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「祈りを聞かれる方」にどのように近づけますかものみの塔 2006 | 9月1日
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「祈りを聞かれる方」にどのように近づけますか
「祈りを聞かれる方よ,あなたのもとに,すべての肉なる者は来るのです」。―詩編 65:2。
1 人間は地上の他の生き物とどんな点で異なりますか。それによってどんな可能性が開かれていますか。
地上に存在するあらゆる生き物の中で,ただ人間だけが創造者を崇拝するための潜在力を備えています。人間だけが霊的な必要を自覚し,それを満たしたいという欲求を持ちます。それによって,天の父との個人的な関係を築くというすばらしい可能性が開けます。
2 人間と創造者との関係は,人間の罪によってどのように損なわれましたか。
2 人間は,自分の造り主に近づくことのできる者として創造されました。アダムとエバは創造された時,罪がありませんでした。そのために,ちょうど子どもが父親に近づくように,ためらいなく神に近づくことができました。しかしその大きな特権は,罪をおかしたことによって取り去られました。アダムとエバは神に不従順になり,神との親しい関係を失ったのです。(創世記 3:8-13,17-24)これは,アダムの不完全な子孫はもはや神と意思を通わせることができない,という意味でしょうか。そうではありません。エホバは今も,アダムの子孫である人間がご自分に近づくのを許しておられます。ただしそのためには,一定の条件を満たさなければなりません。どんな条件でしょうか。
神に近づくために求められていること
3 罪ある人間が神に近づくには何が求められていますか。その点はどんな例から分かりますか。
3 アダムの二人の息子に生じた事柄は,不完全な人間が神に近づこうと願う場合に,どんなことが求められるかを知る助けになります。カインもアベルも,犠牲をささげることによって神に近づこうとしました。アベルの捧げ物は受け入れられましたが,カインのものは受け入れられませんでした。(創世記 4:3-5)どこに違いがあったのでしょうか。ヘブライ 11章4節はこう述べています。「信仰によって,アベルはカインよりさらに価値のある犠牲を神にささげ,その信仰によって義なる者と証しされました」。ですから明らかに,神に近づいて受け入れられるためには,まず信仰が必要です。もう一つどうしても必要なものがあり,それについてはカインに対するエホバの言葉に示されています。「善いことを行なうようになれば,高められるのではないか」と言われました。そうです,善いことを行なうようになっていたなら,カインが神に近づいたとき,それは受け入れられたことでしょう。しかしカインは神の諭しを退け,アベルを殺し,結局は追放された者となりました。(創世記 4:7-12)こうして初期の時代から,神に近づくためには信仰と善い業が重要である,ということが強調されていました。
4 神に近づくことに関してどんな点を認めるべきですか。
4 神に近づきたいと思うなら,自分の罪ある状態を認めることが不可欠です。人間はすべて罪のあるものであり,神に近づくに当たって罪は妨げとなります。預言者エレミヤはイスラエルに関してこう書きました。「わたしたちは違犯をおかし(ました)。……あなたはご自分に近づくものを雲塊をもって阻み,祈りが通って行けないようにされました」。(哀歌 3:42,44)それでも神は,信仰と正しい心の態度とをもってご自分に近づき,そのおきてを守り行なう人の祈りに喜んで耳を傾ける方であることを,人類史を通じて示してこられました。(詩編 119:145)どんな人の例があるでしょうか。その人たちの祈りから何を学べるでしょうか。
5,6 神に近づいたアブラハムの例からどんなことを学べますか。
