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    目ざめよ! 1987 | 4月8日
    • 1914年以降の世界

      第3部 ― 1935-1940 よろめきながら滅びへ向かう国際連盟

      国際連盟は誕生した当初から病気がちな子供でした。歴史家のH・ガツケによれば,1920年に行なわれた同連盟の初会議は,「諸国家の世界会議というより,自国の政治目的のために連盟を奉仕させることに執着し,国益を追い求めるヨーロッパの大国が集まった会議」でした。国家主義的な考え方を根絶できる時まで,この子供の命は絶えず危険にさらされることになりました。

      1930年代の初期には,国際連盟の加盟国で,あからさまに不平をこぼす国が少なくありませんでした。例えば,イタリアは,自国には世界の原材料が公平に分配されず,世界市場や投資の可能性を活用する機会も与えられていないと考えました。そのため,イタリアは1935年に国益を求めてエチオピアを侵略しました。同様な不満を抱く日本は1937年に中国に出兵しました。どちらの場合も,国際連盟には介入できるだけの力がありませんでした。

      まだ20歳にも達していない同連盟が,その支持者たちの期待するような,たくましく健康な十代の若者でなかったことは明らかです。歴史家のヘルマン・グラムルに言わせれば,「ジュネーブの[国際連盟本部の]雰囲気が葬式のそれに似ていた」1936年当時から,この機構を冒していた病の末期的な症状は憂慮されていました。同連盟が,アドルフという名の男のことは言うに及ばず,イタリアと日本の向こう見ずな行動に直面していたのも不思議ではありませんでした。

      「ヒトラー好みの主題」

      確かにドイツも不満を抱いていました。ドイツはヨーロッパにおける指導的な立場を取り戻そうと躍起になっていたのです。ドイツのある教科書には,1920年代のドイツ軍の総司令官であったハンス・フォン・ゼークト将軍が,『ドイツの新たな飛躍は新しい戦争を抜きにしては考えられないと判断していた』と,記されています。ヒトラーもまた,軍事行動の必要な場合のあることを否定しませんでした。そのようなわけで,ドイツ軍史研究協会によれば,「[1933年から1939年までの間に]ヒトラー政権の講じた重要な措置は,すべて直接間接に再軍備という目的に貢献した」のです。

      ヒトラーの見方によると,「ドイツの“一般大衆”は,一致結合した“人種の核”を形成する8,500万人の人々で構成されていた。ヒトラーが取り入れていたダーウィン主義まがいの方法によれば,この“人種の核”はその“領土”を征服しなければならなかった」。したがって,チュービンゲン大学の現代史の教授を務めるゲルハルト・シュルツは,「新たな領土を力ずくで征服するのが,ヒトラー好みの主題だった」と説明しています。

      実際に国際連盟は,ヒトラーがその征服に着手する場所を決定する手助けをしたのです。フランスとドイツの間にあり,幾世紀もの間この二つの国の間を行ったり来たりしていたザール地方は,第一次世界大戦の終わりに国際連盟の統治下に置かれました。しかし,一つの規定が設けられました。ザールの市民は後日,連盟の監督下にとどまるか,それともドイツもしくはフランスの一部になるかという票決をすることになるのです。国民投票は1935年に行なわれることになりました。

      その当時ヒトラーは絶大な人気を博していました。例えば,時々若い学生たちは書き取りの時間に次のように書くよう告げられました。「イエスが人類を罪と地獄から解放したように,ヒトラーはドイツ国民を破滅から救った。イエスもヒトラーも迫害されたが,イエスが十字架にかけられたのに対して,ヒトラーは高められて総統になった。……イエスは天のために建てたが,ヒトラーは地上のドイツのために建てた」。

      宗教指導者たちはクリスチャンとしての中立を示すどころか,国民投票による政治に積極的にかかわるようになりました。カトリックの勢力の強いザール地方の人々は,「我々にはドイツのカトリック教徒として,祖国の偉大さ,繁栄,そして平和を支える義務がある」と語った司教の言葉を心に留めました。また,カトリックの労働組合も,「自分の祖国に不忠実な者は,自分の神にも不忠実になる」と警告しました。

