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エホバの民は信仰において堅くされるものみの塔 1990 | 6月15日
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2回目の宣教旅行が始まる
17 (イ)2回目の宣教旅行が提案された時,どんな問題が生じましたか。(ロ)パウロとバルナバはどのように自分たちの論争を処理しましたか。
17 2回目の宣教旅行が提唱された時,一つの問題が生じました。(15:36-41)パウロは,自分とバルナバがキプロスと小アジアの諸会衆を再び訪問することを提案しました。バルナバはそれに同意しましたが,いとこのマルコを連れてゆくことを望みました。パウロは,マルコがパンフリアで自分たちを捨てて行ったため,それに同意しません。そこで「怒りが激しく」ぶつかりましたが,パウロもバルナバも,二人の個人的な問題に他の長老たちや統治体を巻き込んで,自分の正しさを立証するようなことをしませんでした。何と優れた模範でしょう。
18 パウロとバルナバが別れたことから,どんな結果が生じましたか。わたしたちはこの出来事から,どのように益を得ることができますか。
18 しかし,この論争のため,二人は別れることになりました。バルナバはマルコを連れてキプロスへ行き,パウロは同行者のシラスと共に,「シリアとキリキアを通って諸会衆を強め」ました。バルナバは家族の絆の影響を受けていたのかもしれませんが,パウロの使徒職と,パウロが「選びの器」として選ばれていることを受け入れるべきでした。(使徒 9:15)では,わたしたちの場合はどうですか。わたしたちはこの出来事から,神権的な権威を認め,「忠実で思慮深い奴隷」と十分に協力する必要を銘記させられるはずです。―マタイ 24:45-47。
平和のうちに進歩する
19 現代のクリスチャンの若者にとって,テモテはどのような模範ですか。
19 この論争が会衆の平和に影響を与えるようなことはありませんでした。神の民は引き続き信仰において堅くされてゆきました。(16:1-5)パウロとシラスはデルベへ,さらにはルステラへ向かいます。ルステラにはテモテがいました。テモテは,信者であるユダヤ人のユニケと,その夫である未信者のギリシャ人の息子でした。テモテは若者でした。というのは,その時から12年ないしは15年後にも,「あなたの若さをだれにも見下げられることのないようにしなさい」と言われているからです。(テモテ第一 4:12)テモテは「ルステラとイコニオム[約29㌔離れていた]の兄弟たちから良い評判を得て」いたので,その優れた宣教と敬虔な特質でよく知られていました。今日のクリスチャンの若者たちも,それと同じ評価を得るため,エホバの助けを求めるべきです。パウロはテモテに割礼を施しました。テモテの父親が異邦人であることを知っているユダヤ人の家庭や会堂に赴くことになっていたからです。パウロとしては,メシアについて学ぶ必要のあるユダヤ人の男女に近づくのに妨げとなるようなものがないことを望んだのです。今日のエホバの証人も,聖書の原則を犯すことなく,良いたよりがあらゆる人にとって受け入れやすくなるように,できることを行ないます。―コリント第一 9:19-23。
20 1世紀の統治体の手紙に従って行動したことにより,どんな影響がありましたか。あなたは,このことからわたしたちがどんな影響を受けるべきだと思いますか。
20 パウロとシラスはテモテを同行者として,統治体の布告を守るよう弟子たちに伝えました。その結果どうなりましたか。ルカはシリア,キリキア,ガラテアのことを指していたものと思われますが,「諸会衆は信仰において堅くされ,日ごとに人数を増していった」と書きました。そうです,統治体の手紙に従って行動したことにより,一致と霊的な繁栄が生み出されました。