5 その一人にアブラハムがいます。アブラハムは神に近づき,それは受け入れられました。神はこの人を,「わたしの友」と呼んでおられます。(イザヤ 41:8)では,神に近づいたアブラハムの例からどんなことを学べるでしょうか。忠実なこの族長は自分の相続人に関してエホバに尋ね,『わたしに何をお与えくださるのでしょうか。わたしは子供のないままなのです』と述べました。(創世記 15:2,3; 17:18)別の時には,神がソドムとゴモラの邪悪な者たちに裁きを執行される際にだれが救われるかについて,自分の気がかりな点を言い表わしました。(創世記 18:23-33)また,他の人たちのために祈願をしたこともあります。(創世記 20:7,17)さらに,アベルの場合と同じように,アブラハムも神に近づく際にエホバへの捧げ物をすることがありました。―創世記 22:9-14。
6 ここに挙げたすべての場合に,アブラハムは少しもためらうことなくエホバと話しました。しかし,ためらいなく話したといっても,そこには,創造者に対する自分の立場についての謙遜な見方が示されていました。創世記 18章27節にある敬意のこもった言葉に注目してください。「お願いです。いまはあえてエホバに申し上げております。塵と灰にすぎないこの私ですが」。見倣うべきりっぱな態度ではないでしょうか。
7 族長たちはどんな事柄についてエホバに祈りましたか。
7 族長たちはさまざまな事柄について祈り,エホバはその祈りを聞き入れられました。ヤコブは誓約の祈りをしました。神の支えを願い求めた後,厳粛な約束をしてこう述べました。「あなたが与えてくださるすべてのものについてわたしは必ずその十分の一をあなたにささげることにします」。(創世記 28:20-22)その後,自分の兄と会うことになった時,ヤコブはエホバの保護を哀願して,こう言いました。「お願い致します。わたしの兄弟の手から,エサウの手から私を救い出してください。わたしは彼を恐れているのです」。(創世記 32:9-12)族長ヨブは,自分の家族を代表してエホバに近づき,家族のために犠牲をささげました。ヨブの3人の友が言葉の点で罪をおかした時,ヨブはそれらの友のために祈り,「エホバはヨブの顔を受け入れられた」とあります。(ヨブ 1:5; 42:7-9)これらの記述は,どんな事柄についてエホバに祈ることができるかを知る助けになります。さらに,ふさわしい方法でご自分に近づく人の祈りを,エホバがいつでも受け入れようとしておられることも分かります。
律法契約のもとで
8 律法契約のもとで,いろいろな物事は民のためにどのようにしてエホバに提出されましたか。
8 エホバはイスラエル国民をエジプトから救出した後,その民と律法契約を結ばれました。その律法には,任命された祭司たちを通して神に近づくための規定があり,一部のレビ人たちが民のために祭司を務めるように割り当てられました。国全体にかかわる重要な事柄が起きた時は,民を代表する人のひとり,ときには王や預言者が,その問題を祈りによって神に提出しました。(サムエル第一 8:21,22; 14:36-41。エレミヤ 42:1-3)例えば,神殿の献納の際,ソロモン王は心からの祈りによってエホバに近づきました。それに対してエホバは,ソロモンの祈りを受け入れたことを示し,神殿をご自身の栄光で満たし,「この所でささげられる祈りに対して,……わたしの耳は注意深くあるであろう」と述べられました。―歴代第二 6:12–7:3,15。
9 聖なる所でエホバにふさわしい仕方で近づくためにどんなことが求められていましたか。
9 エホバは,イスラエルに与えた律法の中に,聖なる所において受け入れられる仕方で神に近づくための要求事項を含められました。それはどのようなものでしたか。毎日,朝と夕に,大祭司は動物の犠牲をささげるだけでなく,エホバのみ前で薫香をたくことを求められていました。後には従属の祭司たちも,贖罪の日以外にはこの奉仕を行ないました。そのような形で深い敬意を表明することによって,祭司たちの奉仕はエホバに喜んで受け入れられるものとなりました。―出エジプト記 30:7,8。歴代第二 13:11。
10,11 エホバが個々の人の祈りを受け入れられることを示すどんな証拠がありますか。
