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    ものみの塔 2002 | 5月15日
    • エホバの愛ある親切から益を得る

      「賢い者はだれか。その者は……エホバの愛ある親切の行為に自分が注意深いことをも示すであろう」。―詩編 107:43。

      1 「愛ある親切」という表現が聖書で初めて用いられたのはいつですか。この特質に関連したどんな問いについて考えますか。

      約4,000年前,アブラハムのおいロトはエホバについて,「あなたはご自分の愛ある親切を広げておられ(る)」と述べました。(創世記 19:19)聖書で「愛ある親切」という表現が出てくるのは,これが最初です。ヤコブ,ナオミ,ダビデ,その他の神の僕たちも,エホバのこの特質について語りました。(創世記 32:10。ルツ 1:8。サムエル第二 2:6)事実,「愛ある親切」という語は「新世界訳聖書」で250回ほど出てきます。ところで,エホバの愛ある親切とは何でしょうか。それは過去においてだれに示されましたか。わたしたちは今日,どのようにその益にあずかっていますか。

      2 「愛ある親切」と訳されるヘブライ語を定義するのがかなり難しいのはなぜですか。別の適切な訳としてどんな語がありますか。

      2 聖書の中で,「愛ある親切」は,非常に豊かな意味を持つヘブライ語の言葉の訳であり,たいていの言語において,その十分な意味を一語で正確に表わせる単語はありません。例えば,「愛」,「憐れみ」,「忠実」といった訳は,その語の幅広い意味を余すところなくとらえてはいません。それに対し,さらに包括的な訳である「愛ある親切」(loving-kindness)は,「その語の持つ豊かな意味をおおむね伝えている」と,「旧約聖書の神学用語集」(英語)は述べています。「新世界訳聖書 ― 参照資料付き」は,「愛ある親切」と訳されるヘブライ語の別の適切な訳として,「忠節な愛」(loyal love)という語も挙げています。―出エジプト記 15:13; 詩編 5:7; 脚注。

      愛や忠節とは異なる

      3 愛ある親切は,愛とどのように異なっていますか。

      3 愛ある親切,もしくは忠節な愛は,愛や忠節という特質と密接に結びついています。しかし,これらとの重要な違いもあります。愛ある親切と愛とがどのように異なっているかを考えてみましょう。愛は,種々の事物や概念に対しても示されることがあります。聖書は,『ぶどう酒と油を愛する』,また『知恵を愛する』ことについて述べています。(箴言 21:17; 29:3)しかし愛ある親切は,概念や無生の事物ではなく,人々と関係があります。例えば,エホバが「愛ある親切を千代にまで施す」という出エジプト記 20章6節の記述では,人々が関係しています。

      4 愛ある親切は,忠節とどのように異なっていますか。

      4 「愛ある親切」と訳されるヘブライ語の言葉はまた,「忠節」という語より多くのことを包含しています。言語にもよりますが,「忠節」は多くの場合,従属する立場の人が自分より上位の人に示す態度に関して用いられます。しかし,ある研究者が述べているとおり,聖書の観点からすれば,愛ある親切は,「まさにその逆向きの関係について述べる場合のほうが多い。強力な者が,弱い者,窮状にある人,他者に頼っている人に対して忠節である」ということです。ですから,ダビデ王はエホバにこう請願することができました。「あなたの僕の上にみ顔を輝かせてください。あなたの愛ある親切によってわたしを救ってください」。(詩編 31:16)強力な方エホバに対して,窮状にあったダビデに愛ある親切もしくは忠節な愛を示してくださるようにとの願いが述べられています。窮状にあるからといって,強力な者に対する権限を持っているわけではありませんから,そのような場合に示される愛ある親切は,強いられてではなく,進んで表わされるものです。

      5 (イ)神の愛ある親切のどんな特色が,み言葉の中で際立っていますか。(ロ)エホバの愛ある親切のどんな表われについて考えますか。

      5 詩編作者はこのように問いかけています。「賢い者はだれか。その者は……エホバの愛ある親切の行為に自分が注意深いことをも示すであろう」。(詩編 107:43)エホバの愛ある親切によって,人は救出され,生き長らえます。(詩編 6:4; 119:88,159)それは保護となり,難儀からの救済をもたらす要素でもあります。(詩編 31:16,21; 40:11; 143:12)この特質のおかげで,罪からの立ち直りが可能になります。(詩編 25:7)聖書の幾つかの物語を振り返りつつ,他の幾つかの聖句にも目を留めると,エホバの愛ある親切は,(1)明確な行動によって示され,(2)忠実な僕たちがそれを経験する,ということが分かります。

