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忠節の模範に目を留めなさい!ものみの塔 1996 | 3月15日
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忠節の模範に目を留めなさい!
「エホバよ,本当にだれがあなたを恐れないでしょうか,あなたのみ名の栄光をたたえないでしょうか。ただあなただけが忠節な方だからです」― 啓示 15:4。
1 J・F・ラザフォードは,前任者であったC・T・ラッセルの忠節について,どんな証言をしましたか。
C・T・ラッセルの後を継いで1917年にものみの塔協会の会長になったジョセフ・F・ラザフォードは,ラッセルの追悼式で悼辞を述べる際,次のような言葉で始めました。「チャールズ・テイズ・ラッセルは神に対して忠節でした。キリスト・イエスに対しても,メシアの王国の大義に対しても忠節でした。ラッセル兄弟は忠節を貫きました。そうです,死に至るまでも忠節を守りました」。実のところ,その悼辞は,エホバ神の一人の忠実な僕に対するすばらしい賛辞でした。わたしたちはだれに対して述べるにせよ,その人は忠節の試みに立ち向かった,つまり忠節を全うした ― 忠節を貫いた ― という言葉に勝る賛辞を述べることはできないでしょう。
2,3 (イ)忠節を尽くそうとすると難しい問題に直面することになるのはなぜですか。(ロ)忠節を保とうと努める真のクリスチャンに,どんな者たちがこぞって敵対していますか。
2 忠節を尽くそうとすると,問題に直面することになります。なぜでしょうか。なぜなら,忠節心は利己心と激しくぶつかり合うからです。神に不忠節な者の筆頭に挙がるのは,キリスト教世界の僧職者です。また,今日の夫婦関係に見られるような甚だしい不忠節のまん延はかつてないことで,姦淫は日常茶飯事のようになっています。不忠節は商業界にもはびこっています。この点に関しては,「馬鹿や間抜けでもなければ今どき自分の会社に忠節を尽くすような者はいない,と……多くの経営者や専門家は考えている」と言われています。「忠節にすぎる」人は軽べつされます。「あなたはまず自分自身に,また自分自身に対してのみ,忠節であるべきです」と,ある経営コンサルタント・管理職調査会社の会長は述べています。しかし,自分自身に対する忠節という言い方は,この言葉の本来の意味をゆがめた言い方です。こうした状態を見ると,ミカ 7章2節で述べられている,「忠節な者は地からうせ(た)」という言葉が思い起こされます。
3 サタンと配下の悪霊たちは,わたしたちを神に不忠節にならせようと決意し,はるかに大きな規模で,こぞってわたしたちに敵対しています。それゆえにクリスチャンはエフェソス 6章12節でこう言われています。「わたしたちのする格闘は,血肉に対するものではなく,もろもろの政府と権威,またこの闇の世の支配者たちと,天の場所にある邪悪な霊の勢力に対するもの(なの)です」。そうです,わたしたちは次の警告に留意する必要があります。「冷静さを保ち,油断なく見張っていなさい。あなた方の敵対者である悪魔がほえるライオンのように歩き回って,だれかをむさぼり食おうとしています」― ペテロ第一 5:8。
4 忠節を保つのが非常に難しいのは,どんな傾向があるためですか。
4 また,忠節を保つのが難しいのは,創世記 8章21節で,「人の心の傾向はその年若い時から悪い」― つまり,利己的である ― と述べられているとおり,わたしたちが親から利己的な傾向を受け継いでいるためです。わたしたちは皆,使徒パウロが自分も抱えていたと告白している問題を抱えています。「自分の願う良い事柄は行なわず,自分の願わない悪い事柄,それが自分の常に行なうところとなっている」のです。―ローマ 7:19。
忠節は特異な事柄
5,6 忠節とはどういうことかについて,何と言えますか。それはどのように定義されていますか。
5 「忠節」は極めて特異な言葉です。それで,「聖書に対する洞察」はこう述べています。「このヘブライ語とギリシャ語の十分な意味を正確に表わす英語の単語はないようですが,“loyalty”(忠節)という語は専心と忠実さという考えを確かに含んでいるので,神とその奉仕に関連して用いられる際におよその意味を伝えるのに役立ちます」。a 「忠節」に関して,「ものみの塔」誌はかつてこう述べました。「忠実,義務,愛,責任,忠誠。これらの語に共通しているのは何でしょうか。これらの語は,忠節のいろいろな面を表わしています」。そうです,それほど多くの美徳も,すべて忠節の一面にすぎないのです。聖書の中で忠節と義がどれほど頻繁に関連づけられているかは実際に注目に値します。
