ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 研究3 ― 時の流れの中で出来事の年代を算定する
    『聖書全体は神の霊感を受けたもので,有益です』
    • こうして彼は,およそ2,090㌔の行程をほとんど徒歩で旅行した後,西暦50年の秋にアカイア州のコリントにたどり着きました。(使徒 16:9,11,12; 17:1,2,10,11,15,16; 18:1)使徒 18章11節によれば,パウロはそこに18か月とどまりましたから,時は西暦52年の初めごろとなります。

  • 研究3 ― 時の流れの中で出来事の年代を算定する
    『聖書全体は神の霊感を受けたもので,有益です』
    • 25 (イ)考古学はパウロが初めてコリントを訪れた時期が西暦50-52年であることをどのように支持していますか。(ロ)アクラとプリスキラが「最近イタリアから来た」という事実は,このことをどのように確証していますか。

      25 考古学上の発見も西暦50年から52年をパウロが初めてコリントを訪れた年代として支持しています。それは皇帝クラウディウス・カエサルからギリシャのデルポイ人にあてられた答書の碑文の断片で,その中には,「[ルキウス・ユ]ニウス,ガリオ,……執政官代理」という言葉が含まれています。この碑文にやはり見られる26という数字は,クラウディウスが皇帝として26回目の推挙を受けたことを指しているという点で,歴史家は大体意見の一致を見ています。ほかの碑文は,クラウディウスが皇帝としての27回目の推挙を52年8月1日以前に受けたことを示しています。この執政官代理の任期は夏の初めに始まって,1年間にわたりました。このようなわけで,ガリオがアカイアの執政官代理を務めた年は,西暦51年の夏から52年の夏までだったようです。「さて,ガリオがアカイアの執政官代理だった時であるが,ユダヤ人たちはパウロに敵していっせいに立ち上がり,彼を裁きの座に引いて行っ(た)」と記されています。ガリオがパウロを無罪とした後,同使徒は「なおかなりの日数」とどまり,それからシリアに向けて船出しました。(使徒 18:11,12,17,18)このすべては,パウロの18か月にわたるコリント滞在期間の終わりが西暦52年の春であったことを確証しているように思えます。時を示すもう一つのしるしは,パウロがコリントに到着した時,「ポントス生まれの人で,クラウディウスがユダヤ人すべてにローマ退去を命じたために最近イタリアから来た,アクラという名のユダヤ人と,その妻プリスキラに会った」という一文に見いだせます。(使徒 18:2)5世紀初頭の歴史家パウルス・オロシウスによれば,この追放命令はクラウディウスの第9年,西暦49年,もしくは西暦50年の初めに出されました。こうして,アクラとプリスキラはその年の秋の少し前にコリントに着くことができ,パウロが西暦50年の秋から52年の春までそこにとどまることができたと考えられます。a

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする