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わたしたちには喜び叫ぶべき理由があるものみの塔 1996 | 2月15日
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わたしたちには喜び叫ぶべき理由がある
「彼らは歓喜と歓びを得,悲嘆と溜め息は必ず逃げ去る」― イザヤ 35:10。
1 今日,喜ぶべき特別の理由を持っているのはだれですか。
あなたも恐らく気づいておられることでしょう,今日では一般に,真の喜びを抱いている人はほとんど見られません。とはいえ,エホバの証人は真のクリスチャンとして喜びを抱いています。そして,証人たちと交わっている,さらに幾百万というまだバプテスマを受けていない人たちの前には,若者にも老人にも,その同じ喜びを得る見込みがあります。あなたが今この雑誌のこうした言葉を読んでおられることは,この喜びがすでにあなたのものになっているか,あなたの手の届くところにあることを示しています。
2 クリスチャンの喜びは,大多数の人々に見られる全般的な状態とはどのように対照的ですか。
2 人々は大抵,生活に物足りなさを感じています。あなたはいかがですか。もちろん,使えたらと思う物をすべて持っているわけではないかもしれません。今日の裕福で影響力のある人たちの持っている物を全部手にしているわけでないことは確かです。また,健康や体力に関しても,もっと健康で,もっと体力があればと思っておられるかもしれません。それでも,喜びという点では,地上の幾十億という人々の大多数よりあなたのほうが豊かで恵まれている,と言えます。どうしてでしょうか。
3 わたしたちはどんな意味深い言葉に注意を払うべきですか。なぜそうすべきですか。
3 イエスのこの言葉を思い起こしてください。「わたしがこれらのことをあなた方に話したのは,わたしの喜びがあなた方のうちにあり,あなた方の喜びが満ちるためです」と言われました。(ヨハネ 15:11)「あなた方の喜びが満ちるためです」。なんとすばらしい表現でしょう。クリスチャンの生き方について綿密に調べてみるならば,喜びに満ちているべき多くの理由が明らかになります。しかし,今ここでは,イザヤ 35章10節の意味深い言葉に注目しましょう。それが意味深いのは,その言葉が今日のわたしたちと大いに関係があるからです。こう書かれています。「エホバによって請け戻された者たちが帰って来て,歓呼の声を上げつつ必ずシオンに来るであろう。定めのない時まで続く歓びが彼らの頭の上にあるであろう。彼らは歓喜と歓びを得,悲嘆と溜め息は必ず逃げ去るのである」。
4 イザヤ 35章10節にはどんな喜びのことが述べられていますか。なぜそのことに注意を払うべきですか。
4 「定めのない時まで続く歓び」。「定めのない時まで続く」という表現は,イザヤがヘブライ語で書いた言葉の正確な訳です。しかし,この句における意味は,他の幾つかの聖句からも確認できますが,『永久に続く』ということです。(詩編 45:6; 90:2。イザヤ 40:28)ですから,その喜びは,永遠に喜ぶことが可能な ― 永遠に喜ぶことがふさわしい ― 状態の中で,いつまでも続くのです。非常に喜ばしいものを感じないでしょうか。しかし,もしかしたらあなたは,その節は抽象的な状況について述べているのではないか,とお考えになるかもしれません。そして,『これは実際のところ,日常の問題や関心事とは別で,自分には関係がない』と思われるかもしれません。しかし,事実からすると,そうではありません。イザヤ 35章10節の預言的な約束は,今日のあなたに関係があるのです。どのように関係があるのかを理解するために,この美しい表現に満ちたイザヤ 35章を,文脈をたどりながら調べてみましょう。きっと,理解が深まるのをお感じになるでしょう。
歓ぶ必要のあった人々
5 イザヤ 35章の預言は,どんな預言的背景の中で語られていますか。
5 では,理解の助けとして,興味をそそるこの預言の語られた時代背景を見ておきましょう。ヘブライ人の預言者イザヤは,西暦前732年ごろ,その預言を書き記しました。それはバビロンの軍隊がエルサレムを滅ぼす時より何十年も前のことでした。イザヤ 34章1,2節の言葉からも分かるように,神は,イザヤ 34章6節で言及されているエドムなど,諸国の民に復しゅうを表明する旨を予告しておられました。神は古代バビロニア人を用いてその復しゅうを行なわれたようです。同様に,ユダヤ人が不忠実だったため神はバビロニア人の手によってユダを荒廃させられました。その結果,どうなったでしょうか。神の民は捕らわれの身となり,彼らの生まれ育った国は70年にわたって荒廃したままになりました。―歴代第二 36:15-21。
6 エドム人に臨むことになっていた事柄とユダヤ人に臨むことになっていた事柄との間にはどんな著しい違いがありますか。
6 しかし,エドム人とユダヤ人との間には,一つの重要な相違点があります。エドム人に対する神からの応報は永久的なもので,エドム人はやがて一民族としては姿を消しました。そうです,あなたは,世界的に有名なペトラの遺跡など,かつてエドム人が住んでいた場所の殺伐とした廃墟を今でも訪れることができます。しかし,今日,“エドム人”として知られる国民や民族は存在しません。他方,バビロンによるユダの荒廃は永久のものでしたか。ユダの地はとこしえに喜びのない状態のまま放置されることになっていたでしょうか。
7 バビロンに捕らわれの身であったユダヤ人は,イザヤ 35章にどのように反応したかもしれませんか。
7 この点で,イザヤ 35章のこの驚くべき預言には,心の沸き立つような意味が含まれています。この預言は回復の預言と呼んでよいでしょう。というのは,これはユダヤ人が西暦前537年に故国に帰還した時に,最初の成就を見たからです。バビロンで捕らわれの状態にあったイスラエル人が,自由を与えられて故国に帰還したのです。(エズラ 1:1-11)とはいえ,そのことが起きるまで,バビロンに捕らわれの身で神のこの預言を熟考していたユダヤ人は,自分たちの国民的故国であるユダに戻った暁にはどんな状態を目にすることになるのだろうか,と考えたかもしれません。そして,彼ら自身はどんな状態に置かれるのでしょうか。その答えは,わたしたちには実際になぜ喜び叫ぶべき理由があるのか,という点と直接関係があります。調べてみましょう。
8 ユダヤ人はバビロンから帰還して,どんな状態を目にすることになりましたか。(エゼキエル 19:3-6; ホセア 13:8と比較してください。)
8 ユダヤ人にとって,故国に帰還できると聞いた時でさえ,確かに,状況は幸先のよいものには思えませんでした。彼らの土地は,それまで70年間,つまり人の一生に相当する期間,荒廃していたのです。その地はどうなっていましたか。畑として耕されていた場所も,ぶどう園も果樹園も,すべて荒れ野になっていたことでしょう。灌漑の施されていた園や地域も,衰退して乾燥した荒れ地や砂漠と化していたことでしょう。(イザヤ 24:1,4; 33:9。エゼキエル 6:14)繁殖した野生の動物のことも考えてみてください。それらにはライオンやひょうなどの肉食動物が含まれていました。(列王第一 13:24-28。列王第二 17:25,26。ソロモンの歌 4:8)熊も無視できませんでした。熊には男女子供を打ち殺す力があるのです。(サムエル第一 17:34-37。列王第二 2:24。箴言 17:12)また,まむしや他の毒へび,さそりなどもいたことは言うまでもありません。(創世記 49:17。申命記 32:33。ヨブ 20:16。詩編 58:4; 140:3。ルカ 10:19)あなたは,もし西暦前537年にバビロンから帰還したユダヤ人と一緒にいたとしたら,多分そのような地域で歩き回る気にはなれなかったことでしょう。彼らが到着した時,そこは楽園などではありませんでした。
9 帰還者たちには,どうして希望と確信を抱くだけの根拠がありましたか。
9 それでも,エホバの崇拝者たちを故国へと導かれたのはエホバご自身であり,エホバは荒廃した状態を逆転させる能力をお持ちです。あなたは創造者のその能力を信じておられるのではないでしょうか。(ヨブ 42:2。エレミヤ 32:17,21,27,37,41)では,エホバは帰還したユダヤ人のために,また彼らの土地のために,何を行なうことにされたでしょうか。実際,何を行なわれましたか。このことは現代の神の民に,また現在と将来のあなたの状況に,どんな影響を及ぼすでしょうか。まず,昔のその当時どんなことが起きたかを見てみましょう。
状況が変化したことを喜んだ
10 イザヤ 35章1,2節はどんな変化を予告していましたか。
10 キュロスがユダヤ人にその荒涼とした土地への帰還を許した時,何が起きることになったでしょうか。イザヤ 35章1,2節の,胸の躍るようなこの預言を読んでください。「荒野と水のない地域とは歓喜し,砂漠平原は喜びに満ち,サフランのように花を咲かせる。それは必ず花を咲かせ,喜びと喜びの叫び声とをもって真実に喜びあふれる。レバノンの栄光,カルメルとシャロンの光輝が必ずそれに与えられる。エホバの栄光,わたしたちの神の光輝を見る者たちがいるであろう」。
11 イザヤはその地についてのどんな知識を用いましたか。
11 聖書時代に,レバノンやカルメルやシャロンは,緑の美しいことでよく知られていました。(歴代第一 5:16; 27:29。歴代第二 26:10。ソロモンの歌 2:1; 4:15。ホセア 14:5-7)イザヤは,その地が神の助けによって一変したならどのようになるかを,それらの例を引いて描写しました。では,これは単に土地に及ぼす影響のことだったのでしょうか。決してそうではありません。
12 なぜイザヤ 35章の預言は人々を中心としたものであると言えますか。
12 イザヤ 35章2節では,その地が『喜びと喜びの叫び声とをもって喜びあふれる』と言われています。わたしたちは,土地や植物が文字どおり『喜びをもって喜びあふれた』のではないことを知っています。しかし,土地が一変して肥沃になり,植物がよく実を結ぶようになったために,人々が喜びにあふれるということはあり得ました。(レビ記 23:37-40。申命記 16:15。詩編 126:5,6。イザヤ 16:10。エレミヤ 25:30; 48:33)その地の文字どおりの変化は,その民の変化に対応したものになるはずです。なぜなら,この預言の中心を成しているのは人々だからです。ですから,わたしたちには,イザヤの言葉をおもにユダヤ人の帰還者たちの変化,特に彼らの喜びに焦点を合わせた言葉として理解するべき理由があります。
13,14 イザヤ 35章3,4節は人々に生じるどんな変化を予告していましたか。
13 それで,この励みとなる預言をさらに調べて,それがユダヤ人のバビロンからの解放と帰還の後にどのように成就したかを見てみましょう。3節と4節でイザヤは,それら帰還者たちに生じる他の変化についてこう述べています。「あなた方は弱い手を強くし,よろけるひざをしっかりさせよ。心に思い煩いのある者たちに言え,『強くあれ。恐れてはならない。見よ,あなた方の神はまさに復しゅうをもって,神は実に返報をもって来られる。神ご自身が来て,あなた方を救ってくださる』と」。
14 土地の荒廃した状態を逆転させることのできる,わたしたちの神が,ご自分の崇拝者たちにそのように関心を払ってくださっている,と考えるだけでも心強いことではないでしょうか。神は,捕らわれの状態にあったユダヤ人が気弱になったり落胆したり将来について心配したりすることを望まれませんでした。(ヘブライ 12:12)それらユダヤ人の捕らわれ人の状態を考えてみてください。彼らにとって,自分たちの将来についての神の預言から得られる幾らかの希望を別にすれば,楽観的になるのは難しかったことでしょう。彼らはまるで,暗い牢獄に入れられているかのような状態にあり,自由に動き回ったり活発にエホバに仕えたりすることはできませんでした。彼らにとっては前途に何の光もないかのように思えたとしても無理はないでしょう。―申命記 28:29; イザヤ 59:10と比較してください。
15,16 (イ)わたしたちはエホバが帰還者たちのために何を行なわれたと結論できますか。(ロ)帰還者たちが奇跡的な身体上のいやしを期待していなかったのはなぜですか。神はイザヤ 35章5,6節に調和して何を行なわれましたか。
15 ところが,その状態は,エホバがキュロスに彼らを故国に帰還できるよう釈放させたとき,まさに変化しました。神がそのとき奇跡によって,帰還するユダヤ人のうちの盲人の目を開かれたとか,耳の聞こえない人を聞こえるようにされたとか,体の不自由な人や肢体の一部を失った人をいやされたとかいう聖書的な証拠はありません。しかし,神は実際にそれよりはるかに大いなることを行なわれました。彼らをその愛する郷土の光と自由へと復帰させられたのです。
16 帰還者たちがエホバによるそのような奇跡的な身体上のいやしを期待していたと思わせるようなところは何もありません。彼らは神がイサクやサムソンやエリに関してそのようにはされなかったことをよく知っていたに違いありません。(創世記 27:1。裁き人 16:21,26-30。サムエル第一 3:2-8; 4:15)しかし,もし神の力による自分たちの状態の逆転を比喩的なものとして期待していたのであれば,失望することはありませんでした。確かに,5節と6節の言葉は,比喩的な意味で真の成就を見ました。イザヤは正確にこう予告していました。「その時,盲人の目は開かれ,耳の聞こえない者の耳も開けられる。その時,足のなえた者は雄鹿のように登って行き,口のきけない者の舌はうれしさの余り叫びを上げる」。
その地を楽園のようにする
17 エホバはどんな物理的変化をもたらされたと考えられますか。
17 それら帰還者たちには,確かに,イザヤが続けて描写したような状態のことでうれしさの余り叫びを上げる理由があったことでしょう。「荒野に水が,砂漠平原に奔流が噴き出るからである。そして,熱で渇き切った地は葦の茂る池となり,渇いた地は水の泉となるからである。ジャッカルの住まい,その休み場には,葦やパピルスの植物と共に青草があるであろう」。(イザヤ 35:6後半,7)わたしたちは今日その地域全体がそうなっているのを見ていないかもしれませんが,証拠からすると,かつてのユダの地域は「牧歌的な楽園」だったようです。a
18 ユダヤ人の帰還者たちは神の祝福にどのように反応したでしょうか。
18 喜びのいわれとなったものについては,ユダヤ人の残りの者たちが約束の地に帰還した時にどのように感じたかを考えてみてください。彼らはジャッカルやその種の動物の住む荒れた土地を開墾して一新することのできる立場にあったのです。あなたもその場にいたとすれば,そのような復興の仕事に携わることに喜びを感じたのではないでしょうか。とりわけ,自分の努力が神に祝福されているのを知っていたのであれば,喜びを感じたことでしょう。
19 バビロンでの捕らわれから解かれて帰還することは,どのような意味で条件付きの事柄でしたか。
19 しかし,バビロンに捕らわれの身となっていたユダヤ人ならだれでも,変革をもたらすその喜ばしい業に加わるために戻って行くことができた,もしくは戻って行ったというわけではありません。神は条件を設けておられました。バビロン的な異教の風習に染まって汚れていた人には帰還する権利がありませんでした。(ダニエル 5:1,4,22,23。イザヤ 52:11)また,愚かにも自ら賢明でない歩み方をしていた人も,帰還できませんでした。そのような人はだれも資格にかなっていませんでした。一方,神の規準を満たし,神から相対的な意味で聖なる者とみなされた人たちは,ユダへ戻って行くことができました。あたかも“神聖の道”を行くかのように,旅路を進むことができたのです。イザヤはそのことを8節ではっきりこう述べています。「そこには必ず街道が,道が生じ,それは“神聖の道”と呼ばれるであろう。清くない者がそこを通って行くことはない。そして,それは道を行く者のためのものであり,愚かな者がそこをうろつくことはない」。
20 ユダヤ人は帰還する際,どんなことを心配する必要はありませんでしたか。それはどんな結果になりましたか。
20 帰還するユダヤ人は,獣のような人たちや略奪者の一味に襲われはしないかと心配する必要はありませんでした。なぜでしょうか。なぜなら,エホバはご自分の買い戻された民の歩むその道にそのような者たちがいることをお許しにならなかったからです。ですから,彼らは喜びに満ちた心と幸せな見込みを抱いて旅をすることができたのです。イザヤがこの預言の結びにそのことをどのように描写しているか,注目してください。「ライオンもそこにはいない。飽くことを知らない野獣もそこに上って来ることはない。どれもそこには見いだされない。買い戻された者たちは必ずそこを歩く。そして,エホバによって請け戻された者たちが帰って来て,歓呼の声を上げつつ必ずシオンに来るであろう。定めのない時まで続く歓びが彼らの頭の上にあるであろう。彼らは歓喜と歓びを得,悲嘆と溜め息は必ず逃げ去るのである」― イザヤ 35:9,10。
21 今日のわたしたちは,すでに起きたイザヤ 35章の成就をどのようにみなすべきですか。
21 これはなんと美しい預言的描写でしょう。しかし,わたしたちはこれを,自分たちの今の状況や将来にはほとんど関係のない一つの麗しい記述でもあるかのように,単なる過去の歴史を扱ったものとみなすべきではありません。実のところ,この預言は今日,神の民の間に驚くべき成就を見ています。ですから,実際にわたしたち一人一人に関係しているのです。このことはわたしたちにとって,喜び叫ぶべき確かな理由となっています。あなたの今の生活と将来の生活に関係するそれらの面については,次の記事で扱われます。
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今,そして永久に喜ぶものみの塔 1996 | 2月15日
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今,そして永久に喜ぶ
「あなた方はわたしが創造しているものに永久に歓喜し,それを喜べ。いまわたしは,エルサレムを喜びのいわれ,その民を歓喜のいわれとして創造しているからである」― イザヤ 65:18。
1 真の崇拝はこれまで何世紀にもわたって個々の人々にどのような影響を与えましたか。
これまで何世紀もの間に,数え切れないほど多くの人が,まことの神エホバに仕えて深い喜びを味わいました。ダビデも,真の崇拝にあって喜びに満ちていた人の一人です。聖書には,契約の箱がエルサレムに運ばれた時,「ダビデとイスラエルの全家は,歓声を上げ,角笛を鳴らしながら,エホバの箱を運び上っていた」と述べられています。(サムエル第二 6:15)エホバに仕えるときのそのような喜びは,単なる過去の事柄ではありません。あなたもその喜びにあずかれます。しかも,間もなく,その喜びに新たな喜びを加えることさえできるのです。
2 ユダヤ人の帰還者たちに関するイザヤ 35章の当初の成就以外のもう一つの成就に,今日だれが関係していますか。