6 次のような定義も助けになります。『忠節は,動揺させられたり誘惑されたりする心配のない,永続する確かな忠実また忠義を指すこともある』。『忠節は,約束した言葉に対する忠実,もしくは道義的に自分の従うべき制度や原則に対する継続的な忠義を意味する。この語は,執着心を暗示するだけでなく,その執着心を捨てさせようとする誘惑や説得に抵抗する姿勢をも暗示している』。したがって,試練や反対や迫害に遭いながらも忠実であり続ける人は,「忠節な」人と呼ばれるに値します。
7 忠節と忠実との間にはどんな違いがありますか。
7 しかし,これに関連して,ここで忠節と忠実との間に見られる違いを例えで説明しておきましょう。米国の西部に,ほぼ1時間おきに噴出する間欠泉があります。その泉はそのように定期的に噴出するので,オールド・フェイスフル(古くから忠実)と呼ばれてきました。聖書は,月のような無生物のことも,それが信頼できるゆえに,忠実であると述べています。詩編 89編37節は,月のことを「空における忠実な証人」と述べています。神の言葉も,忠実であると言われています。啓示 21章5節はこう述べています。「み座に座っておられる方がこう言われた。『見よ! わたしはすべてのものを新しくする』。また,こう言われる。『書きなさい。これらの言葉は信頼できる[または,忠実で]真実なものだからである』」。これらはみな,忠実で信頼できるとはいえ,忠節と言えるような何らかの愛着や種々の道徳的特質を示すものではありません。
抜きん出て忠節な方,エホバ
8 聖書のどんな証しは,忠節の最も優れた模範となっておられる方を明らかにしていますか。
8 これは全く確かなことですが,忠節の最も優れた模範はエホバ神です。エホバは人類に対して忠節で,人間が永遠の命を得られるようご自分のみ子を与えることさえされました。(ヨハネ 3:16)エレミヤ 3章12節にはこう書かれています。「『背信のイスラエルよ,帰れ』と,エホバはお告げになる。『わたしはあなた方に怒って顔を向けることはない。わたしは忠節だからである』」。エホバの忠節をさらに証ししているのは,啓示 16章5節に記録されている,「今おられ,かつておられた方,忠節な方,あなたは義にかなっておられます」という言葉です。そしてまた,詩編 145編17節でも,「エホバはそのすべての道において義にかなっておられ,そのすべてのみ業において忠節です」と言われています。実際,エホバは忠節の点で非常に際立っておられるので,啓示 15章4節は,「エホバよ,本当にだれがあなたを恐れないでしょうか,あなたのみ名の栄光をたたえないでしょうか。ただあなただけが忠節な方だからです」と述べています。エホバ神はこの上なく忠節な方です。
9,10 エホバはイスラエル国民を扱うご自分の方法により,忠節に関するどんな記録を残されましたか。
9 特にイスラエル国民の歴史には,エホバがご自分の民に対して忠節であったことを示す数多くの証しが含まれています。裁き人の時代のイスラエルは再三,真の崇拝から離れましたが,エホバはその度に悔やみ,彼らを救われました。(裁き人 2:15-22)エホバは,イスラエルに王が存在した5世紀間ずっと,忠節をお示しになりました。
10 エホバはご自身の忠節のゆえに,ご自分の民に対して辛抱されました。そのことは歴代第二 36章15,16節にこう記されています。「彼らの父祖たちの神エホバはその使者たちによって彼らに伝えさせ続け,何度も遣わされた。その民とご自分の住まいとに同情を覚えられたからである。ところが,彼らは絶えずまことの神の使者たちを笑い物にし,そのみ言葉を侮り,その預言者たちをあざけっていたので,ついにエホバの激怒がその民に向かって起こり,いやし得ないまでになった」。
11 エホバが忠節であられるので,わたしたちはどんな確信や安心感を抱けますか。
