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「神の平和」があなたの心を守るようにしなさいものみの塔 1991 | 3月1日
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平和のための勝った基礎
12 どのようにイスラエルは最終的に神との平和を退けましたか。
12 やがて,完全な平和を回復させることになっていた胤が,人間イエスとして到来し,み使いたちはイエスの誕生に際して,「上なる高き所では栄光が神に,地上では平和が善意の人々の間にあるように」と歌いました。(ルカ 2:14)イエスはイスラエルの中に登場しましたが,その国民は神の契約のもとにあったにもかかわらず,全体としてイエスを退け,ローマ人に彼を引き渡して殺させました。イエスは死の少し前にエルサレムのために涙を流され,「もしあなたが,そうですあなたが,この日に,平和にかかわる事を見分けていたなら ― しかし今,それはあなたの目から隠されているのです」と言われました。(ルカ 19:42。ヨハネ 1:11)イスラエルはイエスを退けたゆえに,神との平和を完全に失いました。
13 エホバは,人間が神との平和を見いだすためのどんな新しい方法を確立されましたか。
13 それにもかかわらず,神の目的は妨害されませんでした。イエスは死人のうちから復活させられ,正しい心を持つ人間のための贖いとなるご自分の完全な命の価値をエホバにささげられました。(ヘブライ 9:11-14)イエスの犠牲は人間にとって,つまり生来のイスラエル人と異邦人の両者にとって,神との平和を見いだすための新しい勝った方法となりました。パウロはローマのクリスチャンに宛てた手紙の中で,「わたしたちが敵であった時に[わたしたちは]み子の死を通して神と和解した」と述べました。(ローマ 5:10)1世紀にこのようにして平和を作り出した人たちは,聖霊によって油そそがれ,神の養子とされ,「神のイスラエル」と呼ばれる新しい霊的国民の成員となりました。―ガラテア 6:16。ヨハネ 1:12,13。コリント第二 1:21,22。ペテロ第一 2:9。
14,15 神の平和について述べ,クリスチャンがサタンの敵意の的になっている時でもそれがどのようにクリスチャンを保護するか,説明してください。
14 それら新しい霊的イスラエル人は,サタンとその下にある世の敵意の的になるでしょう。(ヨハネ 17:14)それでも彼らは,『父なる神とわたしたちの主キリスト・イエスからの平和』を有することになります。(テモテ第二 1:2)イエスは彼らにこう言われました。「あなた方がわたしによって平安を得るために,わたしはこれらのことを言いました。世にあってあなた方には患難がありますが,勇気を出しなさい! わたしは世を征服したのです」― ヨハネ 16:33。
15 この平和によって,パウロや仲間のクリスチャンはどんな困難な事態に直面しても忍耐するよう助けられました。その平和は,イエスの犠牲によって可能にされた,神との穏やかでむつまじい関係を反映しています。その平和を持つ人は,エホバの気遣いを意識するようになるため,平穏な思いの平安を得ます。愛情の深い父親の腕に抱かれた子供も,それと同じ安らかな気持ち,つまり自分は自分を顧みてくれる人に見守られているという疑問の余地のない確信を得ます。パウロはフィリピの人たちをこのように励ましました。「何事も思い煩ってはなりません。ただ,事ごとに祈りと祈願をし,感謝をささげつつあなた方の請願を神に知っていただくようにしなさい。そうすれば,一切の考えに勝る神の平和が,あなた方の心と知力を,キリスト・イエスによって守ってくださるのです」― フィリピ 4:6,7。
16 神との平和は,1世紀のクリスチャンの互い同士の関係にどのような影響を与えましたか。