2 前の記事で,わたしたちは,イザヤ 35章に記されている,励みとなる預言の最初の成就について調べました。わたしたちはこの預言をまさしく回復の預言と呼ぶことができます。なぜなら,昔のユダヤ人にとってそのような結果になったからです。そして,その預言には現代にも同様の成就があります。どのようにでしょうか。それはこういうことです。エホバは,西暦33年のペンテコステの日以来イエスの使徒たちや他の人々をはじめとする,霊的イスラエル人とかかわりを持ってこられました。これらの人は神の聖霊で油そそがれた人たちで,使徒パウロの言う「神のイスラエル」の一部になる人たちです。(ガラテア 6:16。ローマ 8:15-17)また,ペテロ第一 2章9節では,それらのクリスチャンのことが,「選ばれた種族,王なる祭司,聖なる国民,特別な所有物となる民」と呼ばれていることも思い起こしてください。ペテロは続いて,霊的イスラエルに割り当てられた仕事が何であるかを明らかにし,『あなた方は闇からご自分の驚くべき光の中に呼び入れてくださった方の「卓越性を広く宣明する」べきである』と述べています。
現代における成就
3,4 イザヤ 34章が現代に成就した時の状況はどのようなものでしたか。
3 今世紀の初めごろ,地上の霊的イスラエルの残りの者たちがそのような音信を宣明する点で首尾一貫した活発さを保っていなかった時がありました。彼らは,神の驚くべき光の中で十分に歓んではいなかったのです。実際,彼らは相当な闇の中にいました。それはいつのことでしたか。それに関し,エホバ神は何を行なわれたでしょうか。
4 それは,1914年に神のメシアによる王国が天に設立されたすぐ後の,第一次世界大戦中のことでした。諸国民は様々な国や地域の教会の僧職者たちに支援され,互いに対して憤っていました。(啓示 11:17,18)もちろん,神は,背教したキリスト教世界とその高められた僧職者階級に対し,高慢な国民エドムに反対したのと同じように,反対しておられました。したがって,対型的エドムであるキリスト教世界は,イザヤ 34章の現代における成就の影響を受けることになります。永久に滅ぼし絶やされることによる今度の成就は,古代のエドムに対する最初の成就と全く同様,確実です。―啓示 18:4-8,19-21。
5 イザヤ 35章は現代にどんな成就を見ていますか。
5 では,喜びを強調している,イザヤの預言の35章についてはどうでしょうか。その預言も現代に成就しています。どのようにでしょうか。それは,霊的イスラエルが一種の捕らわれの状態から回復するという形で成就してきました。その事実を,今も健在な多くの人の生涯中に起きた,事実上,近代の神権的歴史と言える出来事の中から幾つか調べてみましょう。
6 霊的イスラエルの残りの者たちが捕らわれの状態に陥ったと言えるのはなぜですか。
6 霊的イスラエルの残りの者たちは,第一次世界大戦中,比較的短期間のことでしたが,十分な清さを保たず,神のご意志に調和した行動を取っていませんでした。一部の人たちは,教理上の誤りによって汚点を付けられ,交戦中の諸国家を支持するよう圧力を受けたときエホバの側にはっきりした立場を取らずに妥協しました。戦時下のその当時,彼らはあらゆる形の迫害に遭いました。出版していた聖書関係の文書も多くの場所で発禁処分に付されました。そしてついに,比較的著名な兄弟たちのうちの幾人かが,偽りに基づいた告発によって有罪とされ,投獄されてしまいました。振り返ってみれば,ある意味で,神の民は自由ではなく捕らわれの状態にあった,ということを理解するのは難しくありません。(ヨハネ 8:31,32と比較してください。)彼らは霊的な視力をひどく欠いていました。(エフェソス 1:16-18)また,神を賛美することに関しては相対的な意味で口のきけない状態で,霊的には実を結ばない者となりました。(イザヤ 32:3,4。ローマ 14:11。フィリピ 2:11)こうした状態が,バビロンに捕らわれの身となっていた古代ユダヤ人の状況にどのように類似しているか,お分かりですか。
7,8 現代の残りの者たちは,どんな種類の回復を経験しましたか。
7 では,神はご自分の現代の僕たちをそうした状態のままにされたでしょうか。いいえ,イザヤを通して予告されていた事柄と一致して,神は彼らを回復させようと決心しておられました。ですから,35章のこの同じ預言は現代に明確な成就を見ます。霊的イスラエルの残りの者たちが,霊的パラダイスでの繁栄と健康へと回復するのです。パウロは,ヘブライ 12章12節でイザヤ 35章3節を比喩的な意味で適用しており,これはイザヤの預言のこの部分を霊的な意味で適用することの妥当性を支持するものとなっています。
