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  • 二人の王の抗争
    ダニエルの預言に注意を払いなさい
    • 24 (イ)セレウコス3世はどうなりましたか。(ロ)シリアの王アンティオコス3世はどのように南の王の領土に『入り,みなぎりあふれて通って行き』ましたか。

      24 シリアの王セレウコス2世の子孫について,どんなことが予告されていましたか。み使いはダニエルにこう告げました。「一方その子らは,自ら奮い立ち,群がる大軍をまさに集める。そして彼は進んで行ってまさに入り,みなぎりあふれて通って行く。しかし彼は戻って行く。そして,身を奮い起こして自分の要害へと進む」。(ダニエル 11:10)セレウコス3世の統治は3年も続かず,同王の暗殺をもって終わります。その後継者としてシリアの王座に就いたのは,セレウコス3世の兄弟アンティオコス3世でした。このセレウコス2世の息子は,当時の南の王プトレマイオス4世を襲撃するため,大軍を結集します。シリアのこの新しい北の王はエジプトと戦って勝利を収め,海港セレウキア,コイレ・シリア州,ティルスとプトレマイスの2都市,および周辺の町々を奪回します。さらには,王プトレマイオス4世の軍隊を敗走させ,ユダの多くの都市を攻め取ります。西暦前217年の春にアンティオコス3世はプトレマイスを後にして北上し,シリアの「自分の要害へと進(み)」ました。しかし,程なくして形勢が変わります。

  • 二人の王の抗争
    ダニエルの預言に注意を払いなさい
    • 北のシリアの王アンティオコス3世は6万8,000の「大群」を起こし,南の王に対して立ち上がらせていました。とはいえ,この「群衆」も,エジプト国境に程近い海沿いの都市ラフィアでの戦いにおいて,南の王の「手に渡され(て)」しまいます。

      26 (イ)ラフィアの戦いで,どんな「群衆」が南の王によって連れ去られましたか。その時に結ばれた平和条約には,どんな条項が含まれていましたか。(ロ)プトレマイオス4世は「自分の強固な立場を利用しな(かった)」と,どうして言えますか。(ハ)次に南の王となったのはだれですか。

      26 預言は続きます。「そしてその群衆は必ず連れ去られる。彼の心は高ぶり,彼はまさに幾万の者を倒す。しかし彼は自分の強固な立場を利用しない」。(ダニエル 11:12)南の王プトレマイオス4世は,シリアの歩兵1万人と騎兵300人を死へと『連れ去り』,4,000人を捕虜として捕らえます。次いでこれらの王たちは条約を結び,アンティオコス3世はシリアの海港セレウキアを保持しますが,フェニキアとコイレ・シリアは失ってしまいます。

  • 二人の王の抗争
    ダニエルの預言に注意を払いなさい
    • 搾取する者が戻って来る

      27 北の王は,エジプトから領土を奪還するため,どのように,『しばらくの時の終わりに』戻って来ましたか。

      27 アンティオコス3世はその功績のゆえに,アンティオコス大王と呼ばれるようになりました。この王について,み使いはこう述べています。「北の王は戻って来て,初めを上まわる大群を起こすことになる。そして,しばらくの時すなわち幾年かの終わりに,彼はやって来る。大きな軍勢を率い,大量の貨財を携えてそうする」。(ダニエル 11:13)ここで言及されている「しばらくの時」とは,エジプト軍がラフィアでシリア軍を破った後の16年,もしくはそれ以上の歳月を指しています。プトレマイオス5世が幼少にして南の王になった時,アンティオコス3世は「初めを上まわる大群」をもって,南のエジプトの王に奪われた領土の奪還に着手しました。それを達成するため,アンティオコス3世はマケドニア王フィリッポス5世と同盟を結びます。

