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エホバ ―「平和を与えてくださる神」ものみの塔 2011 | 8月15日
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エホバ ―「平和を与えてくださる神」
「平和を与えてくださる神があなた方すべてと共におられますように」。―ロマ 15:33。
1,2. 創世記 32,33章には,どんな緊迫した状況が記録されていますか。どのような結果になりましたか。
ヨルダン川の東,ヤボクの奔流の谷に近い,ペヌエルのそばでのことです。エサウは,双子の弟ヤコブが故郷に戻ってくると聞きます。ヤコブは,エサウから長子の権を買い取って20年がたっているとはいえ,エサウがまだ恨みや殺意を抱いているのではないかと恐れています。エサウは400人を引き連れ,疎遠になっていた弟のもとに向かいます。ヤコブは敵対的な反応を予期し,エサウに次から次へと贈り物をします。合計550頭もの家畜です。家畜を群れに分け,届けるたびにヤコブからの贈り物だと伝えるよう,僕たちに命じます。
2 ついにその時が来ます。ヤコブは勇気を出してエサウに近づき,身をかがめます。それも1回ではなく7回です。ヤコブはすでに,兄の心を和めるために最も大切なことを行なっていました。エサウの手から救い出してくださいとエホバに祈っていたのです。エホバは祈りに答えたでしょうか。確かにお答えになりました。「エサウは走り寄って彼を迎え,抱擁し,その首を抱いて口づけするのであった」と記されています。―創 32:11-20; 33:1-4。
3. ヤコブとエサウの記述から何が学べますか。
3 この記述から何が学べるでしょうか。クリスチャン会衆内で平和を脅かす問題が生じたら,解決のために真剣に努力し,実際的な手段を講じるべきである,ということです。ヤコブはエサウと和解しようとしましたが,ヤコブが何か間違いをして謝る必要があったわけではありません。エサウが長子の権を軽んじ,一杯の煮物と引き換えに売り渡したのです。(創 25:31-34。ヘブ 12:16)ヤコブの模範から,クリスチャンの兄弟たちとの平和を保つために進んでどれほどのことを行なうべきかを理解できます。祈りのこもった和解の努力をまことの神が祝福してくださることも分かります。聖書にはほかにも,平和を作る人となるのに役立つ模範がたくさん収められています。
わたしたちにとって最高の模範
4. 人類を罪と死から救うため,神は何を備えられましたか。
4 平和を作る点での最も際立った模範は,「平和を与えてくださる神」エホバです。(ロマ 15:33)人間が神との平和な関係を持てるようにするため,エホバがどれほどのことをしてくださったかを考えてみてください。わたしたちはアダムとエバの罪深い子孫であり,「罪の報い」を受けて当然です。(ロマ 6:23)それでもエホバは深い愛ゆえに,わたしたちが救われるようにしてくださいました。愛するみ子を天から遣わし,完全な人間として生まれるようにされたのです。み子は進んで従い,神の敵の手にかかって死ぬことをいといませんでした。(ヨハ 10:17,18)まことの神は愛するみ子を復活させ,み子は流した血の価値をみ父に差し出しました。こうして,悔い改めた罪人をとこしえの死から救う贖いが備えられました。―ヘブライ 9:14,24を読む。
5,6. 神と罪深い人類との損なわれた関係は,イエスの流された血によってどうなりましたか。
5 神と罪深い人類との損なわれた関係は,神のみ子の贖いの犠牲によってどうなったのでしょうか。「わたしたちの平安のための懲罰が彼に臨み,彼の傷ゆえにわたしたちのためのいやしがあった」と,イザヤ 53章5節は述べています。従順な人たちは,もはや神の敵とはみなされず,神との平和な関係を享受できるようになりました。「わたしたちは[イエス]により,その血を通してなされた贖いによる釈放,そうです,わたしたちの罪過の許しを……得ているのです」。―エフェ 1:7。
