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献身とバプテスマにより神との平和を得るものみの塔 1987 | 4月15日
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献身とバプテスマにより神との平和を得る
「エホバは続けて……言われた。……『身に印のある者にはだれにも近づいてはならない』」― エゼキエル 9:4,6。
1,2 (イ)一般の人々が神との平和な関係に入っていないのはなぜですか。(ロ)そのような平和を得ることがすべての人にとって肝要なのはなぜですか。
神との平和を得ることがなぜ必要なのでしょうか。自分が神と対立しているなどと考える人はほとんどいません。しかし,実際に神の敵となっていながら,それに気づかないということがあり得ますか。使徒パウロは1世紀のクリスチャンにこう説明しました。「わたしたちは皆,一時は自分の肉の欲望にしたがって生活し,肉と考えとの欲するところを行なって,ほかの人々と同じく生まれながらに憤りの子供でした」― エフェソス 2:3。
2 今日でも同様に,自分では神を喜ばせることに関心を抱いていても,アダムから受け継いだ罪は人々の見方に影響を与え,「肉……の欲するところ」を追い求めるよう人々を動かす場合があります。エホバの証人と聖書を研究している人であっても,エホバの証人の親を持つ,バプテスマを受けていない若者であっても,生活の多くの面で自分の好きなことをする自己中心的な態度が目立ち,そうした態度のゆえに相変わらず神から疎外されているかもしれません。そのような歩みを続ける人は「憤りを,自らのために蓄えている」のです。(ローマ 2:5。コロサイ 1:21; 3:5-8)神は,足早に近づいている「憤りの日,また神の義の裁きが表わし示される日」に,ご自分の怒りを完全に表明されるでしょう。(ローマ 1:28-2:6)どうすれば神との平和を得,この「憤りの日」を生き残ることができますか。
平和のための基盤
3 神はどのように和解のための基盤を備えてくださいましたか。
3 エホバは自ら率先して助けを与えてくださいました。「神(は)わたしたちを愛し,ご自分のみ子をわたしたちの罪のためのなだめの犠牲として遣わしてくださった」のです。(ヨハネ第一 4:10)イエスの犠牲の死は,なだめる働きをします。つまり,エホバの公正さを和らげる,あるいはその公正の要求を満たすものです。その死は罪の許しのための,究極的には神と人との間の敵意を完全に除き去るための法的な基盤となります。そうです,使徒パウロが書いたように,『み子の死を通して神と和解する』ことが可能になるのです。―ローマ 5:8-10。
4 関連したどんな幻がエゼキエルに与えられましたか。その幻がわたしたちにとって重要なのはなぜですか。
4 しかし,キリストの犠牲から個人的に益を得るには,幾つかの特定の段階を踏まなければなりません。それらの段階は,預言者エゼキエルに与えられた劇的な幻の中に示されています。それは,神の「憤りの日」が迫っている現代に成就している幻です。この幻の中で,刑の執行に当たる神の軍勢は,武器を持つ六人の者によって表わされています。この六人が神の憤りを表明する前に,書記官のインク入れを持った七人目の者に対して次のような言葉が語られます。「『都の中……を通れ。その中で行なわれているすべての忌むべきことのために嘆息し,うめいている者たちの額に,あなたは印を付けなければならない』。また,その方はわたしの聞こえるところで,[武器を持った六人の者たち]に言われた,『彼のあとについて都の中を通って行き,討て。……しかし,身に印のある者にはだれにも近づいてはならない』」― エゼキエル 9:1-6。
5 人はどのようにして悔い改めるようになりますか。
5 保護されるよう『印を付けられた』それらの人々は,まことの神を崇拝すると主張する人たちが「この地を暴虐で満たし」,性の不道徳や偶像礼拝,それに他のあらゆる種類の悪行に携わってきたためにうんざりさせられていました。(エゼキエル 8:5-18。エレミヤ 7:9)同様に今日でも,『印を付けられる』人々は,聖書研究を通して,まず第一に神の規準を重んじることと,神を辱める教えや慣行について心から悲しむ,つまり『嘆息し,うめく』ことを知らなければなりません。知識がないために悪行に携わったり,そのような行為を支持することによって賛同の意を表わしたりした人がいるかもしれません。しかし今度は,それらの活動を神がご覧になるように,つまり嫌悪感を抱いて見始めるのです。(ローマ 1:24-32。イザヤ 2:4。啓示 18:4。ヨハネ 15:19)このようにして認識が深まると,神との平和を得るための最初の幾つかの段階の一つに達するようになります。それは,悔い改めです。使徒ペテロは,『ですから,あなた方の罪を塗り消していただくために,悔い改めて身を転じなさい。[憤りではなく]さわやかにする時期がエホバのみもとから到来するようにするためです』と勧めました。(使徒 3:19)そのような許しは実にさわやかなものです!
