエスによれば,彼らに善を行なうのは,イエスに善を行なうことと同じなのです。
次に,王はやぎに向かって話されます。「のろわれた者たちよ,わたしから離れ,悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火に入りなさい。わたしが飢えても,あなた方は食べる物を与えず,渇いても,飲む物を与えてくれなかったからです。わたしがよそからの者として来ても,あなた方は温かく迎えず,裸でいても,衣を与えてくれませんでした。病気であったり獄にいたりしても,世話をしてくれませんでした」。
しかし,やぎは,「主よ,いつわたしたちは,あなたが飢え,渇き,よそからの人であり,裸であり,病気であり,あるいは獄におられるのを見て,あなたに仕えませんでしたか」と不服を言います。やぎは,羊が有利な裁きを受けたのと同じ根拠に基づいて,不利な裁きを受けます。イエスは,「[わたしの兄弟のうち]これら最も小さな者の一人にしなかったのは,それだけわたしに対してしなかったのです」とお答えになります。
それで,この邪悪な事物の体制が大患難で終わりを迎える直前に,王国の権能をもったイエスの臨在は裁きの時となるでしょう。やぎは「去って永遠の切断に入り,義なる者たち[羊]は永遠の命に入ります」。 マタイ 24:2-25:46; 13:40,49。マルコ 13:3-37。ルカ 21:7-36; 19:43,44; 17:20-30。テモテ第二 3:1-5。ヨハネ 10:16。啓示 14:1-3。
■ 使徒たちはなぜ質問をしますか。しかし,ほかにもどんな考えがあるようですか。
■ 西暦70年に,イエスの預言のどの部分が成就しますか。しかし,その時どのような事は起きませんか。
■ イエスの預言が最初に成就したのはいつですか。しかし,そのおもな成就はいつ見られますか。
■ 最初の,また最後の成就における嫌悪すべきものとは何ですか。
■ エルサレムの滅びが,大患難の最終的な成就でないのはなぜですか。
■ 世界のどんな状態が,キリストの臨在を印付けますか。
■ 『地のすべての部族が嘆きのあまり身を打ちたたく』のはいつですか。しかし,キリストの追随者たちは何を行ないますか。
■ ご自分の未来の弟子たちが終わりの近いことを見分けるための助けとして,イエスはどんな例えを語られますか。
■ イエスは,終わりの日に住むようになる弟子たちのために,どんな訓戒をお与えになりますか。
■ 十人の処女はだれを表わしていますか。
■ クリスチャン会衆が花婿との結婚を約束されたのはいつでしたか。しかし花婿は,花嫁を婚宴に連れて行くためにいつ到着しますか。
■ 油は何を表わしていますか。思慮深い処女たちはその油を持っているので,何をすることができますか。
■ 婚宴はどこで催されますか。
■ 愚かな処女たちは,どんな大きな報いを失いますか。彼らはどうなりますか。
■ タラントの例えは,どんな教訓を教えていますか。
■ 奴隷たちとはだれのことですか。彼らがゆだねられる持ち物とは何ですか。
■ 主人はいつ清算にやって来ますか。主人はどんな状況を見て取りますか。
■ 忠実な奴隷たちが入る喜びとは何ですか。三番目の奴隷,つまり邪悪な奴隷はどうなりますか。
■ キリストの臨在はなぜ目に見えないはずですか。キリストはその時,どんな業を行なわれますか。
■ 羊はどんな意味で王国を受け継ぎますか。
■ 『世の基が置かれた』のはいつでしたか。
■ どんな根拠に基づいて,人々は羊あるいはやぎとして裁かれますか。
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イエスの最後の過ぎ越しが近づくこれまでに生存した最も偉大な人
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112章
イエスの最後の過ぎ越しが近づく
ニサン11日,火曜日も終わろうとするころ,オリーブ山上で使徒たちを教えておられたイエスは話を終えられます。なんと忙しく,活動に満ちた一日だったのでしょう。さて,夜を過ごすためにベタニヤへ帰る途中のことと思われますが,イエスは使徒たちに,「あなた方の知っているとおり,今から二日後には過ぎ越しが行なわれます。そして,人の子は杭につけられるために引き渡されるのです」と言われます。
翌日のニサン12日,水曜日,イエスは使徒たちと共に人目を避けて静かな場所で過ごされるようです。イエスはその前の日に宗教指導者たちを公然と叱責したので,彼らから命を狙われていることをご存じです。イエスは木曜日の晩に使徒たちと共に過ぎ越しを祝う際にどんな邪魔が入ることも望まれないので,水曜日には人々の前に姿を現わされません。
そのころ,祭司長たちと民の年長者たちは,大祭司カヤファの家の中庭に集まっていました。前日イエスから責められて憤慨した彼らは,うまく仕組んでイエスを捕らえ,イエスを殺そうと計画を練っています。それでも彼らは,「祭りの時はいけない。民の間に騒動が起きないようにするためだ」と言います。イエスに好意を抱いている民を恐れているのです。
宗教指導者たちがイエスを殺そうと陰謀を企てているところへ一人の客がやって来ます。何とそれはイエスの使徒の一人,ユダ・イスカリオテです。サタンは彼の中に,主人を裏切るという卑劣な考えを吹き込んでいたのです。「彼を裏切ってあなた方に渡せば,わたしに何をくれますか」というユダの言葉に,宗教指導者たちは大いに喜びます。彼らはモーセの律法で奴隷一人当たりの値段とされていた銀30枚を払うことに喜んで同意します。その時からユダは,まわりに群衆のいないときにイエスを裏切って彼らに渡す良い機会をうかがうようになります。
ニサン13日は水曜日の日没から始まります。イエスがエリコから来られたのは金曜日でしたから,これはベタニヤで過ごされる六日目の,そして最後の夜です。翌日の木曜日には,日没から始まる過ぎ越しの最終的な準備をする必要があります。過ぎ越しの子羊をほふって,丸ごと焼かなければならないのはその時です。その食事をどこで祝うのでしょうか。また,だれがその準備をするのでしょうか。
イエスはそのような詳細な点を述べておられません。それは過ぎ越しを祝っている最中にイエスを逮捕するようユダが祭司長たちに通報するのを防ぐためだったようです。しかし恐らく木曜日の昼過ぎに,イエスはペテロとヨハネに,「行って,わたしたちが食べる過ぎ越しを用意しなさい」と言い,ベタニヤからお遣わしになります。
「どこに用意するようにお望みですか」と二人は尋ねます。
イエスはこう説明されます。「水を土器に入れて運んでいる男があなた方に会うでしょう。そのあとに付いて行って,彼の入る家に入りなさい。そして,その家のあるじにこう言わねばなりません。『師があなたに言っておられます,「わたしが弟子たちと一緒に過ぎ越しの食事をすることのできる客室はどこでしょうか」と』。するとその人は整えられた大きな階上の部屋を見せてくれるでしょう。そこに用意をしなさい」。
その家あるじはイエスの弟子であるに違いありません。恐らくイエスからこの特別な時のために家を使わせてほしいと頼まれることを予期していたのでしょう。ともかくペテロとヨハネがエルサレムに到着してみると,事はすべてイエスの予告どおりに運びます。そこで二人は,子羊が用意され,イエスと十二使徒の13人が過ぎ越しを祝うのに必要な物をそろえる手はずがすべて整うのを見届けます。 マタイ 26:1-5,14-19。マルコ 14:1,2,10-16。ルカ 22:1-13。出エジプト記 21:32。
■ イエスは水曜日をどのように過ごされますか。それはなぜですか。
■ 大祭司の家ではどんな集まりが行なわれますか。ユダは何のために宗教指導者たちを訪れますか。
■ イエスは木曜日にだれをエルサレムへ遣わされますか。それは何のためですか。
■ これら遣わされた者たちは,この時もまたイエスの奇跡的な力を示すものとなった,どんな事柄を見ますか。
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最後の過ぎ越しで示された謙遜さこれまでに生存した最も偉大な人
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113章
最後の過ぎ越しで示された謙遜さ
イエスの指示を受けたペテロとヨハネは過ぎ越しの祝いを準備するため,すでにエルサレムに到着しています。イエスのほうは,他の10人の使徒たちも一緒と思われますが,夕方になって到着されます。太陽が地平線に沈むころ,イエスとその一行はオリーブ山を下ります。これを最後に復活後まで,イエスがその都市をこの山から日中にご覧になることはありません。
イエスとその一行はまもなく市内に着き,自分たちが過ぎ越しを祝おうとしている家に向かいます。階段を上って階上の大きな部屋に行くと,彼らだけで祝う過ぎ越しの準備がすっかり整っています。「わたしは,苦しみを受ける前にあなた方と一緒にこの過ぎ越しの食事をすることを大いに望んできました」と言われるとおり,イエスはこの時を待ち望んでおられました。
伝統によれば,過ぎ越しの祝いにあずかる者たちは四つの杯のぶどう酒を飲みました。イエスは3番目と思われる杯を受け取ってから,感謝をささげて,こう言われます。「これを取り,あなた方の間で順に回しなさい。あなた方に言いますが,今からのち,神の王国が到来するまで,わたしはぶどうの木の産物を二度と飲まないのです」。
食事の途中,イエスは立ち上がって自分の外衣をわきに置き,ふき布を取って,たらいに水を満たします。普通なら,主人役を務める人が客の足を洗うよう取り計らうのですが,この度は主人がいないので,イエスがこの個人的な世話をなさいます。使徒たちのうちのだれかがその仕事を買って出ることもできましたが,彼らの間には幾らかのライバル意識が残っているらしく,だれもそうしようとはしません。そこでイエスが彼らの足を洗い始めたため,彼らは当惑してしまいます。
ペテロは自分のところにイエスが来られると,「わたしの足をお洗いになることなど,決してあってはなりません」と言い張ります。
「わたしが洗わないなら,あなたはわたしと何の関係もありません」とイエスは言われます。
するとペテロは,「主よ,足だけでなく,手も頭も」と言います。
イエスは,こう答えられます。「水浴びした者は,足を洗ってもらう必要があるほかは,全身清いのです。それであなた方は清いのです。しかし,すべての者がそうではありません」。イエスがこう言われるのは,ユダ・イスカリオテがご自分を裏切ろうとしているのを知っておられるからです。
イエスは,裏切り者のユダも含めて12人全員の足を洗うと,ご自分の外衣を身に着け,再び食卓について横になられます。それからこうお尋ねになります。「わたしがあなた方にしたことが分かりますか。あなた方はわたしを,『師』,また『主』と呼びます。そう言うのは正しいことです。わたしはそのような者だからです。それで,わたしが,主また師でありながらあなた方の足を洗ったのであれば,あなた方も互いに足を洗い合うべきです。わたしはあなた方のために模範を示しました。あなた方も,わたしがあなた方にしたと同じようにするためです。きわめて真実にあなた方に言いますが,奴隷はその主人より偉くはなく,また,遣わされた者はそれを遣わした者より偉くはありません。これらのことを知っているなら,それを行なうときに,あなた方は幸福です」。
謙遜に仕えるという点で,これは何とすばらしい教訓でしょう。使徒たちは,他の人から常に仕えてもらうほど自分が重要であると考えて,第一の立場を求めるようであってはならないのです。彼らはイエスの残された模範に従う必要があります。これは儀式的に足を洗うということではありません。むしろそれは,どんなに卑しい,あるいはつまらない務めであっても,偏見を持たずに喜んで奉仕するという意味なのです。 マタイ 26:20,21。マルコ 14:17,18。ルカ 22:14-18; 7:44。ヨハネ 13:1-17。
■ 過ぎ越しを祝うためエルサレムに入られるイエスがその都市をご覧になるのは,どんな点で類例のないものですか。
■ 過ぎ越しにおいて祝とうを述べた後,イエスが十二使徒たちに回されたのは,どの杯であったと考えられますか。
■ イエスが地上におられた時の習慣として,どんな個人的な世話が客に対してなされましたか。イエスと使徒たちが祝った過ぎ越しにおいて,そのような世話がなされなかったのはなぜですか。
■ イエスはどんな目的で,使徒たちの足を洗うという卑しい奉仕をなさいましたか。
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記念の夕食これまでに生存した最も偉大な人
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114章
記念の夕食
イエスは使徒たちの足を洗われた後,詩編 41編9節の聖句を引用して,「常々わたしのパンを食していた者が,わたしに向かってかかとを挙げた」と言われます。それから霊において苦しまれ,「あなた方のうちの一人がわたしを裏切るでしょう」と説明されます。
使徒たちは悲しみ,一人ずつ,「まさかわたしではありませんね」と言い始めます。ユダ・イスカリオテさえも一緒になって質問します。食卓でイエスの隣に横たわっていたヨハネは,イエスの胸もとにそり返って,「主よ,それはだれですか」と尋ねます。
イエスは答えて,「それは十二人の一人で,わたしと一緒に共同の鉢に手を浸している者です。確かに人の子は,自分について書かれているとおりに去って行きますが,人の子を裏切るその人は災いです! その人にとっては,むしろ生まれてこなかったほうがよかったでしょう」と言われます。そのあと,サタンは再びユダに入ります。邪悪になったその心の隙をとらえたのです。その夜の後刻に,イエスは適切にもユダのことを「滅びの子」と呼ばれました。
今イエスはユダに,「あなたのしている事をもっと早く済ませなさい」と言われます。使徒たちはだれ一人,イエスの言葉の意味を理解していません。ある者たちは,ユダが金箱を保管しているので,イエスが彼に,「祭りのためにわたしたちが必要とするものを買いなさい」とか,出かけて行って貧しい人たちに何か与えるようにと命じておられるものと思っています。
ユダが去った後,イエスは忠実な使徒たちと共に,全く新しい祝い,つまり記念式をお始めになります。イエスはパンを取って感謝の祈りをささげ,それを割いて弟子たちに与え,「取って,食べなさい」と言われます。そして,「これは,あなた方のために与えられるわたしの体を表わしています。わたしの記念としてこれを行ないつづけなさい」と言われます。
各々がパンを食べ終わると,イエスはぶどう酒の杯を取ります。これは,過ぎ越しの儀式で用いられる4番目の杯と思われます。イエスはぶどう酒にも感謝の祈りをささげて,それを弟子たちに回し,その杯から飲むように勧めてこう言われます。「この杯は,わたしの血による新しい契約を表わしています。それはあなた方のために注ぎ出されることになっています」。
ですからこれは,実際にはイエスの死の記念式です。イエスが言われるとおり,この式はイエスの記念として,毎年ニサン14日に行なわれるべきです。この式を祝う人たちは,死の有罪宣告から人類を救うために,イエスと天の父が行なわれた事柄を思い起こせます。キリストの追随者となるユダヤ人にとって,この祝いは過ぎ越しに取って代わります。
イエスの流された血によって発効する新しい契約は,古い律法契約に取って代わります。新しい契約はイエス・キリストを仲介者として当事者双方の間で結ばれます。一方の当事者はエホバ神で,もう一方は霊によって生み出された14万4,000人のクリスチャンです。この契約により,罪の許しが得られるだけでなく,天の王なる祭司の国民を形作ることができるようになります。 マタイ 26:21-29。マルコ 14:18-25。ルカ 22:19-23。ヨハネ 13:18-30; 17:12。コリント第一 5:7。
■ イエスは仲間の一人について,聖書のどんな預言を引用されますか。それをどのように適用されますか。
■ 使徒たちが深い悲しみを抱いているのはなぜですか。彼らは一人ずつ,どんなことを尋ねますか。
■ イエスは何をするようユダにお命じになりますか。他の使徒たちはその指示を,どんな意味に受け取りますか。
■ ユダが去った後,イエスはどんな祝いを制定されますか。その祝いはどんな目的を果たしますか。
■ 新しい契約の当事者となるのはだれですか。この契約は,どんなことを成し遂げますか。
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激しい口論が始まるこれまでに生存した最も偉大な人
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115章
激しい口論が始まる
その晩の少し早い時刻にイエスは,使徒たちの足を洗って謙遜に仕えることについてすばらしい教訓をお与えになりました。そのあと,近づいていたご自分の死の記念式を始められました。さて,つい先ほど起きたことを考えると,なおのこと驚かされるような出来事が生じます。使徒たちが,自分たちのうちでだれが一番偉いのだろうかということで,激しい口論を始めたのです。どうやら,これは今に始まったことではないようです。
イエスが山の上で変ぼうされた後に使徒たちが,自分たちのうちでだれが一番偉いかについて口論していたのを思い起こしてください。それに,ヤコブとヨハネが,王国の中で目立った立場を与えてもらうよう願い出たため,使徒たちがさらに争ったこともありました。そして今度は,使徒たちと過ごす最後の晩にまたもや彼らが言い争っているのを目にしたのですから,イエスは非常に悲しまれたに違いありません。イエスはどうなさるでしょうか。