  • 二人の王の抗争
    ダニエルの預言に注意を払いなさい
    • 搾取する者が戻って来る

      27 北の王は,エジプトから領土を奪還するため,どのように,『しばらくの時の終わりに』戻って来ましたか。

      27 アンティオコス3世はその功績のゆえに,アンティオコス大王と呼ばれるようになりました。この王について,み使いはこう述べています。「北の王は戻って来て,初めを上まわる大群を起こすことになる。そして,しばらくの時すなわち幾年かの終わりに,彼はやって来る。大きな軍勢を率い,大量の貨財を携えてそうする」。(ダニエル 11:13)ここで言及されている「しばらくの時」とは,エジプト軍がラフィアでシリア軍を破った後の16年,もしくはそれ以上の歳月を指しています。プトレマイオス5世が幼少にして南の王になった時,アンティオコス3世は「初めを上まわる大群」をもって,南のエジプトの王に奪われた領土の奪還に着手しました。それを達成するため,アンティオコス3世はマケドニア王フィリッポス5世と同盟を結びます。

      28 若い南の王は,どんな厄介な問題を抱えていましたか。

      28 南の王は自分の王国の内紛にも悩まされていました。「その時,南の王に立ち向かう者が多くいる」と,み使いは述べています。(ダニエル 11:14前半)実際に多くの者が「南の王に立ち向か(い)」ました。この若い南の王は,アンティオコス3世およびその同盟者のマケドニアの軍勢だけでなく,エジプトの様々な国内問題にも遭遇していました。王の後見役であり,王の名において支配したアガトクレスがエジプト人たちを尊大に扱ったため,多くの者が反乱を起こしました。み使いはこう付け加えています。「また,あなたの民に属する強盗の子らは,幻を実現させようとして引き回される。彼らは必ずつまずく」。(ダニエル 11:14後半)ダニエルの民の中にも,「強盗の子ら」もしくは革命家となった人たちがいました。ところが,そのようなユダヤ人が抱いていた,故国に対する異邦人による支配の終わりという「幻」は,どれも偽りであって,実現することはありませんでした。つまり『つまずき』ました。

      29,30 (イ)「南の腕」はどのように,北からの襲撃に屈しましたか。(ロ)北の王はどんな経過をたどって「飾りの地に立つ」ようになりましたか。

      29 エホバのみ使いはさらに次のように予告しました。「北の王はやって来て,攻囲の塁壁を盛り上げ,城塞のある都市をまさに攻略する。そして,南の腕は立ち向かうことができない。彼のより抜きの民も同様である。こらえて立つ力はないであろう。そして,彼に向かって来る者は意のままに事を行ない,その前に立ち向かう者はだれもいない。さらに彼は飾りの地に立つ。その手には絶滅があるであろう」― ダニエル 11:15,16。

      30 プトレマイオス5世の率いる軍勢,つまり「南の腕」は,北からの襲撃に屈しました。アンティオコス3世はパニアス(カエサレア・フィリピ)で,エジプトの将軍スコパスと,選ばれた兵士つまり「より抜きの民」1万人を撃退して,「城塞のある都市」であるシドンに追いやります。そこでアンティオコス3世は「攻囲の塁壁を盛り上げ」,西暦前198年にフェニキア人のその海港を攻め取ります。南のエジプトの王の軍勢は敵の前に立つことができなかったため,アンティオコスは「意のままに」行動しました。それでアンティオコス3世は「飾りの地」であるユダの首都エルサレムに向かって進軍します。西暦前198年にエルサレムとユダは,南のエジプトの王の統治下から,北のシリアの王の統治下へと移されました。それから北の王アンティオコス3世は「飾りの地に立(ち)」始めました。「その手には」,反対するユダヤ人とエジプト人すべての「絶滅」がありました。この北の王はいつまで,自分のしたい放題に行動することができるのでしょうか。

      ローマは搾取する者を抑制する

      31,32 北の王が南の王と,平和のための,「平衡を図る協約」を結ぶ結果になったのはなぜですか。

      31 エホバのみ使いは次のように答えています。「彼[北の王]は自分の王国全体の勢いをもって進もうとして顔を向けるが,その者との間で平衡を図る協約ができることになる。こうして彼は効果的に行動する。また,女たちの娘に関し,これを破滅に至らせることが彼に許される。だが,彼女は立ち行かず,ずっと彼のものとしてとどまることはない」― ダニエル 11:17。