8 戦後の時期になって,霊的イスラエルの残っている油そそがれた者たちは,言わば捕らわれの状態から出て来ました。エホバ神は,大いなるキュロスであるイエス・キリストを用いて彼らを解放されました。そのため,この残りの者たちは,故国に戻ってエルサレムに文字どおりの神殿を再建した古代ユダヤ人の残りの者の業に匹敵する,再建の業を行なうことができました。それだけでなく,現代のこれら霊的イスラエル人は,土地を耕して緑豊かな霊的パラダイス,比喩的なエデンの園を作り上げる業に着手することもできたのです。
9 イザヤ 35章1,2,5-7節で描写されているような事柄は,現代においてどのように生じましたか。
9 以上のことを念頭に置いて,もう一度イザヤ 35章を考慮しましょう。まず,1節と2節を見てください。水のない地域のように思えた所が実際に花を咲かせて古代のシャロンの平原のように産出的になり始めました。次に,5節から7節を見てください。残りの者たちは理解の目を開かれました。彼らのうちの幾人かは今なお健在で,エホバへの奉仕を活発に行なっています。彼らは1914年およびそれ以降に起きた事柄の意味をよりよく理解することができました。そのことが,今残りの者たちと相並んで奉仕している「大群衆」を構成するわたしたちの多くにも影響を及ぼしているのです。―啓示 7:9。
あなたはその成就に含まれていますか
10,11 (イ)イザヤ 35章5-7節の成就に,あなたはどのように関係していますか。(ロ)あなたはそうした変化について個人的にどう感じていますか。
10 例えば,ご自分のことを考えてみてください。あなたはエホバの証人と接するようになる前,聖書を定期的に読んでおられましたか。たとえ読んでいたとしても,どれほど理解しておられましたか。あなたは今,例えば,死者の状態に関する真理を知っておられます。多分,そういう事柄に関心を持っている人には,創世記 2章,伝道の書 9章,エゼキエル 18章,その他多くの箇所にある,関連した聖句を示すことができるでしょう。そうです,あなたは恐らく多くの事柄に関する聖書の教えを理解しておられることでしょう。端的に言えば,あなたは聖書を理解でき,その教えの多くを他の人に説明することができるのです。きっとそうしてこられたに違いありません。
11 しかし,わたしたちは各自,『自分は聖書の真理について知っていることすべてをどのようにして学んだだろうか。エホバの民と研究をするようになる前から,今挙げられた聖句をすべて知っていただろうか。それらを理解し,その意味について正しい結論に達していただろうか』と自問してみるとよいでしょう。それらの問いに対しては,率直に言って,多分,いいえ,というのが答えでしょう。そう言われても,だれも気を悪くすべきではありません。あなたは元々それらの聖句とその意味に関して盲目だったと言えます。そうではないでしょうか。それらの聖句は聖書中のそこにありましたが,あなたにはそれが見えませんでした。その意味が把握できなかったのです。では,どのようにしてあなたの目は霊的に開かれましたか。それは,エホバが,油そそがれた残りの者たちに関してイザヤ 35章5節を成就する際に行なってこられた事柄によってです。次いで,あなたの目も開かれました。もはや霊的な闇の中にはいません。あなたは見ることができるのです。―啓示 3:17,18と比較してください。
12 (イ)今は奇跡的な身体上のいやしが施される時ではない,と言えるのはなぜですか。(ロ)F・W・フランズ兄弟の例は,どのように現代におけるイザヤ 35章5節の成就の仕方を示すものとなっていますか。
12 聖書と,何世紀にもわたる神の物事の扱いを熱心に研究してきた人たちは,歴史の上で今は身体的ないやしの奇跡が起きる時期ではないことを理解しています。(コリント第一 13:8-10)ですから,わたしたちは,イエス・キリストが神の預言者なるメシアであることの証拠として盲人の目を開けられる,とは期待しません。(ヨハネ 9:1-7,30-33)また,イエスは耳の聞こえない人がみな再び聞こえるようにしておられるわけでもありません。油そそがれた者の一人で,当時ものみの塔協会の会長であったフレデリック・W・フランズは,年齢が100歳近くになっていたころ,目はほとんど見えず,耳も補聴器を使わなければならない状態でした。何年かは,もはや文章を見て読むことはできませんでした。しかし,そのフランズ兄弟のことを,イザヤ 35章5節で言われている意味での盲人あるいは耳の聞こえない者と考える人がだれかいたでしょうか。いいえ,同兄弟に鋭い霊的な視力があったことは,全地にいる神の民にとって祝福だったのです。
13 神の現代の民はどんな逆転や回復を経験しましたか。