イエスは,使徒たちの振る舞いを叱りつけるのではなく,忍耐強くもう一度彼らを諭されます。「諸国民の王たちは人々に対して威張り,人々の上に権威を持つ者たちは恩人と呼ばれています。ですが,あなた方はそうであってはなりません。……というのは,食卓について横になっている者と奉仕している者では,どちらが偉いのですか。それは,食卓について横になっている者ではありませんか」。それから,ご自分の模範を彼らに思い起こさせて,「しかしわたしは,奉仕する者としてあなた方の中にいるのです」と言われます。
使徒たちは不完全でしたが,イエスが試練に遭っている間ずっとイエスに付き従ってきました。それでイエスは,『わたしは,ちょうどわたしの父がわたしと契約を結ばれたように,あなた方と王国のための契約を結びます』と言われます。イエスとその忠節な追随者たちとの間で結ばれたこの個人的な契約によって,彼らはイエスと共に王として支配するようになります。最終的には,14万4,000人という限られた数の人々だけが,この王国のための契約に入れられます。
使徒たちにはキリストと共に王国の支配を行なうというすばらしい見込みが差し伸べられていますが,今のところ彼らは霊的に弱った状態にあります。「今夜,あなた方は皆わたしに関してつまずくでしょう」と,イエスは言われます。しかし,ご自分がペテロのために祈ったことをペテロに告げてから,「それであなたは,ひとたび立ち直ったなら,あなたの兄弟たちを強めなさい」と促されます。
イエスはこのように説明されます。「小さな子供らよ,わたしはあと少しの間あなた方と共にいます。あなた方はわたしを捜すようになるでしょう。そしてわたしは,『わたしの行く所にあなた方は来ることができない』とユダヤ人たちに言いましたが,今はあなた方にも同じように言います。わたしはあなた方に新しいおきてを与えます。それは,あなた方が互いに愛し合うことです。つまり,わたしがあなた方を愛したとおりに,あなた方も互いを愛することです。あなた方の間に愛があれば,それによってすべての人は,あなた方がわたしの弟子であることを知るのです」。
「主よ,どこへおいでになるのですか」と,ペテロは尋ねます。
「わたしが行こうとしている所へあなたは今は付いて来ることはできません。後になって付いて来ることになるでしょう」と,イエスは答えられます。
「主よ,どうして今はあなたに付いて行けないのですか」と,ペテロは尋ね,さらにこう言います。「わたしは,あなたのためには自分の魂もなげうちます」。
「わたしのために自分の魂もなげうつというのですか」と,イエスはお聞きになります。「あなたに真実に言っておきますが,あなたは今日,そうです,今夜,おんどりが二度鳴く前に,あなたでさえ三度わたしのことを否認するでしょう」。
「たとえ共に死なねばならないとしても,わたしは決してあなたのことを否認したりはしません」と,ペテロは言い張ります。そして,ほかの使徒たちも同じことを言いだしますが,ペテロは誇らしげに,「ほかのみんながあなたに関してつまずいても,わたしは決してつまずきません!」と言います。
イエスは,財布も食物袋も持たせずに使徒たちをガリラヤの伝道旅行に遣わした時のことに触れて,「あなた方は何にも不足しなかったのではありませんか」とお尋ねになります。
「はい,何にも!」と,彼らは答えます。
イエスは言われます。「しかし今,財布のある者はそれを持ち,食物袋も同じようにしなさい。そして,剣を持っていない者は,自分の外衣を売ってそれを買いなさい。あなた方に言いますが,書かれているこのこと,すなわち,『そして彼は不法な者たちと共に数えられた』ということは,わたしに成し遂げられねばならないからです。わたしに関することは成し遂げられてゆくのです」。
イエスは,ご自分が悪行者,つまり不法な者と共に杭につけられる時のことを言っておられます。そして,ご自分の追随者たちが後からきびしい迫害に直面することをも示唆しておられます。「主よ,ご覧ください,ここに剣が二振りあります」と,彼らは言います。
「それで十分です」と,イエスはお答えになります。これから見てゆきますが,彼らが剣を携帯しているのがきっかけとなり,イエスは間もなく別の重要な教訓をお与えになります。 マタイ 26:31-35。マルコ 14:27-31。ルカ 22:24-38。ヨハネ 13:31-38。啓示 14:1-3。
■ 使徒たちの口論にたいへん驚かされるのはなぜですか。
■ イエスはこの口論をどのように扱われますか。
■ イエスがご自分の弟子たちと結ばれた契約によって何が成し遂げられますか。
■ イエスがお与えになる新しいおきてとはどのようなものですか。それはどれほど重要なものですか。
■ ペテロはどのように自信過剰なところを示しますか。イエスは何と言われますか。
■ 財布と食物袋を携えることに関するイエスの指示はなぜ,以前にお与えになった指示と違いますか。
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別れに際して使徒たちに心の準備をさせるこれまでに生存した最も偉大な人
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116章
別れに際して使徒たちに心の準備をさせる
記念式の食事は終わりましたが,イエスと使徒たちはまだ階上の部屋にいます。イエスはまもなく去ってゆかれますが,言うべきことはまだたくさん残っています。イエスは,「あなた方の心を騒がせてはなりません」と述べて使徒たちの気持ちをなだめ,『神に信仰を働かせなさい』と言われます。しかしイエスはそれに付け加えて,「またわたしにも信仰を働かせなさい」と言われます。
イエスは続けて,「わたしの父の家には住むところがたくさんあります。……わたしはあなた方のために場所を準備しに行こうとしているのです……わたしのいる所にあなた方もまたいるためです。そして,わたしが行こうとしている所への道をあなた方は知っています」と言われます。使徒たちには,イエスが天へ行くことについて話しておられるということが分からないので,トマスは,「主よ,わたしたちは,あなたがどこへ行こうとしておられるのか分からないのです。どうしてその道が分かるでしょうか」と尋ねます。
イエスはそれに答えて,「わたしは道であり,真理であり,命です」と言われます。そうです,イエスを受け入れ,イエスの生き方に倣うことによってのみ,天にあるみ父の家に入ることができるのです。なぜなら,イエスが言われるように,「わたしを通してでなければ,だれひとり父のもとに来ることは(ない)」からです。
フィリポが,「主よ,わたしたちに父をお示しください。それで十分です」と頼みます。フィリポは,古代においてモーセやエリヤやイザヤに与えられた幻の中で示されたように,目に見える形で神が表わし示されることをイエスに願い求めていたようです。しかし使徒たちは実際に,その種の幻よりはるかに優れたものを見ています。イエスが言われる通りです。「わたしはこれほど長い間あなた方と過ごしてきたのに,フィリポ,あなたはまだわたしを知らないのですか。わたしを見た者は,父をも見たのです」。
イエスはみ父の性格を完ぺきに反映しておられるので,イエスと共に生活してイエスを観察することは,要するにみ父を実際に見ているようなものです。とは言っても,み父はみ子より上位の方です。イエスもそのことを認めて,「わたしがあなた方に言う事柄は,独自の考えで話しているのではありません」と言われます。イエスはご自分の教えが父から出ていることを全面的に認められますが,それは妥当なことです。
使徒たちは次にイエスが言われることを聞いて大きな励みを得るに違いありません。「わたしに信仰を働かせる者は,その者もまたわたしの行なっている業をするでしょう。しかも,それより大きな業をするのです」。イエスが言おうとしておられるのは,追随者たちがご自分より偉大な奇跡的力を行使するということではなく,彼らがはるかに長い期間,はるかに広い範囲に,またはるかに大勢の人たちに対して宣教を行なうということです。
イエスは,ご自分が去った後も弟子たちを見捨てたりはされません。「あなた方がわたしの名によって求めることが何であっても,わたしはそれを行ないます」と約束し,さらに,「わたしは父にお願いし,父は別の助け手を与えて,それがあなた方のもとに永久にあるようにしてくださいます。それは真理の霊で(す)」と言われます。後にイエスは昇天してから,この別の助け手,つまり聖霊を弟子たちの上に注がれます。
イエスの去る時が近づいてきました。イエスが言われるように,「あとしばらくすれば,世はもはやわたしを見ない」のです。イエスは,人間が見ることのできない霊者となられるのです。しかしイエスは,再びご自分の忠実な使徒たちに,「あなた方はわたしを見ます。わたしは生きており,あなた方も生きるからです」と約束されます。そうです,イエスは復活後に人間の姿で彼らに現われるだけでなく,しかるべき時に彼らを霊者として復活させ,天でイエスと共に生きるようにされるのです。
ここでイエスは単純明快な規則を述べられます。「わたしのおきてを持ってそれを守り行なう人,その人はわたしを愛する人です。さらに,わたしを愛する人はわたしの父に愛されます。そしてわたしはその人を愛して,自分をはっきり示します」。
この時,タダイとも呼ばれている使徒ユダが,「主よ,あなたはわたしたちにはご自分をはっきり示そうとされ,世に対してはそのようにされない,これは何が起きたのですか」と,言葉をはさみます。
それに対してイエスは,「だれでもわたしを愛するなら,その人はわたしの言葉を守り行ない,わたしの父はその人を愛し(ます)。……わたしを愛さない者はわたしの言葉を守り行ないません」とお答えになります。イエスの忠実な追随者とは異なり,世はキリストの教えを無視します。それでイエスは,世に対してご自分を明らかにされないのです。
地上で宣教を行なっておられた間,イエスは使徒たちに多くのことを教えられました。しかし,この時になっても把握できないことがたくさんあるというのに,弟子たちはそのすべてをどのように思い出すのでしょうか。幸いなことに,イエスはこう約束してくださいます。「しかし,父がわたしの名によって遣わしてくださる助け手,つまり聖霊のことですが,その者はあなた方にすべてのことを教え,わたしが告げたすべての事柄を思い起こさせるでしょう」。
イエスは再び彼らの気持ちをなだめ,「わたしはあなた方に平安を残し,わたしの平安を与えます。……あなた方の心を騒がせては……なりません」と言われます。確かにイエスは去ってゆかれますが,このように説明されます。「もしわたしを愛するなら,わたしが父のもとに行こうとしていることを歓ぶはずです。父はわたしより偉大な方だからです」。
イエスが彼らと共にいる残された時間はわずかです。「わたしはもう,あなた方と多くは語らないでしょう。世の支配者が来ようとしているからです。そして,彼はわたしに対して何の力もありません」と語られます。悪魔サタンは世の支配者なのです。この者はユダの中に入ってユダを支配することができました。しかしイエスには,サタンに付け込まれて神への奉仕をやめるよう誘惑されるような罪深い弱さはありません。
親密な関係を享受する
記念式の食事に続いてイエスは,打ち解けた態度で率直に語り,使徒たちを励ましてこられました。もう真夜中を過ぎているかもしれません。それでイエスは,「立ちなさい。ここから行きましょう」と彼らを促されます。しかし出かける前に,彼らへの愛に動かされ,動機付けを与える例えを用いて話を続けられます。
「わたしは真のぶどうの木,わたしの父は耕作者です」という言葉で話を始められます。偉大な耕作者であられるエホバ神がこの象徴的なぶどうの木をお植えになったのは,西暦29年の秋のイエスのバプテスマの際に聖霊によってイエスに油をそそがれた時でした。しかしイエスは,そのぶどうの木がただ自分一人を表わすのではないことを示して,こう述べられます。「父は,わたしにあって実を結んでいない枝をみな取り去り,実を結んでいるものをみな清めて,さらに実を結ぶようにされます。……枝がぶどうの木にとどまっていないなら,それだけでは実を結ぶことができないのと同じように,あなた方もわたしと結びついたままでいないなら,実を結ぶことができません。わたしはぶどうの木,あなた方はその枝です」。
それから51日後のペンテコステのとき,使徒たちや他の者たちは聖霊をそそがれてぶどうの木の枝になります。最終的には14万4,000人の人々が象徴的なぶどうの木の枝になります。これらの人々は,ぶどうの木の幹であるイエス・キリストと共に,神の王国の実を生み出す象徴的なぶどうの木を形成するのです。
イエスは実を生み出す秘けつを説明されます。「わたしと結びついたままでおり,わたしが結びついたままでいる人,その人は多くの実を結びます。わたしから離れては,あなた方は何も行なえないからです」。しかし,もし人が実を生み出さないなら,「その人は枝のようにほうり出されて枯れてしまいます。そして人々はそうした枝を寄せ集めて火の中に投げ込み,それは焼かれてしまいます」と,イエスは語られます。一方,「あなた方がわたしと結びついたままでおり,わたしの言ったことがあなた方のうちにとどまっているのであれば,どんなことでも自分の願うことを求めなさい。そうすれば,それはあなた方のためにそのとおりになります」と約束されます。
イエスはさらに,「あなた方が多くの実を結びつづけてわたしの弟子であることを示すこと,これによってわたしの父は栄光をお受けになるのです」と使徒たちに言われます。神が枝に望んでおられる実とは,弟子たちがキリストのような特質,とりわけ愛を表わすことです。さらに,キリストは神の王国の宣明者でしたから,その望まれる実にはイエスがなさったような弟子を作る活動も含まれます。
ここでイエスは,「わたしの愛のうちにとどまっていなさい」とお勧めになります。しかし,使徒たちがイエスの愛のうちにとどまるにはどうしたらよいのでしょうか。「わたしのおきてを守り行なうなら,あなた方はわたしの愛のうちにとどまることになります」と,イエスは語られます。そして続けてこう説明されます。「わたしがあなた方を愛したとおりにあなた方が互いを愛すること,これがわたしのおきてです。友のために自分の魂をなげうつこと,これより大きな愛を持つ者はいません」。
これから数時間後にイエスは,使徒たちや,ご自分に信仰を働かせる人々すべてのためにご自分の命を与えることにより,卓越した愛を示されるのです。その模範は,同じ自己犠牲的な愛を互いに示し合うようイエスの追随者たちを動かすものとなるはずです。イエスが以前,「あなた方の間に愛があれば,それによってすべての人は,あなた方がわたしの弟子であることを知るのです」と語られたように,弟子たちはこの愛によって見分けられるのです。
イエスは,どんな人がご自分の友であるかを明らかにして,「わたしが命令していることを行なうなら,あなた方はわたしの友です。わたしはもはやあなた方を奴隷とは呼びません。奴隷は自分の主人の行なうことを知らないからです。しかしわたしはあなた方を友と呼びました。自分の父から聞いた事柄をみなあなた方に知らせたからです」と言われます。
何と貴重な関係が持てるのでしょう。イエスの親友になれるのです! しかし,追随者たちはこの関係を享受しつづけるために「実を結びつづけ」なければなりません。もし彼らがそうするなら,『あなた方がわたしの名によって父に何を求めても,父はそれをあなた方に与えてくださるでしょう』。確かにこれは,王国の実を生み出すことに対するすばらしい報いです。「互いに愛し合う」よう再び使徒たちに勧めたあとイエスは,彼らが世から憎まれるようになることを説明されます。それでもイエスは,「もし世があなた方を憎むなら,あなた方を憎むより前にわたしを憎んだのだ,ということをあなた方は知るのです」と述べて,彼らに慰めをお与えになります。そして次に,世がご自分の追随者たちを憎む理由を明らかにし,「あなた方は世のものではなく,わたしが世から選び出したので,そのために世はあなた方を憎むのです」と言われます。
イエスはさらに世が憎む理由について説明を加え,「彼らは,わたしの名のゆえにこれらすべてのことをあなた方に敵して行なうでしょう。わたしを遣わした方[エホバ神]を知らないからです」と語られます。イエスの奇跡的な業は事実上,イエスを憎む者たちを罪に定めました。イエスはその点に触れ,「もしわたしが,ほかのだれも行なわなかった業を彼らの間で行なっていなかったなら,彼らには何の罪もなかったことでしょう。しかし今,彼らはわたしもわたしの父をも見,そのうえ憎んだのです」と言われます。こうして,イエスが言われるように,「彼らはいわれなくわたしを憎んだ」という聖句が成就しているのです。
前にも話されましたが,イエスはここで再び,神からの強力な活動力である聖霊という助け手を送ることを約束し,「その者がわたしについて証しするでしょう。そして今度はあなた方が証しをするのです」と語って彼らを慰められます。
別れ際の訓戒は続く
イエスと使徒たちは階上の部屋を出るところです。イエスは続けて,「あなた方がつまずかないために,わたしはこれらのことを話しました」と語り,それから厳粛な警告をお与えになります。「人々はあなた方を会堂から追放するでしょう。事実,あなた方を殺す者がみな,自分は神に神聖な奉仕をささげたのだと思う時が来ようとしています」。
使徒たちはこの警告を聞いて大変動揺しているようです。イエスは以前,世は彼らを憎むと言われましたが,彼らが殺されるであろうことをこのように直接に知らせることはされませんでした。イエスはそのわけを,「わたしは[このこと]を初めにはあなた方に告げませんでした。あなた方と共にいたからです」と説明されます。それでも,ご自分が去る前にこの情報を与え,彼らに備えをさせるとは,何と行き届いた取り計らいなのでしょう!