16 人間が神との平和を失ったために生じた一つの結果は,憎しみと不一致です。1世紀のクリスチャンの場合,神との平和を見いだすことはそれとは正反対の結果をもたらしました。それはパウロが「結合のきずなである平和」と呼んだもの,つまり,彼ら自身の間の平和と一致です。(エフェソス 4:3)彼らは「同じ考えを持ち,平和に生活」しました。それで,『愛と平和の神が彼らと共にいて』くださいました。さらに,彼らは「平和の良いたより」を宣べ伝えました。それは本質的に,「平和の友」すなわち良いたよりにこたえ応じる人たちの救いに関係した良いたよりでした。―コリント第二 13:11。使徒 10:36。ルカ 10:5,6。
平和の契約
17 神は現代のご自分の民と何を結ばれましたか。
17 今日でもそのような平和を見いだせるでしょうか。確かに見いだせます。栄光を受けたイエス・キリストの支配する神の王国が設立された1914年以降,エホバは神のイスラエルの残りの者をこの世から集め出し,彼らと平和の契約を結ばれました。神はそのようにして,預言者エゼキエルを通してなされた次の約束を成就されたのです。「わたしは彼らと平和の契約を結び,定めなく存続する契約が彼らとの間にあるであろう。また,わたしは彼らを置き,彼らを殖やし,定めのない時に至るまで彼らの中にわたしの聖なる所を置く」。(エゼキエル 37:26)エホバは,1世紀の兄弟たちのようにイエスの犠牲に信仰を働かせる油そそがれたクリスチャンとこの契約を結ばれました。霊的な汚れを清められた彼らは,天の父に献身し,神のおきてに従うよう努力しています。中でも注目に値する点は,設立された神の王国の良いたよりを率先して全世界に宣べ伝えていることです。―マタイ 24:14。
18 諸国民の中のある人たちは,神のみ名が神のイスラエルの上にあることを認めて,どのようにこたえ応じてきましたか。
18 その預言は続きます。「そしてわたしの幕屋は彼らの上に実際にあり,わたしは必ず彼らの神となり,彼らはわたしの民となるであろう。そして……諸国民は,わたしが,エホバが,イスラエルを神聖なものにしていることを知らなければならなくなる」。(エゼキエル 37:27,28)この預言のとおり,「諸国民」から来た幾十万もの人々,いえ,幾百万もの人々は,エホバのみ名が神のイスラエルの上にあることを認めてきました。(ゼカリヤ 8:23)彼らはあらゆる国民の中から来て,その霊的国民と共にエホバに仕えるために集まり,「啓示」の書の中で予見されている「大群衆」を形造っています。「自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした」ので,彼らは大患難を生き残って平和な新しい世に入ります。―啓示 7:9,14。
19 神の民は今日,どんな平和を享受していますか。
19 神のイスラエルと大群衆は一緒になって,ソロモン王の治下でイスラエルが享受した平和に匹敵する霊的平和を享受しています。彼らについてミカはこう預言していました。「彼らはその剣をすきの刃に,その槍を刈り込みばさみに打ち変えなければならなくなる。国民は国民に向かって剣を上げず,彼らはもはや戦いを学ばない。そして彼らはまさに,各々自分のぶどうの木の下,自分のいちじくの木の下に座り,これをおののかせる者はだれもいない」。(ミカ 4:3,4。イザヤ 2:2-4)この預言と一致して,彼らは戦争や紛争に背を向け,象徴的に剣をすきの刃に,槍を刈り込みばさみに打ち変えてきました。そのようにして彼らは,国籍,言語,人種,社会的背景がどのように異なっていようと,彼らの国際的社会のどこにおいても平和的な兄弟関係を享受しています。また彼らは,エホバが確かに自分たちを見守り,保護してくださることを喜んでいます。『彼らをおののかせる者はだれもいない』のです。確かに『エホバご自身がその民に力をお与えになり,エホバご自身が平和をもってその民を祝福してこられた』のです。―詩編 29:11。
20,21 (イ)神との平和を保つために努力すべきなのはなぜですか。(ロ)神の民の平和を打ち砕こうとするサタンの努力について,どんなことが言えますか。
20 しかし,西暦1世紀の場合と同じように,神の僕たちの平和はサタンの敵意を招きました。サタンは1914年に神の王国が設立された後,天から投げ落とされ,その後は「[女]の胤のうちの残っている者たち」と闘ってきました。(啓示 12:17)パウロは当時でさえ,「わたしたちのする格闘は,血肉に対するものではなく……天の場所にある邪悪な霊の勢力に対するもの」であると警告しています。(エフェソス 6:12)今やサタンは地の近くに閉じ込められているので,その警告は緊急性を帯びています。