11 エホバがこの上なく忠節な方なので,使徒パウロは,ローマ 8章38,39節に記されているように,こう書くことができました。「死も,生も,み使いも,政府も,今あるものも,来たるべきものも,力も,高さも,深さも,またほかのどんな創造物も,わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛からわたしたちを引き離しえないことを,わたしは確信してい(ま)す」。そうです,エホバはわたしたちに,「わたしは決してあなたを離れず,決してあなたを見捨てない」と約束してくださっているのです。(ヘブライ 13:5)実際,エホバ神が常に忠節でいてくださることを知っていると,本当に安心できます。
忠節なみ子,イエス・キリスト
12,13 神のみ子の忠節に関しては,どんな証しがなされていますか。
12 イエス・キリストは忠節の試みに立ち向かう点で,かつてエホバに完全に見倣い,今も完全に見倣っておられます。使徒ペテロは使徒 2章27節で詩編 16編10節を引用し,正しくイエス・キリストに当てはめて,「あなたはわたしの魂をハデスに捨て置かれず,あなたの忠節な者が腐れを見ることもお許しにならない」と述べることができました。イエス・キリストは,いみじくも「忠節な者」と呼ばれています。イエスはみ父に対し,また神の約束の王国に対して,徹頭徹尾,忠節でした。サタンはまず,幾つかの誘惑,つまり自分の益を求めさせようとする働きかけによって,イエスの忠誠心をくじこうとしました。それが効を奏さなかったとき,悪魔は迫害という手段に出,ついにはイエスを処刑用の杭に掛けて死なせました。イエスは天の父エホバ神への忠節に関して,決して道から外れませんでした。―マタイ 4:1-11。
13 イエス・キリストはご自分の追随者たちに対し,「見よ,わたしは事物の体制の終結の時までいつの日もあなた方と共にいるのです」という,マタイ 28章20節に記録されている約束に一致して,忠節であられます。その約束の成就として,イエスは西暦33年のペンテコステの日から現在に至るまでご自分の会衆を忠節に指導してこられました。
不完全な人間ながら忠節を尽くした人たち
14 ヨブは忠節のどんな模範を残しましたか。
14 では,不完全な人間についてはどうでしょうか。神に対して忠節を保つことができるでしょうか。これについては,ヨブの傑出した例があります。サタンはヨブの事例において論争点をはっきり表に出しました。ヨブはエホバ神に対して忠節だったのでしょうか,それとも,ただ自分の益のために神に仕えていたのでしょうか。サタンは,ヨブを災難に遭わせることによりエホバに背かせてみせる,と豪語しました。ヨブは所有物や子供をすべて失い,しかも健康を損ねた時,妻から「神をのろって死になさい!」と言われました。しかし,ヨブは忠節を保ちました。というのは,彼は妻に,「『無分別な女の一人が話すように,あなたも話す。わたしたちはまことの神から良いことだけを受けて,悪いことは受けないのだろうか』[と言い,]このすべてのことにおいてヨブはその唇をもって罪をおかさなかった」からです。(ヨブ 2:9,10)事実,ヨブはえせ慰問者たちに,「たとえ神がわたしを打ち殺すとも,わたしは神を待ち望む」と言いました。(ヨブ 13:15,新国際訳)ヨブがエホバの是認を受けたのも不思議ではありません。それで,エホバはテマン人エリパズにこうお告げになりました。「わたしの怒りはあなたとあなたの二人の友に向かって燃えた。それは,あなた方がわたしに関して,わたしの僕ヨブがしたように真実なことを語らなかったからである」― ヨブ 42:7,10-16。ヤコブ 5:11。
15 エホバ神の多くの僕たちの忠節に関して,聖書にはどんな証しがありますか。
15 ヘブライ 11章の中で述べられている信仰の男女は皆,忠節な人であったと言えます。彼らは様々な圧迫に直面して忠実であっただけでなく,忠節でもあったのです。例えば,そこには「信仰により,……ライオンの口をふさぎ,火の勢いをくい止め,剣の刃を逃れ(た)」人たちのことが記されています。「そうです,ほかの人々はあざけりやむち打ち,いえ,それだけでなく,なわめや獄によっても試練を受けました。彼らは石打ちにされ,試練に遭わされ,のこぎりで切り裂かれ,剣による殺りくに遭って死に,羊の皮ややぎの皮をまとって行き巡り,また窮乏にあり,患難に遭い,虐待のもとにありました」。―ヘブライ 11:33-37。
16 使徒パウロは忠節のどんな模範を残しましたか。
