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人間とは一体何なのか目ざめよ! 1998 | 6月22日
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人間とは一体何なのか
人間は,人間とは一体何なのかという問題に悩まされているようです。進化論者のリチャード・リーキーは,「幾世紀もの間,哲学者たちは人間らしさ,つまり人間性の様々な面を扱ってきた。ところが驚いたことに,人間らしさという特質に関する一致した定義は存在しない」と述べています。
しかしコペンハーゲン動物園は,霊長類館での展示を通して自説を大胆に表明しました。「1997 ブリタニカ年鑑」(英語)はこう説明しています。「デンマーク人の一夫婦が,自分たちと類人猿との密接な血縁関係を来園者たちに思い起こしてもらおうと,園内の一時的な住まいに引っ越した」。
様々な参考文献は,特定の動物と人間との間にそうした密接な血縁関係が存在するという説を支持しています。例えば,ワールドブック百科事典(英語)は,「人間は,類人猿やキツネザルやサルやメガネザルと共に,哺乳類の霊長目を形成している」と述べています。
しかし事実を言えば,人間は動物の持つ特色とは異なる独特の特性にあふれています。その中には,愛,良心,徳性,霊性,公正,憐れみ,ユーモア,創造性,時間の認識,自己認識,美的感覚,将来への関心,幾世代にもわたって知識を蓄積する能力,死が人間存在の究極的な終わりではないことを願う気持ちなどがあります。
これらの特性を動物の持つ特色と調和させるため,進化心理学に頼る人もいます。進化心理学とは,進化論と心理学と社会学を融合した学問です。進化心理学は人間性の謎に光を投じてきたでしょうか。
人生の目的は何か
進化論者のロバート・ライトはこう述べています。「進化心理学は単純な前提のもとに成り立っている。人間の知性は,ほかの器官すべてと同様,遺伝子を次の世代へと伝達する目的で設計された。知性のもたらす感情や考えは,この前提に立つと最もよく理解できる」。言い換えるなら,人生の目的とは繁殖であり,それは遺伝子によって決定され,知性の働きに反映されているということです。
実際,進化心理学によると,「人間性の大部分は,せんじ詰めれば遺伝子の無情な利己心」です。「モラル・アニマル」(英語)と題する本は,「自然選択は,男性が無数の女性とセックスすることを“望む”」と述べています。進化論的なこの概念によると,ある特定の状況下では女性による不道徳行為も自然なこととみなされます。親の愛でさえ,子孫の存続を保証するための遺伝的策略であるとされています。それで一つの説は,人類を決して絶えさせないために,遺伝上の遺産が重要であることを強調しています。
ハウツー物の本の中には,進化心理学の新しい波に乗っているものもあります。その一つは,人間性は「チンパンジーの本性や,ゴリラの本性や,ヒヒの本性と大して変わらない」と説明し,「進化論について言えば……大切なのは生殖である」と述べています。
一方,聖書は,神が人間を創造された目的には,単なる繁殖以上のことが関係していたと教えています。人間は神の「像」に創造され,特に愛,公正,知恵,力といった神の属性を反映する能力を授けられました。先に述べた人間特有の特性を加えるなら,聖書が人間を動物の上に位置づけている理由が明らかになります。実際,聖書は,神が人間を創造された時,永遠に生きたいという願いだけでなく,神が造られる義の新しい世においてその願いを達成できる能力も人間に与えたことを明らかにしています。―創世記 1:27,28。詩編 37:9-11,29。伝道の書 3:11。ヨハネ 3:16。啓示 21:3,4。
何を信じるかは重要
どの見方が正しいのか見きわめることは,決して純学問的な問題ではありません。人類の起源に関して何を信じるかは,わたしたちの生き方に影響を及ぼし得るからです。歴史家のH・G・ウェルズは,チャールズ・ダーウィンの「種の起原」が1859年に出版されて以来,多くの人たちが達した結論について次のように述べています。
