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すべての人のための公正 ― 果たして実現するかものみの塔 1989 | 2月15日
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すべての人のための公正 ― 果たして実現するか
歴史的に有名なロンドンのオールド・ベイリー,つまり中央刑事裁判所を訪れる人は,建物の頂にある,公正を象徴する女性像を目にします。その像は,証拠が注意深く検討されることを示す天秤ばかりを一方の手に持ち,無実の者を保護し有罪の者を処罰するために,一方の手で剣を握っています。他の多くの場所にもこれに似たシンボルがあり,偏り見ないことを表わすために“正義の女神”が目隠しされていることもあります。a
しかし,『この女性が象徴しているもの,つまりすべての人のための公正がどこかの国に本当に存在するのだろうか』という疑問が生じるかもしれません。もちろん,どんな国にも法律があり,法律を施行する人たちがいて,裁判官や裁判所が存在します。確かに,何らかの信念を持つ多くの人は,人権を擁護するために,またすべての人が等しく公正に扱われるようにするため努力してきましたが,そのような努力がほとんど実を結んでいないことは明らかです。わたしたちは毎日のように,腐敗や不平等や不公正を目にしたり,聞いたり,読んだりしています。
法廷に呼び出された女性の例を考慮してください。有罪か無罪かがまだ証明されないうちに,判事は不義の関係を結ぶためでしょう,自分とモーテルで会ってくれれば,彼女に対する告訴を「うまく扱う」ようにしてもよい,とその女性に知らせました。そうです,公正を保障するはずの人々が腐敗していたり,無力だったりすることがよくあるのです。タイム誌は米国の一つの州について述べましたが,その州では高等裁判所の判事の5分の3が,不正行為を働いて仲間の裁判官を助けたとして告発されました。
さらに,処罰を免れ続けている犯罪者のことを知らされる時,多くの人は非常に世をすねた態度を取るようになり,これで自分も法律を破りやすくなる,と考えます。(伝道の書 8:11)オランダについて次のように記されています。「犯罪を生み出しているのは,何でも許容する態度を助長している政治家だというオランダ人が多い。裁判所,とりわけ極めて軽い判決,時にはいやに寛大な判決を下し続ける……裁判官を非難する人もいる」。しかし,わたしたちが切実に必要としている公正には,警察や司法制度を正す以上のことが含まれています。
貧しい一般大衆が経済面での不公正を経験している一方で,少数の富んだ人たちがいよいよ富んでゆく国が多いことは,ご承知のとおりです。皮膚の色,民族的な背景,言語,性,宗教などが原因で,状況を改善する機会も,自分自身の生活を支える機会もあまりないとき,この種の不公正は蔓延してゆきます。その結果,幾百万もの人々が貧困と飢えと病気にあえぎます。富んだ国では多くの人が最新の医療から益を得ていても,膨大な数の人々が,基本的な薬はおろか,きれいな水さえ手に入らずに苦しみ,死んでゆきます。そのような人たちに公正について話してみてください。彼らには,揺りかごから墓場まで,不公正がつきまとっています。―伝道の書 8:9。
また,人間が制御できないように思える,不公正と言えそうな事柄についてはどうでしょうか。盲目,知恵遅れ,身体的な奇形など,先天的な欠陥を持って生まれてくる赤ちゃんについて考えてください。近くにいるほかの女性は健康な赤ちゃんを抱き締めているのに,自分の赤ちゃんは手足が不自由です。あるいは死んでしまいます。そのような場合,その女性はそれを公正なことと考えるでしょうか。次に取り上げることから分かるように,そうした一見不公正に思える事柄は正されることになります。
しかし,ここまでくると,あなたは伝道の書 1章15節の言葉に同意されるのではないでしょうか。この聖句では,賢明で経験を積んだ王が,人間の観点から,「曲がっているものは,まっすぐにすることはできない。欠けているものは,到底数えることはできない」ということを認めています。
その王よりも有名なのはイエス・キリストです。ルカ 18章1節から5節には,「神への恐れを抱かず,人に敬意も持たない」裁き人についてイエスの語られた例えがあります。公正に扱ってもらう法的な権利を有していたやもめは,そうした扱いを裁き人に懇願し続けましたが,イエスは,この邪悪な裁き人は女に懇願されてうるさくなったので女を助けたにすぎないと言われました。ですからイエスは,不公正がはびこっている状態をご存じだったことが分かります。実際イエスご自身,後にひどく苦しめられ,でっち上げられた罪に問われて処刑されましたが,これも公正が行なわれなかった甚だしい例です。
多くの人は,不正に心を留めておられる神が存在すると信じています。法王ヨハネ・パウロ2世は中央アメリカのある国でのミサの際にこう語りました。「人間が人間を虐げ,人権を蹂躙し,人間に対して甚だしく不公正なことを行ない,ひどく苦しめ,家に押し入って誘拐し,人間の生きる権利を侵害するとき,それは犯罪であり,神に対する重大な違反行為である」。これは名言です。しかし,不正はとどまるところを知りません。その国では,5歳以下の子供たち10人のうち8人までが栄養失調に苦しめられており,耕作地の8割は国民の2%に所有されています。
では,こうした甚だしい不公正を本当に心に留めておられる神,あなたに影響を及ぼす不公正を懸念しておられる神が実在するのでしょうか。その神は本当に公正が実現するよう配慮してくださるのでしょうか。
[脚注]
a 表紙の写真はドイツのフランクフルト市にあるユースティティア・ファウンテンの像。このページの像は米国ニューヨーク市ブルックリンにある役所の建物の頂にあるもの。
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真の公正をだれに期待することができますかものみの塔 1989 | 2月15日
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真の公正をだれに期待することができますか
「全地の裁き主は公正を行なわれるのではありませんか」― 創世記 18:25,フェラー・フェントン訳,現代英語による聖書。
1,2 多くの人は,蔓延する不公正に対してどのように反応しますか。
あなたは不公正がはびこっていることを残念に思われるでしょう。あなた個人は真の公正の欠如が蔓延している事態にどう反応しますか。
2 中には,公正な神の存在を疑問視するという反応を示す人もいます。そして,自分は不可知論者だと主張することさえあるかもしれません。その言葉はお聞きになったことがあるでしょう。不可知論者とは,「(神のような)究極的な実体は知られておらず,恐らく知ることもできない」と考える人のことです。“不可知論者”という語をそのような意味で初めて使ったのは,ダーウィンの進化論を支持した19世紀の生物学者,トマス・H・ハクスリーでした。a
3,4 “不可知論者”という語にはどんな背景がありますか。
3 しかし,ハクスリーは“不可知論者”という語をどこから借用したのでしょうか。実は,1世紀の律法学者,使徒パウロが別の意味で用いた表現を引用していたのです。その表現は大変有名な話の一つに出てきます。それは今日とも関係のある話です。その話には,すべての人のための公正がいつどのように行き渡るか,またわたしたちが個人的にそこからどのように益を得るかを知るための確かな土台が示されているからです。
4 “不可知論者”(“知られていない”の意)という語は,「知られていない神に」と刻まれた祭壇に言及したパウロの言葉から取られました。医師ルカはその短い話を,史実に基づく「使徒たちの活動」の17章に記しました。その章はまず,パウロがアテネにやって来たいきさつを示しています。この記事の囲み(6ページ)には,ルカによる前置きの情報と,話の全文が示されています。
5 パウロはどのような状況のもとで,アテネ人に話しましたか。(使徒 17章16-31節を読んでもらう。)
5 パウロの話は実に力強く,わたしたちが注意深く考慮するだけの価値があります。わたしたちは甚だしい不公正に囲まれているので,この話から多くを学べます。まず,使徒 17章16節から21節に記されている状況に注目してください。アテネ人は,ソクラテス,プラトン,アリストテレスなどが人々を教えた,有名な学問の中心地で生活できることを誇りに思っていました。アテネは非常に宗教的な都市でもありました。パウロは自分の周囲のどこを見ても偶像があることに気づきました。戦争の神アレスつまりマルス,ゼウス,医学の神アエスクラピウス,荒々しい海の神ポセイドン,ディオニソス,アテナ,エロスなどの偶像です。
6 あなたの住む地域と,パウロがアテネで見たものとの間には,どのような類似性がありますか。
6 しかし,あなたの住む町や地域をパウロが視察したならどうですか。パウロはキリスト教世界の国々においてさえ,偶像や宗教的な彫像を多く目にするかもしれません。ほかの国では,さらに多くの像を見ることでしょう。あるガイドブックは,「インドの神々は気まぐれなギリシャの“兄弟たち”とは違い,一夫一婦主義で,最も印象的な力の一部は,伴侶の女性に付与された。……あらゆる形態の生物や自然を扱う無数の神々が存在すると言っても過言ではない」と述べています。
7 古代ギリシャの神々はどのような神々でしたか。
7 ギリシャの多くの神々は狭量で非常に不道徳な神として描写されました。その神々の行状は,今日のほとんどの国において,人間の恥,いや犯罪行為とされるでしょう。ですから,当時のギリシャ人がそういう神々にどんな種類の公正を期待できたか疑わしいと考えるのは,ごく当然です。それでもパウロは,アテネ人がそれらの神々に特に傾倒していることに気づき,正しい確信に満ちて,真のキリスト教の高潔な真理を説明し始めます。
挑戦的な聴衆
8 (イ)どんな考えと見方がエピクロス派の特色となっていましたか。(ロ)ストア派は何を信じていましたか。
8 一部のユダヤ人とギリシャ人は興味を持って耳を傾けましたが,強い影響力を持っていたエピクロス派とストア派の哲学者たちはどんな反応を示しましたか。おいおい理解できますが,彼らの考えは多くの点で今日の一般的な考えに,また若者たちが学校で教えられる事柄にも似ていました。エピクロス派は,できるだけ多くの快楽,特に精神的な快楽を得るために生きることを勧めました。「食べたり飲んだりしよう。明日は死ぬのだから」というその人生観には,原則や徳が欠けているという特色がありました。(コリント第一 15:32)彼らは神々が宇宙を創造したとは考えず,生物は機械的な宇宙内に偶然に生じた,さらに,神々は人間に関心を抱いていないと考えました。ストア派についてはどうですか。彼らは物質と力が宇宙内の基本的な原理であると考え,論理を強調しました。ストア派は人格的存在としての神を信じるのではなく,非人格的な神を想定しました。人間の物事は運命によって支配されるとも考えていました。
9 パウロの置かれていた状況が,宣べ伝える点で挑戦となる状況だったのはなぜですか。
9 そのような哲学者たちはパウロが公に教えた事柄にどう反応しましたか。当時のアテネ人には,特徴として,好奇心と尊大な精神が混在していたので,それらの哲学者はパウロと議論を始め,結局はパウロをアレオパゴスに連れて行きました。アテネの市場よりも高いとはいえ,そびえ立つアクロポリスよりは低い所に,戦争の神マルスもしくはアレスにちなんでマルスの丘,つまりアレオパゴスと呼ばれる小高い岩山がありました。昔はそこで裁判や会議が行なわれました。ですからパウロは,堂々たるアクロポリスと有名なパルテノン,それに他の神殿や彫像が見える場所で開かれたであろう法廷に連れて来られたのかもしれません。新しい神々の紹介はローマの法律によって禁じられていたので,同使徒は危険な状態にあったと考える人もいますが,たとえアレオパゴスに連れて来られた目的が,単に自分の信条を明らかにすること,あるいは自分の教え手としての資格を示すことだったとしても,パウロは手ごわい聴衆を前にしていました。パウロは,聴衆の気持ちを遠ざけないように,肝要な音信を説明できるでしょうか。
10 パウロは自分の情報を紹介するにあたって,どのように機転をきかせましたか。
10 使徒 17章22節と23節を見て,パウロが巧みに,知恵をもって話を始めたことに注意してください。聴き手のある人たちは,アテネ人がいかに信心深く,いかに多くの偶像を有しているかということをパウロが認めた時,それを賛辞として受け止めたかもしれません。パウロは彼らの多神教を攻撃せず,自分が目にした,「知られていない神に」献じられた祭壇に焦点を合わせました。歴史上の証拠は,そのような祭壇があったことを証明していますが,それはルカの記述に関する確信を強めるはずです。パウロはこの祭壇を話の踏み台として用いました。アテネ人は知識と論理を高く評価していましたが,それでも自分たちには「知られていない」(ギリシャ語,アグノーストス)神がいることを認めました。ですから,パウロがその神について説明するのを彼らが許したのは,必然的な行為でした。その論議を非難できる人は一人もいなかったのではないでしょうか。
神を知ることはできないのか
11 パウロはどのような方法を用いて,聴衆がまことの神について考えるように仕向けましたか。
11 では,その「知られていない神」とはどのような神でしたか。その「神」は世界とその中のすべてのものを造られました。宇宙が存在し,動植物が存在し,わたしたち人間が存在することを否定する人は一人もいないでしょう。このすべてのうちに明らかに見られる力や理知,そして知恵は,それが偶然の所産ではなく,知恵と力に満ちる創造者から生じたものであることを物語っています。実際,パウロのこの論議の筋には,現代でも当時にまさる説得力があります。―啓示 4:11; 10:6。
12,13 現代のどんな証拠は,パウロが指摘した点を裏づけていますか。
12 それほど前ではありませんが,英国の天文学者バーナード・ロベール卿は自著「広大な広がりの中心で」の中で,地上の最も単純な形態の生物が極めて複雑であることについて書きました。この人は,そのような生物が偶然に生じたかどうかについても論じ,次の結論を下しました。「最小のたんぱく質分子の一つが形成されるようになる事態が偶然に生じる……確率は,考えられないほどに低い。我々が考えている時間と空間の境界条件の範囲内で,その確率は事実上ゼロに等しい」。
13 また,別の極であるこの宇宙について考えてください。天文学者は宇宙の起源を研究するために電子機器を用いてきました。彼らは何を発見しましたか。ロバート・ジャストローは「神と天文学者たち」という本の中で,このように書きました。「今我々は,天文学上の証拠から,世界の起源に関する聖書の見解が導き出されることを理解できる」。「理性の力に信仰を置いて生きてきた科学者にとって,この話は悪夢のような結末を迎える。科学者は無知という山々を登り,もう少しでその最高峰を極めようとしていた。最後の岩をよじ登ってみると,幾世紀も前からそこにいる神学者たち[創造を信じる人たち]の一団に迎えられたのである」。―詩編 19:1と比較してください。
14 神は人間の作った神殿には住まわれない,というパウロの言葉の裏づけとなったのは,どんな論理ですか。
14 このことから,使徒 17章24節のパウロの注解の正確さが分かります。その部分は25節にあるパウロの次の考えに導いてくれます。それは,「世界とその中のすべてのもの」を造ることができた強力な神は,物質の宇宙よりも偉大な方であられるに違いないということです。(ヘブライ 3:4)ですから,その神が神殿に,特にその神が自分たちにとって「知られていない」ということを公に認めた人間が建てた神殿の住まいに閉じ込められると考えるのは,不合理でしょう。この点は,頭上にある多くの神殿をそのとき見上げていたかもしれない哲学者たちに指摘すべき,実に強力な論点でした。―列王第一 8:27。イザヤ 66:1。
15 (イ)アテナのことがパウロの聴衆の頭の中にあったのはなぜですか。(ロ)神が与える方であることから,どんな結論に至るはずですか。
15 パウロの話を聞いていた人たちは,守護神,女神アテナの彫像の一つをアクロポリスで礼拝していたようです。パルテノンで崇められていたアテナは象牙と金でできていました。もう一つのアテナの彫像は高さが20㍍ほどあり,航行中の船からも見ることができました。また,アテナ・ポリアスとして知られる偶像は天から落ち,人々はその像のために定期的に新しい手作りの上着を持って来たと言われています。しかし,それらの人たちの知らなかった神が至高者で宇宙を創造したのであれば,人間に物を持って来てもらって世話を受ける必要がどこにあるでしょうか。その神はわたしたちの必要物を与えてくださいます。わたしたちの「命」と,それを支えるのに必要な「息」,そして太陽,雨,食物が生長する肥沃な土地を含む「すべての物」を与えてくださるのです。(使徒 14:15-17。マタイ 5:45)その神は与える方で,人間は受ける者です。確かに,与える方は受ける者に依存していません。
一人の人から ― すべての人が