6 『神は満ち満ちたさまが余すところなくキリストのうちに宿ることをよしとした』と,聖書は述べています。なぜなら,キリストが神の目的の成就において要となる方だからです。エホバの目的は何でしょうか。『イエス・キリストの流した血を通して平和を作ることにより,他のすべてのものを再びご自分と和解させること』です。神がご自分との平和な関係に招き入れる「他のすべてのもの」は,「天にあるもの」と「地上のもの」で成っています。それは何を指すのでしょうか。―コロサイ 1:19,20を読む。
7. 神との平和な関係に招き入れられる「天にあるもの」と「地上のもの」とは何ですか。
7 贖いの備えにより,神の子として「義と宣せられた」油そそがれたクリスチャンは,『神との平和を楽しむ』ことができるようになりました。(ローマ 5:1を読む。)その人たちは天で生きる希望を持ち,『地に対し王として支配し』,祭司として神に仕えることになっているので,「天にあるもの」と呼ばれます。(啓 5:10)一方,「地上のもの」は,やがて地上で永遠の命を得る,悔い改めた人々を指します。―詩 37:29。
8. 人類が神との平和を持てるようエホバが行なわれた事柄を考えると,どうするように動かされますか。
8 パウロはエフェソスの油そそがれたクリスチャンへの手紙の中で,エホバの備えに対する心からの感謝をこう言い表わしています。「神は憐れみに富んでおられ,……わたしたちが罪過にあって死んでいたその時にさえ,キリストと共に生かし ― あなた方は過分のご親切によって救われているのです」。(エフェ 2:4,5)持っている希望が天での命であれ地上での命であれ,わたしたちは神の憐れみと過分のご親切ゆえに,神に深い恩義があります。人類が神との平和を享受できるよう,エホバがどれほどのことをしてくださったかを考えると,感謝の気持ちでいっぱいになります。会衆の平和と一致が脅かされる状況が生じたなら,神の模範を感謝のうちに思い巡らし,平和を作る人となるべきではないでしょうか。
アブラハムとイサクから学ぶ
9,10. アブラハムは,自分の牧夫とロトの牧夫の間で緊張が生じた時,どのように平和を作ろうと努めましたか。
9 族長アブラハムについて聖書はこう述べています。『「アブラハムはエホバに信仰を置き,彼に対してそれは義とみなされ」,「エホバの友」と呼ばれるようになりました』。(ヤコ 2:23)アブラハムの信仰は,平和を重んじる行動に表われていました。例えば,アブラハムの家畜が増え,アブラハムの牧夫と甥のロトの牧夫との間に緊張が生じたことがあります。(創 12:5; 13:7)望ましい解決策は,アブラハムとロトが別れることでした。この難しい状況において,アブラハムはどうしたでしょうか。年齢や神の友という立場に物を言わせてロトに指図するのではなく,平和を作ろうと努めました。
10 アブラハムはロトにこう言います。「どうか,わたしとあなたとの間,またわたしの牧夫とあなたの牧夫との間に言い争いなどが続かないようにしてください。わたしたちは兄弟どうしなのですから」。さらにこう告げます。「この全土はあなたが用いてよいのではありませんか。どうかわたしと別れてください。あなたが左に行くのであれば,わたしは右に行きます。あなたが右に行くのであれば,わたしは左に行きます」。ロトは最も肥沃な土地を選びますが,アブラハムは恨んだりしませんでした。(創 13:8-11)後にロトが侵略軍によってとりこにされた時には,ためらわずに助けました。―創 14:14-16。
11. アブラハムは,近隣のフィリスティア人に対してどのように平和を求めましたか。
11 アブラハムは,カナンの地で近隣に住むフィリスティア人に対しても平和を求めました。ある時,アブラハムの僕たちがベエル・シェバに掘った井戸が,フィリスティア人に『力ずくで奪われ』ました。ロトをとりこにした四人の王を制圧したことのあるアブラハムは,この時どうしたでしょうか。反撃して井戸を取り返すのではなく,黙っていることにしました。しばらくして,フィリスティア人の王が平和の契約を結ぶためにやって来ます。アブラハムは王の子孫との親善を誓った後,奪われた井戸のことを初めて話します。事実を知って驚いた王は井戸を返し,アブラハムは外人居留者として引き続きその地で平和に生活しました。―創 21:22-31,34。