イエスの話は続きます。「しかし今,わたしは自分を遣わした方のもとに行こうとしています。それでも,あなた方のうち一人も,『どこに行くのですか』とは尋ねません」。その晩の早い時刻に,使徒たちはイエスがどこへ行こうとしておられるのか尋ねましたが,今は話された事柄に動揺してしまい,このことについてそれ以上尋ねることができません。「わたしがこれらのことを話したために,悲嘆があなた方の心を満たしています」と,イエスは言われます。使徒たちが悲嘆に暮れているのは,自分たちがいずれは恐ろしい迫害に遭って殺されるのを知ったからだけでなく,主が去ろうとしておられるからです。
それでイエスは説明されます。「わたしが去って行くことはあなた方の益になるのです。わたしが去って行かなければ,助け手は決してあなた方のもとに来ないからです。しかし,去って行けば,わたしは彼をあなた方に遣わします」。人間としてはイエスは一時に一つの場所にしかいることができませんが,天にいれば,追随者たちが地上のどこにいても,彼らに神の聖霊という助け手を送ることができます。ですからイエスが去られることは益になるのです。
聖霊は,「罪に関し,義に関し,裁きに関して,納得させる証拠を世に与えるでしょう」とイエスは語られます。世の罪,つまり神の子に信仰を働かせないという罪は暴露されるでしょう。さらに,イエスの義に関する納得のゆく証拠は,イエスがみ父のもとに昇られることによって明らかに示されるでしょう。そして,サタンとその邪悪な世がイエスの忠誠を砕けないことは,世の支配者が不利な裁きを受けてきたことの納得のゆく証拠となります。
イエスは話を続けられます。「わたしにはまだあなた方に言うべきことがたくさんありますが,あなた方は今はそれに耐えることができません」。そのようなわけでイエスは,ご自分が神の活動力である聖霊を注ぐ時に,聖霊が彼らの把握力に応じて彼らを導き,これらの事柄を理解させてゆくということを約束しておられるのです。
使徒たちが特に理解できないのは,イエスが亡くなり,そののち復活して彼らの前に現われるという点です。それで彼らは互いに,「『しばらくすればあなた方はわたしを見ない,そしてまた,しばらくすればあなた方はわたしを見る』,そして,『わたしが父のもとに行くからだ』と言われるのはどういう意味なのか」と話し合います。
イエスは彼らが自分に質問したがっているのに気づき,こう説明されます。「きわめて真実にあなた方に言いますが,あなた方は泣き悲しみ,泣き叫びますが,世は歓ぶでしょう。あなた方は悲嘆しますが,あなた方の悲嘆は喜びに変えられるのです」。その日の後刻,つまり午後にイエスが殺される時,世の宗教指導者たちは歓びますが,弟子たちは悲嘆します。しかし,彼らの悲嘆はイエスが復活させられる時に喜びに変えられるのです。そして,イエスはペンテコステの際に神の聖霊を注がれることによって彼らにご自分の証人となる権限をお与えになるので,その喜びは続きます。
イエスは使徒たちの置かれている状況を,出産の苦しみを味わう女性のそれと比較して,「女は出産に臨んで嘆きを抱きます。彼女の時が到来したからです」と言われます。しかし,その女性は我が子が産まれさえすれば,もうその患難を覚えていないとイエスは語り,使徒たちを次のように励まされます。「それで,あなた方も今は確かに悲嘆を抱いています。しかし,[わたしが復活させられる時]わたしは再びあなた方に会うので,あなた方の心は歓ぶことでしょう。そして,だれもあなた方からその喜びを奪う者はありません」。
この時まで,使徒たちがイエスの名によって何かを求めたことはありませんでした。しかし今イエスは言われます。「あなた方が父に何か求めるなら,父はそれをわたしの名によって与えてくださるのです。……父ご自身があなた方に愛情を持っておられるからです。それは,あなた方がわたしに愛情を持ち,わたしが父の代理者として来たことを信じているからです。わたしは父のもとから出て世に来ました。そしてまた,世を去って父のもとに行こうとしています」。
イエスの言葉は使徒たちにとって大きな励ましです。「これによってわたしたちは,あなたが神のもとから来られたことを信じます」と彼らは言います。「あなた方は今のところ信じているのですか」とイエスはお尋ねになります。「見よ,あなた方がそれぞれ自分の家に散らされてわたしを独りだけにする時が来ます。そうです,現に来ているのです」。信じ難いように思えるかもしれませんが,このことはその夜が明ける前に起きるのです。
「あなた方がわたしによって平安を得るために,わたしはこれらのことを言いました」。イエスは最後にこう言われます。「世にあってあなた方には患難がありますが,勇気を出しなさい! わたしは世を征服したのです」。サタンとその世がイエスの忠誠を砕くために手を尽くしたにもかかわらず,イエスは神のご意志を忠実に成し遂げることによって世を征服されたのです。
階上の部屋における最後の祈り
イエスは使徒たちに対する深い愛に動かされ,別れを目前にして彼らに心の準備をさせてこられました。彼らに訓戒と慰めを十分に与えた今,イエスは目を天に向けてみ父に請願されます。「あなたの子の栄光を表わしてください。子があなたの栄光を表わすためです。それは,あなたがすべての肉なるものに対する権威を子に与え,そのお与えになった者すべてについて,子がそれらの者に永遠の命を与えるようにされたことに応じてです」。
イエスは何と感動的なテーマを持ち出されたのでしょう ― 永遠の命とは!「すべての肉なるものに対する権威」を与えられているので,イエスは死にゆく人類すべてにご自分の贖いの犠牲の益を得させることができます。とはいえ,イエスが「永遠の命」をお与えになるのは,み父が是認なさる人々だけです。イエスは永遠の命というこのテーマに基づいてさらに祈りを続けられます。
「彼らが,唯一まことの神であるあなたと,あなたがお遣わしになったイエス・キリストについての知識を取り入れること,これが永遠の命を意味しています」。そうです,救いはわたしたちが神とみ子についての知識を取り入れるか否かにかかっているのです。しかし,単に知識を頭に詰め込む以上のことが必要です。
人は神とみ子を親しく知り,お二方と気脈の通じた交友関係を築くようにしなければなりません。様々な事柄に関してお二方が感じられるように感じ,お二方の見地に立って物事を見なければなりません。そして何よりも,他の人との関係において,神とみ子の持っておられる比類のない特質を見倣うよう懸命に努力しなければなりません。
イエスは次に,「わたしは,わたしにさせるために与えてくださった業をなし終えて,地上であなたの栄光を表わしました」と祈られます。そのようにしてイエスはこの時点までのご自分の任務を果たしてこられ,またこれから先も首尾よく果たしてゆくことを確信しておられたので,「父よ,世がある前にわたしがみそばで持っていた栄光で,わたしを今ご自身の傍らにあって栄光ある者としてください」と請願されます。そうです,イエスは今や,ご自分が以前あずかっていた天的な栄光を復活によって再び得させてくださるよう求めておられるのです。
地上で行なった主要な業を要約してイエスは,「わたしは,あなたが世から与えてくださった人々にみ名を明らかにしました。彼らはあなたのものでしたが,わたしに与えてくださったのであり,彼らはあなたのみ言葉を守り行ないました」と言われます。イエスは宣教中エホバという神のみ名を用いて,その正確な発音を示されましたが,使徒たちに神のみ名を明らかにするため,それ以上のことを行なわれました。イエスはまた,エホバやエホバのご性格,エホバの目的などについて使徒たちが知識と認識を増し加えるようにされました。
イエスはエホバを自分より上位の方,自分が仕える方と認め,謙遜にこう祈られます。「わたしに与えてくださったことばをわたしは彼らに与え(ました)。彼らはそれを受け入れて,わたしがあなたの代理者として来たことを確かに知り,あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたのです」。
イエスは次に,ご自分の追随者とそれ以外の人々とを区別して,「わたしは彼らに関してお願いいたします。世に関してではなく,わたしに与えてくださった者たちに関してお願いするのです。……わたしは,彼らと共におりました時,……いつも彼らを見守りました。そしてわたしは彼らを守り,滅びの子のほかには,そのうちだれも滅びていません」と祈られます。「滅びの子」とはユダ・イスカリオテのことです。まさにこの時,ユダは卑劣にもイエスを裏切って渡すため敵のもとへ出向いています。こうしてユダはそれとは知らずに聖句を成就してゆきます。
イエスは祈りを続け,「世は彼らを憎みました。……わたしは,彼らを世から取り去ることではなく,邪悪な者のゆえに彼らを見守ってくださるようにお願いいたします。わたしが世のものではないのと同じように,彼らも世のものではありません」と言われます。イエスの追随者たちは世に,つまりサタンの支配するこの組織された人間社会の中にいますが,世から,そして世の邪悪な事柄から常に離れています。また離れたままでいなければなりません。
イエスは続けて,「真理によって彼らを神聖なものとしてください。あなたのみ言葉は真理です」と祈られます。イエスはここで,ご自分がひんぱんに引用された,霊感を受けたヘブライ語聖書のことを「真理」と呼んでおられます。しかし,ご自分が弟子たちに教えた事柄,また後に弟子たちがクリスチャン・ギリシャ語聖書として霊感のもとに書き記した事柄も,やはり同様に「真理」です。この真理は人を神聖なものとし,その生き方を完全に変化させ,その人を世から分けられた状態にします。
ここでイエスは,「これらの者だけでなく,彼らの言葉によって[イエス]に信仰を持つ者たちについても」祈られます。ですからイエスは,ご自分の油そそがれた追随者になる人たちのため,またやがて「一つの群れ」に集め入れられる将来の他の弟子たちのために祈っておられるのです。これらの人たちのためにイエスは何を願い求められるのでしょうか。
「それは,彼らがみな一つになり,父よ,あなたがわたしと結びついておられ,わたしがあなたと結びついているように,……わたしたちが一つであるように,彼らも一つになるためです」。イエスとみ父は文字通りひとりであるというのではなく,すべての事柄において一致しておられるということです。イエスは,追随者たちがこの同じ一致を享受して,「あなたがわたしを遣わされたこと,そして,わたしを愛してくださったと同じように彼らを愛されたことを世が知る」に至るようにと祈られます。
イエスはここで油そそがれた追随者となる人たちのために,天のみ父に一つのことを願い求められます。どんなことでしょうか。「わたしのいる所に彼らも共にいて,わたしに与えてくださった栄光を見るようにと願います。あなたは世の基の置かれる前[すなわちアダムとエバが子孫をもうける前]にわたしを愛してくださったからです」。アダムとエバが子孫をもうけるよりもずっと前から,神はご自分の独り子を愛しておられました。神のその独り子がイエス・キリストになったのです。
祈りの最後にイエスは再びこう強調されます。「わたしはみ名を彼らに知らせました。またこれからも知らせます。それは,わたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり,わたしが彼らと結びついているためです」。使徒たちにとって,神のみ名を知るとは,神の愛を個人的に知るということでもあったのです。 ヨハネ 14:1-17:26; 13:27,35,36; 10:16。ルカ 22:3,4。出エジプト記 24:10。列王第一 19:9-13。イザヤ 6:1-5。ガラテア 6:16。詩編 35:19; 69:4。箴言 8:22,30。
■ イエスはどこへ行こうとしておられますか。そこまでの行き方についてトマスが尋ねたとき,どんな答えが返ってきますか。
■ イエスにお願いしたフィリポは,イエスが何をしてくださることを望んでいるようですか。
■ イエスを見た人がみ父をも見たことになるのはどうしてですか。
■ イエスの追随者たちは,どのようにイエスより大きな業をすることになりますか。
■ サタンはどんな意味で,イエスに対して何の力もないのでしょうか。
■ エホバはいつ象徴的なぶどうの木をお植えになりましたか。ほかの人々はいつ,またどのようにぶどうの木の一部になりますか。
■ 象徴的なぶどうの木に,最終的にはどれほど多くの枝が付きますか。
■ 神は枝からどのような実を得ることを望まれますか。
■ どうすればわたしたちはイエスの友になれますか。
■ なぜ世はイエスの追随者たちを憎むのですか。
■ イエスのどんな警告は使徒たちの心を動揺させますか。
■ 使徒たちがイエスの行こうとしている場所についてイエスに質問できなかったのはなぜですか。
■ 使徒たちは特にどんなことが理解できませんか。
■ イエスは,使徒たちの置かれている状況が悲嘆から喜びに変わることをどんな例えで説明されますか。
■ イエスは,使徒たちがまもなくどんなことをすると言われますか。
■ イエスはどのようにして世を征服されますか。
■ どのような意味でイエスは「すべての肉なるものに対する権威」を与えられていますか。
■ 神とみ子についての知識を取り入れるとはどういう意味ですか。
■ イエスはどのような仕方で神のみ名を明らかにされますか。
■ 「真理」とは何ですか。それはどのようにクリスチャンを「神聖なものと」しますか。
■ 神とみ子,および真の崇拝者すべては,どのような意味で一つになりますか。
■ 『世の基が置かれた』のはいつですか。
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園での苦悶これまでに生存した最も偉大な人
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117章
園での苦悶
イエスの祈りが終わると,イエスと11人の忠実な使徒たちは共にエホバへの賛美の歌を歌います。それから一同は,階上の部屋から降りてひんやりした夜のやみの中に出てゆきます。そしてキデロンの谷を渡ってベタニヤへ戻る道を行きます。しかしその途中,一行は彼らの好きなゲッセマネの園に立ち寄ります。この園はオリーブ山上かもしくはオリーブ山の近辺にあります。これまでにもイエスは,この場所のオリーブの木々の中で使徒たちとよくお会いになりました。
イエスは,恐らく園の入口付近に,使徒たちのうち8人を残し,「わたしがあちらへ行って祈りをする間,ここに座っていなさい」とお命じになります。それからほかの3人 ― ペテロ,ヤコブ,ヨハネ ― を連れて園の奥へ進んで行かれます。イエスは深い悲しみとひどい苦悩を覚えられ,「わたしの魂は深く憂え悲しみ,死なんばかりです。ここにとどまって,わたしと共にずっと見張っていなさい」と彼らに言われます。
イエスは少し進んで行って地に伏し,地面に顔を伏せて,「わたしの父よ,もしできることでしたら,この杯をわたしから過ぎ去らせてください。それでも,わたしの望むとおりにではなく,あなたの望まれるとおりに」と,熱烈に祈り始められます。イエスは何を言おうとしておられたのでしょうか。なぜイエスは「深く憂え悲しみ,死なんばかり」なのでしょうか。死んで贖いとなるという以前の決意を撤回しようとしておられるのでしょうか。
決してそうではありません。イエスは死を免れることを求めておられるわけではないのです。かつてペテロはイエスに犠牲の死を避けるようにと勧めたことがありましたが,イエスにとってそのようなことは考えるだけでもいやなことでした。イエスはむしろ,ご自分の死に方,つまり間もなくご自分が卑しむべき犯罪者として死ぬことがみ父の名に恥辱となることを憂慮して苦悶しておられるのです。今イエスは,これから数時間のうちにご自分が極悪な人間,すなわち神を冒とくする者として杭につけられることを悟っておられるのです。イエスがひどく苦悩しておられるのはそのためです。
イエスが長い祈りを終えて戻ってみると,使徒たちは3人とも眠っています。イエスはペテロに向かって,「あなた方は,わたしと共に一時間見張っていることもできなかったのですか。ずっと見張っていて絶えず祈り,誘惑に陥らないようにしていなさい」と言われます。それでもイエスは,彼らが緊張し通しだったことや夜もふけていることを認めて,「霊ははやっても,肉体は弱いのです」と言われます。
それからイエスは再び離れて行き,神が「この杯」,つまりエホバから割り当てられた分,もしくは自分に対するエホバのご意志を取り除いてくださるよう懇願されます。イエスが戻ってみると,誘惑に陥らないように祈っているはずの3人がまたも眠っています。彼らはイエスから話しかけられているのに,何と答えてよいのか分かりません。
イエスは最後に,つまり三度目には,石を投げれば届くほどの所に行き,ひざをかがめ,強い叫びと涙とをもって,「父よ,もしあなたの望まれることでしたら,この杯をわたしから取り除いてください」と祈られます。イエスは,犯罪者として死ねばみ父の名に恥辱となるので,激しい苦痛を感じておられます。確かに,冒とく者 ― 神をのろう者 ― として告発されるのは耐え難いことです。
それでもイエスは続けて,「わたしの望むことではなく,あなたの望まれることを」と祈られます。イエスはご自分の意志を神のご意志に従順に服させます。この時,天からひとりのみ使いが現われ,励ましの言葉を述べてイエスを強めます。おそらくみ使いは,イエスがみ父の是認を受けておられることをイエスに伝えているのでしょう。
それにしても,イエスの肩には何という重圧がかかっているのでしょう。イエス自身のとこしえの命と全人類のとこしえの命がどうなるかという重大な局面を迎えているのです。感情的ストレスは非常なものです。そのためイエスはいよいよ切に祈られ,汗が血の滴りのようになって地面に落ちます。「アメリカ医師会ジャーナル」誌は,「ごくまれな現象ではあるが,感情が非常に高ぶった状態のもとでは……血のような汗が出ることもある」と述べています。
そのあと,イエスが三度目に使徒たちのところに戻ってみると,使徒たちはまたもや眠っています。悲嘆のあまり疲れきっていたのです。イエスは「このような時に,あなた方は眠って休んでいる!」と強い口調で言われます。「もう十分です! 時刻が来ました! 見よ,人の子は裏切られて罪人たちの手に渡されます。立ちなさい。行きましょう。見よ,わたしを裏切る者が近づいて来ました」。