16 クリスチャン・ギリシャ語聖書にも,使徒パウロという際立った模範があります。パウロは自分の宣教に関してテサロニケのクリスチャンに,「あなた方が証人であり,また神も証人となってくださることですが,わたしたちはあなた方信者に対し,忠節で,義にかない,責められるところのない者となりました」と,正当に言うことができました。(テサロニケ第一 2:10)パウロの忠節の証拠はさらに,コリント第二 6章4,5節に記録されているパウロの言葉に示されています。そこには,「(わたしたちは)あらゆる点で自分を神の奉仕者として推薦するのです。多大の忍耐と,患難と,窮乏と,困難と,殴打と,獄と,無秩序と,労苦と,眠らぬ夜と,食物のない時と(によってです)」と記されています。これはすべて,使徒パウロがその忠節のゆえに自尊心を抱いていたことを証しするものです。
現代の忠節な者たち
17 忠節を保とうというJ・F・ラザフォード兄弟の決意は,兄弟のどんな言葉に表われていますか。
17 現代について見ても,この記事の冒頭ですでに取り上げた立派な模範があります。「『平和の君』のもとで得られる世界的な安全」という本の145ページ,「投獄中に示された忠節さ」という副見出しのもとで述べられていることに注目してください。そこにはこう記されています。『ものみの塔協会の会長J・F・ラザフォードは,獄中にあってもエホバの組織に対する忠節さを示し,1918年12月25日に,次のような手紙を書き送りました。「私はバビロンと妥協するのを拒み,私の主に忠実に仕えようとしたために獄中におりますが,私はこのことを感謝しております。……私は獣と妥協したり,あるいは獣に屈服したりして自由になり,全世界の人々から称賛されるよりも,主の是認とほほえみを受けて獄中にいるほうが,どれほどましかしれません」』。b
18,19 わたしたちには現代における忠節のどんな優れた模範がありますか。
18 迫害を耐え忍んだクリスチャンはほかにも大勢おり,わたしたちにはそうした忠節のすばらしい模範があります。そのような忠節な人たちの中に,英語版で広く頒布されている「パープル・トライアングル」というビデオの中で描かれているような,ナチ政権下にあったドイツのエホバの証人がいます。マラウイのエホバの証人のような,アフリカの大勢の忠節なエホバの証人たちも注目に値します。マラウイのある刑務所の看守は,証人たちの忠節について証言し,「あの人たちは決して妥協しないでしょう。その人数は増えるばかりです」と言いました。
19 だれにせよ最近の「エホバの証人の年鑑」を読めば必ず,ギリシャ,モザンビーク,ポーランドなどで見られたような,真のクリスチャンの示した忠節に感動するでしょう。それらエホバの証人の多くは,耐え難い苦しみに遭わされました。中には,殺害された人もいます。1992年の「年鑑」の177ページには,殺されようとも忠節を貫いた,エチオピアのクリスチャン男子9人の写真が掲載されています。わたしたちはエホバの証人として,忠節の試みに立ち向かうよう力づけてくれる,これほど多くの立派な模範に恵まれていることをうれしく思っているのではないでしょうか。
20 もしわたしたちが忠節を保つなら,どうなりますか。
20 わたしたちは,忠節を守って誘惑や圧迫に抵抗することにより,自尊心を培えます。では,忠節に関する論争において,わたしたちはどちらの側にいることを望むでしょうか。わたしたちは,忠節の試みに立ち向かうことにより,この論争においてエホバ神の側に立ち,サタン悪魔が紛れもなく卑劣な大うそつきであることを証明します。そうすることによって,わたしたちの造り主エホバ神の是認と,幸福のうちに享受する永遠の命という報いを得るのです。(詩編 37:29; 144:15後半)次の記事では,忠節の試みに立ち向かうには何をしなければならないかという点が考慮されます。
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忠節の試みに立ち向かうものみの塔 1996 | 3月15日
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忠節の試みに立ち向かう
「神のご意志にそいつつ真の義と忠節のうちに創造された新しい人格を着け(なさい)」― エフェソス 4:24。
1 わたしたちにはなぜ,エホバ神に忠節を尽くす義務がありますか。