12,13. (イ)イサクはどのように父の模範に倣いましたか。(ロ)エホバは平和を重んじたイサクをどのように祝福なさいましたか。
12 アブラハムの息子イサクも,父に倣って平和を重んじる行動を取りました。そのことは,フィリスティア人への接し方に表われています。飢きんのため,イサクは家の者たちと共に,ネゲブの荒野にあるベエル・ラハイ・ロイから北に向かい,ゲラルのフィリスティア人の肥沃な領地に移動します。エホバの祝福により,イサクの作物は豊かに実り,家畜も増えたため,フィリスティア人はそねむようになります。アブラハムのようにイサクが繁栄することを望まず,アブラハムの僕たちの掘った井戸をふさぎます。ついには,フィリスティア人の王が「わたしたちの近辺から移動しなさい」と告げます。平和を愛するイサクは,そのとおりにしました。―創 24:62; 26:1,12-17。
13 イサクは宿営を遠くへ移動させた後,僕たちに別の井戸を掘らせます。するとフィリスティア人の羊飼いたちは,その水は自分たちのものだと主張します。イサクは父アブラハムのように,井戸をめぐって争ったりはせず,さらに別の井戸を掘らせます。しかしフィリスティア人は再び,自分たちのものだと言い張ります。平和のために,イサクは大きな宿営をまた別の場所に移動させます。そこでも僕たちに井戸を掘らせ,レホボトと名づけます。やがて,もっと肥沃な土地ベエル・シェバに移動した時,エホバから祝福を受け,こう告げられます。「恐れてはいけない。わたしはあなたと共にいるからである。わたしの僕アブラハムのゆえにわたしはあなたを祝福し,あなたの胤を殖やす」。―創 26:17-25。
14. フィリスティア人の王から平和の契約を持ちかけられた時,イサクはどのように平和を作ろうと努めましたか。
14 後にフィリスティア人の王が役人たちと共にベエル・シェバにやって来て,「エホバがあなたと共におられるのをはっきり見ました」と述べ,平和の契約を結ぼうとしました。この出来事からも,イサクは自分の僕たちが掘った井戸を使う権利を守るために戦おうと思えばそうできた,ということが分かります。それでもイサクは平和のために,争うのではなく一度ならず移動しました。そして王たちが来た時も,平和を作ろうと努めます。こう記されています。「イサクは彼らのために宴を設け,彼らは食べて飲んだ。次の朝一同は早く起き,相互に誓いのことばを述べた。その後イサクは彼らを送り出し,彼らは平安のうちにそのもとを去って行った」。―創 26:26-31。
ヤコブの最愛の子から学ぶ
15. 兄たちがヨセフに対して穏やかに物を言うことができなかったのはなぜですか。
15 イサクの子ヤコブは「とがめのない人」でした。(創 25:27)冒頭で考えたように,ヤコブは兄エサウと和解しようとしました。平和を重んじた父イサクの模範からよく学んでいたに違いありません。ヤコブの子たちはどうでしょうか。ヤコブが12人の息子の中で最も愛したのはヨセフでした。従順で敬意があり,いつも父のためを思っていました。(創 37:2,14)しかし,兄たちはねたみを抱き,ヨセフに対して穏やかに物を言うことができませんでした。無情にもヨセフを奴隷として売り,父をだまして,野獣に殺されたと信じ込ませました。―創 37:4,28,31-33。
16,17. ヨセフは兄たちとの関係において,どのように平和を重んじましたか。
16 エホバはヨセフと共におられました。やがてヨセフはエジプトの総理大臣になります。ファラオに次ぐ第二の地位です。兄たちは深刻な飢きんのためエジプトに来た時,エジプトの要人の装いをしたヨセフに気づきませんでした。(創 42:5-7)ヨセフは自分と父が受けたむごい仕打ちに報復しようと思えば,容易にそうできたでしょう。しかし,復讐するのではなく,和解しようとしました。兄たちが悔い改めたことが分かると,正体を明かし,こう言います。「わたしをここに売ったことで悪く思ったり,自分のことを怒ったりはしないでください。命を長らえさせるために神がわたしを皆さんに先立って遣わされたのですから」。そして,兄弟たち皆に口づけし,抱いて泣きました。―創 45:1,5,15。
17 父ヤコブの死後,兄たちはヨセフに仕返しされるのではないかと考えます。不安を打ち明けられたヨセフは『涙を流し』,こう答えました。「恐れたりしないでください。わたし自身,皆さんと皆さんの小さな子供たちに食物を供給してゆきます」。平和を重んじたヨセフは「彼らを慰め,彼らに話して安心させ」ました。―創 50:15-21。
「わたしたちの教えのために書かれた」
18,19. (イ)平和を作る点での模範をこの記事で学んで,どんな益が得られましたか。(ロ)次の記事では何を考えますか。
18 パウロはこう述べています。「以前に書かれた事柄は皆わたしたちの教えのために書かれたのであり,それは,わたしたちが忍耐と聖書からの慰めとによって希望を持つためです」。(ロマ 15:4)エホバの最高の模範と,アブラハム,イサク,ヤコブ,ヨセフに関する聖書の記録について学んで,どんな益が得られたでしょうか。
19 罪深い人類との損なわれた関係を修復するためにエホバがなさったことを感謝のうちに思い巡らすと,他の人との平和を求めるよう動かされるのではないでしょうか。アブラハム,イサク,ヤコブ,ヨセフの模範から,親は子どもに良い感化を与えられることが分かります。また,平和を作る努力をエホバが祝福してくださる,ということも学べます。パウロが述べているように,エホバはまさしく「平和を与えてくださる神」なのです。(ローマ 15:33; 16:20を読む。)次の記事では,平和を追い求めるべきことをパウロが強調したのはなぜか,どのように平和を作ることができるかを考えます。
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平和を追い求めましょうものみの塔 2011 | 8月15日
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平和を追い求めましょう
「平和に役だつ事柄……を追い求めましょう」。―ロマ 14:19。
1,2. エホバの証人の間に平和があるのはなぜですか。
今日,真の平和はほとんど見られません。同じ国にいて同じ言語を話す人々でさえ,宗教的,政治的,社会的に分裂していることが少なくありません。一方,エホバの民は,「すべての国民と部族と民と国語」から来ているにもかかわらず,一致しています。―啓 7:9。
2 わたしたちの間に平和が見られるのは偶然ではありません。それはおもに,人類の罪を覆うために血を流されたイエスに信仰を働かせて,『神との平和を楽しんでいる』ことによります。(ロマ 5:1。エフェ 1:7)さらに,まことの神は忠節な僕たちに聖霊を与えてくださり,平和はその霊の実に含まれています。(ガラ 5:22)もう一つの理由は,わたしたちが『世のものではない』ことです。(ヨハ 15:19)政治問題においていずれかの側に付くのではなく,中立を保ちます。『剣をすきの刃に打ち変えて』おり,いかなる戦争にも参加しません。―イザ 2:4。
3. わたしたちの間にある平和はどのようなものですか。この記事でどんなことを考えますか。
3 わたしたちの平和は,仲間に害となることを行なわないというだけのことではありません。エホバの証人の会衆は異なる民族や文化の人たちで成っている場合もありますが,『互いに愛し合い』ます。(ヨハ 15:17)「すべての人,ことに信仰において結ばれている人たちに対して,良いことを行なおう」とします。(ガラ 6:10)わたしたちは,平和な霊的パラダイスを守り,大切にすべきです。では,会衆内でどのように平和を追い求めることができるか考えましょう。
つまずいたとき
4. だれかの感情を害してしまったとき,平和を追い求めるために何ができますか。
4 弟子ヤコブはこう書いています。『わたしたちはみな何度もつまずくのです。言葉の点でつまずかない人がいれば,それは完全な人です』。(ヤコ 3:2)ですから,仲間との間で不和や誤解が生じるのは,やむを得ないことです。(フィリ 4:2,3)とはいえ,個人間の問題は,会衆の平和を乱すことなく解決できます。一例として,だれかの感情を害してしまったと思えるときに適用すべき助言について考えてみてください。―マタイ 5:23,24を読む。
5. だれかから感情を害されたなら,どのように平和を追い求めることができますか。
5 だれかから少し感情を害された場合はどうでしょうか。相手のほうから近づいてきて謝ることを期待すべきですか。『愛は傷つけられてもそれを根に持たない』と,コリント第一 13章5節は述べています。感情を害されたなら,「根に持たず」に許して忘れることにより,平和を追い求めます。(コロサイ 3:13を読む。)日常のささいな間違いはこうして対処するのが最善です。そうすれば,仲間との平和な関係を保ち,平安な思いでいられるからです。箴言も,「違犯をゆるすのは……美しさである」と述べています。―箴 19:11。
6. 受けた仕打ちを見過ごすことはできないと感じる場合,どうすべきですか。
6 受けた仕打ちを見過ごすことはできない,と感じる場合はどうでしょうか。耳を貸す人に際限なく言いふらすのは賢明ではありません。そうしたうわさ話は会衆の平和を乱すだけです。平和裏に問題を解決するにはどうしたらよいでしょうか。マタイ 18章15節にはこうあります。「もしあなたの兄弟が罪を犯したなら,行って,ただあなたと彼との間でその過ちを明らかにしなさい。彼があなたの述べることを聴くなら,あなたは自分の兄弟を得たのです」。マタイ 18章15-17節は重大な罪に当てはまるとはいえ,15節の原則に沿って,相手と二人だけで穏やかに話し,平和な関係を取り戻すよう努めるべきです。a
7. 争いをすぐに解決すべきなのはなぜですか。
7 使徒パウロはこう書いています。「憤っても,罪を犯してはなりません。あなた方が怒り立ったまま日が沈むことのないようにしなさい。悪魔にすきを与えてもなりません」。(エフェ 4:26,27)イエスも,『あなたを告訴する者とは,すばやく事の解決に当たりなさい』と述べました。(マタ 5:25)ですから平和を追い求めるには,すぐに問題の解決に当たる必要があります。なぜなら,不和はほうっておくと化膿した傷のようになってしまうからです。誇りやねたみ,物を重視しすぎる態度などのために,争いの解決を遅らせないようにしましょう。―ヤコ 4:1-6。
多くの人が関係しているとき
8,9. (イ)1世紀のローマの会衆には,異なるどんな見方がありましたか。(ロ)パウロはローマのクリスチャンにどんな助言を与えましたか。
8 会衆内の不和に,二人だけではなく多くの人が関係していることもあります。使徒パウロが霊感のもとに手紙を書き送ったローマのクリスチャンの場合がそうでした。ユダヤ人のクリスチャンと異邦人のクリスチャンの間で争いが起きていたのです。会衆内のある人は,良心が弱い人たち,つまり良心が過度に制限的な人たちを見下げていたようです。一方,良心が弱い人は不当にも,全く個人的な事柄について他の人を裁いていました。パウロは会衆にどんな助言を与えたでしょうか。―ロマ 14:1-6。
9 パウロはどちらの側にも助言を与えました。モーセの律法下にいないことを理解している人たちには,兄弟たちを見下げたりしないようにと告げました。(ロマ 14:2,10)見下げるなら,律法で許されていない物を食べることに抵抗のある人たちをつまずかせかねません。こう訓戒しています。「ただ食物のために神のみ業を打ち壊してはなりません。……肉を食べること,ぶどう酒を飲むこと,また何にせよあなたの兄弟がつまずくような事は行なわないのが良いのです」。(ロマ 14:14,15,20,21)一方,より制限的な良心を持つクリスチャンには,見方の広い人たちを不忠実だと裁いたりしないよう助言しました。(ロマ 14:13)「あなた方の中のすべての人に言います。自分のことを必要以上に考えてはなりません」と告げたのです。(ロマ 12:3)このように両方の側に助言した後,「それですから,平和に役だつ事柄や互いを築き上げる事柄を追い求めましょう」と述べました。―ロマ 14:19。
10. 1世紀のローマの会衆と同じく,今日も,不和を解決するにはどうすることが必要ですか。
10 ローマの会衆はパウロの助言にこたえ応じ,必要な調整をしたに違いありません。今日も,仲間のクリスチャンの間で不和が生じたなら,謙遜に聖書の助言を求めて当てはめることにより,進んで解決を図るべきではないでしょうか。ローマ人の場合のように,『互いの間で平和を保つ』ため,両方の側に調整の必要があるかもしれません。―マル 9:50。
助けを求められたとき
11. あるクリスチャンがやって来て,仲間との争いについて話したいと言う場合,長老はどんなことに注意すべきですか。
11 あるクリスチャンが長老のもとに来て,親族や仲間との問題について話したいと言う場合はどうでしょうか。箴言 21章13節に,「立場の低い者の訴えの叫びに耳を閉じる者は,自分もまた呼ぶが,答えてもらえない」とあるように,長老は「耳を閉じる」ことはしません。しかし,別の箴言はこう警告しています。「訴えごとを最初に出す人は正しく見えるが 相手方が登場すれば問いただされるであろう」。(箴 18:17,「新共同訳」,共同訳聖書実行委員会)長老は親切に耳を傾けるべきですが,訴えてきた人の肩を持たないよう注意する必要があります。おそらく,事情を聞いた後,問題の相手と話したかどうかを尋ねるでしょう。感情を害された人が平和を追い求めるために何をすべきか,共に聖書的な段階を振り返ることもできます。
12. 一方の訴えを聞いただけで性急に行動するのは危険である,ということを示す例を挙げてください。
12 聖書中の三つの例から,一方の側の話を聞いただけで性急に行動するのは危険である,ということが分かります。ポテパルは,ヨセフに強姦されそうになったという妻の話を信じ込み,怒りにまかせてヨセフを獄に入れました。(創 39:19,20)ダビデ王は,ヂバが語った,主人のメピボセテが敵の側についたという話を信じ込み,軽率にも,「見よ,メピボセテのものはみな,あなたのものだ」と述べました。(サム二 16:4; 19:25-27)アルタクセルクセス王は,ユダヤ人がエルサレムの城壁を建て直してペルシャ帝国に反逆しようとしているという嘘を信じ込み,再建をやめるよう命じました。そのため,神殿の建設は中止されました。(エズ 4:11-13,23,24)賢明なクリスチャンの長老は,パウロがテモテに与えた,早まった判断をしないようにという助言に従います。―テモテ第一 5:21を読む。
13,14. (イ)わたしたちは皆,他の人の争いに関してどんな限界がありますか。(ロ)長老には,仲間のクリスチャンのことで適切な判断を下すためのどんな助けがありますか。
13 両方の側の言い分が分かったと思えても,次のことを認めるのは大切です。「自分はあることについて知識を習得したと考える人がいるなら,その人はまだ,知るべきほどにもそれを知っていません」。(コリ一 8:2)わたしたちは争いに至った詳しい経緯をすべて知っているでしょうか。当事者の背景を十分に理解していますか。判断を求められた長老は,作り話や悪巧みやうわさ話に欺かれないようにするのが肝要です。神から任命された裁き主イエス・キリストは,義にかなった裁きを下します。『目で見る単なる外見によって裁くのでも,ただ耳で聞くことにしたがって戒めるのでもありません』。(イザ 11:3,4)エホバの霊に導かれて裁きます。クリスチャンの長老も,神の聖霊の導きを得ることができます。
14 長老は,仲間のクリスチャンのことで判断を下す前に,エホバの霊の助けを祈り求めるべきです。そして,神の言葉と忠実で思慮深い奴隷級の出版物を調べることにより,聖霊の導きに頼る必要があります。―マタ 24:45。
いかなる場合でも平和を求める?