10 古代のイスラエルにおいて,神に近づくにはいつでも,指定された代表者を通さなければなりませんでしたか。そうではありません。個々の人の祈りをエホバが進んで受け入れられたことを聖書は示しています。神殿献納の祈りの中で,ソロモンはエホバにこう懇願しました。『だれでも,あるいはあなたの民イスラエルが皆,彼らの側でどんな祈り,恵みを求めるどんな願いがあっても,この家に向かってそのたなごころを実際に伸べるなら,あなたが天からお聞きくださいますように』。(歴代第二 6:29,30)ルカの記述によると,バプテスマを施す人ヨハネの父ゼカリヤが聖なる所で香をささげていた時,祭司ではないエホバの崇拝者の多くは「外で祈って」いました。黄金の祭壇上でエホバに香がささげられていた間,一般の民は聖なる所の外で祈るのが習慣となっていたようです。―ルカ 1:8-10。
11 こうして,ふさわしい方法また手順で近づくとき,国民全体を代表する人たちからであれ,個人的に神に近づこうとした個々の人からのものであれ,エホバは喜んでその請願を受け入れました。今日,わたしたちは律法契約のもとにはいません。それでも,昔のイスラエル人が神に近づいた方法から,祈りに関して幾つかの重要な教訓を学ぶことができます。
クリスチャンの取り決めのもとで
12 クリスチャンがエホバに近づくためにどんな取り決めが設けられていますか。
12 わたしたちは今日,クリスチャンとしての取り決めのもとで生活しています。目に見える神殿はもはやありません。つまり,祭司が神の民全体を代表して神殿で奉仕するとか,個人が神に祈るのに特に神殿の方を向くというようなことはありません。しかしエホバは,わたしたちが神に近づくための取り決めをはっきり設けておられます。どんな取り決めでしょうか。西暦29年,キリストが油そそがれて大祭司に任命された時,霊的な神殿が機能するようになりました。a この霊的な神殿とは,イエス・キリストのなだめの犠牲に基づいて崇拝者がエホバに近づくための新しい取り決めです。―ヘブライ 9:11,12。
13 祈りに関して,エルサレムの神殿と霊的な神殿とには一つのどんな共通点がありますか。
13 エルサレムにあった神殿のいろいろな特徴は,霊的な神殿のための備えをよく描き出しており,それには祈りに関連した点もあります。(ヘブライ 9:1-10)一例として,神殿の聖なる仕切り室にあった香の祭壇で朝夕ささげられた香は何を表わしていたでしょうか。「啓示」の書によると,「香は聖なる者たちの祈りを表わして」いました。(啓示 5:8; 8:3,4)ダビデは霊感のもとにこのように記しました。「わたしの祈りがあなたのみ前の香として……備えられますように」。(詩編 141:2)ですから,クリスチャンの取り決めにおいて,芳しい香とは,受け入れられる祈りとエホバへの賛美を適切に表わすものとなっています。―テサロニケ第一 3:10。
14,15 (イ)油そそがれたクリスチャンの場合と,(ロ)「ほかの羊」の場合,エホバに近づくことに関してどんなことが言えますか。
14 この霊的な神殿で,だれが神に近づけるでしょうか。物質の神殿の場合,祭司とレビ人には奥の中庭で奉仕する特権がありましたが,聖所に入ることができたのは祭司だけでした。天的な希望を抱く油そそがれたクリスチャンは,奥の中庭と聖所によって予表されていた特別の霊的な状態を享受しており,そのような者として神に祈り,賛美をささげることができます。
15 地上の希望を持つ「ほかの羊」についてはどうでしょうか。(ヨハネ 10:16)預言者イザヤは,「末の日に」多くの国の民がエホバの崇拝のために集まることを予告していました。(イザヤ 2:2,3)イザヤはまた,「異国の者たち」がエホバのもとに加わるとも記しています。それらの人々が近づいて来るのを進んで受け入れることを示して,神は,「それらの者を……わたしの祈りの家の中で歓ばせる」と言われました。(イザヤ 56:6,7)啓示 7章9-15節はさらに細かな点を述べ,「すべての国民」から来た「大群衆」が集い,霊的な神殿の外の中庭に立って「昼も夜も」神への崇拝と祈りをささげるさまを記しています。今日神の僕となる人のだれもが,祈りを聞いていただけるとの全き確信を抱いて自由に神に近づくことができるのは,何という慰めでしょう。