13 また,あなたの舌についてはどうでしょうか。神の油そそがれた者たちは,霊的な捕らわれの状態にあった間,沈黙していたかもしれません。ところが,いったん神がその状態を逆転させるや,彼らの舌は,神の設立された王国や将来に関する神の数々の約束について知った事柄のことで,うれしさの余り叫びを上げるようになりました。彼らはあなたの舌も言葉を出せるようあなたを助けてきたかもしれません。あなたはこれまで他の人々にどれほど聖書の真理を話しましたか。もしかしたら,かつては,『研究するのは楽しいけれど,出かけて行って見ず知らずの人に話をすることなど自分にはできない』と考えたことがあったかもしれません。ところが,どうでしょう。「口のきけない者の舌」が今では『うれしさの余り叫びを上げている』のではないでしょうか。―イザヤ 35:6。
14,15 多くの人はどのように現代の「“神聖の道”」を歩んできましたか。
14 バビロンから解放された古代のユダヤ人は,故国に戻るために長い旅をしました。その点は現代のどんなことに相当するでしょうか。では,イザヤ 35章8節をご覧ください。こう述べられています。「そこには必ず街道が,道が生じ,それは“神聖の道”と呼ばれるであろう。清くない者がそこを通って行くことはない」。
15 油そそがれた残りの者たちは,霊的な捕らわれの状態から解放されて以来,大いなるバビロンから出て一本の比喩的な街道を,つまり人を霊的パラダイスに導く清い神聖の道を進んできました。今では何百万人ものほかの羊が彼らと一緒に進んでいます。わたしたちはこの“神聖の街道”を行く資格を身に着けるため,またその道にとどまるためにあらゆる努力をしています。ご自分のことを考えてみてください。今あなたが守っている道徳規準や付き従っている種々の原則は,かつて世にいたころよりずっと高いものになっているのではないでしょうか。今では自分の考えや行ないを神の考えや行ないに合わせるよう以前にもまして努力しておられるのではありませんか。―ローマ 8:12,13。エフェソス 4:22-24。
16 わたしたちは“神聖の道”を歩むとき,どんな状態を楽しめますか。
16 あなたはこの“神聖の道”を歩みつづけるとき,基本的に言って,獣のような人々について心配しません。確かに,この世では,貪欲な人や憎しみを抱いた人に比喩的な意味でむさぼり食われることがないよう警戒していなければなりません。他の人を搾取する貪欲な人がかつてなく多くなっています。それに比べ,神の民の間ではなんという違いでしょう。その民の間にいるあなたは,保護された環境の中にあるのです。もちろん,仲間のクリスチャンは完全ではありません。時には,過ちを犯したり,人の気に障るようなことをしたりすることもあります。しかし,ご存じのように,兄弟たちは決してあなたを傷つけようとかむさぼり食おうとかしているのではありません。(詩編 57:4。エゼキエル 22:25。ルカ 20:45-47。使徒 20:29。コリント第二 11:19,20。ガラテア 5:15)それどころか,あなたに関心を示しており,助けを差し伸べてきましたし,あなたと一緒にエホバに仕えたいと思っているのです。
17,18 どんな意味で,今,パラダイスが存在していますか。このことからわたしたちはどんな影響を受けていますか。
17 ですから,わたしたちはイザヤ 35章を,1節から8節の今日における成就を思いに留めながら見てゆくことができます。わたしたちがまさしく霊的パラダイスと呼べる所にいることは明らかではないでしょうか。もちろん,そのパラダイスは,まだ完全ではありません。とはいえ,それは実際にパラダイスです。というのは,2節で述べられているように,わたしたちはここですでに「エホバの栄光,わたしたちの神の光輝を見る」ことができるからです。それはどんな影響を及ぼしているでしょうか。10節にはこう述べられています。「エホバによって請け戻された者たちが帰って来て,歓呼の声を上げつつ必ずシオンに来るであろう。定めのない時まで続く歓びが彼らの頭の上にあるであろう。彼らは歓喜と歓びを得,悲嘆と溜め息は必ず逃げ去るのである」。確かに,わたしたちにとって,偽りの宗教から出て神の恵みのもとに真の崇拝を行なうようになったことは,喜びを生じさせるものとなっています。
18 真の崇拝に関連したその喜びは増し加わる一方ではないでしょうか。あなたは新たに関心を抱くようになった人たちが聖書の真理の基礎的な教えを受けて色々な面で変化してゆくのを見ておられます。若い人たちが成長して会衆内で霊的な進歩を遂げてゆくのも観察しておられます。また,バプテスマの機会もあります。その時には,自分の知っている人がバプテスマを受けるのを見守ります。こうしたことを考えると,今日,喜ぶのは,いえ,喜びにあふれるのは当然のことではないでしょうか。そうです,他の人々もわたしたちに加わって霊的な自由とパラダイスの状態を楽しむようになるのは,なんと喜ばしいことでしょう。
前途にもなお成就がある
19 イザヤ 35章はわたしたちにどんな希望に満ちた期待を抱かせますか。