忠節の試みに立ち向かうということには多くの面があります。最も重要なのは,エホバ神に対する忠節の試みに立ち向かうことです。実際わたしたちには,エホバのご性格や,エホバがわたしたちのためにしてくださった事柄のゆえに,またわたしたちはエホバに献身した者であるゆえに,エホバに忠節を尽くす義務があります。わたしたちはエホバ神への忠節をどのように示しますか。おもに,エホバの義の原則に忠節であることによって示します。
2,3 忠節と義との間にはどんな関係がありますか。
2 その試みに立ち向かうには,ペテロ第一 1章15,16節のこの言葉に留意しなければなりません。「あなた方を召された聖なる方にしたがい,あなた方自身もすべての行状において聖なる者となりなさい。なぜなら,『あなた方は聖なる者でなければならない。わたしは聖なる者だからである』と書かれているからです」。わたしたちはエホバ神に対する忠節心があれば,いつでもエホバに従い,自分の考えや言動をエホバの聖なるご意志に調和させるようになります。その結果,正しい良心を保てます。テモテ第一 1章3節から5節で言われているのはそのことです。「実際のところ,[異なった教理を教えたり,作り話に注意を寄せたりしないようにという]この指令が目ざしているものは,清い心と正しい良心と偽善のない信仰とから出る愛です」。もちろん,わたしたちはだれも完全な人間ではありません。しかし,努めて最善を尽くすべきではないでしょうか。
3 エホバに対する忠節心があれば,義の原則を利己的に曲げたりしないよう守られます。実際,忠節を尽くすなら,自分の内面と外面が異なるといったことはありません。詩編作者は,「エホバよ,あなたの道をわたしに教え諭してください。わたしはあなたの真理によって歩みます。あなたのみ名を恐れるようわたしの心を一つにしてください」と歌ったとき,忠節のことを念頭に置いていました。(詩編 86:11)忠節には,適切にも「強制され得ぬ事柄への従順」と言い表わされたものが求められます。
4,5 忠節心があれば,どんなことをしないよう注意深くなりますか。
4 エホバ神に対する忠節心があれば,神の名と王国の誉れを傷つけたりしないようにも守られます。例えば,かつて二人のクリスチャンが互いにひどく仲たがいして,不適切にも問題を世の法廷に持ち出しました。裁判官は,『あなた方は二人ともエホバの証人ですか』と尋ねました。裁判官には,その二人がなぜ法廷に来たのか理解できなかったようです。その二人のしたことは,全くの恥さらしでした。それら兄弟たちは,エホバ神への忠節心があったなら,使徒パウロのこの助言に留意していたはずです。「であれば,あなた方が互いに訴訟を起こしていることは,実際のところ,あなた方にとって全くの敗北を意味しています。なぜむしろ害を受けるままにしておかないのですか。なぜむしろだまし取られるままにしておかないのですか」。(コリント第一 6:7)そのとおりです。エホバ神に忠節を尽くす人は,エホバとその組織の誉れを傷つけてしまうよりは自分個人が損失を被ることにしようと考えます。
5 エホバ神に対する忠節には,人に対する恐れに屈しないことも関係しています。「人に対するおののきは,わなとなる。しかし,エホバに依り頼んでいる者は保護される」とあります。(箴言 29:25)ですから,わたしたちは迫害に遭っても妥協することなく,旧ソビエト連邦,マラウイ,エチオピア,その他非常に多くの国のエホバの証人が示した模範に従います。
6 忠節心を抱いているなら,だれと交わったりはしませんか。
6 わたしたちは,もしエホバ神に忠節を尽くすのであれば,エホバの敵であるどんな者とも友達にはならないようにするでしょう。その理由で,弟子ヤコブはこう書いています。「姦婦たちよ,あなた方は世との交友が神との敵対であることを知らないのですか。したがって,だれでも世の友になろうとする人は,自分を神の敵としているのです」。(ヤコブ 4:4)わたしたちはダビデ王が次のように述べてはっきり表わした忠節を保ちたいと思います。「エホバよ,あなたを激しく憎んでいる者たちをわたしは憎まないでしょうか。あなたに背く者たちにわたしは嫌忌の念を抱かないでしょうか。わたしは憎しみの限りをつくして彼らを憎みます。彼らはわたしにとって真の敵となりました」。(詩編 139:21,22)わたしたちは,故意に罪を犯すどんな人とも親しく交わりたいとは思いません。そのような人とは何一つ共通点がないからです。神に対する忠節心を抱いていれば,じかにであれテレビという媒体を通してであれ,エホバのそのような敵とはいっさい社交的な交わりを持たないようにするのではないでしょうか。