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エホバの言葉は行き渡る!ものみの塔 1990 | 6月15日
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実際,「使徒たちの活動」の研究を続けていくと,パウロが胸の躍るような宣教旅行を行なったことが分かります。―使徒 16:6-19:41。
2 (イ)西暦50年ごろから西暦56年にかけて,使徒パウロは神の霊感を受けた筆記者として,どのように奉仕しましたか。(ロ)神がパウロや他の人々の宣教を祝福されたため,どんなことが生じましたか。
2 パウロは神の霊感を受けた筆記者でもありました。西暦50年ごろから西暦56年にかけて,パウロはコリントからテサロニケ人への第一および第二の手紙,コリントもしくはシリアのアンティオキアからガラテア人への手紙,エフェソスからコリント人への第一の手紙,マケドニアからコリント人への第二の手紙,コリントからローマ人への手紙を書いています。また,神がパウロや他の人たちの宣教を祝福されたので,「エホバの言葉は力強く伸張し,また行き渡って」ゆきました。―使徒 19:20。
アジアからヨーロッパへ
3 パウロと彼の仲間たちは,聖霊の指示に関連して,どのように立派な模範を示しましたか。
3 パウロとその仲間たちは,聖霊の指示を受け入れる点で立派な模範を示しました。(16:6-10)多分,耳で聞き取れる啓示か,夢か,幻によって,霊は彼らがアジア地区やビチニア地方で宣べ伝えることを妨げます。しかし,それらの地方には後日,良いたよりが伝えられました。(使徒 18:18-21。ペテロ第一 1:1,2)早い時期にその地方に入ることを霊が妨げたのはなぜですか。働き人が少なかったので,霊はヨーロッパの中でも実りのより豊かな畑に彼らを導いていたのです。それで今日でもエホバの証人は,ある区域に入る道がふさがれるなら,神の霊が羊のような人々のところに導いてくれることを確信して,他の場所で宣べ伝えます。
4 パウロは,あるマケドニアの人が助けを懇願する幻を見ましたが,それに対する反応はどのようなものでしたか。
4 その後パウロと彼の仲間たちは,小アジアの一地域で宣教の畑であるミシアを『通り過ぎ』ました。ところがパウロは幻の中で,あるマケドニアの人が助けを懇願するのを見ました。そこで宣教者たちは,すぐさまバルカン半島の一地域であるマケドニアに赴きました。現在でも同様に多くの証人たちが聖霊に導かれ,王国宣明者の必要の大きなところで奉仕しています。
5 (イ)フィリピでエホバの言葉が行き渡ったと言えるのはなぜですか。(ロ)現代の多くの証人たちは,どのような点でルデアのようですか。
5 エホバの言葉はマケドニアに行き渡りました。(16:11-15)住民の大部分がローマ市民であった植民地のフィリピには,ユダヤ人がほとんどおらず,会堂もなかったようです。そこで兄弟たちは,市外の川のそばにある「祈りの場所」に行きました。そこに来ていた人の中にルデアがいました。この人は,染め物業で有名な小アジアの都市テアテラから来た,ユダヤ教に改宗した人だったようです。ルデアは,紫の染料や,その染料で染めた織物と衣服を売っていました。ルデアとその家の者たちがバプテスマを受けた後,彼女が心からもてなしの精神を示したため,ルカは,「彼女はわたしたちを強いて連れて行った」と書いたほどです。今日でもそのような姉妹たちに,わたしたちは感謝しています。
一人の牢番が信者になる
6 悪霊が活動していたため,パウロとシラスはどのようなことからフィリピで投獄されることになりましたか。