      救出 ― 愛ある親切の表明

      6,7 (イ)エホバは,ロトに関して,ご自分の愛ある親切をどのように広げましたか。(ロ)ロトはどんな時にエホバの愛ある親切について述べましたか。

      6 エホバの愛ある親切がどの程度に及ぶものかを見極める最善の方法は,この特質に関連した聖書の記述を調べることでしょう。創世記 14章1-16節には,アブラハムのおいロトが,敵の軍勢によって連れ去られたことが記されています。しかし,アブラハムはロトを助け出しました。エホバが邪悪なソドムの都市を滅ぼすことにされた時,ロトの命は再び危険にさらされました。ロトとその家族はそこに住んでいたのです。―創世記 18:20-22; 19:12,13。

      7 ソドムが滅ぼされる直前に,エホバのみ使いたちは,ロトとその家族を都市の外に連れ出しました。その時,ロトは言いました。「いまこの僕はあなたの目に恵みを得たために,あなたはご自分の愛ある親切を広げておられ,わたしの魂を生き長らえさせるためにそれを働かせてくださったのです」。(創世記 19:16,19)ロトはこのように語って,エホバが異例なまでに愛ある親切を示して自分を助け出してくださったことを認めました。この場合,神の愛ある親切は,救出し,生き長らえさせることによって示されました。―ペテロ第二 2:7。

      エホバの愛ある親切とその方の導き

      8,9 (イ)アブラハムの僕はどんな任務を受けましたか。(ロ)その僕が神の愛ある親切を祈り求めたのはなぜですか。祈っていた時,どんなことが起きましたか。

      8 創世記 24章には,神の愛ある親切,もしくは忠節な愛の別の表明について記されています。その記述は,アブラハムが自分の僕に与えた任務について伝えています。それは,アブラハムの親族の土地に旅して,息子イサクのために妻を見つけることでした。(2-4節)たやすい使命ではありませんでしたが,僕はエホバのみ使いによる導きを確信していました。(7節)ついにその僕は,「ナホルの都市」(ハランか,それに近い場所)の外れにある井戸のところに着きました。それはちょうど,女たちが水をくみに来るころでした。(10,11節)僕は,女たちが近づいて来るのを見て,自分の使命の成否を左右する時に至ったと察知しました。しかし,どうすればふさわしい女性を選び出せるでしょうか。

      9 アブラハムの僕は,神の助けが必要であると感じていたので,こう祈りました。「わたしの主人アブラハムの神エホバ,どうかこの日にわたしの前でそれを果たし,わたしの主人アブラハムに愛ある親切をお示しください」。(12節)エホバはどのように愛ある親切を示されるのでしょうか。僕は,神が選ばれた若い女性を見分けられるように明確なしるしを求めました。(13,14節)一人の女性は,僕がエホバにまさに願い求めたとおりのことをしました。先ほどの祈りをそばで聞いていたかと思えるほどです。(15-20節)僕は驚き入り,「驚嘆しながら彼女を見つめ」ました。それでも,まだ見定めるべき肝要な点がありました。器量の良いこの女性は,アブラハムの親族の一人でしょうか。未婚でしょうか。ですから僕は,「エホバが自分の旅を成功させてくださったのかどうかを知ろうとしてずっと沈黙して」いました。―16,21節。

      10 アブラハムの僕が,エホバは自分の主人に愛ある親切を示してくださったと判断したのはなぜですか。

      10 それから間もなく,その若い女性は,自分は「ミルカの子ベトエル,ミルカが[アブラハムの兄弟]ナホルに産んだ者の娘」です,と名乗りました。(創世記 11:26; 24:24)その時,この僕は,エホバが祈りを聞き届けてくださったことを悟りました。そして,感極まり,身をかがめてこう言いました。「わたしの主人アブラハムの神エホバがほめたたえられますように。わたしの主人に対して愛ある親切と信頼性とをお捨てにならなかったのです。わたしは道を参りましたが,エホバはわたしを主人の兄弟たちの家へと導いてくださいました」。(27節)神は,導きを与えて,その僕の主人アブラハムに愛ある親切を示されました。