「印」を付けられる
6 古代には,どんな理由である人々に印が付けられましたか。
6 『嘆息し,うめいていた』人々は神の憤りを免れるため,自分の額に印を付けてもらわなければなりませんでした。(エゼキエル 9:4)多くの場合,古代の奴隷は身分をはっきりさせるための印を額に付けられていました。額やその他の場所に付けられた明確な印は,人がある特定の神の崇拝者であることをも示したと言えるかもしれません。a (イザヤ 44:5と比較してください。)では,現代においては何が明確な,そして命を救う印となって,そのしるしのある人をエホバの真の崇拝者また奴隷と証明するのでしょうか。
7 象徴的な印とは何ですか。
7 この象徴的な印は,(1)人がイエス・キリストの献身してバプテスマを受けた弟子であることと,(2)キリストのような新しい人格を身に着けていることを示す証拠です。その証拠は,覆い隠されていない額に表示されているかのようです。(エフェソス 4:20-24)そのようにして『印を付けられた』人々は,まず献身しなければならないので,わたしたちは献身に関係する事柄を知る必要があります。イエスはこのように説明しておられます。「わたしに付いて来たいと思うなら,その人は自分を捨て,自分の苦しみの杭を取り上げて,絶えずわたしのあとに従いなさい」― マルコ 8:34。
8,9 (イ)『自分を捨てる』とはどういう意味ですか。(ロ)献身する人に何が求められているかはどのような例によって説明できますか。
8 『捨てる』と訳されているギリシャ語には,「完全に拒否する」,あるいは「放棄する」という意味があります。ですから,『自分を捨てる』とは,ある種の楽しみや道楽を時々拒む以上のことを意味しています。むしろこの語は,自分の生活が自分個人の欲求や野望に支配されそうになるとき,進んで自分自身をきっぱりと拒むことを意味しています。この考えが別の言語でどのように翻訳されているかに注目すれば,イエスの言葉に含まれる意味の範囲が理解できるでしょう。「自分自身の心の欲することを行なうのをやめる」(ツェルタル語訳,メキシコ),「もはや自分自身のものとならない」(カンジョバル語訳,グアテマラ),「自分自身に背を向ける」(ジャワ語訳,インドネシア)。そうです,この言葉は,単に幾つかの事柄に関して立てることのできる誓いではなく,全き献身を意味しているのです。
9 以前は非常に自己本位な態度を取っていたスーザンという名のクリスチャンは,自分にとって献身がどんな意味を持っていたかについてこう説明しています。「私は自分自身を一切ほかの人にゆだねていました。今ではエホバが私の歩みを決定し,行なうべき事柄を告げ,優先順位を定めてくださいます」。あなたも同じように,エホバ神に対して進んで全き献身をしますか。象徴的な印によって自分が神「のもの」として,また主人の幸福な奴隷として見分けられるということを忘れてはなりません。―出エジプト記 21:5,6; ローマ 14:8と比較してください。
10 献身する前に,どんな事柄を考えるべきですか。
10 「あなた方のうちのだれが,塔を建てようと思う場合,まず座って費用を計算し,自分がそれを完成するだけのものを持っているかどうかを調べないでしょうか」と,イエスはお尋ねになりました。(ルカ 14:28)ではあなたは次のことを進んで行なっていますか。定期的にクリスチャンの集会に出席する。(ヘブライ 10:25)神がご自分の僕たちのために定められた高い道徳規準を守る。(テサロニケ第一 4:3,4,7)王国を宣べ伝える業にできる限り十分にあずかる。職業を選ぶときや,人生の目標を設けるときに,神のご意志を第一にする。(マタイ 6:33。伝道の書 12:1)家族に対する責任を顧みる。(エフェソス 5:22-6:4。テモテ第一 5:8)ひとたび祈りの中で個人的に献身したなら,さらに次の段階に進んで,献身したことを他の人々に公に知らせることになります。
バプテスマ ― だれのためのものか
11 バプテスマは何の象徴ですか。バプテスマによって何が成し遂げられますか。
11 イエスは,追随者たちがバプテスマを受けることをお命じになりました。(マタイ 28:19,20)それら追随者は完全に水の中に浸されてから,引き上げられることになっていました。埋葬と復活に似たこの方法は,人が自己中心的な生き方に関しては死に,神のご意志を行なうために生かされることをよく表わしています。人はバプテスマを受けることにより,神の世界的な会衆と交わるエホバの証人としての自分の身分を明らかにするのです。b バプテスマにより,神との間で結ばれた厳粛な契約が有効とされます。(出エジプト記 19:3-8と比較してください。)その人の生活は神の律法と調和していなければなりません。(詩編 15編。コリント第一 6:9-11)バプテスマを受けることにより人は神の奉仕者として叙任されますが,そのバプテスマは,「神に対して正しい良心を願い求めること」をも表わしています。自分が神と平和な関係にあることを知っているからです。―ペテロ第一 3:21。