21 サタンは神の民の平和を破壊しようとして,自分の自由になる策略をすべて用いてきました。しかしサタンは成功していません。1919年当時,神に忠実に仕えるために努力していた人たちは1万人もいませんでした。しかし今日では,400万以上の人たちが信仰によって世を征服しています。(ヨハネ第一 5:4)それらの人たちにとって神との平和や互い同士の平和は,サタンやサタンの胤の敵意を耐え忍ぶ時でさえ,現実のものなのです。しかしわたしたちは,この敵意について考え,またわたしたち自身の不完全さや,わたしたちが生きている「対処しにくい危機の時代」を考慮に入れて,自分の平和を保つために勤勉に努力しなければなりません。(テモテ第二 3:1)次の記事では,それにはどんな事柄が関係しているか,調べてみましょう。
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「平和を求めてそれを追い求めよ」ものみの塔 1991 | 3月1日
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「平和を求めてそれを追い求めよ」
「ご自分の僕の平安を喜びとされるエホバが大いなるものとされますように」― 詩編 35:27。
1 わたしたちは今日どんな平和を享受していますか。
この分裂した世にあって平和を保てるのは何と大きな喜びでしょう。『まさに平和の神』であられるエホバを崇拝し,神の「平和の契約」の祝福にあずかるのは,何と喜ばしいことなのでしょう。生活上の種々の圧力の中で「一切の考えに勝る神の平和」を知り,国籍,言語,人種,社会的な背景が違っていても神の民を結び合わせる『平和のきずな』を経験できるのは何とさわやかなことなのでしょう。―テサロニケ第一 5:23。エゼキエル 37:26。フィリピ 4:7。エフェソス 4:3。
2,3 (イ)神の民は全体として耐え忍びますが,個々のクリスチャンにはどんなことが生じ得ますか。(ロ)聖書はわたしたちに何をするよう勧めていますか。
2 エホバの証人として,わたしたちはこの平和を大切にします。しかし,これを当然のものと考えることはできません。自分がクリスチャン会衆と交わっている,あるいは,たまたまクリスチャンの家族の一員であるというだけの理由で,自動的に平和が保てるわけではありません。油そそがれた残りの者とその仲間である「ほかの羊」は一つの群れとして終わりまで耐え忍びますが,個々の人たちは平和を失い,離れ落ちるかもしれません。―ヨハネ 10:16。マタイ 24:13。ローマ 11:22。コリント第一 10:12。
3 使徒パウロは当時の油そそがれたクリスチャンたちに警告を与え,「兄弟たち,あなた方のうちのだれも,生ける神から離れて,信仰の欠けた邪悪な心を育てることがないように気をつけなさい」と述べました。(ヘブライ 3:12)この警告は大群衆にも当てはまります。ですから聖書はクリスチャンにこう勧めています。「平和を求めてそれを追い求めよ。エホバの目は義にかなった者たちの上にあり,その耳は彼らの祈願に向けられるからである。しかしエホバのみ顔は悪を行なう者たちに向かっている」― ペテロ第一 3:10-12。詩編 34:14,15。
「肉の思うこと」
4 わたしたちと神との平和は何によって乱されることがありますか。
4 平和を追い求めようとするわたしたちを妨げるのは何でしょうか。パウロはその一つを挙げ,こう述べています。「肉の思うことは死を意味するのに対し,霊の思うことは命と平和を意味するのです。肉の思うことは神との敵対を意味(します)」。(ローマ 8:6,7)パウロは受け継いだ罪深い傾向を持つ不完全な人間としての堕落した状態を指して,「肉」という言葉を用いています。堕落した肉の傾向に屈するなら,わたしたちの平和は破壊されます。もしクリスチャンが不道徳行為に携わり,偽りを語り,盗みを行ない,麻薬を用いながら,また他の点で神の律法を破りながら悔い改めないなら,その人はかつて享受していたエホバとの平和を打ち砕くことになります。(箴言 15:8,29。コリント第一 6:9,10。啓示 21:8)さらに,物質的な事柄が霊的な事柄よりも重要になるままにしておくなら,その人と神との平和は甚だしく脅かされます。―マタイ 6:24。ヨハネ第一 2:15-17。