      神の愛ある親切は救済となり,保護となる

      11,12 (イ)ヨセフは,どんな試練の間もエホバの愛ある親切を経験しましたか。(ロ)ヨセフの場合,神の愛ある親切はどのように示されましたか。

      11 次に創世記 39章について考えましょう。そこでは,アブラハムのひ孫で,エジプトに奴隷として売られたヨセフに焦点が当てられています。そのような境遇の中でも,「エホバはヨセフと共におられ」ました。(1,2節)現にヨセフのエジプト人の主人ポテパルまでも,エホバがヨセフと共におられると判断しました。(3節)それでも,ヨセフは非常に厳しい試みに直面しました。ポテパルの妻に性的暴行を加えようとしたという濡れ衣を着せられ,投獄されたのです。(7-20節)「獄の穴」において,「人々は彼に足かせを掛けて苦しめ,彼の魂は鉄かせの中に入(り)」ました。―創世記 40:15。詩編 105:18。

      12 とりわけつらいそうした経験をしていた期間に,どんなことがあったでしょうか。「エホバは引き続きヨセフと共におられて終始愛ある親切を差し伸べ」ました。(21節前半)ある一つの,愛ある親切の行為によって一連の事態が展開しはじめ,それによってヨセフはやがて,自分の経験していた難儀から救済されます。エホバはヨセフが「獄屋の長の目に恵みを得られるようにされ」ました。(21節後半)結果として,その長はヨセフを責任ある立場に割り当てます。(22節)次にヨセフはある人に出会い,その人は後にヨセフについてエジプトの支配者ファラオに知らせます。(創世記 40:1-4,9-15; 41:9-14)次いで王は,ヨセフをエジプト第二の支配者の立場に高め,こうしてヨセフは,飢きんに見舞われたエジプトの地で,命を救う業を果たすことになります。(創世記 41:37-55)ヨセフの苦しみは17歳の時に始まり,十何年か続いたのです。(創世記 37:2,4; 41:46)しかし,苦難に遭って苦しめられていたその期間中ずっと,エホバ神は,ヨセフを極度の災いから保護し,また神の目的にかかわる特権となる役割のために生き長らえさせて,ヨセフに愛ある親切を表わされました。

      神の愛ある親切は決して絶えない

      13 (イ)詩編 136編は,エホバの愛ある親切がどのように表わされることについて述べていますか。(ロ)愛ある親切とは,どのようなものですか。

      13 エホバは,一つの民としてのイスラエル人に対して,愛ある親切を繰り返し示されました。詩編 136編には,エホバが愛ある親切をもってその民を救出し(10-15節),導き(16節),保護された(17-20節)ことについて述べられています。神はまた,個々の人に対しても愛ある親切を表わされました。仲間の人間に愛ある親切を示す人は,何かの差し迫った必要を満たすための自発的な行ないによってその親切を示します。愛ある親切について,聖書のある参考文献はこう述べています。「それは生活を保護する,もしくは向上させる行為である。それは不幸や苦難に遭っている人のために事態に介入することである」。一人の学者はそれを「行動に移された愛」と描写しています。

      14,15 ロトが神の是認された僕であると確信できるのはなぜですか。

      14 これまでに調べた創世記の記述は,エホバがご自分を愛する人たちに,絶えることなく愛ある親切を表わされるということを示しています。ロト,アブラハム,ヨセフは,それぞれ異なる状況下で生活し,直面した試練も大きく異なっていました。いずれも不完全な人間でしたが,エホバの僕として是認を受け,また神の助けを必要としていました。愛ある天の父が,そのような人々に愛ある親切を表わされるということは,わたしたちにとって慰めとなります。

      15 ロトは,賢明でない決定を幾つか下し,そのために辛苦を経験しました。(創世記 13:12,13; 14:11,12)しかし,褒めるべき特質も示しました。神の二人のみ使いがソドムに着いた時,ロトはこれをもてなしました。(創世記 19:1-3)また,ソドムの滅びが切迫していることを,信仰のうちに婿たちに警告しました。(創世記 19:14)神がロトをどうご覧になっていたかは,ペテロ第二 2章7-10節にこう記されています。「無法な人々の放縦でみだらな行ないに大いに苦しんでいた義人ロトを[エホバが]救い出されたのであれば ― この義人は日々彼らの間に住んで見聞きする事柄により,その不法な行ないのゆえに,自分の義なる魂に堪えがたい苦痛を味わっていたのですが ― 当然エホバは,敬虔な専心を保つ人々をどのように試練から救い出すか……を知っておられるのです」。そうです,ロトは義人でした。この聖句の言葉遣いからもうかがえるとおり,ロトは敬虔な専心を保つ人でした。わたしたちもロトのように,「聖なる行状と敬虔な専心」を実践する時,神の愛ある親切を受けることができます。―ペテロ第二 3:11,12。