6 サタンはフィリピにおける霊的な発展に激怒したに違いありません。同市における悪霊の活動の結果,パウロとシラスは投獄されることになったからです。(16:16-24)「占いの悪霊」(字義,「ピュトンの霊」)につかれた女が,幾日もこの二人のあとに付いて来ました。その悪霊は,ピュトンという名の蛇を殺したと信じられている神,デルポイのアポロにふんしていたのかもしれません。その女は予言を業として,自分の主人たちに多くの利益をもたらしていました。彼女は農夫に種まき時を,娘たちには結婚の時期を,鉱夫には金脈のありかを教えていたのかもしれません。彼女は兄弟たちのあとをずっと付いて来て,「この人たちは至高の神の奴隷で,あなた方に救いの道を広めているのです」と叫びつづけました。悪霊が女にこう言わせたのは,その女の予言が神の霊感を受けているかのように思わせるためだったようです。しかし悪霊たちには,エホバや,救いのためのエホバの備えについて宣言する権利はありません。パウロはそのしつこさにうんざりし,イエスの名によって悪霊を追い出しました。女の主人たちは商売を台無しにされたので,パウロとシラスを市場に引きずって行きました。二人はそこで棒むちで打ちたたかれました。(コリント第二 11:25)それから二人は牢屋に入れられ,足かせ台につながれました。この道具は,人の両足を無理に広げて,ひどい痛みを加えるように調整できました。
7 フィリピでパウロとシラスが投獄されたことは,だれに,またどのように祝福をもたらしましたか。
7 この投獄は,牢番とその家族にとって祝福になりました。(16:25-40)真夜中ごろパウロとシラスは,神が共におられることを確信し,祈ったり,歌で神を賛美したりしていました。(詩編 42:8)そこへ突然地震が起こって戸が開き,足かせが梁や壁から離れ,すべての者のかせが解けました。牢番は,囚人たちが逃げてしまったので自分が死刑になることを恐れました。牢番が今にも自害しようとした時にパウロは,「自分を傷つけてはいけない。わたしたちは皆ここにいる!」と叫びます。牢番はパウロとシラスを外に連れ出して,どうすれば自分は救われるかと尋ねます。『主イエスを信じなさい』というのが答えでした。エホバの言葉を聞いて,『彼もその家の者もすぐにバプテスマを受け』ました。それは何と大きな喜びだったのでしょう。
8 フィリピの行政官たちはどんな処置を取りましたか。また,彼らが自分たちの誤りを公に認めたなら,どんなことが達成されるかもしれませんか。
8 翌日,行政官たちはパウロとシラスを釈放するようにと言います。しかしパウロはこう言います。『彼らはローマ人であるわたしたちを,有罪の宣告もせずにむち打ち,しかも獄に入れました。それを今,ひそかに出そうというのですか。彼らが自分で出向いて来て,わたしたちを連れ出すべきです』。もし行政官たちが自分たちの誤りを公に認めるなら,彼らは他のクリスチャンを打ちたたいたり,投獄したりすることをためらうかもしれません。ローマ市民を追放することはできないので,行政官たちは来て,兄弟たちに退去するように頼みます。しかし二人は,仲間の信者たちを励ましてからでなければ去りません。今もそのような関心を抱いている統治体の成員や他の旅行する代表者たちは,そのような関心に動かされ,全地にいる神の民を訪問し,彼らを励ましています。
エホバの言葉はテサロニケとベレアで行き渡る
9 パウロは,今もエホバの証人が用いているどんな方法により,メシアが苦しみを受け,死人の中からよみがえる必要のあったことを『説明したり証明したり』しましたか。
9 神の言葉は次に,マケドニアの首都であり主要な海港であるテサロニケで行き渡ります。(17:1-9)そこでパウロはユダヤ人と論じ,メシアが苦しみを受け,死人の中からよみがえる必要のあったことを『説明したり証明したり』しました。(パウロはエホバの証人と同様,預言とその成就である出来事とを比較して説明し,証明しました。)それで,幾人かのユダヤ人,大勢の改宗者,それに他の人々が信者になりました。ねたみを抱いたあるユダヤ人たちは暴徒を組織したものの,パウロとシラスを見つけることができず,ヤソンと他の兄弟たちを市の支配者たちのところへ連れて行き,暴動のかどで彼らを訴えます。それは,今もエホバの民に浴びせられている偽りの告発です。しかし,兄弟たちは「十分の保証」を与えた後に釈放されました。