      32 北の王アンティオコス3世は,「自分の王国全体の勢いをもって」エジプトを統治すべく「顔を向け」ますが,結果的には,南の王プトレマイオス5世と,平和のための,「平衡を図る協約」を結びます。アンティオコス3世はローマの要求により,計画を変更したのです。エジプトの領土を占拠するため,アンティオコス3世とマケドニア王フィリッポス5世が若年のエジプト王に対抗して手を結んだ時,プトレマイオス5世の後見役たちはローマに保護を求めました。ローマは勢力範囲を拡大できるその機会を利用し,力をもって威嚇しました。

      33 (イ)アンティオコス3世とプトレマイオス5世との間で結ばれた,平和のための協約とは何でしたか。(ロ)クレオパトラ1世とプトレマイオス5世の結婚にはどんな目的がありましたか。そのもくろみが失敗したのはなぜですか。

      33 アンティオコス3世はローマに強要され,平和のための協約を南の王に提出します。しかし,征服した領土をローマの要求どおりに引き渡すのではなく,娘のクレオパトラ1世 ―「女たちの娘」― をプトレマイオス5世と結婚させることにより,名目上それらの領土を譲渡する計画を立てました。持参金に相当するものとして,「飾りの地」であるユダを含む諸州が与えられることになりました。ところが,西暦前193年のその結婚に際して,シリアの王はそれら約束の諸州をプトレマイオス5世に与えませんでした。これはエジプトをシリアに従属させるために仕組まれた政略結婚だったのです。しかし,このもくろみは失敗しました。というのも,クレオパトラ1世は後に夫の側に立ったため,「ずっと彼のものとしてとどまることはな(かった)」からです。アンティオコス3世とローマ人の戦争が勃発した時,エジプトはローマの側に付きました。

      34,35 (イ)北の王はどんな「海沿いの地帯」に顔を向けましたか。(ロ)ローマは北の王からの「非難」をどのように終わらせましたか。(ハ)アンティオコス3世はどのようにして死にましたか。次に北の王となったのはだれですか。

      34 み使いは北の王の敗退に言及し,こう付け加えました。「そして彼[アンティオコス3世]は顔を再び海沿いの地帯に向け,実際に多くのところを攻略する。だが,ひとりの司令者[ローマ]が自分[ローマ]のために彼からの非難を絶えさせることになる。そのため彼の非難[アンティオコス3世からのもの]はやむ。その者[ローマ]はそれを彼自身に帰させる。それで彼[アンティオコス3世]は顔を再び自らの地の要害に向ける。彼は必ずつまずいて倒れ,もはや見いだされることはない」― ダニエル 11:18,19。

      35 この「海沿いの地帯」とは,マケドニア,ギリシャ,小アジアなどの海沿いの地域のことです。西暦前192年にギリシャで戦争が勃発し,アンティオコス3世はギリシャに遠征したくなります。その地域の領土をも獲得しようとするシリアの王に不満を抱いたローマは,正式に同王に宣戦を布告します。テルモピレーでローマに敗北を喫し,西暦前190年のマグネシアの戦いにも敗れてから約1年後,シリアの王はギリシャと小アジアの,次いでタウロス山脈以西の一切のものを放棄しなければなりませんでした。ローマは北のシリアの王に多額の罰金を科し,同王に対する覇権を確立しました。ギリシャからも小アジアからも追われ,艦隊のほとんどすべてを失ったアンティオコス3世は,「顔を再び自らの地[シリア]の要害に向け」ました。ローマはすでに『自分たちに対する彼からの非難を彼自身に帰させて』いました。アンティオコス3世は西暦前187年,ペルシャのエリマイスにあった神殿の強奪を企てている間に死にました。このようにして同王は死んで「倒れ」ます。息子のセレウコス4世がその後を継ぎ,次の北の王となりました。

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