5 平和を追い求めることには何が関係していますか。
5 一方パウロは,「霊の思うことは命と平和を意味する」と述べました。平和は霊の実の一部であり,もしわたしたちが霊的な事柄を認識できるよう自分の心を訓練し,その面での助けが得られるよう神の霊を祈り求めるなら,「肉の思うこと」を避けることができます。(ガラテア 5:22-24)ペテロ第一 3章10節から12節で,平和は義と結びつけられています。(ローマ 5:1)平和を追い求めることには『悪いことから離れて善いことを行なう』ことが含まれる,とペテロは述べています。神の霊は,わたしたちが『義を追い求め』,神との平和を維持するのを助けることができます。―テモテ第一 6:11,12。
6 会衆の平和に関して長老たちに課されている責任の一つは何ですか。
6 平和を追い求めることは,会衆の長老たちの主要な関心事です。例えば,もしある人が汚れた習慣を持ち込もうとするなら,長老たちにはその罪人を戒めるよう努力して会衆を保護する責任があります。もし罪人が戒めを受け入れるなら,その人は再び平和を得ることになるでしょう。(ヘブライ 12:11)もし戒めを受け入れないなら,会衆とエホバとの平和な関係が維持できるよう,その人を追放しなければならないかもしれません。―コリント第一 5:1-5。
わたしたちの兄弟たちとの平和
7 パウロは「肉の思うこと」のどんな表われについて,コリントの人たちに警告していますか。
7 「肉の思うこと」はわたしたちと神との平和だけでなく,他のクリスチャンとの良い関係をも破壊することがあります。パウロはコリントの人たちにこう書きました。「あなた方はまだ肉的……です。というのは,あなた方の間にねたみや闘争があることからすれば,あなた方は肉的であって,人々と同じ歩み方をしているのではありませんか」。(コリント第一 3:3)ねたみや闘争は,平和の正反対です。
8 (イ)会衆内にねたみや闘争を引き起こす人は,どのような結果を招くことがありますか。(ロ)わたしたちと神との平和は,何に依存していますか。
8 ねたみや闘争を引き起こして会衆の平和を乱すのは非常に重大な事柄です。使徒ヨハネは,霊の実として平和と関係のある特質について述べ,次のように警告しました。「『わたしは神を愛する』と言いながら自分の兄弟を憎んでいるなら,その人は偽り者です。自分がすでに見ている兄弟を愛さない者は,見たことのない神を愛することはできないからです」。(ヨハネ第一 4:20)同じように,もしある人が兄弟たちの間にねたみや闘争を引き起こすなら,その人は本当に神との平和を保てるでしょうか。決して保てません。わたしたちは次のように勧められています。「引き続き歓び,さらに調整を加えられ,慰めを受け,同じ考えを持ち,平和に生活してゆきなさい。そうすれば,愛と平和の神があなた方と共にいてくださるでしょう」。(コリント第二 13:11)そうです,もしわたしたちが互い同士平和に生活し続けるなら,そのとき,愛と平和の神はわたしたちと共にいてくださるのです。
9 クリスチャンの間で時々誤解や意見の対立が生じるということは,どうして分かりますか。
9 これは,クリスチャンの間に誤解が生じることは決してない,という意味ではありません。ペンテコステが過ぎて数週間もしないうちに,食物の日ごとの分配について,誕生して間もない,クリスチャン会衆の中で意見の対立が生じました。(使徒 6:1)ある時には,パウロとバルナバとの間で意見の対立が生じ,『怒りが激しくぶつかる』ことになりました。(使徒 15:39)パウロは,立派で熱心な姉妹たちに違いないユウオデアとスントケに,『主にあって同じ思いでいる』よう諭さなければなりませんでした。(フィリピ 4:2)イエスが,クリスチャンの間の平和の妨げとなる事柄の解決策について詳しい助言を与え,そのような問題はすぐに扱うことが急務であることを強調されたのも,不思議ではありません。(マタイ 5:23-25; 18:15-17)もしご自分の追随者たちの間に困難な問題が起こるのを予期されなかったとしたら,イエスはこの諭しをお与えにならなかったでしょう。