12 子供たちが親の「印」によって保護されるのはどのような場合ですか。
12 若い人たちもバプテスマについて考慮すべきでしょうか。では,エホバが幻の中で,武器を持った六人の者たちにお告げになった言葉を思い起こしてください。「あなた方は,老人も,若者も,処女も,小さな子供も,女たちも殺し尽くさなければならない ― 破滅に至らせるのである。しかし,身に印のある者にはだれにも近づいてはならない」。(エゼキエル 9:6)言うまでもなく,子供が献身できるほどの年齢に達していない場合には,エホバを愛するよう子供を育てるために親が努力を惜しまず,子供がその努力に従順に応じているなら,その子供は親の「印」によって保護されるでしょう。(コリント第一 7:14)しかし,子供が個人的に決定できるだけの知力を持ち,『正しいことをどのように行なうかが分かる』ようになっているなら,その子供が親の「印」の恩恵にいつまでもあずかれると考えてはなりません。―ヤコブ 4:17。
13 若い人にバプテスマの備えができているかどうかを見定めるに当たって,どんなことを考慮できますか。
13 若い人は献身する前に,関係する事柄を理解するためのふさわしい知識を持っていなければならず,神との個人的な関係を求めていなければなりません。聖書の原則を犯すならどんな場合にも言い開きが求められることをわきまえ,それらの原則を理解し,固守しているべきです。また,他の人々に自分の信仰を分かつ業において十分な経験を積み,その業が真の崇拝の重要な部分であるということを知っていなければなりません。そして,神に仕えることを本当に願っているべきです。大人のような円熟性を示すことを期待できないのは当然ですが,道理にかなった範囲で,着実に霊的な進歩を遂げていなければなりません。
14 一人の若者が,自分のバプテスマを身の守りと考えたのはなぜですか。
14 『費用を計算した』のであれば,若者だからといって献身に関して不利な立場に置かれるわけではありません。新しいクリスチャンはほとんど例外なく,バプテスマの後に認識を深めてゆきます。デービッドはこのように説明しました。「若い時にバプテスマを受けたことは自分にとって身の守りとなりました。年が進んでゆくにつれ,バプテスマを受けていない会衆の十代の若者で,自分たちは長老たちの権威には拘束されないと考え,その結果,悪行にそれてしまう人がいることに気づきました。しかし私は,自分が命を神に献げたことをいつも思い起こしました。自分の命はすでに取られたのですから,そのような十代の若者たちには従えませんでした」。
15 (イ)若者でも真の崇拝について真剣な見方を保てるということは,どうして分かりますか。(ロ)親はどのように最善の助けを与えることができますか。
15 親の中には,『しかし,息子や娘が若い時にバプテスマを受けても,あとで気持ちが冷えてしまったら一体どうなるのか』と考える人がいます。確かに,ただ親を喜ばせるために,または友達が受けるという理由でバプテスマを受けるべきではありません。しかし,ヨセフやサムエル,ヨシヤ王,イエスは,すべて十代の時期に神への崇拝について真剣な見方を持ち,その崇拝を固守しました。(創世記 37:2; 39:1-3。サムエル第一 1:24-28; 2:18-21。歴代第二 34:3。ルカ 2:42-49)現代では,わずか十歳でバプテスマを受けたジーンという名のクリスチャンがいます。年月がたち,バプテスマの段階について本当に理解していたかという質問に対して,ジーンはこう答えました。「自分がエホバを愛していることは自覚していました。イエスがわたしたちのためにしてくださったことは理解していましたし,エホバに仕えたいと思いました」。この女性はバプテスマを受けて以来ほぼ40年間忠実に奉仕してきました。若者はそれぞれ一個の人間です。だれも年齢制限を設けることはできません。親は子供の心を動かすように努め,子供が敬虔な専心を培えるよう助けなければなりません。c 献身とバプテスマの特権を子供たちの前に絶えず掲げるだけでなく,動かされることのない崇拝者となるよう子供たちを強めなければなりません。
障害を克服する
16 頭の知識以上のものが求められるのはなぜですか。
