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  • 孤独 ― 隠れた苦悩
    目ざめよ! 1993 | 9月22日
    • 自力で対処することの必要性

      米国のカリフォルニア州立大学フラートン校で健康問題の教育に携わっているドローレス・デルコーマは,孤独と闘う努力について次のように述べ,一つの重要な真理を的確に指摘しました。「努力は本人の内部から出る必要がある。結局は本人が自分の問題を自覚しなければならない。他の人がどんなに助けようとしても,殻を打ち破って出てくるよう助けることができるのは,本人以外にない」。

      溶け込むことを自分で難しくしている人々を,ウォーレン・ジョーンズ博士は,孤独になりがちな性格の人々と呼んでいます。「そのような人は無意識に,自分が他の人に親しみを感じるのを妨げるような方法で物事を行なっている。耳を傾けて聴くことを知らない人もいれば,会話を独占する人もいる。自分に対しても他人に対してもどちらかと言えば批判的である。彼らはあまり質問をしない。そして,意地の悪いことや不快なことを言って友情を台なしにすることが多い」。

      それらは基本的に自尊心に欠けた人たちですが,そのほかに,人とのふれ合いに必要な社交術に欠けた人々もいます。そのような人たちについて,治療専門家のエブリン・モシェッタはこう言っています。「孤独な人たちは,自分に対してあまり良い印象を抱いていない。相手にされないことを予期して,自分から近づこうとはしない」。

      ところが研究者たちは,従来言われてきたこととは裏腹に,年配の男女のほうが若い人々よりも孤独に苦しまないことに気づきました。その理由は定かではありません。さらに,年配者が孤独を感じる場合は,身寄りがないからというより,友達がいないためであることにも気づきました。「お年寄りにとって家族の絆が重要ではないというわけではない。実際,お年寄りは家族に助けを求める。ところが,助けてくれる家族の者が大勢いても,友達がいなければひどく寂しく感じるのだ」。

      親しい友達を持つことの必要性

      どんな年齢の人も,家族や親族以上に親友が必要を満たしてくれる時があるものです。人間は友達を必要とします。それも,感情を傷つけられるという心配をせずに秘密を打ち明けられる,あるいはありのままの自分を出せる,親しい友達を必要としています。そのような友達がいなければ,孤独感は深まるでしょう。米国の随筆家ラルフ・ウォルドー・エマソンはそういう友達について,『友の前では,考えていることを声に出すことができる』と書きました。そのような友人こそ腹心の友です。そのような友人に対しては,ありのままの自分をさらけ出しても,裏切られるおそれもなければ,秘密を悪用されて評判を傷つけられたり,物笑いの種にされる心配もありません。誠実な友人だと思っていたのに,その信頼にこたえなかった人もいるかもしれません。しかし,『他の人の内密の話を明かさない』,「兄弟より固く付く友人」もいます。―箴言 18:24; 25:9。

      自分はタフだから,だれも必要としないという態度を取る人がいます。他人に頼る必要はない,何でも自分でできるというわけです。しかしながら,そういう人たちも多くの場合集まって,タフィーというグループを作っています。子供たちはクラブに入り,クラブハウスを建て,グループを形成します。もっと年上の若者の間には,バイク仲間がいます。犯罪者には,密告をしない親しい仲間がいます。飲酒の問題を抱える人は断酒会に加入します。肥満と闘っている人は,ウェイトウォッチャーズという団体に入ります。人々には集団を好む傾向があり,支えを求めてグループを形成します。惨めな状態にあっても,人々は仲間がそばにいてほしいのです。そして,だれもが例外なく孤独を嫌っています。では,孤独にどう対処すればよいでしょうか。

  • 孤独 ― 闘って勝つ決意を抱いていますか
    目ざめよ! 1993 | 9月22日
    • 孤独 ― 闘って勝つ決意を抱いていますか

      あなたは孤独を感じますか。既婚者であれ独身者であれ,男性であれ女性であれ,老人であれ若者であれ,人生には孤独を感じて当然な時があるものです。もちろん,独りでいると必ず寂しくなるというわけでもありません。研究に没頭している学者は独りでいても寂しさを感じません。絵を描くことに熱中している画家は寂しさを感じる暇もありません。こうした人は孤独な時間を歓迎します。この場合,孤独は最良の友なのです。