「まさに道徳の退廃がその後に続いた。……1859年以降,まさに信仰は失われた。……19世紀末の有力な者たちは,自分たちは生存競争によって有力になったのだと考えていた。その競争では,強くて器用な者が,弱くて信じやすい者を打ち負かす。……彼らは,人間はインディアンの狩猟犬のように社会的な動物なのだと結論した。……だから,人間の群れの中の大きな犬が,他を脅して服させるのは正当なことに思えた」。
人間とは一体何なのかという問題に関して,正しい見方を得ることが大切なのは明らかです。なぜなら,ある進化論者が述べたように,「もし正統派のダーウィン説が……西洋文明の道徳的強さを吸い取ってしまったのであれば,その最新版[進化心理学]が浸透したらどんなことになるのか」という疑問が生じるからです。
人類の起源に関して何を信じるかは,生命や善悪に対するわたしたちの基本的な見方に影響してくるので,この問題全体を詳しく調べてみるのは非常に大切です。
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神の像か,獣の像か目ざめよ! 1998 | 6月22日
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神の像か,獣の像か
最初の人間アダムは「神の子」と呼ばれました。(ルカ 3:38)動物がそのように呼ばれたことは一度もありません。しかし聖書は,人間と動物の間には幾つもの共通点があることを示しています。例えば,人間も動物も魂です。創世記 2章7節は,神がアダムを形造られたとき,「人は生きた魂になった」と述べています。コリント人への第一の手紙 15章45節も同じように,「最初の人アダムは生きた魂になった」と述べています。人間は魂であるので,魂は,体が死んでからも生き続ける影のようなものではありません。
創世記 1章24節は動物に関して,「地は生きた魂をその種類にしたがい,家畜と動く生き物と地の野獣をその種類にしたがって出すように」と述べています。ですから聖書は,人間が神の像に造られたことを明らかにして人間に尊厳を与えると共に,人間は地上の魂として動物と同じ低い立場にあることも思い起こさせています。ところが,人間と動物にはさらなる共通点があります。
聖書は,「人間の子らに関しても終局があり,獣に関しても終局があり,これらは同じ終局を迎えるからである。一方が死ぬように,他方も死ぬ。……人が獣に勝るところは何もない。……皆一つの場所へ行く。それはみな塵から出たものであって,みな塵に帰ってゆく」と述べています。そうです,死ぬということにおいても,人間と動物は似ているのです。両方とも元の場所に,つまり「地面に」,「塵に」帰ります。―伝道の書 3:19,20。創世記 3:19。
しかし,人間はなぜ人の死を深く悲しむのでしょうか。なぜ永遠に生きることを夢見るのでしょうか。なぜ生きる目的がなければならないのでしょうか。明らかに,人間と動物は大いに異なっています。
人間が動物と異なるところ
食べて,眠って,子を生む以外に何の目的もない人生を送るのは幸福なことでしょうか。進化論を熱烈に信奉する人でさえ,そのような考えに嫌悪感を覚えます。進化論者のT・ドブジャンスキーはこう書いています。「現代人,つまり今日の啓発された懐疑論者また不可知論者は,少なくとも個人的なレベルで,古くからあるこの問題について考えざるを得ない。それは,自分の人生には,生き続け,生活のサイクルを途切れさせないこと以外に,意義や目的があるのだろうか,また,自分の住む宇宙には何か意味があるのだろうか,ということである」。
確かに,創造者の存在を否定しても,人間は人生の意味を追い求めなくなるわけではありません。リチャード・リーキーは歴史家アーノルド・トインビーの言葉を引用し,「[人間に]この霊的な資質が賦与されているため,人は自分の生まれてきた宇宙と和解すべく,一生涯闘い続ける運命を背負わされている」と述べています。
それでも,人間性や人間の起源,人間の霊性に関する基本的な質問は残ります。人間と動物の間に大きな隔たりが存在するのは明らかです。その隔たりはどれほど大きいのでしょうか。
埋めるには大きすぎる隔たり?