どんな祈りが受け入れられるか
16 初期のクリスチャンから祈りについてどんなことを学べますか。
16 初期のクリスチャンも祈りの民でした。どんな事柄に関して祈ったでしょうか。クリスチャンの長老たちは,組織の責任ある立場に人々を選ぶことに関して導きを祈り求めました。(使徒 1:24,25; 6:5,6)エパフラスは仲間の信者のために祈りました。(コロサイ 4:12)エルサレム会衆の成員は,投獄されていたペテロのために祈りました。(使徒 12:5)初期のクリスチャンは,反対に直面しても勇気を与えてくださるようにと願い,「エホバよ,彼らの脅しに注意を向け,あなたの奴隷たちがあらんかぎりの大胆さをもってみ言葉を語りつづけることができるようにしてください」と祈りました。(使徒 4:23-30)弟子ヤコブは,クリスチャンに対し,試練にあるときには神に知恵を求めるようにと促しています。(ヤコブ 1:5)あなたは,エホバへの請願にそのような点を含めていますか。
17 エホバはどんな人の祈りを受け入れられますか。
17 神はどんな祈りをも受け入れられるわけではありません。では,どうしたら自分の祈りは受け入れていただけるとの確信を持つことができるでしょうか。神に祈りを聞き届けられた昔の忠実な人々は,誠実さをもって,また正しい心の態度で神に近づきました。その人々は信仰を示すと共に,その信仰をりっぱな業によって裏づけました。エホバはそのようにして近づく人々に耳を傾けてくださることを確信できます。
18 祈りを聞いていただくためにクリスチャンはどんな求めに応じなければなりませんか。
18 特に求められていることがもう一つあります。使徒パウロはその点を説明して,「この方を通してわたしたち(は)一つの霊のもとに父に近づくことができる」と述べています。「この方を通して」とはだれのことでしょうか。イエス・キリストです。(エフェソス 2:13,18)そうです,わたしたちはただイエスを通してのみ,み父に自由に近づくことができるのです。―ヨハネ 14:6; 15:16; 16:23,24。
19 (イ)イスラエルにおいて,どんな場合に香の捧げ物はエホバに不快なものとなりましたか。(ロ)どうしたら自分の祈りをエホバへの芳しい香のようにすることができますか。
19 すでに述べたように,イスラエルの祭司がささげた香は,神の忠実な僕たちによる,受け入れられる祈りを表わしていました。しかし,イスラエル人の香の捧げ物がエホバにとって嫌悪すべきものとなる場合もありました。それは,イスラエル人が神殿で香をたきながら,同時に偶像に身をかがめている時でした。(エゼキエル 8:10,11)同じように今日でも,エホバに仕えると唱えながら,同時に神の律法に反する業を習わしにしている人の祈りは,エホバにとって不快なにおいのようになるでしょう。(箴言 15:8)では,引き続き生活をすべての面で清いものとし,わたしたちの祈りが神への芳しい香となるようにしましょう。エホバはご自分の義の道筋を歩む人たちの祈りを歓びとされるのです。(ヨハネ 9:31)しかし,幾つかの問いがまだ残っています。どのように祈るべきでしょうか。どんなことを祈ることができますか。神はわたしたちの祈りにどのように答えてくださいますか。次の記事で,これらの問いを他の幾つかの点と共に取り上げます。
[脚注]
a 「ものみの塔」誌,2001年5月15日号,27ページをご覧ください。
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「あなた方の請願を神に知っていただくようにしなさい」ものみの塔 2006 | 9月1日
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「あなた方の請願を神に知っていただくようにしなさい」
「事ごとに祈りと祈願をし,感謝をささげつつあなた方の請願を神に知っていただくようにしなさい」。―フィリピ 4:6。
1 わたしたちにはどんな方と意思を通わせる特権がありますか。なぜそれは驚くべきことと言えますか。