10 会衆内では時々どんな状況が生じますか。そのため,関係する人すべてにどんな責任が課されますか。
10 ですから今日でも,ある人が仲間のクリスチャンの無神経な言葉や冷淡と思える態度に腹を立てることは十分に考えられます。ある人の性格は,他の人をひどくいら立たせるかもしれません。個性の衝突が生じるかもしれません。長老たちの決定に強く反対する人もいるでしょう。長老団そのものの中でも,一人の長老が非常に気が強くて,他の長老たちを押し切ろうとするようなことがあるかもしれません。そのようなことが生じるとしても,わたしたちは平和を求め,それを追い求めなければなりません。「結合のきずなである平和」を維持するためそのような問題をクリスチャンらしい方法で扱うのは挑戦です。―エフェソス 4:3。
11 エホバはわたしたちが互い同士の平和を追い求めるための助けとなるどんな備えを設けられましたか。
11 聖書は,「ご自分の僕の平安を喜びとされるエホバが大いなるものとされますように」と述べています。(詩編 35:27)そうです,エホバはわたしたちが平和な状態にあることを願っておられます。そのためエホバは,わたしたち自身の間の平和を,またエホバとの平和を維持するための助けとなる,二つの際立った備えを設けてくださいました。その一つは聖霊です。平和は,辛抱強さや親切,温和,自制など,平和に関連した特質と同じく聖霊の実です。(ガラテア 5:22,23)もう一つは神の知恵です。この知恵についてはこう記されています。「上からの知恵はまず第一に貞潔であり,次いで,平和を求め,道理にかない,進んで従い,憐れみと良い実とに満ち(て)」います。―ヤコブ 3:17,18。
12 わたしたちと兄弟たちとの平和が乱されたなら,わたしたちは何を行なうべきですか。
12 ですから,わたしたちと他の人との平和が乱されている時には,どのように行動したらよいかを示していただけるよう,上からの知恵を祈り求めるべきです。また,正しい事柄を行なうようわたしたちを強める聖霊を願い求めるべきです。(ルカ 11:13。ヤコブ 1:5。ヨハネ第一 3:22)それから,自分の祈りに一致して,神の知恵の源である聖書を調べ,導きを求めることもできますし,入手可能な聖書文書を調査し,聖書をどう自分に当てはめるかに関する助言を求めることもできます。(テモテ第二 3:16)またわたしたちは会衆の長老たちにも助言を求めたいと思うかもしれません。最後の段階は,与えられた導きに従うことでしょう。イザヤ 54章13節は,「あなたの子らは皆エホバに教えられる者となり,あなたの子らの平安は豊かであろう」と述べています。これは,わたしたちの平和が,エホバから教えられる事柄を実行することにかかっていることを示唆しています。
「平和を求める人たちは幸いです」
13,14 (イ)イエスが言われた「平和を求める人たち」という語には,どんな意味がありますか。(ロ)わたしたちはどうすれば平和を作る人になれますか。
13 イエスは山上の垂訓の中で,「平和を求める人たちは幸いです。その人たちは『神の子』と呼ばれるからです」と言われました。(マタイ 5:9)この「平和を求める人たち」という語は,性質がただ穏やかな人のことを指しているのではありません。それに相当する原語のギリシャ語には「平和を作る人たち」という意味があります。平和を作る人たちは,平和が乱されても平和を回復するのが上手です。しかし,それよりも重要な点ですが,平和を作る人たちは平和を乱す事柄を最初から避けるよう努力します。『平和がその人の心の中を制御する』のです。(コロサイ 3:15)もし神の僕たちが平和を作る人になろうと努力するなら,彼らの間の問題は最小限に抑えられるでしょう。