イエスがまだ話しておられるうちに,ユダ・イスカリオテが,たいまつやともしびや武器を手にした大勢の群衆と一緒に近づいて来ます。 マタイ 26:30,36-47; 16:21-23。マルコ 14:26,32-43。ルカ 22:39-47。ヨハネ 18:1-3。ヘブライ 5:7。
■ 階上の部屋を出た後,イエスは使徒たちをどこへ連れて行かれますか。また,そこで何を行なわれますか。
■ イエスが祈っておられる間,使徒たちは何をしていますか。
■ イエスが苦悶しておられるのはなぜですか。神に何を懇願されますか。
■ イエスの汗が血の滴りのようになることは何を示していますか。
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裏切りと捕縛これまでに生存した最も偉大な人
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118章
裏切りと捕縛
ユダが兵士や祭司長やパリサイ人を含む大勢の群衆をゲッセマネの園まで先導して来る時は,真夜中をかなり過ぎています。祭司たちは,イエスを裏切る報酬としてユダに銀30枚を支払うことに同意していました。
これより少し前に過ぎ越しの食卓から退去させられたユダは,祭司長たちのところへ直行したようです。祭司長たちはただちに配下の士官や一群の兵士を集めました。もしかしたらユダは彼らをまず,イエスと使徒たちが過ぎ越しを祝った場所に連れて行ったかもしれません。イエスと使徒たちがすでに立ち去ったことを知ると,大勢の群衆は,武器を帯び,ともしびやたいまつを手にしてユダの後に付いてゆき,エルサレムを出てキデロンの谷を渡ります。
オリーブ山の山腹を登って行列を先導してゆくとき,ユダはイエスのいる場所は分かっていると確信していました。その前の週にイエスと使徒たちは,ベタニヤとエルサレムの間を往来した際,度々ゲッセマネの園に立ち寄って休憩したり話をしたりしていたからです。しかし今,イエスの姿は恐らくオリーブの木陰の暗がりに隠されて見えないかもしれないのに,兵士たちはどうやってイエスを見分けるのでしょうか。彼らは一度もイエスの顔を見たことがないかもしれません。そこでユダは自分が合図を送ることにし,「だれであれわたしが口づけするのがその人だ。それを拘引して,しっかりと引いて行け」と言います。
ユダは大勢の群衆を園の中に連れて来ると,イエスが使徒たちと一緒にいるのを見,イエスのところへまっすぐにやって来て,「ラビ,こんにちは」と言いながらいとも優しく口づけします。
「君,何のためにここにいるのか」と,イエスは鋭い口調で言い返されます。それから,ご自分の質問に答えるように,「ユダ,あなたは人の子を口づけして裏切るのですか」と言われます。しかし,裏切り者と顔を合わせているのはもうたくさんです。イエスは,たいまつやともしびの明かりの中に進み出て,「あなた方はだれを捜しているのですか」とお尋ねになります。
「ナザレ人のイエスを」という答えが返ってきます。
イエスは雄々しく全群衆の前に立たれ,「わたしがその者です」とお答えになります。兵士たちはイエスの大胆さに驚き,どうしてよいか分からず,後ずさりして地面に倒れます。
それからイエスは平静な口調で,「わたしがその者ですと告げたではありませんか。それゆえ,あなた方の捜しているのがわたしであれば,これらの者たちは去らせなさい」と言われます。イエスは,少し前に階上の部屋で行なった祈りの中で,自分が忠実な使徒たちを守ってきたこと,そして「滅びの子のほかには」だれも失われなかったことをみ父に話されました。ですから,イエスはご自分の言葉が現実となるよう,追随者たちを去らせることを要求されます。
兵士たちが落ち着きを取り戻して立ち上がり,イエスを縛り始めると,使徒たちは起ころうとしていることを察知します。「主よ,剣で撃ちましょうか」と,彼らは尋ねます。イエスが返答する前に,ペテロは使徒たちが持っていた二振りの剣の一つを振るい,大祭司の奴隷マルコスに攻めかかります。ペテロの一撃は奴隷の頭部を打ち損じますが,奴隷の右の耳を切り落とします。
イエスは二人の間に入り,「それまでにしなさい」と言われます。そしてマルコスの耳に触れ,傷をおいやしになります。それからペテロに,「あなたの剣を元の所に納めなさい。すべて剣を取る者は剣によって滅びるのです。それともあなたは,わたしが父に訴えて,この瞬間に十二軍団以上のみ使いを備えていただくことができないとでも考えるのですか」と命じて,大切な教訓をお与えになります。
イエスはご自分から進んで捕縛されます。そのことは,「必ずこうなると述べる聖書はどうして成就するでしょうか」というイエスの説明から察せられます。さらにイエスは,「父がわたしにお与えになった杯,わたしはそれをぜひとも飲むべきではありませんか」と言われます。イエスはご自分に対する神のご意志に全く同意しておられるのです。
それからイエスは群衆に向かってこう言われます。「あなた方は,わたしを捕縛するのに,強盗に対するように剣やこん棒を持って出て来たのですか。日々わたしは神殿の中に座って教えていたのに,あなた方はわたしを拘引しませんでした。しかし,このすべては,預言者たちの記した聖句が成就するために起きたのです」。
それを聞いて,兵士の一隊と軍司令官,そしてユダヤ人の下役たちはイエスを捕らえて縛ります。これを見ると使徒たちは,イエスを見捨てて逃げてゆきます。しかし,一人の若者 ― たぶん弟子のマルコ ― は,群衆の中にとどまります。彼はイエスが過ぎ越しを祝われた家にいて,後ほど群衆の後に付いてきたのかもしれません。ところが今,彼は正体を見抜かれ,捕まえられそうになります。しかし亜麻布の衣をあとに残したまま逃げて行きます。 マタイ 26:47-56。マルコ 14:43-52。ルカ 22:47-53。ヨハネ 17:12; 18:3-12。
■ ゲッセマネの園へ行けばイエスは確かに見つかるとユダが考えたのはなぜですか。
■ イエスはどのように使徒たちへの気遣いを示されますか。
■ ペテロはイエスを守るためにどんな行動に出ますか。しかしイエスはそのことについてペテロに何と言われますか。
■ イエスは,ご自分に関する神のご意志に全く同意していることをどのように示されますか。
■ 使徒たちがイエスを見捨てて行くとき,だれがとどまりますか。その人はどうなりますか。
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アンナスのところへ,それからカヤファへこれまでに生存した最も偉大な人
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119章
アンナスのところへ,それからカヤファへ
イエスは普通の犯罪者のように縛られ,影響力のある元の大祭司アンナスのところへ引いて行かれます。アンナスは,12歳の少年だったイエスが神殿で教師であるラビたちを驚かせたころ,大祭司を務めていた人です。そののちアンナスの息子が幾人か大祭司を務め,現在は義理の息子のカヤファがその地位に就いています。
イエスがまずアンナスの家に引いて行かれるのは,この祭司長がユダヤ人の信仰生活において長い間著名な存在だったからでしょう。こうして一行がアンナスのところに立ち寄ると,大祭司カヤファは,71人で構成されるユダヤ人の高等法院サンヘドリンを召集し,また偽りの証人を集めるための時間を稼ぐことができます。
さて祭司長アンナスはイエスに,その弟子たちや教えについて質問します。しかし,イエスはそれに答えてこう言われます。「わたしは世に対して公に話してきました。わたしはいつも会堂や神殿で教えました。そこはすべてのユダヤ人が集まるところであり,何事もひそかには話しませんでした。なぜわたしに質問するのですか。わたしの話したことを聞いた人たちに質問しなさい。ご覧なさい,これらの人たちが,わたしの言ったことを知っています」。
すると,そばに立っていた下役の一人がイエスの顔を平手で打ち,「祭司長に向かってそんな答え方をするのか」と言います。
イエスは,「わたしの話したことが間違いであるなら,その間違いについて証ししなさい。しかし,正しいのであれば,なぜわたしを打つのですか」と言われます。このようなやりとりの後,アンナスはイエスを縛ったまま大祭司カヤファのもとに送ります。
このころまでに,すべての祭司長と年長者や書士たち,つまりサンヘドリン全員が集合し始めます。会合の場所はカヤファの家のようです。しかし,過ぎ越しの晩にこのような裁判を行なうことは,明らかにユダヤ人の律法に反しています。それでも宗教指導者たちは自分たちの邪悪な目的を遂げようとします。
何週間か前,イエスがラザロを復活させた時,サンヘドリンはすでにイエスを死刑にすることを自分たちの間で決めていました。つい二日前の水曜日にその宗教上の権力者たちは,うまく仕組んでイエスを捕らえて殺そうと相談しました。考えてみてください。イエスは裁判にかけられる前から実際に有罪とされていたのです。
今は,事がイエスに不利になるよう偽りの証拠を提出する証人を捜すことが行なわれています。しかし,一致した証言を行なう証人たちは見つかりません。最後に二人の人が進み出て,「わたしたちは,彼が,『わたしは手で作ったこの神殿を壊し,手で作ったのではない別のものを三日で建てる』と言うのを聞きました」と断言します。
「何も返答しないのか。これらの者があなたに不利な証言をしていることはどうなのか」と,カヤファは尋ねます。しかしイエスは黙っておられます。サンヘドリンにとって不面目なことに,この偽りの告発においてさえ証人たちは自分たちの作り話を一致させることができません。そのため大祭司は別の手を試みます。
カヤファは,自分こそ神の子だと主張する人物に対してユダヤ人がどんなに神経をとがらせるか知っています。彼らは以前にも二度ほど,軽率にも,死に値する冒とく者というレッテルをイエスに張ったことがありました。一度は,イエスが自分は神と等しいと主張しているものと思い込んだからでした。そこでカヤファは巧みに詰め寄り,「生ける神にかけて誓って言え,あなたは神の子キリストなのかどうか」と言います。
ユダヤ人たちがどう思おうと,イエスは実際に神の子です。黙ったままでいるなら,自分がキリストであることを否定しているように取られるかもしれません。それでイエスは勇敢にも,「わたしはその者です。そしてあなた方は,人の子が力の右に座り,また天の雲と共に来るのを見るでしょう」とお答えになります。
それを聞くとカヤファは,いかにもおおげさに自分の内衣を引き裂き,「この者は冒とくした! このうえ証人が必要だろうか。見てください,あなた方は今,冒とくの言葉を聞いたのです。あなた方の意見はどうでしょうか」と叫びます。
「彼は死に服すべきだ」と,サンヘドリンは宣言します。それから彼らはイエスを愚弄し,イエスに対して盛んに不敬なことを言います。顔に平手打ちを加え,つばを吐きかけます。イエスの顔をすっぽり覆ってこぶしで殴り,「預言せよ,お前を打ったのはだれか」と皮肉を言う者たちもいます。このような侮辱的で不法な仕打ちが,その夜間の裁判のときに行なわれます。 マタイ 26:57-68; 26:3,4。マルコ 14:53-65。ルカ 22:54,63-65。ヨハネ 18:13-24; 11:45-53; 10:31-39; 5:16-18。
■ イエスはまずどこへ引いて行かれますか。そこではイエスの身にどんなことが起きますか。
■ イエスは次にどこへ連れて行かれますか。どんな目的のために連れて行かれますか。
■ カヤファはどのようにしてサンヘドリンに,イエスは死に値する者と宣言させますか。
■ 裁判のとき,どんな侮辱的で不法な仕打ちが行なわれますか。
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中庭での否認これまでに生存した最も偉大な人
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120章
中庭での否認
ゲッセマネの園でイエスを見捨て,怖くなってほかの使徒たちと一緒に逃げてしまったペテロとヨハネは,途中で逃げるのをやめます。そして恐らく,イエスがアンナスの家に引いて行かれる途中でイエスに追いついたのでしょう。アンナスがイエスを大祭司カヤファのもとに送り出すとき,ペテロとヨハネはかなり離れてあとに付いて行きます。多分,自分が命を落とすことを恐れる気持ちと,主人の身に何が起きるのかをひどく心配する気持ちとで,心は乱れていることでしょう。
広々としたカヤファの邸宅に着くと,ヨハネは大祭司に知られていたため中庭に入ることができますが,ペテロは外で戸口のところに立っています。しかし,まもなくヨハネが戻って戸口番である下女に話すと,ペテロも中に入ることを許されます。
この時刻になると寒くなるので,大祭司の従者や下役たちは炭火をおこしました。ペテロもイエスの裁判の結果を待ちながら一緒に暖まります。すると,明るい火に照らされてペテロの顔がよく見えるようになったため,先ほどペテロを中に入れた戸口番が,「あなたも,ガリラヤ人のイエスと一緒にいました!」と叫びます。
正体を見抜かれて動揺したペテロは,みんなの前でイエスを知っていることを否定し,「わたしはあの人を知らないし,あなたの言っていることも理解できない」と言います。
それからペテロは門の近くまで出て行きます。すると別の下女が彼に気づき,そばに立っている者たちに,「この人はナザレ人のイエスと一緒にいました」と言います。ペテロは再び否定し,「わたしはその人を知らない!」と誓います。
ペテロは中庭にとどまって,できるだけ目立たないように努めます。恐らくこの時と思われますが,ペテロは早朝の暗やみの中でおんどりが鳴く声を聞いて驚きます。その間,イエスの裁判は進行しています。多分,中庭の上にある家のどこかで行なわれているのでしょう。下で待っているペテロや他の者たちは,証言をするために召集された様々な証人たちが出入りする様子を見ているに違いありません。
先ほどペテロがイエスの仲間であることを見抜かれた時から1時間近くたちました。すると今度は周りに立っていた者たちが幾人かペテロのところに寄って来て,「確かにあなたも彼らの一人だ。現に,あなたのなまりがあなたのことを明かしているではないか」と言います。そのうちの一人はペテロが前に耳を切り落としたマルコスの親族です。「わたしはあなたが園で彼と一緒にいるのを見たではないか」と,その人は言います。
「わたしはその人を知らないのだ!」と,ペテロは激しく主張します。事実ペテロは,そのことに関してのろったり誓ったりすることによって,つまり自分が真実を語っていないなら自分自身の上に災いが降りかかるようにと言うことによって,みんなが間違っていることを納得させようとします。
ペテロの否認はこれで三度目になり,すぐにおんどりが鳴きます。そしてその時イエスは,中庭の上のバルコニーに出てこられたのでしょう,振り向いてペテロをご覧になります。ペテロはとっさに,イエスがほんの数時間前に階上の部屋で,「おんどりが二度鳴く前に,あなたは三度わたしのことを否認するでしょう」と言っておられたことを思い起こします。そして自分の罪の重さに打ちひしがれ,外に出て激しく泣きます。
どうしてこのようなことになったのでしょうか。ペテロは自分の霊的な強さをあれほど確信していたのに,どうして三度も続けざまに自分の主人を否認したのでしょうか。ペテロはきっと周囲の状況に不意を打たれたのでしょう。真実はゆがめられ,イエスはいやしむべき犯罪者であるかのように言われています。正しいことが悪いことのように,無実な者が有罪であるかのように扱われています。ですからペテロは,その状況に圧迫されて平衡を失っています。正しい忠節心は突然覆されます。悲しいことにペテロは人への恐れで萎縮してしまったのです。わたしたちは,自分たちが決してそうならないように願います。 マタイ 26:57,58,69-75。マルコ 14:30,53,54,66-72。ルカ 22:54-62。ヨハネ 18:15-18,25-27。
■ ペテロとヨハネはどのようにして大祭司の中庭に入ることができますか。
■ ペテロとヨハネが中庭にいる間,家の中では何が進行していますか。
■ おんどりは何度鳴きますか。また,ペテロは何度イエスを知らないと言いますか。
■ ペテロがのろったり誓ったりしたというのはどういう意味ですか。
■ ペテロがイエスを知らないと言った原因は何ですか。
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サンヘドリンの前に,それからピラトのもとへこれまでに生存した最も偉大な人
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121章
サンヘドリンの前に,それからピラトのもとへ
そろそろ夜も明けようとしています。ペテロはすでにイエスを三度否認しました。サンヘドリンのメンバーも裁判のまねごとを終えてすでに解散しました。しかし金曜日の明け方になるとすぐに,今度は自分たちのサンヘドリン広間に再び集まります。彼らの目的は,昨夜の裁判が合法的なものであるように見せかけることかもしれません。イエスが前に連れ出されると,昨夜と同じように,「もしあなたがキリストであるなら,わたしたちに言いなさい」と言います。
イエスはお答えになります。「たとえわたしが言ったとしても,あなた方は少しも信じないでしょう。また,わたしが質問したとしても,あなた方は少しも答えないでしょう」。しかし,イエスは勇敢にもご自分がどのような者であるかを明らかにし,「今からのち,人の子は神の強力な右に座ることになります」と言われます。
「それでは,あなたは神の子なのか」。皆それを知りたがっています。
「あなた方自身,わたしがそうだと言っています」と,イエスはお答えになります。
殺害をもくろんでいたこれらの人々にとっては,この答えで十分です。彼らはこれを冒とくとみなします。「どうしてこのうえ証しが必要だろうか。わたしたち自身が,彼の口からそれを聞いたのだ」と彼らは言います。そしてイエスを縛って引いて行き,ローマ総督ポンテオ・ピラトに引き渡します。
イエスを裏切ったユダは事の成り行きを見守っていました。イエスが罪に定められたのを見ると,悔恨の情を感じます。それで銀30枚を返しに祭司長と年長者たちのところに行きます。「わたしは義の血を売り渡して罪をおかした」とユダは説明します。
「それがわたしたちにどうしたというのか。あなたが処置すべきことだ!」と,冷淡な答えが返ってきます。それでユダは銀を神殿に投げ込むとそこを立ち去り,首をつって死のうとします。ところが,ユダが縄を縛りつけていた木の枝が折れたのでしょう,体は下の岩に向かって落ち,そこで張り裂けてしまいました。
祭司長たちはその銀をどう扱ってよいかわかりません。最後に,「これを聖なる宝物庫に入れることは許されない」と判断します。「これは血の代価だから」です。それで彼らは相談したのち,見知らぬ人の埋葬のためにそのお金で陶器師の畑を買います。こうして,その畑は「血の畑」と呼ばれるようになりました。
朝のまだ早いうちにイエスは総督の官邸に連れて行かれます。ところがついて来たユダヤ人たちは中に入ろうとしません。そのようにして異邦人と親しくすれば,身を汚すことになると考えているからです。そこでピラトは彼らの考えを考慮し,外に出て来ます。「あなた方はこの人に対してどんな告訴をするのか」とピラトは尋ねます。
「この男が悪を行なう者でなかったなら,わたしたちはあなたに引き渡したりはしなかったでしょう」と彼らは答えます。
かかわりを持ちたくないと思ったピラトは,「あなた方が自分で彼を連れて行き,自分たちの律法にしたがって裁くがよい」と言います。
ユダヤ人たちは,殺害をもくろんでいたことを示して,「わたしたちが人を殺すことは許されていません」と主張します。実際,もし彼らが過ぎ越しの祝いの最中にイエスを殺していたなら,民衆は大騒ぎしたに違いありません。多くの人はイエスを深く尊敬しているからです。しかし,ローマ人に政治的な罪状で処刑させることができれば,彼ら自身は民の前で責任を免れることになるわけです。
それで宗教指導者たちは,イエスを冒とくの罪に定めた前の裁判には触れず,別の罪をでっちあげます。それは次の3部から成る告発です。「わたしたちは,この男が [1] わたしたちの国民をかく乱し,[2] カエサルに税を払うことを禁じ,[3] 自分は王キリストだと言っているのを見ました」。
ピラトに関心があるのは,イエスが自ら王と称しているという罪状です。そのため,ピラトは再び官邸内に入ってイエスを呼び,「あなたはユダヤ人の王なのか」と尋ねます。これは言い換えれば,あなたはカエサルに対抗して自分が王であると名乗ることにより法を破ったのか,ということです。
イエスは,自分のことをピラトがすでにどれほど聞いているか知りたいと思い,「あなたがそう言うのは,あなた自身の考えからですか。それとも,ほかの者がわたしについて告げたからですか」とお尋ねになります。
ピラトはイエスについて何も知らないことを認め,事実を知りたいという気持ちを表わします。「わたしはユダヤ人ではないではないか。あなた自身の国民と祭司長たちが,あなたをわたしに引き渡したのだ。あなたは何をしたのか」とピラトは言います。
イエスはこの問題,つまりご自分が王なのかという問題を決して避けようとはなさいません。次にイエスが述べる答えに,ピラトはきっと驚くに違いありません。 ルカ 22:66-23:3。マタイ 27:1-11。マルコ 15:1。ヨハネ 18:28-35。使徒 1:16-20。
■ サンヘドリンは何のために翌朝再び集まりますか。
■ ユダはどのようにして死にますか。銀30枚は何に使われますか。
■ ユダヤ人が自分たちでイエスを殺すよりも,ローマ人に殺させようとしているのはなぜですか。
■ ユダヤ人たちはイエスにどんな罪をきせますか。
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ピラトからヘロデに引き渡され,再び送り返されるこれまでに生存した最も偉大な人
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122章
ピラトからヘロデに引き渡され,再び送り返される
イエスはご自分が王であることを隠そうとはされませんが,ご自分の王国がローマにとって危険な存在ではないことを説明されます。「わたしの王国はこの世のものではありません。わたしの王国がこの世のものであったなら,わたしに付き添う者たちは,わたしをユダヤ人たちに渡さないようにと戦ったことでしょう。しかし実際のところ,わたしの王国はそのようなところからのものではありません」とイエスは言われます。こうしてイエスは,ご自分が王国を持っていることを三度も認められます。でも,その王国はこの地上のものではありません。
しかしピラトはさらに,「それでは,あなたは王なのだな」と迫ります。それはつまり,あなたの王国がこの世のものではないにしても,あなたは王なのだな,ということです。
イエスはピラトの出した結論が正しいことをピラトに知らせます。「あなた自身が,わたしが王であると言っています。真理について証しすること,このためにわたしは生まれ,このためにわたしは世に来ました。真理の側にいる者はみなわたしの声を聴きます」と,イエスはお答えになります。
ですからイエスが現に地上にいる目的は,「真理」について証しするため,それも特にご自分の王国の真理について証しするためです。イエスはたとえ命を失うことになろうとも,その真理に対して忠実さを保つ覚悟を決めておられます。ピラトは「真理とは何か」と尋ねますが,それ以上の説明を待とうとはしません。裁きを下すのに必要なことはもう十分聞いたからです。
ピラトは,官邸の外で待っていた群衆のところに戻ります。恐らくイエスをかたわらにおいて,ピラトは祭司長たちやその周りにいた人々に,「わたしはこの男に何の犯罪も見いだせない」と言います。
その判決に怒った群衆は執ように,「彼はユダヤじゅうを教え回って民をあおり,しかもガリラヤから始めてここまで来たのです」と言います。
ユダヤ人の理性を欠いた狂信的行為を見て,ピラトはびっくりしたに違いありません。それでピラトは祭司長や年長者たちの怒号が続く中でイエスのほうを向き,「彼らがあなたに不利な証言をいかに多く行なっているか,あなたには聞こえないのか」と尋ねます。しかしイエスは答えようとはされません。荒々しい非難の声に面しても穏やかな表情のイエスに,ピラトは驚嘆します。
イエスがガリラヤ人であることを知ると,ピラトはイエスについての責任を免れる方法を思いつきます。ガリラヤの支配者ヘロデ・アンテパス(ヘロデ大王の息子)が過ぎ越しのためにエルサレムに来ているのです。それでピラトはイエスをヘロデのもとに送ります。ヘロデ・アンテパスといえば,以前バプテスマを施す人ヨハネの首をはね,その後イエスが行なった奇跡的な業について聞いたとき,イエスは実際には復活したヨハネなのではないかと考えておびえていた人物です。
さて,ヘロデはイエスに会えそうなので大そう歓んでいます。それは,イエスのことを気遣っているからでも,イエスに着せられた罪状が本当かどうか本気で知りたいと思っているからでもありません。むしろ,好奇心から,イエスが奇跡を起こすのを見たいだけなのです。
しかし,イエスはヘロデの好奇心を満たそうとはなさいません。実際,ヘロデが質問しても,イエスは一言も話されません。あてがはずれたヘロデとその衛兵たちはイエスを愚弄し,色鮮やかな衣を着せてあざけってからピラトのもとに送り返します。その結果,かつてはいがみ合っていたヘロデとピラトは親しい仲になります。
イエスが戻られると,ピラトは祭司長とユダヤ人の支配者たち,そして民を呼び集めてこう言います。「あなた方は,民を駆り立てて反乱を起こさせる者としてこの男をわたしのところに連れて来た。それで,見よ,わたしはあなた方の前で取り調べたが,あなた方の挙げる罪状の根拠となるようなものを何らこの男に見いだせなかった。事実,ヘロデもそうであった。彼をわたしたちのところに送り返してきたからだ。見よ,彼は死に価するようなことを何も犯していない。それゆえわたしは,彼を打ち懲らしてから釈放することにする」。
こうしてピラトは二度もイエスの無罪を宣言しました。ピラトはイエスを釈放したいと思っています。というのは,祭司たちがイエスを引き渡したのは単にそねみのためであることに気づいているからです。引き続きイエスを釈放しようと努めるピラトは,そうするためのより強力な動機づけを得ます。裁きの座に座っている間に,妻からの伝言があったのです。「その義人にかかわらないでください」と妻はピラトに勧め,「わたしは今日,その人のために[神からのものと思われる]夢の中でとても苦しんだのです」と言います。
しかしピラトは,釈放すべきだと分かっているこの無実の人をどうしたら釈放できるのでしょうか。 ヨハネ 18:36-38。ルカ 23:4-16。マタイ 27:12-14,18,19; 14:1,2。マルコ 15:2-5。
■ イエスはご自分が王であるかどうかについての質問にどうお答えになりますか。
■ イエスが地上での生涯をかけて証しした「真理」とは何ですか。
■ ピラトはどんな判決を下しますか。人々はどのように反応しますか。それでピラトはイエスをどうしますか。
■ ヘロデ・アンテパスとはだれですか。ヘロデがイエスを見て大そう歓ぶのはなぜですか。ヘロデはイエスをどうしますか。
■ ピラトがイエスを釈放したいと思っているのはなぜですか。
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「見よ,この人だ!」これまでに生存した最も偉大な人
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123章
「見よ,この人だ!」
ピラトはイエスの態度に感銘を受け,イエスの無実を認めたため,別の方法でイエスを釈放しようとします。彼は群衆に,「あなた方には,過ぎ越しの際わたしが一人の者を釈放する習慣がある」と告げます。
バラバという札つきの人殺しも囚人として捕らえられているので,ピラトは,「あなた方はどちらの者を釈放して欲しいのか。バラバか,それともキリストと言われるイエスか」と問いかけます。
民は,彼らを扇動した祭司長たちに説きつけられ,バラバを釈放してイエスを殺すよう求めます。それに対しピラトはあきらめずにもう一度問いかけます。「あなた方は,二人のうちどちらを釈放して欲しいのか」。
「バラバを」と,彼らは叫びたてます。
ピラトは落胆した様子で尋ねます。「では,キリストと言われるイエスはどうするのか」。
群衆は一斉に耳をつんざくような声で,「杭につけろ!」,「杭につけろ! 彼を杭につけろ!」と答えます。
ピラトは,群衆が要求しているのは一人の無実の者の死であることを知っているので嘆願します。「この男がどんな悪事をしたというのか。わたしは,死に価するようなことを何も彼に見いださなかった。それゆえ,わたしは彼を打ち懲らしてから釈放することにする」。
ピラトの努力にもかかわらず,宗教指導者たちにそそのかされて怒り立った群衆は,「杭につけろ!」とわめき続けます。群衆は祭司たちに駆り立てられて狂乱状態になり,血を求めます。考えてみてください。恐らく群衆の中には,ほんの五日前にはイエスを王としてエルサレムに迎え入れた者たちもいることでしょう。イエスの弟子たちは,もしその場にいたとすれば,その間ずっと黙ったまま目立たないようにしています。
ピラトは,自分が訴えても無駄であり,むしろ騒動になってくるのを見ると,水を取って群衆の前で手を洗い,「わたしはこの人の血について潔白である。あなた方自身が処置をとらねばならない」と言います。すると民は,「彼の血はわたしたちとわたしたちの子供とに臨んでもよい」と答えます。
それでピラトは,民の要求どおりに ― 正しいと分かっていることをするよりも群衆を満足させたいと願って ― バラバのほうを釈放します。そしてイエスを連れて行き,衣をはがさせてからむちで打たせます。それは普通のむち打ちではありませんでした。「アメリカ医師会ジャーナル」誌は,ローマにおけるむち打ち刑の習慣について次のように述べています。
「よく使われた刑具は,長さが不ぞろいの何本かの革ひもや,撚った革ひもの付いた短いむち棒だった。その革ひもには小さい鉄球や尖った羊骨が所々にくくり付けられていた。……ローマの兵士が受刑者の背中を繰り返し力一杯打つと,その鉄球によって深い挫傷が生じ,革ひもと羊骨は皮膚や皮下組織に食い込んだことだろう。そしてむち打ちが続くにつれ,裂傷は深部の骨格筋にまで及び,ひも状に裂けて垂れた血のにじむ肉が震えていたであろう」。
イエスはこうした拷問のような殴打を受けたあと,総督の官邸に引いて行かれます。そして全部隊が召集されます。そこで兵士たちは,いばらの冠を編んでイエスの頭に押しかぶせることにより,さらに侮辱を加えます。彼らはイエスの右手に葦を持たせ,その身に普通国王が着るような紫の衣をまとわせます。それから,あざけるような口調で,「こんにちは,ユダヤ人の王よ!」と言います。また彼らはイエスにつばをかけ,顔に平手打ちを加えます。そしてその丈夫な葦をイエスの手から取り,それでイエスの頭をたたきます。イエスを辱める“冠”の鋭いとげは頭蓋骨にまで刺さったことでしょう。
こうした虐待にもめげずに驚くべき威厳と力を保っているイエスを見たピラトは,深い感銘を受け,イエスを請け戻す努力をもう一度払ってみようという気持ちになります。「見なさい。わたしがこの者に何の過失も見いださないことを知らせるため,わたしはこの者をあなた方のところに連れ出す」と,ピラトは群衆に告げます。拷問を受けたイエスの姿を見れば群衆も心を和らげるだろう,とピラトは考えているのでしょう。イエスがとげのある冠と紫の外衣を身に着け,苦痛に耐える血だらけの顔で無情な暴徒たちの前に立つと,ピラトは,「見よ,この人だ!」と宣言します。
打ちたたかれて傷を負ってはいても,ここに立っているのは歴史上最も傑出した人物,これまでに生存した真に最も偉大な人なのです! そうです,ピラトの言葉に敬意と同情の入り混じった響きが感じられるとおり,イエスには,ピラトでさえ認めざるを得ないほどの偉大さを示す静かな威厳と落ち着きが見られるのです。 ヨハネ 18:39-19:5。マタイ 27:15-17,20-30。マルコ 15:6-19。ルカ 23:18-25。
■ ピラトはどんな方法でイエスを釈放しようとしますか。
■ ピラトはどのようにして責任を免れようとしますか。
■ むちで打たれるとどうなりますか。
■ イエスはむちで打たれた後,どんなあざけりを受けますか。
■ ピラトはイエスを釈放しようとして,さらにどんな努力をしますか。
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引き渡され,引いて行かれるこれまでに生存した最も偉大な人
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124章
引き渡され,引いて行かれる
拷問を受けても冷静で威厳を失わないイエスに感動したピラトが再度イエスを釈放しようとすると,祭司長たちの怒りは一段と募ります。自分たちの邪悪な目的を何ものにも妨害させないことを決意しているのです。それでまたもや彼らは,「杭につけろ! 杭につけろ!」と叫びたてます。
「あなた方が自分たちで連れて行って杭につけるがよい」と,ピラトは答えます。(少し前のユダヤ人たちの主張とは違い,ユダヤ人たちには,宗教上の極めて重大な罪を犯した犯罪者を処刑する権利があるのかもしれません。)そこでピラトは,「わたしは彼に何の過失も見いださない」と宣言します。ピラトがイエスの無実を宣言するのは,少なくともこれで五度目です。
ユダヤ人たちは,政治的告発が効を奏さないのを見ると,再び冒とくという宗教上の罪に逆戻りします。それは数時間前にサンヘドリンがイエスの裁判を行なった時に申し立てた罪状です。「わたしたちには律法がありますが,その律法によれば,彼は死に当たる者です。自分を神の子としたからです」と,彼らは言います。
この告発はピラトにとって初耳であり,これを聞いたピラトはますます恐れを感じます。この時までにピラトは,イエスが普通の人間ではないことに気づいています。妻が見た夢も,イエスの人格の驚くべき強じんさもそのことを示唆しています。それにしても,「神の子」なのでしょうか。ピラトはイエスがガリラヤの出身であることを知っています。しかし,もしかしたらそれ以前から生きていたのでしょうか。ピラトはイエスを官邸内に連れ戻し,「あなたはどこから来ているのか」と尋ねます。
イエスは黙っておられます。少し前にイエスは,自分は王であるが自分の王国はこの世のものではないとピラトに告げておられました。ここでさらに説明を加えても益はないでしょう。しかし,イエスが返答しようとしないのでピラトはプライドを傷つけられ,かっとなってこう言います。「あなたはわたしに話さないのか。わたしにはあなたを釈放する権限があり,また杭につける権限もあることを知らないのか」。
それに対しイエスは,「上から与えられたのでない限り,あなたはわたしに対して何の権限もないでしょう」と丁重にお答えになります。地上の物事を管理する権限は神が人間の支配者たちに与えておられるのだということをイエスは言っておられるのです。さらにイエスは,「このゆえに,わたしをあなたに引き渡した人にはさらに大きな罪があります」と言われます。実際,大祭司カヤファとその共犯者たちおよびユダ・イスカリオテには,イエスを不当に扱ったためピラト以上に重い責任があります。
ピラトは,ますますイエスから感銘を受け,またイエスが神から遣わされた者かもしれないという心配もあって,イエスを釈放するために再びいろいろな努力を払います。それでも,ユダヤ人たちはピラトの言うことを強くはねつけます。彼らは政治的告発を繰り返し,巧妙にもこう言って脅します。「この男を釈放するなら,あなたはカエサルの友ではありません。自分を王とする者は皆,カエサルに反対を唱えているのです」。
その言葉には恐ろしい含みがあったにもかかわらず,ピラトはもう一度イエスを外に連れ出し,「見なさい。あなた方の王だ!」とさらに訴えます。
「取り除け! 取り除け! 杭につけろ!」
「わたしがあなた方の王を杭につけるのか」。ピラトは絶望的な気持ちで尋ねます。
ユダヤ人はローマ人の支配にいら立ちを感じていました。実際,彼らはローマの支配をさげすんでいるのです。それにもかかわらず,祭司長たちは偽善的で,「わたしたちにはカエサルのほかに王はいません」と言います。
ピラトは自分の政治的な地位や名声を失うのを恐れて,ユダヤ人のしつような要求にとうとう屈し,イエスを引き渡します。兵士たちはイエスから紫の外とうをはいで,イエスに元の外衣を着せます。イエスは杭につけられるために引いて行かれる際,自分の苦しみの杭を負わされます。