進化論にとって根本的な問題となっているのは,人間と動物の間の大きな隔たりです。それは一体どれほど大きいのでしょうか。進化論者自身が述べてきた事柄を幾つか考えてみましょう。
19世紀に進化論の著名な推進者となったトマス・H・ハクスリーはこう書いています。「人間と獣……の間の隔たりが極めて大きいことは,ほかのだれよりもこの私が十分承知している。……なぜなら,人間だけが,理解できる論理的な言語を話すという優れた資質を備え……あたかも山頂に立つかのように,仲間の下等な動物のレベルよりはるか上に立っているからである」。
進化論者のマイケル・C・コルバリスは,「人間と他の霊長類との間には,顕著な不連続性が存在する。……『人間の脳は,人間の大きさの霊長類に期待できるサイズの3倍はある』」と述べています。神経学者のリチャード・M・レスタクは,「[人間の]脳は,我々の知る宇宙の中で,自らを理解しようとする唯一の器官である」と述べています。
リーキーは,「意識の問題は科学者をジレンマに陥れており,そのジレンマは解決できないと考える人もいる。だれもが持つ自己認識の感覚は非常に強烈で,人の思いと行動のすべてを照らし出す」と述べており,「確かに言語は,ホモ・サピエンス[人間]と自然界の他の生物との間の隔たりを作っている」とも語っています。
ピーター・ラッセルは人間の知性の驚くべき別の点に言及し,「人間の能力の中で極めて重要なものの一つが記憶であることに間違いはない。記憶がなければ学習,……知的活動,言語の発達,一般に人間と関連づけられる……いかなる特質も存在し得なかったであろう」と述べています。
さらに,崇拝を行なう動物はいません。ですから,エドワード・O・ウィルソンは,「宗教的信条を奉じる傾向は,人間の知性の中で最も複雑かつ強力な力であり,人間性の中の根絶し難い部分であろう」と言っています。
「人間の行動は,ダーウィン説に他の様々な疑問を投げかけている」と,進化論者のロバート・ライトは述べています。「ユーモアや笑いの機能とは何なのか。臨終の告白をするのはなぜなのか。……悲しみの機能とは正確には何なのか。人が死んでしまった時点で,それを悲しむことは遺伝的にどんな益があるのか」。
進化論者のエレイン・モルガンは,「人間に関する四つの大きな謎とは,(1)二足歩行するのはなぜか,(2)ふさふさした体毛を失ったのはなぜか,(3)脳がこれほど大きくなったのはなぜか,(4)話し言葉を習得したのはなぜか,ということである」と述べています。
進化論者たちは,これらの質問にどう答えているのでしょうか。モルガンはこう説明します。「これらの質問に対する典型的な答えは,(1)『まだ分かっていない』,(2)『まだ分かっていない』,(3)『まだ分かっていない』,(4)『まだ分かっていない』である」。
不確かな理論
「非対称な類人猿」(英語)と題する本の著者はこう述べています。この本の目的は,「時と共に推移する人間の進化の概要を示すことである。その結論の多くは,実際にはわずかな数の古い歯や骨や石に大きく依存しているため,推測の域を出ない」。実際,元々のダーウィンの理論でさえ多くの人は受け入れていないのです。リチャード・リーキーは,「ほんの数年前まで,人類学を支配していたのはダーウィンが唱えたような人間の進化であったが,結局それは間違っていた」と述べています。
エレイン・モルガンによると,「30年前は分かっていると考えていた答えに対する確信を失った」進化論者は少なくありません。ですから,進化論者の提唱する理論の中に,崩壊したものがあっても驚くには値しません。
悲惨な結果
幾つかの研究によると,雄が交尾する雌の数は,雌雄の体の大きさの違いに関係しています。このことから,人間の性習慣はチンパンジーの性習慣と似ているはずだと結論する人もいます。なぜなら,人間の男女の場合と同じように,チンパンジーも雄のほうが雌より少し体が大きいからです。それで,人間にもチンパンジーのように,複数の相手との性関係は許されるべきだと主張する人もいます。確かに,そうする人は少なくありません。
ところが,チンパンジーの間ではうまくいっているように思えることも,人間にとっては災いとなることが多いのです。事実が示すところによると,乱交がもたらすのは,家族の崩壊,堕胎,病気,精神的・感情的衝撃,しっと,家庭内暴力,遺棄された子供が環境に適応できないまま成長し,同じ痛ましい循環を繰り返すことなど,悲惨な問題ばかりです。動物の持つ特色が正しいものであれば,なぜ痛ましい結果になるのでしょうか。
進化論に基づく考えは,人間の命の尊さにも疑問を投げかけます。もし神は存在しないと言い,人間は高等動物以外の何ものでもないと考えるなら,人間の命は尊いとする根拠はどこにあるのでしょうか。もしかすると人間の知性ですか。もしそうであるなら,「人間の違うところ」(英語)と題する本が提起する質問は的を射たものでしょう。「人間が[進化上の]幸運に恵まれたというだけで犬や猫よりも優遇されるのは,はたして公平なのだろうか」。
「モラル・アニマル」と題する本は,新しい進化論的な考え方が広まるにつれ,「道徳観に大きな影響が及ぶのは必至である」と述べています。しかし,人間は“自然選択”によって形造られたという前提に立つ道徳は残酷です。H・G・ウェルズが述べるように,その過程を通して,「強くて器用な者が,弱くて信じやすい者を打ち負かす」のです。
意義深いことに,道徳心を長年むしばんできた進化論者の様々な説は,思想家たちの次の波の前に崩れ去ってしまいました。しかし悲惨なのは,それらの説がもたらした害がいまだに残っているということです。
創造物を崇拝するか,創造者を崇拝するか
進化論は,人の目を上つまり創造者に向けさせるのではなく,下つまり創造物に向けさせ,答えを得ようとします。一方,聖書は,人間の道徳的価値観や人生の目的を示すのに,人の目を上つまりまことの神に向けさせます。聖書はさらに,悪行を避ける努力を払わなければならないのはなぜなのか,また人間だけが死に苦しめられているのはなぜなのかという質問に答えています。また,人には悪を行なう傾向があるのはなぜかを説明する聖書の言葉は,人の思いと心に真実なものとして響きます。そのような満足のゆく説明を考慮することにしましょう。
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答えを求めて,下ではなく上に目を向ける目ざめよ! 1998 | 6月22日
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答えを求めて,下ではなく上に目を向ける
進化論では,人間は一連の変化を経て徐々に高等動物になったと言われています。片や聖書では,人間は最初神の像に造られ,完全な状態でスタートを切ったにもかかわらず,間もなく不完全さが入り込み,人類は長い下り坂を走行し始めたと教えられています。
人間の最初の二親であるアダムとエバは,道徳面で独立しようともくろみ,神に対して故意に不従順になって自分たちの良心を傷つけた時,この坂を下り始めました。二人は,言わば自動車に乗って神の律法というガードレールを故意に突き破り,人間が現在経験している世界へと転落していったのです。それは,人々が人種偏見や宗教上の憎しみや悲惨な戦争に加えて,病気や老齢や死に苦しむ世界です。―創世記 2:17; 3:6,7。
動物の遺伝子か,欠陥のある遺伝子か
もちろん聖書は,アダムとエバが罪を犯したときにその完全な体がどうなったのか,科学的に説明しているわけではありません。聖書は科学の本ではありません。それはちょうど,自動車の使用説明書が,自動車工学の教科書ではないのと同じです。しかし,聖書はその使用説明書と同様に正確です。それは神話ではありません。
アダムとエバが神の律法という保護柵を突き破ったとき,二人の体は傷を負いました。それからというもの,二人は死に向かってゆっくり下り始めました。遺伝の法則により,二人の子孫つまり人類に不完全さが受け継がれました。それで,人はみな死ぬのです。―ヨブ 14:4。詩編 51:5。ローマ 5:12。
残念なことに,人間が受け継いだものの中には罪の傾向があり,それは利己心や不道徳として表面化します。もちろん,性行為はしかるべき位置にとどめられるならふさわしいことです。神は最初の人間夫婦に,『子を生んで多くなり,地に満ちよ』と命令されました。(創世記 1:28)また,神は愛ある創造者として,その命令を守り行なうことが夫と妻にとって快いものであるようにされました。(箴言 5:18)しかし,人間の不完全さゆえに,性は乱用されるようになりました。実際,わたしたちが知っているように,不完全さは思いや体の働きを含め,生活のあらゆる面に影響を及ぼしています。
しかし,不完全さは人間の道徳心をぬぐい去ることはありませんでした。もし本当に望むなら,“ハンドル”を握り,罪の方向にそれてゆく傾向と闘うことにより,人生の落とし穴を避けることができます。もちろん,不完全な人間が罪との闘いにおいて完全な意味で成功することはありません。それで,神は憐れみ深くもそのことを考慮に入れてくださいます。―詩編 103:14。ローマ 7:21-23。
人間が死を望まない理由