14 平和を作る人になることには,自分自身の弱点を認めることが関係しています。例えば,あるクリスチャンは短気かもしれず,神経質ですぐに腹を立てるかもしれません。圧力を受けると,感情的になって聖書の原則を忘れてしまうかもしれません。不完全な人間ですから,そういうこともないとは言えません。(ローマ 7:21-23)それでも,敵意,闘争,激発的な怒りなどは,肉の業として挙げられています。(ガラテア 5:19-21)そのような傾向が自分にあることに気づいたなら,または他の人たちからその傾向について注意を喚起されたなら,自制や温和を自分のうちに培えるよう,エホバの霊をいつも真剣に祈り求めるべきです。実際,すべての人が新しい人格の一部として,そのような特質を培うよう努力すべきです。―エフェソス 4:23,24。コロサイ 3:10,15。
15 上からの知恵は,道理をわきまえないかたくなさと,どのような対照を成していますか。
15 会衆や長老団は,自分自身のやり方をたえず主張するかたくなな人に迷惑することがあります。確かに,神の律法に関しては,クリスチャンは強い態度,時には不屈の態度さえ示さなければなりません。また,もし他の人に益を与え得る良い考えがあると思えるなら,理由を説明する限り,自分の意見を率直に述べるのは少しも間違ったことではありません。しかし,「容易に合意しない」世の人たちのようにはなりたくありません。(テモテ第二 3:1-4)上からの知恵は平和を求め,道理にかなっています。かたくなで柔軟性のない行動をとる傾向のある人々は,『何事も自己本位の気持ちから行なう』ことがないようにという,フィリピの人たちに対するパウロの諭しに注意を払うべきです。―フィリピ 2:3。
16 フィリピ人への書にあるパウロの諭しは,わたしたちが自己本位の気持ちを克服するのにどのように助けになりますか。
16 パウロは同じ手紙の中で,わたしたちは「へりくだった思いを持ち」,誠実に「他の人が自分より上であると考え」るべきであることを勧めています。これは自己本位の正反対です。円熟したクリスチャンは,自分の意見を強要したり,面子を立てたり,自分自身の立場や権威を守ったりすることを第一には考えません。そのようにするのは,「自分の益を図って自分の事だけに目を留めず,人の益を図って他の人の事にも目を留めなさい」というパウロの勧めに反することです。―フィリピ 2:4。ペテロ第一 5:2,3,6。
平和を求める言葉
17 舌の用い方をどのように間違えると,会衆の平和は乱されることがありますか。
17 平和を追い求める人は,舌の用い方にとりわけ注意を払います。「舌も体の小さな部分ですが,大いに自慢します。ご覧なさい,ごく小さな火が何と広大な森林地帯を燃え上がらせるのでしょう」と,ヤコブは警告しています。(ヤコブ 3:5)悪意のあるうわさ話,隠れてする他の人たちの批判,不親切で荒々しい言葉,つぶやきと不平,それに自分の利益を勘定に入れた不正直なへつらい ― これらはみな,神の民の平和を乱す肉の業です。―コリント第一 10:10。コリント第二 12:20。テモテ第一 5:13。ユダ 16。
18 (イ)うっかりして舌を誤用した場合,関係者すべてが取るべき正しい道とはどのようなものですか。(ロ)だれかが怒りに駆られて人を傷つける言葉を口に出す場合,円熟したクリスチャンはどのように反応しますか。
18 事実ヤコブは言いました。「舌は,人類のだれもこれを従わせることができません」。(ヤコブ 3:8)円熟したクリスチャンでさえ,心から後悔するような事を言う場合があるものです。わたしたちは皆,わたしたちが他の人たちを許すように,他の人たちもそのような過ちを許してくれることを願います。(マタイ 6:12)怒りを激しく爆発させるなら,人を傷つける言葉が口に上るかもしれません。そのような時,平和を作り出す人は,「温和な答えは激しい怒りを遠ざけ,痛みを生じさせる言葉は怒りを引き起こす」という言葉を思い起こします。(箴言 15:1)多くの場合,1回深呼吸をし,売り言葉に対してそれを上回る買い言葉で応じないようにするだけですみます。その後,怒りが治まったとき,平和を作り出す寛大な人には,かっとなった瞬間に口から出た言葉を見過ごす方法が分かります。また,謙遜なクリスチャンなら,どのように謝ればよいかを知っており,自分が負わせた傷をきれいにいやすように努めるでしょう。「申し訳ありませんでした」と正直に言えるのは,道徳的な強さを示すしるしです。