このころまでに時刻はニサン14日,金曜日の午前も半ば,恐らく正午近くになっていることでしょう。イエスは木曜日の早朝から一睡もしておられません。しかも苦しい経験の連続でした。杭の重みに耐えかねて間もなく力尽きてしまうのも無理はありません。そこで,アフリカのキレネから来たシモンという通行人が,イエスのために杭を運ぶ奉仕に徴用されます。二人が進んで行くと,非常に大勢の人があとについて行きます。その中には女性も多く,彼女たちは悲嘆のあまり身を打ちたたき,イエスのことを嘆き悲しみます。
イエスは女の人たちのほうを向いてこう言われます。「エルサレムの娘たちよ,わたしのために泣くのをやめなさい。むしろ,自分と自分の子供たちのために泣きなさい。見よ,人々が,『うまずめは,そして子を産まなかった胎と乳を飲ませなかった乳房とは幸いだ!』と言う日が来るからです。……というのは,木に水気のある時に彼らがこうしたことを行なうのであれば,それが枯れた時にはどんなことが起こるでしょうか」。
イエスはユダヤ国民という木のことを言っておられます。イエスがおられ,イエスを信じる残りの者たちが存在しているので,この木には生きていることを示す水気がまだ幾らか残っています。しかし,これらの人が同国民から取り出されると,そこには霊的に死んだ木,そうです,枯れきった国家組織しか残りません。ローマの軍隊が神の刑執行隊としてユダヤ国民を荒れ廃れさせるとき,人々はそのためにどんなにか泣き悲しむことでしょう! ヨハネ 19:6-17; 18:31。ルカ 23:24-31。マタイ 27:31,32。マルコ 15:20,21。
■ 宗教指導者たちは,政治的告発が効を奏さないのを見ると,どんな罪でイエスを告発しますか。
■ ピラトがますます恐れを感じたのはなぜですか。
■ イエスの身に生じたことに対し,さらに大きな罪を負っているのはだれですか。
■ 最後に祭司たちはイエスを処刑のために引き渡すようどのようにピラトに迫りますか。
■ イエスは,イエスのために泣いている女たちに向かって何と言われますか。また,『水気がある』ものの,その後『枯れる』木のことを言われますが,それにはどんな意味がありますか。
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杭の上での苦しみこれまでに生存した最も偉大な人
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125章
杭の上での苦しみ
イエスと共に処刑される二人の強盗が引かれて行きます。行列は,市内からそれほど遠くないゴルゴタ,もしくは“どくろの場所”と呼ばれる所で止まります。
囚人たちは衣をはぎ取られます。そして没薬を混ぜたぶどう酒が与えられます。たぶんエルサレムの女性たちが用意したのでしょう。杭につけられる者たちにこの鎮痛剤を与えることをローマ人も阻みません。しかし,イエスはその味を見ると,飲もうとはされません。なぜでしょうか。それは恐らく,ご自分の信仰の最後の試みの間,知的能力をすべてしっかり保っていたいと思っておられるからでしょう。
イエスは今,両手を頭上に伸ばした形で杭の上に寝かされます。それから兵士たちはイエスの手と足に太い釘を打ち込みます。釘が肉とじん帯を貫通するとき,イエスは苦痛に身をよじらせます。杭が垂直に起こされると,釘の刺さった箇所が体の重みで裂けるため,痛みは耐え難いものになります。それでもイエスは,ローマ人の兵士たちを脅しつけるどころか,彼らのために,「父よ,彼らをお許しください。自分たちが何をしているのか知らないのですから」と祈られます。
ピラトは,「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と書いたものを杭の上に掲げます。ピラトがこれを書いたのは恐らく,イエスに対する尊敬の念だけでなく,無理やりイエスの死刑を宣告させたユダヤ人の祭司たちに対するいまいましい気持ちもあったためと思われます。ピラトは,すべての人が読めるように,それがヘブライ語,公用語のラテン語,通俗ギリシャ語の三つの言語で書かれるようにしました。
カヤファやアンナスをはじめとする祭司長たちはろうばいします。勝ち誇っていたところにこのような肯定的な宣言が公示されたため気分を害し,「『ユダヤ人の王』とではなく,この者は『ユダヤ人の王である』と言ったと書いてください」と抗議します。ピラトは自分が祭司たちの手先として使われていたことでいら立っていたため,軽べつしきった態度で,「わたしが書いたことはわたしが書いたことだ」と答えます。
祭司たちは大勢の群衆と共に刑場に集まって,その罪状書きに記されている事柄に反ばくしようとし,先にサンヘドリンでの裁判の時に述べた偽証を繰り返します。ですから,通行人たちがイエスのことをあしざまに言いはじめ,ばかにした態度で頭を振りながら,「神殿を壊して三日でそれを建てると称する者よ,自分を救ってみろ! 神の子なら,苦しみの杭から下りて来い!」と言うのも不思議ではありません。
祭司長やその宗教上の仲間もそれに調子を合わせて言います。「ほかの者は救ったが,自分は救えないのだ! 彼はイスラエルの王だ。今,苦しみの杭から下りて来てもらおうではないか。そうしたら我々も彼を信じよう。彼は神に頼ったのだ。神が彼を必要とされるのなら,いま神に救い出してもらうがよい。『わたしは神の子だ』と言ったのだから」。
兵士たちもその雰囲気にのまれて一緒にからかいます。そしてイエスに酸いぶどう酒を与えるまねをします。きっとイエスの乾き切った唇が届かないようにして差し出しているのでしょう。「もしお前がユダヤ人の王なら,自分を救ってみろ」と言って兵士たちは嘲笑します。イエスの右と左の杭につけられた強盗たちまでイエスをあざけります。考えてみてください。これまでに生存した最も偉大な人が,そうです,エホバ神が万物を創造されたときその業にあずかった方が,こうしたののしりの言葉をすべてじっと我慢しておられるのです!
兵士たちはイエスの外衣を取ってそれを四つに分け,それらがだれのものになるかを決めるためにくじを引きます。しかし,内衣は縫い目のない上等の衣です。そこで兵士たちは互いに,「これは裂かずにおき,だれのものとするか,くじで決めることにしよう」と言います。こうして兵士たちは,「彼らはわたしの外衣を自分たちの間で配分し,わたしの着衣の上でくじを引いた」という聖句を,それとは知らずに成就させます。
やがて強盗の一人は,イエスが本当に王に違いないことを認めるようになります。それで,もう一方の強盗を叱り,「お前は少しも神を恐れないのか。同じ裁きを受けているのに。しかも,我々がこうなるのは全く当然だ。自分のした事に対する相応の報いを受けているのだから。しかしこの人は道に外れたことは何もしていないのだ」と言います。そしてイエスに向かって,「イエスよ,あなたがご自分の王国に入られる時には,わたしのことを思い出してください」と嘆願します。
イエスはそれに答えて,「今日あなたに真実に言いますが,あなたはわたしと共にパラダイスにいるでしょう」と言われます。この約束は,イエスが天で王として支配し,この悔い改めた悪行者を地上のパラダイスでの命に復活させるときに成就するでしょう。ハルマゲドンを生き残る人々とその仲間たちは,このパラダイスを造る特権にあずかるのです。 マタイ 27:33-44。マルコ 15:22-32。ルカ 23:27,32-43。ヨハネ 19:17-24。
■ イエスが没薬を混ぜたぶどう酒を飲もうとされないのはなぜですか。
■ イエスの杭に罪状書きが掲げられたことにはどんな理由があるようですか。それをめぐってピラトと祭司長たちの間ではさらにどんなやりとりがありますか。
■ イエスは杭の上でさらにどんなののしりの言葉を浴びせられますか。そうなったのは,恐らく何が原因ですか。
■ イエスの衣がどう処理されるかに関し,預言はどのように成就しますか。
■ 強盗の一人はどのように変化しますか。イエスはその人の願いをどのように満たされますか。
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「確かにこれは神の子であった」これまでに生存した最も偉大な人
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126章
「確かにこれは神の子であった」
イエスが杭につけられてからまもなく,正午から3時間ほどの間,不思議な闇が生じます。日食が起きているからではありません。日食は新月の時にしか起こらないからです。過ぎ越しの時期は満月です。それに日食は数分で終わります。ですからその闇は神が生じさせたものです。イエスをあざける者たちはこのためにたじろぎ,彼らの嘲笑さえやむかもしれません。
もし,一人の悪行者が仲間を叱りつけ,イエスに向かってわたしを覚えていてくださいと頼む前にこの不気味な現象が起きたとすれば,その悪行者が悔い改めた一因はそのことにあったのかもしれません。また,4人の婦人,すなわちイエスの母,母の姉妹サロメ,マリア・マグダレネ,それに使徒の小ヤコブの母マリアが苦しみの杭のそばまで来るのも,この闇が垂れこめていたさなかのことと思われます。イエスの愛する使徒ヨハネも彼女たちと一緒にそこにいます。
イエスの母マリアは,どれほど心を『刺される』思いがしていることでしょう。自分が世話をし育てた息子が,杭に掛けられ目の前で苦しんでいるのです。それでもイエスは,ご自分の苦痛ではなく,母親の福祉のことを考えておられます。イエスは力を振りしぼってヨハネのほうに顔を向けてうなずき,母親に,「婦人よ,見なさい,あなたの子です!」と言われます。次にマリアに向かってうなずき,ヨハネに,「見なさい,あなたの母です!」と言われます。
こうしてイエスは,今ではやもめの身になっていると思われる母親の世話を,特別に愛しておられる使徒に託されます。イエスがそうされるのは,マリアの他の息子たちがイエスに対する信仰をまだ表明していないからです。そのようにしてイエスは,母親の身体面の必要だけでなく霊的な必要をも顧みるという点で立派な模範を残されます。
午後3時ごろ,イエスは「わたしは渇く」と言われます。イエスは,自分の忠誠を極限まで試すために父がいわば保護の手を引かれたことをお感じになります。それでイエスは大声で呼ばわり,「わたしの神,わたしの神,なぜわたしをお見捨てになりましたか」と言われます。これを聞いて,近くに立っている者たちが幾人か,「見ろ,エリヤを呼んでいるのだ」と叫びます。彼らの一人がすぐに走って行き,酸いぶどう酒を含ませた海綿をヒソプの茎の先につけてイエスに飲ませようとします。しかし他の者たちは,「構わないでおけ! エリヤが下ろしに来るかどうかを見よう」と言います。
イエスは酸いぶどう酒を受けてから,「成し遂げられた!」と大きな声で叫ばれます。そうです,イエスは地上で行なうようみ父から命じられたすべての事柄をなし終えられたのです。そして最後に,「父よ,わたしの霊をみ手に託します」と言われます。こうしてイエスはご自分の生命力を神にゆだねられます。神がもう一度それを回復してくださることを確信しておられるのです。それからイエスは頭を垂れ,亡くなられます。
イエスが息を引き取られた瞬間,激しい地震が生じて岩塊がぽっかりと割れます。揺れが非常に大きかったので,エルサレムの外にある記念の墓が割れて開き,遺体が外に投げ出されます。露出した遺体を見た通行人たちは市内に入り,そのことを報告します。
さらにイエスが亡くなられた瞬間,神の神殿の聖所と至聖所を隔てていた巨大な垂れ幕が,上から下まで二つに裂けます。美しい装飾の入ったこの垂れ幕は高さが約18㍍あり,非常に重いもののようです。この驚くべき奇跡は,み子を殺した者たちに対する神の憤りを表わすだけでなく,イエスの死によって至聖所,つまり天そのものに入ることが今や可能になったことを示しています。
さて,人々は地震を感じ,また起きている事柄を見て非常に恐れるようになります。刑の執行に当たった士官は神の栄光をたたえ,「確かにこれは神の子であった」と宣言します。この士官は,ピラトの前で行なわれた裁判でイエスが神の子であるかどうかが論じられた際,そこにいたのかもしれません。そしていま士官は,イエスが神の子であること,そうです,イエスこそ,これまでに生存した最も偉大な人であることを確信しています。
他の者たちもこれらの奇跡的な出来事に圧倒され,深い悲しみと恥ずかしさのために胸をたたきながら家に帰り始めています。イエスの弟子である大勢の婦人たちは,これらの重大な出来事に深く感動し,やや離れた所でその光景を見守っています。使徒ヨハネもそこにいます。 マタイ 27:45-56。マルコ 15:33-41。ルカ 23:44-49; 2:34,35。ヨハネ 19:25-30。
■ 3時間の闇が日食によるものであるはずがないのはなぜですか。
■ イエスは亡くなられる直前,年老いた親のいる人たちにどんな立派な模範を残されますか。
■ イエスが亡くなられる前に口にされた最後の四つの言葉とはどんな言葉ですか。
■ 地震によって何が成し遂げられますか。神殿の垂れ幕が二つに裂けたことにはどんな意味がありますか。
■ 刑の執行に当たった士官はそれらの奇跡を見てどのような影響を受けますか。
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金曜日に埋葬 ― 日曜日に墓は空になるこれまでに生存した最も偉大な人
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127章
金曜日に埋葬 ― 日曜日に墓は空になる
金曜日の午後です。時刻は遅く,日が沈めばニサン15日で安息日が始まります。イエスの遺体は杭に掛かったままぐったりとしていますが,横にいる二人の強盗はまだ生きています。金曜日の午後は準備の日と呼ばれています。なぜなら,この時に人々は食事を準備し,安息日の後では間に合わない他の急ぎの仕事を終わらせるからです。
まもなく始まろうとしている安息日は,通常の安息日(週の第七日)であるだけでなく,二重の,つまり「大いなる」安息日です。その日がこのように呼ばれているのは,七日にわたる無酵母パンの祭りの一日目(週のどの日に当たろうとも常に安息日になる)であるニサン15日が,通常の安息日と同じ日に当たるからです。
神の律法によると,体は夜通し杭に掛けたままにすべきではありません。それでユダヤ人たちはピラトに,処刑されている者の脚を折って死を早めてほしいと頼みます。そこで兵士たちは二人の強盗の脚を折ります。しかし,イエスはすでに死んでいるようなので,イエスの脚は折られません。このことによって「その骨は一つも砕かれないであろう」という聖句が成就します。
しかし,兵士の一人はイエスが本当に死んだかどうか少しの疑念も残らないよう,イエスの脇腹を槍で突き刺します。槍は心臓のあたりに突き刺さり,すぐに血と水が出てきます。目撃証人である使徒ヨハネは,このことによって,「彼らは自分たちが刺し通した者を見つめるであろう」という別の聖句は成就したと伝えています。
刑場にはアリマタヤという町から来たヨセフもいます。この人はサンヘドリンの評判のよい議員です。彼はイエスに対する高等法院の不当な措置に賛成の票を投じませんでした。ヨセフは実際にはイエスの弟子ですが,それを明らかにすることは恐れていました。しかし今,ヨセフは勇気を出してピラトのもとに行き,イエスの体を頂きたいと頼みます。ピラトは担当の士官を呼び寄せ,士官がイエスの死を確認したのちに遺体を引き渡します。
ヨセフは遺体を取り,埋葬に備えて清い上等の亜麻布に包みます。彼はサンヘドリンの別の議員ニコデモの援助を受けます。ニコデモも自分の立場を失うことを恐れてイエスに対する信仰を告白していませんでした。しかし今,ニコデモは100ローマ・ポンドほどの没薬と高価なじん香を含む巻き物を一つ持ってきます。埋葬の準備に関するユダヤ人の習慣どおり,イエスの体はこれらの香料を含んだ巻き布で包まれます。
それから遺体は,近くの園にある,岩に掘り込んだヨセフの新しい記念の墓の中に横たえられます。最後に,墓の前に大きな石が転がされます。安息日の前に埋葬を完了させるため,遺体の準備は急いで行なわれます。それで,遺体の準備を手伝っていたと思われるマリア・マグダレネと小ヤコブの母マリアは,さらに香料と香油を準備するため急いで家に戻ります。彼女たちはイエスの体をもっと長い期間保存するため,安息日が終わってからも処理を施すことにします。
翌日の土曜日(安息日),祭司長とパリサイ人はピラトのところへ行ってこう言います。「閣下,わたしどもは,あのかたり者が,まだ生きていた時分に,『三日後にわたしはよみがえらされる』と言ったのを思い出しました。それで,三日目まで墓の守りを固めるように命令してください。弟子たちがやって来て彼を盗み出し,『彼は死人の中からよみがえらされたのだ!』などと民に言いふらすようなことのないためです。この最後のかたりは,最初のものより悪い結果になってしまうでしょう」。
「あなた方には警備隊がある。行って,あなた方の知る限りの方法で守り固めるがよい」と,ピラトは答えます。それで彼らは出かけて行き,石に封印をしてからローマの兵士を警備隊として配置し,墓の守りを固めます。
日曜日の早朝,マリア・マグダレネとヤコブの母マリア,それにサロメやヨハンナや他の女たちが一緒に,イエスの体に処理を施すため墓に香料を持ってきます。途中,彼女たちは,「記念の墓の戸口から,だれがわたしたちのために石を転がしのけてくれるでしょうか」と話し合います。しかし着いてみると,地震が起きた後で,エホバのみ使いがすでに石を転がしのけています。警備隊はどこかへ行ってしまい,墓の中は空になっています。 マタイ 27:57-28:2。マルコ 15:42-16:4。ルカ 23:50-24:3,ルカ 24:10。ヨハネ 19:14,ヨハ 19:31-20:1; 12:42。レビ記 23:5-7。申命記 21:22,23。詩編 34:20。ゼカリヤ 12:10。
■ 金曜日が準備の日と呼ばれているのはなぜですか。「大いなる」安息日とは何ですか。
■ イエスの体に関連してどんな聖句が成就しますか。
■ ヨセフとニコデモはイエスの埋葬にどのようにかかわりを持ちますか。二人はイエスとどんな関係にありますか。
■ 祭司たちはピラトに何を要請しますか。ピラトはどう答えますか。
■ 日曜日の早朝には何が起きますか。
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イエスは生きておられる!これまでに生存した最も偉大な人
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128章
イエスは生きておられる!