聖書は,進化論が納得のいく説明を与えていない別の謎にも光を投じています。それは,死が自然で避けがたいものに思えるのに,人間は普通,死を受け入れたがらないということです。
聖書が明らかにしているように,死は罪によって,つまり神に対する不従順によってもたらされました。人間の二親が従順であったなら,二人はその子供たちと共に永遠に生きられたことでしょう。神は,とこしえに生きることを願う気持ちを人間の思いの中に言わばプログラムされました。「神は人間の心に永遠を置かれた」と,「新国際訳」の伝道の書 3章11節は述べています。それで,死への有罪宣告は,人間の内に葛藤,つまり除き去りがたい不協和音を生じさせました。
人間は,この葛藤を解消し,生き続けたいという自然な欲求を満たすため,魂は不滅であるという教理から輪廻の信仰に至るまで,実に様々な信条を作り出してきました。科学者たちは老化の謎を突き止めようとします。科学者も死を避けたい,あるいは少なくとも死を先に延ばしたいと思っているからです。無神論的な進化論者たちは,永遠の命に対する願望が人間は単なる高等動物にすぎないという見方に抵触するため,そうした願望を進化上のトリックつまり欺きだとして退けます。一方,死は敵であるという聖書の言葉は,生きたいという人間の自然な欲求と調和します。―コリント第一 15:26。
では,人間の体には,永遠に生きるはずだったことを示す何らかの証拠があるのでしょうか。確かにあります。人間の脳一つを取っても,それは人が今よりもはるかに長生きするように造られたことを示す圧倒的な証拠となります。
永遠に生きるように造られた
脳は重さが約1,400㌘で,100億ないし1,000億ものニューロンによって構成されています。それらのニューロンのうち,全く同じ造りのものは一つもないと言われています。各ニューロンは,最高20万もの他のニューロンと情報を交換することができるため,脳内の回路つまり伝達経路の数は天文学的な数字に上ります。そしてそれだけでは不十分であるかのように,「各ニューロンは[それ自体が]精巧なコンピューターである」と,サイエンティフィック・アメリカン誌(英語)は述べています。
脳は化学的な液体に浸されており,これがニューロンの働きに影響を与えます。脳はまた,その複雑さのレベルという点で,最も強力なコンピューターをも凌駕しています。トニー・ブザンとテレンス・ディクソンは,「どの頭の中にも驚異的な発電所,つまりコンパクトで効率的な器官が存在するが,人間がその器官について知れば知るほどその可能性は無限に拡大していくように思われる」と述べています。二人はピョテル・アノーヒン教授の言葉を引用し,「自分の脳の潜在能力を完全に発揮できた人はいまだかつていない。それで,我々は人間の脳の限界に関するいかなる悲観的な憶測も受け入れない。限界はないのだ」と付け加えています。
こうした驚くべき事実は進化論に基づく考え方と真っ向から対立しています。進化の過程で人生を100万回,いや10億回も繰り返せる潜在能力を持つ器官が,素朴な穴居人のためにも,また今日の高学歴の人たちのためにも“創造”されたのはなぜでしょうか。確かに,納得のいく説明となるのは永遠の命だけです。しかし,人間の体についてはどうでしょうか。
「修復と回復 ― 思いと体を巡る旅」(英語)と題する本はこう述べています。「傷ついた骨や組織や器官が自らを修復する過程は,奇跡以外の何ものでもない。立ち止まって考えてみるなら,皮膚や髪の毛や爪,また体の他のどの部分における静かな再生も,極めて驚嘆すべきものであることが分かる。それは一日24時間,来る週も来る週も続き,人が生きている限り,生化学的な意味で文字通り何度も人を作り替えている」。
神にとって,ご予定の時になれば,この自己再生の奇跡的なプロセスをいつまでも続けさせることは少しも問題ではありません。そしてついに,「死(は)無に帰せしめられます」。(コリント第一 15:26)しかし,本当に幸せになるためには,永遠の命以上のものが必要です。それは平和,つまり神および仲間の人間との平和です。そのような平和が実現するには,人々が本当に愛し合わなければなりません。
愛に基づいた新しい世
『神は愛です』と,ヨハネ第一 4章8節は述べています。愛,特にエホバ神の愛は非常に強力であるため,人間はこの愛を基盤として,永遠に生きることを期待できるのです。ヨハネ 3章16節は,「神は世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持てるようにされた」と述べています。