16 聖書の知識は不可欠ですが,「印」には頭の知識以上のものが関係しています。例えば,エゼキエルに与えられた幻に出てくる,偽りの神々に香をささげたために処刑された長老たちは,書き記されたエホバの言葉に関する広範な知識を持っていたようです。しかし,彼らのひそかな行動は,彼らが真の崇拝者ではないことを示しました。(エゼキエル 8:7-12; 9:6)ですから,生き残るための「印」を付けてもらうには,「神のご意志にそいつつ真の義と忠節のうちに創造された新しい人格」を身に着けることが求められます。―エフェソス 4:22-24。
17 (イ)ある人々はどんな障害のためにバプテスマを差し控えますか。(ロ)ヤコブ 4章8節の助言をどのように当てはめることができますか。
17 手ごわい障害は,人間の罪深い肉の影響です。(ローマ 8:7,8)中には,何らかの重大な肉的な弱さを制御しないために,あるいはこの世的な不義の快楽にふけりたくてバプテスマを差し控える人さえいます。(ヤコブ 4:1,4)そのような人たちは貴重な関係を得そこなっています。神のみ言葉はこう助言しています。「神に近づきなさい。そうすれば,神はあなた方に近づいてくださいます。あなた方の手を清くしなさい,罪人たちよ。また,あなた方の心を浄めなさい,優柔不断の者たちよ」。(ヤコブ 4:8)果断な行動が求められます。一例を挙げましょう。16年間アルコールと麻薬を乱用し続けたため,致命的な病気に冒されていた男の人が聖書研究を始めました。この人は断固たる決意をもってその悪い習慣を克服しました。そしてこう述べています。「ところが,ちょうど献身を目指して進歩していたころのことです。ある女性から自分と関係を持ってほしいと迫られるようになりました。それはまさしく誘惑でした。その女性は私を気違いだと思ったのですが,私は,『エホバの証人と聖書を研究しているので,そんなことはできない』と言いました」。何に動かされてそのように答えたのでしょうか。「私はエホバが私の命を助けるために行なってくださったことを理解していました。エホバはアルコールを断てるよう私を助けてくださったのです。ほかの面でもエホバは助けを与えてくださいました。それで私はいよいよエホバに引き寄せられました。エホバをがっかりさせることなどできませんでした」。この男の人は神に近づくようになったのです。
18 障害を克服するための重要なかぎは何ですか。
18 大切なのは,どれほど知識があるかではなく,自分の知っている事柄をどれほど愛しているかということです。詩編 119編165節は,「豊かな平和はあなたの律法を[知っているだけではなく]愛する者たちのものです。彼らにつまずきのもとはありません」と述べています。重要なかぎは,神の律法を愛し,自分の生活の中でその律法の価値を深く認識することです。―イザヤ 48:17,18。
19,20 (イ)どんな障害を克服しなければなりませんか。わたしたちにはどんな保証がありますか。(ロ)すべての障害を首尾よく克服するなら,どんな結果が生じますか。
19 もちろん,そのほかの障害や,つまずきのもととなるものが現われる場合もあります。前述の兄弟は,「私にとって最大の障害は人に対する恐れでした。私にはこの世の飲み“友達”が何人かいました。そういう人たちに,自分は神に命を献げるつもりなので付き合うのはやめる,と言うことが一番の難問でした」と語っています。(箴言 29:25)家族の物笑いの種にされた人もいます。夫の反対を克服してバプテスマを受けた一人の新しいエホバの証人は,「大きな障害が一つあったというよりも,一度に一つずつ乗り越えなければならない小さな障害がたくさんありました」と述べました。障害が現われる度にそれを一つ一つ忠実に克服するなら,自分の心を強めることになります。神の律法を愛する人々が克服できない障害は一つもないという確信を抱いてください。―ルカ 16:10。
20 つまずきのもととなるもの一つ一つに対して勝利を収めるなら,「豊かな平和」を得ることになります。(詩編 119:165)そうです,「あなたは自分の道を安らかに歩み,……あなたの眠りは必ず快いものとなる。突然の怖ろしいことも,邪悪な者たちを襲うあらしも,それが到来しようとしているからといって,あなたは恐れる必要はない。エホバご自身が実際にあなたの確信となってくださり,あなたの足を必ず捕らわれから守ってくださるからである」とある通りです。―箴言 3:23-26。
[脚注]
a エゼキエルに幻が与えられてから約150年後,ギリシャの歴史家ヘロドトスは,神ヘラクレスの帰依者たちに付された印が保護の役目を果たしたことに注目し,「だれの奴隷であろうと,奴隷が[ヘラクレスの神殿]に避難し,その奴隷に神聖な印が押されている場合,つまり神に自分をささげている場合,奴隷を捕らえるのは合法的ではない」と書きました。
b 最近,バプテスマ希望者に対してなされる二つの質問は簡潔になりました。それはバプテスマ希望者が,神および神の地的な組織との親密な関係に入ることに含まれる事柄を十分理解した上で,答えられるようにするためです。