      16 聖書は,アブラハムとヨセフについて,どのように好意的に述べていますか。

      16 創世記 24章の記述は,アブラハムとエホバとのきずなについて疑問をはさむ余地を残していません。その第1節は,「エホバはすべての点でアブラハムを祝福された」と述べています。アブラハムの僕はエホバを,「わたしの主人アブラハムの神」と呼びました。(12,27節)弟子ヤコブは,アブラハムが「義と宣せられ」,「『エホバの友』と呼ばれるようにな(った)」と述べています。(ヤコブ 2:21-23)ヨセフについても同様のことが言えます。エホバとヨセフとの緊密な関係については,創世記 39章の全体を通じて強調されています。(2,3,21,23節)また,ヨセフについて弟子ステファノは,「神は彼と共におられ(た)」と述べています。―使徒 7:9。

      17 ロト,アブラハム,ヨセフの例からどんなことを学べますか。

      17 ここで取り上げた,神の愛ある親切を受けた人たちは,エホバ神との良い関係を持っていた人たちで,それぞれ何らかの面で神の目的のために仕えました。また,自分の力では打ち勝つことができない障害にも直面しました。ロトは命を長らえられるか,アブラハムは家系を存続させることができるか,ヨセフは役割を確実に果たせるかどうかが危ぶまれました。エホバだけが,これら敬虔な人々の必要を満たすことができました。そして,愛ある親切の行為をもって事態に介入して,まさにそのことを行なわれました。わたしたちも,エホバの愛ある親切を永久に経験するには,神との緊密で個人的な関係を持ち,そのご意志を行ない続けなければなりません。―エズラ 7:28。詩編 18:50。

      神の僕たちは恵みを受けている

      18 エホバの愛ある親切について,種々の聖句はどんなことを示していますか。

      18 エホバの愛ある親切は「地に満ち(て)」います。わたしたちは,神のこの特質についてどんなにか感謝していることでしょう。(詩編 119:64)わたしたちは,詩編作者による次の繰り返し句の呼びかけに,心を込めてこたえ応じます。「ああ,その愛ある親切に対して,人の子らへのそのくすしいみ業に対して,人々がエホバに感謝するように」。(詩編 107:8,15,21,31)わたしたちは,エホバが個人であれ,グループであれ,ご自分の是認した僕たちに対して愛ある親切を差し伸べられることに歓びを感じます。預言者ダニエルは,祈りの中でエホバに対し,「まことの神……,大いにして畏怖の念を抱かせる方,神を愛してそのおきてを守る者に対して契約と愛ある親切とを守られる方」と呼びかけました。(ダニエル 9:4)ダビデ王は,「あなたを知る者たちにあなたの愛ある親切を……保ってください」と祈りました。(詩編 36:10)エホバがご自分の僕たちに愛ある親切を示されるということに,わたしたちは本当に感謝しているのではないでしょうか。―列王第一 8:23。歴代第一 17:13。

      19 次の記事では,どんな問いについて考えますか。

      19 わたしたちはまさしく,エホバの民として恵みを受けています。人類一般に対して示される神の愛から益を得ていることに加え,天の父の愛ある親切,もしくは忠節な愛による独特の祝福も受けているのです。(ヨハネ 3:16)とりわけ,助けの必要な状況にあるとき,エホバのこの貴重な特質から益を受けられます。(詩編 36:7)しかし,わたしたちはどのようにしてエホバ神の愛ある親切に倣えるでしょうか。わたしたち各自は,この優れた特質を表わしていますか。これらおよび関連した問いについて,次の記事で考えます。

  • 助けの必要な人に愛ある親切を示す
    ものみの塔 2002 | 5月15日
    • 助けの必要な人に愛ある親切を示す

      「互いに対して愛ある親切と憐れみとを実行せよ」。―ゼカリヤ 7:9。

      1,2 (イ)愛ある親切を表わすべきなのはなぜですか。(ロ)どんな問いについて考えますか。

      エホバ神の言葉は,「愛ある親切」を愛するようにと説き勧めています。(ミカ 6:8,脚注)同時に,そうすべき理由も示しています。一つの点として,「愛ある親切を抱いている人は自分の魂を豊かな報いをもって扱って」います。(箴言 11:17)これはまさに真実です。愛ある親切もしくは忠節な愛を示すなら,他の人たちとの温かい,永続的なきずなが結ばれます。その結果,わたしたちは忠節な友を得ます。実に貴重な報いです。―箴言 18:24。