      本当の孤独感は,外部からよりもむしろ,わたしたちの内面から募るものです。だれかの死,離婚,失業,災難といった悲しい出来事が引き金になって孤独を感じるようになるかもしれません。自分の内面を明るく照らすなら,そのような孤独感は薄らぎ,時がたてば,消えてなくなることもあります。そして苦しい損害に適応し,それを吸収できるようになります。

      感情は思考から生じます。損害が吸収され,損害から生じていた感情が引いて行ったなら,今度は活動的な生活を送るのに役立つ建設的な事柄を主に考える時です。

      元気を奮い起こしてください。自分をよくコントロールしてください。積極的な事柄はたくさんあります。ですから,外向的であってください。だれかに電話をしたり,手紙を書いたり,読書をしたり,家に人を招待したり,意見の交換をしたりしてください。友達をつくるには,あなた自身が親しみやすい人であることを示さねばなりません。自分から他の人と接触するために,自分の内面を吟味してください。小さな親切を示すようにしましょう。心の慰めになる,喜ばしい霊的な事柄をしましょう。そうすれば,「受けるより与えるほうが幸福である」とイエスが言われたとおりであることが分かります。また,「他の者に惜しみなく水を注ぐ者は,自分もまた惜しみなく水を注がれる」という箴言が真実であることも実感できます。―使徒 20:35。箴言 11:25。

      あなた次第です

      実行に移すのは難しいですか。口で言うほど簡単ではないでしょうか。価値ある事柄を行なう場合はいつでも,口で言うほど簡単ではありません。だからこそ,それを行なえば満足が得られるのです。特別の努力を払わなければなりません。与える気持ちがあれば,内面の明るい光はますます明るくなります。あなたを支配しようとする孤独感を敗走させる努力を払うかどうかは,あなた次第です。モダン・マチュリティー誌の一執筆者はこう述べています。「孤独の原因はほかならぬあなたにあるが,あなたにできることはある。友を一人見いだすだけでも生活範囲を広げることができる。だれかに傷つけられたと感じても,その人を許すことができる。手紙を書いたり,電話をかけたりするのもよい。あなたの生き方を変えられるのは,あなただけなのだ。あなたの代わりにそれを行なえる人はだれもいない」。この執筆者は投書の中から,「『孤独な生活や満たされない生活を避けられるかどうかは本人次第だというのが私の持論です。やる気を出しなさい』と書かれた,的を射た」一通を引用しています。

      助けになってくれる友達を人間だけに限る必要はありません。ある獣医は,「高齢者が直面する最も大きな問題は,体の病気ではなく,疎外されることや孤独である。ペット(犬など)を飼うと,高齢者は長い時間社会から離れている場合でも……友が得られるので,目的と生きがいを失わずにすむ」と語りました。ベターホームズ・アンド・ガーデンズ誌は,「ペットは,情緒の不安定な高齢者の治療に役立ち,病人や心身障害者に刺激を与え,孤独感に悩む人や高齢者に生気を回復させるのに有効である」と述べています。別の雑誌の記事は,最近ペットに興味を持つようになった人々についてこう述べています。「患者の不安は軽減され,嫌われるという心配もなくペットに愛情を表現することができた。しばらくすると患者たちは人とも話をするようになった。会話はペットの世話についての話から始まった。患者たちは責任を感じるようになった。自分が必要とされていること,自分が頼りにされていることを感じた」。

      孤独に悩まされている人は往々にして,自力で絶望のどん底からはい上がろうと努力をしません。ものぐさであったり,意欲がわかなかったりして,そこまで努力しないのです。しかし,自分が孤独である真の原因を理解したいのであれば,奮起しなければなりません。ジェームズ・リンチ医師は,受け入れにくく思える助言に人々が抵抗することについて次のように書いています。「人間というものは一般に,自分の気に入らない情報は聞こうとしないものだ。少なくとも自分の行動には取り入れようとしない」。孤独から逃れたいと思ってはいても,そのために必要とされる意志の力を奮い立たせる気がないのかもしれません。