c 本誌の1985年8月15日号,「敬虔な専心を培うよう,お子さんを訓練してください」という記事をご覧ください。
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正確な知識によってあなたの平和を増し加えなさいものみの塔 1987 | 4月15日
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正確な知識によってあなたの平和を増し加えなさい
「過分のご親切と平和が,神およびわたしたちの主イエスについての正確な知識によってあなた方に増し加えられますように」― ペテロ第二 1:2。
1,2 (イ)神との平和な関係を結婚になぞらえることができるのはなぜですか。(ロ)どうすれば神との平和を強化できますか。
バプテスマの時点でエホバ神との間に確立される平和な関係は,幾つかの点で結婚に似ています。結婚式の日は喜びに満ちてはいても,貴重な関係の始まりにすぎません。努力を重ね,時がたち,経験を積むにしたがって,結婚関係はなお一層親愛の情のこもったもの,苦難の時の避難所となります。ですから,勤勉さとエホバの助けとによって,神との平和も増し加えることができます。
2 使徒ペテロは,「信仰を得て」いた人々がどのように神との平和を強化できるかを説明し,このように書きました。「過分のご親切と平和が,神およびわたしたちの主イエスについての正確な知識によってあなた方に増し加えられますように」― ペテロ第二 1:1,2。
『神についての正確な知識』
3 エホバとイエスに関する正確な知識を持つとは,どのような意味ですか。
3 この文脈の中で用いられている,「正確な知識」に相当するギリシャ語(エピグノーシス)には,より深い,より詳細な知識という意味があります。この語の動詞形は,個人的な経験によって得られる知識を指す場合があり,ルカ 1章4節では『十分に知る』と訳出されています。ギリシャ語学者のカルバーウェルは,自分にとってその語は「以前から知っている事柄に一層精通する[ようになること],以前にははるか遠くから見ていた物体を一層正確に眺めること」を意味する,と説明しています。そのような「正確な知識」を得るとは,人格的な存在としてのエホバとイエスをより詳細に知って,このお二方の特質に一層精通するようになるという意味です。
4 どうすれば神に関する知識を増し加えることができますか。そうすることによって神との平和が改善されてゆくのはなぜですか。
4 この知識を得るための二つの方法は,個人研究の良い習慣を持つことと,神の民の集会に定期的に出席することです。これらの方法により,神はどのように行動し,何を考えておられるかが一層はっきり分かります。神のご性格に関する頭の中のイメージ(像)が一層明確になるのです。しかし,神を詳細に知るとは,この像に倣い,その像を反映することを意味します。例えば,エホバは,神のような利他的な態度を反映したある人について述べてから,「それが,わたしを知ることではなかったか」と語られました。(エレミヤ 22:15,16。エフェソス 5:1)より厳密に神に倣うなら,「正確な知識により,またそれを創造した方の像にしたがって新たにされてゆく」新しい人格を身に着ける面で改善を図ってゆくので,神との平和は増し加えられます。神をますます喜ばせるようになるのです。―コロサイ 3:10。
5 (イ)正確な知識は,どのように一人のクリスチャンの婦人の助けになりましたか。(ロ)どのような点でわたしたちは,より厳密にエホバに倣えますか。
5 リンという名のクリスチャンの婦人はある誤解がもとで,仲間のクリスチャンを許し難く感じていましたが,注意深く個人研究を行なった結果,自分の態度を吟味させられました。リンはこのように述懐しました。「神エホバがどのような方なのか,つまりエホバが少しも恨みを抱かれないことを思い起こしました。わたしたちが日ごとにエホバに対して行なう小さな事柄について考えてみましたが,神はそういうことをいちいち記録されません。それに比べれば,クリスチャンである姉妹とのこの問題は取るに足りません。ですから,その姉妹の顔を見るたびに,『エホバはわたしを愛しておられるのと同じように,この姉妹をも愛しておられるのだ』と自分に言い聞かせました。こうして,問題を克服するよう助けられました」。あなたも,より厳密にエホバに倣うべき分野があることに気づいておられますか。―詩編 18:35; 103:8,9。ルカ 6:36。使徒 10:34,35。ペテロ第一 1:15,16。
キリストに関する正確な知識
6 イエス・キリストは,宣べ伝える業がご自分にとって最も重要であることをどのように示されましたか。
6 イエスに関する正確な知識を持つには,「キリストの思い」を持ち,キリストに倣うことが求められます。(コリント第一 2:16)イエスは真理を熱心にふれ告げました。(ヨハネ 18:37)その熱烈な福音宣明の精神は,地域社会の偏見にも妨げられませんでした。他のユダヤ人はサマリア人を憎んでいましたが,イエスは井戸のところでサマリア人の女に証言されました。人前で女性と長く話すことさえ,その女性がだれであっても人々のひんしゅくを買う恐れがありました。a しかしイエスは,地域社会の考え方に影響されて証言をやめようとはされませんでした。神の業はさわやかさをもたらしました。イエスは,「わたしの食物とは,わたしを遣わした方のご意志を行ない,そのみ業をなし終えることです」と言われました。サマリア人の女やその町の大勢の人たちなど,人々がこたえ応じるのを見る喜びが,食物のようにイエスを支えました。―ヨハネ 4:4-42; 8:48。
7 (イ)イエスに関する知識は,何を行なうようわたしたちを動かすはずですか。(ロ)神は,ご自分の僕たちすべてが同じ量の時間を費やして宣べ伝える業を行なうよう期待しておられますか。説明してください。
7 あなたはイエスと同じ感じ方をしておられますか。見知らぬ人に対して聖書に関する話を持ち出すのを多くの人が難しく感じ,聖書に関する話がしばしば地域社会の他の人たちのひんしゅくを買うとしても,イエスと同じ精神態度を抱くためには次の事実を避けて通ることはできません。つまり,わたしたちは証言をしなければならないのです。もちろん,すべての人が同じ量の時間を費やして宣べ伝える業を行なえるわけではありません。その量は人の能力や境遇によって異なります。ですから,神はわたしの行なう神聖な奉仕に決して満足されないなどと考えないようにしましょう。しかし,イエスに関するわたしたちの知識は,最善を尽くすようわたしたちを鼓舞するはずです。イエスは魂をこめた奉仕をおほめになりました。―マタイ 13:18-23; 22:37。
邪悪なことを憎む必要性
8,9 神が憎んでおられる事柄を幾つか挙げてください。どうすればわたしたちも同じ憎しみを表わせますか。
8 正確な知識は,イエスとエホバに憎まれるのはどんな事柄かを認識するための助けともなります。(ヘブライ 1:9。イザヤ 61:8)「エホバの憎まれるものが六つある。いや,その魂にとって忌むべきものが七つある。高ぶる目,偽りの舌,罪のない血を流している手,有害な企てをたくらむ心,急いで悪に走る足,うそを吐く偽りの証人,そして兄弟の間に口論を送り出す者である」。(箴言 6:16-19)このような態度や行ないは,「[エホバ]の魂にとって忌むべきもの」です。ここで「忌むべきもの」と訳されているヘブライ語は,「忌み嫌う,吐き気を催す」,「五感全体にとって不快な事柄に関して嫌悪感を抱く。憤りをもって忌む,憎む」という意味の語から来ています。ですから,神との平和を保つには,同様の嫌悪感を抱かなければなりません。
9 例えば,「高ぶる目」は避けてください。誇りはわずかであっても表わさないようにしましょう。バプテスマを受けたあと,それまで教えてくれた人たちの定期的な援助はもう必要ではないと考えた人たちがいました。しかし,新しいクリスチャンは,真理がしっかり根を下ろすようになるため,援助を謙遜に受け入れるべきです。(ガラテア 6:6)それに,『兄弟の間の口論』を容易に招きかねないうわさ話を避けてください。思いやりの欠けたうわさ,いわれのない批判,うそなどを広めるなら,『罪のない血を流す』ことはないまでも,他の人の良い評判を落とす恐れは確かにあります。仲間の兄弟たちとの平和を保っていないなら,神との平和は保てません。(箴言 17:9。マタイ 5:23,24)神はみ言葉の中で,「神は離婚を憎んだ」とも述べておられます。(マラキ 2:14,16)ですから,もし結婚しておられるなら,あなたはご自分の結婚の絆を強固にするための努力を払っていますか。他の人の配偶者とふざけ合ったり,なれなれしくし過ぎたりすることを嫌悪していますか。エホバと同様に,性の不道徳を憎悪していますか。(申命記 23:17,18)そのような行為を憎むのは容易ではありません。それらの行為はわたしたちの罪深い肉にとって魅力的な場合があり,世からは好意的に見られているからです。
10 どうすれば,邪悪な事柄に対する憎しみを培えますか。
10 邪悪な事柄に対する憎しみを培うための助けとして,心霊術,不道徳,暴力を特色とした映画やテレビ番組や読み物の娯楽を避けてください。(申命記 18:10-12。詩編 11:5)そのような娯楽は,悪行を“それほど悪くない”,もしくは滑稽味さえあるものと思わせて,そのような悪行に対する敬虔な憎しみを培う努力を弱めさせます。一方,真剣な祈りは助けになります。イエスは,「絶えず祈り,誘惑に陥らないようにしていなさい。もとより,霊ははやっても,肉体は弱いのです」と言われたからです。(マタイ 26:41)強い肉の欲望に直面した時のことについて,一人のクリスチャンはこう述べました。「私は努力して祈ります。自分はエホバに近づくには値しないように思える時もありますが,努力して祈り,神に懇願して,必要な力を得ています」。悪行のもたらす痛ましい結果を頭の中で十分に考えれば,エホバが悪行を忌むべきものとしておられる理由を一層はっきり理解できるでしょう。―ペテロ第二 2:12,13。
11 どんなことがわたしたちを悩ませるかもしれませんか。
11 神との平和を得てはいても,日常生活の圧力や誘惑,さらには自分自身の弱点に苦しめられる時があるでしょう。自分がサタンの特別な標的になっているということを忘れてはなりません。サタンは,神のおきてを守るエホバの証人と戦っているのです!(啓示 12:17)では,どうすれば内面的な平和を保てますか。
平和を乱す災いに対処する
12 (イ)詩編 34編にはどんな背景がありますか。(ロ)この経験をした時のダビデの気持ちを聖書はどのように描写していますか。
12 ダビデは詩編 34編19節で,「義なる者の遭う災いは多い」と書きました。この詩編の表題によれば,ダビデは死に瀕する経験をした後にこの詩編を書きました。サウル王から逃れたダビデは,ガトのフィリスティア人の王アキシュのもとに避難しました。この王の僕たちはダビデに気づき,ダビデが以前イスラエルのために戦功を立てたのを思い起こしてアキシュに訴え出ました。ダビデはその話を小耳にはさみ,「これらの言葉を心に留め,ガトの王アキシュのゆえに非常に恐れるようにな(りまし)た」。(サムエル第一 21:10-12)何といってもそこはゴリアテの郷里で,ダビデはその町の英雄を殺していました。しかもダビデは例の巨人の剣を身に付けてさえいたのです。その大きな剣で,今度は自分の首が切り落とされるのでしょうか。ダビデには何ができましたか。―サムエル第一 17:4; 21:9。
13 その災いに遭っている間,ダビデは何を行ないましたか。どうすればその模範に倣えますか。
13 ダビデは助けを求める強い叫びをもって神に祈願しました。「この苦しむ者が呼ぶと,エホバが聞いてくださった。そして,そのすべての苦難から彼を救ってくださった」とダビデは述べ,さらに,「わたしのすべての怖れからわたしを救い出してくださった」とも語りました。(詩編 34:4,6,15,17)あなたも不安なときに自分の心を注ぎ出してエホバに祈願することを学びましたか。(エフェソス 6:18。詩編 62:8)あなたが経験している特定の苦難はダビデの場合ほど劇的なものではないかもしれませんが,それでもなお,適切な時に神が助けを与えてくださることが分かるでしょう。(ヘブライ 4:16)しかしダビデは祈る以上のことを行ないました。
14 ダビデはどのように「思考力」を用いましたか。わたしたちが同様のことを行なうための助けとして,神は何を備えてくださいましたか。
14 「そこで,彼[ダビデ]は人々の目の前で自分が正気なのを偽り……狂気のように行動しだし(た)。……ついにアキシュはその僕たちに言った,『さあ,お前たちは気違いのように振る舞う男を見ている。どうして彼をわたしのところに連れて来なければならないのだ』」。(サムエル第一 21:13-15)ダビデは逃れるための策略を考え出しました。エホバはその努力を祝福されました。同様に,わたしたちが難問題に直面するとき,エホバがわたしたちに期待されるのは,知力を働かせることです。自分たちのために問題を解決するよう,ただ神に要求することではありません。神は霊感によって記されたみ言葉をわたしたちに与えてくださいました。それは「経験のない者たちに明敏さを,……知識と思考力を与え」ます。(箴言 1:4。テモテ第二 3:16,17)神はそのほかにも,神の規準を守る方法を知るための助けとなる,会衆の長老たちを備えてくださいました。(テサロニケ第一 4:1,2)多くの場合それらの人たちは,あなたが正しい決定を下したり問題に対処したりする助けとなる,ものみの塔協会の出版物を調べるのを援助することができます。
15 詩編 34編18節はどうして慰めをもたらしますか。
15 自分の弱さや失敗のために心が痛むときでも,正しい態度があれば,神との平和を保てます。ダビデは詩編 34編18節で,「エホバは心の打ち砕かれた者たちの近くにおられ,霊の打ちひしがれた者たちを救ってくださる」と書きました。もしわたしたちが許しを求め,(重大な違犯の場合には特に)事態を正すために何らかの必要な措置を講じるなら,エホバはわたしたちの近くにいてくださり,感情面でわたしたちを支えてくださいます。―箴言 28:13。イザヤ 55:7。コリント第二 7:9-11。