15. 重大な罪について知ったなら,いつ報告すべきですか。
15 クリスチャンは平和を追い求めるよう勧められています。とはいえ聖書は,『上からの知恵はまず第一に貞潔であり,次いで,平和を求める』とも述べています。(ヤコ 3:17)平和よりも,貞潔さ ― 神の清い道徳規準を擁護し,神の義の要求を満たすこと ― のほうが重要なのです。クリスチャンは,仲間のだれかが重大な罪を犯したことを知ったなら,罪を長老に告白するよう促すべきです。(コリ一 6:9,10。ヤコ 5:14-16)当人が告白しない場合は,罪について知った人が報告すべきです。報告せず,罪を犯した人との平和を守ろうとするのは,間違っています。悪行に加担することになるのです。―レビ 5:1。箴言 29:24を読む。
16. エヒウがエホラム王に対して取った行動から,何を学べますか。
16 神の義が平和よりも優先されるということは,エヒウに関する記述から分かります。神はアハブ王の家に裁きを執行するため,エヒウを遣わしました。アハブとイゼベルの子である邪悪な王エホラムは,戦車に乗ってエヒウを迎え,こう言いました。「エヒウよ,平安ですか」。エヒウは何と答えたでしょうか。「あなたの母イゼベルの淫行とその多くの呪術とがある限り,どんな平安があり得ようか」と述べたのです。(王二 9:22)それから弓を引き,エホラムの心臓を射抜きました。長老たちはエヒウに倣うべきです。平和を守ろうとするあまり,故意に罪を習わしにして悔い改めない人を大目に見てはなりません。会衆が神との平和を享受し続けられるよう,悔い改めない罪人を追放します。―コリ一 5:1,2,11-13。
17. クリスチャンは皆,平和を追い求めるために何ができますか。
17 兄弟間の争いのほとんどは,審理処置を要する重大な悪行が関係しているわけではありません。ですから,愛をもって他の人の間違いを覆うのはよいことです。「違犯を覆い隠す者は愛を求めており,事を言い立てる者は親密な者たちを引き離してゆく」と,聖書は述べています。(箴 17:9)この言葉に従うなら,会衆内の平和を守り,エホバとの良い関係を保つことができるでしょう。―マタ 6:14,15。
平和を追い求めることは祝福をもたらす
18,19. 平和を追い求めることにはどんな益がありますか。
18 「平和に役だつ事柄」を追い求めるなら,豊かな祝福を味わえます。エホバの物事の扱い方に倣うにつれ,エホバとの親しい個人的な関係を持つことができます。霊的パラダイスの平和と一致に貢献できます。会衆内で平和を追い求めれば,「平和の良いたより」の伝道で会う人たちに対してどのように平和を追い求められるかが分かります。(エフェ 6:15)「すべての人に対して穏やかで,……苦境のもとでも自分を制し」やすくなります。―テモ二 2:24。
19 将来,「義者と不義者との復活」があることも思い出してください。(使徒 24:15)その希望が実現する時,背景や気質や性格の異なる無数の人々が地上に復活します。『世の基が置かれた』遠い昔に生きていた人たちも生き返るのです。(ルカ 11:50,51)復活してくる人たちに平和について教えるのは,まさに大きな特権です。その時,平和を作る面で今受けている訓練が大いに役立つことでしょう。
[脚注]
a 中傷や詐欺といった重大な罪が関係する場合の聖書的な指針については,「ものみの塔」1999年10月15日号17-22ページを参照。
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