      2 さらに聖書は,「義と愛ある親切とを追い求めている者は,命……を見いだす」とも述べています。(箴言 21:21)そうです,愛ある親切を追い求めるなら,神に愛されるようになり,永遠の命を含む将来の祝福にあずかる者となれます。とはいえ,どのように愛ある親切を示せるでしょうか。だれに対してそれを差し伸べるべきでしょうか。愛ある親切は,人間味のある普通の親切や,一般的な意味での親切と異なるのでしょうか。

      人間味のある親切と愛ある親切

      3 愛ある親切は,人間味のある親切とどのように異なっていますか。

      3 人間味のある普通の親切と,愛ある親切には,種々の違いがあります。例えば,人間味のある親切を示す人は多くの場合,相手と個人的に深いかかわりがなくても親切を示すものです。しかし,だれかに愛ある親切を示す場合,人は愛を込めてその相手に密着します。聖書の中で,人間どうしの愛ある親切の表明は,すでに存在していた関係に根ざすものである場合があります。(創世記 20:13。サムエル第二 3:8; 16:17)さらには,以前の親切な行為から生じた関係の上に築かれたものもあります。(ヨシュア 2:1,12-14。サムエル第一 15:6。サムエル第二 10:1,2)この二種類の親切の違いを例示するものとして,聖書中にある二つの例を比べてみましょう。一つは人間相互の間で示された親切と,もう一つは愛ある親切です。

      4,5 ここに挙げた聖書中の二つの例は,人間味のある親切と愛ある親切との違いをどのように例示していますか。

      4 人間味のある親切の一つの例は,使徒パウロを含む難船した人々の一行にかかわるものです。その人たちは,マルタ島の海岸に流れ着きました。(使徒 27:37–28:1)マルタ島の人たちは航海中に遭難したそれらの人々にかねてから恩義があったわけではありませんし,両者の間に交流があったわけでもありません。それでもその島民は,見知らぬ人たちを手厚く迎え,「人間味のある親切を一方ならず」示しました。(使徒 28:2,7)そのもてなしは親切なものでしたが,それは状況に応じて,見知らぬ人に対して示されたものです。ですから,それは人間としての親切です。

      5 一方ダビデ王が,友人ヨナタンの子メピボセテをもてなしたことについて考えましょう。ダビデはメピボセテに,「あなたは,いつもわたしの食卓でパンを食べるのだ」と告げました。なぜそのように取り計らうかについて,ダビデは,「わたしは必ず,あなたの父ヨナタンのために,あなたに対して愛ある親切を表わす」と説明しました。(サムエル第二 9:6,7,13)ダビデによる,定常的なもてなしのことが,単なる親切としてではなく,適切にも愛ある親切の表われとして語られています。それは,すでに確立されていた関係に対する忠節のしるしであったのです。(サムエル第一 18:3; 20:15,42)同様に今日でも,神の僕たちは人々一般に対して人間味のある親切を示します。それでも,共に神から是認された関係にある仲間に対しては,変わることのない愛ある親切もしくは忠節な愛を示します。―マタイ 5:45。ガラテア 6:10。

      6 人間相互の間で示される愛ある親切のどんな特色が神の言葉の中で際立っていますか。

      6 愛ある親切のほかの特色を見分けるために,この特質を際立たせている聖書の三つの記述について手短に考えましょう。その記述から,人間が差し伸べる愛ある親切は,(1)明確な行動によって示される,(2)進んで差し伸べられる,(3)助けを必要とする人に対して特に示される,という点に着目できます。さらに,それらの記述は,今日のわたしたちがどのように愛ある親切を表わせるかを例示しています。