      望んでいるとおりの気持ちで行動する

      深刻な憂うつに打ち勝つには,真の快活さと人に親切にすることを追求し続けなければなりません。(使徒 20:35と比較してください。)そのためには,無気力とは正反対の行動を取ることによって,凝り固まった孤独感を打破する必要があります。快活に振る舞い,躍り回り,楽しい歌を歌いましょう。幸福な気持ちを表わす事柄を何でも行ないましょう。オーバーに,やり過ぎるぐらい行ないましょう。明るい考えで陰気な気分を追い出すのです。例えば,どんな考えでしょうか。

      フィリピ 4章8節にある考えはその一例です。「終わりに,兄弟たち,何であれ真実なこと,何であれまじめなこと,何であれ義にかなっていること,何であれ貞潔なこと,何であれ愛すべきこと,何であれよく言われること,また何であれ徳とされることや称賛すべきことがあれば,そうしたことを考え続けなさい」。

      必要なのは,自分の生活に意味を持たせることです。生活に何らかの意味を感じていれば,それに反応する力がわき,それを成し遂げようと努めるものです。弱々しい孤独感に陥ることは多分ないでしょう。ビクター・フランクルはこの点を,「意味を模索する人間」という本の中で興味深く述べています。フランクルは,ヒトラーの強制収容所にいた囚人に関連してこのことを論じています。自分の生活に意味を感じていない人々は,寂しさに負けてしまい,生きる意志にも欠けていました。しかし,「自分の内面の価値を自覚していた人々は,より高い,より霊的な事柄にしっかりとどまり,収容所での生活にも動揺することはなかった」のです。フランクルはこう続けています。「例えば,犠牲の意義など,受けている苦しみに意義があれば,ある意味で苦しみは苦しみでなくなる。……人の主な関心事は,快楽を得ることでも痛みを避けることでもなく,むしろ,自分の生活に意義を見いだすことである。自分の苦しみに確かに意義がある場合には,苦しむ覚悟すらできているのはそのためである」。

      あなたに必要な究極の関係

      真に霊的な見方を持つには,神に近づき,み言葉聖書に親しむよう努めなければなりません。神を信じ,心から神に祈るなら,生活は意味のあるものになります。そうなれば,たとえ他の人との関係が崩れても,独りぼっちになることはなく,孤独に追い込まれることはありません。フランクルが述べたとおり,苦しみに意味があれば耐えることができます。喜びのもととなる場合さえあります。ある人は人間の本質を観察して,「杭に掛けられる殉教者は,王座にいる王もうらやむほど幸福なのかもしれない」と述べました。

      キリストの使徒たちは人から迫害されていても,エホバから来る喜びを感じていました。彼らにとって,そのような苦しみには重要な意味があったのです。「義のために迫害されてきた人たちは幸いです。天の王国はその人たちのものだからです。人々がわたしのためにあなた方を非難し,迫害し,あらゆる邪悪なことを偽ってあなた方に言うとき,あなた方は幸いです。歓び,かつ喜び躍りなさい。天においてあなた方の報いは大きいからです。人々はあなた方より前の預言者たちをそのようにして迫害したのです」。(マタイ 5:10-12)同じような反応が,使徒 5章40節と41節にも記録されています。「みんなは……使徒たちを呼び出してむち打ち,イエスの名によって語るのをやめるようにと命じてから,彼らを去らせた。そのため,これらの者は,彼の名のために辱められるに足る者とされたことを歓びつつ,サンヘドリンの前から出て行った」。

      バラを育てている所にアザミは生えない

      あなたの頭の中の土壌に,美と積極的な目的という種をいっぱいにまいてください。そして,悲観からくる失望と気の滅入るような孤独という種をまく余地を残さないようにします。(コロサイ 3:2; 4:2と比較してください。)難しいことですか。状況によっては,不可能に思えるかもしれません。ある詩人は,「あなたがバラを育てている所には……アザミは生えない」と書いています。この場合にも,積極的な努力と,意志の力を働かせる決意とが必要です。しかし,それは可能であり,そうしている人々は現にいるのです。