永遠の命! 何とすばらしい見込みでしょう。しかし,人間は罪を受け継いでいるので,命を得る権利がありません。聖書は,「罪の報いは死です」と述べています。(ローマ 6:23)しかし幸いにも,神のみ子イエス・キリストは愛に動かされ,人間のために死んでくださいました。使徒ヨハネはイエスに関して,「かの方(は)自分の魂をわたしたちのためになげうってくださった」と述べました。(ヨハネ第一 3:16)そうです,イエスは完全な人間としての命を「多くの人と引き換える贖い」として与え,ご自分に信仰を働かせる人たちが罪を帳消しにしてもらい,永遠の命を享受できるようにされたのです。(マタイ 20:28)聖書は,「神はご自分の独り子を世に遣わし,彼によってわたしたちが命を得られるようにしてくださった」と説明しています。―ヨハネ第一 4:9。
それでは,わたしたちは,神とみ子が示してくださった愛にどのように応じるべきでしょうか。聖書は続けてこう述べます。「愛する者たちよ,神がわたしたちをこのように愛してくださったのであれば,わたしたちも互いに愛し合う務めがあります」。(ヨハネ第一 4:11)人は愛することを学ばなければなりません。その特質は神の新しい世における土台となるからです。今日,エホバ神のみ言葉聖書の中で強調されている愛の大切さを,多くの人が認識するようになっています。
「愛,そして自然における愛の地位」(英語)と題する本は,愛がなければ「子供たちは死にやすくなる」と述べています。しかし,愛の必要性は人が年をとってもなくなることはありません。第一線で活躍する人類学者は,愛は「我々の太陽が,……太陽系の中心にあるのと同じように,人間の必要すべての中心にある。……愛されていない子供は,生化学的にも,生理学的にも,心理学的にも,愛されている子供とは著しく異なっている。前者と後者では成長の仕方まで異なる」と述べています。
地上のすべての人が本当に愛し合うようになるとき,生活がどのようなものになるか想像できますか。国籍が違うという理由で,また人種や皮膚の色が違うという理由で偏見を抱くようなことは二度となくなるのです。神によって任命された王イエス・キリストの管理のもとで,地球は平和と愛で満たされます。霊感を受けた聖書の次の詩編が成就するのです。
「神よ,王にあなたの司法上の定めを……与えてください。……彼が民の苦しんでいる者を裁き,貧しい者の子らを救い,だまし取る者を砕くように。……その日には義なる者が芽生え,豊かな平和が月のなくなるときまで続くことでしょう。そして,彼は海から海に至るまで,川から地の果てに至るまで臣民を持つことになります。助けを叫び求める貧しい者,また,苦しんでいる者や助け手のない者を彼が救い出すからです。彼は立場の低い者や貧しい者をふびんに思い,貧しい者たちの魂を救います」― 詩編 72:1,4,7,8,12,13。
邪悪な者が神の新しい世に住むことは許されません。聖書の別の詩編に約束されているとおりです。「悪を行なう者たちは断ち滅ぼされるが,エホバを待ち望む者たちは,地を所有する者となるからである。そして,ほんのもう少しすれば,邪悪な者はいなくなる。あなたは必ずその場所に注意を向けるが,彼はいない。しかし柔和な者たちは地を所有し,豊かな平和にまさに無上の喜びを見いだすであろう」― 詩編 37:9-11。
その時には,死人の中から復活して墓からよみがえらされる人たちを含む,従順な人間すべての思いと体は癒されます。最終的に,生きている人はみな,神の像を完全に反映することになります。正しいことを行なうための大いなる闘いは,ついに終わりを迎えます。命を切望する気持ちと,死という今の厳しい現実との間の不調和も解消されます。そうです,愛ある神は,『もはや死はなくなる』という確かな約束をしておられるのです。―啓示 21:4。使徒 24:15。
ですから,正しいことを行なうための闘いを決してあきらめることがありませんように。「信仰の戦いをりっぱに戦い,永遠の命をしっかりとらえなさい」という神からの訓戒に留意してください。神の新しい世におけるその命は,聖書が「真の命」と呼んでいるものなのです。―テモテ第一 6:12,19。
聖書に述べられている次の真理を認識できますように。「エホバ(は)神である……わたしたちを造ったのは神であって,わたしたち自身ではない」。この真理を認めることは,愛と義に満ちるエホバの新しい世において,命を得る資格にかなうための大切な一歩なのです。―詩編 100:3。ペテロ第二 3:13。
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