もしあなたが国の支配者に面会を求めるとしたら,どのような反応を期待できるでしょうか。秘書担当の部署から丁重な返事は来るかもしれませんが,支配者自身と話す機会を与えられることはまずないでしょう。ところが,すべてのものの最高の支配者,全宇宙の主権者であるエホバ神の場合は,そうではありません。わたしたちがどこにいようと,またどんな時間であろうと,この方に近づくことができます。受け入れられる形で祈りをすれば,それはいつでもこの方に届きます。(箴言 15:29)それは,まさにすばらしいことではないでしょうか。そのことに対する深い感謝は,「祈りを聞かれる方」と呼ばれるにふさわしいこの方に,いつも定期的に祈りたいという気持ちを抱かせるのではないでしょうか。―詩編 65:2。
2 祈りを神に受け入れていただくには何が必要ですか。
2 とはいえ,『神に受け入れていただけるのはどのような祈りだろうか』と尋ねる人もいるでしょう。聖書は,祈りを受け入れていただくために必要な一つの点を説明して,こう述べています。「信仰がなければ,神を十分に喜ばせることはできません。神に近づく者は,神がおられること,また,ご自分を切に求める者に報いてくださることを信じなければならないからです」。(ヘブライ 11:6)前の記事でも取り上げたとおり,神に近づく際に特に重要な要素は,信仰です。神はご自分に近づく人の祈りを喜んで受け入れようとしておられますが,人は信仰のうちに神に近づくべきであり,また正しい業と共に誠実さと正しい心の態度をもってそうしなければなりません。
3 (イ)昔の忠実な僕たちの祈りにも示されているように,いろいろな形の祈りで何を言い表わすことができますか。(ロ)祈りにはどんな形のものがありますか。
3 使徒パウロは当時のクリスチャンにこう勧めました。「何事も思い煩ってはなりません。ただ,事ごとに祈りと祈願をし,感謝をささげつつあなた方の請願を神に知っていただくようにしなさい」。(フィリピ 4:6,7)聖書には,自分の心配事を神に伝えた人の例が数多く記されています。その中にハンナ,エリヤ,ヒゼキヤ,ダニエルなどがいます。(サムエル第一 2:1-10。列王第一 18:36,37。列王第二 19:15-19。ダニエル 9:3-21)わたしたちはそれらの人の例に倣うべきです。また,パウロの言葉遣いから,祈りにはいろいろな形のあることにも注目してください。パウロは,感謝をささげることについて述べています。これは,神がしてくださる事柄に対する深い感謝の気持ちと認識を言い表わす祈りです。これには,賛美も伴うことでしょう。また祈願とは,謙遜な態度で切に懇願することです。さらに請願,つまり何か特定の物事に対する願いの気持ちを言い表わすこともできます。(ルカ 11:2,3)このいずれの形で近づくにしても,天の父は喜んでそれを受け入れてくださいます。
4 わたしたちが必要としているものをご存じのエホバに請願するのはなぜですか。
4 『エホバはわたしたちの必要をすべてご存じなのではないか』と言われる方もおられるでしょう。確かにエホバは,わたしたちに何が必要かをご存じです。(マタイ 6:8,32)では,どうしてなおも請願をもって近づくようにと望んでおられるのでしょうか。次の例えで考えてください。ある商店主が顧客へのサービスとして何かのギフトを申し出ます。けれども,ギフトが欲しいと思うなら,顧客はその店主のところに来てそれを求めなければなりません。そのような努力をしない人は,その申し出を自分はそれほど評価していないと言っているのと同じです。同様に,祈りで自分の請願を知らせようとしないのは,エホバが与えてくださるものの価値を認識していないことになるでしょう。イエスは,「求めなさい。そうすれば受けます」と言われました。(ヨハネ 16:24)求めることによって,自分が神に頼っていることを示すのです。
どのように神に近づくべきか
5 なぜイエスの名によって祈るべきですか。
5 祈りの仕方について,エホバは厳格な規則を幾つも設けてはおられません。それでもわたしたちは,神への正しい近づき方についてよく知るべきであり,それは聖書の中で説明されています。例えば,イエスは追随者たちに,「あなた方が父に何か求めるなら,父はそれをわたしの名によって与えてくださるのです」と教えました。(ヨハネ 16:23)ですから,イエスの名によって祈り,イエスを神の祝福が全人類に及ぶ唯一の経路として認めることが求められています。
6 祈る時,どんな姿勢を取るべきですか。
6 祈る時にはどんな姿勢を取るべきでしょうか。聖書の中で,祈りを聞いていただくために何か特別の姿勢が決められているわけではありません。(列王第一 8:22。ネヘミヤ 8:6。マルコ 11:25。ルカ 22:41)大切なのは,誠実さをもって,また正しい心の態度で神に祈ることです。―ヨエル 2:12,13。
7 (イ)「アーメン」という語にはどのような意味がありますか。(ロ)祈りの際その語はどのように用いるのが適切ですか。
7 「アーメン」という語についてはどうでしょうか。これは祈りの結びとして多くの場合に適切な語であることを聖書は示しています。公の場で祈るときには特にそう言えます。(詩編 72:19; 89:52)ヘブライ語のアーメーンには,「確かに」という基本的な意味があります。マクリントクとストロング共編の「百科事典」(英語)は,祈りの結びに「アーメン」と述べる意味について,「それに先立つ言葉を確認し,その実現を願い求めること」と説明しています。ですから,誠実に「アーメン」と言って祈りを結ぶことにより,自分の述べた事柄に対する真剣な気持ちを示すことになります。会衆を代表して祈るクリスチャンが結びにこの言葉を述べるとき,聴いている人たちも心の中で,あるいは聞こえる形で「アーメン」と言って,述べられた事柄に対する自分の強い賛同の気持ちを示すことができます。―コリント第一 14:16。
8 わたしたちはどんな場合にヤコブやアブラハムのような祈りをすることができますか。それはわたしたちについて何を示すものとなりますか。
8 祈り求めている物事に対するわたしたち自身の関心の深さを示す機会を神が与えてくださることもあります。昔のヤコブのように行動するべき場合があるのです。ヤコブは祝福を得ようとしてみ使いと夜通し格闘しました。(創世記 32:24-26)あるいは,アブラハムのようにするべき状況もあります。アブラハムは,ロトのため,またソドムにいるかもしれない他の義人のために繰り返しエホバに訴えました。(創世記 18:22-33)同じようにわたしたちも,自分にとって大切な物事に関してエホバに嘆願し,神の公正と愛ある親切と憐れみに基づいて願い求めることができます。
何を求めることができるか
9 祈るとき何が主要な関心事であるべきですか。
9 「事ごとに……あなた方の請願を神に知っていただくようにしなさい」とパウロが述べている点に注目してください。(フィリピ 4:6)ですから,個人的な祈りは生活のほとんどすべての面を含むものであって良いのです。とはいえ,祈りの中で第一の関心事とすべきなのは,エホバに関する事柄です。ダニエルはこの点でりっぱな手本を示しています。イスラエルが自らの罪のゆえに処罰を受けていた時,ダニエルはエホバに憐れみを請い求めましたが,その際,「わたしの神よ,ご自身のために,遅れないでください。……あなたの民の上には,あなたのみ名がとなえられているのです」と述べました。(ダニエル 9:15-19)わたしたちの祈りも,エホバのみ名が神聖にされることと神のご意志の果たされることが自分の主要な関心事であることを示しているでしょうか。
10 個人的な事柄についても祈ることができますが,どんな例からそれが分かりますか。
10 とはいえ,個人的な事柄についての願いを含めるのも適切なことです。例えば,詩編作者と同じように,深い霊的な理解を得られるようにと祈ることができます。詩編作者はこう祈りました。「わたしに理解させてください。わたしがあなたの律法を守り行ない,心を込めてそれを守るためです」。(詩編 119:33,34。コロサイ 1:9,10)イエスは,「自分を死から救い出すことのできる方に……祈願を,そして請願をささげ」ました。(ヘブライ 5:7)そのようにすることによってイエスは,危険や試練に面した時にしっかり立つ強さを祈り求めるのは適切であることを示されました。弟子たちに模範的な祈りを示された時にも,イエスは,過ちを許すことや日ごとの食物を得ることなど,個人的な事柄をその祈りに含められました。