16 人間の起源について,パウロはどんなことを主張しましたか。
16 次の使徒 17章26節で,パウロは一つの真理を明らかにします。それは今日,とりわけ人種的な甚だしい不公正が見られるため,多くの人が考えなければならない真理です。パウロは,創造者が「一人の人からすべての国の人を造って地の全面に住まわせ(た)」と述べました。人類は一つであってみな兄弟という考え(公正のためのそれに関連した事柄を含む)は,それらの人たちが考慮すべき事柄でした。アテネ人は自分たちが特別な血筋を引く者であって,ほかの人間とは区別されると主張していたからです。しかしパウロは,わたしたちすべての先祖となった最初の人間アダムに関する創世記の記述を受け入れていました。(ローマ 5:12。コリント第一 15:45-49)それでもあなたは,『この科学時代にそのような考え方は立証できるだろうか』と思われるかもしれません。
17 (イ)現代的な幾つかの証拠は,どのようにパウロが示したのと同じ方向を指し示していますか。(ロ)このことは,公正とどのように関係していますか。
17 進化論は,人間がさまざまな場所で,さまざまな形態を取りながら進化したことを示唆しています。ところが,昨年の初め,ニューズウィーク誌はその科学欄で「新説『人類誕生』」という題の特集を組みました。遺伝学の分野における最近の進展に焦点を当てた特集です。予想通り,すべての科学者の同意は得られませんでしたが,最近明るみに出た事実は,わたしたちが皆,遺伝学的に一人の共通の先祖を持つという結論を指し示しています。聖書がずっと前から述べていたように,人間はみな兄弟ですから,すべての人のために公正が行なわれるべきではないでしょうか。皮膚の色,髪など表面的な特色がどんなものであれ,すべての人に,公正な扱いを受ける権利があるはずではありませんか。(創世記 11:1。使徒 10:34,35)それでも,人類のための公正は,いつ,どのように実現されるのかということを知る必要があります。
18 神が人間と交渉を持たれたことに関するパウロの言葉には,どんな根拠がありましたか。
18 さてパウロは26節で,創造者が人類に対する一つのご意志,つまり公正な目的を持っておられると期待できることを指摘しました。同使徒は次のことを知っていました。つまり神はイスラエル国民と交渉を持たれた際,イスラエルはどこに住むべきか,他の諸国民は彼らをどう扱えるかを定められたということです。(出エジプト記 23:31,32。民数記 34:1-12。申命記 32:49-52)もちろん,パウロの聴衆は,誇らしい気持ちでその言葉をまず自分たちに当てはめたのかもしれません。実際,彼らが知っていたかどうかは別として,エホバ神は歴史上のある時点,つまりギリシャが強大な第五世界強国になる時に関するご自分の意志を預言的に表明されました。(ダニエル 7:6; 8:5-8,21; 11:2,3)この神は諸国民を動かすこともできるのですから,人間がこの神について学びたいと願うのは,道理にかなっていないでしょうか。
19 使徒 17章27節でパウロが示した点は,なぜ道理にかなっていましたか。
19 神はわたしたちをご自分に関していわば無知の状態に放置し,暗中模索させるような方ではありません。神はアテネ人にもわたしたちにも,ご自分について学ぶための土台を据えてくださいました。後に使徒パウロはローマ 1章20節の中で,「神の見えない特質,すなわち,そのとこしえの力と神性とは,造られた物を通して認められるので,世界の創造以来明らかに見え(ます)」と書きました。ですから,神を見いだしたいと思うなら,また神について学びたいと思うなら,実際のところ神はわたしたちひとりひとりからそれほど遠く離れておられません。―使徒 17:27。
20 神により『わたしたちが命を持ち,動き,存在している』ということはどうして真実と言えますか。
20 使徒 17章28節が示唆しているように,感謝の気持ちがあれば,神を見いだし,神について学ぶよう動かされるはずです。神は命を与えてくださいました。現にわたしたちは,樹木に命があるという意味の単純な命以上のものを持っています。わたしたちも,ほとんどの動物も,動き回ることができるという生きるための高等な能力を持っています。わたしたちはそのことを幸せに感じるのではないでしょうか。しかしパウロは問題をさらに掘り下げます。わたしたちは人格を有する理知ある者として存在しています。神から与えられた頭脳によって考え,(真の公正のような)抽象的な原理を把握し,神のご意志が成し遂げられる将来に希望を置く,そうです,その時を待ち望むことができるのです。お分かりのように,パウロはこれがエピクロス派やストア派の哲学者にとって受け入れ難いことを知っていたに違いありません。パウロは彼らを助けるため,彼らが知っていて尊敬していた幾人かのギリシャ詩人の言葉を引用しましたが,それらの詩人も同様に,「そはわれらはまたその子孫なり」と言っていました。
21 わたしたちが神の子孫であるということは,どのような点でわたしたちに影響を及ぼすはずですか。
21 人々が,自分たちは神の子孫,つまり至高者によって造られた者であるということを認識しているなら,どのように生きるかについて,神に指示を仰ぎ求めるのは非常にふさわしいことです。アクロポリスのすぐ近くに立っていたパウロの大胆さを称賛すべきです。わたしたちの創造者は人間の作ったどんな彫像よりも,パルテノンにある金と象牙の彫像よりも確かに偉大であると,パウロは勇敢に論じたのです。パウロの言葉を受け入れるわたしたちは皆,神が今日の人々に崇拝されているどんな偶像とも異なることを認めなければなりません。―イザヤ 40:18-26。
22 悔い改めはわたしたちが公正を享受することと,どのように関係していますか。
22 これは単に,以前と同じ生き方を続けながら頭の中で受け入れていればよいというような,専門的な見地から見た細かな問題などではありません。パウロはその点を30節で明確に示しました。「確かに,神はそうした[神が弱小な偶像のようであるとか,偶像を媒介とした崇拝を受け入れてくださると考える]無知の時代を見過ごしてこられはしましたが,今では,どこにおいてもすべての者が悔い改めるべきことを人類に告げておられます」。こうしてパウロは,話を力強い結論へと盛り上げる際に,悔い改めという驚くべき論点を提示しました。ですから,真の公正を神に期待するということは,自分が悔い改めなければならないことを意味するのです。そのために何が求められますか。また,神はどのようにすべての人のために公正が行なわれるようにしてくださるのでしょうか。
[脚注]
a 今日の多くの人と同様,ハクスリーはキリスト教世界の不公正に注目していました。ハクスリーは不可知論に関する随筆の中でこう書きました。「この源からキリスト教国の歴史の流れに入り込んできた奔流のような偽善,残酷さ,偽り,殺人,人間としてのあらゆる義務に対する違反……などを見ることさえできれば,その光景の前に地獄に関する最悪の想像図も見劣りがするであろう」。
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真の公正をだれに期待することができますかものみの塔 1989 | 2月15日
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すべての人のための公正 ― 使徒 17章
「16 さて,アテネで彼らを待っている時であったが,その都市に偶像が満ちているのを見て,パウロの内なる霊はいら立つようになった。17 それで彼は,会堂でユダヤ人と,また神を崇拝するほかの人たちと,さらには毎日,市の立つ広場でそこに居合わせる人々と論ずるようになった。18 しかし,エピクロス派およびストア派の哲学者のある人々が彼と言い合うようになり,ある者は,『このおしゃべりは何を言おうとしているのか』,またほかの者は,『これは異国の神々を広める者らしい』などと言うのであった。彼がイエスおよび復活の良いたよりを宣明していたからである。19 それで彼らはパウロをつかまえてアレオパゴスに連れて行き,こう言った。『あなたの話しているこの新しい教えがどういうことなのか,わたしたちに分からせてもらえるだろうか。20 わたしたちには耳慣れない事柄をあなたが持ち込んでいるからだ。ついては,それがどういう意味なのか知りたいのだ』。21 事実,すべてのアテネ人とそこにとう留している異国人は,暇な時間といえば何か新しい事柄を語ったり聴いたりして過ごしているのであった。22 さて,パウロはアレオパゴスの真ん中に立って,こう言った。
「『アテネの皆さん,わたしは,あなた方がすべての事において,他の人たち以上に神々への恐れの念を厚く抱いておられる様子を見ました。23 例えば,歩きながら,あなた方の崇敬の対象となっているものを注意深く見ているうちに,わたしは,「知られていない神に」と刻み込まれた祭壇も見つけました。それで,あなた方が知らないで敬虔な専心を示しているもの,それをわたしはあなた方に広めているのです。24 世界とその中のすべてのものを造られた神,この方は実に天地の主であり,手で作った神殿などには住まず,25 また,何かが必要でもあるかのように,人間の手によって世話を受けるわけでもありません。ご自身がすべての人に命と息とすべての物を与えておられるからです。26 そして,一人の人からすべての国の人を造って地の全面に住まわせ,また,定められた時と人々の居住のための一定の限界とをお定めになりました。27 人々が神を求めるためであり,それは,彼らが神を模索してほんとうに見いだすならばのことですが,実際のところ神は,わたしたちひとりひとりから遠く離れておられるわけではありません。28 わたしたちは神によって命を持ち,動き,存在しているからであり,あなた方の詩人のある者たちも,「そはわれらはまたその子孫なり」と言っているとおりです。
29 「『したがって,わたしたちは神の子孫なのですから,神たる者を金や銀や石,人間の技巧や考案によって彫刻されたもののように思うべきではありません。30 確かに,神はそうした無知の時代を見過ごしてこられはしましたが,今では,どこにおいてもすべての者が悔い改めるべきことを人類に告げておられます。31 なぜなら,ご自分が任命したひとりの人によって人の住む地を義をもって裁くために日を定め,彼を死人の中から復活させてすべての人に保証をお与えになったからです』」。
[7ページの囲み記事]
宇宙は創造された
1980年,米航空宇宙局のジョン・A・オーキーフ博士はこのように書きました。「現代の天文学が,約150ないし200億年前に宇宙が創造されたことを示す信頼できる証拠を発見したというジャストローの意見に私は同意する」。「創造説を支持する証拠が……岩石,空,電波,そして最も基本的な物理法則など,我々の周囲のすべてのものに極めて明確に刻み込まれているのを見ると,非常な感動を覚える」。
[9ページの囲み記事]
「新説『人類誕生』」
ニューズウィーク誌はこのような題の記事の中で次のように述べました。「ベテラン考古学者のリチャード・リーキーも『現代人が出現した単一の中心地点など存在しない』と1977年に言い切っている。だが,遺伝学者たちの立場はこれと異なる。『それが正しいとすれば,きわめて重大なことだ』と言うのは,ハーバード大学の古生物学者でエッセイストでもあるスティーブン・グールド。『外見の違いにもかかわらず,すべての人間が実際には最近になってある一つの場所に出現した単一組織体のメンバーであることを示すものだ。われわれがこれまで感じてきたよりもはるかに深い,ある種の生物学的同胞関係が存在することになる』」― 1988年1月11日号。
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神から任命された審判者がすべての人のために行なう公正ものみの塔 1989 | 2月15日
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神から任命された審判者がすべての人のために行なう公正
「父は子に愛情を持っておられ……裁くことをすべて子にゆだねておられるのです」― ヨハネ 5:20,22。
1 あなたはどのような意味で,1世紀のある人々が直面したのと同じ質問に直面していますか。
あなたにとって公正はどれほど重要なものですか。真の公正を確実に享受するため,また公正が全地に行き渡る時に確実に生きていられるようにするため,あなたはどれほど努力しますか。あなたもギリシャのアテネにいた著名な男女と同じように,それらの質問について考えなければなりません。
2,3 (イ)どのようなことから,パウロは聴き手であったアテネ人に悔い改めを求めましたか。(ロ)その聴衆にとって,悔い改めが奇異に感じられたのはなぜですか。
2 彼らは,クリスチャンの使徒パウロが,有名なアレオパゴスの法廷に対して行なった記念すべき話を聞きました。パウロは最初に,わたしたちすべてが命を負っている創造者なる唯一の神の存在について論じ,そこから,わたしたちは神に言い開きをしなければならないという,論理的な結論を導き出します。そこでパウロは,「神はそうした[人間が偶像を崇拝するような]無知の時代を見過ごしてこられはしましたが,今では,どこにおいてもすべての者が悔い改めるべきことを人類に告げておられます」と宣言しました。―使徒 17:30。
3 率直に言って,悔い改めという概念はその聴衆を驚き入らせたことでしょう。なぜそう言えますか。古代のギリシャ人は,何らかの言動に関して後悔するという意味での悔い改めは知っていました。しかし,ある辞典が指摘しているように,その語は「道徳上の態度の全面的な変革,生活の方向の徹底的な変化,行動全体に影響する転向を示唆してはいなかった」のです。
4 悔い改めに関するパウロの見解の裏づけとなったのは,どんな論理ですか。
4 しかし,そうした徹底的な悔い改めがふさわしい理由は理解できるはずです。パウロの話の筋をたどってみましょう。すべての人間は神に命を負っているので,すべての人は神に言い開きをすべきです。したがって,神を求めるよう,また神に関する知識を見いだすよう神が人間に期待するのは極めて正しく,公正なことです。それらのアテネ人が神の定めた原則やご意志を知らなかったのであれば,それらについて学び,次いで自分の生活をそうした原則やご意志に調和させるために悔い改める必要がありました。この点は,そうするのがどれほど好都合かということだけに依存していたのではありません。その理由は,パウロが述べた,最高潮を成す次の力強い言葉から理解できます。「なぜなら,ご自分が任命したひとりの人によって人の住む地を義をもって裁くために日を定め,彼を死人の中から復活させてすべての人に保証をお与えになったからです」― 使徒 17:31。
5 パウロの話に聴衆はどんな反応を示しましたか。なぜですか。
5 非常に意味深く,説得力に富んだこの節には,注意深く検討するだけの価値があります。この部分は,この時代に完全な公正が行なわれるという希望を鼓舞するからです。「ご自分が任命したひとりの人によって」,『人の住む地を裁く』,「義をもって」,「日を定め」,『彼を復活させた』,「保証をお与えになった」といった言葉に注目してください。この中の『彼を復活させた』という箇所は,パウロの聴衆の強烈な反応を呼び起こしました。32節から34節に示されているように,あざけった人々もいれば,議論をやめただけの人たちもいました。それでも,少数の人は悔い改めて信者になりました。しかし,わたしたちは聴衆のアテネ人の大多数よりも賢明でありたいと思います。真の公正を切望しているなら,これは非常に重要なことです。31節の深い意味を理解するために,まず『人の住む地を義をもって裁くために日を定められた』という部分をご覧ください。だれがそうされるのですか。その方の規準,特に公正に関する規準はどのようなものですか。
6 どうすれば,地を裁くために日を定めた方について学ぶことができますか。
6 使徒 17章30節は,パウロがだれに言及していたかを明らかにしています。それは,すべての人に悔い改めるよう告げておられる神ご自身,わたしたちの命の与え主である創造者です。当然ながら,その神の創造のみ業から神に関する多くの事柄を見いだせますが,公正に関するその神の規準は,もう一つの情報源,つまり聖書から特に明らかになります。聖書には,モーセのような人たちと神との交渉に関する記録や,イスラエルのための神の律法に関する記録が含まれています。
裁きと公正はどんなものであったか
7 モーセはエホバと公正について,どんな証言を行なっていますか。
7 モーセが幾十年もの間エホバ神と親しく接していたので,神が,わたしは「口から口に」モーセと語った,と言われたことはご存じかもしれません。(民数記 12:8)モーセは,エホバがどのように自分を取り扱ってくださったか,神が他の人々や国民全体をどのように扱われたかを知っていました。モーセはその生涯を終えるころ,次のように描写して人々を元気づけました。「岩なる方,そのみ業は完全,そのすべての道は公正である。忠実の神,不正なところは少しもない。義であり,廉直であられる」― 申命記 32:4。
8 公正の問題についてエリフが語ったことにわたしたちが注意を払うべきなのはなぜですか。