      父親が愛ある親切を示す

      7 アブラハムの僕は,ベトエルとラバンにどんなことを語りましたか。その僕はどんな点を取り上げましたか。

      7 創世記 24章28-67節は,前の記事で触れた,アブラハムの僕に関する物語の続きを伝えています。その僕は,リベカに会った後,その父ベトエルの家に招き入れられます。(28-32節)その家で僕は,アブラハムの息子のために妻を探しに来たいきさつを詳しく語ります。(33-47節)僕は,その時までの成功をエホバからのしるしと見ていることを強調し,その方が,「わたしの主人の子息のためにその兄弟の娘を迎えるようわたしをまことの道に導いてくださった」と述べます。(48節)その僕は,事の次第について心を込めて語れば,ベトエルとその息子ラバンに,この使命の背後にはエホバがおられることを納得してもらえるという希望を抱いたのでしょう。僕は最後にこう言います。「もしあなた方がわたしの主人に対して愛ある親切と信頼性とを確かに示していてくださるのでしたら,そのことをわたしに話してください。また,もしそうでないなら,そのようにおっしゃってください。それによってわたしは右か左かに参ります」。―49節。

      8 リベカに関連した事柄について,ベトエルはどう反応しましたか。

      8 エホバはアブラハムに対してすでに愛ある親切を示しておられました。(創世記 24:12,14,27)ベトエルは,リベカがアブラハムの僕に同行するのを許して,進んで同じ態度を取るでしょうか。神の愛ある親切に加えて,さらに人からの愛ある親切も示されることになるでしょうか。それとも,その僕の長旅は徒労に終わるでしょうか。アブラハムの僕は,ラバンとベトエルが「エホバからこの事は出ています」と述べるのを聞いて,大いに安堵したに違いありません。(50節)二人は,その件におけるエホバのみ手の働きを認め,ためらわずに神の決定を受け入れます。次いで,ベトエルはこのように述べて,自分の愛ある親切を示します。「さあ,リベカはあなたの前にいます。彼女を連れて行って,エホバの語られたとおり,あなたのご主人の子息の妻にならせてください」。(51節)リベカは進んでアブラハムの僕に付いてゆき,やがてイサクの愛する妻となります。―49,52-58,67節。

      息子が示した愛ある親切

      9,10 (イ)ヤコブは,息子ヨセフにどんな頼み事をしましたか。(ロ)ヨセフは自分の父親にどのように愛ある親切を示しましたか。

      9 アブラハムの孫ヤコブも愛ある親切を受けました。創世記 47章が伝えているとおり,ヤコブはその時エジプトに住んでおり,『死ぬ日が近づいて』いました。(27-29節)ヤコブは,神がアブラハムに約束された地の外で死期を迎えようとしていたので,気をもんでいました。(創世記 15:18; 35:10,12; 49:29-32)ヤコブは,エジプトに葬られることを望まず,自分の死体がカナンの地に運ばれるように手はずを整えました。その願いが確実に遂げられるよう取り計らうのに,影響力のある息子ヨセフに勝る人がいるでしょうか。

      10 記述にはこうあります。「それで[ヤコブ]は息子ヨセフを呼んでこう言った。『もし今,あなたの目にわたしが恵みを得ているなら……愛ある親切と信頼性とをぜひわたしに示してくれるように。(どうかわたしをエジプトには葬らないでほしい。)そして,わたしはぜひとも自分の父たちのもとに横たわらねばならない。あなたは必ずわたしをエジプトから運び出し,父たちの墓に葬るように』」。(創世記 47:29,30)ヨセフはこの願いのとおりにすることを約束し,その後まもなくヤコブは死にました。ヨセフ,およびヤコブの他の息子たちは,ヤコブの遺体を『カナンの地に運び,マクペラの畑地,すなわちアブラハムが買い取った畑地の洞くつにこれを葬り』ました。(創世記 50:5-8,12-14)こうしてヨセフは,自分の父親に愛ある親切を示しました。

      嫁からの愛ある親切

      11,12 (イ)ルツはナオミに対してどのように愛ある親切を示しましたか。(ロ)ルツによる「この後のとき」の愛ある親切は,どのように「初めのとき」にも勝っていましたか。

      11 ルツ記は,やもめのナオミが,同じくやもめとなったモアブ人の嫁ルツから愛ある親切を受けたいきさつを伝えています。ナオミがユダのベツレヘムに戻ることに決めた時,ルツは自分の愛ある親切と決意をこう言い表わしました。「あなたの行かれる所にわたしも行き,あなたが夜を過ごされる所でわたしも夜を過ごすのです。あなたの民はわたしの民,あなたの神はわたしの神となります」。(ルツ 1:16)ルツは後に,ナオミの親族である年配のボアズと進んで結婚する意志を表わして,愛ある親切を示しました。a (申命記 25:5,6。ルツ 3:6-9)ボアズはルツにこう言いました。「あなたは,自分の愛ある親切を,初めのときにまさってこの後のときにいっそう良く示してくれました。立場が低かろうとも富んでいようとも,若い者たちの後を追おうとはしなかったからです」。―ルツ 3:10。