      ローレル・ニズベットの例を考えてみましょう。彼女はポリオにかかり,36歳で鉄の肺に入れられ,その中で37年間あお向けに寝たままの日々を送りました。首から下は完全にまひし,頭は動かせましたが,それ以外の部分は動かせませんでした。最初ローレルは悲しみのあまり絶望のどん底にありました。それから,1日ほど自分をみじめに思った後,『こんなことをしてはいられない!』と心に決めました。二児の母で,夫もいました。ローレルは第二の人生を歩み始めました。鉄の肺の中から家の世話をするようになったのです。

      ローレルはあまり眠りませんでした。長い夜の時間をどのように過ごしたのでしょうか。寂しさに屈してしまったでしょうか。そうではありません。天の父エホバに祈りをささげたのです。自分に力を与えてくださるよう,またクリスチャンの兄弟や姉妹のために祈り,さらには他の人に神の王国について証言する機会を祈り求めました。宣べ伝える方法をいろいろと工夫し,エホバのみ名のために証言をすることによって多くの人に感銘を与えました。ローレルは寂しさというアザミが生えるのを許しませんでした。バラを育てることで頭がいっぱいだったのです。

      ものみの塔の宣教者,ハロルド・キングの場合も同様です。中国の刑務所で5年の刑に処せられて独房に監禁されたハロルドは,長い間孤独に悩まされてもおかしくありませんでした。しかし,そのような悲観的な見方をはねのけ,意識的に意志の力を働かせて考えを別の方向に向けました。ハロルドは後日こう語っています。

      「“伝道”活動のプログラムを組みました。独房の中でだれに伝道するのかですって? 私は,記憶していた事柄をもとに適切な聖書の話を準備し,頭の中でいろいろな人に伝道することにしました。さて,伝道開始です。架空のドアをたたき,架空の家の人に証言をし,午前中に数軒の家を訪問します。そうしているうちに,カーター夫人という架空の人物に会いました。この人は少し関心を示しました。何度か訪問を重ねた後,定期的に聖書を研究することになりました。この方との研究では,『神を真とすべし』の本の中の,自分が覚えていた主な題目を扱いました。これを全部声に出して行ないました。これらの事柄が音になって私の思いに一層深く刻み込まれるようにするためです」。

      ヒトラーの強制収容所に入れられた幾千人ものエホバの証人は,信仰を捨てさえすれば自由になることができました。しかし信仰を捨てた人はごく少数でした。何千人もの証人が忠実を保って亡くなりました。処刑された人たちもいれば病気や栄養失調などで亡くなった人たちもいました。ヨーゼフという名の証人が収容されていましたが,彼の二人の兄も別の収容所にいました。そのうちの一人は,刃が落ちてくるのが見えるようあお向けに寝かされて斬首刑に処せられました。ヨーゼフはこう言いました。「収容所内の他の人々はこれを聞くと,私を祝してくれました。彼らの積極的な態度に私は深い感銘を受けました。私たちにとって忠節を保つことは生き続けることよりも大切だったのです」。

      もう一人の兄は銃殺隊の前に立たされ,何か言い残すことはないかと尋ねられました。祈りをささげてもよいか尋ねたところ,許可されました。同情を誘う感動的で,心からの喜びにあふれた祈りだったため,撃てと命令されても銃殺隊のうちのだれ一人命令に従おうとはしませんでした。再び命令が出されると,ようやく一発の銃弾が発射され,彼の体に当たりました。これに激怒した指揮官は,自分のけん銃を抜いて止めを刺しました。

