-
世界人口の増加 ― 重要な問題目ざめよ! 1991 | 11月8日
-
-
世界人口の増加 ― 重要な問題
「第五十億嬰孩(50億人目の赤ちゃん)」。中国政府は,1987年7月11日の深夜に北京の病院で生まれた王荷という女の子をそのように呼びました。この赤ちゃんの誕生で全世界の人口が本当に50億になったのかどうかはだれにも分かりません。しかしこの女の子は,世界人口が50億に達する時として国際連合が指摘していたまさにその時刻に生まれました。中国政府は,中国や世界が直面している人口増加という大問題を劇的な方法で示すために,この出来事を利用したにすぎません。
統計から分かるとおり,地球に住む人間の数は,一部の専門家が恐れを感じるほどの速さで増加しています。現在の割合で増加が続けば,地球の人口はわずか40年ほどで2倍になるでしょう。このペースでは,やがて世界人口を養うのに必要な食物の量に生産が追いつかなくなり,結果として世界的な飢きんを迎えることになる,と専門家は言います。さらに,世界の天然資源には限りがあるので,人口が増加すれば,そうした資源の枯渇はそれだけ速まるでしょう。そうなれば,全世界が大災厄を迎えるのは火を見るよりも明らかです。たとえ食物と資源の不足で破滅しないとしても,わたしたちの引き起こしている環境破壊で破滅が生じるのは間違いない,と専門家は言います。わたしたちは,空気や水や土地に対する自らの行為によって文字通り自分の首を絞めているのです。人口の増加はそれに輪をかけることになるでしょう。こうしたことを考えると,災厄が迫っているかのように思えます。
では,これに対してどんな手が打てるでしょうか。この問題については様々な考え方があります。人口増加を食い止めるために思い切った措置を取らなければ,全人類の福祉が危険にさらされると見る人たちがいます。また一方では,食物や資源や人口の問題,あるいはほかにどんな問題があるとしても,過去の場合と同じように新しい対策が必ず見つかると考える人々もいます。また,全体の人口は最後には横ばいになるから,そんなに大騒ぎする必要はないという見方もあります。実際,この問題のほとんどすべての面に関して,強い意見や見方が入り乱れています。明らかに,世界人口の増加は,論議を呼ぶ重要な問題なのです。
しかし,この差し迫った破滅について最も声高に語っているのは,概して,今でも比較的広々とした豊かな国に住んでいる人々であるという事実は注目に値します。そのような人々は,自分たちの生活水準や将来の福祉が危険にさらされているのを感じるために警鐘を鳴らすのです。しかし,人口の過密な貧しい発展途上国に住んでいる人々についてはどうでしょうか。そういう人々は,人口の問題についてどう感じているのでしょうか。人口の過密な地域の生活はどのようなものでしょうか。
「目ざめよ!」誌は,人口爆発に悩まされる生活がどのようなものであるかをじかに見て,それにどんな問題が関係しているかを幾らかでも知っていただくため,世界で最も人口の過密な地域を幾つかご紹介します。
-
-
過密都市香港で暮らす私の一日目ざめよ! 1991 | 11月8日
-
-
過密都市香港で暮らす私の一日
香港<ホンコン>は世界で最も人口の密集した地域の一つです。1,070平方㌔の土地に580万人が住んでおり,1平方㌔当たりで計算すれば5,592人になります。これを人の住んでいるわずか10%の地域に限定すれば,1平方㌔の土地におよそ5万4,000人がひしめきあっていることになります。しかし地元の住民は,過密都市の雑踏や,窮屈な居住空間,車の騒音や汚染などにうまく順応しているようです。
朝7時半にセットした目覚まし時計のけたたましい音で目が覚めた私は,ベッド代わりに使っている長いすから起き上がり,急いで着替えを済ませます。両親と3人の妹たちが小さなアパートに同居しており,全員が仕事をしています。ですから,洗面所の前にはいつも列ができます。時間も限られています。私は朝食をそそくさと済ませると,自転車に飛び乗って駅に向かいます。1日の試練の始まりです。私は香港の雑踏にもまれながら仕事に向かう大きな群衆の中に吸い込まれてゆきます。