      12 ルツが愛ある親切を示した「初めのとき」とは,自分の民を離れてナオミに堅く付いた時のことです。(ルツ 1:14; 2:11)その行為にも勝るのは,「この後のとき」の愛ある親切,すなわちルツがボアズと進んで結婚する気持ちを示したことです。これでルツは,年老いて子どもを産めないナオミのために相続人を残すことができます。その結婚が執り行なわれます。後にルツの出産の際,ベツレヘムの女たちは,「ナオミに男の子が生まれた」と声を上げました。(ルツ 4:14,17)ルツはまさしく「優れた婦人」であり,それゆえにエホバからの報いとして,イエス・キリストの祖先の一人になるというすばらしい特権を与えられました。―ルツ 2:12; 3:11; 4:18-22。マタイ 1:1,5,6。

      行動によって示される

      13 ベトエル,ヨセフ,ルツはどのように愛ある親切を表わしましたか。

      13 ベトエル,ヨセフ,ルツがどのように愛ある親切を示したか,お気づきになりましたか。ただ親切な言葉をかけるだけでなく,明確な行動によって示したのです。ベトエルは,『さあ,リベカはここにいます』と言っただけでなく,実際に『リベカを送り出し』ました。(創世記 24:51,59)ヨセフは,「私はお言葉のとおりに致します」と言っただけでなく,兄弟たちと共に,ヤコブのため,「その命じたとおりにしてい(き)」ました。(創世記 47:30; 50:12,13)ルツは,「あなたの行かれる所にわたしも行き(ます)」と述べただけでなく,自分の民を離れ,ナオミに同行し,こうして「二人は共にその道を進み,ついにベツレヘムに着(き)」ました。(ルツ 1:16,19)ユダにおいても,ルツは「すべてしゅうとめが命じたとおりに」行動しました。(ルツ 3:6)そうです,ルツの愛ある親切も,他の人たちと同様,行動によって示されたのです。

      14 (イ)今の時代の神の僕たちは,愛ある親切を行動でどのように示していますか。(ロ)あなたの地方において,クリスチャンどうしの愛ある親切のどんな行ないをご存じですか。

      14 今日の神の僕たちが,行動によって今でも愛ある親切を示しているのを見るのは心温まることです。例えば,信仰の仲間で病気の人,憂いに沈んでいる人,悲嘆に打ちひしがれている人などに対し,感情面で終始支えになっている人たちについて考えてください。(箴言 12:25)高齢の人が王国会館における週ごとの会衆の集会に出席できるように,車での送迎を忠実に行なっている大勢のエホバの証人についても考えてください。関節炎を患っている82歳のアンナは,次のように述べて,他の多くの人の気持ちも言い表わしています。「すべての集会に車で送っていただいているのはエホバからの祝福です。そのような愛に富む兄弟姉妹を与えてくださったことについて,エホバに心から感謝しています」。あなたも会衆でそのような親切を示しておられますか。(ヨハネ第一 3:17,18)そうであれば,あなたの愛ある親切は深く感謝されていることを確信してください。

      進んで表わす

      15 これまでに考えた,聖書の三つの記述から,愛ある親切のどんな特色がさらに浮かび上がりますか。

      15 これまでに考えた聖書の物語は,愛ある親切が,強いられてではなく,惜しみなく,進んで差し伸べられるものであることも示しています。ベトエルはアブラハムの僕に進んで協力しました。リベカもそうです。(創世記 24:51,58)ヨセフは,他の人から促されなくても愛ある親切を示しました。(創世記 50:4,5)ルツは,『どうしても[ナオミ]と一緒に行こうと』しました。(ルツ 1:18)ボアズに近づくことをナオミがルツに勧めた時,モアブ人のこの女性は愛ある親切に動かされて,「すべてのことを,おっしゃるとおりに致します」とはっきり言いました。―ルツ 3:1-5。

      16,17 ベトエル,ヨセフ,ルツの愛ある親切がとりわけ意味深いものだったのはなぜですか。その人たちは何に動かされてこの特質を表わしましたか。

      16 ベトエル,ヨセフ,ルツが示した愛ある親切は,とりわけ意味深いものです。アブラハム,ヤコブ,ナオミは,その人たちに圧力をかけるような立場にはなかったからです。そもそもベトエルには,自分の娘と別れるべき法的義務はありませんでした。アブラハムの僕に対して,『いいえ,この働き者の娘を手離したくはありません』と言ってしまうことは簡単だったでしょう。(創世記 24:18-20)ヨセフの場合も,父親の願いに沿って行動するかどうかは自分の決定次第でした。ヤコブはいずれ死んで,ヨセフにその約束を守らせることはできないのです。ナオミ自身も,ルツはモアブにとどまっていてもよいと述べました。(ルツ 1:8)ルツにはまた,老齢のボアズとではなく,「若い者たち」と結婚する自由もありました。

      17 ベトエル,ヨセフ,ルツは進んで愛ある親切を示しました。そうしたいと内面から動かされたのです。その人たちは,自分とつながりのあった人に対してこの特質を表わす道義的責任を感じていました。後にダビデ王がメピボセテに関連して,それを表わす務めを感じたのも同様です。

      18 (イ)クリスチャンの長老は,どんな態度で「羊の群れを牧し」ますか。(ロ)ある長老は,仲間の信者の力になることについて,どんな気持ちを言い表わしましたか。

      18 愛ある親切は,今でも神の民のしるしです。神の羊の群れを牧する人にもそのことが当てはまります。(詩編 110:3。テサロニケ第一 5:12)それらの長老もしくは監督は,自分が任命されているゆえに受ける信頼にこたえる責任があると感じます。(使徒 20:28)それでも,会衆のための牧羊その他の愛ある親切の行ないは,「強いられてではなく,自ら進んで」行なわれるものです。(ペテロ第一 5:2)長老たちが群れを牧するのは,そうする責任があり,またその願いがあるからです。キリストの羊に愛ある親切を示すのは,そうするべきであり,またそうしたいからです。(ヨハネ 21:15-17)クリスチャンのある長老はこう述べています。「兄弟のことを気に掛けていたという,ただそれだけの理由で,その家を訪ね,あるいは電話をかけることを,私は喜びとしています。兄弟たちの力になることは,大きな喜びと満足になっています」。人を気遣う,世界じゅうの長老たちは,心からこれに同意します。

      助けの必要な人に愛ある親切を示す

      19 この記事で取り上げた聖書の記述は,愛ある親切についてどんなことを明示していますか。

      19 ここで取り上げた聖書の記述は,何かの必要があっても自分ではそれを満たせない人に対して愛ある親切を示すべきことも明示しています。アブラハムは,家系を存続させるためにベトエルの協力を必要としました。ヤコブは,死後に自分の体をカナンに携えていってもらうためにヨセフの助けを必要としました。ナオミは,相続人を生み出すのにルツの援助を必要としていました。アブラハム,ヤコブ,ナオミはいずれも,他からの助けを得ずにその必要を満たすことはできませんでした。同様に今日でも,助けを必要とする人には特に,愛のある親切を示すべきです。(箴言 19:17)族長ヨブに倣うのはよいことです。ヨブは,「助けを叫び求める苦しむ者……,父なし子や助け手のない者」,また「滅びうせようとしている者」に注意を向けました。ヨブはまた,「やもめの心を……喜ばせ」,『盲人のための目,足のなえた人のための足』となりました。―ヨブ 29:12-15。

      20,21 わたしたちの愛ある親切の表明を特に必要とするのはどんな人たちですか。わたしたち各人は,何をする決意を抱いているべきですか。

      20 実際のところ,どのクリスチャン会衆にも,「助けを叫び求める苦しむ者」がいます。孤独,失意,自分は価値がないという気持ち,他の人への期待が裏切られること,重い病気,愛する家族の死などの理由が考えられます。どんな原因によるにせよ,それら愛すべき人はみな助けを必要としています。その必要は,わたしたちの側の自発的で,いつも変わらぬ愛のこもった親切の行為によって満たされますし,満たすべきでもあります。―テサロニケ第一 5:14。

      21 ですから,『愛ある親切に満ちる』方,エホバ神に引き続き倣ってゆきましょう。(出エジプト記 34:6。エフェソス 5:1)そのことは,とりわけ助けを必要とする人のために,自ら進んで明確な行動を取ることによって行なえます。そして,『互いに対して愛ある親切を実行する』とき,わたしたちは確実にエホバを敬うことになり,大きな喜びを経験するでしょう。―ゼカリヤ 7:9。

      [脚注]

      a この種の結婚の詳細については,エホバの証人の発行した「聖書に対する洞察」,第1巻,679ページをご覧ください。

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