11 祈りはどのように,誘惑に屈しないための助けになりますか。
11 イエスは,その模範的な祈りの中に次の願いの言葉も含めました。「わたしたちを誘惑に陥らせないで,邪悪な者から救い出してください」。(マタイ 6:9-13)後にイエスは,「ずっと見張っていて絶えず祈り,誘惑に陥らないようにしていなさい」とも言われました。(マタイ 26:41)誘惑に直面した場合,非常に重要なのは祈りです。職場や学校で,聖書の原則を無視させるような誘惑に面するかもしれません。エホバの証人ではない人たちが疑わしい活動に誘う場合もあるでしょう。廉直で正しい原則に反することを行なうように求められるかもしれません。そのような状況の時には,イエスの助言に従って,事前に,また誘惑に直面している時にも,それに負けないように神の助けを祈るのが良いでしょう。
12 どんな心配や煩いについて祈ることができますか。エホバについて何を期待することができますか。
12 今日,神の僕たちの生活にも,さまざまな圧力が加わり,種々の心配事が生じます。病気や感情的ストレスが多くの人にとって思い煩いの元となっており,周囲の世界の暴力的な傾向もストレスを高じさせます。経済状況の厳しさは生活のやりくりを難しくさせています。神の僕たちがこうした点を祈りの中で伝えるとき,エホバが耳を向けてくださるというのは,大きな慰めではないでしょうか。詩編 102編17節はエホバについてこう述べています。「神は,すべてのものを奪われた人たちの祈りを必ず顧みてくださり,彼らの祈りをさげすまれません」。
13 (イ)どんな個人的な事柄を祈りに含めるのはふさわしいでしょうか。(ロ)そのような祈りの例について述べてください。
13 実際のところ,エホバへの奉仕にかかわるすべてのこと,また神との関係に影響するどんなことも,祈りに含めるべきふさわしい事柄です。(ヨハネ第一 5:14)結婚,就職,奉仕の拡大など,何か決定すべきことがある場合,ためらうことなくそれを神に伝え,神の導きを求めてください。一例として,フィリピンのある若い女性は全時間の宣教奉仕を始めたいと思いました。しかし,自活してゆくための仕事がありませんでした。こう述べています。「ある土曜日,わたしは特に開拓奉仕をすることについてエホバに祈りました。その同じ日,伝道に出ていた時,十代の少女に書籍を提供しました。ところが,全く思いがけないことに,『月曜日の朝いちばんに,わたしの学校に行くといいですよ』と少女が言うのです。『どうしてですか』と尋ねると,仕事の空きがあって,急いで人を探している,ということでした。わたしはその言葉のとおりに学校を訪ね,すぐに採用されました。すべてのことが,わずかの間に決まりました」。世界中の数多くのエホバの証人が,これと同じような経験をしています。ですから,心からの請願を祈りで神にお伝えすることをためらわないでください。
罪をおかした場合
14,15 (イ)罪をおかしたとしても祈るのをためらうべきでないのはなぜですか。(ロ)個人的に祈るほかにどんなことが罪からの立ち直りを助けますか。
14 人が罪をおかしたとき,祈りはどんな助けになるでしょうか。罪をおかした人は,恥ずかしさのために祈るのをためらう場合があります。しかし,それは賢明なことではありません。例えで考えてください。飛行機のパイロットは,自分のいる位置が分からなくなったとき,航空管制官と交信すれば助けが得られることを知っています。進路を見失ったパイロットが,そのことを恥じて管制官との連絡をためらうとすれば,どうなるでしょうか。それは惨事につながりかねません。同じように,罪をおかした後,きまり悪く感じて神に祈らない人は,さらに大きな害を被ることになります。罪に対する恥ずかしさがあったとしても,そのゆえにエホバと話すことを怠ってはなりません。現に神は,重大な過ちを犯した人にも,ご自分に祈るようにと招いておられるのです。預言者イザヤは,その時代に罪をおかした人たちに対してエホバに呼びかけるように促し,「神は豊かに許してくださるからである」と述べました。(イザヤ 55:6,7)もちろんそのためには,まず自分の心を柔らかくして罪の歩みを改めると共に,誠実に悔い改めて,「エホバの顔を和め」なければならないでしょう。―詩編 119:58。ダニエル 9:13。
15 罪が関係している場合,別の意味からも祈りは大切です。弟子ヤコブは霊的な助けの必要な人について,こう述べています。「その人は会衆の年長者たちを自分のところに呼びなさい。……自分のために祈ってもらいなさい。……エホバはその人を起き上がらせてくださるでしょう」。(ヤコブ 5:14,15)そうです,人は個人として自分の罪を祈りでエホバに告白すべきですが,それと共に年長者に頼んで自分のために祈ってもらうことができます。それはその人の霊的な立ち直りを助けるものとなるでしょう。
祈りの答え
16,17 (イ)エホバはどのような仕方で祈りに答えてくださいますか。(ロ)どんな経験は祈りと宣べ伝える業が密接につながっていることを示していますか。
16 祈りに対する答えはどのように与えられるでしょうか。すぐに,明確な形で答えの与えられる場合があります。(列王第二 20:1-6)少し時間が経過して,答えを見極めにくいような場合もあります。イエスは,裁き人のところにしきりにやってきたやもめの例えを話されましたが,その例えのように繰り返し神に祈るべきときもあります。(ルカ 18:1-8)しかし確信すべき点として,わたしたちが神のご意志にそって祈る限り,「わたしを煩わすのはよしてくれ」などとエホバが言われることは決してありません。―ルカ 11:5-9。
17 エホバの民は祈りが聞かれた経験を数多く見てきました。これは,わたしたちの公の宣教奉仕の面でしばしば明らかになっています。例えばフィリピンで,二人のクリスチャンの姉妹は国内のへんぴな地域で聖書文書を配布していました。ある女性にパンフレットを渡した時,急にその人の目に涙があふれました。その女性はこう言いました。「昨晩わたしは,だれかをわたしのところに遣わして聖書を教えてください,と神に祈ったのです。これがわたしの祈りに対する答えだと思います」。その後まもなく,その人は王国会館の集会に出るようになりました。東南アジアの別の地域でのこと,あるクリスチャンの兄弟は警備の厳重な高級マンションで伝道することに気後れを感じていました。それでもエホバに祈り,勇気を出してその建物に入って,ある戸口をノックすると,若い女性が出てきました。兄弟が自分の訪ねた理由を説明すると,その人は泣きだしました。エホバの証人に会いたいと思い,証人たちを見つけられるように助けを祈っていた,というのです。兄弟は,その人が地元のエホバの証人の会衆と交われるように喜んで助けました。
18 (イ)わたしたちの祈りが聞かれたとき,それに対して何をしますか。(ロ)すべての機会に祈るならどんなことを確信できますか。
18 祈りは本当に素晴らしい備えです。エホバはいつでも耳を傾け,またこたえ応じようとしてくださっています。(イザヤ 30:18,19)しかしわたしたちとしては,エホバが祈りにどのように答えてくださるかについて常に目ざとくなければなりません。それは必ずしもわたしたちが期待するとおりの仕方ではないかもしれません。それでも,エホバ神の導きのあったことが分かった時には,感謝と賛美をささげることを決して忘れてはなりません。(テサロニケ第一 5:18)さらに,使徒パウロの次の訓戒をいつも覚えていてください。「事ごとに祈りと祈願をし,感謝をささげつつあなた方の請願を神に知っていただくようにしなさい」。そうです,神に語りかけるすべての機会をとらえてください。そのようにするとき,あなたも,祈りを聞かれた人々に関してパウロの述べた次の言葉の真実さを,つまり,「一切の考えに勝る神の平和が,あなた方の心と知力を……守ってくださる」ということの真実さを,これからも実感されることでしょう。―フィリピ 4:6,7。
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