10 ベレアのユダヤ人はどのような意味で聖書を「注意深く調べ」ましたか。
10 それからパウロとシラスはベレア市に行きます。(17:10-15)そこのユダヤ人は聖書を「注意深く調べ」ました。エホバの証人が今日人々に勧めていることを行なったわけです。それらベレアの人たちはパウロの言うことを疑ったのではなく,イエスがメシアであることを確かめる目的で徹底的に調べたのです。どんな結果になりましたか。大勢のユダヤ人と幾人かのギリシャ人(多分,改宗者)が信者になりました。テサロニケのユダヤ人が民衆を騒がせた時,兄弟たちはパウロに付き添って海岸まで行き,一行のうちの幾人かは,アテネの海港都市であるピレウス(今日のピレエフス)行きの船に乗り込んだようです。
エホバの言葉はアテネで行き渡る
11 (イ)パウロはアテネでどのように大胆な証言を行ないましたか。しかし,だれがパウロと言い合いますか。(ロ)パウロのことを「おしゃべり」と評したある人々は,どんな意味でそう言ったのですか。
11 アテネでは大胆な証言が行なわれました。(17:16-21)パウロがイエスと復活について語ったため,哲学者たちはパウロと言い合います。彼らの中には,快楽を強調したエピクロス派の人たちもいれば,自己鍛錬に重きを置いたストア派の人たちもいました。「このおしゃべりは何を言おうとしているのか」と言った者もいました。「おしゃべり」(字義,「種をついばむ者」)という表現は次のことを示唆しました。つまりパウロは,種をついばんでわずかな知識をけちけち施す知恵のない鳥のようなものだということです。またある人たちは,「これは異国の神々を広める者らしい」と言いました。これは深刻な問題でした。ソクラテスはそのような告発を受けて命を失ったからです。やがてパウロはアレオパゴス(マルスの丘)に連れて行かれ,そこのアクロポリスに近い場所で野外の最高法廷が開かれたと考えてよいでしょう。
12 (イ)パウロがアレオパゴスで行なった話には,良い公開講演のどんな特徴がはっきり見られますか。(ロ)パウロは神について,どんなことを主張しますか。そのため,どんな結果になりますか。
12 アレオパゴスで行なわれたパウロの話は,エホバの証人の神権宣教学校で教えられている効果的な紹介の言葉,論理的な話の進め方,納得させる論議などの点で優れた,模範的な話でした。(17:22-34)アテネ人は他の人たちよりも信仰が篤い,とパウロは述べます。なぜなら彼らには,どんな神でも軽んじないようにするためか,「知られていない神に」と書かれた祭壇さえあったからです。パウロは,『一人の人からすべての国の人を造られ』,カナン人を根絶した時のように『定められた時と人々の居住のための一定の限界とをお定めになった』創造者について語りました。(創世記 15:13-21。ダニエル 2:21; 7:12)パウロはエホバによる人間の創造に言及し,彼らの詩人であるアラトスとクレアンテスの言葉を引用し,「われらはまたその子孫」なので,この神を見いだすことはできる,と言いました。神の子孫であるならば,完全な創造者を,不完全な人間が造った偶像のように考えるべきではありません。神はそうした無知を見過ごしてこられはしましたが,今では,悔い改めるべきことを人類に告げておられます。なぜなら神は,ご自分が任命した人によって人々を裁くために日を定めておられるからです。パウロは『イエスの良いたよりを宣明』していたので,彼の話を聞いていた人たちは,キリストがその審判者になるという意味であることを理解しました。(使徒 17:18。ヨハネ 5:22,30)悔い改めに関する話を聞いてエピクロス派の人たちはいら立ちました。ギリシャの哲学者の場合,不滅性に関する説明は受け入れられますが,死と復活に関する話は受け入れることができません。今でも多くの人は良いたよりを無視しますが,それと同じように,ある人々は,「あなたの言うことをまた別の時に聞こう」と言ったようです。しかし,裁判官デオヌシオと他の人たちは信者になりました。