      生活を真に意味のあるものにする事柄

      これらの例はいずれも,神に対する強い信仰が関係しています。あらゆる方法を試みてうまくゆかなかった場合でも,強い信仰は常に,孤独に対して勝利をもたらし,空虚だった生活を意味のあるものにします。俗世間で意味のある生活とみなされているものの多くは,実際には意味のない生活なのです。なぜそう言えるのでしょうか。そのような人生を送っていても,人は最後には死に,塵に帰り,忘れ去られてしまうからです。人類の海にさざ波を立てるわけでもなく,時間の砂浜に足跡を残すわけでもありません。伝道の書 9章5節が述べているとおりです。「生きている者は自分が死ぬことを知っている。しかし,死んだ者には何の意識もなく,彼らはもはや報いを受けることもない。なぜなら,彼らの記憶は忘れ去られたからである」。エホバの目的から離れた人生にどんな意味を付したとしても,それは空虚でむなしい人生です。

      星空を仰いで,頭上の暗い天空の広大さを感じてください。そうすれば,あなたが有意義と感じている事柄はしぼんでしまって無に等しくなってしまうでしょう。詩編作者ダビデの気持ちが分かるようになります。ダビデはこう書いています。「わたしがあなたの指の業であるあなたの天を,あなたの定められた月や星を見るとき,死すべき人間が何者なのであなたはこれを思いに留められるのですか。地の人の子が何者なのでこれを顧みられるのですか」。ダビデの息子ソロモンは人間の営みについて,「すべてのものはむなしい」とし,「すべてのことが聞かれたいま,事の結論はこうである。まことの神を恐れ,そのおきてを守れ。それが人の務めのすべてだからである」と結んでいます。―詩編 8:3,4。伝道の書 12:8,13。

      では,つまるところ,孤独な人は,またこの点について言えばどんな人も,どうすれば生活に意味を持たせることができるでしょうか。神を恐れ,神の命令に従うことによってです。そのようにする時初めて,人は広大な宇宙の創造者である神の目的と調和するようになり,神のとこしえのその取り決めの一部になるのです。

      神が共におられるなら,あなたは決して独りではない

      アフリカのある忠実なエホバの証人の女性は,ひどい迫害と見捨てられたという気持ちに耐えた後,たとえ人との関係が絶えても独りではなかったと語りました。彼女は,「わたしの父とわたしの母がわたしを捨て去ったとしても,エホバご自身がわたしを取り上げてくださることでしょう」という詩編 27編10節を引用しました。イエスも同じようにお感じになりました。「見よ,あなた方がそれぞれ自分の家に散らされてわたしを独りだけにする時が来ます。そうです,現に来ているのです。それでも,わたしは独りではありません。父が共にいてくださるからです」― ヨハネ 16:32。

      イエスは独りになることを恐れたりはされませんでした。よく独りになる機会を探されました。イエスは独りの時も寂しさを感じられませんでした。イエスは自分の心を開いて神の霊が流れ込むようにし,神の創造物の中に身を置いている時には神を身近にお感じになりました。時には,人から離れて神とふたりだけになられました。イエスは『神に近づかれたので,神はイエスに近づいてくださいました』。(ヤコブ 4:8)イエスは間違いなく神の最も親密な友でした。

      聖書が述べているような友達は,貴重な存在です。(箴言 17:17; 18:24)エホバ神に対する確固たる信仰と神に対する絶対的な従順を示したアブラハムは,「『エホバの友』と呼ばれるようになりました」。(ヤコブ 2:23)イエスは追随者たちにこう言われました。「わたしが命令していることを行なうなら,あなた方はわたしの友です。わたしはもはやあなた方を奴隷とは呼びません。奴隷は自分の主人の行なうことを知らないからです。しかしわたしはあなた方を友と呼びました。自分の父から聞いた事柄をみなあなた方に知らせたからです」― ヨハネ 15:14,15。

      エホバ神とキリスト・イエスを友としていれば,信仰を持つ人がどうして孤独に負けることなどあるでしょうか。

      [8,9ページの図版]

      祈ったり,様々な活動をしたりすれば,孤独を避ける助けになる

      [10ページの図版]

      ハロルド・キングの経験や,強制収容所に入れられた幾千人ものエホバの証人の経験は,最悪の状況にあっても神への信仰には孤独を克服する力があることを証明している

      [クレジット]

      写真提供: U.S. National Archives

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