8 知恵と理解力で有名なエリフという男子が行なった証言についても考えてください。エリフが性急に結論を出す人でなかったことは確かです。それどころか,ある時などは1週間以上も座って,双方の口頭による長々しい論戦に耳を傾けました。そこでエリフは,自分自身の経験と,神の道に関する研究から,神についてどんな結論を出しましたか。エリフは次のように断言しました。「それゆえ,心ある人々よ,わたしに聴け。まことの神が邪悪なことを行なったり,全能者が不正を行なったりすることなど決してない! 地の人の行なう仕方にしたがって神は人に報い,人の道筋にしたがって,それを人に臨ませられるからである。しかも,実際,神は,邪悪なことを行なわれない。全能者は裁きを曲げられない」― ヨブ 34:10-12。
9,10 人間の裁き人に対する神の規準がわたしたちの励みとなるのはなぜですか。(レビ記 19:15)
9 では自問してください。ここには,えこひいきをしたり,公正を曲げたりせず,各人をその行ないに従って扱う,裁判官の理想像が完全に描かれているのではないでしょうか。自分が人間の裁判官の前に立たなければならない時,裁判官がそのような人であれば安心できるのではないでしょうか。
10 聖書はエホバを「全地を裁く方」と呼んでいます。(創世記 18:25)しかし,神は時々人間の裁き人を用いられました。神を代表するイスラエルの裁き人に神は何を期待されましたか。申命記 16章19節と20節には,裁き人たちのための職務分析記録に相当する神からの指示が記されています。「あなたは裁きを曲げてはならない。不公平であったり,わいろを受け取ったりしてはならない。わいろは賢い者の目を盲目にならせ,義なる者の言葉をゆがめさせるからである。公正,公正こそあなたの追い求めるべきものである。それはあなたが生きつづけるため……である」。公正を象徴する現代の彫像は,偏り見ないという願いを表わす目隠しをされた女性として描かれているかもしれませんが,神はそれをはるかに上回る方であることが理解できるでしょう。神はご自分を代表し,ご自分の律法を施行する人間の裁き人たちに,そうした偏り見ない態度を実際に要求されました。
11 公正に関するこの聖書的な情報を復習することから,どんな結論が得られますか。
11 神が公正をどう見ておられるかを示すこれらの詳細な点は,パウロの話の最高潮を成す部分と直接関係しています。パウロは使徒 17章31節で,神は「人の住む地を義をもって裁くために日を定め(られた)」と宣言しました。これこそ,わたしたちが神に対して期待できる事柄です。それは,公正であり,義であり,偏り見ない態度です。それでも中には,31節に,神は全人類を裁くために「ひとりの人」をお用いになる,とあるので,不安に思う人がいるかもしれません。この「人」とはだれですか。その人が公正に関する神の高い規準を守るというどんな保証がありますか。
12,13 裁きを行なうために神がお用いになる「人」のことは,どのように分かりますか。
12 使徒 17章18節は,パウロが「イエスおよび復活の良いたよりを宣明して」いたことを告げています。ですから聴衆は,話の終わりに,神は『ご自分が任命し,死人の中から復活させたひとりの人によって人の住む地を義をもって裁かれる』と述べたパウロが,イエス・キリストを指してひとりの人と言っていたことを知りました。
13 イエスは,ご自分が神の規準にかなった審判者として神から任命されたことを認めておられました。ヨハネ 5章22節でイエスは,「父はだれひとり裁かず,裁くことをすべて子にゆだねておられるのです」と言われました。また,記念の墓の中にいる人の来たるべき復活について述べた後,次のことを付け加えられました。「わたしは,自分からは何一つ行なえません。自分が聞くとおりに裁くのです。そして,わたしが行なう裁きは義にかなっています。わたしは,自分の意志ではなく,わたしを遣わした方のご意志を求めるからです」― ヨハネ 5:30。詩編 72:2-7。
14 わたしたちは,イエスがどんな扱いをしてくださることを期待できますか。
14 この保証は,使徒 17章31節にある記述と何と見事に調和しているのでしょう。その節ではパウロも,み子が「人の住む地を義をもって裁く」という保証を与えています。ここには,厳しくて融通性のない,無情な裁判官の姿は少しも示唆されていないのではないでしょうか。むしろ,義にかなった裁きには,憐れみと理解を加味して公正さを和らげることが関係しています。また,次の点も見過ごさないようにしましょう。イエスは現在,天におられますが,かつては人間でしたから,感情移入をすることができます。パウロはヘブライ 4章15節と16節で,大祭司としてのイエスを描写するに当たってその点に触れています。
15 イエスは人間の裁判官とどのように異なっておられますか。
15 ヘブライ 4章15節と16節を読みながら,イエスを審判者としていただくときに感じるであろう安心感について考えてください。「わたしたちは,わたしたちの弱いところを思いやることのできない方ではなく,すべての点でわたしたちと同じように試され,しかも罪のない方を,大祭司[また審判者]として持っているのです。それゆえ,時にかなった助けとして憐れみを得,また過分のご親切を見いだすために,はばかりのないことばで過分のご親切のみ座に近づこうではありませんか」。今日の法廷では,裁判官席の前に呼び出されたら,おびえてしまうことが多いものですが,審判者としてのキリストの場合には,『憐れみと過分のご親切を得,また時にかなった助けを見いだすために,はばかりのないことばで近づく』ことができます。しかし,時に関して,『イエスはいつ義をもって人類を裁くのだろう』という質問が生じるのはもっともなことです。
裁きの「日」― いつ?