      もちろん,すべての人が同じ意見だったのではありません。当時の有名な作家のハインリッヒ・マンは,「もしヒトラーのために票を投ずるなら,彼を生き長らえさせ,彼の過ち,ひいては彼が避けられないようにさせている戦争の責任の一端をさえ担うことになる」と警告しました。しかし,そのような警告の声を発する人々はごく少数でした。こうした事態に接したジャーナリストのクルト・タチョルスキーは,ザールは「英国にも,フランスにも,国際連盟にも,国際的な労働組合にも,法王にも見捨てられた」と書きました。

      そのような状況だったので,ヒトラーが国民投票で勝利を収めることは蓋を開ける前から分かっていました。90.8%という圧倒的な数の人々が,新しいドイツ帝国の一部となることを票決したのです。

      こうして対外政策で最初の大勝利を収めたヒトラーは,前進するための励みを得ました。すでに臨終の床にあった国際連盟は衰弱がひどく,ヒトラーが1936年にベルサイユ条約の条項に違反してラインラントの再武装を行なった時も,介入できませんでした。1938年にヒトラーはオーストリアを占領し,後日,ドイツ人が住民の大半を占めていたチェコスロバキアのズデーテン地方を併合しましたが,だれもそれを阻止しませんでした。その併合は,1939年にチェコスロバキアの残りの部分を侵略するための下準備だったのです。確かに抗議の声は盛んに上がったものの,それ以上は何も行なわれませんでした。

      舞台げいこ ― その目的は何か

      その時まで,ヒトラーの侵略戦争は流血を伴いませんでした。ところが,イタリアと日本がからんでいた前述の戦争は,そうではありませんでした。イタリアの参考図書「ルオモ・エ・イル・テンポ」は次のように述べています。「ファシスト・イタリアのエチオピア侵略は極めて周到に準備され,莫大な物資を消費し,大規模な宣伝組織に支えられて実行された」。この戦争は1935年に始まり,エチオピアの占領は1936年に完了しました。爆撃が行なわれ,毒ガスが使われたことを聞いて,世界中の人々が衝撃を受けました。

      アジアでは日本の軍国主義者が大きな権力を握るようになったので,1931年に南満州鉄道の爆破を企てたとして中国が非難された時,日本はそれを口実にして満州に出兵することができました。1937年に日本は中国本土に歩を進め,上海<シャンハイ>・北京<ペキン>・南京<ナンキン>・漢口<ハンコウ>・広東<カントン>などの諸都市を含め,その国の広い部分を獲得しました。

      一方,ヨーロッパでは,1936年にスペインの内乱が起き,ヒトラーとムッソリーニはその機に乗じて,最新の武器と戦術を試すことにしました。中国,満州,およびエチオピアでの戦争のときと同様,そうした試みは将来のより大きな事柄に備える舞台げいことなりました。ある権威者によれば,スペインの紛争では50万人以上の人々が殺されたと言われています。この事件が世界の注目を集めたのも不思議ではありません。この舞台げいこが大見出しで取り上げられたのであれば,その後に演じられることになっていた主要な見せ物については何と言えるでしょうか。

      ヨーロッパにおける電撃戦

      世界の舞台で繰り広げられる出来事を観察していた民主主義国家は,深く憂慮していました。英国は徴兵制度を導入しました。次いで1939年8月には,ドイツとソ連が不可侵条約に調印して世界を驚かせました。この条約は事実上,独ソ両国でポーランドを分割しようとする秘密協定でした。今回も西欧の民主主義国家は決して介入しないだろうと考えたヒトラーは,1939年9月1日の午前4時45分に軍隊をポーランドに進駐させました。

      ところがその時,ヒトラーは読みを誤りました。二日後に英国とフランスがドイツに宣戦を布告したのです。9月17日,ソ連軍は東部からポーランドを侵略し,その月の終わりまでにはポーランド問題は事実上決着を見ました。ドイツ語で「電撃戦」を意味するブリッツクリークという言葉通りの迅速な軍事行動を皮切りに,第二次世界大戦が始まったのです。ヒトラーは勝利の興奮もさめやらぬまま,西欧諸国との和平を申し出ました。「ヒトラーがそれを真剣に考えていたかどうかについて,確実なことは何も言えない」と,ドイツの歴史家,ワルター・ホーファーは書いています。

      戦争が始まってから最初の数年間の特色となったのは,電撃的な速さで破壊的な結果を生じさせる奇襲攻撃でした。ソ連はいち早くエストニア,ラトビア,リトアニアに圧力をかけ,ソ連軍がその各々の領土内に駐留できるようにしました。同じ要求を突き付けられたフィンランドはそれを拒んだため,1939年11月30日にソ連に侵略されました。翌年の3月,フィンランドはソ連の条件をのんで降伏しました。

      ところがその間,英国とフランスはフィンランド救援のため,中立国のノルウェーを通り抜けることを考えていました。しかしフィンランドが降伏したので,連合国としてはもはやそうする口実がなくなり,その計画を延期しました。後の上陸の下準備として,連合国は1940年4月8日にノルウェー領海に機雷を敷設し始め,その翌日にはドイツ軍が,機雷敷設作戦に対する抗議運動に没頭するノルウェー国民をしりめに,突然ノルウェーとデンマークの両国に上陸を開始しました。その後1週間もたたないうちに英国軍はノルウェーに上陸しましたが,数回勝利を収めた後,南側から穏やかならぬ報告が入ったため,撤退を余儀なくされました。

      いつ,どこでドイツがフランスを侵略するかということは,何か月もの間懸念されていた問題でした。いつまでたっても軍事行動は海戦に限られており,陸上は静穏そのものでした。一部のジャーナリストは,もはやブリッツクリークではなく,文字通りには“居すわり戦”を意味するジッツクリークになった“見せかけの戦争”について語るようになりました。

      しかし,1940年5月10日にドイツが仕掛けた奇襲攻撃は見せかけどころではありませんでした。ドイツとの国境でフランスを守る防衛線であったマジノ線を迂回したドイツ軍は,北海沿岸の低地帯を攻撃して通過し,ベルギーを急いで駆け抜け,5月12日にはフランス国境に達しました。5月14日までにオランダを制圧した後,ドイツ軍はフランス北部を破竹の勢いで突き進み,英国人,ベルギー人,フランス人から成る幾千幾万という兵士をイギリス海峡まで追い詰めました。この戦争はジッツクリークどころか,大規模なブリッツクリークになりました。

      5月26日,フランスのダンケルクで,戦争史上最も劇的な救出作戦の一つが開始されました。幾隻もの軍艦と幾百隻もの民間船が十日間をかけ,約34万人の兵士を乗せてイギリス海峡を渡り,無事英国に運びました。しかし逃れた人ばかりではありませんでした。ドイツ軍は3週間もたたないうちに百万人以上を捕虜にしています。

      イタリアは6月10日に英国とフランスに宣戦を布告しました。その四日後にはパリがドイツ軍の手にかかって陥落し,その月が終わる前に,スペインとドイツの間で休戦条約が調印されたため,英国は孤立しました。ホーファーの表現によれば,「ヒトラーは,自分でも考えつかなかったような電撃的な速さで,西ヨーロッパに君臨するようになった」のです。

      ヒトラーの期待に反して,英国人は降伏しませんでした。そのためヒトラーは7月16日に,英国諸島を侵略する「トド」作戦を発令し,英国は再び電撃的な攻撃を受ける事態に直面し,緊張しました。

      今度はどうなるのか

      エホバの証人は多年にわたり,国際連盟が活動できなくなることを公に予告してきました。a 電撃的に第二次世界大戦が勃発したことによって,生き延びようとする同連盟の苦闘には終止符が打たれ,延び延びになっていた葬式を執り行なうことができました。死骸は,啓示 17章7節から11節に記されている底知れぬ深みに横たえることができました。エホバの証人はその聖句を根拠として,同連盟の失敗を予告していたのです。

  • 第3部 ― 1935-1940 よろめきながら滅びへ向かう国際連盟
    目ざめよ! 1987 | 4月8日
    • [18ページの図版]

      戦争は国際連盟に対する弔鐘となった

      [クレジット]

      U.S. National Archives photo

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