19 わたしたちはこれまでイザヤ 35章を,ユダヤ人の帰還に関連した最初の成就と,今日進行している霊的な成就に関して考慮してきました。しかし,これで終わりというわけではありません。まだ多くのことがあるのです。それは,やがて地上に文字どおりパラダイスの状態が回復するという,聖書の確かな約束と関連しています。―詩編 37:10,11。啓示 21:4,5。
20,21 イザヤ 35章はさらにもう一度成就すると信じるのは,なぜ論理的で聖書的なことですか。
20 エホバが楽園を生き生きと描写しながら,その成就を霊的な事柄だけで終わらせるとしたら,それは首尾一貫したことではないでしょう。これは,もちろん,霊的成就に大した意味はないということではありません。たとえ文字どおりの楽園が確立されたとしても,もし,美しい景色やおとなしい動物たちの中にあって,霊的に腐敗した人,獰猛な獣のような行動をする人間に囲まれているとしたら,それは満足のゆくものとはならないでしょう。(テトス 1:12と比較してください。)そうです,まず霊的パラダイスがなければなりません。それが最も重要なのです。
21 とはいえ,来たるべきパラダイスは,わたしたちが今楽しんでおり,将来さらに楽しめる霊的な面だけで終わるのではありません。わたしたちは十分の根拠に基づいて,イザヤ 35章のような様々な預言の文字どおりの成就を期待することができます。なぜでしょうか。実のところ,イザヤは65章で「新しい天と新しい地」を予告しており,使徒ペテロはエホバの日に続く事柄を描写した際にその言葉を引用しているのです。(イザヤ 65:17,18。ペテロ第二 3:10-13)ペテロは,「新しい地」が現実となる時に,イザヤの描写した様々な特色が実際に存在するようになる,ということを示していました。そうした特色には,あなたもよく知っておられるかもしれない描写が含まれます。家を建てて住み,ぶどう園を設けてその実を食べ,自分の手の業を長く楽しみ,おおかみと子羊が一緒にいて,全地のどこにも害は生じない,という描写です。言い換えれば,長寿と安全な住居が保障され,食物が豊かにあり,満足のゆく仕事があり,動物同士また動物と人間の間に平和な関係があるのです。
22,23 イザヤ 35章の将来の成就には,喜びのどんな根拠がありますか。
22 そのような見込みを考えると,喜びが込み上げてくるのではないでしょうか。込み上げてくるはずです。神はわたしたちをそのような生活をするように創造されたからです。(創世記 2:7-9)そうであれば,そのことはわたしたちが考慮しているイザヤ 35章の預言に関して何を意味するでしょうか。それは,わたしたちには喜び叫ぶべき付加的な理由があるということです。文字どおりの砂漠や水のない地域に花が咲き乱れるようになれば,それは歓びのいわれとなります。青い瞳,褐色の瞳,あるいは他の美しい色の瞳を持つ,今は目の見えない人々も,その時には,見ることができるようになります。耳の聞こえない仲間のクリスチャン,あるいは難聴の人たちも,はっきり聞こえるようになります。その能力を用いて,神の言葉が読まれ説明されるのを聞き,また風にそよぐ木の葉の音や,子供の楽しそうな笑い声,鳥の美しいさえずりなどを聴くのは,なんという喜びでしょう。
23 それはまた,いま関節炎を患っている人をも含め,足のなえた人たちが何の痛みもなく動き回れるようになることをも意味します。なんという解放感でしょう。その時には,砂漠の中を文字どおり水の奔流が勢いよく流れることでしょう。わたしたちは,その逆巻く水を見ることもできれば,そのほとばしる音を聞くこともできます。そこを散歩して,青草やパピルスに触ってみることもできます。まさに,そこにはパラダイスが回復されているのです。ライオンやそのような他の動物に恐れを感じることなく近寄れるという喜びはどうでしょうか。それはここであえて描写するまでもないでしょう。わたしたちは皆すでにそのような情景の快さを思い巡らしたことがあるからです。
24 あなたはなぜイザヤ 35章10節の表現に同意できますか。
24 イザヤは確信をこめてこう述べています。「エホバによって請け戻された者たちが帰って来て,歓呼の声を上げつつ必ずシオンに来るであろう。定めのない時まで続く歓びが彼らの頭の上にあるであろう」。ですから,わたしたちは,喜び叫ぶべき理由があることに同意できます。わたしたちは,エホバがこの霊的パラダイスにおいてご自分の民のためにすでに行なっておられる事柄を見る時,また間もなく実現する文字どおりのパラダイス,楽園において期待できる事柄を思う時,喜び叫ばずにはいられないのです。イザヤは,喜びにあふれている者たち,すなわちわたしたちについて,こう書いています。「彼らは歓喜と歓びを得,悲嘆と溜め息は必ず逃げ去るのである」。―イザヤ 35:10。
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