16,17 天からの裁きが今行なわれているとどうして分かりますか。
16 パウロが,神はご自分の任命された審判者によって世を裁くために「日を定め」られたと述べたことを思い起こしてください。イエスはその裁きの「日」を待ちながら,今日,そうです,まさに今,重要な裁きの業を行なっておられます。なぜそのように言えますか。イエスはご自分が逮捕され,不当な死刑宣告を受ける少し前に,現代にかかわる歴史的な預言をされました。それはマタイ 24章に記されています。イエスは「事物の体制の終結」と呼ばれる期間をしるしづける世界的な出来事について説明されました。第一次世界大戦後,全地で生じてきた戦争,食糧不足,地震などの苦難は,イエスの預言が現在成就しており,間もなく「終わりが来る」ことを確証しています。(マタイ 24:3-14)エホバの証人は幾十年もの間,そのことを聖書から説明してきました。どうしてわたしたちがこの不正な体制の終わりの日にいることが分かるのか,その理由に関する証拠をもっとお知りになりたい方には,エホバの証人がお答えできます。
17 しかし,終わりの日に関するイエスの預言の一部であるマタイ 25章の後半を調べてみましょう。マタイ 25章31節と32節は現代に適用されます。「人の子がその栄光のうちに到来し,またすべてのみ使いが彼と共に到来すると,そのとき彼は[天の]自分の栄光の座に座ります。そして,すべての国の民が彼の前に集められ,彼は,羊飼いが羊をやぎから分けるように,人をひとりひとり分けます」。では,イエスがご自分の行なう分ける業,つまり裁きの業の結果について述べておられる箇所に目を移してみましょう。46節にこう記されています。「そして,これらの者[イエスがやぎのような者として裁く人々]は去って永遠の切断に入り,義なる者たち[羊]は永遠の命に入ります」。
18 現代における裁きはどんな結果に至りますか。
18 ですから,わたしたちは決定的な裁きの時に生活しています。今日,『神を求め,ほんとうに神を見いだす』人々には,「羊」として裁かれて現在の体制の終わりを生き残り,その後に続く新しい世に入る見込みがあります。その時,「神の約束によってわたしたちの待ち望んでいる新しい天と新しい地があります。そこには義が宿ります」というペテロ第二 3章13節の言葉が現実のものとなります。その「日」は使徒 17章31節にあるパウロの言葉が完全に適用され,地が義をもって裁かれる時となります。
19,20 来たるべき裁きの日の影響を受けるのはだれですか。
19 その裁きの日には,新しい世に入るに値する者としてすでに裁かれている,生き残る羊だけではなく,もっと大勢の人々が関係することになるでしょう。イエスが,わたしの父はわたしに裁きをゆだねてくださったと述べた後,来たるべき復活について語られたことを思い起こしてください。使徒ペテロも使徒 10章42節で,イエス・キリストは「生きている者と死んでいる者との審判者として神に定められた者である」と述べました。
20 したがって,使徒 17章31節で言及されている,神がイエス・キリストを通して「人の住む地を義をもって裁く」『定められた日』は,死者がよみがえらされる時となります。死を克服するために神の力が行使されるのを見るのは大きな喜びになることでしょう。多くの場合,最大の不公正と言えるものは死でした。ある人々は,イエスご自身と同じように,政府や侵略軍によって不当に処刑されました。竜巻,地震,偶然の火災などの災厄で命を失った人たちもいます。―伝道の書 9:11。
過去の不公正は解決される
21 新しい世で過去の不公正はどのように克服されますか。
21 想像してみてください。わたしたちの家族がよみがえらされるのを見ることができるのです。そのようにして多くの人は,『神を求め,ほんとうに神を見いだす』ための最初の機会を得ることになります。その後,彼らの前には,「羊」の受ける報いとなる「永遠の命」を得る機会が開かれます。復活させられた人々の中には,不正なこの体制を生き残った人々同様,先天的な奇形,目が見えないこと,耳の聞こえないこと,言語障害など,不公正と思える事柄の犠牲者となっていた人がいます。そうしたことは『義の宿る新しい地』にふさわしいでしょうか。エホバはイザヤを用い,来たるべき裁きの日にすばらしい文字通りの成就を見るさまざまな預言を語らせました。わたしたちが期待できる事柄に注目してください。「その時,盲人の目は開かれ,耳の聞こえない者の耳も開けられる。その時,足のなえた者は雄鹿のように登って行き,口のきけない者の舌はうれしさの余り叫びを上げる」― イザヤ 35:5,6。
22 イザヤ 65章が,公正に関して大きな励みを与えるのはなぜですか。
22 現在,悲惨な状況を多く生み出している他の不公正についてはどうですか。イザヤ 65章には人を元気づける幾つかの明るい答えが含まれています。イザヤ 65章17節をペテロ第二 3章13節と比較してみると,この章も「新しい天と新しい地」つまり義にかなった新しい体制の実現する時を指し示していることが分かります。とはいえ,少数の邪悪な人々が平和と公正を損なうような事態はどのようにして防ぐのでしょうか。イザヤ 65章のもう少し先を読むと,問題となる可能性のある事柄は除かれてしまいます。
23 ある人々にとって,裁きの日はどんな結末に発展する可能性がありますか。
23 継続するこの裁きの日の間,イエスは個々の人に永遠の命を受ける資格があるかどうかを裁く業を続けてゆかれます。その資格のない人もいるでしょう。神を求めるための十分な時間,場合によっては『百年』もの時間を与えられながら,ある人々は義を実践しようとしない態度を示すでしょう。そのような人たちは,イザヤ 65章20節から理解できるように,新しい世で命を失いますが,それは当然のことです。「罪人については,その者が百歳であっても,その身の上に災いを呼び求められるであろう」。命に値しない者として裁かれるそのような人たちは少数でしょう。わたしたちも,他のほとんどの人々も,喜んで義を学び,義を実践すると期待してよい十分な理由があります。―イザヤ 26:9。
24 経済的な不公正に関してはどんな状況になりますか。
24 それは,不公正が全くなくなり,経済的な不公正も行なわれなくなるという意味でしょうか。その通りです。イザヤ 65章21節から23節はそのことを指し示しています。「彼らは必ず家を建てて住み,必ずぶどう園を設けてその実を食べる。彼らが建てて,だれかほかの者が住むことはない。彼らが植えて,だれかほかの者が食べることはない。わたしの民の日数は木の日数のようになり,わたしの選ぶ者たちは自分の手の業を存分に用いるからである。彼らはいたずらに労することなく,騒乱のために産み出すこともない。彼らはエホバの祝福された者たちからなる子孫であり,彼らと共にいるその末孫もそうだからである」。今の時代とは何と異なっているのでしょう。何というすばらしい祝福でしょう。
25 神から任命された審判者に関して,あなたはどんな望みと決意を抱いていますか。
25 ですから,永続的な公正を切望する皆さん,勇気を出してください。その時は必ず,しかも間もなく到来します。残されている時の短いこの裁きの時の今こそ,エホバの証人と共に神を求め,ほんとうに神を見いだすべき時です。そうするなら,永遠の益がもたらされるでしょう。
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