私の乗った列車は,人のひしめきあう共同住宅や,人口の密集した高層アパートの間を猛スピードで走り抜けます。それからバスに乗り換え,大渋滞のトンネルを通って港を横断します。トンネルを出て,香港島に着いた時には本当にほっとします。私の会社はこの島の金融街の中心部にあります。道路状況によっては,ここまで来るのに1時間から1時間半かかることもあります。私は9時半までになんとかたどりつきます。しかし,くつろぐ時間はありません。電話が鳴り出すからです。今日の最初のお客さんです。そしてこれが一日中続くのです。ひっきりなしに電話がかかってくるので,受話器を手にしていない時間はほとんどありません。それから短い昼休みになります。
ここで問題は,この地区に沢山あるレストランのどこかで席を見つけることです。まるで全員が同じ時に同じ場所で,そして多くの場合同じテーブルで食事をしようとしているかのような状態です。私はまたもや,全く見ず知らずの人と合席になりました。これが込み合った香港での生活なのです。急いで栄養豊かな中華料理を平らげ,会社に戻ります。
仕事は5時半までとなっていますが,それまでに終わることはめったにありません。ようやく一息ついて時計を見ると,案の定もう6時15分です。時には,やっと帰れると思ったら7時をかなり回っているという日もあります。それから帰途につくのです。
まずバスに乗り,それから列車に乗り換えます。最後に列車は私の降りる駅にすべり込み,私は自転車を取りに行きます。自転車をこいで家に向かう途中,この小さな町が活気と人のあふれるモダンな都市に発展してきたいきさつを思い出します。屋根の低い村の家に代わって,今では20階建てや30階建ての高層ビルがそびえています。大きくて広い幹線道路が土地の大きな部分を占めていて,立体交差のための巨大な高架橋には騒々しい車の流れが絶えません。のんびりした昔の生活様式は永久に消え去ったのです。
家はかなり小さくて,28平方㍍ほどのところに6人が住んでいますが,私自身の部屋というものはありません。私が居間の長いすに寝ているのはそのためです。両親の個室はどうにか確保していますが,3人の妹たちは小さな共同部屋の簡単な寝台で寝ています。私たちにとって,プライバシーはぜいたくなのです。
小さいとはいえ,以前と比べれば随分よくなりました。公営の団地にいた当時は,家族全員が一つの部屋で暮らしていました。しかしそれでも,旺角<モンコク>地区で“籠屋”を借りて住んでいる幾千人もの人の状態と比べれば,はるかにましです。“籠屋”というのは,幅が1.8㍍で奥行きと高さがそれぞれ80㌢の部屋が3段に重なっているものです。マットレスを敷いて,個人の持ち物を幾つか置けるスペースはありますが,家具は無理です。
9時までには全員が帰宅します。みんなで夕食を囲みます。食べ終わると,だれかがテレビをつけます。静かに読書や勉強をしたいと思っても,もうだめです。11時にみんなが寝るのを待ち,それから部屋にいるのが私だけになると,しばしの安らぎと静けさの中で心を集中させます。12時になれば私も床につきます。
私は12年ほど前に学校を卒業してから,ずっと働いてきました。いつかは結婚したいと思っていますが,生活のために精一杯働かなければならないため,女性と十分知り合うための時間さえなかなか取れません。それにこちらでは,私たちがよく言うように,住む場所を見つけるのは天に昇るよりも難しいのです。慣れてきたとは言うものの,都会でのこういう騒がしい生活は自然なものではないように思えます。それでも私は,世界の他の場所で,見苦しくない程度の家も電気も水道も,きちんとした衛生設備もない生活をしている幾百万,いえ,もしかしたら幾十億という人々よりもはるかに良い暮らしをしていることを知っています。確かに私たちには,もっと良い体制,もっと良い世界,もっと良い生活が必要なのです。―健強の語った経験。
-
-
『子供は皆かわいいのですが,どうしても息子が必要なのです』目ざめよ! 1991 | 11月8日
-
-
『子供は皆かわいいのですが,どうしても息子が必要なのです』
8億5,000万余の人口を抱え,出生率が1,000人に対し31人というインドでは,毎年約2,600万人の新生児が生まれています。これはカナダの人口にほぼ匹敵する数字です。ですから,急速な人口爆発の抑制が政府の最も緊急な課題の一つであるのもうなずけます。それはどれほど効果を上げているでしょうか。どんな障害に直面していますか。
「二十歳前はだめ。30過ぎは絶対にだめ。子供は二人だけで十分!」インドのボンベイにある家族計画本部の廊下には,色とりどりのポスターがずらりと貼ってありますが,これはその中の一つが与えている忠告です。別のポスターは,5人の子供に囲まれてほとほと手を焼いている母親の姿を描き,「後で悔やむことがないように」と警告しています。一つの家族に子供は二人で十分。非常に強く明確なメッセージです。しかし,子供は二人までという政府の勧めを国民に受け入れさせ,それを実践させるのは容易なことではありません。
「ヒンズー教徒は男性の幸福を子供の数で測る。ヒンズー教徒の間では,子供はまさに一家に授かる幸せとみなされる。家族がどれほど多くても,男性は家族の増加を求める祈りを決してやめない」と,「ヒンズー教の仕来たり,慣習,儀式」という本は述べています。しかし,宗教的な観点からすると,家長にとって特に大切なのは男の子です。この本は続けてこう説明しています。「葬式に関連した最後の務めを果たしてくれる息子や孫息子を残せないことほど,不幸なことはない。そういう息子や孫息子がいなければ,死後に天界に行くことが全く不可能になるかもしれないと考えられている」。
シュラッダーと呼ばれる先祖崇拝の儀式を行なうにも,息子たちが必要とされます。「少なくとも一人の息子がどうしても必要だったと言えるだろう。インドのヒンズー教徒の熱烈な家族愛は,息子を欲しがる気持ちを強めた。息子がいなくては,家系がとだえてしまうのだ」と,A・L・バシャムは「インドに存在した不思議」の中で書いています。
宗教信条のほかにも,息子を欲しがる気持ちにさせる文化的要素があります。それは,合同家族もしくは拡大家族と呼ばれるインドの伝統的な家族制度です。結婚した息子は引き続き親と同居します。ボンベイ市健康・家族福祉局のラリータ・S・チョープラ博士はこう説明しています。「娘は結婚すると,しゅうとの家で暮らすようになります。しかし息子は家にとどまり親と同居するのです。親は息子が自分たちの老後の面倒を見てくれることを期待します。これは親にとって経済的な保証になります。親は息子が二人いると安心できるのです。それで理屈からすれば,もしある夫婦に子供が二人いて,勧められている限界にすでに達しているにもかかわらず,それが両方とも女の子であるならば,その夫婦が引き続き息子をもうけようとするのは十分あり得ることです」。
理屈の上では,子供はみな神から授かったものとみなされますが,現実の日常生活の中では,そのようにみなされていません。「女の子の医療がおろそかにされているのは明らかだ。女の子が生き延びることは一家の存続にとってさほど重要とは考えられていない」と,インディアン・エクスプレス誌は伝えています。この記事は,ボンベイで行なわれたある調査を引き合いに出していますが,それによると,性別テストの後に中絶された胎児8,000人のうち,7,999人は女の子でした。
苦しい闘い
「家族の中で,子供を何人もうけるか,家族をどれほど大きくするかを決めるのは大抵男性です」と,ボンベイ市の保健部長S・S・サブニス博士はインタビューの中で説明してくれました。たとえ女性が間隔を置いて子供を産むことや,子供の数を制限することを望んでも,夫がそれに反対するなら,夫から圧力を受けることになります。「だから我々は,スラム街の各家庭に男女の混合チームを派遣するのです。我々が期待しているのは,男性の保健担当官がその家の父親と話をして,家族の大きさを制限するよう勧め,子供が少なければそれだけ世話が行き届くという点を理解してもらうことです」。しかしこれまで見てきたように,障害はたくさんあります。
「貧しい人々の間では,生活状態が悪いために乳児の死亡率が高いのです。そのため,たくさん子供をもうけたいという気持ちにどうしてもなってしまいます。そのうちの何人かは死ぬと思うからです」と,サブニス博士は言います。しかし子供の世話はほとんど行なわれていません。子供たちはほったらかしにされた状態であたりをうろつき,物ごいをしたり,時にはごみの中の食べ物をあさったりしています。親は何をしているのでしょうか。「親は子供の居場所を知らないのです」と,サブニス博士は嘆きます。
インドの広告によく描かれているのは,幸せで裕福な感じのする夫婦が二人の子供たちと楽しく暮らしている様子です。大抵,二人の子供は男の子と女の子で,見るからによく世話をされている子供たちです。子供は二人までという考え方が一般によく受け入れられているのは,この社会層,つまり中流階級です。しかしこれは,貧しい人々の意識からは程遠い考え方です。『両親や祖父母は10人も12人も子供を持っていたのに,どうしてわたしたちがそうしてはいけないのか。なぜ二人に制限しなければならないのか』というわけです。人口抑制をめぐる戦争は,インドのこの貧しい大衆の中で,苦しい戦いに直面しています。「いま住民は若く,子供を産む年齢にあります。どうやらこれは負け戦のようです。前途には,やらなければならないことが山ほどあるのです」と,チョープラ博士は考えています。
-
-
アフリカの都市で育つ目ざめよ! 1991 | 11月8日
-
-
アフリカの都市で育つ
サハラ砂漠以南のアフリカ諸国の人口増加率は,世界で最も高い部類に入ります。そこの女性たちは,平均6人以上の子供を産みます。貧困,環境の悪化,資源の枯渇などのために,苦しみは増すばかりです。この手記は,その地域での生活がどのようなものであるかを示すものです。
私はここアフリカのある大都市で育ちました。兄弟は7人いましたが,二人は幼い時に死にました。私たちの家は,寝室と居間が一つずつある借家でした。両親は寝室に寝て,私たち子供は居間の床にマットを敷いて寝ました。部屋の片方に男の子たち,もう片方に女の子たちが寝ました。
近所のほとんどの人と同じように,私たちもあまりお金がありませんでした。いつも必要なものがそろっていたわけではありません。時には,食べ物が十分にないこともありました。朝は,前の晩に残ったご飯を温め直したもの以外は食べるものが何もないということがよくありました。そのご飯さえわずかしかなかった時もあります。夫は一家の稼ぎ手だから一番大きいものを食べ,妻はその次,子供たちは残ったものを食べればよいと考える人たちがいますが,両親はそういう人とは違い,自分たちは食べずに,わずかな食べ物を子供たちに分けてくれました。私はそういう両親の犠牲をありがたく思いました。
学校に通う
アフリカには,学校に通うのは男の子だけでよいと考えている人がいます。女の子は結婚したら夫に面倒を見てもらえるので,学校に行く必要はないというわけです。しかし,私の両親はそういう見方をしていませんでした。私たちは5人とも学校に行かせてもらいました。しかし両親には経済的な負担がかかりました。鉛筆や紙といったものはそれほど問題になりませんでしたが,教科書は高く,学校でどうしても着なければならなかった制服も高かったのです。
学校に通い始めた時,私には靴がありませんでした。中学2年の時,つまり14歳の時に初めて,両親は私に靴を買い与えることができるようになりました。しかしこれは,靴が1足もなかったということではありません。教会用の靴だけは持っていましたが,学校やその他の所に行く時には履かせてもらえませんでした。はだしで行くということです。父がバスの券を買ってくれることもありましたが,それができない場合は,学校まで歩いて往復しなければなりませんでした。片道が3㌔ほどありました。
洗濯の日と水くみ
私たちは小川で洗濯をしました。母と一緒に川に行ったのを覚えています。母は手おけと固形石けんと洗濯物を持って行きました。小川に着くと,手おけに水を張り,洗濯物を入れ,それに石けんをこすりつけます。次に,洗濯物を滑らかな岩の上で打ち,小川ですすぎます。それから,ほかの岩の上に洗濯物を広げて乾かします。ぬれたままだと重すぎて家に持ち帰れないからです。そのころ私は子供だったので,乾かしている洗濯物を盗まれないように番を言い付けられました。ほとんどの仕事は母がしました。
自宅に水を引いている人はほとんどいませんでした。ですから私の仕事の一つは,外にある給水栓までバケツを持って行って,水をくんで来ることでした。問題は乾期です。節水のため,かなりの給水栓がロックされているのです。ある時など,丸1日飲み水なしで過ごしました。1滴の水もないのです。バケツ1杯の水を探すために何キロも歩かなければならないこともありました。頭上に水の入ったバケツを載せてそれだけの距離を歩くと,載せていた所の毛が抜けてしまいます。私は10歳の時にもう,はげがあったのです。髪の毛がまた生えてくるというのはうれしいことです。
経済的な保証になる子供たち
振り返ってみれば,私たちの生活というのは平均的だったと思います。アフリカのこのあたりとしては平均以上だったかもしれません。私たちよりもはるかに生活水準の低かった家族を私はたくさん知っています。学校には,授業の始まる前と放課後に市場で何かを売って,家族のためにお金を稼がなければならない友達がたくさんいました。朝学校に行く前に食べるものが何もないという友達もいました。おなかをすかせたまま登校し,学校でも1日中何も食べずに過ごすのです。学校でパンを食べていたら,友達がやって来て,パンを欲しがったことが何度もありました。そういう時には,ちぎって一緒に食べたものです。
このようにつらいことや苦しいことがあっても,ほとんどの人はやはり大きな家族を持つことを望みます。ここでは,「一人っ子は子供ではない」と言う人がたくさんいるのです。「子供は二人で一人分,四人で二人分」というわけです。これは,乳児の死亡率が世界で最も高い部類に入っているためです。親は,死ぬ子供たちが何人かいても,何人かは生き延びて成長し,就職してお金を稼いでくれるようになることを知っています。そして子供たちは,親の老後の面倒を見るようになります。社会保障のない国では,これが重要な意味を持つのです。―ドナルド・ビンセントの語った経験。
-
-
世界人口 ― 将来はどうなるか目ざめよ! 1991 | 11月8日
-
-
世界人口 ― 将来はどうなるか
住宅事情の悪化,不衛生な状態,食物やきれいな飲料水の不足,病気,栄養不良 ― これらや他の様々な苦難は,世界の住民の大多数が直面している日常生活の現実です。それでも,これまで見てきたように,そのような状況の中で生活している人のほとんどは何とかそれに対処しながら毎日を送っています。
しかし将来はどうなるのでしょうか。人々はそのような厳しい現実にいつまでも耐え続けなければならないのでしょうか。また,さらに厄介なことですが,人口増加が続く結果として環境学者や他の人々が予測している悲惨な破滅については何と言えるでしょうか。わたしたち人間は,生きるのにどうしても必要な空気や水や土を汚染することによって,自分たちの住みかを破壊していると,そのような人々は言います。また,彼らは温室効果のことも指摘します。二酸化炭素,メタン,フロン(冷却剤や発泡剤)などの気体が放出される結果,気温が上昇して地球の気候パターンが変化し,恐ろしい結末になるというのです。こうしたことは,わたしたちの知っている文明を最後に消滅させるのでしょうか。かぎとなる幾つかの要素をもっと詳しく調べてみましょう。
人が多すぎるのか
まず,世界人口はこのままいつまでも増え続けるのでしょうか。どこまで行くかについて知る手がかりはないのでしょうか。もちろん,家族計画の努力もむなしく,世界人口が増え続けているのは事実で,今のところ毎年9,000万人ずつ増加しています。(メキシコが毎年一つずつできるようなもの。)すぐに増加が止まるという見込みはなさそうです。しかし,ゆくゆくは人口が横ばいになる時が来るという点で,ほとんどの人口学者の意見は一致しています。学者たちが考えている問題は,いつ,どのあたりで横ばいになるかということです。
国連人口基金の推定では,世界人口は140億に達してから横ばいになるだろうということです。しかし,100億から110億の間でピークに達すると見る人もいます。いずれにせよ重大な問題は,将来は人が多すぎるということになるのだろうか,地球は現在の人口の2倍から3倍の人を収容することができるのだろうか,ということです。
数字で考えれば,世界に140億の人がいるということは,1平方㌔当たり平均104人ということになります。すでに見たように,香港<ホンコン>の人口密度は1平方㌔当たり5,592人です。また現在,オランダの人口密度は430人,日本は327人ですが,これらの国の生活水準は平均を上回っています。明らかに,世界人口が予想通りに増えたとしても,人の数自体は問題ではありません。
将来食糧は十分にあるか
では,食糧の供給についてはどうでしょうか。地球は100億から140億の人を養うだけの食糧を生産できるのでしょうか。確かに現在の世界の食糧生産高では,それだけの人を養うことができません。事実,わたしたちは飢きんや栄養不良や餓死のことをしばしば耳にします。これは,現在の人口を養えるほどの十分な食糧が生産されていない,ましてその2倍や3倍はとても無理であるという意味なのでしょうか。
これはなかなか答えにくい質問です。というのは,その答えは何をもって“十分”とするかにかかっているからです。世界で最も貧しい国々に住んでいる何億という人々は,最低限の健康的な食事をしてゆくだけの十分な食糧さえ確保できません。一方,富める工業国の人々は,脳卒中,ある種のガン,心臓病など,豊かすぎる食事が招いた結果に悩まされています。これは食糧事情にどんな影響を与えているでしょうか。ある推定によれば,1㌔のビーフステーキを作るのに5㌔の穀物が必要だということです。その結果,世界中の肉食をする人々が,世界の穀物生産の半分近くを消費しているのです。
食糧の全生産高については,「世界のためのパン」という本が述べていることに注目してください。「現在世界で生産されている食糧を世界中のすべての人に均等に分配し,浪費を最小限にとどめるとすれば,すべての人が十分のものを得ることになる。これは,何とか十分と言える程度のものかもしれないが,それでも十分なのである」。これは今から15年以上前,つまり1975年に言われた言葉です。現在の状況はどうでしょうか。世界資源研究所によると,「過去20年余りの間に,世界の食糧の全生産高は需要をしのぐ勢いで増えたため,最近,国際市場の主要食品の価格は実質的に下がった」ということです。他の幾つかの調査では,その同じ期間に,主要食糧である米,トウモロコシ,大豆の価格が半分ないしそれ以下に下がっています。
以上の事柄をせんじつめれば,食糧の問題は生産高にあるというよりも,消費の水準と習慣にあるということになります。新しい遺伝子工学のおかげで,様々な品種の米や小麦その他の穀物が生産できるようになり,現在の生産高が2倍になる可能性もあります。しかし,この分野の専門知識は,タバコやトマトといった換金作物にかなり集中しています。これらは,貧しい人の胃を満たすというよりは富める人の欲求を満足させるためのものです。
環境はどうか
この問題に深い関心を寄せている人々は,人口増加も人類の将来の福祉を脅かす要素の一つにすぎないということをますます強く悟るようになっています。例えば,ポール・エーリッヒとアン・エーリッヒは共著「人口爆発」の中で,人間活動が環境に及ぼす影響は,「影響=人口×豊かさの程度×現在の科学技術が環境に及ぼしている作用」という簡単な方程式で表わすことができると述べています。
これを標準にすれば,米国のような国が人口過剰なのは人が多すぎるからでなく,むしろその豊かさの水準が,天然資源の大量消費や,深刻な環境破壊を招く科学技術の大々的使用の上に成り立っているからである,と著者たちは主張します。
他の様々な研究もこの点を裏づけているようです。ニューヨーク・タイムズ紙は,経済学者ダニエル・ハマーメッシュの次の言葉を引用しています。『温室効果気体は,それを排出する人間の数よりもむしろ,経済活動のレベルと密接なかかわりを持っている。平均的なアメリカ人は平均的なインド人より19倍多い二酸化炭素を発生させている。したがって,例えて言うなら,人口増加は急速でも貧しいブラジルより,人口増加はゆっくりでも経済活動の活発なブラジルのほうが,熱帯雨林を急速に焼き払うということが十分あり得るのである』。
ワールドウオッチ研究所のアラン・ダーニングも基本的には同じことを述べています。「世界の最も豊かな10億人が,欲の深い浪費型の文明を作り上げたため,地球は危機に面している。この上層部の人々,つまり車を運転し,牛肉を食べ,ソーダを飲み,使い捨ての製品を消費する人々の生活様式が環境を脅かしている。しかも,その深刻さに匹敵するものは,恐らく人口増加の問題以外にはないだろう」。人類のこの「最も裕福な5分の1」が,環境を脅かしているフロンの9割弱,他の温室効果気体の半分以上を出している,とダーニングは指摘しています。
真の問題
以上のことから明らかなように,人類が現在直面している災いの原因として人口増加だけをやり玉に挙げるとすれば,それは問題の核心を見失っていることになります。わたしたちが直面している問題は,人の住む場所が足りなくなるとか,地球は健康的な食事がすべての人に行き渡るほど十分な食糧を生産できないとか,天然資源がやがては使い果たされてしまうといった問題ではありません。これらは症状にすぎないのです。ますます多くの人が自分たちの行動の結果を考えずに,ますます大量の物資を消費したいと願っていること,これこそが真の問題です。さらに多くを求めるこの飽くなき願望が非常に深刻な環境破壊を引き起こしているため,地球の扶養能力は急速に限界を超えつつあります。言い換えれば,基本的な問題は人間の数にあるのではなく人間の質にあるのです。
著述家のアラン・ダーニングはその点をこう述べています。「このもろい生物圏の中にいる人類の最終的な運命は,我々が強い自制心を身につけるかどうかにかかっているのかもしれない。これは,消費を抑えて非物質の富を発見するという一般的な倫理観に基づく自制心である」。これは確かにもっともな意見です。しかし次の質問を尋ねなければなりません。世界中の人が進んで自制心を身につけ,消費を抑え,非物質の富を追求するということがはたしてあり得るのでしょうか。それはまず考えられません。今日,わがままで快楽主義的な生活様式が一般化していることから判断すると,それとは反対のことが生じる可能性のほうが高いでしょう。ほとんどの人は現在,「ただ食べたり飲んだりしよう。明日は死ぬのだから」という言葉をモットーにして生活しているように見えます。―コリント第一 15:32。
たとえ十分の数の人が現実に目覚め,生活様式を変え始めたとしても,すぐに流れを逆転させることはやはり不可能でしょう。ここ何年かの間に現われた多くの環境保護団体や新たな生活様式を見てください。その中には,新聞で大きく取り上げられるようになったものもあるかもしれませんが,いわゆる社会の主流になっている人々の生活に実質的な影響を及ぼしているでしょうか。とてもそうは言えません。問題はどこにあるのでしょうか。商業・文化・政治体制全体が,あらかじめ耐久性に限りを設けておく考え方と使い捨ての消費優先主義を助長する方向に向いているということです。このような状況では,土台から徹底的に立て直さない限り変化はあり得ません。そして,そのためには大規模な再教育が必要でしょう。
明るい将来はあるか
この状況は,例えて言うなら,ある篤志家から家具も設備も十分に整った家を備えてもらって,そこに住んでいる家族の状況に似ているかもしれません。十分にくつろげるよう,家の中のものはすべて満足のゆくまで使ってよいことになっています。もしその家族が家具を壊し,床に穴を開け,窓ガラスを割り,水道管を詰まらせ,電気回路に負荷をかけすぎるなどして,家を完全に破壊しかねない様子を示すなら,どうなるでしょうか。家主は手をこまぬいて何もせずに見ているだけでしょうか。そういうことはないはずです。乱暴な借家人を家から追い出し,その家を整った状態に戻すための行動を起こすに違いありません。だれも,そういう行動は間違っているなどとは言わないはずです。
では,人類というこの家族はどうでしょうか。わたしたちは,最高の設備が十分に整った家を創造者エホバ神から与えられ,そこに住まわせていただいている借家人のようなものではないでしょうか。その通りです。詩編作者が述べたように,「地とそれに満ちるもの,産出的な地とそこに住む者とはエホバのもの」だからです。(詩編 24:1; 50:12)神は,光や空気や水や食物など,わたしたちが生きてゆくために必要なものをすべて備えてくださったばかりか,生活を楽しめるように,それらの必要物を非常に豊富に,しかも多種多様な形で与えてくださいました。しかし人類は,借家人としてどんな行動を取ってきたでしょうか。残念ながら,立派な行動ではありませんでした。わたしたちは,自分が生活しているこの美しい住みかを文字通り破壊しているのです。家主であられるエホバ神は,このことに関して何をなさるでしょうか。
「地を破滅させている者たちを破滅に至らせる」― これこそ神が行なおうとしておられる事柄です。(啓示 11:18)では,神はどのような方法でそれを行なわれますか。聖書はこう答えています。「それらの王たちの日に,天の神は決して滅びることのないひとつの王国を立てられます。そして,その王国はほかのどんな民にも渡されることはありません。それはこれらのすべての王国を打ち砕いて終わらせ,それ自体は定めのない時に至るまで続きます」― ダニエル 2:44。
定めのない時に至るまで続く神の王国の支配のもとでは何が期待できますか。わたしたちは預言者イザヤの言葉の中に,その未来をかいま見ることができます。
「彼らは必ず家を建てて住み,必ずぶどう園を設けてその実を食べる。彼らが建てて,だれかほかの者が住むことはない。彼らが植えて,だれかほかの者が食べることはない。わたしの民の日数は木の日数のようになり,わたしの選ぶ者たちは自分の手の業を存分に用いるからである。彼らはいたずらに労することなく,騒乱のために産み出すこともない。彼らはエホバの祝福された者たちからなる子孫であり,彼らと共にいるその末孫もそうだからである」― イザヤ 65:21-23。
人類にとって何と明るい将来なのでしょう。神がお作りになるこの新しい世で,人類は住宅や食糧や水や健康や怠慢に関する問題にもう煩わされることはありません。ついに従順な人類は神の導きのもとで地を満たし,地を従わせることができるようになります。人口過剰の恐れはなくなるのです。―創世記 1:28。
[13ページの囲み記事]
食糧がしばしば高くなるのはなぜか
食糧の本当の価格は下がっているのに,一般的な経験からすると,値段はむしろ上がっています。なぜでしょうか。一つの簡単な理由は都市化です。人口が絶えず増えている世界中の都市の住民に食糧を供給するには,長距離の輸送を行なわなければなりません。例えば米国では,「普通の食べ物が農場から食卓に届くまでに,約2,100㌔の距離を輸送しなければならない」と,ワールドウオッチの調査報告は述べています。消費者は食品そのものだけでなく,加工や包装や輸送にかかる隠れた費用に対しても支払いをしなければならないのです。
[10ページの図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
地球の大気は太陽の熱を吸収する。しかし作り出される熱 ― 赤外線によって伝えられる ― は温室効果気体のために簡単には逃げないので,地球の表面で温度が上昇する
温室効果気体
逃げる放射線
吸収される赤外線
[12ページの図版]
1㌔のビーフステーキを作るのに5㌔の穀物が必要。そのため,世界中の肉食をする人々が,世界の穀物生産の半分近くを消費している
-