19 どのように諭しを与えるかについて,パウロとイエスから何が学べますか。
19 他の人たちを諭すために舌を用いなければならないこともあるかもしれません。パウロは,ペテロがアンティオキアで正しくない行動をした時,ペテロを公に叱責しました。またイエスも,七つの会衆に対する音信の中で強い諭しを与えておられます。(ガラテア 2:11-14。啓示 2,3章)これらの例を調べるなら,人を諭すときには手心を加え過ぎて要点がぼやけないようにすべきであることが分かります。しかし,イエスにせよパウロにせよ,手厳しかった,あるいは苛酷であったわけではありません。その諭しは,彼ら自身の欲求不満のはけ口だったのではありません。彼らは心から兄弟たちを助けようとしていました。諭しを与える人は,自分が舌を十分に制していないのを感じるなら,何かを言う前に休止を置き,少し気持ちを落ち着かせるとよいかもしれません。そうしないと,手厳しい言葉を口に出し,今扱おうとしている問題よりもさらに難しい問題を引き起こすことになりかねません。―箴言 12:18。
20 兄弟姉妹に対して,あるいは兄弟姉妹について語ることはすべて何によって支配されているべきですか。
20 すでに述べたように,平和と愛は霊の実として密接に結びついています。わたしたちが兄弟たちに対して,あるいは兄弟たちについて話すことが,常に彼らに対する愛の反映であるとしたら,それは会衆の平和に貢献することでしょう。(ヨハネ 15:12,13)わたしたちの語る言葉は「慈しみのあるもの,塩で味つけされたもの」であるべきです。(コロサイ 4:6)その言葉は,言わば味わいのある,心に訴えるものであるべきです。イエスは,「あなた方自身のうちに塩を持ちなさい。そして,互いの間で平和を保ちなさい」という諭しを与えておられます。―マルコ 9:50。
「力を尽くして励みなさい」
21 毎週の集会や大会では,神の民に関するどんな事柄が明らかになりますか。
21 詩編作者は,「見よ,兄弟たちが一致のうちに共に住むのは何と良いことであろう。それは何と快いことであろう」と書きました。(詩編 133:1)確かに,わたしたちは兄弟たちと共にいることをうれしく思います。特に毎週の集会の際,また大会や大規模な大会の間はそう感じます。そのような時,わたしたちの平和は外部の人たちにさえ明らかになります。
22 (イ)間もなく諸国民は,どんな偽りの平和を達成しつつあると考えるようになりますか。それは何に至りますか。(ロ)神の平和の契約によって,どんな真の平和がもたらされますか。
22 間もなく諸国民は,エホバなしに平和を達成しつつあると考えるようになるでしょう。しかし彼らが「平和だ,安全だ」と言っているその時,神との平和を保っていない人たちすべてに突然の滅びが臨みます。(テサロニケ第一 5:3)その後,大いなる平和の君は,人間が最初に神との平和を失ったために災いを被った人類をいやす業を行なわれます。(イザヤ 9:6,7。啓示 22:1,2)次いで,神の平和の契約が世界中に静けさをもたらします。野の獣でさえ,敵意のない安らぎを経験するでしょう。―詩編 37:10,11; 72:3-7。イザヤ 11:1-9。啓示 21:3,4。
23 もし平和な新しい世に関する希望を大切にしているなら,わたしたちは今何をすべきですか。
23 それは何という栄光に輝く時となるのでしょう。あなたはその時を熱烈に待ち望んでいますか。もしそうであれば,「すべての人に対して平和を追い求めなさい」。あなたの兄弟たちとの,とりわけエホバとの平和をいま追い求めてください。そうです,「あなた方はこれらのものを待ち望んでいるのですから,最終的に汚点もきずもない,安らかな者として見いだされるよう力を尽くして励みなさい」。―ヘブライ 12:14。ペテロ第二 3:14。
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