エホバを擁護して語る
7 忠節心を抱いていることは,エホバに関して何をする助けになりますか。エリフはそれをどのように行ないましたか。
7 忠節心を抱いていれば,エホバ神を擁護して発言しようという気持ちになります。この点に関しては,エリフという,実に立派な模範があります。ヨブ 32章2,3節にはこう記されています。「エリフの怒りが燃えた。ヨブに対して彼の怒りは燃え盛った。ヨブが神よりもむしろ自分の魂を義と宣したことに対してであった。また,その三人の友に対しても彼の怒りは燃え盛った。これは,彼らが答えを見いださず,かえって神を邪悪な者としたからである」。ヨブ 32章から37章にかけて,エリフはエホバを擁護して語っています。例えば,彼はこう言いました。「しばらくの間,わたしのことを辛抱するように。そうすれば,わたしはあなたに告げ知らせよう。まだ,神のために言うべき言葉があるということを。わたしは……わたしを形作った方に義を帰することにする。……神はその目を義にかなった者から離すことはない」― ヨブ 36:2-7。
8 わたしたちはなぜエホバを擁護して語る必要がありますか。
8 エホバを擁護して語る必要があるのはなぜでしょうか。今日,わたしたちの神エホバは,かつてなく多くの点で冒とくされています。エホバなど存在しないとか,エホバは三位一体の一部であるとか,人々を火の燃える地獄で永遠に責めさいなむとか,世界を改宗させようと無駄な努力をしているとか,人間のことを気遣っていない,などと主張されています。わたしたちはエホバを擁護して語り,エホバは確かに存在しておられ,賢明で公正な全能の愛情深い神であり,すべてのことに時を定めておられ,定めの時が来ればすべての悪を終わらせて全地を楽園にされる,といった点を論証することにより,エホバに対する忠節を示します。(伝道の書 3:1)そのためには,あらゆる機会をとらえてエホバのみ名と王国について証ししなければなりません。
エホバの組織に対する忠節
9 一部の人たちは,どんな問題に関して忠節心の欠如をあらわにしましたか。
9 さて今度は,エホバの目に見える組織に対して忠節を保つということについて考えましょう。言うまでもなく,わたしたちにはエホバの組織に忠節を示す義務があります。「忠実で思慮深い奴隷」はその組織の一部であり,この奴隷を通してクリスチャン会衆は霊的に養われています。(マタイ 24:45-47)仮に,ものみの塔協会の出版物に載せられた事柄がその時点でよく理解できない,あるいは同意できないとしたらどうでしょう。わたしたちはどうするでしょうか。憤慨して組織を離れますか。何十年も前のことですが,「ものみの塔」誌が新しい契約を千年期に適用したとき,一部の人たちは組織を離れました。また,「ものみの塔」誌がかつて中立の問題に関して述べた事柄に憤慨した人たちもいます。そうした事柄につまずいた人たちは,もし組織と兄弟たちに対する忠節を保っていたなら,エホバがそれらの事柄を明快に説明してくださるまで待ったはずです。実際,エホバはご予定の時にそうされたのです。ですから,忠節ということには,より明確な理解が忠実で思慮深い奴隷によって公表されるまで辛抱強く待つことも含まれます。
10 忠節心があれば,どんなことについては知りたいなどと思いませんか。
10 エホバの目に見える組織に忠節を尽くすとは,背教者とは何の関係も持たないということをも意味します。忠節なクリスチャンは,そのような人たちが何を言おうとしているのか知りたいとは思わないでしょう。確かに,エホバ神が地上におけるご自分の業を指導させるために用いておられる人たちは完全な人間ではありません。しかし,神の言葉はわたしたちに,どうするようにと述べているでしょうか。神の組織を離れるようにと述べていますか。いいえ,そうではありません。わたしたちは,兄弟の愛情を抱いているのであれば組織に忠節を尽くすはずですし,引き続き『互いに心から熱烈に愛し合う』べきです。―ペテロ第一 1:22。
忠節な長老たちに対する忠節
11 忠節心は,どんな消極的なことを考えないようにする助けになりますか。
11 会衆内のだれかの発言や行動に関して理解し難いことがある場合,忠節心を抱いていれば,人の動機を裁かないようにし,単に見解の相違かもしれないという立場を取ることができるでしょう。任命された長老たちや他の仲間の信者に関しては,欠点よりもむしろそれぞれの良い特質を思い巡らすほうがはるかに有益ではないでしょうか。そうです,わたしたちはそういう消極的なことは一切考えないようにしたいと思います。そうした考えは不忠節になることと関連しているからです。忠節心は,『だれのことも悪く言ってはならない』というパウロの指令に従う助けにもなります。―テトス 3:1,2。
12,13 長老たちは,ある種のどんな試みに直面しなければなりませんか。
12 長老たちは忠節を尽くそうとすると,ある種の試みに直面します。その一つは,内密を保つことです。会衆の成員の一人が長老に秘密を打ち明けるかもしれません。長老はその人に対する忠節心から,内密を保つという原則を犯さないようにするでしょう。「他の人の内密の話を明かしてはならない」という箴言 25章9節の助言に留意します。これは,自分の妻にも明かさない,ということを意味しています。
13 ほかにも,長老たちには,立ち向かわなければならない忠節の試練があります。長老たちは人を喜ばせる者となるでしょうか,それとも矯正の必要な人を,たとえそれが自分の肉親や親友であっても,勇敢に,また温和な態度で援助するでしょうか。わたしたちのうち長老である人は,エホバの組織に対する忠節心から,だれであろうと霊的な援助の必要な人を助けるよう努めるでしょう。(ガラテア 6:1,2)わたしたちは仲間の長老たちに対して親切に接しますが,パウロが使徒ペテロに忌憚なく話したのと同じように,話すべきときには忠節心に促されて忌憚なく話すでしょう。(ガラテア 2:11-14)一方,監督たちは,賢明とは言えない行動や,えこひいきや,他の何らかの権威の乱用によって,自分たちの世話すべき人たちに神の組織に対して忠節を示すことを難しくさせたりしないよう,用心したいと思います。―フィリピ 4:5。
14,15 会衆の成員の忠節は,どんなことによって試みられるかもしれませんか。
14 会衆と長老たちに対する忠節の試みに立ち向かうことには,ほかにも幾つかの面があります。もし会衆内に幾分問題となる状態が見られるのであれば,それはわたしたちにとってエホバとエホバを代表する人たちへの忠節を示す機会となります。(「ものみの塔」誌,1987年6月15日号,15-17ページをご覧ください。)排斥があった場合,忠節を保つためには,取られた処置に十分の根拠があったかどうかについてとやかく言うことなく,長老たちを支持しなければなりません。
15 会衆に対して忠節を尽くすには,自分の事情や能力の許すかぎり毎週の五つの集会すべてを支持することも必要です。忠節を尽くすには,集会に定期的に出席するだけでなく,予習をして臨み,機会あるごとに築き上げる注解を述べることも必要です。―ヘブライ 10:24,25。
夫婦関係における忠節
16,17 結婚しているクリスチャンは,忠節のどんな試みに立ち向かわなければなりませんか。
16 わたしたちは,ほかにだれに対して忠節を尽くす義務があるでしょうか。既婚者であれば,結婚の誓約のもとにあるのですから,配偶者に対する忠節の試みに立ち向かわなければなりません。自分の配偶者に忠節を尽くすようにすれば,自分の妻や夫に対する以上に他の女性や男性に対して親切にするという間違いを犯さないですみます。また,配偶者に対する忠節心を抱いていれば,配偶者の弱点や欠点を他人に漏らしたりすることもないはずです。他の人に不満を漏らすことは,黄金律に調和して行なうべき,常に配偶者との意思の疎通を図るよう努力することよりも容易です。(マタイ 7:12)実のところ,夫婦であるということは,クリスチャンとしての忠節を厳しく試みるものなのです。
17 忠節のこの試みに立ち向かうには,甚だしい不品行を犯さないようにするだけでなく,ほかならぬ自分の考えや感情を守らなければなりません。(詩編 19:14)例えば,もし自分の欺まん的な心が快楽や興奮を渇望するなら,わたしたちはたちまち利己的になって,称賛するにとどまらず,自分のものにしたくなります。ソロモン王は夫婦の貞節を勧め,比喩的な表現で夫たちに『自分自身の水溜めから水を飲む』よう諭しています。(箴言 5:15)また,イエスは,「女を見つづけてこれに情欲を抱く者はみな,すでに心の中でその女と姦淫を犯したのです」と言われました。(マタイ 5:28)ポルノ文書を見たり読んだりする夫は,姦淫を犯すよう,またそうして妻を裏切り,妻に対して不忠節になるよう,誘惑される危険を冒しています。同様に,不貞にまつわる出来事を描いたメロドラマに夢中になる妻も,夫に対して不忠節になってしまう可能性があります。しかし,わたしたちは自分の配偶者に心から忠節を尽くすことにより,結婚の絆を強めると共に,互いに助け合ってエホバ神を喜ばせるよう努めます。
忠節を保つための助け
18 何を認識することは,忠節を保つ助けになりますか。
18 以上の四つの分野,すなわちエホバに対する忠節,その組織に対する忠節,会衆に対する忠節,および自分の配偶者に対する忠節という分野で試みとなる問題に立ち向かうのに,何が助けになるでしょうか。一つは,忠節の試みに立ち向かうことはエホバの主権の立証と結びついている,という点を認識することです。そうです,忠節を保つことにより,わたしたちはエホバを宇宙主権者とみなしていることを示すのです。それによって,わたしたちは自尊心と,エホバの新しい世で永遠の命を得るという希望を持つこともできます。また,忠節を保つ助けとして,エホバをはじめ,聖書中の人物や,「年鑑」を含むものみの塔出版物の中で言及されている人たちの忠節の模範を考慮することができます。
19 忠節を保つ上で,信仰はどのような役割を果たしますか。
19 エホバ神に対する強い信仰と神の不興を買うことに対する恐れは,忠節の試みに立ち向かう上で助けになります。わたしたちは勤勉に神の言葉を研究することにより,またクリスチャン宣教に携わることによって,エホバに対する信仰と恐れを強くします。これは,エフェソス 4章23,24節に記録されているパウロの助言,すなわち,『あなた方は,思いを活動させる力において新たにされ,神のご意志にそいつつ真の義と忠節のうちに創造された新しい人格を着けるべきです』という助言に調和した行動をとる上で助けになります。
20 わたしたちがエホバに対して,また自分の忠節の対象となる人すべてに対して忠節を尽くす上で,とりわけどんな特質が助けになりますか。
20 エホバの様々な特質を認識することは,忠節を保つ助けになります。とりわけ,わたしたちの天の父に対する私心のない愛を培い,父なる神がわたしたちのためにしてくださった事柄すべてに対する感謝の念を抱き,心と魂と思いと力をこめて神を愛するなら,そのことは神への忠節を全うする助けになります。さらに,イエスがご自分の追随者を見分けるしるしになると言われた愛を抱いていれば,会衆内のすべてのクリスチャンに対して,また自分の家族の中で,忠節を尽くすのに助けになります。言い換えれば,それは実のところ,利己的になるか利他的になるかの問題です。不忠節は利己的であるということであり,忠節は利他的であるということなのです。―マルコ 12:30,31。ヨハネ 13:34,35。
21 忠節の試みに立ち向かうということをどのように要約できますか。
21 要約すると,次のように言えます。忠節は,エホバ神,イエス・キリスト,およびエホバの真の僕すべてにはっきり見られる非常に優れた特質です。エホバ神との良い関係を持つためには,エホバの義のご要求にかなった生活を送ることにより,またエホバの敵とは一切関係を持たないことにより,また公式にであれ非公式にであれ証言する際にはエホバを擁護することによって,忠節の試みに立ち向かわなければなりません。わたしたちは,エホバの目に見える組織に対する忠節の試みにも立ち向かわなければなりません。また,自分の会衆に,また自分の配偶者に忠節を尽くさなければなりません。わたしたちは忠節の試みに首尾よく立ち向かうことにより,エホバの主権の立証にあずかり,その論争においてエホバの側を支持するのです。それによって,わたしたちはエホバの恵みを得,永遠の命の賞を受けることになります。使徒パウロが敬虔な専心について述べた事柄は,忠節の試みに立ち向かうことについても言えます。それは今の命のためにも,来たるべき命のためにも有益なのです。―詩編 18:25。テモテ第一 4:8。
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