個人的な知識は平和をもたらす
16 (イ)神に関する正確な知識を得るためのもう一つの方法は何ですか。(ロ)「エホバが善良であることを味わい知れ」というダビデの言葉について説明してください。
16 霊的な情報を取り入れるほかに,神の愛ある助けを個人的に経験するのも,神に関する正確な知識を得るための一つの方法です。(詩編 41:10,11)苦難から救い出されるとは,必ずしも問題が直ちに,あるいは完全になくなるという意味ではありません。引き続き問題を耐え忍ばなければならないかもしれません。(コリント第一 10:13)ダビデはガトで命拾いをしましたが,その後も数年間は逃亡者となり,次から次へと危険な目に遭いました。その間ずっと,ダビデはエホバのご配慮と支えを感じていました。神との平和を追い求め,その平和を見いだし,そのようにする人が「良いものに少しも不足しない」ことを知りました。自分が災いに遭っている間エホバがどのように支えてくださったかを個人的な経験を通して理解したダビデは,「あなた方はエホバが善良であることを味わい知れ。そのもとに避難する強健な人は幸いだ」と言うことができました。―詩編 34:8-10,14,15。
17 災いに遭った時にエホバのもとに避難したため,ある家族はどのような影響を受けましたか。
17 困難な時期にエホバのもとに避難するなら,あなたも『エホバが善良であることを味わい知る』ことができるでしょう。米国中西部の一人のクリスチャンは事故のため,14年間続けていた,給料の良い仕事を失ってしまいました。この人とその家族は収入がなくなったので神に祈願しました。しかし,そうするかたわら,出費を切り詰め,近くの畑の収穫の取り残しを集め,食物を手に入れるために魚釣りをしました。会衆の人たちの援助に支えられ,パートタイムの仕事がある場合にはそれをして,この四人家族は苦難を乗り越えました。事故の1年後に母親は過去を回想してこう語りました。「実際には自分自身の能力や配偶者や仕事などに頼っているのに,自分を欺いて,自分はエホバに頼っているのだと考えることもできます。しかし私たちは,それこそ神だけを信頼することを学びました。ここに挙げたほかのものは取り去られてしまうことがありますが,エホバは一度も,いえ,一瞬たりとも私たちをお捨てになりませんでした。私たちには命をつなぐだけのものしかありませんが,私たち家族とエホバとの関係は非常に親密です」。
18 何があれば,今後も続く問題をさえ耐え忍べるようになりますか。
18 確かに,経済的に苦しい状態は今後も続くかもしれません。あるいは,慢性的な体の病気,性格の違いから生じる他の人との摩擦,うつ病のような感情の障害,ほかにもたくさんある問題のどれかに悩まされるかもしれません。それでも,本当に神を知れば,神の支えに対する信仰を持つようになります。(イザヤ 43:10)崩れることのないこの信頼により,耐え忍ぶための,また「一切の考えに勝る神の平和」を得るための助けが得られるでしょう。―フィリピ 4:7。
19 エホバがわたしたちの苦しみを軽く見ておられないということは,どうして分かりますか。
19 つらい経験をしている時でも,あなたを苦しめている問題をエホバはご存じであるということを決して忘れてはなりません。ダビデは,やはりガトでの経験を思い出して作った詩編の中で,「わたしの涙をあなたの皮袋に入れてください。それはあなたの書にあるのではありませんか」と,エホバに懇願しました。(詩編 56:8)確かに神はダビデの求めに耳を傾けられました。悩みや不安があって流されるそのような涙を神が集め,人が貴重なぶどう酒や飲料水を容器に注ぎ込むかのように,言わば皮袋に入れてくださるということを知るのは,何という大きな慰めでしょう。そのような涙は常に思い出されるでしょう。そうです,神の書に書き記されるのです。エホバは何という優しい配慮を払ってくださるのでしょう。
20 どうすれば神との平和を増し加えることができますか。
20 ですから,バプテスマは神との平和な関係の始まりにすぎません。神とイエスの人格的な特質に一層精通するようになり,試練の時にエホバの支えを個人的に経験すれば,あなたと神との平和は増し加わります。安全な避難所となる,エホバとの関係に入るだけでなく,「豊かな平和にまさに無上の喜びを見いだす」楽園で永久に生きるという貴重な希望も抱けるようになるのです。―詩編 37:11,29。
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