神の言葉はコリントで行き渡る
13 パウロはどのように自活しながら宣教を行ないましたか。現代でもそれに類似したどんな事実がありますか。
13 パウロはアカイア地方の首都であるコリントに行きました。(18:1-11)コリントでパウロはアクラとプリスキラに会います。彼らは,クラウディウス帝がローマ市民ではないユダヤ人にローマ退去を命じたためそこに来ていたのです。パウロは自活しながら宣教を行なうため,クリスチャンのこの夫婦と一緒に天幕を作ります。(コリント第一 16:19。コリント第二 11:9)山羊の毛で織った堅い布を切って縫い合わせるのは大変な仕事でした。同様にエホバの証人は,世俗の仕事をして物質的な必要物を備えますが,彼らの天職は宣教です。
14 (イ)コリントにおけるユダヤ人のしつような反対に直面して,パウロは何を行ないましたか。(ロ)パウロは自分がコリントにとどまるべきことを,どのように確信できましたか。しかし今日のエホバの民には,どのようにして指示が与えられますか。
14 イエスがメシアであることをパウロがふれ告げるので,コリントのユダヤ人はパウロをあしざまに言いつづけていました。そのためパウロは自分の衣を振り払って彼らに対する責任が自分にないことを示し,ローマ人と思われるテテオ・ユストという人の家で集会を開くようになりました。多くの人(会堂の元主宰役員クリスポとその家の者たちを含む)がバプテスマを受けた信者になりました。ユダヤ人が敵意を示すので,コリントにとどまるべきかどうかをパウロが考えていたとしても,主が幻の中で,「恐れないで,語りつづけなさい。……わたしはあなたと共におり,だれもあなた(に)危害を加えたりはしないからである。この都市にはわたしの民が大勢いるのである」と彼にお告げになった時,疑念は解消したに違いありません。それでパウロは合わせて1年半の間そこで神の言葉を教えつづけました。今はエホバの民が幻を与えられることはありませんが,祈りも,聖霊による指示も,王国の関心事に影響を与える,それと同様の賢明な決定を下す際の助けになります。
15 パウロが執政官代理ガリオの前に引き出された時,どんなことが起きましたか。
15 ユダヤ人はパウロを執政官代理のユニアス・ガリオのところに引いて行きます。(18:12-17)彼らは,パウロが不法な改宗活動を行なっているという意味のことを述べましたが,それは,今もギリシャの僧職者たちがエホバの証人に対して行なっている間違った告発です。ガリオは,パウロが邪悪な者ではないことや,ユダヤ人がローマとローマの法律のためになることをほとんど考えていないことを知っていたので,彼らを追い返します。見物人たちが会堂の新しい主宰役員ソステネを打ちたたいても,ガリオは介入しませんでした。ガリオは,パウロに敵対する暴動の指導者らしき者が当然受けるべき仕打ちを受けている,と考えていたのかもしれません。
16 パウロが誓約に関連して自分の髪の毛を短く刈ったことは,なぜ受け入れられることでしたか。
16 パウロはエーゲ海の港ケンクレアから,小アジアの都市エフェソスに向けて出帆します。(18:18-22)この旅に出る前,『彼は髪の毛を短く刈っていました』。『誓約があったから』です。パウロがイエスの追随者となる前に誓約をしたかどうか,これが誓約期間の初めなのか終わりなのかということは,述べられていません。クリスチャンは律法のもとにいませんが,律法は神から与えられた聖なるものでしたから,そのような誓約を行なうことは別に罪ではありませんでした。(ローマ 6:14; 7:6,12。ガラテア 5:18)エフェソスでパウロはユダヤ人と論じ,神のご意志であれば戻って来ると約束します。(この約束は後に果たされます。)パウロがシリアのアンティオキアに戻った時,2回目の宣教旅行は終わります。
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