イエスの墓が空になっていることが女たちに分かったとき,マリア・マグダレネはペテロとヨハネにそのことを告げるため走ってゆきます。しかし,ほかの女たちは墓のところに残っているようです。すると間もなく一人のみ使いが現われ,彼女たちを中に招き入れます。
ここで彼女たちはもう一人のみ使いを見ます。そして片方のみ使いが彼女たちにこう言います。「あなた方は恐れてはなりません。あなた方が杭につけられたイエスを捜していることを,わたしは知っているのです。彼はここにはいません。彼が言ったとおり,よみがえらされたのです。さあ,彼の横たわっていた場所を見なさい。それから,急いで行って,彼が死人の中からよみがえらされたことを,その弟子たちに告げなさい」。それでこれらの女たちも,恐れと大きな喜びとを抱きながら走ってゆきます。
そのころにはマリアはペテロとヨハネを見つけ,「人々が主を記念の墓から取り去ってしまい,どこに置いたのか分かりません」と報告します。二人の使徒は直ちに飛び出してゆきます。ヨハネのほうが ― 若いからでしょう ― 足が速く,先に墓に着きます。そのころにはもう女たちは去っていたため,まわりにはだれもいません。ヨハネはかがみ込んで墓の中をのぞき,巻き布が置いてあるのを目にしますが,そのまま外にいます。
ペテロは到着すると,ためらいもなくまっすぐ中に入ります。彼はそこに置いてある巻き布,それからイエスの頭をくるむのに使われた布も目にします。頭をくるんだ布は一つの場所に巻いてあります。ここでヨハネも墓の中に入り,マリアの報告を信じます。しかしペテロもヨハネも,イエスがよみがえらされることを度々イエスから聞いていたにもかかわらず,イエスがよみがえらされたということが分かりません。途方に暮れた二人は家に戻りますが,墓に戻ってきたマリアはそこに残ります。
その間にほかの女たちは,み使いに命じられたとおり,イエスが復活させられたことを弟子たちに伝えるために急いでいます。女たちが全力で走っていると,イエスが彼女たちに会い,「こんにちは!」とおっしゃいます。女たちはイエスの足もとにひざまずき,イエスに敬意をささげます。するとイエスは,「恐れることはありません! 行って,わたしの兄弟たちに報告し,彼らがガリラヤに行くようにしなさい。彼らはそこでわたしを見るでしょう」と言われます。
少し前に地震が起きてみ使いたちが現われたとき,警備に当たっていた兵士たちは気絶して死人のようになりました。兵士たちは意識を取り戻すとすぐに市内に入り,起きたことを祭司長たちに話しました。ユダヤ人の「年長者たち」に相談した後,兵士たちを買収して事件をもみ消そうという決定が下されます。兵士たちは,「『夜中にその弟子たちが来て,自分たちが眠っている間に彼を盗んでいった』と言え」と指示されました。
ローマの兵士は持ち場で居眠りをすると死刑になる恐れがあるため,祭司長たちは,「もしこれ[あなた方が居眠りをしたという報告]が総督の耳に入るなら,我々が彼に説いて,あなた方には心配がないようにする」と約束しました。買収金は十分の額だったので,兵士たちは指示されたとおりにします。その結果,イエスの遺体は盗まれたという間違ったうわさがユダヤ人の間に広まります。
後に残って墓のところにいたマリア・マグダレネは,悲しみに打ちひしがれています。イエスはどこにいるのでしょう。マリアが墓の中をのぞこうとして前に身をかがめると,再び現われた白衣の二人のみ使いが見えます。イエスの体が置いてあったところに,一人は頭のところ,一人は足のところに座っています。「婦人よ,なぜ泣いているのですか」と,み使いは尋ねます。
「人々がわたしの主を取り去ってしまい,どこに置いたのか分からないのです」と,マリアは答えます。それから彼女が振り向くと,一人の人が目にとまりますが,その人も先ほどの質問を繰り返し,「婦人よ,なぜ泣いているのですか」と言います。そしてまた,「だれを捜しているのですか」と尋ねます。
マリアは,墓のある庭園の管理人だろうと思い,その人に,「だんな様,もしあなたが主を運び去ったのでしたら,どこに置いたのかおっしゃってください。わたしが引き取りますから」と言います。
「マリア!」と,その人は言います。するとマリアは直ちに,その聞きなれた呼び方からそれがイエスであることに気づきます。「ラボニ!」(「師よ!」という意味)と,マリアは叫びます。そして喜びを抑えきれずにイエスにしがみつきます。しかしイエスはこう言われます。「わたしにすがり付くのはやめなさい。わたしはまだ父のもとへ上っていないからです。しかし,わたしの兄弟たちのところに行って,『わたしは,わたしの父またあなた方の父のもとへ,わたしの神またあなた方の神のもとへ上る』と言いなさい」。
そこでマリアは使徒や仲間の弟子たちが集まっているところに走ってゆきます。ほかの女たちがすでに,復活させられたイエスを見たことについて報告していましたが,マリアはそれに自分の話を付け加えます。しかし,最初の女たちの言うことを信じなかったそれらの者たちは,マリアの言うことも信じていないようです。 マタイ 28:3-15。マルコ 16:5-8。ルカ 24:4-12。ヨハネ 20:2-18。
■ マリア・マグダレネは墓が空になっているのを見たあとどうしますか。ほかの女たちはどんな経験をしますか。
■ ペテロとヨハネは墓が空になっているのを見て,どう反応しますか。
■ ほかの女たちがイエスの復活について弟子たちに報告しに行く途中,どんな出会いがありますか。
■ 警備に当たっていた兵士には何が起きますか。祭司たちに報告したところ,どんな反応が返ってきますか。
■ マリア・マグダレネが墓のところに一人でいると,何が起きますか。弟子たちは女たちの報告にどんな反応を示しますか。
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さらに何度か現われるこれまでに生存した最も偉大な人
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129章
さらに何度か現われる
弟子たちはまだ気落ちしています。墓が空になったことの意味を理解しておらず,女たちの報告も信じていません。それで日曜日の後刻,クレオパともう一人の弟子はエルサレムをたって,11㌔ほど離れたエマオに向かいます。
途中,二人がその日の出来事について論じ合っていると,見知らぬ人が二人に加わります。「あなた方が歩きながら互いに討論しているそれらの事はいったい何ですか」と,その人は尋ねます。
弟子たちは立ち止まります。彼らは憂うつな表情をしています。そしてクレオパがこう答えます。「あなたは,外国人として自分ひとりでエルサレムに住んでいるために,近ごろそこで起きたいろんな事を知らないのですか」。「どんな事ですか」と,その人は尋ねます。
「ナザレ人イエスに関する事です」と,二人は答えます。『わたしたちの祭司長や支配者たちは彼を死の宣告に渡して杭につけたのです。しかしわたしたちは,この人がイスラエルを救出するように定められた方だと希望をかけていたのです』。
クレオパとその仲間は,み使いたちの超自然的な光景や,空になった墓に関する報告など,その日に起きたびっくりするような出来事について説明します。しかし同時に,その意味が分からなくて困惑していることも打ち明けます。その見知らぬ人は彼らをとがめ,「ああ,無分別で,預言者たちの語ったすべてのことを信じるのに心の鈍い人たちよ。キリストはこうした苦しみを経て自分の栄光に入ることが必要だったのではありませんか」と言います。それからその人は,聖書にあるキリストに関連した聖句を二人のために解き明かします。
ついにエマオの近くに来ますが,見知らぬ人はさらに旅を続けるような様子を示します。弟子たちはもっと話を聞きたいと思い,『わたしたちのところにお泊まりください。夕方になるところですから』と勧めます。それでその人は食事を取るためにとどまります。その人が祈りをささげてからパンを割いて二人に渡した時,二人はその人が実際に,人間の体を備えて現われたイエスであることに気づきます。しかし,それからイエスは見えなくなります。
そこで二人は,その見知らぬ人が非常に多くのことを知っていたわけを理解します。二人は,「あの方が道でわたしたちに話してくださった時,わたしたちのために聖書をすっかり解いてくださった時,わたしたちの心は燃えていなかっただろうか」と言います。彼らはすぐに立ち上がり,急いでエルサレムに戻ります。そして使徒たちや使徒たちのところに集まっている人たちを見つけます。みんなはクレオパとその仲間が何も言わないうちに,興奮しながら,「主はほんとうによみがえらされて,シモンに現われたのだ!」と告げます。その後二人は,イエスが自分たちにも現われたことについて話します。イエスはこれでその日のうちに4回もいろいろな弟子たちに現われたことになります。
イエスはまた突然姿を現わされます。これで五度目です。弟子たちはユダヤ人を恐れて戸に錠をかけていましたが,イエスは中に入って彼らの真ん中にお立ちになり,「あなた方に平安があるように」と言われます。弟子たちは霊を眺めているのだと思っておびえます。それでイエスはご自分が幻影でないことを説明してこう言われます。「なぜあなた方は騒ぐのですか。あなた方の心に疑いが起きるのはどうしてですか。わたしの手と足を見なさい。これはわたしです。わたしに触り,また見なさい。霊には,あなた方がわたしに見るような肉や骨はないのです」。しかし,弟子たちはまだ信じる気になれません。
イエスは,ご自分が本当にイエスであることを弟子たちに理解させるため,「そこに何か食べる物がありますか」とお尋ねになります。そして焼いた魚を一切れ受け取って食べてから,「まだあなた方と共にいた時[わたしが死ぬ前]に,わたしが話した言葉はこうでした。つまり,モーセの律法の中,そして預言者たちと詩編の中にわたしについて書いてあることはみな必ず成就するということです」と語られます。
イエスは弟子たちと事実上聖書研究とも言えるものを続け,「このように書いてあります。すなわち,キリストは苦しみを受け,三日目に死人の中からよみがえり,その名によって罪の許しのための悔い改めがあらゆる国民の中で宣べ伝えられる ― エルサレムから始めて,あなた方はこれらの事の証人となるのです」と教えられます。
トマスは,日曜日の夜のこの重要な集まりに何かの事情で来ていません。ですからそのあと幾日かの間ほかの人たちはトマスに,「わたしたちは主を見た!」とうれしそうに言います。
トマスは,「その手にくぎの跡を見,わたしの指をくぎの跡に差し入れ,手をその脇腹に差し入れない限り,わたしは決して信じない」と言い張ります。
さて,八日後,弟子たちは再び屋内で集まっています。このたびはトマスも一緒にいます。戸には錠がかかっているのに,イエスはまたも彼らの真ん中に立ち,「あなた方に平安があるように」と言われます。それからトマスのほうを向いて,『あなたの指をここに当てて,わたしの手を見,あなたの手を持って来て,わたしの脇腹に差し入れなさい。そして,信じない者とならないように』と言われます。
トマスは「わたしの主,そしてわたしの神!」と叫びます。
「あなたはわたしを見たので信じたのですか。見なくても信じる者は幸いです」と,イエスは言われます。 ルカ 24:11,13-48。ヨハネ 20:19-29。
■ 二人の弟子がエマオに向かう途中,見知らぬ人は二人に何を尋ねますか。
■ その見知らぬ人はどんなことを話して弟子たちの心を内で燃え立たせますか。
■ 弟子たちは,見知らぬ人がだれであることをどのようにして認めますか。
■ クレオパとその仲間はエルサレムに戻った時,興奮を誘うどんな報告を聞きますか。
■ イエスが弟子たちに姿を現わす五度目のときは,どのようですか。その際にどんなことがありますか。
■ イエスが姿を現わされた五度目のときから八日後に何が起こりますか。トマスはイエスが生きておられることをついにどのように確信しますか。
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ガリラヤの海でこれまでに生存した最も偉大な人
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130章
ガリラヤの海で
さて,使徒たちは,以前にイエスから指示されていたとおりガリラヤに戻ります。しかし,そこで何をすべきかについては確信がありません。しばらくしてペテロは,トマス,ナタナエル,ヤコブとその兄弟ヨハネ,それに他の二人の使徒たちに,「わたしは漁に行ってくる」と言います。
「わたしたちもあなたと一緒に行こう」と,その6人は答えます。
一晩じゅう漁をしましたが,何も捕れません。ところが,ちょうど明るくなってきたころ,イエスが浜辺に現われます。しかし,使徒たちはそれがイエスだとは気づきません。イエスは大声で,「幼子たちよ,食べる物を何も持っていないのですね」と言われます。
彼らは岸のほうに向かって,「ありません!」と答えます。
「網を舟の右側に投じなさい。そうすれば,幾らか見つかるでしょう」と,イエスは言われます。そこでそのとおりにやってみると,網は魚でいっぱいになり,引き寄せることができないほどになります。
「主だ!」と,ヨハネが叫びます。
これを聞くとペテロは,上っ張りを脱いでいたのでそれをまとい海に飛び込みます。そして,岸まで90㍍ほど泳ぎます。ほかの使徒たちも,魚のいっぱい入った網を引きながら小舟であとを追います。
彼らが陸に上がると,そこには炭火があって,その上には魚が置いてあり,パンもあります。「あなた方がいま捕った魚を少し持って来なさい」と,イエスは言われます。ペテロが舟に乗って網を岸に引き上げると,その中には大きな魚が153匹も入っています。
「さあ,朝食を取りなさい」と,イエスはお招きになります。
彼らのうち,「あなたはどなたですか」とあえて尋ねる者は一人もいません。だれもがイエスであることを知っているからです。復活後イエスが現われたのはこれで七度目であり,使徒たちが一緒にいるところに現われたのは三度目です。今イエスは,パンと魚を一人一人に与え,朝食の給仕をされます。
彼らが食べ終わるとイエスは,たぶん捕れた大量の魚のほうをご覧になりながら,ペテロに,「ヨハネの子シモン,あなたはこれら以上にわたしを愛していますか」とお尋ねになります。恐らくイエスが言おうとしておられるのは,あなたはわたしがあなたに行なわせようとしてきた業よりも,漁業のほうに愛着を感じているのですか,ということでしょう。
ペテロは,「わたしがあなたに愛情を持っていることをあなたは知っておられます」と答えます。
「わたしの子羊たちを養いなさい」と,イエスは言われます。
そして再び,二度目にも,「ヨハネの子シモンよ,あなたはわたしを愛していますか」とお尋ねになります。
「はい,主よ,わたしがあなたに愛情を持っていることをあなたは知っておられます」と,ペテロは真剣になって答えます。
イエスはまた,「わたしの小さな羊たちを牧しなさい」とお命じになります。
それからもう一度,三度目にも,「ヨハネの子シモンよ,あなたはわたしに愛情を持っていますか」とお尋ねになります。
この時にはペテロは悲しい気持ちになっています。自分の忠節をイエスは疑っているのではないかと思っているのかもしれません。なにしろペテロは,ついこのあいだイエスが生死を分かつ裁判にかけられていたとき,イエスを知っていることを3度も否定したのです。それでペテロは,「主よ,あなたはすべてのことを知っておられます。わたしがあなたに愛情を持っていることを,あなたは気づいておられます」と言います。
イエスは三度目もやはり,「わたしの小さな羊たちを養いなさい」とお命じになります。
こうしてイエスは,行なってほしいと思う業を他の使徒たちにも銘記させるため,ペテロをいわば反響板として用いておられるのです。イエスはまもなく地を去られるので,彼らが,神の羊の囲いの中に導き入れられる人たちに仕える点で率先することをイエスは願っておられるのです。
ここでイエスは,ご自分が神からゆだねられた業を行なったために縛られ,処刑されたのと同じように,ペテロも同様の経験をすることを明らかにし,ペテロにこうお告げになります。「もっと若かった時,あなたはいつも自分で帯をして,自分の欲する所を歩き回りました。しかし年を取ると,あなたは手を伸ばし,ほかの人があなたに帯をさせ,あなたの望まない所に連れて行くでしょう」。ペテロを待ち受けているのは殉教の死であるにもかかわらず,イエスはペテロに,「引き続きわたしのあとに従いなさい」とお勧めになります。
ペテロは振り向いた時にヨハネを目にして,「主よ,この人は何をするのでしょうか」と尋ねます。
イエスはこうお答えになります。「わたしが来るまで彼のとどまることがわたしの意志であるとしても,それがあなたにどんな関係があるでしょうか。あなたは引き続きわたしのあとに従いなさい」。弟子たちの多くはイエスのこの言葉を,使徒ヨハネは決して死なないという意味に解釈するようになりました。しかし,使徒ヨハネが後で説明しているように,イエスはヨハネが死なないと言われたのではなく,「わたしが来るまで彼のとどまることがわたしの意志であるとしても,それがあなたにどんな関係があるでしょうか」と言われたにすぎません。
ヨハネはまた後に次のような意義深い観察を行なっています。「実に,イエスの行なわれた事はほかにも多くあるが,仮にそれが事細かに記されるとすれば,世界そのものといえども,その書かれた巻き物を収めることはできないであろうと思う」。 ヨハネ 21:1-25。マタイ 26:32; 28:7,10。
■ ガリラヤで何をすべきかについて使徒たちに確信がなかったことは,どんなことから分かりますか。
■ ガリラヤの海で使徒たちはどんなことから,そこにいた人がイエスであることに気づきますか。
■ イエスは復活後,これで何回現われたことになりますか。
■ イエスはどのようにして,使徒たちに行なってほしいと思う事柄を強調されますか。
■ イエスはペテロの死に方をどのように示されますか。
■ イエスがヨハネに関して語られたどんな言葉は多くの弟子に誤解されましたか。
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最後の出現と,西暦33年のペンテコステこれまでに生存した最も偉大な人
