-
エホバに教えられる人々のための神の平和ものみの塔 1987 | 3月15日
-
-
特異な種類の平和
14 エホバの民の平和は何に基づいていますか。どうしてそう言えますか。
14 エホバがご自分の民にお与えになる平和は全く特異なものです。それは,互いに信頼し合っていない当事者間のあてにならない協定がもたらすようなものではありません。エホバの民が得ている平和は妥協の産物ではなく,義に基づいています。(イザヤ 32:17)しかし,不完全な人間が関係している平和に,どうしてそのようなことが当てはまるのでしょうか。罪人であるわたしたちのうちのだれかに何らかの義が付与されているのでしょうか。そうです,わたしたちは信仰により,罪を贖うイエスの犠牲の価値によって可能とされた義を享受できるのです。
15 イエスが地上で宣教に携わっておられた時,エホバは平和にとって肝要などんな事柄を,ご自分の子となる見込みを持つ人々に教えておられましたか。
15 この点は,ヨハネ 6章45節から47節に記録されているイエスの言葉を理解するのに役立ちます。イエスはここで,メシアであるご自分のもとに引き寄せられていないユダヤ人に語りかけておられますが,彼らはイエスに対してつぶやいていました。しかし,イエスはご自分の弟子たちに関して次のように言われました。「預言者たちの中[特にイザヤ 54章13節]に,『そして彼らは皆エホバに教えられるであろう』と書いてあります。父から聞いて学んだ者は皆わたしのもとに来ます。神から出た者のほかに,だれかが父を見たというのではありません。神から出た者は父を見ました。きわめて真実にあなた方に言いますが,信じる者は永遠の命を持っているのです」。それらの弟子たちは,エホバが彼らに与えておられる諭しを受け入れました。彼らはイエスのもとに引き寄せられていました。他の者たちがイエスの教えた事柄を退けて,イエスを見捨てた時にも,使徒たちはとどまりました。ペテロが,「わたしたちは,あなたが神の聖なる方であることを信じ,また知るようになったのです」と述べた通りです。(ヨハネ 6:69)それらの弟子たちはイエス・キリストに対して信仰を抱いていたので,エホバ神との平和な関係に入ることが可能となりました。そして,その関係には永遠の命に入る保証が伴っています。
16 (イ)西暦33年のペンテコステ以降,イエスの追随者はキリストを通して設けられた備えからどのように益を得てきましたか。(ロ)その後,彼らには何が求められましたか。
16 キリストの犠牲の恩恵は,西暦33年のペンテコステの時から,イエスのそれら忠実な追随者たちに適用されるようになりました。後日パウロがローマ 5章1節に書いた事柄が,彼らに関して真実となったのです。そこにはこう記されています。「それゆえ,わたしたちは信仰の結果義と宣せられたのですから,わたしたちの主イエス・キリストを通して神との平和を楽しもうではありませんか」。これらの人々はすべて,生まれながらにしてアダムの子孫であり,罪人であるゆえに神から疎外されていました。個人としてたとえどんな良い業を行なっても,受け継いだ罪をその業によって帳消しにすることはできませんでした。しかしエホバは,過分のご親切によって,アダムの子孫のためにイエスの完全な人間の命の犠牲を受け入れてくださったのです。この備えに信仰を働かせる人は,今や義を信用貸ししていただき,天の命の見込みを持つ子として神により養子とされることが可能になりました。(エフェソス 1:5-7)しかし,彼らにはさらに多くのことが求められましたか。確かに求められました。それらの人はエホバの道を歩まなければなりません。もはや,罪を習わしにしてはならなかったのです。しかし彼らは,自分たちがどのような義を付与されているにせよ,それはキリストを通して表明された神の過分のご親切の結果であることを悟っています。前述の聖句にある通り,それらの人々は『イエス・キリストを通して神との平和を楽しんでいる』のです。
17,18 (イ)「ほかの羊」は神とのそのような平和を楽しんでいますか。(ロ)さらに考慮するに値するどんな質問がありますか。
17 イエスが「ほかの羊」と呼んだ人々についてはどうでしょうか。(ヨハネ 10:16)それらの人も神とのそのような平和を楽しんでいますか。神の子として楽しむのではありません。しかし,コロサイ 1章19節と20節は次のように述べて,神の平和を得る人々の中に,確かに彼らを含めています。神は,「苦しみの杭の上で彼[イエス]の流した血を通して平和を作ることにより,地上のもの[すなわち,地上の楽園におけるとこしえの命の恵みを受ける人々]であれ天にあるものであれ,他のすべてのものを[キリスト]を通して再びご自分と和解させることを」よしとされました。地的な見込みを持つこれらの人々は,神の子としてではなく,アブラハムのように『神の友』として義と宣せられており,今でさえ神との平和を楽しんでいます。それは何と恵まれた立場なのでしょう。―ヤコブ 2:23。
-
-
神の平和をより十分に経験する方法ものみの塔 1987 | 3月15日
-
-
4 (イ)家庭聖書研究を行なったり,王国会館に行ったりするだけでは,神との平和が保証されないのはなぜですか。(ロ)イエス・キリストに信仰を働かせることには何が含まれていますか。(ヨハネ 3:36)
4 あなたは最近エホバの証人と聖書を研究し始めた方ですか。あるいは,もしかすると地元の会衆と交わり始めてから,すでに何か月か,もしくは数年が経過していますか。もしそうなら,あなたは神の目的に関する知識が自分の眼前で明らかになってゆくことに喜びを感じておられるに違いありません。しかし,家庭聖書研究を楽しく行なっているとか,王国会館に行くのが楽しいとかいうことが,神との平和な関係にあることを証明するわけではありません。わたしたちはみな罪のうちに生まれているので,神との平和は,ただイエス・キリストを通してのみ可能となります。(イザヤ 53:5。使徒 10:36)受け身の姿勢でイエスを信じるだけでは,その平和はもたらされません。贖いの必要性を個人的に認識し,イエスの犠牲の価値に信仰を働かせ,次いでその信仰に関する証拠を,イエスの語られたおきてに従うことによって提出する必要があります。(ヤコブ 2:26)イエスが地上におられたときに与えた一つの命令は,イエスの弟子になる人たちは水のバプテスマを受けなければならないということでした。(マタイ 28:19,20)あなたは,イエス・キリストを通してエホバに献身したことの象徴として,浸礼を受けましたか。
5 神との平和な関係を保つために献身とバプテスマが重要なのはなぜですか。
5 あなたの生活には,バプテスマの資格がないと判断されるような要素がありますか。そうした要素のあることが分かっているなら,また研究中に自分には資格のないことが分かったなら,事態を正すのを遅らせてはなりません。バプテスマの資格がないと判断されるどんな態度もどんな行為も,神との平和な関係を妨げる障害になることを知らなければなりません。まだ機会があるうちに,緊急に行動してください。ペテロ第一 3章21節で指摘されているように,エホバ神から正しい良心を与えられるのは,まずキリストの犠牲に対する信仰に基づいてエホバに献身し,その献身の象徴としてバプテスマを受け,神のご意志を行なう人々です。そうするとき,神のみ前における是認された立場を得られるので,正しい良心に付随する平和が自分のものとなります。ほかの方法ではその平和は得られません。むろん,これは単なる始まりにすぎません。
-