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131章
最後の出現と,西暦33年のペンテコステ
ある時,イエスは11人の使徒全員とガリラヤのある山で会う取り決めをされます。他の弟子たちもその集まりについて聞いていたらしく,全部で500人以上の人が集まります。イエスが姿を見せて人々を教えはじめると,それは喜ばしい大会となります。
中でもイエスは,ご自分が天と地におけるすべての権威を神から与えられていることを大勢の群衆に説明し,こう説き勧められます。「それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し,わたしがあなた方に命令した事柄すべてを守り行なうように教えなさい」。
考えてみてください。男性も女性も子供たちもすべて,弟子を作る業に参加するというこの同じ任務を与えられるのです。反対者たちは,宣べ伝える業や教える業をやめさせようとするでしょう。しかし,イエスは弟子たちを励まし,「見よ,わたしは事物の体制の終結の時までいつの日もあなた方と共にいるのです」と言われます。イエスは聖霊によってご自分の追随者たちと共におられ,彼らが宣教を遂行できるよう援助されます。
イエスは復活後,ご自分が生きていることを,合わせて40日にわたり弟子たちに示されます。弟子たちに現われるときには,神の王国について教え,弟子としての責任がどのようなものであるかを強調されます。ある時には異父兄弟ヤコブにも現われ,ご自分が本当にキリストであることを,このかつての未信者に確信させます。
イエスは使徒たちがまだガリラヤにいる間,エルサレムへ戻ることを彼らに指示されるようです。エルサレムで使徒たちにお会いになると,イエスはこう言われます。「エルサレムを離れないで,父が約束され,またわたしから聞いたものを待っていなさい。ヨハネは確かに水でバプテスマを施しましたが,あなた方はこれから幾日もたたないうちに聖霊をもってバプテスマを施されるからです」。
その後イエスは再び使徒たちに会い,エルサレムを出てベタニヤまで彼らを連れて行かれます。ベタニヤはオリーブ山の東斜面に位置しています。驚いたことに,使徒たちはイエスがまもなく天へ出発されることについてあれほど聞いていたにもかかわらず,まだイエスの王国が地上に設立されると思い込んでいます。そのため彼らは,「主よ,あなたは今この時に,イスラエルに王国を回復されるのですか」と質問します。
イエスは彼らの誤った考えをもう一度正そうとはされず,むしろ簡単に,「父がご自分の権限内に置いておられる時また時期について知ることは,あなた方のあずかるところではありません」とお答えになります。それから彼らの行なうべき業を再び強調し,「聖霊があなた方の上に到来するときにあなた方は力を受け,エルサレムでも,ユダヤとサマリアの全土でも,また地の最も遠い所にまで,わたしの証人となるでしょう」と言われます。
イエスは使徒たちが見守る中で天に向かって昇りはじめ,やがて雲に隠れて見えなくなります。肉体を非物質化してから霊者として天へ昇られます。11人がなおも空を見つめていると,白い衣を着た二人の人が彼らのそばに現われます。物質の体を着けて現われたこれらのみ使いはこう尋ねます。「ガリラヤの人たちよ,なぜ空を眺めて立っているのですか。あなた方のもとから空へ迎え上げられたこのイエスは,こうして,空に入って行くのをあなた方が見たのと同じ様で来られるでしょう」。
今イエスが地を去られた様は,大々的な宣伝もなく忠実な追随者たちだけに見守られるという様でした。ですから戻られるときも同じような様で,つまり大々的な宣伝もなく,ご自分が戻って王国の権能をもって臨在を始めたことを忠実な追随者たちだけが悟るような様で戻られます。
さて,使徒たちはオリーブ山を下りてキデロンの谷を渡り,再びエルサレムに入ります。彼らはイエスの命令に従ってそこにとどまります。十日後,西暦33年のユダヤ人のペンテコステの祭りの時,エルサレムの階上の部屋に約120人の弟子たちが集まっていると,突然,激しい風の吹きつけるような物音が家全体を満たします。さながら火のような舌が見え,その場にいる各人の上に一つずつとどまり,弟子たちはみな異なった国語で話し始めます。これこそ,イエスの約束しておられた,聖霊が注がれるということなのです。 マタイ 28:16-20。ルカ 24:49-52。コリント第一 15:5-7。使徒 1:3-15; 2:1-4。
■ イエスが別れに先立ってガリラヤのある山でお与えになる指示はだれに対するものですか。それはどんな指示ですか。
■ イエスは弟子たちにどのような励ましをお与えになりますか。イエスはその後どのようにして彼らと共におられますか。
■ イエスは復活後どれほどの期間ご自分の弟子たちに現われますか。イエスは彼らに何を教えられますか。
■ イエスは,ご自分が死ぬまでは弟子でなかったと思われるどんな人に現われますか。
■ イエスは最後に2度,どこで使徒たちにお会いになりますか。その際にはそれぞれどのようなことが起きますか。
■ イエスが去っていったのと同じ様で戻られるというのはどういうことですか。
■ 西暦33年のペンテコステの日に何が起きますか。
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神の右でこれまでに生存した最も偉大な人
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132章
神の右で
ペンテコステの日に聖霊が注ぎ出されたことは,イエスが天に戻られたことの証拠です。また,しばらく後に弟子のステファノに与えられた幻も,イエスが天へ到着されたことを示しています。ステファノは,忠実に証しをしたために石打ちにされますが,その直前に,「ご覧なさい,天が開けて,人の子が神の右に立っているのが見えます」と叫びます。
イエスは神の右にいる間,「あなたの敵のただ中で従えてゆけ」という命令が父から下るのを待ちます。しかし,敵に対して行動を起こすまでの間は何をしておられるのでしょうか。イエスはご自分の油そそがれた弟子たちを支配もしくは統治され,宣べ伝える活動において彼らを導き,彼らが復活によって父の王国で共に治める王となるための備えをさせます。
例えばイエスは,ほかの国々で弟子を作る業の先頭に立つようサウロ(後にローマ名のパウロのほうがよく知られるようになった)をお選びになります。サウロは神の律法に対して熱心ですが,ユダヤ教の指導者たちに惑わされています。その結果,サウロはステファノの殺害をよしとしただけでなく,イエスの追随者を見つけたなら,男でも女でも捕縛してエルサレムに連れ戻す権限を大祭司カヤファから受け,ダマスカスに向かいます。ところが途中で,まぶしい光が突然サウロのまわりにぱっと光り,サウロは地面に倒れます。
「サウロ,サウロ,なぜあなたはわたしを迫害しているのか」という声がどこからか聞こえます。「主よ,あなたはどなたですか」と,サウロは尋ねます。
「わたしはイエス,あなたが迫害している者です」という答えが返ってきます。
奇跡的な光によって盲目になったサウロは,ダマスカスに入って指示を待つようにとイエスから言われます。それからイエスは幻の中で弟子の一人であるアナニアに現われます。そしてサウロについてアナニアにこうお告げになります。「わたしにとってこの者は,わたしの名を諸国民に,また王たちやイスラエルの子らに携えて行くための選びの器……です」。
確かに,サウロ(今ではパウロとして知られている)も他の福音宣明者たちも,イエスの後ろ盾を得て,宣べ伝え教える業に大きな成功を収めます。実際パウロは,ダマスカスへ行く途中でイエスが現われてから約25年後に,「良いたより」が「天下の全創造物の中で宣べ伝えられ」てきたと書いています。
その後さらに何年もたってから,イエスは最愛の使徒ヨハネに一連の幻をお与えになります。ヨハネは自分が聖書の啓示の書に描くこれらの幻によって,事実上,イエスが王国の権能をもって戻られるのを生きているうちに見ます。ヨハネは,「霊感によって」将来の「主の日」に運ばれたと述べています。この「日」とは何でしょうか。
終わりの日に関するイエスご自身の預言を含め,聖書の預言を注意深く研究すると,「主の日」は歴史的に重要な年である1914年に始まったことが分かります。そうです,この世代のうちに始まったのです。ですから,イエスが目に見えない仕方で,大々的な宣伝もなく,忠実な僕たちだけが気づくような仕方で戻って来られたのは1914年でした。その年にエホバは,敵のただ中で従えて行くようイエスに命令されました。
イエスはみ父のご命令に従って天からサタンと配下の悪霊たちを一掃し,地に投げ落としました。ヨハネは幻の中でその出来事を見た後,「今や,救いと力とわたしたちの神の王国とそのキリストの権威とが実現した!」という声が天で上がるのを耳にします。そうです,キリストは1914年に王として支配を始められたのです。
これは天にいるエホバの崇拝者たちにとって何とすばらしい良いたよりなのでしょう。彼らはこう勧められます。「天と天に住む者よ,喜べ!」 しかし地に住む者たちにとっては状況はどのようなものになるでしょうか。天からの声は続きます。「地と海にとっては災いである。悪魔が,自分の時の短いことを知り,大きな怒りを抱いてあなた方のところに下ったからである」。
わたしたちは今,その短い時にいます。人々は現在,神の新しい世に入るか,滅びを被るかのいずれかに分けられています。実のところ,あなた自身の将来は,キリストの指導のもとに世界中で宣べ伝えられている神の王国の良いたよりにどう反応するかによって,いま決定されているのです。
人々を分ける業が終わると,イエス・キリストは神の代理者として,サタンの事物の体制全体と,それを支持する者たちをすべて,聖書の中でハルマゲドンと呼ばれている戦争によって地上から一掃することを完了されます。その後,宇宙でエホバ神ご自身に次ぐ偉大な方であるイエスは,サタンと配下の悪霊たちを捕らえて縛り,千年のあいだ「底知れぬ深み」,つまり死のような無活動の状態にしておかれます。 使徒 7:55-60; 8:1-3; 9:1-19; 16:6-10。詩編 110:1,2。ヘブライ 10:12,13。ペテロ第一 3:22。ルカ 22:28-30。コロサイ 1:13,23。啓示 1:1,10; 12:7-12; 16:14-16; 20:1-3。マタイ 24:14; 25:31-33。
■ イエスは昇天後どこにおられますか。そこで何を待たれますか。
■ イエスは昇天後だれに対して支配を行なわれますか。その支配はどのようなかたちで表われますか。
■ 「主の日」はいつ始まりましたか。それが始まったときには何が起きましたか。
■ いま行なわれている分ける業は,わたしたち一人一人に個人的にどんな影響を及ぼしますか。分ける業は何に基づいて行なわれていますか。
■ 分ける業が終わると,その後にどんな事が起きますか。
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イエスは神が求める事柄をすべてなし終えるこれまでに生存した最も偉大な人
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133章
イエスは神が求める事柄をすべてなし終える
王なる戦士イエス・キリストがサタンとその不義の世を取り除くとき,それは歓喜すべき大きな理由となることでしょう。平和なイエスの千年統治がついに始まるのです。
ハルマゲドンの生存者たちは,イエスおよびイエスと共に統治する王たちの指示のもとに,義なる戦争の後の残がいを片付けます。さらに地上の生存者たちは,しばらくのあいだ子供を産み,その子供たちも,地を耕して公園のような壮麗な庭園に変える喜ばしい業にあずかることでしょう。
やがてイエスは,この美しい楽園<パラダイス>を享受するよう数えきれないほど多くの人を墓の中から連れ出されます。イエスがこのことを行なわれるのは,「記念の墓の中にいる者がみな……出て来る時が来ようとしているのです」という,自ら語られた保証の言葉を実現させるためです。
イエスが復活させる人の中には,イエスの傍らの苦しみの杭の上で死んだ元悪行者もいることでしょう。イエスがその悪行者に,「今日あなたに真実に言いますが,あなたはわたしと共にパラダイスにいるでしょう」と約束されたことを思い出してください。しかしこれは,その人が天に連れて行かれてイエスと共に王として支配するということでも,イエスが再び人間となって,地上の楽園<パラダイス>でその元悪行者と共に住むということでもありません。むしろイエスは,次のページのさし絵にあるように,その人を楽園<パラダイス>で復活させ,その人の身体的また霊的な必要が満たされるよう取り計らうという意味で,その元悪行者と共におられるのです。
考えてみてください。全人類 ― ハルマゲドンの生存者とその子供たち,そしてイエスに従う幾十億もの復活した人々 ― は,イエスの愛のこもった世話を受けて完全な人間へと成長してゆくのです。エホバは王なるみ子イエス・キリストを通し,霊的に人類と共に住まわれます。ヨハネが聞いた天からの声が言うように,「また神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死はなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない」のです。地上には,苦しんだり病気になったりする人がいなくなるのです。
神は最初の人間夫婦アダムとエバに,子孫を増やして地を満たすようにと言われましたが,イエスの千年統治の終わりまでには,神のその最初の目的にぴったりかなった状況が実現していることでしょう。そうです,地は義にかなった完全な人類で満たされるのです。それはイエスの贖いの犠牲の益がすべての人に適用されてきたからです。アダムの罪ゆえの死はもはやなくなっているのです。
こうしてイエスは,エホバから求められた事柄をすべて成し遂げられるでしょう。そのため千年期の終わりには,王国と完全にされた人類をみ父に引き渡されます。そのとき神は,サタンと悪霊たちを底知れぬ深み,つまり死のような無活動の状態から解き放たれます。それにはどんな目的がありますか。
千年期の終わりまでに楽園<パラダイス>の住民の大半は,まだ一度も信仰の試みを受けたことのない,復活させられた人たちが占めることになります。彼らは生前,神の約束について全く知らなかったため,それらの約束に対する信仰を実証することができませんでした。したがって,復活させられ,聖書の真理を教えられたあと,反対に遭うことが全くない楽園<パラダイス>で,神に仕えるのはやさしいことでした。しかし,サタンが機会を得て神に仕えるのをやめさせようとするなら,彼らは試練のもとでも忠節を実証するでしょうか。この疑問を解決するためにサタンは解き放たれます。
ヨハネに与えられた啓示が明らかにしているように,サタンはイエスの千年統治の後,数は分かりませんが,人々を神に仕えさせないようにすることに成功するでしょう。しかしその最終的な試練が終わる時,サタンと配下の悪霊たち,それにサタンがうまく惑わした者たちはすべて永久に滅ぼされてしまいます。一方,十分に試された忠節な生存者たちは生き続け,天の父の祝福を永遠にわたって享受することでしょう。
イエスがこれまで,神の輝かしい目的を成し遂げる上で重要な役割を果たしてこられ,またこれからも果たしてゆかれることは明らかです。イエスが神の偉大な天の王として多くのことを成し遂げられるゆえに,わたしたちは何という壮大な将来を楽しむことができるのでしょう。しかし,イエスが人間であったときに行なわれた事柄も忘れることはできません。
イエスは自ら進んで地に来られ,み父についてわたしたちに教えてくださいました。そのうえにイエスは神の持たれる貴い特質を例示されました。その畏敬すべき勇気や男らしさ,比類のない知恵,教え手としての優れた能力,何者をも恐れない指導力,優しい同情心や感情移入などについて考えるとき,わたしたちは心を打たれます。わたしたちはイエスの贖いによってのみ命を得ることができますが,イエスはその贖いを備える際に言葉では言い表わせないほどの苦しみを経験されました。その苦しみを思い起こすとき,わたしたちの心はイエスに感謝せずにはいられなくなります。
わたしたちはこれまでイエスの生涯を研究して,何とすばらしい人物像を見てきたのでしょう。イエスの偉大さは明らかであり,圧倒的なものです。わたしたちはローマの総督ポンテオ・ピラトが言った「見よ,この人だ!」という言葉に共鳴します。確かにイエスは「この人」,すなわち,これまでに生存した最も偉大な人です。
わたしたちがアダムから受け継いだ罪と死の重荷は,イエスの贖いの犠牲の備えを受け入れることによってわたしたちから取り除かれ,そしてイエスはわたしたちの「とこしえの父」となることができます。永遠の命を得ようと思う人はすべて,神だけでなくみ子イエス・キリストについての知識をも取り入れなければなりません。わたしたちは,イエスの生涯と宣教に関するこの本をあなたが読みまた研究されることが,命を与える知識を取り入れるうえであなたのお役に立つことを願っています。 ヨハネ第一 2:17; 1:7。ヨハネ 5:28,29; 3:16; 17:3; 19:5。ルカ 23:43。創世記 1:28。コリント第一 15:24-28。啓示 20:1-3,6-10; 21:3,4。イザヤ 9:6。
■ ハルマゲドンの生存者とその子供たちにはどんな喜ばしい特権がありますか。
■ ハルマゲドンの生存者とその子供たちのほかに,どんな人たちが楽園での生活を享受しますか。イエスはどのような意味で彼らと共におられますか。
■ 千年期の終わりにはどんな状況が見られますか。そのときイエスは何を行なわれますか。
■ サタンはなぜ底知れぬ深みから解き放たれますか。サタンとサタンに従う者たちは最終的にどうなりますか。
■ イエスはどのようにしてわたしたちの「とこしえの父」となられますか。
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